2016年07月15日

夏目漱石の中・長編小説を読む(3/16)

(3)『坊っちゃん』――旧時代に依拠して新時代に異議を申し立てる

 前回は、漱石の最初の小説である『吾輩は猫である』を取り上げました。これは、苦しい教師生活のなかで神経衰弱に陥っていた漱石が、気晴らしのために書きはじめたものであり、人間社会のあらゆるしがらみから自由な(したがって無責任な)猫の視点から、自分自身をも含めて人間社会をまるごと笑い飛ばす、という趣の作品でした。猫的な視点で人間社会を捉えてみるという構想は、人間社会の総体に対する自由闊達な批判の可能性を開くものでした。一方で、その批判は、猫的偏見に制約されたものにしかならず、現実社会の変革とは無縁なレベルで空回りするものにしかなりえなかったのです。

 猫的立場では人間社会の諸々の問題を鋭く捉えることができても、それらの問題に対して主体的に働きかけていくことができない――こうした矛盾の解消という課題を担って創作されたものこそ、次作『坊っちゃん』であったといえます。

 『坊っちゃん』は、1906年(明治39年)4月、『吾輩は猫である』と同じく、俳句雑誌『ホトトギス』に掲載されたものです。これは、ごく簡単に纏めるならば、「坊っちゃん」と呼ばれる主人公が四国の中学校へ新任の数学教師として赴任し、生徒たちや教頭などと衝突して様々な騒動を巻き起こす、といったものです。

 本作品でまず注目に値するのは、第1章において、「おやじは些ともおれを可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた」など、親から冷たくあしらわれていたことが強調される一方、「親譲り」ということがしきりに強調されていることです。ここには、親とのつながりを強く求めつつ満たされなかった(それだけにつながりを強調せずにはいられなかった)坊っちゃんの痛切な思いが表現されているといえます。さらに、「母は兄ばかり贔屓にしていた」とあることからして、主人公は「母」の本当の息子ではなかったのだという推測も成り立ち得るでしょう。この点に関わっては、清(坊っちゃんの家の下女)こそ坊っちゃんの本当の母親だ、という説を唱える論者もいますが、その真偽はともかく、清に漱石の理想の母親像が投影されていることは間違いないでしょう。いずれにせよ、坊っちゃんの家庭環境の描写に、漱石自身の複雑な生い立ち、両親(とりわけ母親)への思いが色濃く反映されていることは確かです。

 さて、この作品全体を貫く対立軸となっているのは、坊っちゃんが背負っている(育てられてきた)東京(=江戸)の小社会と、彼の赴任先である四国の田舎の小社会との衝突であるといえるでしょう。もちろん、そうした地域的な小社会という問題に加えて、学校という小社会の問題も重ねられていることを見逃すわけにはいきません。(*)。端的には、「江戸っ子」である坊っちゃんと四国の田舎の人々、あるいは新人教師としての坊っちゃんとベテラン教師たちとでは、育てられてきた小社会が大きく異なることに規定されて、お互いの認識のあり方が決定的に異なっているだけに、坊っちゃんは、四国の田舎の人々のものの感じ方や考え方、あるいは学校という組織体特有のしきたりのようなものに、全くついていくことができていないのです(**)。

 これら小社会から疎外されているということでいえば、坊っちゃんは猫的な立場を継承する者だということもできます。しかし、いうまでもなく、坊っちゃんは、猫ではなく人間ですから、小社会の諸々の問題に対して、主体的に働きかけていくことが可能になってもくるのです。

 坊っちゃんは以下のように考えます(第10章)。

おれは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。ところが実際は大違いである。下宿の婆さんの言葉を借りて云えば、正に大違いの勘五郎である。生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、狡い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。人があやまったり詫びたりするのを、真面目に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿と云うんだろう。あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差し支えない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。


 このように、形式的に片がつけばそれでよし、とする捉え方に激しく反抗する坊っちゃんは、同僚の数学教師である「山嵐」との交流のなかで、諸々の騒動の背後に黒幕として教頭の「赤シャツ」が存在するらしいことに気づかされます。坊っちゃんは、増給をちらつかせて篭絡しようとしてくる赤シャツを断固として撥ね付けます。そして、山嵐と組んで赤シャツに「天誅」を加えることを決意するのです。

 ここで決定的に重要なのは、この『坊っちゃん』においては、四国の田舎あるいは学校という小社会に明治以降の新しい日本のあり方が、東京(=江戸)という小社会に古き良き時代(?)の日本のあり方が象徴されているらしいことです。坊っちゃんは、ことあるごとに江戸っ子としての自負を語り、「人間は竹のように真直でなくっちゃ頼もしくない」として、田舎者の「卑劣な根性」をことさらに攻撃します。『坊っちゃん』とは、端的にいえば、無鉄砲な「江戸っ子」である坊っちゃんが「会津っぽ」の山嵐と組んで、四国の田舎において金力・権力をふるってのさばる「ハイカラ野郎」の赤シャツを打擲する物語にほかなりません。漱石は、坊っちゃんの活躍を通じて、金力・権力が物をいう社会のあり方、形式ばかりに拘泥して中味を等閑にする風潮に痛烈な異議申し立てを行おうとしたわけです。

 しかし、ここで我々が注目しなければならないのは、こうした漱石の異議申し立てが、無鉄砲な主人公が癇癪を爆発させるという形でなされるしかなかった、ということです。山嵐がいくら赤シャツを殴りつけ、坊っちゃんがいくら野だいこ(赤シャツにおべっかを使う画学教師)に生卵を投げつけたとしても、それは確かに痛快極まりないものではありますが、いささかも現実社会を変革する力にはなっていないのです。赤シャツや野だいこは、山嵐と坊っちゃんに打擲されたことで、心を入れ替えて正直な人間になれたのでしょうか。到底そのようには思われないでしょう。山嵐と坊っちゃんが中学校を去った後は、相も変わらず赤シャツや野だいこがのさばり続けたものと考えざるをえないのです。要するに、明治の日本(赤シャツや野だいこ)に戦いを挑んだ江戸と会津の連合軍(坊っちゃんと山嵐)は、確かに相手に一泡吹かせることには成功したものの、最終的には敗北するしかなかった、ということなのです。

 『坊っちゃん』の結末が、このように痛快なものでありながら、どことなく物足りなさを感じさせずにはいないものになってしまったのは、明治日本の批判という課題を担わされた主人公が、江戸っ子としての強烈な自負をもった人物として造形されたからにほかならないといえます。当時の日本社会が抱える諸々の問題点を批判するにしても、それはいわば“古き良き時代”を懐かしむような視点からなされるしかなくなってしまったのです。ここには、新時代をまともに批判する論理を求めあぐねて、結局、旧時代の倫理観に依拠するしかなかった漱石の苦悩を読みとることができます。

 人間社会に主体的に働きかける力を全く持ちえなかった猫に比べれば、坊っちゃんには決定的な優位性があるといえます。しかし、坊っちゃんは、旧時代に依拠して新時代に異議を申し立てるという大きな制約を背負わされていました。現実社会の変革をどのように行っていくのかという課題は、この『坊っちゃん』においても、未解決のまま残されているのです。

(*)この「小社会」とはどういうものか、南郷継正は以下のように説いている。

「人間は社会的な存在です。つまり、社会的な関係の中で生活(生存)しています。ということは、人間誰しもが、その社会(環境)からの反映でもって、育ってくることになるからです。つまり、その社会(環境)が五感覚器官を通して脳に反映され、かつ像を形成し(形成され)ます。ですから、私たちの認識は誰のものでも必ず社会(環境)を反映していますし、反映した(反映された)像しか(当初は)原型として存在しません……社会とはこのばあい、みなさんが生活している(生活できている)範囲の身近な社会、つまり小社会のことです。」(南郷継正『看護学科・心理学科学生への“夢”講義(4)』現代社、p.111-112)


(**)このことに着目した小説として、小林信彦『うらなり』(文春文庫)がある。これは『坊っちゃん』の登場人物の1人「うらなり」(古賀)を語り手とした小説であり、あの事件(とそれ以降の彼自身の人生)を「うらなり」の視点からみればどうなるのかを描いたものである。同一の出来事(対象)が、各人が背負っている小社会が異なるのに応じて、全く異なって反映してくることが浮き彫りにされており、興味深いものがある。
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 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言