2016年07月14日

夏目漱石の中・長編小説を読む(2/16)

(2)『吾輩は猫である』――「猫」的視点からの人間社会への批判

 本稿は、漱石が後世に託した自己の理想を現代に生きる我々はどのように受け止めるべきなのか、という観点から、漱石の中・長編小説を順番に読んでいくものです。

 今回は、漱石の最初の小説である『吾輩は猫である』を取り上げることにしましょう。これは、俳句雑誌『ホトトギス』に、1905年(明治39年)1月から1906年(明治40年)8月まで、全11回にわたって掲載されたものです。

 漱石は、文学とは何かをつかみあぐねて煩悶をきわめた英国留学から帰国した後、衣食のための苦しい教師生活を余儀なくされるなかで、神経衰弱に陥ってしまいました。そうしたなか、友人であった高浜虚子に勧められて、気分転換のために書き上げたのが、この『吾輩は猫である』でした。これは、もともと第1回のみの読み切り作品のはずでしたが、読者に大変な好評を博したために、全11回にわたって連載されることになったのでした。

 この『吾輩は猫である』は、端的にいえば、中学校の英語教師である珍野苦沙弥先生の家に迷い込んで飼われることになった猫(「吾輩」と自称します)の視点で、苦沙弥先生とその華族、友人や門下生たちなどの姿を風刺的に描いた作品です。いうまでもなく、苦沙弥先生は漱石自身がモデルになっています。

 『吾輩は猫である』は、非常に滑稽な作品であり、笑うことなしには読めないものです。総じていえば、どうでもいいようなことを大仰な文体で、それも猫の発言として書いてあることが、何ともいえぬ面白さを醸し出している、ということができます。例えば、近所の実業家・金田の邸宅に「忍び込む」ことについて、猫は以下のように弁解しています。

元来吾輩の考によると大空は万物を覆うため大地は万物を載せるために出来ている――いかに執拗な議論を好む人間でもこの事実を否定する訳には行くまい。さてこの大空大地を製造するために彼等人類はどのくらいの労力を費やしているかと云うと尺寸の手伝もしておらぬではないか。自分が製造しておらぬものを自分の所有と極める法はなかろう。自分の所有と極めても差し支えないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。この茫々たる大地を、小賢しくも垣を囲らし棒杭を立てて某々所有地などと劃し限るのはあたかもかの蒼天に縄張りして、この部分は我の天、あの部分は彼の天と届け出るような者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。如是観によりて、如是法を信じている吾輩はそれだからどこへでも這入って行く。(第4章)


 「吾輩」を自称する猫は、このように一丁前の議論を展開するのです。猫のくせに何を偉そうに! という感じで、読者の笑いを誘わずにはいません。

 18世紀スコットランドの哲学者アダム・スミスは、『修辞学・文学講義』において、滑稽さが生成してくる構造として、「卑小な対象が壮大とみなされて提示された場合」に加えて、「壮大なもの、またはそのようなものとして装ったり期待されたりしたものが、卑小卑賤さを内包していることを暴露されて嘲笑される場合」を挙げています。このスミスの議論を踏まえていうならば、猫という「卑小」な存在が「壮大」な哲学的議論を展開したり、猫の視点からの描写によって「壮大」を装おうとする人間たちの「卑賤卑小さ」が暴露されたり、という両方の側面から、『吾輩は猫である』の滑稽さが醸し出されている、といえるでしょう。

 ここで指摘しておかなければならないのは、「吾輩」などと気取った自称をするこの猫は、漱石の分身にほかならないのだ、ということです(*)。猫の饒舌な語りは漱石の深い教養に裏打ちされたものであり(例えば、先の引用文で、労力を費やすことと所有権とのつながりに触れているのは、ジョン・ロックの議論を念頭に置いたものであると思われます)、諸々の冗談が冴えに冴え渡っている感があります。そうしたなかでも、とりわけ注目に値するのは、猫による人間観察という滑稽さの陰に隠される形で、漱石自身の痛烈な社会批判が展開されていることです。漱石は、猫の視点――人間社会を外側から眺める視点――を借りることによって、社会のあり方を、何ものにも囚われず、縦横無尽に、批判しつくす自由を獲得したのだといえるでしょう。端的には、猫的な視点によって人間社会を総体として批判するということこそ、『吾輩は猫である』の趣意である、といえるのです。

 このことに関わっては、大きく2つのことを指摘しておく必要があります。

 第一は、猫的な視点によって批判される人間社会の中心には、当然のことながら、苦沙弥先生、すなわち漱石自身が位置づけられている、ということです。漱石は、猫の視点から、自分自身を客観的に見つめて批判しているともいえるわけです。少し論理的にいえば、『吾輩は猫である』は、作者である漱石が、観念的な自己としての猫の立場から現実的な自己を批判する、という構造をもっているのです。例えば、第2章において、苦沙弥先生宅を訪問した迷亭(友人)、寒月(門下生)がそれぞれに面白おかしい話をした後で、苦沙弥先生もまた何か話をせずにはいられなくなった、という情景を報告した上で、猫は以下のように語ります。

吾輩の主人の我儘で偏狭な事は前から承知していたが、平常は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐しいと云う感じもあったが、今の話を聞いてから急に軽蔑したくなった。かれはなぜ両人の話を沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すれば何の所得があるだろう。エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜のごとく風に吹かれて超然と澄し切っているようなものの、その実はやはり娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒している俗骨共どもと一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。


 この猫による苦沙弥先生批判、すなわち漱石の自己批判は、滑稽でありながらもなかなか辛辣なものがあるといえます。強烈な自負心をもった漱石は、猫的な視点を借り、滑稽さの陰に隠れる形においてはじめて、自己を批判的に見つめることができた、という側面があるものと思われます。

 第二は、『吾輩は猫である』の滑稽な世界には、金力・権力の横暴や小刀細工を忌み嫌う漱石の人間観・社会観が色濃く反映させられている、ということです。『吾輩は猫である』には、苦沙弥先生宅の近所に住む実業家の金田とその細君が登場します。物語の後半は、金田夫婦が、自分たちの相応の敬意を払おうとしない苦沙弥先生に対して、あの手この手で嫌がらせを行い、これに対して苦沙弥先生が癇癪を爆発させる、という展開になっていきます。こうしたなかで、実業家の金田らは、猫的な視点によって、徹底して嘲笑的に扱われていくことになるのです。卑小な存在であるはずの猫の視点から、ことさらに自らを大きく見せようとする金持ちたちの卑小さが暴露される、という構造によって、金力・権力の横暴に対する鋭い批判が展開されている、ということもできるでしょう。

 以上のように、猫的な視点による人間社会総体の批判には、漱石自身の自己批判、および、金力・権力の横暴に対する批判という2つの重要な要素が含まれているわけです。これは漱石の思想の表現という観点からして、注目に値する積極的な要素であるといえるでしょう。しかし、同時に、こうした積極的な要素は、あくまでも猫的な視点から、滑稽さの陰に隠されるような形でしか展開されえなかった、という限界もみておく必要があるのです。

 漱石の自己批判は、なかなか辛辣なものではありましたが、結局のところ、滑稽さという枠を出るものではありません。厳しくいえば、真面目さがいささか欠如していると取られても仕方がないのです。金力・権力の横暴に対する批判にしても、人間社会の諸々の事柄を猫的な視点によって批判するというなかにあっては、他の諸々の事柄と同じように(髪形を整えたり、衣服を着たりする人間的な行為と同様のレベルで)猫的な偏見によって批判されているにすぎない、という印象がどうしても付きまとってしまうのです。

 猫の視点とは、いうまでもなく、人間社会の外部からの視点であり、したがって、人間社会における一切のしがらみから自由なものです。しかし、それは裏を返せば、人間社会のあらゆる出来事に対して全く無責任である、ということにもなるのです。人間社会にとっては部外者でしかない猫は、人間社会に主体的に働きかけていくことはできません。そもそも、「吾輩」がいくら立派な(?)議論を展開したとしても、苦沙弥先生以下の人間たちは、彼の言葉を全く理解できないのです。

 『吾輩は猫である』という小説は、神経衰弱に陥っていたという漱石が、教師という苦しい本職の傍ら、気晴らしに書き散らされたようなものであり、無責任な(人間社会のしがらみから自由な)猫の視点から自分自身をも含めて人間社会をまるごと笑い飛ばす、という趣のものであったといえるでしょう。猫的な視点で人間社会を捉えてみるという構想は、確かに、人間社会の総体に対する自由闊達な批判の可能性を開くものではありました。しかし、その批判は、猫的偏見に制約されたものにしかならず、現実の変革とは無縁なレベルで空回りするものにしかなりえなかったのです。

(*)捨て猫としての「吾輩」の境遇には、漱石自身の幼少期の不安定な記憶――生後間もなく古道具屋に里子に出され、その後、塩原家に養子に出された挙句、養父母の離婚で実家に戻されるという波瀾のなかで、実の父母を祖父母だと思い込んでしまうなど、家庭的な温かさに乏しかった――が反映しているとも思われる。さらにいえば、人間社会から絶対的に疎外された猫という位置については、漱石が英国留学で痛切に感じた孤独感、あるいは、自己の高い理想を受け入れようとしない当時の日本社会に対して強烈に感じた疎外感(前回取り上げた「文芸の哲学的基礎」末尾を参照のこと)が反映しているともいえよう。
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 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言