前回は,今回扱った範囲の大切な点を改めてまとめた後,例会で扱った論点を提示しました。今回からは,論点に対して,どのような討論がなされたのかを紹介していきます。
今回は,フィヒテの哲学についての論点です。以下にもう一度提示しておきます。
【論点再掲】
1.フィヒテの哲学とはどのようなものか
ヘーゲルは,フィヒテの哲学について,「カント哲学の完成であり,特にその首尾一貫した展開である」(p.129)としているが,これはどういうことか。カントの哲学をどのように発展させたものだと捉えているのか。また,どのような点にフィヒテの哲学の欠陥を見出しているのか。
ヘーゲルは,フィヒテのいわゆる自我をどのようなものとして捉えているのか。デカルトの思考(自我)とはどう異なるのか。フィヒテの自我なるものは,カントとヘーゲルをどのように媒介しているといえるのであろうか。
フィヒテ哲学を唯物論の立場から評価するとどのようなことがいえるか。
この論点についてはまず,フィヒテ哲学がカント哲学の完成であるとはどういうことかについて議論しました。この点については,皆がほぼ同様の見解でした。すなわち,フィヒテはカントの二元論を克服しようと試みた,ということでした。カントの二元論とは,直接的には,物自体の世界と現象の世界との二元論ですが,より根本的にいえば,思惟(主観)と存在(客観)との間に絶対的な壁を設けてしまって,両者の統一がありえなくなってしまったということです。フィヒテはカントの二元論という難点を自我一元論として克服しようとしたのであり,カントのように,世界を2つに分離するのではなくて,1つのもの,つまり自我から全てを説こうとしたこと,それも筋を通して説き切ろうとしたということでした。
ここで一人の会員から,ヘーゲル哲学もいってみればカント哲学を完成させたといえるわけであるが,フィヒテとヘーゲルは何が違うのか,という疑問が呈されました。フィヒテは自我を,ヘーゲルは絶対精神を,それぞれ根本的な原理だと説いたのであるが,両者は何が違うのか,ということです。これに対して別の会員は,フィヒテはカントの枠を超えておらず,カントがいおうとしていえなかったことをしっかりと主張したに過ぎないのに対して,ヘーゲルはそういうカントの枠組みを超えているのだ,と説明しました。この説明には,疑問を呈した会員も納得しました。
次に,ヘーゲルの指摘するフィヒテ哲学の欠陥についての議論に移りました。この問題については,ある会員は,ヘーゲルにすれば,普遍者は個別的な主観を超えた存在であるが,フィヒテはそこまでの絶対的な理念を打ち立てられておらず,全てのものを統一する理念を把握していないと指摘し,別の会員は,理性は概念と現実の総合であるにもかかわらず,フィヒテはもっぱら主観的な面に終始して終始対立につきまとわれてしまったのであり,対象を概念的に把握しきることで,思惟と存在とを完全に一致させて両者の対立を解消させる,ということはできなかったのだと説きました。これを踏まえてもう一人の会員は,対立する両者の一方が根本的だと考えたにすぎなかった点がフィヒテの限界だと言えると指摘しました。チューターはこれらを,要するに,自我一元論という形で概念と現実の統一を果たそうと試みた,その枠組み・狙い自体はよかったのだが,それを実際になして,学問を構築することはできなかった,ということであろうとまとめました。これに対して異論は出ませんでした。
続いて,フィヒテのいわゆる自我をヘーゲルはどう評価するかという問題の検討に入りました。チューターはフィヒテの自我について,直接に存在し,それだけで確実な存在であるとし,デカルトの自我とは狙いと要求が違うのだと説きました。すなわち,フィヒテは,自我に他の観念を付け加えるのではなく(外から経験的なものを全く取り入れるのではなく),全く一要素だけから演繹されるような哲学を目指していたということでした。さらに,カントにあっては,物自体は客観的に存在しているが,われわれには認識できないものとされていたが,フィヒテは,そういった物自体を否定して,物自体をも自我が創り出したものとしてとらえることこそが哲学の狙いであり,実現できなかったとはいえ,それに向けて第一歩を歩みだしたのだと述べました。別の会員は,自我の活動により非我が生み出され,非我が自我の活動を妨げるという相互浸透を指摘したうえで,人間が対象に働きかけ,また対象によって人間が創られるという労働・疎外というイメージがここで創られたのではないか,そしてそれが,ヘーゲルによって,絶対精神が自然へと転化し,また絶対精神に立ち戻ってくるという円環運動として捉えられたのだろうと主張しました。別の会員は,ヘーゲルは,フィヒテのいわゆる自我について,これこそが純粋思惟,カントのいわゆるア・プリオリな総合判断であり,概念的に把握された現実(自己意識のうちに取り戻された他在)であるとしたうえで,宇宙の全内容が自我から顕現する,といった説明からすれば,自我とはヘーゲルのいわゆる絶対精神とほぼ同じものだといってよさそうであるという見解を提示しました。同じような内容を,それぞれなりに説いているということで,チューターは,要するに,フィヒテの自我はヘーゲルの絶対精神につながる枠組みを提供したのであり,その枠組みにしたがって,絶対精神の自己運動として実際にその中身をしっかり説いたのがヘーゲルであるとまとめました。これには,皆が同意しました。
ここで一会員が,カントのいうア・プリオリな総合判断というのがいまいち理解できないと述べました。そこで,教科書レベルで確認しました。その内容は以下です。
総合判断とは,主語を分析したら述語の内容が出てくるというのではなくて,主語に新しい内容を付け加えるような判断のことである。また,ア・プリオリなというのは経験的ではないということであり,経験を超えてという意味である。だから例えば,「三角形の内角の和は二直角である」や「2プラス3は5である」といった判断はア・プリオリな総合判断である。ともに,主語のどこをどう分析しても述語は出てこないし,これらは単なる経験的な判断ではなく,経験を超えて通用する判断だからである。
この説明を受けて,別の会員は,絶対精神は,(そのうちに萌芽的に内容を把持しているとはいえ)次々に新しいものを生み出していくのであり,それも必然的な発展として生み出していくのであるから,これはカントの言葉でいうとア・プリオリな総合判断だといえるのである,と説明しました。これには皆が納得しました。
最後に,フィヒテ哲学の唯物論の立場からの評価について討論しました。これについてはいろいろな観点から見解が出されました。まず,なぜフィヒテが自我を根源においたのかを考察するならば,ナポレオン軍によってドイツが占領されていたことが関わっているのではないかという見解が出されました。しかし,これについてはチューターが,ナポレオンがベルリンを占領したのは1806年であるのに対して,フィヒテの自我を根源においた哲学はそれより以前に説かれているため,因果関係が逆ではないかと指摘しました。これについては,この見解を出した会員も納得しました。続いて,別の会員は,全てを自我という自分自身の本質的な要素から説き切ろうとした姿勢は大きく評価できるとして,主体性の重要性を指摘したことがフィヒテ哲学の大きな成果だと説きました。この見解についてチューターは,これは,あえて唯物論の立場からの評価といえるだろうかと疑問を呈しました。すると,この見解を提示した会員は,自我から説くのということは,唯物論の立場からは本来的には許容されないが,自分の問題意識から説く,主体性から説くという意味では,唯物論の立場からも評価できるという意味であると補足しました。これにはチューターも納得しました。さらに社会的な背景について,フィヒテが自我を根源において,この世界の全てを自我の活動として把握しようとしたことは,世界に主体的に働きかけていきたいという人間の欲求(18世紀末から19世紀初頭にかけてのドイツ・ブルジョアジーの欲求)を反映したものであるという見解も出されました。また,別の会員は,フィヒテが当初はカントと間違われるほど「自分の他人化」をなして,当時の最先端の社会的認識たるカント哲学をしっかり反映し,自分のものにした点が重要だと指摘しました。これらについては皆が同意しました。
さらに,フィヒテ哲学の内容に関して,三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)の内容を確認したいという意見も出されました。同書では,「自分自身の二重化」という項で,次のように説かれています。
「……マルクスは,ここからさらにすすんで,ドイツ観念論が逆立ちさせた「理智的に自分自身を二重化する」(マルクス『経済学手稿』)事実をとりあげて,どうしてこの二重化が発生するか,その現実的な根拠をあきらかにしました。「人間は,鏡を持って生れてくるのでもなく,また,我は我なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから,人間はまず,他の人間という鏡に自分を映して見る」(マルクス『資本論』)というのです。この皮肉なフィヒテ批判のなかに,観念的な自分が,フィヒテ流の「我」が,現実の自分以前から存在していたものでないこと,人間が現実の世界を鏡とすることによって発生するものであることが指摘されています。」(p.148)
この内容に関して,一会員は,哲学というものは観念的な自己をいわば神的な立場(全世界の創造主の立場)において世界全体を見渡すことによってこそ成立するものであるが,それはまずは,観念論哲学として,すなわち,この観念的な自己こそ本当の自分(絶対精神)であり,身体をもった自分はそこから派生してきた仮の姿にすぎないとみなすことによって成し遂げられたのだ,これに対して唯物論の立場からは,神的な立場に立つ観念的な自己は,あくまでの現実の自己から派生したフィクションであるといわなければならないが,神的な立場に立った観念的な自己が世界全体に筋を通して把握しきるという意味では,唯物論哲学も観念論哲学と共通した構造をもたなければならないのだ,と説明しました。これについては,皆が納得しました。
以上で論点1に関わる討論を終了しました。