2017年02月16日

認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想(4/5)

(4)秀才は像抜きの文字を解釈する

 前回は,認識と言語の関係について,本書で説かれている内容をしっかりと理解して,検討していった。言語はこれまでの世代が獲得してきた文化遺産を次世代に伝えるためにこそ誕生したのであり,個々バラバラな認識を共通像にしていくためにこそ,言語が必要なのであった。

 さて今回は,本書の「第5編 看護に必要な弁証法入門」で紹介されている2つの手紙を俎上にのせ,受験秀才と鈍才の違いをしっかり理解することに努めたい。そして,それを通して,『“夢”講義』はどのように学んでいかなければならないのかを考えたいと思う。

 まず,受験秀才の書いた手紙について,南郷先生が指摘されていることを確認したい。受験国語力的頭のよさの危うさについて,次のように説かれている。

「通常の人たちは,受験用ではあっても,頭がよいことは「よいことだ」と信じがちです。でもこれは,反面では危ういことでもあるのです。どういうこと? と反問されそうです。簡単にいいますなら,一般的に頭のよい人というのは頭脳活動がイキイキしていますので,ついつい,事実からの反映よりも書物からの反映を大事にし,かつそれを信じて自分の実力にしてしまいます。思春期・青春期の脳細胞の発育・発達にとっての大切な時期を,受験用の勉強によって大きく無駄にしてしまっているのです。

 その結果,現実をみる実力が大きく低下して育っているだけに,現実をみる機会をなるべく避けて頭のなかに出来事を創りだします。そのほうがよほどに楽ですから。それだけに,ますます現実をよくみるのはとても大変なことにもなるものですから,ますます書物やビデオですませがちになります。

 これは困ったことになっていきます。たとえば,書物で学んだことは現実味を欠いていますので,感性がなかなか豊かに育ってはくれません。」(pp.192-193)


 ここでは,受験秀才は,事実からの反映よりも書物からの反映を大事にするので,現実を見る実力が大きく低下して,感性が豊かに育っていかない,と説かれている。連載第3回で紹介した「認識=像の形成がうまくいくための条件」のうちの一つ目である「実物の外界を反映させること」が大きく欠けてしまうがゆえの欠陥ということであろう。そのため,南郷先生は,この受験秀才的な看護学生に対して,「もっともっと事実に関わって,現実と格闘しながら感性を育てていく場を自分で努力しながらもってほしい」(p.193)と助言されている。

 これと同様の内容が,非常に分かりやすく説かれている部分がある。南郷先生は,弁証法の学びは「空手の学び」と同じであり,自分の専門分野の問題と闘って,その問題を解決する(勝つ)だけの鍛錬が必要となるとした後,次のようにまとめられている。

「ですから仮に『弁証法はどういう科学か』を何百回読んでも,あの書物のなかのすべての問題がなんなく解けても,専門分野の問題に立ち向かう実力が弁証法的についていなければ,なんの意味もありません。空手の修練が,受験国語のレベルで空手の本を読破することではないように,弁証法の学びも弁証法の本を読破することではありません。

 空手の学びと同じように自分の専門分野の本だけではなく,知識だけではなく,現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて,弁証法が息をし,動きはじめることになるのです。」(p.206)


 ここでは,弁証法の基本書を受験国語のレベルで読破するだけではなく,現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて,弁証法が息をし,動きはじめることになると説かれている。「弁証法が息をし,動きはじめる」というのは,非常に印象的な表現である。

 そして,看護に関わる弁証法の学びの実例として,次のようなものをあげておられる。

・病室の廊下の歩き方
・病室のドアの開け方
・患者さんへの声のかけ方
・患者搬送のタンカの運び方
・体温計の持ち方・持たせ方
・看護関係者同士の挨拶の仕方

 このような,自分が体験する事実で弁証法を学んでいかなければ,本当に学んだとはいえない,ということであろう。

 では次に,弁証法を学んだ鈍才である心理学科学生の手紙を見ていきたい。手紙の主は南郷先生によって「弁証法への学びのトップレベルへたどりつく可能性をもちはじめてきている」「在学していた大学のほとんどの教授の上位のレベルの心理学の実力を把持するまでに,わずか数年というより,二年有半で行なった」(p.209)と絶賛されている。また,手紙については,「全文,これ弁証法性のカタマリ」と評価されている。

 手紙は卒業にあたって,大学4年間を1時間以内で振り返るというものである。毎日が変化の連続であったことや弁証法が分かるようになるために何もかも全て弁証法的に生活するようになったことが説かれる。そして,大学の授業内容を1時間でレポートとしてまとめていたこと,その中で話にレベルがあって大切なのは一般的な話だと気づいたことが述べられている。また,生まれ変わるべく,食事や服装,読む本や歩き方,友達の付き合い方も変え,それが直接に弁証法を学ぶことであったとして,「友達との認識の「相互浸透」のありかたをよくみて,それによって私自身がどのように「量質転化」していくのかを考え」(p.212)たなどと説かれている。さらに,南郷先生に二重化する際に,段階を設けて,他の先達を中間目標としたことや,志を抱く意義は将来のあるべき自分から今の自分をみてとることであることなどが説かれている。

 一読して,本当に大学での4年間分の像が集約されたレポートになっていると感じた。全てが実物の外界を反映して描かれた像の表現になっている。自分の体験した事実に基づいて全てが説かれているのである。事実と格闘することによって,弁証法が息をし,動きはじめるとはこのようなことかという見事なお手本といえるのではないか。

 ここで,事実と格闘するということについては,もう少し突っ込んで考えておきたい。そもそも,なぜ事実と格闘する必要があるのか。それは端的には,「〜したい!」という志(大使)があるからこそである。大志の重要性は,南郷先生が常々強調されているところであるし,この鈍才の手紙にも説かれている。

 この大志の重要性については,われわれの師も,くり返し説いておられる。2001年に筆者が師の主催されているゼミに初めて参加したときも説かれていた。ここに,その時のレポートを2箇所、引用しておく。

「講義の初めに学んだことは,まさにこの問題に関連していた。その学んだこととは端的にいうと,弁証法を学ぶ目的がはっきりしていないと学び方を云々することはできない,ということである。考えてみれば当たり前のことであって,これは旅行するのに目的地を決めないことには,どのような手段でそこに辿り着くのかを決定できないのと同じ事である。私には目的地=「〜したい」という強烈な目的意識が欠如していたのである。以前から感じていたなんとなく不安な思いというのは,どこに行くのかも決めていないのに歩いていくより電車で行った方がいいだろうなどと考えていることから生じたものであろう。」


「最後に一番大事なことは,すべての実践を「〜したい」という人生の大目的につながるように位置付ける必要がある,ということである。「〜したい」というのが核になって,そのまわりに学んできたものがくっついている状態になって初めて,知識は動きだし,使えるようになるのである。」


 師の講義再現と,筆者の感想が混在しており,恥ずかしい限りのレポートではあるが,要するに,学ぶ目的を明確にし,すべての実践を「〜したい」という人生の大目的(大志)につながるように位置付けてこそ,学んだ知識が動き出し,使えるようになる,ということである。南郷先生の「弁証法が息をし,動きはじめる」との表現と,師の「知識は動きだし,使えるようになる」との表現は,非常に似かよっており,説かれているのも同様の内容だと考えられる。

 以上をまとめるならば,「〜したい」という大志があってこそ,事実と格闘というレベルで関われるようになるのであり,そうしてこそ,弁証法の知識も動き出すのだ,弁証法という認識=像の形成がうまくいくのだ,ということであろう。筆者も,目の前のクライエントの心の問題を少しでも早く,効率的に解消したい,そのために認識学を何としてでも構築したい,という大志を常に把持して,それを育てていかねばならないと痛感した。

 この手紙を紹介した後,南郷先生はこの心理学科の学生に,『弁証法はどういう科学か』の学び方について指導したことが,以下のように説かれている。

「指導したことは,毎日必ず一時間学ぶこと,そして学んだ内容を自分の日常生活の事実でわかること,です。二つは,以上のことを,理解したこと・理解できなかったことに分けて,理解できたことは自分の生活の実例で説き,理解できなかったことは書物のなかの事例でどうわからないのかを説明して三十分から一時間で筆記(ワープロではなく)すること,です。用紙は授業のモノと同じく,レポート用紙一枚としました。

 ……加えて,本人が一番嫌っていた読書を実行させました。歴史モノ・社会派推理モノ・古典文学に関してのモロモロの書を,一週一冊単位で読破させました。」(p.216)


 ここで書かれていることは,そのまま,われわれは学生時代に『綜合看護』でこの部分を読んだときに実行したものであった。加えて筆者は,このあと通うことになった大学院で,手紙にあったように,授業内容を1時間以内でレポートにまとめる作業も行ったものであった。

 それにしても,南郷先生は本書の最後におそろしいことを書いておられる。それは,上記のような学習を継続したことによって,「当然に,心理学のあらゆる分野の理解が最高になり,どんなに遅くとも二十年後には,学問としての「精神科学」の確立が可能になる! との予測さえ述べたいほどの現在」(p.216)であるというのである。手紙の日付が2001年3月19日であるから,20年後というと2021年である。遅くとも2021年に学問としての「精神科学」の確立が可能だというのである。当時は「20年後か」などとのんきに考えていたが,2017年となった現在では,もはやあと4年以内ということである。

 閑話休題,この鈍才の手紙を媒介として先の受験秀才の手紙を眺めてみると,その特徴が明確に浮上する。端的には,受験秀才の手紙には,自分が体験した事実が少ない,ほとんどないということである。自分が創り出した体験像が希薄なのに,分かったかのように説いている。像抜きで,文字(言葉)を解釈しているだけであり,像がないのに文字を書き綴っているという印象を受ける。

 南郷先生は,この学生には弁証法の学びが欠けているから,『“夢”講義』が分からないのだと説いておられる。実物の外界(事実)をしっかりと反映させることが少ないから,事実のもつ弁証法性が反映せずに,書物ばかりの反映だから認識が弁証法性を帯びないのであろう。

 しかし,われわれとしては,この看護学生を馬鹿にしていればそれですむというような問題ではない。率直にいえば,われわれは鈍才の心理学科の学生のような文章というよりは,この受験秀才の看護学生のような文章を書いていることをしっかりと自覚しなければならない。見る人が見れば,われわれの文章は,まさしくこの秀才の文章と同じであるかもしれないのである。

 もともと秀才といっていいわれわれは,ともすればこの受験秀才のような文章を書いてしまうものであり,そのことを明確に自覚して,少しでも,鈍才である心理学科の学生のような文章を書けるように研鑽していかなければならないのである。そのためにはどうすればいいか。ここでも連載第4回で触れた認識=像の形成がうまくいくための三条件をクリアーしていくことが求められる。三条件とは,実物の外界を反映すること,きちんとした言葉とともに認識を形成すること,小集団的に学習すること,であった。受験秀才的な学習の仕方では,この三条件をみたすことができないのである。逆にいうと,われわれは,この三条件を常に念頭に置きながら学習していかなければならないのである。その意味で,この三条件は決定的に重要な内容であるといえるだろう。

 では,以上を踏まえて,『“夢”講義』をどのように学んでいけばいいであろうか。端的にいうならば,『“夢”講義』に学んでいく際にも,この三条件を満たす形で学んでいく必要がある。たとえば,想像力豊かなジルーシャでも,入ったことのない普通の家の中には想像力が及ばなかったということが説かれていたが,これと同じような具体的な事実を探して,そこでこの論理を何度も何度も確認していく。目をつぶってバラの香りを嗅いだ場合,嗅覚しか働いていないのに,バラの花の形や皮膚感覚も感じている,これが認識は感覚の合成像であるという意味である,と説かれていれば,同じように,目をつぶってある対象を認識することをくり返し試みてみて,あるいは,視覚だけしか働かないような状況でも,味や香りも感じていることを確認していき,認識は合成像であるということの意味を深めていく。病室の廊下の歩き方,病室のドアの開け方,患者さんへの声のかけ方も弁証法を学ぶ材料であると説かれれば,看護師と同様に病院に勤務する心理士である筆者であれば,これを弁証法の学びとしてさまざまな実践・実験を行っていく。

 このように実物の外界をしっかりと反映して,事実からしっかり学んで,自らの体験像を豊かにしていくと同時に,また本書に帰ってきて,その意味するところ=論理を言語でしっかりと学んでいく。さらにこれを小社会的に行なっていく。われわれの場合でいえば,学んだことをしっかりとレポートにまとめて,師や会員に送り,それに対して別の会員はしっかりコメントをする。あるいは,『“夢”講義』の内容で理解できないところをしっかりと師に質問する。このようにして,本書を小集団的に学んでいくことが,認識=像の形成がうまくいくためには必要である,ということなるだろう。

 そしてそのような事実との格闘の前提として,「〜したい」という大志が必要であることもしっかり再確認しておかなければならない。このような大志がなければ,事実と格闘し続けることができず,その結果,学んだ知識が息をし,動き出し,使えるようにはならないのである。

 以上今回は,秀才の手紙と鈍才の手紙との比較から,秀才の欠陥を確認して,それを踏まえて,どのように『“夢”講義』を学んでいけばいいのかについて考察した。

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 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言