2016年09月07日

夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う(1/5)

目次

(1)『明暗』の世界は片付けようのないものか
(2)愛の問題系と金の問題系という2つの軸
(3)上層、中層、下層という三重構造をなす世界
(4)金力・権力のしがらみから愛を解放する展望
(5)難問を片付けようとする意志にこそ学ぶべきである

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)『明暗』の世界は片付けようのないものか

 今年は、夏目漱石が亡くなってからちょうど100年の記念の年にあたります。漱石は、1916年(大正5年)12月9日、49歳でその生涯を閉じたのでした。亡くなったとき、漱石は『明暗』と題された作品に取り組んでいました。これは、同年5月26日から「朝日新聞」に連載されていたのですが、結局、12月14日に掲載された第188回で中断されることになったのでした。しかし、この『明暗』は、未完に終わったとはいえ、遺された部分だけでも漱石作品中の最長篇であり、非常に緻密に構成された(周到に伏線が張り巡らされた)物語として、実に読み応えのあるものとなっています。

 それだけに、物語が佳境に入ったところで突如として中断されてしまうのは、残念というほかありません。物語はこれからどのように展開していくのか、漱石は一体どのような結末を用意していたのか……どうしても知りたいと思うのは、読者としては自然な要求でしょう。実際、これまで実に多くの人々が、ついに書かれることのなかった結末への展開を予想するという試みを行ってきました。そのなかには、水村美苗『続 明暗』のように、実際に続編を書き継いでみたものもあります。

 一方で、『明暗』の結末をあれこれ予想するという行為に対しては、釘を刺すような見解が示されることもあります。『明暗』は、作者の死による中断という形式的な未完成にとどまらず、作品の内容そのものが未完結性をもっているのではないか、『明暗』の作品世界は複数の問題系が複雑に絡み合う構造をもっており、たとえひとつの作品として完成されたとしても、これらの問題をきれいに片付けてしまうような結末はありえなかったのではないか、というのです。例えば、佐藤泉氏は「複数の異質な世界が交錯するこの作品では、物語の全体がすべて落ち着くことなど、とても考えられない」(『漱石 片付かない〈近代〉』、NHKライブラリー)と述べ、柄谷行人氏は、『明暗』が「ひとつの視点=主題によって“完結”されてしまうことのない世界」(新潮文庫版『明暗』解説)を実現している、としています。

 このような立場からすれば、『明暗』の結末がどうなるかは大した問題ではなく、日常の片付かなさをリアルに捉えている点にこそ作品の意義がある、といったことになります。漱石が、その約10年にわたる作家生活を通じて、安易に問題を解決してしまうよりは問題の構造そのものを徹底して追究することを重視していたように思われることが、こうした捉え方の有力な傍証とされます。その象徴的な例が、『明暗』のひとつ前の小説である『道草』の結末における健三の「世の中に片付くものなんて殆どありゃしない」という言葉です。

 しかし、漱石が問題の解決を簡単に与えなかったといっても、それは、どうせ世の中のことは片付かないものだ、と諦め、悟りきった態度を示した、というようなものなのでしょうか。この点については、先に引用した健三の言葉が「吐き出すように苦々しかった」ことに注目しなければなりません。ここには、容易に片付かない現実を直視しつつも、なおそれを片付けようと挑戦し続ける決意が秘められているとみることができるのです。片付かなさの追究を徹底して行いつつも、片付けようとする意志そのものは決して捨てようとはしなかった――この2つの側面を合わせもっているところにこそ、漱石の文学の意義があるといえるのではないでしょうか。

 もっとも、漱石の文学に片付けようとする意志と片付かなさの追究という2つの側面があるといっても、その両者のバランス、重点のおき方には大きな変遷が見られることも確かです。初期の作品においては、片付けようとする意志が直截に表現されていたといってよいでしょう。例えば、朝日新聞入社第一作の『虞美人草』においては、小野さんとの結婚の道を断たれた藤尾が憤死し、「謎の女」と呼ばれる藤尾の母が悔い改めるという結末によって、物語世界はいささか強引に片付けられていたのでした。

 それでは、漱石が作家生活の全体を通じて、片付けようとする意志をもって追究した問題とは、一体どういう問題だったのでしょうか。結論からいえば、それは、全ての個人の自由な発展を可能にするにはどうすればよいのか、という問題にほかならなかったといえます。もう少し具体的にいうならば、金力・権力がものをいう現実世界において、人々が諸々のしがらみにとらわれて小刀細工を弄するばかりに、心の打ち解けた自然な関係を築くことができずにいる、という状況をどのようにして打破するのか、という問題です。漱石の文学者としての生涯は、個人の自由な発展を阻む要素に満ち満ちている現実世界に対して、自己(漱石)がどのように対峙していけばよいのか、試行錯誤を重ねていく過程にほかならなかったということもできます。

 作家生活の前半において、問題を比較的に簡単に片付けてしまうような作品が生み出された背景には、『文芸の哲学的基礎』――作家生活の出発にあたってその決意を表明したもの――において現れているように、高い理想をもつ者が時代から受け入れられない時、文章によって後世に残り後世の人々の血肉になって時代を動かすのだ、といった意識があったものと思われます。自分は同時代には受け入れられがたいほどに高邁な理想をもっているのだという強烈な自負があった、ということです。漱石は、『野分』において、まさにこうした信念を具現化したような白井道也という「文学者」を描いています。ここに現われているのは、無理解な周囲の世界より一段高いところに自らを位置づけ、そこから(卑近な言葉でいえば“上から目線”で)醜悪な日常的現実を裁いてやろう、という姿勢にほかなりません。

 ところが、いわゆる後期三部作の頃になると、片付かなさの追究のほうが前面に出てくるようになってきます。漱石は、『彼岸過迄』および『行人』において、真実を求めれば求めるほど現実世界から突き放されてしまい、自らの内面に閉じこもらざるを得なくなる知識人の苦悩を徹底して追究しました。ここには、漱石が、創作活動を積み重ねていくなかで、現実世界と自己との関わり方の難しさ――金力・権力が支配する世界と全ての個人の自由な発展を願う自己との対決の厳しさ――を次第に痛感させられていったことが反映しているのではないかと思われます。端的には、果たして自分は周囲の世界を裁けるような立派な人間なのか、といった疑問が大きく膨らんできたのではないかと思われるのです。 

 しかし、漱石は、片付けようとする意志を決して失ったわけではありませんでした。『こころ』は、漱石なりに閉塞状況からの脱出の可能性を示したものといえます。『こころ』の「先生」は、「私」という青年との出会いをきっかけに、自己の弱点と限界を改めて見つめ直し、それを「私」に宛てた「遺書」という形であからさまに書きつらねることになりました。自らの弱点と矛盾という片付かなさそれ自体を徹底的に追究した上で、その克服の可能性を「私」に代表される後世に託そうとしたのです。この「先生」の姿勢は、ある意味では、漱石自身によって実践されました。『こころ』を書いた後の漱石は、『硝子戸の中』という随筆、『道草』という自伝的小説を書くことを通じて、自らの人生そのものの片付かなさを徹底的な分析・検討の俎上に載せたのです。こうした分析・検討がなされたのも、あくまで、片付けようとする強烈な意志が根底にあったからこそでしょう。『道草』の結末における健三の「世の中に片付くものなんて殆どありゃしない」という言葉が、「吐き出すように苦々しかった」のは先に見たとおりです。

 このような、片付かなさの徹底した追究の上で書かれたのが、日本初の本格的な近代小説ともいわれる『明暗』です。『道草』という自伝的小説の後に、改めて本格的な小説らしい小説が書かれたという事実は、漱石が片付かなさの徹底した追究の成果をふまえて、改めて問題を片付ける展望を探究しようとしていたのではないかと想像させるに十分なものがあります。

 また、片付けようとする意志との関連でいえば、当時の漱石が、第一次世界大戦の勃発という情勢の下で、社会に対して強い関心を抱き、漱石なりに積極的に働きかけようとしていたことも見逃せない事実です。『明暗』が書かれたのは、冒頭でみたとおり1916(大正5年)ですが、前年の1915年に行われた衆議院選挙において、漱石は、急進的な民主主義の要求を掲げて立候補した馬場孤蝶を堺利彦(のち1922年に、日本共産党の創設メンバーの1人となった社会主義者)らとともに支援しています。さらに1916年1月には、朝日新聞紙上に「点頭録」を連載し、第一次世界大戦に揺れる欧州諸国に目を向けて、軍国主義の危険性を鋭く指摘してもいるのです。『明暗』を、こうした漱石の意識と無関係に論じることはできません。

 ところが、『明暗』の物語世界が一見したところもっている複雑きわまりない構造に気をとられてしまうと、作者の死による中断という物語世界の外からの事実を、物語世界の内部の展開にまで押しかぶせてしまうことで、片付かなさの追究という側面に過度によりかかった解釈が生み出されることになってしまうのです。しかし、作者の死によって中断されたという事実と、本質的な意味での作品の未完結性とは、混同することなく一応は区別して考えていく必要があります。

 『明暗』は、自らの死を意識しつつあった漱石が、文学者としての闘いの集大成という強い意気込みをもって、最後の力を振り絞って書き連ねられていった作品です。このような作品において、片付けようとする意志がどのように働いているかということを問うことなし、その物語世界の複雑な構造、複数の問題系の有機的な絡み合いを的確に把握することはできませんし、漱石の思想的な到達点をあきらかにすることもできません。本稿では、『明暗』において片付けようとする意志がどのような形で働いているかという視点から、その構造を読み解くことを試みていくことにします。
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 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
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 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する