2015年05月20日

2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学

目次
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学@
(3)ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学A
(4)ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学B
(5)ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:哲学とその他の領域との関係をどう捉えるべきか
(8)論点2:哲学史の区分をどう捉えているのか
(9)論点3:東洋哲学をどう捉えるべきか
(10)参加者の感想の紹介


2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学(1/10)
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 本年、わが京都弁証法認識論研究会は、一昨年のヘーゲル『歴史哲学』と昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて、ヘーゲル『哲学史』を読み進めていくことを課題としています。1月例会ではその準備段階として、南郷継正「武道哲学講義X」(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第八巻』)を扱いました。やむをえない事情により、2月例会は中止し、いよいよ3月からヘーゲル『哲学史』に入っていったのでした。

 そして4月例会では、ヘーゲル『哲学史』の「哲学史の序論」の「B 哲学の他の領域に対する関係」「C哲学史の区分、典拠、論述の仕方」および「東洋哲学」を扱いました。

 今回の例会報告でも、最初に例会で報告されたレジュメを紹介します。ついで、扱ったテキストの要約を4回に分けて掲載したあと、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメと、そのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学

【概要】
 今回の範囲では主に、哲学の他の領域に対する関係について、哲学史の区分について、東洋哲学についての3点が説かれている。

 哲学の他の領域に対する関係については、対象と形式の両側面から、特殊諸科学や宗教との関係が説かれていく。端的には、哲学は世界全体を対象とするのに対して、特殊諸科学は有限的な現象を対象としていること、また哲学が思惟的認識によって世界を概念的に捉えようとするものであるのに対して、宗教は表象の形式(感覚的なものを含む形式)によって世界を直観的に捉えようとするものであることが述べられる。

 哲学史の区分については、ギリシャ哲学とゲルマン哲学との二大区分として把握すべきことが述べられる。ギリシャ哲学は理念の展開であり、ゲルマン哲学は精神の展開であるとされる。理念と精神とは、ともに思想の発展段階である点で共通するが、理念には概念の本質的契機である個別性が欠けている点で精神と異なると説かれている。

 東洋哲学については、如何なる哲学的認識もありえないとして、本来の哲学からは除外されている。それでも東洋の宗教的な世界観が哲学に近いというのは、それが普遍的観念の性質が圧倒的に強いからだと説かれる。

【1】哲学の他の領域に対する関係
 哲学史は、民族と時代の一般的性格や一般的状況の一番の頂点を叙述するものであり、哲学はその時代と全く同一である。哲学の詳細な規定を得るために、哲学の他の領域に対する関係を考察する。

 他の領域(特殊諸科学や宗教など)が哲学の原因であるとか、哲学がそれらの根拠であるとかいうことではなく、それらにはすべてに共通する時代の精神を持つものである。

 哲学は普遍的な諸対象を思惟するものであるが、特殊諸科学の対象は有限的対象であり、また現象である。

 哲学と宗教との関係を考察すると、まず、全く普遍的な対象を内容とする点で、共に理性的なものである点で、哲学と宗教とは一致する。しかし、宗教においてその内容を表現する形式は、哲学が内容を表現する形式とは異なる。宗教は感覚的な、直観的な、表象的な意識によって最高の理念を捉えようとするが、哲学では、普遍的な思惟の形式(最も客観的な形式)によってその内容を概念として捉えようとするのである。また時間的継起でいえば、宗教の現象は哲学の出現に先立つ。宗教は哲学を理解することは出来ないが、哲学は宗教を理解することが出来る点で哲学が優っている。

 神話は感性的な表現様式をとるものだから、多くの偶然的で外面的な要素が混入されており、例え含蓄的に哲理がその中に含まれているとしても、哲学史からは除外されなければならない。

<報告者コメント>
 ヘーゲルは、哲学は普遍的対象を問題とするものであって、それも感覚的な把握を越えた概念的な把握において捉えるものであるとしている。この哲学の特徴を明確にするために、特殊諸科学や宗教との異同を論じているのである。

 哲学と他の領域との関係について論じるにあたり、ヘーゲルはその対象とするもの、及びその捉え方(形式)に基づいて、それぞれを分類している。特殊諸科学はその対象が有限的対象であり現象であるが、その捉え方は思惟法則によって対象を捉えるのであり、宗教はその対象が普遍的な対象であるが、その捉え方は感覚的な、直観的な、表象的な捉え方であるとされる。つまり、哲学はその対象において宗教と一致しているし、その捉え方においては特殊諸科学と同様だが、それぞれもう1つの要素は異なっているというのである。

 唯物論の立場から言えば、哲学と特殊諸科学とは共に認識であるが、哲学が世界全体を対象としているのに対して、特殊諸科学は世界のある部分を観念的に切り取って対象としている点が異なる。この点はヘーゲル観念論とも共通するが、ヘーゲルが世界全体とはすなわち絶対精神だとしているのに対して、唯物論では世界全体とは運動する物質であるとしている点が異なっているのである。

 また、唯物論の立場から言えば、哲学と宗教とは、共に世界全体を対象としている点で共通するが、哲学があくまでも現実の世界(対象)の論理構造を人間の認識に掬い上げたものとして創出されるのに対して、宗教はアプリオリに前提した論理(認識)を基にして世界を説明している点が異なる、つまり世界観が異なるのである。ヘーゲルにあっては哲学も宗教も絶対精神のそれなりのあり方だということになるので、概念的な意識で捉えるのか感覚的な意識で捉えるのかの違いだと説明するのである。

【2】哲学史の区分
 哲学とは、普遍的内容として、あらゆる存在であるような思想であるが、哲学が出現するためには自由の意識が必要である。精神が哲学を始めるには、精神はその自然的意欲と素材への沈没の状態とから離脱しなければならなかったのである。それゆえ本来の哲学は、ギリシャ(自由な者の自由な者に対する関係が立てられるところ)に始まる。

 哲学史は元来、ギリシャ哲学とゲルマン哲学とのただ2つの時期に区別すべきである。ギリシャ哲学は思想を理念にまで発展させ、ゲルマン哲学は思想を精神として把捉した。

 ギリシャ哲学においては、@無規定的で直接的な普遍者という実体的規定が、深く自分に入り込んで自分を意識していき、A思惟が自分を把捉して、主観的全体性が始まり、Bこの抽象的な全体性が自分自身をハッキリ区別された規定として打ち立て、C理念が統一され、これらの区別が全体性としてあると同時に概念の唯一の具体的統一の中に消される、という発展段階をとる。

 ギリシャ哲学には、概念の本質的契機である個別性が欠けているため、まだ非現実的なものにとどまっている。理念の両側面、普遍と個別の同一性の中で、自立的な全体性がさらに否定的なものとして定立される必要があった。これはキリスト教の世界で出現した。自分を精神と融和し、そこで自分を認識するという事業は、ゲルマン世界に委ねられているのである。

 近世においては存在と思惟という相対立する両側面は共に全体性として互に根本的に関係しあうものとされ、この2つの対立は理性と信仰との対立という形式をとる。哲学史の出発点は、神が直接的な、まだ発展しない普遍者とされるところにあり、哲学史の目標は、緩慢な世界精神の労力によって絶対者を精神として把捉することであり、その目標は我々の時代にあるのである。

<報告者コメント>
 ここでのポイントは、哲学史の二大区分、つまりギリシャ哲学とゲルマン哲学とは一体どのようなものか、ということであろう。ヨリ具体的には、理念の展開としてのギリシャ哲学と精神の展開としてのゲルマン哲学について論じられているが、それでは理念とはどういうもので、精神とはどういうものなのか、ということになるであろう。

 ヘーゲルは哲学史の全体的な流れについて、絶対精神が自己を知り、自己を展開していく過程として把握している。思想はまず理念として、自然の中から自らを区別するのであるが、その区別したものはまだ普遍的な存在にすぎず、精神として思想が完成するには個別性(個人としての精神の自覚?)が欠けているということである。

 ヘーゲルは絶対精神の発展として哲学史を捉えており、かつ、抽象的なものから具体的なものへと発展していく(徐々に諸々の規定が行われていく)ものとして絶対精神の展開を説いているから、理念と精神というものを比べた場合、精神の方がヨリ具体的な規定を持った存在だとしてヘーゲルは考えているのではないか。

 新プラトン派が、主観的自我の絶滅(自己の感性的・具体的なあり方の否定)という消極的な方法で主観(精神)と客観(自然)の二元論を解消して一元論を打ち立てよう(主観の内部において、抽象的な一者(=神)へ恍惚として溶け込もう)としたことを考え合わせれば、ヘーゲルの言う理念というのは、古代ギリシャ時代の末期に現れた絶対精神(個別具体的な諸々の規定を内に含む普遍者)の萌芽形態であり、これを唯物論的に説明すると、具体的な感覚的な像と抽象的な概念的な像との区別がハッキリとはついていない、幼い認識の時代における普遍的なものの像ということになるのではないか。

【3】東洋哲学
 東洋においては、主観は人格としてはなく、客観的な実体的なものの中に没入しており、それゆえ哲学的認識もありえない。いわゆる東洋哲学について論じるのは、それが真の哲学に対して如何なる関係にあるのかについて弁明するためである。

 東洋の宗教観念が哲学に近いものをもつのは、東洋においては主観性の契機は姿を見せないために宗教観念が個人化されず、普遍的観念の性格が圧倒的に強いからである。そこにあるのは、あらゆる特殊的なものの滅却、無窮なもの、東洋的崇高性だけである。

 シナ哲学は、孔子の道徳哲学、易経の抽象的な思想などであるが、これらはありふれた通俗哲学であったり具体的なものが思弁的に捉えられなかったりする点で、本来の哲学ではない。

 インド哲学は、宗教とひとつであり、人間の極地を唯一の普遍的実体である梵(ブラフマン)とひとつになることであるとしているから、ここには精神と自然との統一はなく、自我の主観性はすべて滅却されているのである。

<報告者コメント>
 東洋哲学についてヘーゲルは、哲学史の本流には属さないと主張する。個別に現れた・優れた面をもつ(単なる)思想程度の把握だと思われる。しかしその割には、特にインド哲学について、かなり詳細に研究している跡が伺われる。これは一体どういうことか。

 ヘーゲルは、絶対精神の発展過程として、大きくは東から西への遍歴の過程(内面的・概念的過程)として人類の発展を論じている(『歴史哲学』参照)。この論理展開からすれば、東方に位置する中国やインドの思想を高く評価することは出来ないことになる。

 しかし、例えばインド哲学における自我の主観性の滅却などは、新プラトン派の哲学に通じるものがあるようにも思われる。また、現代の我々の視点から言えば、中国やインドの思想を土台として、それを独自の文化として継承し、さらにその上に西洋の哲学を流入させて固有の発展を遂げてきた我が日本文化へのつながりを考えてみると、この東洋哲学を簡単に切って捨てることは出来ないのである。

 ヘーゲルは観念論者であったために、絶対精神1つで筋を通し切らなければならなかったのだが、唯物論の立場に立てば、自然と社会と精神という、大きく言えば物質と精神の複雑な相互浸透関係のあり方を詳細に研究することで、複線的な歴史の流れが社会的労働の発展としての筋に貫かれていることが理解できていくのではないか。


 この報告に関して、哲学と宗教との違いが大きな問題となりました。報告の中では、哲学と宗教の違いについて、唯物論の立場からすれば世界観が異なるとされています。そうすると、宗教は観念論ですから、哲学は唯物論ということになり、ヘーゲル哲学(=観念論哲学)は哲学ではなくなってしまうのではないか、という指摘がなされました。この点について少しやりとりをしましたが、詳しくは論点に関わる議論の中で行うこととなりました。

 また、3つ目の報告者コメントの中にある「物質と精神の複雑な相互浸透関係のあり方を詳細に研究する」という文の中の「詳細に」という言葉がひっかかるという意見も出されました。これだと細かな事実をおっていくようなイメージになり、あまり適切な表現ではないのではないかということでした。
posted by kyoto.dialectic at 05:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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 ・一会員による『学城』第11号の感想
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 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
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 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
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 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
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 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
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 ・哲学の歴史の流れを概観する
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 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
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 ・新大学生への訴え
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 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
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 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
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 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する