2017年04月16日

斉藤喜博から何を学ぶべきか(4/5)

(4)斎藤喜博は戦前戦後をとおして主体的なあり方を求めた

 前回は、斎藤喜博が教授学をつくるためには授業の事実をたくさんつくる必要があると主張していることを踏まえて、その授業の事実をどのような形で記録しているかを見てきました。そこでは教師の言動や子どもの言動のみならず教師の認識を含めており、教育における事実とは何かを踏まえれば、これは評価できるものだということでした。ただし、そこまで明確なとらえ方ができておらず、曖昧になっているということも指摘しました。

 今回はこのような島小の実践が生まれる背景として、斎藤はどのような過程を歩んできたのかを見ていきたいと思います。

 斎藤は師範学校を卒業したあと、いくつかの小中学校を経て、組合の役員として働き、その後、島小の校長として働くようになりますが、最初に赴任した玉村小学校にて、宮川静一郎校長から大きな影響を受けています。赴任したときの学校の印象を次のように書いています。

「この学校で私が、いいなあと思ったことは、一人ひとりの先生たちがみな、自信を持ち喜びをもって、のびのびと自分の実践をつくり出していることだった。そのころはどこの学校でも職員室には月給じゅんに名札がさがっていた。下駄箱なども月給じゅんになっていた。しかしこの学校にはそういうものが少しもなく、どの先生もみな人間としても教師として平等だった。資格とか形式とかでなく、一人ひとりの人間を尊重し、その人間の実践を尊重していたのだった。だから教員免許状がないために代用教員という名称になっていた人たちも何人かいたが、そういう人たちもみなどうどうとした実践者だった。資格とか月給とかが、おたがいの意識のなかに少しもないのだった。どこまでも実践を中心にして生きていたのだった。だから一人ひとりが大きくみえ、どうどうとした風格を持っていたのだった。
 逆にいえばこの人たちは、形式的な資格をとることよりも、自分の力を毎日毎日の実践に打ち込むことを喜びとし生き甲斐としていたわけである。(中略)そういうふんいきをつくっていたのはみな宮川校長であった。」(斎藤喜博「可能性に生きる」『斎藤喜博全集12』p.105)


 つまり、どの先生も対等の立場で自信をもって自分の実践に専念していたということです。そして、そのような雰囲気を作っているのが宮川校長だったということです。この宮川校長は形式的なことは排除し、外部からの視察や苦情などはすべて処理をして、先生は自分の実践に打ち込めるようにしていたということです。これが斎藤の原点となります。

 ところが、この宮川校長が去ったあと、やってきた猪熊校長はこれと正反対で、事なかれ主義で、形式的なことにのみこだわり、外部に向かって気をつかっていたということです。そこで猪熊校長と職員たちはことあるごとに対立するようになります。

 ある年、全校教育反省会という名目で公開で研究会を開くことになったときのことです。職員たちは宮川校長がいなくても玉村の教育を守り、発展させていくという決意で準備に臨んでいました。そして、授業案を作成し、そこに「時代革新の熱意を日々の教育の上に認めている」と書いたのです。すると、校長は、この「時代革新」を共産主義だと捉え、こんなものを他校からの参観者がいる中で配布したことに激怒し、職員と議論になったのでした。

「ここでもまた職員と校長との間で長い議論がはじまった。『教育によって子どもを変え時代を変えていくのが教師のつとめだ』というのが職員側の主張だったが、校長は、『そういう考え方はふとどきだ。教師は法律によってきめられたことだけをやっていればよい。それ以外のことはしてはいけない』と強く主張した。
 校長がそういう主張をしたとき、東山清澄は、すっくと立ち上がって、『法律は人がつくるものだ。悪い法律なら人間の力で変えていかなければならないのだ。自分たちが実践してみてどうしても子どもたちのためにならないと考えたらそれをやらなければならない。法律のとおりにやっているだけがよいことではない』と、強い口調でいった。校長はこの言葉をきくと、身体をふるわせて怒り出し、『そういう教師は教師としての資格がないのだ』といった。そして三月末の委員人事異動で東山清澄を遠くの学校へ転任させてしまった。」(同上書、p.133)


 「教師は法律に定められたことだけをしていればよい」という校長の主張に対して、「その法律をつくるのは人間であり、もし悪い法律なら変えていかなければならないから、法律のとおりにやっているだけがよいことではない」と主張した教師は、左遷させられてしまったということです。

 しかし、国が「国体の本義」というパンフレットを作るようになり、盧溝橋事件も勃発するような緊迫した状況になると、徐々に国家に従うべきだという考え方が職員の中でも強くなっていきます。

 職員の研修発表会で、斎藤が「自己完成の教育」という発表をし、「子どもたちが喜び勇んで自分を成長させ自分たちを一日一日と完成させていこうとして懸命に努力するように導くこと」を主張すると、当時の校長であった大浦校長や職員から批判をされたのでした。

「大浦校長は、『自己完成というのは自分だけを大切にする考え方になるが、斎藤先生は国家と個人とはどちらが先になると考えていますか』という質問を出してきた。私はすぐに『個人があって国家はあるのだと考える。国家があって個人があるのではない。国家は個人のためにあるのであり、また、すぐれた個人があってはじめて国家もよくなるのだ。教育においても個人が先に立つのであり、全体が先にたつのではない。また、すぐれた個人ができて全体もよくなるのだし、その結果として全体からのよい影響を受けて個人もさらによくなるのだ』ということをいった。
 すると大浦校長は『斎藤先生は、国家より個人が先にたつという発言をとり消しませんか。もしとり消さないのなら、そういう教師は教壇から追放すべきだ』といった。だが私は、『とり消しません』といった。すると今までだまってきいていた一人の若い男の教師が、『それなら国賊だ』と、ぽつりといってだまった。この若い男の教師も真面目な教師であり誠実な人だった。それまで一緒に仕事もしていた。だがこの教師も、心からそう思って、反射的に『国賊だ』という言葉が出たのだった。」(同上書、pp.167-168)


 このように、戦争のために個人が犠牲になって当然だという考え方が出てくる中で、斎藤はあくまでも個人の尊重ということを貫いたのでした。しかし、そのことにより、周囲からは国賊という扱いを受けることにもなったのです。

 やがて戦争が終わり、教員組合をつくる動きが出始めると、戦前は国家が個人より先に立つと主張していた校長たちが常任理事になったのでした。それに関して、斎藤は「そういう傾向をおもしろくないと思っていた。今まで戦争に便乗していた校長たちが、すぐに組合の役員になりたがるのもおかしいし、またそういう校長たちばかりを無批判に役員に選んでしまうのもおかしいと思った」(同上書、p.220)と書いています。

 しかし、やがて共産党や労働組合に対する目が厳しくなり、事件のたびに疑いをかけられ検挙されるようになると、こうした校長たちはつぎつぎと組合を脱退していくようになりました。組合は個人で入るものであるにも関わらず、一人では心細く、連名で脱退届を出したりもしたのです。

 その後、斎藤は組合の文化部長となり、県教組で専従として働くようになります。そこでも様々な問題を目の当たりにしましたが、「それはどこまでも個人の人間の問題なのであり、組織の運動方法のあやまりなのであって、決して組織そのものの悪さではない」(同上書、p.332)として、教員組合の成果を次のように述べています。

「基本には民主主義の時代に民主主義を実現し、民主主義教育を創り出そうとして組合に結集していった。(中略)
 いちばん大きな成果は、何といっても教師が解放されたことだった。戦前までは教師には何一つ自由はなかった。ただ兵隊と同じように、そのときどきの政府の命令によって、機械のように動かされ委縮していたのが教師だったが、組合ができてからの教師は、自由にのびのびとなっていき、行動も発言も自分の意志でするようになっていった。戦前の教師のような暗さも重さもなくなり、人間としての教師になっていった。はじめて人間教師が生まれてきたのだし、組合という組織を通じて、個人としての意思や教師としての意思を公にするようにもなっていった。
 そういうことから必然的に、教育の実践も、一人の教師としての責任において、自分の意志で自分の実践をするようになっていった。また、自分たちの実践や教育での主張を、組合という組織をとおして公に訴えようともするようになっていった。」(同上書、pp.330-331)


 つまり、組合に集まった教師は民主主義教育を創り出そうとしたのであり、組合によって教師が解放され、自分の意志で実践したり発言したりできるようになったのだということです。

 このように見てくると、斎藤喜博が何を目指してどのように生きてきたのかがわかります。端的に言えば、主体性の確立ということになるでしょう。一人一人が個人として尊重され、一人一人が自分の意志で自由に行動し、発言できることこそ理想的なあり方だと考えたのです。軍国主義の色合いが強くなり、様々な困難に直面する中においても、自らはそのような主体的な生き方を貫き、戦後は教師が主体的に活動できるように組合の活動にも尽力したのです。

 そして、このような主体的なあり方こそ、斎藤喜博が抱いていた教育理念だったとも言えるでしょう。そして(2)や(3)の授業記録で見たように、たとえ間違っていようとも自分の意見を全体の場に出すこと(そして他者との対話をとおして修正していくこと)、全体の意見に流されずに自分が正しいと判断した意見を出すこと、そのようなことが島小の授業では実現されていたのです。
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 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う