2015年09月05日

2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス(1/10)

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 わが京都弁証法認識論研究会は、一昨年のヘーゲル『歴史哲学』と昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて、ヘーゲル『哲学史』を読み進めていくことを今年と来年の課題としています。ヘーゲルが絶対精神の自己発展をどのように捉えていたのかの大きな流れを掴み、極力それを唯物論の立場から捉え返すことを目指して、ヘーゲル『哲学史』にチャレンジしているところです。

 8月例会では、ソフィスト派とソクラテスについて説かれている部分を扱いました。

 今回の例会報告では、最初に例会で報告されたレジュメを紹介します。ついで、扱ったテキストの要約を4回に分けて掲載したあと、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメと、そのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。


京都弁証法認識論研究会  2015年8月例会

ヘーゲル『哲学史』(中巻の一)
(A ソフィスト派 1 プロタゴラス 2 ゴルギアス/B ソクラテス)
【概要】
 今回の範囲では、ソフィスト派(プロタゴラス、ゴルギアス)とソクラテスについて説かれている。

 まず、全体を貫くキーワードとして、「主観的反省」(p.3)「意識の反省」(p.78)、「反省的意識」(p.101)、というものが考えられる。どういうことかというと、ヘーゲルにおいては絶対精神がまず自然に外化し、そこから再び精神自身へと帰ってくる流れが想定されているわけであるが、この精神自身へと帰ってくる、つまり自分自身が精神であることを自覚することを、これらのキーワードは表していると考えられるのである。そしてこの過程がソフィスト派からソクラテスに至る流れで深められていく、とヘーゲルは捉えているわけである。「思惟の主観性は…精神が客観性から自己自身のなかへ引き返すことであるという規定をもっている」(p.4)というヘーゲルの文言は、この帰還を表している。

 ソフィスト派に関しては、何ものも存在しないという教説や、一切の原則や掟を覆すやり方が非常に評判が悪いという一般的な評価に対して、ヘーゲルはその学問的な意義を考察していく。ソフィストは、単純な概念を世間的な対象に当てはめて考察し、あらゆる人間的な状況に浸透させたのであって、ギリシャが教養(現実に適用された概念)をもつことができたのはソフィストのおかげである、とヘーゲルは説くのである。

 ソクラテスについては、まず、その方法があらゆる市民を相手に問答を行うことによって、信念をぐらつかせ、相手がスタートしたときの見方と逆の見方を承認せざるを得なくなるようにすることであると説かれる。また、ソクラテスの原理が、「思惟的で自己に1つの普遍的内容を与えるところの人間」(p.35)こそが絶対的な基準だということであることも説かれる。つまり、ソクラテスの哲学思想というものは、当時のアテネ国家に鋭く対立するものであり、「新しい世界の幕をあける英雄」(p.124)=「世界史的個人」として、個人的には亡んでいくものの、その原理は世界精神の姿へと高められる、とヘーゲルは考えているのである。

【1】ソフィスト派
 ソフィスト派において、一切の事物、一切の存在、一切の固定的と思われたものが揺らぎ始め支えを失う。ソフィスト派は、単純な概念を思想として一般に世間的諸対象に当てはめ、あらゆる人間的な状況に浸透させた。絶対的かつ唯一の本質として自覚した概念が、その否定的な力をあらゆる真理、諸法則、諸原則に向けて、普通の観念にとって固定したものが思想の中で融解させられるのである。

 教養とは、現実に適用された概念にほかならないが、この教養をギリシャがもつことができたのはソフィスト派のおかげである。ソフィスト派は、世の中における力とは何かを主題として教説を行った。人間の有する衝動と欲求が力となったとき、世の中の事態はこれらの力次第でどうにでもなることを教えたのが能弁であって、ソフィスト派は、ひとつの事柄について様々な見地を採り出し、その中で自分に最も有利と見えるものと連関した見地を貫徹したのである。

 ソフィスト派の欠陥は、自由な思惟的な反省の必然的な歩みによって、現に行われている習俗と宗教への信頼と素朴な信仰をのりこえさせずにはいなかったにもかかわらず、思惟のうちにまだどのような確固たる原理も見出されていなかった点にあり、無規定のままに残ったところは恣意によってのみ満たされることができたことである。

<報告者コメント>
 悠季真理『哲学・論理学研究』では、ソフィスト派の登場の歴史的必然性について、有力貴族が裕福な資産階級となった民衆を1つにまとめて掌握する、統括するためには、単に家柄の良さ、権威、力づくでは不可能であって、ここに民会や評議会での弁論術の重要性がでてきたのであるが、この弁論術を教えるためにこそソフィスト派が登場してきたのだということが説かれている。ここでは、ソフィスト派が歴史に登場してきた必然性を、当時の社会のあり方から説明しようとする非常に唯物論的な視点が貫かれている。

 これに対してヘーゲルの把握はどうかといえば、絶対精神が一度自然に外化した後、再び自分自身に帰ってきて、自分自身が何者であるかを自覚し始めるという「主観的反省」がソフィスト派で始まったのであり、このことにより、世界の原理は人間自身にあるのだという結論に行ったことがソフィスト派の特徴であると説かれているものの、社会情況や世界歴史とのつながりにおいてソフィスト派の登場を説けていないのである。せいぜい、絶対精神はそういう過程を辿ったのだ、と強弁するくらいであるといえる。

 我々は、こうしたヘーゲルの論について、全てを破り捨ててしまってはならないのであって、観念論の立場で把握された高みをしっかりと味わうとともに、筋を通し切れていない部分を唯物論の立場で論理的に展開するとともに、絶対精神の自己運動という形で説かれている世界のあり方を、社会的認識の発展過程として唯物論的に説いていく必要があるである。

【2】プロタゴラスとゴルギアス
 プロタゴラスは、彼の知の根本命題を「あらゆるものについての尺度は人間である」と言い表した。さらにプロタゴラスは、存在するものは意識に関係づけられるにしても、意識の固定的要素にではなく感性的認識に関係づけられるのであり、またこの意識そのものは1つの状態、すなわちそれ自身、移ろいゆくあるものであると考えた。こうしたプロタゴラスの反省はなかなか大したものであって、プロタゴラス自身において意識されるに至ったものは意識への反省である。しかし、世界が現象であるのは、ただそれが意識に対して存在するからというだけではなく、世界はまたそれ自体としても現象なのであって、それだけとして孤立して現われる場合には、それは一面的である。

 ゴルギアスの弁証法はエレア派のやり方を承けていた。彼の優れたところは、存在および非存在という全く普遍的な諸カテゴリーに関するその純粋な弁証法であって、しかもそれはソフィスト派のやり方によったものではない。ゴルギアスの弁証法は、プロタゴラスの場合に見られたものよりももっと純粋に諸概念のなかで動くものである。ゴルギアスの弁証法は、その著「自然について」のなかにまとめられており、第一部においては、(客観の面では)何ものも存在しないことが証明され、第二部においては(主観の面で)たとえ存在があると仮定してもそれは認識されないことが証明され、第三部においては(主観的にも客観的にも)たとえそれが存在していて認識しうるものであったにしても認識したものを伝えることは不可能であることが証明されている。

<報告者コメント>
 ソフィスト派が行った推論的思惟は、「観点と理由からする考察」(p.25)だとヘーゲルは述べているが、これはつまり、自分自身に都合のいい観点なり理由なりを見出し、その視点で対象のある側面を恣意的に捉え、その側面を絶対化して弁論を展開していく、ということだろう。端的には、「あらゆるものについての尺度は人間である」ということであって、普遍的な基準はないのだ、ということではないか。より露骨にいえば、「物はいいよう」ということだろう。

 しかしヘーゲルは、こうした一見詭弁とも思えるソフィスト派に対して、一定の評価を与えている。具体的には、プロタゴラスに関しては「意識への反省」(p.39)を大きく評価し、ゴルギアスに関しては「存在及び非存在という全く普遍的な諸カテゴリーにかんするその純粋な弁証法」(p.41)が「全く客観的な性のもの」(p.43)であることが優れているとされている。プロタゴラスに対する評価については、ソクラテスにおいて「それ自身を本質存在として知ることが始ま」(p.78)ったとされる「意識」、つまり人間の精神に着目し始める契機となったことが評価されているのだろう。アナクサゴラスにおいて把握された観念的な原理である「ヌース」が人間の精神として把握し直されたともいえよう。ゴルギアスに対する評価については、現象として感覚的には存在するように見えるものも、本当は論理的に捉えるならば存在しないのだ(この論法は「ゼノンの絶対矛盾」と同様である)、というゴルギアスの説が、表象と存在とを明確に区別し、人間が認識できる感性的存在には真理がなく、思惟の世界において捉えることができる存在にこそ真理があるのだとしたことが評価されているのであろう。

【3】ソクラテス
 ソクラテスにおいて思惟の主観性はもっと詳しく規定され、もっと突っ込んだ形で意識されるに至った。ソクラテスの哲学の主要内容は、善を絶対的なものとして認識するという実践的なものであり、それと同様にこの方法にも各人に自己の義務について反省させるようにするという独自なものがあった。あらゆる市民を相手に、彼らの特定の関心事を取り上げ、そこから転じて、普遍的なもの、絶対的に妥当する眞と美を考えるところにもってゆく。この方法は、信念がすでにぐらついて人々が存在するものを自己自身のうちに求めざるを得ないようになった後に、人々の心のなかに彼らの全体に対する不信を注ぎ込むところにある。また、各人の意識のうちにすでにそれ自身含まれているところの思想を生み出す手助けをする術でもあった。このやり方の成果は、相手がスタートした時の見方と逆の見方を含むようなことを承認せざるを得ないようにもってゆくことである。

 ソクラテス的原理に関する第一の規定は、意識は自己自身のうちから真なるものを汲み取るし、またそこから汲み取らなければならないということである。われわれは、ソクラテスが普遍的なもの、絶対的なものを意識のなかに各人がみずから自己の直接的本質として見出す術を教えるのを見るのである。世界の精神は、ここでひとつの反転を開始し、それ自身のなかへの意識の反省〔折り返し〕、意識がそれ自身を本質存在として知ることが始まる。意識のそれ自身のうちへの連れ戻しは、人間は何ものをも学ぶことができないという形で現れる。善は外に由来するのではなく、精神の本性のうちに含まれているのである。ソクラテスにあって特殊な掟がぐらつくようになってから、ギリシャ人において習俗による無意識的規定であったところの普遍的な唯一の精神は今や、自己決定をする個体としての個的な精神にとって代られる。

 ソクラテスの運命は死罪をもって終わるのだが、ソクラテスの告発者の頭の中では、彼は神聖不可侵なものの非絶対性を教えた人間であった。告発は、アテナイ族が神々とみなすものを神々とみなさず、新しい神々を導き入れたということ、及び青年たちを誤らせるということからなっていた。ソクラテスはアテナイ生活を2つの基本点において攻撃し、毀損していたわけであり、ソクラテスは有罪とされるほかなかったのである。ここに彼の運命の第二側面が始まる。アテナイの掟によれば、裁判官たちが被告の有罪を宣した後、被告は原告側の求刑に対して刑の軽減を含む何等かの逆評価を対置する自由をもっていた。ところがソクラテスは、逆評価をやれば何らかの罪を認めたことになるとして、自分の刑罰を決めるのを拒んだ。ソクラテスは自己自身に確信を持つ精神の原理を意識的に表明した英雄である。しかし、ギリシャ世界はまだこの主観的反省の原理を容れることができなかったのであり、ソクラテスの原理はひとつの犯罪とみなされた。およそこのようなのが、新しい世界の幕を開ける英雄たちの世界史における位置である。彼らは強引に旧来の掟を破る者として現われ、個人的に亡んでゆくが、しかし刑罰によって抹殺されるのはただ個人のみであって原理ではなく、原理は後に世界精神の姿へみずからを高めたのである。

<報告者コメント>
 悠季真理『哲学・論理学研究』では、「統治者たる賢人の“考え”に対して、“教え”に対して、これまでは絶対レベルで服従するのが当然の社会であったのが、そこに「え? なぜだ」「なぜそうなるのか?」「そうではないはずだ……」と疑問を呈し始めたのがソクラテスであったのである。」(p.170)と説かれている。これはどういうことかというと、社会的認識が大きく発展していって、その結果、これまでポリスの習慣や掟などといった規範に無意識的に従っていた人々の中から、そうではなくて、そうしたあり方に疑問を呈するような認識が芽生えてきたのであって、ソクラテスの登場はこうした社会的認識の発展の先鋭化の現れである、ということである。また、こうした社会的認識が登場してきた背景についても説かれていて、端的には、敗戦によって疲弊しきった社会情況が市民の不満を募らせたのだということであった。これも非常に唯物論的な把握だといえると思う。

 一方、ヘーゲルの理解はどうかというと、ソクラテスをいわゆる「世界史的個人」と捉え、既存の法律や制度という「理性的意志」と大きく衝突を起こすことによって、新しい時代を切り開いていくような一般的理念を自分自身の個人的目的の中に潜在させていた(無自覚ながらも「理性的意志」を「主観的意志」として把持していた)という流れで把握しているのである。これはこれで、ヘーゲルの「歴史哲学」(観念論的な歴史の把握の仕方)が貫かれているといえるが、しかし、なぜこの時期にソクラテス的問答が始まったのかといえば、やはり、せいぜい「絶対精神」の発展段階がそうであったから、つまり「絶対精神」とはそういうものだ、という説明しかできないであろう。

 ソクラテスに関して忘れてはならないのは、「弁証の方法」としての「弁証法」がハッキリと形となって現れてきたことであろう。これまでは、ソフィストの説明をいわば「鵜呑み」にする形で認識の発展が図られていたのであるが、ソクラテスの登場により、対話者である両者の認識が相互浸透する形で認識の発展が図られるようになったのである。この形態が加速度的に認識を高めていって、プラトンにおける集団的合宿生活においてさらに発展した形態をとりながら、「論理」というものが見え始めるまでに認識が発展していったのである。激しい討論を経る過程で、互いの認識が相手に何とか自分の言いたいことを分からせようと努力し、たとえ話や抽象化・具体化という「のぼりおり」をはさみながら、「事実」ではない事実の間に横たわる一般性としての「論理」が把握でき始めていくのである。我々も、こうしたソクラテスに始まる人類の系統発生における論理能力向上の過程を、集団的な討論を通じて、個体発生として辿り返す必要があるだろう。


 このレジュメに対して、他のメンバーからは、概要が最初に書かれている点、報告者コメントがしっかりと書かれている点がよいというコメントがありました。また、内容的にも比較的うまくまとめられているということでした。ただ、レジュメとしては分量が多すぎるので、そこをもっとコンパクトにまとめる必要があるのではないか、という意見も出されました。
posted by kyoto.dialectic at 08:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック

<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史