2017年04月15日

斉藤喜博から何を学ぶべきか(3/5)

(3)斎藤喜博は教育の過程における教師の認識も拾い上げた

 前回は、斎藤喜博が校長を務めた島小でどのような授業が行われたのかを見てきました。斎藤はこのような実践を積み重ねるのみならず、そのような積み重ねの中から「授業の理論であり、授業の方法の原則である教授学をつくり出すこと」(斎藤喜博「教育学のすすめ」『斎藤喜博全集6』p.496)が必要であると考えたのでした。先の「定石」というものも、そういう問題意識の中から出てきたものです。後年、教授学研究の会を結成するに至っています。

 このような教授学を創るためには、経験的な事実を無数につくり出さなくてはならないと主張しています。

「そういう仕事(注:教授学をつくる仕事)をするためには、どこまでも事実を大事にし、たった一つの事実をつかまえるために、一年も二年もかかるという、底なしの海に石を投げこんでいくような徒労とも思われる努力をしつづけていかなければならないのである。いま早急に形式的に体系をつくったり、固定的な型をつくったり、簡単に科学化しようとしたりしてはならないのである。」(同上書、p.497)


 そもそも科学とは事実から論理を導き出して体系化したものですから、教授学を創るためには事実を大事にしなければならないという斎藤の主張は正当なものだと言えるでしょう。

 ここで言われている事実とは、とりわけ授業によって子どもが変容した事実ということになります。この事実をとらえるためには、実際に授業を見るか、その授業者が書いた授業記録を読むかのどちらかになります。この授業記録の書き方という点で島小の授業記録には特徴的なものがありますので、今回はこの点について見ていきたいと思います。

 宮城教育大学において斎藤とともに研究した横須賀薫氏は、島小の授業記録の特徴について、次のように解説しています。

「これらに載っている授業記録はすべて担当した教師自身の手によって書かれている。自身の行為(発問、朗読、指示など)と内面に生起したことがらと教室の子どもに生起したことがらを叙述するスタイルをとっている。(中略)それは主観的とか文学的とか言われるもので、教育研究の中で遅れたスタイルと考えられている。しかし、時代的限界をもっていたにせよ、こうした記録の方法は、授業とは子どもの発言と行為を通しての子ども同士の交流であること、そして、それを実現するものは教師の具体的働きかけの適否と実践的決断力とであることを主張するものである。」(横須賀薫『斎藤喜博 人と仕事』p.58)


 つまり、島小の授業記録は@教師自身の行為と、A(教師の)内面に生起したことがらと、B子どもに生起したことがらの3つを叙述しているということです。これは遅れたスタイルだとされていますが、これはその後、テープレコーダーなどの登場により、教師の言動と子どもの言動を録音してそれを再現するのが科学的に正しい記録の仕方だと考えられるようになったことを踏まえてのものです。

 少し具体的に見てみましょう。船戸先生の5年生国語「がん(現在は『大造じいさんとがん』)」の授業記録です。狩人である大造じいさんと、残雪と名付けられたがんの物語です。この授業では、最後、捕まえた残雪を大造じいさんが放す場面を扱っています。

(教材文)
「ある晴れた春の朝でした。
 じいさんは、おりのふたをいっぱいにあけてやりました。残雪は、あの長い首をかたむけて、とつぜんにひろがった世界におどろいていたようでありました。
 バシッ
 こころよいはねの音一つ。一直線に空に飛び上がりました。美しくさいたすものの花が、そのはねにふれて、雪のように清らかに、はらはらと散りました。
 大造じいさんは、花の下に立って、残雪が北へ北へと飛び去って行くのを、ほれぼれとした顔つきで見まもっていました。いつまでも、いつまでも見まもっていました。」


(授業記録)
「『美しくさいたすももの花が、そのはねにふれて、雪のように清らかに、はらはらと散りました』
 この文章をとり出して、この一見美しそうな文章が、実は内容のない、つけたしの部分であることを、発見させたいとも思ったからである。
 私が『美しくさいた・・・』と読み出すと、安夫が、小さい声で、『感じが出ていていいね』とつぶやいた。するとそれにつられて、いく人かの男の子が、
『うん春げでいいな』
『たのしげだ』
『かなしげな感じもするよ』
『けしきがよさげだ』
とつぎつぎに、つぶやきが起こった。そして、いかにも気持ちよさそうに、
『清らかに、はらはらと散りました』
と私の読み終わったあとに重ねて、読みつづける子もいた。
 そんな大ぜいのなかで、
『うそのようだ。わざとつくったようだ。おかしい。文がよすぎる』
という鋭いつぶやきがあがった。俊文である。なにかそれは、みんなのつぶやきが不思議でたまらない、というふうでもあった。
 私は、この考え、この感じとりを、大事にしたいと思った。俊文は、物語をはじめて読んだときは、
『ここのところがいちばんいい、気にいった』
といって喜んでいたことなど、すっかり忘れているようである。いやそれは、忘れたのではなくて、この授業のつみかさねのなかで、そういうふうに考えが変わってきたのかもしれない。しかし、そういっているのは俊文一人なのである。あとのたくさんの子どもたちは、『感じが出ていていい』という意見なのである。この大ぜいの考えを、うまく、ひっくり返していかなければならないのだ。
 俊文の反対に対して、安夫が、
『これは、文章をよくするために、こう書いたんだ』
といった。さっきは、ばくぜんと、『感じが出ていていい』といっていたのに、こんどは、理由をつけてきたわけである。私は、安夫に、思わず、
『文章がよくなっている?』
と、きいた。いってしまってから、今ここでこんなことをいっても、安夫にも、他の子どもたちみんなにもわかるはずがないと思った。またあとで、このことばをもう一度、いってみようと思いなおした。
 私は、前から、ここにきたら『ここでは、今なにが、目にうつっているのか』という質問をして、その場面をはっきり、子どもたちのなかに浮かび出させようと思っていたのだ。
 しかし、そんな質問はしなくてもいいことになってしまった。それは、私にかわって、健ちゃんの疑問が出されたからだ。
『先生、このすももの花は、空のほうに咲いていたんかい』
いかにも、腑におちないという顔つきで、健ちゃんは、ぽそりという。
『うん、そういえばそうだ』
という表情が教室のあちこちで浮かべられる。そのなかから、安夫、明夫が、
『このすももの木は、ううんと、でっかく空にとどくほどなのかね』
『花びらが、残雪の羽にくっついて、空まで上がっていって、それで散ってきたのかね』
と首をかしげながらいった。この子どもたちは、一直線に空に飛び上がった残雪の姿が頭にやきついたことで、その空のずっと下にあるすももの花の描写が、へんだということに気がついたのだ。」(斎藤喜博「島小の授業」『斎藤喜博全集 別巻1』pp.451-454)


 授業としてみた場合には、多くの子どもが問題となっている文を良いと評価している中で、俊文一人が反対意見を提出しています。周囲に流されることなく、自分が正しいと判断した見解を主張できることは非常に主体的なあり方であり、そのような子どもが育っているという点は評価すべきでしょう。

 さて、この記録の中には船戸先生の言動や子どもの言動に加えて、船戸先生の考えも書かれています。全体として物語のような印象があり、こうした点をとらえて、「主観的」「文学的」と批判されたということです。

 しかし、ここで考えてみなければならないことは、教育における事実とは一体何なのかという問題です。そもそも教育とは、教師と子どものコミュニケーションだと言えます。その過程を見てみると、教師に何らかの伝えたい認識があり、それを表現します。子どもはそれを受け取って、何らかの認識を描き、その認識を何らかの形で表現します。その子どもの表現を再び教師が受け取って・・・という流れが存在しています。図式化すると、以下のようになります。

@教師の認識→A教師の表現→B子どもの体験→C子どもの認識
C’子どもの認識→B’子どもの表現→A’教師の体験→@’教師の認識


このように、@からC、C’から@’という過程が繰り返されるのが教育です。

 この過程において、「実際にあること、あったこと」こそ教育の事実にほかなりません。それは決して、第三者から客観的に観察されうるAやBに限らないのです。この授業記録では、俊文が「うそのようだ。わざとつくったようだ。おかしい。文がよすぎる」と発言したことを受けて、船戸先生は「この考え、この感じとりを、大事にしたい」と思っていますが、これは実際にそう思ったことなのだから、事実に違いないのです。

 薄井先生は、看護研究においてプロセスレコードで看護の過程を記録することを重視しておられますが、そのプロセスレコードは「患者の言動」「看護師の認識」「看護師の言動」という3つを書くようになっています。この島小の授業記録も、このプロセスレコードと似た構成になっていると言えるでしょう。

 ただし、島小の授業記録では、そうした観点が明確にはとらえられておらず、記述に曖昧さが感じられます。例えば、安夫に対して『文章がよくなっている?』と聞いた後で、「前から、ここにきたら『ここでは、今なにが、目にうつっているのか』という質問をして、その場面をはっきり、子どもたちのなかに浮かび出させようと思っていたのだ」と書いていますが、これは授業を行っているときの船戸先生の認識ではなく、授業を終えて、授業記録を書いているときの船戸先生の認識です。教育の過程で出てきた事実ではありません。また、「この子どもたちは、一直線に空に飛び上がった残雪の姿が頭にやきついたことで、その空のずっと下にあるすももの花の描写が、へんだということに気がついたのだ。」と書かれていますが、これはあくまでも船戸先生の認識です。それにも関わらず、子どもの認識であるかのように書かれています。

 このような曖昧さがあるとは言え、そもそも科学とは事実から導き出した論理を体系化したものであるという一般論を踏まえるならば、授業の事実を重視したこと、そして、その事実の中に教師の認識を含めたことは、教育学の構築という観点からすれば評価できるものだと言えるでしょう。
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 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて