前回は,憲法の原点ともされるマグナ・カルタ(大憲章)を取り上げました。中世のヨーロッパ社会は,封建領主が分割して統治しており,領主間の争いはもっとも勢力の強い封建領主の一人であった国王によって調停されていました。ところが,十字軍をきっかけに都市の商工業者が台頭してきて,貨幣経済の進展によって農奴の立場が高まり,逆に領主=貴族や教会の力が衰えていくと,国王・商工業者連合軍と,既得権益を主張する貴族・教会連合軍の争いが生じて,国王の失政を引き金にして,特権階級の既得権を守るためのマグナ・カルタが成立したのでした。これは権力者=国王の横暴を縛る機能を有しているものなのでした。
さて今回は,中世社会が進展していく中で,現代の立憲主義には不可欠の「人権」という考え方がどのようにして誕生してきたかを見ていきます。
人権とは,「人間がもっている権利・自由の中で,最も基本的であり誰もが生まれながらにしてもつ権利」(『政治・経済用語集』,山川出版社)のことです。現代に生きるみなさんは,このような人権という概念を当たり前のように思っているかもしれませんが,人権という考え方は,人類の歴史でいうとごく最近,誕生してきたものなのです。では,どのように誕生してきたのでしょうか。
人権という考え方が誕生する以前の中世においては,人間は,生まれ育った階級に従ってそれぞれ特別な権利,すなわち「特権」を持つと考えられていました。国王には王権がありましたし,封建領主たちには領主なりの特権がありました。都市の商工業者はギルドという特権的な組合を作って,新規参入する業者を排除していました。彼らにも特権があったのです。
何の権利も与えられていなかったと思われる農奴にも,それなりの特権がありました。古代ギリシャやローマの奴隷は,牛や馬と同じように扱われ,もし奴隷に子どもが生まれたら,持ち主はその子どもを親から引き離し,自由に売りさばくことができました。ところが中世の農奴は土地とセットになっているため,家族をバラバラに売り飛ばすことはできなかったのです。このような家族をばら売りにされない権利というのは,ある意味,農奴が持っていた特権ということができます。したがって,領主であっても,このような農奴の特権を奪うことはできなかったのです。
このような特権は,伝統主義が支配していた中世においては,親から子へと受け継がれていくものでした。したがって,封建領主の子どもは封建領主になり,商人の子どもは商人に,農奴の子どもは農奴になるほかなかったのです。
国王には国王の,領主には領主の,商人には商人の,それぞれ別々の特権があると考えられていた状態から,どのようにして,人が生まれながらにして平等な権利をもっているという人権の考え方が生まれてきたのでしょうか。
それは,キリスト教の予定説が関係しています。予定説とは,宗教改革家の一人であるカルヴァンが唱えた説です。
前回にも少しだけ触れましたが,14世紀ころからキリスト教の教会は極度に腐敗していました。金儲けのために免罪符(贖宥状)を信者に売りつけて,これさえ買えば救われるなどと説いていたのです。売官や妻帯なども日常茶飯事で,本来の教義の反するようなことが当たり前に行われていたのです。
こうした教会の堕落,腐敗に対して批判の声を上げ,宗教改革を行ったのがルターでありカルヴァンであったわけです。では,カルヴァンの唱えた説はどのようなものだったのでしょうか。今回も,林健太郎『歴史の流れ』(新潮文庫)から引用します。
「カルヴィンの説はルーテルより出てそれよりも一歩進んだものであった。彼の思想の根底には,神の全能の意志を極度に重視し,人間の救済はすでに神によって予め定められているという予定説が横たわっていたが,また神に召される外的な印しは道徳的な行為であり,キリストの神性は思索や理性によってでなく体験によってのみ理解されるとなす実践的な性格が彼の教えの特徴であった。そこで彼は聖書に文字通り則った厳格な道徳律を建て,それによって現世においてひたすら勤勉に働く事の中に救済への途を見たのである。ここにおいて現世の生活はカトリックにおけるような第二義的なものではなく,まさに神の恩寵を得るための第一義的なものとなり,営利や致富も,それが道徳的に行われる限り,正当な立派な行為とされたのである。この教えはまさに当時勃興しつつあった市民階級,未だ自己の努力によって事業を拡大し資本を蓄積しつつあった初期の工業者階級の利害に一致し,かつその意識を代表するものであった。そしてそれは神と人間との直接的な結合を説き,その間に何等の伝統的な人為的権威を認めない点において,極めて共和的,民主的なものであった。」(pp.115-116)
すなわち,予定説とは,全知全能の絶対の神が全てを予定しているのだという説であり,現世において勤勉に働くことこそが救済への道であるということです。これは,当時勃興しつつあった都市の商工業者の利害に一致し,その意識を代表するものでした。また,「神と人間との直接的な結合を説き,その間に何等の伝統的な人為的権威を認めない」というのも,カルヴァンの主張の特徴なのでした。
少し補足します。カルヴァンによると,神は絶対的な存在であり,神の意志を妨げる要因はありません。善行をなしたから神がこの人間を救おう,と考えるのではないのです。これだと,神の意志決定が人間によって左右されることになります。そうではないのです。神は全知全能で絶対的であり,全てのことを予め決めているのです。ですから,少なくとも予定説を信じることが神の御心に沿うことであり,神から与えられた天職を一生懸命に行うことこそが,救われないのではないかという不安を和らげる唯一の方法になるのです。
カルヴァンのいうような絶対的な神に比べれば,人間など,何の価値もない存在だといってもいいでしょう。予定説によって神様をとてつもなく高いところに置いてみれば,世界の見方が変わります。すなわち,神様に比べれば,どんな人間もけし粒以下の存在であり,何らかの人為的な権威や決まり事など,どうでもよいことだと思えてくるのです。神様の目から見たら,国王も貴族も市民階級も,しょせんは原罪を背負った神の奴隷にすぎないのであり,大した違いはないのだ,という人間観が生まれてくることになります。
ここから,人間は生まれながらにして平等な権利をもっているという人権の考え方が生まれてきたのです。すなわち,人間は神のもとにあってはみな平等であるのだから,人間がもっている権利もみな同じである,という考え方が生じてきたのです。もちろん,カルヴァンの予定説から直接に,人権という考え方が生まれてきたということではありません。たとえば,カルヴァンの弟子が師匠の予定説を発展させて,「人権」なる概念を打ち立てた,というようなことではないのです。そうではなくて,人権という考え方が誕生するにあたって,カルヴァンの予定説が必須の前提条件になっていた,ということなのです。人類の社会的認識の中に予定説が生成発展していったからこそ,社会的認識の次なる量質転化として,人間は生まれながらにして平等な権利をもっているという「人権」という考え方が誕生したのだ,ということなのです。人権という考え方は,例えば,イギリスで1689年に成立した権利の章典や,次回に触れるロックの思想の影響で成立したアメリカ独立宣言(1776年)やフランス人権宣言(1789年)などで次第に社会的認識として確立していくのですが,これらに関わった人間がカルヴァンの予定説を研究して「人権」なる概念を創り上げたわけではないのです。そうではなくて,無意識的な前提としてカルヴァンの予定説があったからこそ,これらが作られたのだ,ということなのです。
さて,カルヴァンの予定説は,人間観だけではなく社会観も変えていき,歴史を動かす原動力になりました。先の引用にもあったように,カルヴァンの説は「神と人間との直接的な結合を説き,その間に何等の伝統的な人為的権威を認めない」ものでした。したがって,中世末期の絶対王権なども,まさしく伝統的で人為的な権威であり,そういったものを否定する方向へと歴史を動かしたということもできます。その典型的な例が1642年に始まるイギリスのピューリタン革命です。
ピューリタン革命とは,当時のチャールズ1世が絶対王権を振りかざしていたことに対して,議会が反発したことを引き金に始まった革命です。結局,クロムウェルが率いるピューリタンの独立派が主導権を得て,国王を処刑してしまいます。国王が臣下に処刑されるなどということは,それまでのヨーロッパの伝統では考えられないことでした。それが実際に行われたのは,予定説による人間観の変更があったからです。
クロムウェル家はもともと,イギリスのジェンドリー階層出身で,堂々たる王党派の特権階級でした。そのようなクロムウェルでさえ,母親の影響で熱心なピューリタンになると,王様を殺しても許されると考えるようになったのです。というのは,予定説を信じるピューリタンにとっては,従来の特権だらけの社会こそが神と人間との直接的な結合を引き離す人為的なものであり,こうした社会は変革する必要があるものだったからです。また,王が生まれながらにして尊いなどということは,神の下の平等を唱える彼らにとってみれば,信じるわけにはいかないものだったのです。
このように,カルヴァンの唱えた予定説があったからこそ,そしてそれをもとにして誕生した人間観や社会観があったからこそ,臣下が王様を処刑するというような市民革命が実現したということができるのです。そしてこの市民革命は,憲法を大きく発展させることになるのですが,そのことについては次回説きたいと思います。