(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』バークリー 要約
(3)ヘーゲル『哲学史』ヒューム、スコットランド哲学 要約
(4)ヘーゲル『哲学史』フランス哲学 要約
(5)ヘーゲル『哲学史』フランス哲学(続)、ドイツの啓蒙思潮 要約
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:バークリーやヒュームの哲学とはどのようなものか
(8)論点2:スコットランド哲学とはどのようなものか
(9)論点3:フランス哲学とはどのようなものか
(10)参加者の感想の紹介
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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
我々京都弁証法認識論研究会は、3年前のヘーゲル『歴史哲学』、一昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて、昨年からいよいよヘーゲル『哲学史』に挑戦してきています。今年末までかけてこの著作を通読することで、ヘーゲルの説く哲学史を理解することはもちろんのこと、それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた第一歩を確実に歩んでいくことを課題としているわけです。
9月例会では、ヘーゲル『哲学史』バークリーからドイツの啓蒙思潮までを扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。
今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。
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京都弁証法認識論研究会 2016年9月例会
ヘーゲル『哲学史』
第3部 近代哲学 第2節 思惟する悟性の時期 第2章 過渡期
A 観念論と懐疑論
思惟は自己を自己自身の運動において捉えることで自己意識となるが、その最初の形式たる個別的自己意識こそが懐疑論である、とヘーゲルはいう。思惟の自己運動とは、根源的存在たる絶対精神が世界の諸々の具体的なものをみずから生み出していく過程であるが、これを自覚する(世界=自己という関係を捉える)最初の形式が懐疑論だ、というわけである。これは、個人のアタマのなかにこそ世界がある(個別的自己意識が直接に世界そのものである)と主張する形で、自己=世界の関係を実現しようとしたのが懐疑論だ、ということであろう。
ヘーゲルは、バークリーについて、全ての対象は人間の個別的意識が描くイメージでしかないという観念論だ、とした上で、ヒュームはそれを別の言い回しにかえたのだ、とする。ヘーゲルは、彼らの哲学について、自己意識が世界の全てを自己のものにしようとしたという点に大きな前進を認めつつ、それが感覚的レベルにとどまり、普遍的なるものとか観念とか概念とかを扱えなくなってしまった点に大きな限界を見ているといえよう。
【報告者コメント】
ヘーゲルの描く哲学史の大きな流れ、すなわち、絶対精神が自己自身の何たるかを自覚するに至る過程のなかで、近代の懐疑論がどのように位置づけられるのか問うていく必要があるだろう。簡単にいえば、世界=自己という自覚、換言すれば、現実の世界と観念の世界とをピッタリと重なり合わせることこそが、ヘーゲルの考える哲学の完成である。この図式を踏まえていえば、近代の懐疑論は、現実の世界を強引に観念の世界のなかに溶かし込んでしまうことで、世界=自己という関係を成立させようとしたのだ、といえるのではないか。
唯物論の立場からは、バークリーやヒュームの論について、我々が眺めているのは現実世界そのものではなく、アタマのなかに描かれた現実世界の映像にほかならないことを指摘したものとして、高く評価できるだろう。また、彼らが自分の認識を客観的に見つめる視点を確立したこと、換言すれば、感性的につかむことができない心のありさまを現象として観察する視点をもったことは、認識論の発展という観点から特筆されるべき業績である。同時に、現実世界が我々の認識から独立して存在していることを認められなくなったために、感覚レベルの像と論理レベルの像を合理的に区別する規準が立てられなくなってしまったことは、決定的な限界として確認しておかなければならない。
B スコットランド哲学
ヘーゲルは、スコットランドの哲学について、必然性や普遍性の認識を完全に解消して宗教や道徳は単なる習慣にすぎないと片付けてしまったヒュームに反対し、宗教や道徳について内的に独立した源泉を主張しようとしたものだ、と述べている。こうした問題意識がカントと共通していると指摘される一方、カントが宗教や道徳における真理を思惟とか理性とかによって根拠付けようとしたのに対して、スコットランド哲学は、世間一般に通用している宗教上、道徳上の真理(とされているもの)をそのままの形で肯定し、直接に共通感覚(良識、常識)なる人間の認識能力に結び付けてしまったことが指摘されている。
ヘーゲルは、こうしたスコットランド哲学について、通俗哲学にすぎないと批判的に評する一方、健全な悟性という原理そのものは妥当なものであることを指摘し、人間や人間の意識のなかに価値判断の源泉を探し求め、価値を人間に内在化させようとしたという点については、大きな長所として認めている。
【報告者コメント】
ヘーゲルは、スコットランド哲学について、思弁的な深みのない通俗哲学であるとして、それほど高い評価を与えていないのだが、彼らが確固とした価値を人間に内在化させようとしたことについて、大きな長所として認めていることを見逃してはならないだろう。「人間は精神であるから、最高者にふさわしく自分自身を尊敬してよいし、また尊敬すべきである」(「就任演説」)というヘーゲルの信念に通ずるものが、ヒューム懐疑論への反論――文字通り常識レベルの反論であるが――という形で提示されているわけである。
唯物論の立場からすれば、スコットランド哲学(いわゆるスコットランド常識学派)は、我々が視覚という感覚で色や形を捉え、聴覚という感覚で音を捉えるように、共通感覚(道徳感覚)で善悪を捉えるのだ、というような非常に素朴(安直)な発想で、宗教的・道徳的な原理の確実性を担保しようとしていたのだといえよう。感覚器官を通じた外界の反映を原基形態とする認識の発展過程のなかで、宗教的・道徳的な原理がどのように成立してくるか、という困難な課題に立ち向かうことを最初から避けてしまった、といわなければならない。
なお、アダム・スミス『道徳感情論』は、道徳感覚という発想を批判し、想像力に着目して道徳感情の形成過程を追究した点で、いわゆるスコットランド常識学派とは大きく異なることを確認しておきたい。
C フランス哲学
ヘーゲルは、フランス哲学について、およそ存在するものは自己意識においてなければならない、換言すれば、自己意識が納得できるものでなければ真理ではありえない、という確信に基づいて、既存の諸々の権威や観念をことごとく否定していったものだ、と述べている。
ヘーゲルは、フランス人による宗教攻撃や国家攻撃が非難されていることに対して、フランス旧体制の社会状態のひどさ、貧困や悲惨さを指摘しつつ、彼らが旧体制に対抗して主張したのは、思惟する人間を愚民扱いしてはならないということにほかならないとして、その正当性を指摘している。人間は、自身の精神に内在する確固たる羅針盤を見出そうとする絶対的な衝動をもつ、とヘーゲルはいう。思惟と自己との統一が自由であり、自由意志こそ人間の概念であるが、ルソーにおいて自由の原理が高く掲げられ、自己自身を無限者としてみる人間にこの無限の強さが与えられたのだ、とヘーゲルは説くのである。
【報告者コメント】
既存の権威や観念をことごとく否定していったフランス哲学のあり方について、ヘーゲルは、人間が自身の精神に内在する確固たる羅針盤を見出していく過程にほかならないとして、肯定的に捉えているところが決定的に重要であろう。「人間は精神であるから、最高者にふさわしく自分自身を尊敬してよいし、また尊敬すべきである」(「就任演説」)というヘーゲルの信念に通ずるものが、旧体制との激烈な闘争という過程を通じて、強烈な形で(粗削りな形で)押し出されてくるのである。ヘーゲルは、フランス人による旧体制攻撃を、思惟する人間を愚民扱いしてはならない(門外漢としてはならない)、という要求としてまとめているが、これは、個々の国民が主権者として国家意志の決定に主体的に関わるべき、という主張にほかならず、現代にも通じる決定的な意義をもっているといえよう。
世界歴史の流れを自由の実現過程として捉えるヘーゲルにとって、フランス哲学における自由の原理の登場は決定的な画期であり、哲学の完成までもう一歩のところまで到達したものであることを、しっかりと押さえておきたい。
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以上の報告に対して、まず、「A 観念論と懐疑論」の「報告者コメント」が特に非常に分かりやすかったという意見が出されました。ヘーゲルの描く哲学史の流れを踏まえて、近代の懐疑論が「現実の世界を強引に観念の世界のなかに溶かし込んでしまうことで、世界=自己という関係を成立させようとした」ものだということが述べられているが、この論理展開は見事だということでした。また、「B スコットランド哲学」の部分で「価値を人間に内在化させようとした」とある部分について、これは価値判断の基準を人間に置こうとしたということかという質問があり、これに対して報告者はその通りだと答えました。質問者は今回の範囲は非常に読みづらかったと述べましたが、チューターは、「価値を人間に内在化させようとした」といった重要なキーワードを中心に読んでいくことで、ヘーゲルが説きたかった中身の大枠を押さえていく必要があると述べ、論点の検討に移っていきました。