(10)参加者の感想の紹介
これまで、カント『純粋理性批判』の2つの序文を熱かった我が研究会の2017年2月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。
2月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回3月例会は、『純粋理性批判』の緒言(pp.57-83)を扱います。
それでは、以下、参加者の感想です。
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今回の例会からいよいよカント『純粋理性批判』の中身に入っていった。今回は、序文を中心に扱った。
カントが形而上学をどのように捉え、この著作をその歴史にどのように位置づけようとしていたのか、数学や物理学における考え方の革新とは如何なるもので、カントはそれを形而上学にどのように適用したのか、カントが物自体と現象とを分けて考えたのはなぜか、といった問題について、まずは本論に入る前の段階として理解しておくべき事柄については押さえることができたのではないかと思う。
しかし同時に感じたことは、他会員と比べればはるかに理解の度合いが劣っているということであった。カントの物自体論と自由との関わりに関する議論が特にそうであった。解説してもらうと、なるほどそういうことかと一応の理解はできるので、苦手意識を克服して、分かったことを1つずつ丁寧に確認していき、分からなかったことを例会を通じて少しでも理解できていくよう努力していく必要がある。
来月は緒言を扱うが、ここでも本論に入る前提としての理解が求められると思う。しっかりと読み込んで、上記の作業ができるように準備しておきたい。
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今回の例会では、カント『純粋理性批判』を読み進めていくうえでの、いくつかの大切な問題意識を共有できた点が非常によかったと思う。
まず、カントは形而上学の歴史を独断論と懐疑論の闘争の歴史として描いているが、どうやらこの闘争の歴史を踏まえて4つの二律背反が措定されたらしいことが分かった。もちろん、単純にテーゼが独断論の立場で、アンチテーゼが懐疑論の立場である、というような区分けではないにしろ、独断論と懐疑論の闘争、および独断論内部での闘争(内乱)の歴史を踏まえて、それを4つのアンチノミーとしてまとめ上げたのだ、という可能性が高いと分かったのである。それは、カントが理性批判を法廷になぞらえていることからも分かる。カントの論の流れからは、この法廷では従来の独断論と懐疑論の主張が戦わされる場であるというように解釈できるが、諸々の参考文献によると、この法廷というのは4つのアンチノミーについて、理性が裁判官としてのより高い立場から判定を下すという解釈が一般的であるようだ。すなわち、形而上学の歴史である独断論と懐疑論の闘争ということと、4つのアンチノミーということが、つながっていると理解できそうなのである。形而上学がぶつかっていた難問というのも、この問題にかかわってくるであろうから、ここはカントの問題意識の大前提として、しっかりと押さえておく必要があると感じた。
次に、カントが形而上学に適用した考え方の革新についてである。数学や自然科学で成功した着想を形而上学にも採用したと説かれているが、ここに関して、結局物自体と現象というのは、どの程度つながっているのか、物自体が現象をどの程度規定しているのか、という問題意識が明確になった。カントも説いていたが、現象というからには、「何か」が現象しているのであり、その「何か」はとりもなおさず物自体であるはずだから、両者にはきちんとつながりがあるのは当然である。しかし、カントはこの二つの区別を強調もしているわけで、弁証法的にいえば、物自体と現象は、つながっているとともにつながっていないということができる。では、どのようにつながっており、どのようにつながっていないのか、その構造をきちんと理解していくことが、今後の大きな課題になるといえるだろう。
最後に、物自体と現象とを区別することによって、無条件者についての矛盾が解消するとされていたわけであるが、そもそも、無条件者ということが形而上学の歴史において、どのような必然性があって扱われてきたのか、さらに、具体的にはどのような哲学者がどのような矛盾する見解を戦わせてきたのか、それをカントは本当に解決したといえるのか、こういった問題についても、しっかりと念頭に置きながら、『純粋理性批判』を読んでいかねばならないと感じた。カントは、自分の業績をコペルニクスになぞらえているが、それならばごくシンプルな説明でたりうるはずなのに、『純粋理性批判』は大著となっている。このあたり、カントの自信とは裏腹に、論理的にはスッキリと把握はされていなかった証左といえるのではないか、という気がする。いずれにせよ、歴史的に取り上げられてきている無条件者という対象の必然性をしっかりと掴んでいく必要があるのは間違いないだろう。
このあたりの問題意識をもって、いくつかの入門的な参考書も参照しながら、『純粋理性批判』に取り組んでいきたいと思う。
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今回の例会では、カントが『純粋理性批判』を書いたときの問題意識とその意義について理解を深めることができた。
形而上学においては、独断論と懐疑論(または独断論同士)が争っていたが、とりわけヒュームが必然性は客観的に存在するものではないと主張したことを受けて、カントとしては、必然性は存在しており人間はそれを認識することができるということ、つまりアプリオリな認識が可能であることを示す必要が出てきたということである。例えば「机をたたけば音がなる」ということについて、いくつかの事例をもとにして、(実際に試してみなくても)どんな机でもそうだということがわかるということを示す必要が出てきたということである。そこで考え出されたのが、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うというコペルニクス的な転換なのだということである。こうして、対象そのもの(物自体)は何の性質ももたないけれども、我々がとらえた現象は認識によって性質を与えられているという物自体論が出てきたのである。
このように現象と物自体を区別することにより、意志が自由であると同時に自由でない(法則性に縛られている)という矛盾を解決することができるようになった。つまり、現象としては自由ではないが、物自体としては自由であるということである。例えば、的に向かってボールを投げたとして、投げるのは自由な意志に基づくものである。ところが、その投げたボールが的に当たる過程は空気抵抗や重力など自然の法則性に縛られることになる、ということである。我々が見ることができるのは、ボールという現象だけである。しかし、その背後に「ボールを投げる」という(自由な)意志を想定することができる。このような形で意志の自由という問題を解決したのだということであった。
もちろん今回の解答は現段階での暫定的なものであり、今後、これをより深めていく必要があるだろうが、大まかには把握することができたのは今回の例会の大きな収穫だった。
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今回の例会を通じては、そもそもなぜカントが『純粋理性批判』を書かなければならなかったのか、そのそもそもの問題意識にしっかりと共感することが大切であると思わされた。ア・プリオリな総合判断はどのようにして可能か、ということがカントの根本的な問題意識であったといってよさそうであるが、ア・プリオリな総合判断とはどういうことなのか、なぜそういうものが切実に求められたのか、ヒュームの因果律批判からカントが受けた衝撃の大きさということをしっかりと踏まえつつ、カントの強烈な問題意識に幾分かでも共感できるようにならなければ、『純粋理性批判』はまともに読んでいくことはできないだろう、と思わされた。
カントが現象と物自体とを区別してしまったこと、また結局は同じことであるが、理性を思弁的理性と理性の実践的使用とに二分してしまったこと(認識できるということと考えることができるとを分けてしまったこと)は、結論からみればおかしなことであり、現象と物自体との関係をカントは解けていない、というこもできるであろう。しかし、同時に、これがそれまでの形而上学の難問を解決するための画期的にすぐれた提起であったのだという側面を、絶対に見失ってはならないだろうとも思う。現象と物自体とを区別し、思弁的理性(絶対的なものを認識できない)と理性の実践的使用(絶対的なものを考えることができる)とを二分したことこそが、この『純粋理性批判』の哲学史上の不滅の意義なのであり、また同時にヘーゲルによって克服されるべき限界ともなったのだといえるだろうが、自分自身の不充分な実力のままヘーゲルらの尻馬に乗ってカントを非難すべきではないだろう、まずは『純粋理性批判』の画期的な意義をしっかりと受け止めることに重点を置くべきではないか、と思われるのである。
『純粋理性批判』のまともな理解のためには、南郷継正『学問としての弁証法の復権』(『武道哲学講義(第二巻)』所収)に加えて「武道哲学講義〔Z〕」(『南郷継正全集第11巻』所収)をも繰り返し読み込んでおく必要があると確認することができたのも、この2月例会を通じた取り組みで得た大きな成果であった。
(了)
2017年03月04日
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・一会員による『学城』第4号の感想
・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
・本来の科学的な教育とは何か
・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
・システムズアプローチを弁証法から説く
・一会員による『学城』第14号の感想
・ルソー『学問芸術論』を読む
・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
・斉藤喜博から何を学ぶべきか
・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
・小中一貫教育を問う
・ヘーゲル『哲学史』を読む
・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
・文法家列伝:宮下眞二編
・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
・マルクス思想の原点を問う
・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
・教育の政治的中立性を問う
・日本経済の歴史を概観する
・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
・一会員による『学城』第15号の感想
・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
・現代日本の政治家の“失言”を問う
・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
・障害児の子育ての1年間を振り返る
・新しい国家資格・公認心理師を問う
・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
・徒然なるままに――40歳を迎えて
・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
・教育実習生に説く人間観の歴史
・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言
>端的には、自然法則が支配するのは現象の領域であり、「物自体」は自然法則に縛られないから自由であるという形で、人間の意志の自由を主張しようとしたのだ、ということです。
>例えば、子どもと関わるとき、自分としては自分で考えて行動している(自由である)ように思うけれども、そのプロセスを客観的に眺めたときには、毎回同じような対応をしている(一定の法則性に縛られてしまっている)ということなのだろうか、という疑問です。
>そんなに難しく考える必要はなく、例えば、ある人が石ころをある的に命中させるべく投げるとして、「あの的に当てるぞ」という意志を抱くか抱かないかはその人の自由だが、いったん手から放れた石ころは、重力とか空気の抵抗とかの諸々の条件によって必然的に規定された軌道を進んでいくことになる、というようなことではないか、という見解が示されました。
>カントが現象と物自体とを区別してしまったこと、また結局は同じことであるが、理性を思弁的理性と理性の実践的使用とに二分してしまったこと(認識できるということと考えることができるとを分けてしまったこと)は、結論からみればおかしなことであり、現象と物自体との関係をカントは解けていない、というこもできるであろう。しかし、同時に、これがそれまでの形而上学の難問を解決するための画期的にすぐれた提起であったのだという側面を、絶対に見失ってはならないだろうとも思う。
上記の事について私も考えてみました。
自由とは、現象的には絶対的な不可能と思える事でも可能だと思えるコト。
例えば、鳥のような羽根がなく絶対に飛べない人類でも、きっと飛べると思える自由。
出発点としての自由と過程としての自由の区別と連関…
「飛べない人類が飛べる」は、出発点としての自由。
でも、鳥と同じ「羽根を付けてパタパタ飛ぶ」方法は自由とは言えない。
人類が飛ぶ為には、「鳥の羽根」から離れて自由になる必要があった。
自由な思い・意志であっても、その過程・手段が習慣化・癖化されているモノでは自由とは言えない。
自分自身の習慣・癖的手段・過程の客観視があって、そこからの離脱があって、初めて真の自由なのでは?
現象が到達点で、物自体が出発点と考えるなら、
現象と物自体を分離した事で、出発点が同じでも、
その過程の違いから異なった結果が得られる可能性が生じる。
その可能性が自由なのでは?