2015年06月17日

2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派要約@
(3)ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派要約A
(4)ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派要約B
(5)ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:ヘーゲルの言う「郷土性」とはどういうことか?
(8)論点2:イオニア派の意義と限界は?
(9)論点3:ピュタゴラス派の功績と限界は?
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、一昨年のヘーゲル『歴史哲学』、昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて、今年からいよいよヘーゲル『哲学史』に挑戦してきています。来年末までかけてこの著作を通読することで、ヘーゲルの説く哲学史を理解することはもちろんのこと、それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた第一歩を確実に歩んでいくことを課題としているわけです。

 5月例会では、ヘーゲル『哲学史』のギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

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京都弁証法認識論研究会 2015年5月例会
ヘーゲル『哲学史』「第1部 ギリシア哲学史」序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派

1、ヘーゲルはギリシアにおいて哲学がスタートした前提をどう説くか
 ギリシア哲学史の序論部分で、ヘーゲルは、ギリシア人が「自分の世界を自分の故郷とした」として、それを「郷土性」という言葉で特徴付けている。もちろん、ヘーゲルは、ギリシア文化がエジプトなどの「異国的起原」を持つことは認めるが、ギリシア人がそれを「ほとんど抹殺し、変更し、加工し直し、転換し、それから全くちがったものを作り出した」と強調するのである。そこから、ヘーゲルは、ギリシアについて追究する際には、その異国的起原にまで遡らず、ギリシアの内部に視野を限ったとしても大丈夫だ、と説く。さらに、このようにギリシア人が「自分の世界を自分の故郷とした」点にこそ、哲学がギリシアで発生した根拠もあるのだ、と説いていくのである(哲学はまさに自分の処〔絶対精神の自身についての自覚〕を故郷とするものだから)。
 ただし、ヘーゲルは、「単に自分(精神)から出発し自分(精神)の中にある」という近代ヨーロッパにおける抽象的原理(個人としての自覚)に比べれば、ギリシアの原理には東洋的要素(精神的なものと自然的なものとの統一)が残っていることを指摘する。ギリシアにおいては(精神は自然からまだ完全には自立しきっておらず)、自然と精神とが精神の主導性のもとに統一されることで両者の調和した美を形成している、というのである(これは、共同体から独立した個人としての意識が未成立である、ということでもあろう)。東洋においては、精神的なものと自然的なものとの統一によって巨大な崇高さ(節度のない実体の力)が出現したが、ギリシアにおいては、より精神が優位に立っていくことで、これが節度のある限定されたものとなり、自分(精神)の単純な心に還元された。この「単純な心」こそ、哲学が発展していく沃土の源泉となったのだ、という。
 ヘーゲルは、ギリシア哲学の始まりは紀元前6世紀、小アジアのイオニア自由国家の没落期である、とする。リュディアやペルシャなどの侵略で自由が破壊されると、多くの住民が他地域に逃れてヨーロッパ中に植民地をつくった。この頃、ギリシア本土においては古来の王族の支配が衰退し、法律的規定や制度によって自由を確立しようという要求が高まって来た。血統によって支配者となるのでなく、才能、想像力、学問によって尊敬を受ける多くの個人(いわゆる「七賢人」など)が登場してくる、というのである。
 なお、ヘーゲルは、ギリシア哲学史を以下の3つの主要な時期に区分している。
 @タレスからアリストテレスまで。自然的(感性的)形態の抽象的思想から具体的に規定された理念まで。
 Aローマ世界のギリシア哲学。具体的理念が対立の形をとって展開(ストア派、エピクロス派、懐疑派など)。
 B新プラトン哲学。対立が一個の思想世界に退却して総体性となるが、主観性は欠けている。

【報告者コメント】
 ここでは、ヘーゲルが、古代ギリシア文化を「郷土性」という言葉で特徴づけているのが注目される。ここからは、ヘーゲルが、ギリシア文化の「異国的起原」を意図的に軽視し、オリエントからギリシアへの強い影響をできる限り小さく描こうとしていることがありありと感じられる。このあたり、厳しくいえば、ヘーゲルの西洋中心主義というか、東洋を蔑視するような視線を感じさせられるものではある。
 しかし、こうした捉え方(ギリシアとオリエントとの断絶性の強調)は、唯物論の立場からは否定されるべきであろう。唯物論の立場からすれば、物質的あるいは精神的な「生活の生産」の過程で、古代ギリシアが古代オリエントと密接な交通関係を築いていたことが何よりもまず注目されなければならないのである。古代ギリシア文化は、こうした古代オリエントとの交通関係のなかで形成されていったものであり、古代オリエントからの圧倒的な影響(古代ギリシアの側からいえば、古代オリエントの繁栄への強烈な憧れ)を無視して、古代ギリシア文化について論じることはできない。それは、古代ギリシア哲学についても同様であり、あくまでも古代オリエントとの深い繋がり(ヘーゲルのいわゆる「異国的起原」)を見ていかなければ、古代ギリシア哲学史の把握が歪みかねない、といえよう。

2、ヘーゲルはイオニア派の意義と限界をどのように論じたか
 ヘーゲルは、ミレトス人のタレスの「水が絶対的なもの(原理)である」というタレスの命題から哲学は始まる、とする。ヘーゲルは、タレスの命題において、水という自然形態(諸々の自然物のなかでも形態らしい形態がなく単純なもの)において普遍的なもの(一者)が把握されている(把握されつつある)、すなわち、ここでは水は単なる自然物ではなく思想的な存在(概念)としての性格をも持つものとなりつつある、と捉えているようである。アナクシマンドロスにおける「無限定なもの」、アナクシメネスにおける空気についても、同じ様に捉えられているといってよいであろう。
 ヘーゲルは、イオニア派におけるこうした「絶対的なもの(原理)」の考察をめぐって、「あらゆるものの中に普遍的実体を把捉していること」「この実体は形態なく感性的表象を伴わないものであること」について、重要な功績を認めている。分かりやすくいえば、千差万別の諸々の事物は全て何らかの普遍的なもの(一者)の現れに過ぎないと把握した(万物をひとつの原理で括った)上で、その普遍的なもの(一者)は感性的な形態を持たないもの(感性的形態を持った単なる物質とは異なるもの)とされている、ということであろう。
 一方で、ヘーゲルは、これら哲学者の原理が(そうはいっても)物質的であり「非物体的なものの面は観過し、対象を概念として示さない点」「これらの哲学者たちが運動の原理を探求しなかったこと」を欠点として指摘する。分かりやすくいえば、彼らは「絶対的なもの(原理)」が感性的な形態を持った単なる物質ではないことに気づき始めたものの、かといって物質的なものではなく精神的なものなのだ、という結論にスパッと到達しきれなかったために、非物質的なものを把握し損なってしまったということであり、水や空気といった「絶対的なもの(原理)」から如何にして多種多様な形態を持った諸々の存在が成立させられてくるのか、まともに論じることができなかった、ということであろう。

【報告者コメント】
 ヘーゲルは、タレスによって、水が「絶対的なもの(原理)」である、という命題が打ち立てられたと捉え、これによってこの世界の本質が一者(普遍的なもの)であることが明らかになったが故に、哲学はここからスタートしたのだ、という評価を与えている。これは、「絶対的なもの」(この世界の本質)は水であるとしたことは、この世界の本質は絶対精神であるという正解(哲学が到達すべき目標)へと向かう確固たる第一歩であった、という位置づけから、そのようにいわれることになるのであろう。
 しかし、唯物論の立場からは、タレスの命題をそのようなレベルの高いものとしてとらえることが妥当なのかどうか問われなければならない。『学城』第4号(2007年)の悠季真理論文(「古代ギリシアの学問とは何か(4)」)を踏まえれば、海運都市ミレトスの政治指導者であったタレスにとっては、ポリスの維持発展にとって水をどう扱うかということこそが死活的に重要な課題であった。だからこそ、水こそが全てを決定する、というような認識になったのだといえるだろう。重要なのは、この「全て」というのも現代の我々がイメージする「全て(万物)」などとは全く異なり、政治指導者として対処しなければならない諸々の現実をひっくるめて「すべて」というレベルのものであったと考えられることである。タレスの認識は、このような現実の必要性(自然と対峙しながらポリスを維持発展させていかなければならない!)に大きく規定されたものであり、抽象的に「この世界の本質とは?」と問うようなものではあり得なかった。したがって、タレスの命題を、ヘーゲルのように「絶対精神」のような本質レベルのものであるかのように捉えてしまうのは深読みに過ぎる、というべきなのであろう。
 認識は対象の反映として成立する、という唯物論の立場からすれば、タレスが如何なる現実に対峙し、如何なる問いかけによって如何なる反映を得たのかという角度から、水こそが絶対的なものである、という認識に到達した必然性を説くことができる。これに対して、観念論者たるヘーゲルにおいては、タレスがそのような命題に到達した必然性が解けないのである(せいぜい絶対精神の成長段階としてそうなのだ、というほかない)。この点こそ、ヘーゲルがタレスの過大評価に陥ってしまった所以といえるのではないか。

3、ヘーゲルはピュタゴラス派の意義と限界をどのように論じたか
 ヘーゲルは、「ピュタゴラス哲学は実在哲学から知性の哲学〔観念の哲学〕への推移の役目をする」という。具体的には、以下の2点が前進点として挙げられている。第一には、イオニア派が原理(絶対的なもの、世界の本質)を物質的なものとして把握してしまったのに対して、ピュタゴラス派が数を根本原理とすることにより、原理(絶対的なもの、世界の本質)を思想的なもの(物質的なものではなく精神的なもの)として把握する方向へ(より具体的にいえば、プラトンのイデア論へと向かって)大きく歩みを進めた、ということである。第二には、イオニア派の原理が無規定なもの(ただ漠然とそれ自身で存在していて運動性を持ちえないもの、他の形態に転化した上で元の形態に復帰して自身を規定する〔自身の何たるかを明らかにする〕といったことができないもの)であったのに対して、ピュタゴラス派の数の原理は規定性をもつということである。数が規定性を持つ、というのは、一というのは(他者を排した)自己同一であり、二は(自己と他者との)対立である……といったことであろうと思われる。
 しかし、ヘーゲルは、ピュタゴラス派においては、一から二以降の数字への進展がどのように行われるのか、いささかも説明されておらず、諸々の数字が独断的な方法で発見されているだけだ、と批判している。

【報告者コメント】
 ヘーゲルは、ピュタゴラス派が原理(世界の本質)は数である、としたことについて、原理を物質的なものから精神的なものとして把握していく流れを大きく押し進めたものとして、高い評価を与えている。しかし、唯物論の立場からすれば、ピュタゴラス派が数を原理としたとはそもそもどういうことなのか、まずはそこから問題にしていかなければならない、と思われる。南郷継正『武道哲学講義(第二巻)』には、以下のような記述がある。

「現在、ピュタゴラスはあの「三平方の定理」が有名なあまり、数学者とされているが、これは……間違いなのである。……古代ギリシアには幾何(学)=図形(学)はあっても、数字を用いての学はほとんどなかった、ということである。/それだけに、ピュタゴラスを幾何学者ということは可能であっても、文字通りの意味では数学者とは本当はいえない」(『武道哲学講義(第二巻)』pp.213-214)

 古代ギリシアにあったのは幾何(図形)レベルであって、数字を用いた学は(ほとんど)なかった、というのである。ピュタゴラス(派)のいわゆる「数」なるものは、現代人がイメージする数とは大きく異なるのではないか、と考えなければならないようである。当時の認識のレベルにおいて、数というものがどのような意義をもったのか、シュテーリヒ『西洋科学史』の以下の記述は、示唆に富むといえよう。

「私たちも、ピタゴラスの生きていた昔――言語の文法構造や思惟の論理的法則について概念が作られるよりもよほど古いころ――には、“数”が今日よりよほど、具体的な意味を持っていたに違いないことをよく考えてみるがよい。観念と観念にのぼらされている事物との区別、思惟内容と思惟の言語的表出との区別はまだなかった。おそらくまた数と数がその中において、“生起する”実在とも区別されていなかったのである!」(『西洋科学史T』p.146)

 こうした把握は、数ではなく幾何(図形)レベル、という『武道哲学講義(第二巻)』の記述と大きくいえば一致しているといえるかもしれない。
 タレスを筆頭とするイオニア派の哲学は、自然の多様な現象の根底に何があるのか、と問うた。その発展過程は、物質の特定の質を捨象していこうとするものであった。この捨象化をさらに進めていくと、物質の質的な側面が背後に引っ込み、量的な規定性(「数」)が前面に出て来る。大きな流れからいえば、これがピュタゴラス派の段階だといえるのではないか。ピュタゴラス派の根本思想は、自然の諸現象のうちには合理的秩序があるのであって、これらは数的なもの(図形?)によって表現されうる、というものであった、といえるかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上の報告に対して、まず、ヘーゲルの文章をうまくまとめ返していて、非常に分かりやすいレジュメになっているのではないかという指摘がありました。また、このことに関して、報告担当者が「主体的に、ヘーゲルの文章を支配する」という意気込みで執筆したものであることを事前に述べていたことを踏まえて、その積極的な姿勢を称賛する意見もありました。加えて、これまでに学んできた南郷先生の著作やシュテーリヒの文章が引用されており、学びが1つに収斂しているというかつながっているというか、そういう点でも素晴らしいものではないかという発言もありました。一方、ギリシアとオリエントとの断絶性をヘーゲルが強調していることについて、これを観念論的な弱点であると報告担当者が述べていることに対して、この断絶性ということは唯物論的に捉えてもいえることではないか、古代ギリシアでは哲学といえるレベルに人類の認識が量質転化したのであるから、問題は単に断絶しているか否かということではなくて、どういう断絶だと捉えているかということにあるのではないか、ギリシアとオリエントとはどこがどう違うのか、ここをハッキリと世界観として明らかにしなければならないのではないか、といった指摘もありました。このことに関しては、論点を扱う際に検討していくこととなりました。
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 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う