2016年09月11日

夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う(5/5)

(5)難問を片付けようとする意志にこそ学ぶべきである

 本稿は、漱石の未完の大作『明暗』に焦点を当てて、複数の問題系が複雑に絡み合う構造をもった物語世界を漱石がどのように片付けようとしていたのか検討することを通じて、漱石の思想的な到達点について考察することを目的としたものでした。ここで、これまで論じてきた内容を簡単に振り返っておくことにしましょう。

 まず、『明暗』の物語世界が、愛の問題系と金の問題系とが密接に絡み合う形で展開させられていることを確認しました。次いで、そのうちの愛の問題系だけを取り上げてみても、〈津田-清子-関〉という三角関係に〈お延-津田-清子〉という三角関係が重なってくるという重層的な構造をなしていること、さらに重要なこととして、これらの三角形が、経済的な力のより強い上層の世界と経済的な力のより弱い下層の世界に挟まれる形で配置されていることを明らかにしました。上層の世界と下層の世界に挟まれた津田とお延は、お互いに相手を真に愛するというよりは、上層の世界の人々に対する「手前」あるいは「体面」から、仲のよい夫婦に見せかけようとしているにすぎません。こうした夫婦のあり方が、上層の世界からは、身の程を知れ、分をわきまえろ、という角度で批判され、下層の世界からは、腰がぐらついて度胸が坐っていない、と批判されているのでした。

 以上のことを踏まえて、結末に向けての展開の推測を試みました。端的には、津田は「他人本位」的なあり方を改めきれないまま破滅してしまう可能性が高いこと、清子によって津田の「他人本位」的なあり方が暴かれ、お延が自分の直覚の誤りを認めざるを得なくなるであろうことを確認しました。その上で、結論的に、『明暗』の物語世界で複雑に絡み合った諸々の問題を片付け、金力・権力にまつわる諸々のしがらみから人間的な愛を解放する展望を指し示すためには、「絶対に愛されてみたい」「誰からも愛されたい」というお延(=明)が、「せめて人に嫌われてでも見よう」という小林(=暗)と何らかの形で結びつくほかないだろう、と指摘したのでした。

 論理的には以上のように推測できるのですが、『明暗』の結末において、漱石が小林とお延の関係についてどこまで書くつもりであったか、具体的に知る術はありません。しかし、お延が小林に対して「駈落をなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」と問いかけ、小林がお延に対して「僕だって朝鮮三界まで駈落のお供をしてくれるような、実のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ」と答える、というやり取りを重要な伏線とみなすならば、お延が小林とともに朝鮮へ駆け落ちするという選択をする可能性すらあったのではないかと思われます。津田が朝鮮に向う小林に餞別として贈った10円紙幣3枚が、もともとはお延が岡本から受け取った金の一部であることも、そのような結末に向けた伏線であるということもできるのではないでしょうか(送別会に出かける津田に、お延は「小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」という念押しまでしていたのです!)。

 お延と小林が朝鮮に駆け落ちするとまでいうと、いささか突拍子もない説だと思われるかもしれませんので、もう少し根拠を示しておくことにしましょう。

 まず指摘することができるのは、お延が自分の直覚――津田を愛の対象と定めた直覚――についての誤りを認めていく過程で、小林への評価が劇的に変化する必然性がある、ということです。お延は小林の師である藤井について、「仕事ができなくって、ただ理窟を弄んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」と考えていますが、これは貧乏人一般に対するお延の評価を示すものであり、小林についても同じような評価を抱いていたものと思われます。しかし、お延は、清子による津田批判の衝撃を受けとめる過程で、小林こそ「仕事」のできる人間であり、津田こそ「ただ理窟を弄んでいる」人間であること、それなのに津田が「報酬」を得る一方で小林が「報酬」を得られていないのだ、ということを理解させられる可能性があります。

 このことに関わって決定的に重要なのが、津田によって設けられた小林の送別会でのやりとりです。ここで、小林は「いったい今の僕にゃ、仏蘭西料理だから旨いの、英吉利料理だから不味いのって、そんな通をふり廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」と述べ、「それじゃなぜ旨いんだか、理由が解らなくなるじゃないか」と突っ込む津田に対して「ただ飢じいから旨いのさ。その他に理窟も糸瓜もあるもんかね」と答えています。かつて津田は、病院で出会った友人の関と、「性と愛」について「むずかしい議論」をたたかわせました。そこでは、おそらく、女性は「性」の対象であればよいと主張した関に対して、清子に夢中になっていた津田が「愛」を積極的に擁護したことでしょう。この「むずかしい議論」という表現は、小林の津田批判に通じます。津田は、なぜ清子が好きなのか、なぜお延が好きなのか、あれこれ「理窟を弄んでいる」だけで、結局のところ清子もお延も愛することができていないのです。これに対して小林は、事実上、人を愛する気持ちに理屈はいらない、ただ好きだと思う気持ちはあればそれで充分だと主張しているのです。これは、お延をまともに愛することができない津田に対して、小林にはそれができるのだ、ということを示唆するものとも読めます。

 「他人をいやがらせるために生きている」という小林ですが、一方で「いかに人間が下賤であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る」とも語っています。かつて、「人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」という小林に対して、お延は「生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」と答えましたが、実際に「人に笑われる」境遇に陥ってしまったお延に対して、小林が普段の皮肉な態度を捨て、「至純至精の感情」を発揮することは大いに考えられることです。

 そもそも、小林が他者に対してやたらに攻撃的な態度に出るのは、自己の存在を他者に認めさせたいからにほかなりません。世の中がなく人間がない、という小林ですが、彼はそのような状況に置かれていることが淋しくてたまらず、苦しくてたまらないのです。彼の攻撃的な態度は、愛の渇望の屈折した表現にほかならず、時折その背後から実に率直な形で淋しさが顔を出します。小林の態度が突然に感慨を帯びて来たり、また突然に涙を流したりするのはそのためです(*)。お延が小林との関わりを通じて劇的な変化を遂げていく可能性があるように、逆に、小林もまた、お延との関わりを通じて劇的な変化を遂げていく可能性があります。「僕だって朝鮮三界まで駈落のお供をしてくれるような、実のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ」という小林の発言は、そのことを暗示するものだといえるでしょう。

 以上のようなことを踏まえるならば、津田に幻滅したお延が新たな愛の対象として小林を選ぶということも大いにありうる、と納得していただけるのではないでしょうか。そもそも、お延と小林が対決する場面の直前で、叔父の岡本に「悪口や」と評されるお延が、津田と「軽口の吐き競」ができずに物足りなさを感じていることが描かれているのも非常に示唆的です。お延と小林の対決の場面は、まさに「軽口の吐き競」のようなものとして描かれているからです。さらにいえば、「則天去私」の態度で『明暗』を書いていると語った漱石によって「則天去私」的作品として挙げられたジェーン・オースティンの『高慢と偏見』とゴールドスミスの『ウェークフィールドの牧師』が、いずれも、女性から見て愛の対象に値すると思われた男が実は取るに足りない存在で、逆に不愉快な存在に思われた男こそ愛の対象に値する存在だった、という話の筋で共通していることも、有力な傍証となるかもしれません。

 仮に、お延と小林が朝鮮に駆け落ちするとすれば、それは何よりもまず姦通による社会からの追放という意味合いをもたざるをえないものでしょう。しかし、家父長制のもとで支配・管理の対象とされた女性と、貧乏な文筆家であり下層階級との連帯意識をもつ社会主義者が結びつくということは、客観的にいって、現存の社会秩序の根本的な転覆につながる可能性を生み出しかねないものにほかなりません。そこには何かしら前向きな印象を与えるものがあります。大正デモクラシーの時代における漱石晩年の社会批判には、相当にラディカルな要素が含まれていたといえるでしょう。

 『明暗』の世界は、確かに諸々の問題が絡みあう複雑な構造をもっており、物語世界がそう簡単に片づいてしまうことはなさそうに思われます。しかし、漱石が、金力・権力のしがらみから人間を解放するにはどうすればよいのか、という難問を何とかして片付けようという意志を強烈な意志をもちつづけていたことを忘れてはなりません。我々は、どんな結末をもってきても『明暗』の世界は完結しようがない、などともっともらしい理屈を弄ぶのではなく、漱石が挑み続けた難問の解決に向けてどのような結末がありうるか、その物語世界の構造から真摯に問うていくべきなのです。金力・権力にまつわる諸々のしがらみが個々人の自由な発展を阻害するという状況は、漱石の死から100年を経た現代においても、未だに打開されていません。我々は、『明暗』の結末を考察することを通じて、漱石の思想的到達点を明らかにしつつ、それを将来のよりよい社会の建設へと活かしていかなければならないのです。

(*)ここには、漱石自身の悲惨な養子体験やロンドン留学の体験――自己の存在が社会に認められない不安から絶対の愛を求める――が反映されているとみることもできるであろう。真実と愛を希求し、金力・権力を容赦なく批判する小林こそ、『明暗』のなかで最も漱石的な人物であり、漱石が最も思い入れを込めて描いた人物なのではないかとも思われるのである。

(了)
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 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言