2017年05月04日

ヘーゲル『哲学史』を読む(6/13)

(6)独断論と懐疑論――具体的な理念の登場と学問の特殊な体系への分岐

 本稿は、2015〜2016年の2年間、ヘーゲル『哲学史』の内容に関わってなされた要約、例会への報告、例会で提示された論点をめぐってなされた討論などをしっかりと振り返りつつ、ひとつの流れをもった論稿にまとめなおすことをめざしたものです。 

 前回までの3回にわたっては、ヘーゲルのいわゆるギリシャ哲学の第1期、すなわち、タレスからアリストテレスまでの流れを辿ってみました。その流れをここで簡単に振り返っておくことにしましょう。そのための大前提として大切なのは、そもそも哲学の歴史とは何なのか、ということです。結論的にいえば、哲学の歴史とは、人類がこの世界全体に体系的に筋を通して把握していこうとしてきた営みの歴史にほかなりません。観念論者ヘーゲルにあっては、世界の本質たる精神が(自己が精神であることに気づいた上で、さらに)この世界の全ての事物・事象は自己自身にほかならないという自覚を明瞭に把持するに至るまでの歴史が哲学史である、ということになるわけです。

 さて、ヘーゲルによれば、哲学史の始原は、この世界の本質(原理)とは何か、ということが問題になったところからです。この問いかけを始めたのがタレスを筆頭とするイオニア派であり、そこでは自然的な形(「水」や「空気」など)が原理とされることになりました。そこから、感性的なものと概念的なものとの中間的なもの(過渡的不明瞭なもの)である数を原理としたピュタゴラス派を経て、エレア派によって不動の「一」あるいは「有」といった抽象的思想が原理とされるに至ります。しかしながら、これは純粋な思考の対象でしかなく、思想としては自覚されていません(「一」こそ原理であると思考したパルメニデス自身と「一」との関係が不明瞭で、自分自身が「一」なのだという自覚はありません)。思想としての自覚の過程がスタートするのは、ソフィスト派およびソクラテスからです。とくにソクラテスにおいては、アナクサゴラスによって感性的な世界と区別される原理として打ち立てられたヌース(具体的で豊かな内容をもつ感性的世界から明瞭に区別されただけに、それは抽象的で無内容なものでした)に自己の精神を重ねて、そこから感性的な世界の具体的で豊かな内容を自己のものにしていこうという運動が開始されたのです。この運動は、プラトンからアリストテレスへという流れで大きく発展していきましたが、それは単に所与の現実をそのまま受動的に写し取っていくようなレベルのものでしかなく、受け入れた現実を自分自身(個としての人間自身)と同一のものだとして深く自覚するようなレベルのものではなかったのです。

 ヘーゲルのいわゆるギリシャ哲学の第1期の終わり、アリストテレスにおいては、自己自身を思惟する思惟の理念(神的ヌース、能動的ヌース)こそ最高の真理だと宣言されたものの、アリストテレス自身は、この理念を自身の学問の全体につらぬくことはできず、相互に無関係な特殊な概念を長々と羅列することに終始してしまいました。そこで、特殊なものの全体を貫く普遍的な原理の探究こそがギリシャ哲学の第2期(ローマ時代のギリシャ哲学)の課題として提起されることになったのでした。

 しかし、第2期においても、普遍的なものから特殊的なものが展開されていくという形で体系的に筋が通されるところにまでは到達できず、せいぜい普遍的なものが特殊的なものに適用される、というレベルにとどまってしまった、とヘーゲルはいいます。普遍的なものの特殊的なものへの適用は、真理とは何かという問題を論じる形をとりました。特殊的なものが普遍的なものと結合することがすなわち真理だとされたわけです。そもそも真理とは(唯物論の立場からしても、またヘーゲルの観念論の立場からしても)主観的なものと客観的なものとの一致のことだといえます。ギリシャ世界からローマ世界への移行に伴って、何をもって真理とするのかという問題が浮上してきたことは、ヘーゲル『歴史哲学』の議論を踏まえるならば、共同体から自立した個人としての自覚が高まってきたことで主観と客観との関係が切実な問題として浮上してきた流れに対応する、ということができるでしょう。そもそもギリシャ世界においては、個人と国家(共同体)とが分離しきらず、個人の生き生きとした活動が国家と密接に結びついたものとしてあることができました。ところが、ローマ世界においては、大帝国が建設されていくなかで、国家から分離しきった個人は圧殺され(このあたりの事情を、ヘーゲルは「ローマには抽象的な支配の原理しかなかった」(p.159)と表現しています)、個人は社会のなかに具体的な満足を求めることができなくなったために、自らの内に引きこもることになってしまいました。こうしたローマ世界における精神のあり方に対応する哲学として、主観的なものを独断的に真理の規準とする独断論、および、それへの機械的な反発としての懐疑論が登場してくることになったわけです。

 独断論は、主観的なものを真理の規準として独断的に客観的なものに押し付けようとするものですが、主観的なものには大きく分けて思考と感覚とがあります。思考を真理の規準として掲げたのがストア派であり、感覚を真理の規準として掲げたのがエピクロス派です。これらはそれぞれ、小ソクラテス派のうちのキュニコス派(犬儒学派)およびキュレネー派を継承したものとして位置づけられる、とヘーゲルは述べています。小ソクラテス派については本稿連載の第4回でも触れました。キュニコス派は、ソクラテスのいわゆる善を、自然にかなったものとして規定し、人間の心を惑わす一切の特殊なもの(感性的な快楽)は欲するに値しない、としていたのでした。ストア派は、こうした立場を継承しつつ、自然を理性(ロゴス)として捉え、人間はこの理性に従うべきものとした上で、理性的に思考されたものこそが真理である、と主張したわけです。一方のキュレネー派は、認識の確実性を感覚に求め、快楽こそが善である、としていました。エピクロス派は、こうした立場を継承しつつ、感覚こそが真理の規準であると主張し、快楽こそが善である、と主張したわけです(もっとも、その快楽というのは、恐怖や欲望からの自由を意味することに注意が必要です)。個別的な感覚を重視するエピクロス派は、自然学においては原子論と結びつき、全ての自然現象を原子の偶然的な運動に解消し、目的論的な世界の把握の仕方を否定しました。

 独断論として一括されるストア派およびエピクロス派は、「真理は対象と認識との一致である」という命題を「表象レベルのものこそが真理である」という形で主張したのだということができます。ストア派にしろエピクロス派にしろ、概念的なレベルの把握は対象の感性的な姿とは全く異なっているので、このレベルでは対象(客観)と認識(主観)との一致を主張することができず、感性的なものと概念的なものとの過渡的なレベル(表象レベルのもの、抽象的なもの〔理念〕が規定されてより具体的になったもの)に真理の基準を設定するよりほかなかったのです。

 思考が対象を受け止めて自分のものにしていく、というストア派が描いた大きな流れについては受け入れつつも、表象レベルのもの(思考の一般性が対象の具体性を受け止めたもの)こそが真理である、という主張には与しなかったのが新アカデメイア派です。表象レベルのものは確かに具体的に規定されてはいるけれども、愚者でも賢者でもそれぞれなりに表象レベルのイメージは抱きうるのであって、それらが必ずしも真であるとは限らないのではないか、表象レベルのイメージというのは、どこまでいっても、世界がそのように見える、というものでしかないのではないか、というわけです。表象レベルのイメージというのは、十分な根拠(本当らしさ)と見なすことはできても、真に究極的なものではない、しがたって、賢者はあくまでも普遍的なものに執着すべきであって、具体的に規定されたものについては、必ずしも真とは言い切れないものとして同意を差し控えなければならない――これが新アカデメイア派の主張です。こうした独断論批判をより徹底し、一切の客観的真理を否定して全ては仮象に過ぎないと主張したのが懐疑論(スケプシス派)です。スケプシス派は、全てが変化していく以上、事物は存在するにしても自ずから非存在に転じてしまうのであり、存在は決して真ではない、と主張しました。真理とは絶対に永遠不変なもの、という前提に対して、あらゆる事物は変化するという点に着目してそれを強調するならば、一切の客観的真理は否定されることにならざるをえません。スケプシス派は、変化ということを素直に認めることによって心の平静を保つべきだ、と主張したのでした。

 以上、今回は、ヘーゲルのいわゆるギリシャ哲学の第2期について概観しました。第1期で提示された抽象的な理念(プラトンのイデアやアリストテレスの能動的ヌース)が具体的事物を捉えていくことが第2期の課題でした。概念的でありながら感性的なあり方も保持している表象レベルのイメージこそが真理であると決めつけて、その課題が果たされたことにしてしまおうとしたのが、独断論です。その際、思考の側に主導権を認めたのがストア派であり、感覚の側に主導権を認めたのがエピクロス派だといえます。こうした独断論による簡単な解決のウソ臭さを鋭く突いたものの、逆の極端にまで走って一切の客観的真理を否定し去ったのが、懐疑論でした。抽象的な理念が具体的な事物を捉えるにはどうしたらよいか、という共通の課題に挑みながらも、思考を重視するか、感覚を重視するか、何れも正しくないとするか、それぞれに一面的な主張が分立していくことになるのが、第2期の特徴であったといえます。
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 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言