2017年05月03日

ヘーゲル『哲学史』を読む(5/13)

(5)プラトンとアリストテレス――超感覚的世界への意識の高まりから宇宙の全部分の概念的な把握へ

 前回は、ヘーゲル『哲学史』の記述に沿って、アナクサゴラスが創出したヌース(思想)の原理を実際に社会生活(ポリスでの生活)の諸々の事例に対して行使していくことで、それまで絶対的な権威とされていた旧来の宗教や習俗を揺るがせていったソフィスト派を経て、こうしたソフィスト派の肯定的側面を受け継ぎつつ、ただ外的な権威を攻撃して否定するだけでなく、そこからさらに自己の内面にまで立ち返って来ることにより、真・善・美という形で肯定的な内容を積極的に打ち立てようとしはじめたソクラテスが登場し、ソクラテスの影響の下に思想と実在との間の矛盾に何とか折り合いをつけようと試行錯誤するなかで諸派(いわゆる小ソクラテス派)が分立していく過程を辿ってみました。

 ヘーゲルは、いわゆる小ソクラテス派が、ソクラテスの原理――普遍的内容(世界の原理)は善でありそれは自己(精神)のなかにこそあるのだ――を部分的に(特殊な諸側面のひとつに着目して)しか受け継ぐことができなかったのに対して、その核心を的確につかんで全面的に継承・発展させたのはプラトンであった、と指摘しています。ヘーゲルは、プラトンにあっては、実在性は直接に思想であり、ひとつの学問的全体の理念として、学問の運動における概念とその実在性としてある、といいます。これは、一切の実在するものに対立して思想なるものが立てられた段階(アナクサゴラスのヌース)から、ようやくにして(ソフィスト派、ソクラテス、ソクラテス派による試行錯誤を経て)、思想のなかに一切の実在するものが取り込まれていった(逆からいえば、思想が一切の実在するものの方へ浸透していった)ことにより、思想ということから世界全体にそれなりに筋を通して把握することが可能になり始めてきたことを意味しているといってよいでしょう。このことに関連して、ヘーゲルが、プラトンにおいて思想が大きく3つに分化し始めたと指摘していることも大いに注目されます。すなわち、ヘーゲルは、哲学(絶対精神が自己の何たるかを明確に自覚するための形態)が、論理哲学、自然哲学、精神哲学という3部門構成を整え始めたのがこの段階だというのです。

 よく知られているように、プラトンにおいては、現実の世界(感性的、物質的な世界)の諸々の事物の範型としての理念(イデア)が存在する世界というものが設定されます。ヘーゲルは、プラトンのいわゆるイデアについて、絶対的客観的に存在する本質であり、唯一の真実在として理解されるような普遍のことだ、と説きます。ヘーゲルによれば、プラトン哲学の使命は、人間の内にある感性的世界の表象を超感性的世界の意識から区別すること(事物の感性的な姿を否定して、その背後にある真実在たるイデアを把握すること)にあったのです。しかしながら、ヘーゲルは、プラトンがイデアの把握は学びによるものではなくて想起によるものだと主張したことについて、個的意識(絶対精神ではなく個人の精神!)がその内容をもともと所有していたというレベルにとどまるものである、と批判してもいます。ここから、プラトンにおいては、学知の出現が個的なもの、表象レベルのものと混同されてしまい、人間の心(絶対精神ではなく、個としての精神)は不死であるなどという神話が輝かしく練り上げられることになってしまった、というのです。ヘーゲルにおいては、学知(世界全体の体系的な把握)というのは、あくまでも個的な精神(有限な、死すべき者)を超えた普遍的精神(絶対精神)によって成し遂げられる事業なのです。

 一方で、ヘーゲルは、プラトンの対話篇『ソフィステス』や『パルメニデス』などにおいて、イデア(絶対的なもの)が自己を規定していく(諸々の対立する規定を含みこんで自己を具体的なものとしていく)必然的な運動が把握され始めていることに注目し、このことをプラトン弁証法の真髄として高く評価しています。ヘーゲルによれば、こうした自己規定(の運動)の結果(到達点)は、存在と非存在、あるいは一と多といった対立物の統一にほかなりません。例えば、Aという事物は、「Aである」という規定と同時に「A以外のものではない」という規定をも含んでいる、というような把握をプラトンは行ったのだ、ということです。それまでの常識的なものの見方考え方では、あるものが対立する諸規定を含んでいると指摘するにしても、そのもののある部分はAであるが他の部分はBである、というようなレベルにとどまり、AがBを背負っている(A自身が同時にBでもある)、という高度な把握はできませんでした。エレア派の弁証法にしても、存在するのはただ存在のみで非存在は全く存在しないとするだけで、存在は常に非存在を背負っているのだ、というプラトンレベルの把握からすると幼いものであったといわなければなりません。ここで決定的に大事なのは、エレア派の否定的な弁証法(非存在は存在しない!)に比して、プラトン弁証法が肯定的なものとなっているのは、それが「相互に滅ぼし合った対立物の統一」(ヘーゲル『哲学史(中巻の一)』岩波書店、p.243)を示すものにほかならないからだ、ということです。どういうことかといえば、あるものについて「Aである」という主張と「Aではない」という主張(およびその他諸々の主張)を闘わせていくなかで、単純に「Aである」とか単純に「Aではない」とかいう主張が相互に滅ぼし合って「Aであると同時にAではない」という直接的な統一(対立する主張の両方が肯定される)のレベルに到達するのだ、ということです。ヘーゲルは、こうしたプラトン弁証法の過程性を、イデア(絶対的なもの)が自己を規定していく(諸々の対立する規定を含みこんで自己を具体的なものとしていく)必然的な運動を把握したものにほかならない、とみなしたのでしょう。

 一方でヘーゲルは、プラトンにはこのことの明確な自覚が欠けており、本来ならば、こうした自己規定の運動の結果(到達点)として提示されるべき普遍的なもの(正、美、善、真)が、直接に受け入れられた前提として提示されてしまっている、という批判もしています。プラトンにおいては、普遍的なものが何故に普遍的なものであるのかはいささかも解明されないまま、ただ「そういうものとしてあるのだ!」とされるだけ、ということになってしまうのです。

 これに対して、可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)あるいは完成態(エンテレケイア)という捉え方を導入することによって、理念の自己規定の運動に筋を通して説こうとしたのがアリストテレスであるといえます。アリストテレスは、質料は単なる可能性にすぎず、それが真に存在する(具体的な形をとって存在する)ためには形相が必要である、と主張したとされます。抽象的な普遍性一般としての質料にとって、形相は自己(単なる可能態としての自己)を自己(現実態となった自己)へと媒介する否定的な契機(単なる可能性としての質料のあり方を否定する契機)です。自己のうちに目的をもち、その目的を実現すべく自己に還帰する活動的な主体というものが、アリストテレスにおいて登場したのだと、ヘーゲルは捉えようとするわけです。プラトンの場合、肯定的原理である理念(イデア)はたんに抽象的に自己自身と等しいものでしたが、アリストテレスの場合、それは否定性の契機(他在、すなわち対立を揚棄するものであり、対立を自己の内に連れもどすもの)となっています。この否定性は単なる変化としてでも無としてでもなく、活動的な主体たる自己が、自己を区別し規定する(抽象的な自己を具体的なものとしていく)働きとして、現われてくるのです。

 アリストテレスは、単なる質料を最も低いレベルに置き、質料と形相との統一によって存在する諸々の「実体」を中間に置いて、最も高いレベルに質料をもたない絶対的な「実体」、すなわち、自らは不動で永遠でありながら他のいっさいのものを動かす「実体」を置く、というように諸々の「実体」について、それなりに筋を通して配置することをも試みています(ヘーゲルは、最高の「絶対的実体」について、他を動かしながら自らは不動な中心としてあるという考え方が、アリストテレスに自己のうちに還帰する理性の円環という考え方を生みださせることになったのだ、と述べています)。ただし、こうした諸々の「実体」なるものの配置は、どちらかといえばとりあえず並べてみたというレベルのものであり、体系的に筋を通しきるレベルには程遠い、と捉えられているようです。

 ヘーゲルによれば、アリストテレスは、自己自身を思惟する思惟の理念(神的ヌース、能動的ヌース)こそ最高の真理だと宣言したものの、アリストテレス自身はこの理念を自身の学問の全体に貫くことはできず、相互に無関係な特殊な概念を長々と羅列することに終始してしまいました。アリストテレスは実在する宇宙の全領域と全側面に深く突きすすみ、それらの豊かさと多様さとを概念的に把捉したものの、諸部分は経験的にとり上げられ同列に置き並べられているだけで、彼の哲学は、概念によって体系化されていく全体とはならなかったのです。アリストテレスにおいては、論理の諸形式によって多様な現象が概念にまで高められたものの、それらの概念はバラバラのままで、それらを絶対的に統一する概念が明らかにされなかった、とヘーゲルは批判します。体系化のために必要とされるのは、特殊なものをつらぬくひとつの原理であって、その原理のもとに、認識されたものの全域が概念の統一された組織として現われてくることです。これが、次の時代の哲学の課題となります。


posted by kyoto.dialectic at 07:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 世界歴史・日本歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

>あるものについて「Aである」という主張と「Aではない」という主張(およびその他諸々の主張)を闘わせていくなかで、単純に「Aである」とか単純に「Aではない」とかいう主張が相互に滅ぼし合って「Aであると同時にAではない」という直接的な統一(対立する主張の両方が肯定される)のレベルに到達するのだ、ということです。

私は、私であり、私ではない。
私は、私であっても、必ずしも思い描いてる私ではない。
私は、私にとって私でも、他人にとっては私ではない。

「私」は、一般的な私であり、個体的な私でもある。
一般的な私は、個体的な私ではない。
だから、私は、私であり、私ではない。


Posted by 自由びと at 2017年05月03日 08:52

> これに対して、可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)あるいは完成態(エンテレケイア)という捉え方を導入することによって、理念の自己規定の運動に筋を通して説こうとしたのがアリストテレスであるといえます。

アリストテレスー可能態⇒現実態⇒完成態
ヘーゲルーーー人間(絶対)精神⇒絶対概念⇒絶対理念
Posted by 自由びと at 2017年05月03日 08:59
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 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言
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