2014年10月25日

アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか(2/5)

(2)スミスは言語表現と認識および社会的外界との繋がりに着目した

 本稿は、アダム・スミスの『修辞学・文学講義』について、大きく3つの点――言語表現と認識および社会的外界との繋がりの把握、言語表現の歴史的発展過程が社会的認識・社会的労働の歴史的発展過程に規定されていることの理解、言語表現が読み手の心を動かすのは「共感」によるものであることの強調――に着目して検討を行うことにより、その認識論的な、あるいは言語論的な意義について明らかにしていくことを目的としたものです。今回は、そのうちの第一の点、すなわち、スミスが言語表現と認識および社会的外界との繋がりに着目していたことについて、検討してみることにしましょう。

 修辞学にとって大きなテーマとなってきたのは、言葉の美しさはどこから生じるのか、という問題です。この問題に対して、従来の修辞学は、言葉に美しさや優雅さを与えるのは言葉のあやである、と考えてきました。言葉のあやというのは、通常の文法には収まりきれないような技巧的表現(巧みな言い回し)のことです。簡単には、技巧的表現によって飾り立てることによってこそ文章は美しいものになるのだ、というのが、従来の修辞学における考え方だったわけです。

 こうした修辞学の考え方に対して、スミスは次のように非常に辛辣な批判を投げかけます。

「これらのあやについて考察し、それらを分類し、さらに細かく分類していくことによって、古今の、あれほど多くの修辞学体系が形成されてきたのである。そうした体系は、総じて非常に愚にもつかぬ書物の集まりであって、全く教えられるところがない。」(第6講、1762年11月29日〔月曜〕)


 それでは、スミス自身は言葉の美しさはどこから生まれると主張するのでしょうか。スミスは次のように説きます。

「話し手の感情(sentiment)が、きっちりと明白に平明かつ巧妙なやり方で表現され、彼が共感(sympathy)によって聞き手に伝えようとしている自身の情念(passion)や情感(affection)が、平明かつ巧妙に表現されているならば、そのときには、そしてそのときだけ、その表現は言語が与えうるあらゆる力と美をもつのである。」(同)


 つまり、スミスは、話し手(書き手)の感情を聞き手(読み手)に伝える媒介が言語であるという把握を大前提にして、話し手(書き手)への共感を聞き手(読み手)の胸中に引き起こすような表現こそが美しく力強い表現である、と主張しているわけです。結論からいえば、これこそが『修辞学・文学講義』の最も重要な主張であるといえるのですが、この主張については、以下の2つの点を押さえておく必要があります。

 第一は、言語表現それ自体に着目するのではなく、コミュニケーション(精神的交通)の全過程を視野に入れて考察する視点が示されていることです。従来の修辞学は、ただ言語表現のみに着目してその美しさをあれこれ論じてきました。これに対してスミスは、話し手(書き手)と聞き手(読み手)とのコミュニケーション(精神的交通)の全過程を視野に入れて、その過程をスムーズに進行させる言語表現こそが美しく力強いのだ、としているわけです。端的にはこれは、言語の問題をただ言語のみから考察するのではなく、その背後にある認識(話し手の個性的認識)との関係を射程に入れて考察していく視点を、スミスが把持し得ていたことを示すものにほかなりません。

 第二は、「共感(sympathy)」という言葉が使われていることです。この「共感」という言葉が、スミスの主著である『道徳感情論』において決定的な役割を果たしていることはよく知られているとおりです。『道徳感情論』においてスミスは、人間は利己的である(何よりもまず自分のことに関心をもち、自分のことを大切に考える)と同時に、想像力を使って他人の立場に立ってみることで他人の感情と同様の感情を抱く能力を持っていることを説きました。人間は、他人から共感されることに快さを感じ、共感されないことに不快さを感じますから、他人から共感されることを切望するがゆえに「他人の目から見て自分はどう見えるのか」を問わずにはいられません。我々は、周囲の人々を、自分の感情・行為が妥当なものであるか否かを映し出してくれる鏡とします。すなわち、自分の感情や行為に対して周囲の人々が示した反応の良し悪しによって、自分の感情・行為の妥当性を判断していくのです。こうした経験を数多く積み重ねていくことによって、我々の胸中に、特定の利害関係や特別の好意あるいは敵意にとらわれることなく、自身の行為・感情の妥当性を判断してくれる「公平な観察者」が創出されていくことになります。我々は、胸中の「公平な観察者」の視点を借りて、自分自身の行動が他人から共感されうるものなのかを判断することにより、利己心をコントロールすることができるようになっていくのです。このように、『道徳感情論』は、利己的な存在であるはずの人間が社会的な秩序を形成し維持していくことができるのは共感という能力にもとづくものにほかならないことを力説したのでした。

 スミスが『修辞学・文学講義』において、言語を介したコミュニケーションを共感という観点から把握していることは、言語はあくまでも良好な社会的関係を築いていくための手段にほかならない、との把握があったことを強く示唆するものといえます。このことをはっきりと確認することができるのが、第11講の冒頭部分です。

「これまでの講義の何回かで、我々はイングランドの最良の散文作家たち何人かについてひとつの性格を提示し、それが各人においてどのように異なって現れているのか比較してきた。その全ての結果として、我々が設定することになった規則は、以下の通りである。すなわち、文体の完全性は、著者の思想を最も簡潔、適切、正確なやり方で表現することにあり、その思想によって掻き立てられているか、あるいは掻き立てられている振りをしようとして、彼が読者に伝えることを意図している感情、情念、情感を、最もよく伝達するやり方で表現することにある、ということである。
 諸君は、そんなことは常識に過ぎないというだろうが、確かにその通り、常識に過ぎない。しかし、よく注意してみるならば、批評と道徳(Criticism and morality)の諸規則は全て、その基礎まで辿ってみれば、誰もが同意する常識的な諸原理に過ぎないことが分かるだろう。学芸(arts)の任務は全て、こうした規則を様々な主題に適用し、そうした場合に結論がどうなるかを示すことなのである。この目的のために我々は、前述の著者たちについて以上の考察をしてきたのであった。我々は、著作に対してと同じく会話と行動(conversation and behavior)にも適用できるこの規則に、彼らがどれほど一致して行為したかを、示してきた。というのは、ある人が感じのよい(agreeable)仲間になるのは何によるのか、示すためである。それは、彼の感情が自然に表現されているように思われる場合、情念や情感が正しく伝えられる場合、そしてお互いの思考が合致していて自然であるために、我々がそれらに同意したくなる場合、ではないだろうか。賢明な人もまた、会話と行動において、彼にとって不自然な性格を、装いはしないだろう。もし彼が重厚なら、かれは快活さを装いはしないだろうし、彼が快活なら重厚さを装いはしないだろう。彼はただ、自分の自然な気質を規制し、正当な範囲に抑制し、度外れた枝葉を刈り込んで、自分の周りの人々にとって快適な程度にするだろう。」(第11講、1762年12月15日〔水曜〕)


 端的には、文体のあり方についての規則はそのまま会話と行動についても適用できるものである、というのがスミスの主張です。その規則とは、自身の感情・情念・情感を自然な形で(飾り立てずに)表現することで相手の共感を獲得すべきである、ということにほかなりません。スミスは、会話と行動において相手の共感を獲得するためには、自分の性格を偽らないこと、ただしそれを他人から見て見苦しくない程度にまで抑制すべきであることを説いています。明言こそされていませんが、これが「公平な観察者」による利己心のコントロールを意味することは明らかでしょう。このようにスミスは、相手の共感を獲得しようとして行われる言語的コミュニケーションを媒介としてこそ、良好な社会的関係が形成され維持されていくことを説いたのです。

 これは要するに、言語表現のあり方が社会的関係のあり方を規定する、という関連を把握したものだといえます。一方でスミスは、逆の関連、すなわち、社会的関係のあり方が言語表現のあり方を規定する、という関連についても指摘しています。先ほど、スミスが、言語をただ言語のみから考察するのではなく、あくまでもその背後にある個性的認識との関係を射程に入れて考察しようとする視点を持っていたことを確認しました。端的には、スミスは言語は個性的認識の表現であることを掴んでいた、ということができるわけですが、スミスは、その個性的認識のあり方はあくまでも話し手(書き手)の置かれた境遇によって支配されていることを説いているのです。
 
「あるひとつの感情を自然に感じよく表現するとしても、その表現のあり方は著者の置かれた境遇(circumstance)によって大いに異なるということがしばしばある。同じ話が、我々の同情を掻き立てようという意図なしに淡々と事実を述べていると考えられるかもしれないし、感動的だと考えられることもあり、さらにはまた著者との接点によっては、滑稽だと考えられるかもしれない。我々は、様々に異なった性格の人々について、等しく善良で愛すべきものとして誉めることがありうる。お人好しの男を、もっと厳格な男の厳しさがないといって責めるのは馬鹿げている。……性格のこうした多様性についての考察は、我々を少なからず楽しませるものであり、社会生活の主要な楽しみのひとつとなっているのであって、それを非難したり欠陥と見なしたりするほど愚かな人はほとんどいない。
 同じように、様々な文体は……その種の文体として優れていて、著者の境遇に適していると見なされうる。この考察は、表現は著者の精神に適したものであるべきだという既述の考察を、確認することになる。なぜなら、著者の精神は、主として彼が置かれている境遇に支配されるのだからである。ある著者の文体は一般に、彼の性格と同じ特徴を持つ。」(第7講、1762年12月1日〔水曜〕)


 このようにスミスは、著者の置かれた境遇が様々であるのに応じて(すなわち条件次第で)如何なる文体(言語表現)が適切であるかも様々である、と説いているわけです。ここで注目すべきは、言語表現は著者の精神によって規定され、著者の精神は著者の置かれている境遇によって支配されるのだ、という流れ、端的には〈著者の置かれた境遇→その著者の個性的な精神→その著者の個性的な文体〉という流れが把握されていることです。これは〈対象→認識→表現〉という言語の過程的構造をスミスなりに把握したものにほかなりません。

 もうひとつ興味深いのは、スミスが、著者の精神を規定する要因として、著者の置かれた境遇のみならず著者の身体の状態についても言及していることです。スミスは第11講において、シャフツベリ(*)が華麗で荘重で装飾的な文体を好んでいたことを批判的に論じているのですが、その要因について次のように考察しているのです。

「シャフツベリ自身は……体質が非常に虚弱だったらしく、絶えず何かの不調に陥っているか、陥りそうになっていた。そのような習性は、よく似た型の精神と非常に強く結びついている、というよりほとんど常にそれを伴っている。このような繊細な体躯の人々には、抽象的な推論と深い探求は疲れすぎるものである。……
 彼は非常に深く推論することはなかったので、内容で欠如しているものを、言葉の装飾によって補おうとした。このことは、彼に華麗で荘重で装飾的な文体を選択させた。」(第11講、1762年12月15日〔水曜〕)


 要するに、身体が虚弱だったために論理的考察に耐えられず、したがってまともに論ずるに値する内容を把持することができなかったのだ、だから外面的に言葉を飾り立てることで内容の空虚さを誤魔化そうとしたのだ、という辛辣な批判です。ここで我々が注目すべきなのは、虚弱体質だと論理的考察に耐えられない、というスミスの指摘です。このことは、認識のあり方は身体の状態によって左右される、という把握がスミスにあったことを意味します。まさに「人間を考えるばあいは、かならず認識(精神)と実体(身体)との統一体としてその両面からとらえていかなければならない」(海保静子『育児の認識学』現代社、p.58)のであり、ここから我々は、対象について深く論理的に考察して内容のしっかりした論文を書きたいのであれば、身体を鍛え体調を整えておくことが必須の前提となる、という教訓を導き出すことができるでしょう。

(*)第3代シャフツベリ伯アンソニ・アシュリ・クーパー(1671-1713)。哲学者ジョン・ロックの弟子で、主著『人々、風習、意見、時代の諸特徴』により、イギリスのみならずフランスやドイツにも大きな影響を与えました。
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 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言