2016年07月25日

夏目漱石の中・長編小説を読む(13/16)

(13)『こころ』――「明治の精神」に殉じて新世代に希望を託す

 前回は、いわゆる後期三部作の第二作にあたる『行人』を取り上げました。これは、基本的には、長野二郎という語り手の視点から、苦悩する兄・長野一郎の姿を描いた作品であり、そこには、同僚である大学教員・Hさんが観察した長野一郎の姿が立体的に重ねられていました。二郎からみた一郎は、妻との関係に悩む1人の家庭人であり、同僚であるHさんからみた一郎は、主観と客観の関係に悩む学者です。長男として甘やかされて育った一郎は、周囲の全てのものごとが絶対的存在たる自己の思い通りになるべきだ、というわがままさを把持し、それを哲学的思索によっていわば理論武装していたのですが、自分の思い通りになって当然であったはずの妻が思い通りにならないことから調子を狂わせてしまい、自分(主観)と世界(客観)との関係に根本的に苦悩することになったのだ、ということでした。

 さて、今回は、いわゆる後期三部作の最後を飾る『こころ』を取り上げることにしましょう。これは、1914年(大正3年)4月20日から8月11日まで、「朝日新聞」に「心 先生の遺書」として連載されたものです。

 この『こころ』は、漱石作品のなかでも特に有名なものですので、内容についての詳しい説明は必要ないでしょうが、ごく簡単にまとめるならば、「私」が鎌倉で出会った「先生」と親しくなり、交際を深めていくなかで、先生の過去を聞かせて欲しいと強く迫った結果、先生は「遺書」という形で(自ら命を絶つことと引き換えに)、かつて恋愛観関係のもつれから親友を裏切って自殺に追い込んでしまったという壮絶な暗い過去を明かす、といった物語です。

 そもそも「私」が先生と関わりのある過去を回想しながら筆を執るという設定が冒頭で明示されており、先生の遺書についても、相当に過去の出来事を回想してのものであることは明らかです。『彼岸過迄』や『行人』もまた、語り手が過去を回想するという形式でしたが、『こころ』では、語られる過去の出来事とそれらを語る現在との時間的な隔たりが、これら先行2作品とは比較にならないくらいに明瞭に打ち出されており、どことなく静謐な雰囲気が漂っているといえます。

 この作品をめぐっては、やはり何といっても、先生はなぜ自殺をしたのか、ということが決定的な問題となるでしょう。この問題をめぐっては、「先生と遺書」第12章において、「金に対して人類を疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかった」とあるところが大きなヒントとなるのではないかと思われます。先生は、両親の遺産を叔父に騙し取られてしまったという経験から、金に関して他の人間は信じられないという認識を抱くようになっていたものの、この段階ではまだ、愛については人類を疑っていなかった、すなわち、愛のために人間が卑劣な行動に及ぶことがあるなどとは思っていなかった、ということです。

 そうであるにもかかわらず、ほかならぬその先生自身が、やがて「お嬢さん」への愛をめぐって、親友Kを裏切るような卑劣な行為に及んでしまったのでした。その結果として、先生は、他の人間のみならず自分自身までもが信用できなくなってしまったのであり、また、そのような自分の苦しみを理解してくれる人が1人もいなかった(妻となった「お嬢さん」に全てを打ち明けて苦しみを共に背負ってもらうようにする勇気もなかった)ことによって、極限まで追いつめられてしまったわけです。端的には、愛において親友を裏切るという「罪悪」――「先生と私」第12章において、先生は「恋は罪悪ですよ」と語っています――を犯してしまった結果、自らの命を絶たざるを得なくなる方向へ、大きく歩みを進めてしまったのだ、ということです。

 この問題に絡んで、そもそもKはなぜ自殺してしまったのか、ということも考えておく必要があるでしょう。「先生と遺書」第53章の最後の部分で、先生はKの死因について、次のような考察を行っています。

私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極きめてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。


 このように、先生は、Kが「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決した」のではないか、と疑っているわけですが、このことを、もう少しKの具体的な言動に即して考えてみることにしましょう。「先生と遺書」第42章において、先生は、Kのお嬢さんへの恋心と、道のために精進するというKの人生観との矛盾を打算的に追及します。ここで、Kは「覚悟、――覚悟ならない事もない」と述べていることが注目されます。ハッキリいえば、Kは既にこの時点で(漠然とであれ)自殺を選択肢のひとつとして考え始めていたのではないか、とも思われるのです。つまり、自殺の直接のきっかけは、失恋、あるいは先生の裏切りから受けたショックであることは間違いないにしても、より深く突っ込んでみれば、道のために生きるといいながら恋に惑う自身の弱さに煩悶していたことが下地としてあったのだ、と考えることができるのです。

 ここで、検討しておかなければならないのは、「たった一人で淋しくて仕方がな(い)」とはそもそもどういうことなのか、という問題です。これは、端的には、世間体のようなものを気にするあまり、自然な感情を押し隠して形式ばかりを取り繕っているために、他者との間で本当に心から打ち解けた関係を築くことができない、ということではないかと思われます。先生がKに対して、自身のお嬢さんへの思いを打ち明けよう打ち明けようとしながら、なかなか打ち明けられなかったのが、その象徴的なあり方であるといえるでしょう。先生が殉じたという「明治の精神」とは、そのようなものにほかなりませんでした。世間体やそれらしい形式ばかりを尊重して自然な感情の発露を押しつぶしてしまうもの、それが「明治の精神」にほかならなかったのです(*)。

 先生は、「先生と遺書」第29章において、当時の若者たちの間に恋とか愛とかいう問題について具体的に語り合うことをはばかる雰囲気があったことについて触れながら、「比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら、定めし変に思われるでしょう」と付け加えています。ここには、旧世代たる先生から新世代たる「私」への期待、もう少し詳しくいえば、我々の世代を反面教師にして、自然な感情の発露を大切にして良好な(本当に心の底からうち解けた)人間関係を築いていってもらいたい、という期待が込められているのだと思われます(**)。

 自然な感情を押し殺してしまうような「明治の精神」に殉じた先生は、この「明治の精神」の実態を自身の痛切な実体験を赤裸々に語ることを通じて白日の下に晒すことで、自身を次世代にとっての反面教師としようとしたわけです。「先生と遺書」第2章には次のようにあります。

「私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。」
「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です」


 先生にとっては、自身の犯した罪を赤裸々に語るということは、自身の生命と引き換えでなければ成し得ないほどに辛く重い事業でした。しかし、そのことによって次世代に資することができるならば……という決意の上での自殺だったものと思われます。前の世代が解決できなかった問題が次の世代へと託されていくのであり、その過程は命懸けのものにほかならない――漱石の『こころ』は、人類史における世代交代を通じた発展の本質的なあり方を象徴的に描いた作品であるとみなすことも可能なのではないでしょうか。

 若い世代への熱い期待をもって若い世代の魂に語りかけようとするということでは、『野分』の白井道也先生が想起されます。しかし、道也先生が理想を理想として語る高邁な人物として造形されていたのに対して、『こころ』の先生は、同じ先生でも反面教師として造形されています。これは、漱石の7年間に及ぶ作家生活を通じての思索の深まり、有体にいえば、現実世界を変革することの困難さを痛感させられたことの結果にほかならないといえます。

(*)欧米列強の猛烈な圧迫の下で近代国家の形式だけは何とかして整えようと邁進した過程こそが、こうした「明治の精神」そのものにほかならなかった、と捉えることも可能であろう。例えば、明治憲法にしても、外見的には立憲君主制という近代的な形式だけは整えたものの、その中味は半封建的で絶対主義的なものでしかなかったのである。漱石は『それから』の代助に明治日本を「牛と競争する蛙」にたとえさせているし、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生に大和魂を諷刺する詩を書かせてもいる。欧米列強に張り合おうと背伸びするもののそれに見合った内実を伴っていないという明治日本の現実を、漱石が非常に厳しく批判的に見ていたことは明らかである。

(**)『こころ』の冒頭部分で「私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じことである。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない」(「先生と私」第1章)とあることは、大いに注目に値する。ここは先生が遺書のなかで親友に対して「K」などという「よそよそしい頭文字」を使ってしまったことを暗に批判したものとして読めるのである。私と先生との関係は、先生とKのような「よそよそしい」ものではないぞ! ということを宣言したものであり、そうであるとすれば、先生(旧世代)の私(新世代)への期待は裏切られなかった(先生は反面教師としての役割をしっかりと果たした)ということができるかもしれない。
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 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
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 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
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 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
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 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言