2014年08月11日

現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か(2/5)

(2)「技の思い切りがいい」という表現は評価に焦点がある

 前回は、「現代の言語道具説批判」シリーズの第1弾として執筆した「言語規範とは何か」編の概要を説明した後、この小論に対する「批判」があったこと、およびその「批判」内容を「再措定」したものをこのシリーズの「補論」として本ブログに掲載したことを述べました。また、本稿はシリーズ第2弾として、「言語道具説とは何か」を具体的に提示して、その言語観をあぶりだすことを目的としたものであることを確認し、シリーズ全体の構想を示しておきました。

 さて、今回からいよいよ具体的に言語道具説の中身を見ていきたいと思います。

 今回取り上げるのは、「技の思い切りがいい」という表現に関する町田健氏の見解です。(2013年11月13日付中日新聞に「現代日本誤百科」として取り上げられました。)

 町田氏は、「思い切る」という動詞は「あきらめる」という意味だが、「思い切り」だと「余計なことは考えないという意味になる」と述べた後、断り書きとして、これは「思い切り〜する」という「形」で「使われる」場合だけである、「思い切り」だけだと「あきらめ、断念」という意味になる、と主張します。その上で、問題の「技の思い切りがいい」は「技をかけるのを潔くあきらめることになる」というのです。そして「技をかけるなら「思い切って技をかける」と言うべきだ」と結んでいます。

 読者の皆さんは、TVの大相撲中継をご覧になっていて、その中で解説者が「この力士は技の思い切りがいいですね」と発言した場合、その直前の切れ味鋭い上手投げなどを観戦した後であるだけに、「技をかけるのを潔くあきらめる」などという意味で「技の思い切りがいい」という表現を受け取りはしません。町田氏の議論は、こうした具体的な情況を加味せず、抽象的に議論を進めていくところに特徴があります。町田氏が結論した「思い切って技をかける」という「置き換え」を実践してみると、先の相撲解説者は、「この力士は思い切って技をかける(の)ですね」となりますが、これではこの解説者が力士の判断力や技のスピード感を評価していることが十分には伝わりません。

 町田氏の議論のもう1つの特徴は、言語の形式面を度外れに重視する点です。一般的に形式主義者は言語の「形」と「意味」を直結してしまいます。そして形而上学的に「あれかこれか」と決めてかかるのです。町田氏も同様の考え方をしていて、具体的には、「思い切る」と「思い切り」では「形」が異なるから、「意味」も異なるはずだと考え、さらに「思い切り」を「使う」場合も、「〜する」というようにいわゆる「連用修飾」する場合とそうでない場合では、やはり「形」が異なるから、「意味」も異なるはずだと考えるのです。言語の「形」と「意味」、ヨリ一般的には表現の「形式」と「内容」は、相対的に独立しているにもかかわらず、それらを固定化して、変化しないものとして絶対化して捉えているのです。

 「思い切る」という表現は元々、「思い」を「切る」、すなわちある事物への自分の思いを断ち切ることの表現で、そこから町田氏が述べているような「あきらめる」という一般的意味も出てくるし、町田氏は述べてはいませんが「決心する」「覚悟する」という一般的意味も含んでいることになります。「娘を思い切りたたく」と言えば、娘を甘やかしたい気持ちを断ち切り、心を鬼にして娘のためにこそ、と言う決心が表れているのです。また、「思い切り」という表現は、「思い切る」の活用形で一般的意味は「思い切る」と変わらない場合と、「思い切る」という形で事物の属性を運動し変化し発展するものとして捉えた同じ対象を、実体として固定化して捉えて表現したものである場合とがあります。後者の場合、対象を実体概念として捉えて表現していますから、「思い切り」は〈名詞〉だということになります。

 町田氏の言うような「余計なことは考えない」とか「ためらいなく」という「思い切り」の「意味」も、元々の意味、スパッと思いを断ち切るイメージからそういう使い方がされてきているのです。また、捉え方が違うだけで、同じ対象を捉えて表現しているのですから、〈動詞〉の場合と〈名詞〉の場合で一般的意味が大きく異なることはありません(例えば「流れる」と「流れ」を比較してください)。こういう物事の連関、弁証法的捉え方ができないことが構造化されている町田氏には、このことが理解できないのです。「技の思い切りがいい」という表現には、どの技にしようかと逡巡する心を断ち切って、素早く決心した技をスピーディーに繰り出す様子が表現されているのです。このように、表現に表れた認識を辿っていくのではなく、「「思い切って技をかける」と言うべきだ」などと人様の表現を歪めるのは、言語を正確に理解していないことを自ら告白しているようなものだと思います。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(21) | TrackBack(0) | 言語学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。博多人と申します。初めてコメントします。

「思い切る」の意味が「あきらめる」しかないだなんて、町田氏もヘンなことを言いますね。語源的にはどうか知りませんけど、現在の日本語で「思い切る」=「あきらめる」というような使い方なんてそもそもしないと思うんですけど。例えば、

(1) 雨が降り出したので、ゴルフに行くのをあきらめた。
(2) ×雨が降り出したので、ゴルフに行くのを思い切った。(=(1))

(2)が(1)と同じ意味でOKでなんていう日本語話者、いるんですかねぇ。それに「思い切る」という動詞自体が、述語動詞としての用法を廃れさせてきているように思いますが。例えば、

(3) ×雨が降り出したが、ゴルフに行くのを思い切った。

(3)を「思い切ってゴルフに行った」というふうに解釈するとしても、私には全く容認不可です。

「言葉の意味・用法は変化することがある」なんていうのは、言語学の初歩中の初歩なんですけどね。天下の名古屋大学教授、町田先生は、授業中に学生さんにこう突っ込まれたらどう答えるつもりなんでしょう?
Posted by 博多人 at 2014年08月11日 21:39


博多人さんの見解に異論があります。
博多氏の例は、その状況表現・設定が不適切だと思います。
なので、結果的に正しくない表現になってしまっている、のではないでしょうか…

「思い切る」を「あきらめる」として使う時には、それなりの了解可能な状況説明・設定的表現が不可欠なのしょう。

(1) 久しぶりの臨時収入、自分の為に買いたい物は色々あるが、それは「あきらめ」て家内にプレゼントを買った。
(2) 久しぶりの臨時収入、思い切って家内にプレゼントを買った。

多くの事を実行したい思いを断ち切って、ある事を実行した=思い切って〜。

ある事をしたい強い思いはあるが、その実行を断念した=思い切った。
(例)考えたすえに彼との結婚は思い切ることにした。



Posted by 自由びと at 2014年08月14日 10:41
自由人さんへ:

私の論点は以下の2つです。

A)「思い切る」には「思いを切る=あきらめる」という用法があったのだろうが、現代の人々の語感では、「迷いを払って決断する」の意味でしか使わない。

B)「思い切る」は、品詞としては動詞だが、単独の述語としての用法は廃れてきつつある。

【Aについて】
辞書をひくと「あきらめる」「決断する」の二つの意味が一応載っていますが、私自身は「あきらめる」の意味で使うことはありませんし、現在書かれたり、話されたりする言葉遣いの中で、そういう意味で使われた例に接した記憶はありません。(まあ、これは私の個人的な言語体験の問題ではあるのですが。)『大辞林』に「家庭の事情で進学を思い切る」という例文が挙がっていますが、私には全く容認不可ですね。自由びとさんは

(例)考えたすえに彼との結婚は思い切ることにした。(=断念した)

という例を挙げておられますが、こういう使い方OKなのですか?私には、「断念した」の意味では×です。「彼との結婚_を_思い切ることにした」=「思い切って彼と結婚することにした」ならば、ぎりぎりセーフかな、というくらいです。また、

(1) 久しぶりの臨時収入、自分の為に買いたい物は色々あるが、それは「あきらめ」て家内にプレゼントを買った。
(2) 久しぶりの臨時収入、思い切って家内にプレゼントを買った。

という言い換えの例を挙げておられますが、次の(3)でもOKなのですか?

(3)久しぶりの臨時収入、自分の為に買いたい物は色々あるが、それは_思い切って_家内にプレゼントを買った。

私は×です。もし自由びとさんの判断が私と異なるということでしたら、それは言語規範の個人的なズレなのかもしれませんね。

【Bについて】
これは、「思い切って〜する」(連用形=副詞的用法)や「思い切った改革」(連体形=形容詞的用法)のような派生的な使い方ではなく、文の中核述語としての用法(e.g. 〜を思い切る。〜を思い切った。)が(意味の問題とは別に)容認できるか、ということです。「か〜なり難しい」というのが私の判断です。自由びとさんはいかがですか?
Posted by 博多人 at 2014年08月17日 16:12

博多人さんへ

私の見解は以下です。

言葉は、その人の認識の表現なのです。従って博多人さんのように「思い切って」を理解して、使う人もいれば、私が書いたように理解して使う人もいるだろう、という事です。

何故なら、私の異論は辞書的ネット的意味に則して述べたものであり、一般的見解であり、それに対して博多人さんの論説は「私には全く容認不可ですね。」と書いているように、個人的感情的見解なのです〜から。

博多人さんの論に対して、私は異論を書きました。この二つの論を合わせて「思いきる」を理解して、その言葉を発した当人の認識・像を考える事が正論なのだと、私は思いますが…博多人さんは如何に考えますか?!


>…次の(3)でもOKなのですか?

(3)久しぶりの臨時収入、自分の為に買いたい物は色々あるが、それは_思い切って_家内にプレゼントを買った。

この表現には、少し違和感を感じています。その理由を考えました。

「思い切る」とは、思いを切る(思いを断つ)、という意味で考えるならば、この例では、「それ(買いたい物)は_思い切って_」ではなく、「色々と買いたい思いは_切って_」という表現でなくては、不適切なのでしょう。



最後に私の個人的「思い切る」の理解について書かせて頂くならば以下です。

私は、今回の論説(ゆき様の個人ブログでも拝見していたような気が…)を読む以前は、「思い切る」とは、「勢いに任せる」的に理解して使用していました。そういう点では、博多人さんとも自由びとさんとも、異なっていた理解・使用だったのです。

でも、今回の論説を参考にして、「勢いに任せる」という私的認識をみつめた時、以下のような事がみえてきました。

私が、「勢いに任せて」何かをする、という、その認識の奥には、他の事をやりたい、失敗した時の挫折感に対するおそれ…そんな多くのやらない理由付け=マイナス要因からくる実行阻止の大きく強い「思い」の存在があります。そこで、私は「勢いに任せて」、そんな大きく強い「思い」を断ち「切って」実行する、という事なのだと、感じました。

ゆきさまの論説に対しての博多人さんの言説、そして、それに対しての自由びと言説…、そんな繰り返しがプラトン的弁証法なのでしょうね…もっとも、本当は、もっと激しく強く執拗な、飽くなき繰り返しによる「滅びゆく対立物の統一」なのでしょうが…

なので〜次なる博多人さんの言説を期待していますよ〜♪♪♪〜





Posted by 自由びと at 2014年08月19日 11:01
自由びとさん:
「何故なら、私の異論は辞書的ネット的意味に則して述べたものであり、一般的見解であり、それに対して博多人さんの論説は「私には全く容認不可ですね。」と書いているように、個人的感情的見解なのです〜から。」

「辞書的」はともかくとして、「ネット的意味に即して述べたもの」とか「一般的見解」ってどういうことでしょう?「思い切る」「思い切って」「思い切った」などの用例をGoogleで検索しても、(辞書サイトやその他の語義説明サイトにある説明以外の)実際の使用例では、「あきらめる」の意味で使われているものは見当たらないように思いますが。「一般的見解」って多くの人々に共有されている見解ということじゃないんですか?

自由人さん:
「博多人さんの論に対して、私は異論を書きました。この二つの論を合わせて「思いきる」を理解して、その言葉を発した当人の認識・像を考える事が正論なのだと、私は思いますが…博多人さんは如何に考えますか?!」

私は、「思い切る=あきらめる」という用法の、言語規範として通用性を事実レベルで確認したかっただけなので、どう考えるのが正論か、などという議論をするつもりはありません。その意味では、自由びとさんの頭の中の言語規範にも「思い切る=あきらめる」という用法はなかった、という点が確認できて満足です。
Posted by 博多人 at 2014年08月20日 23:13

博多人さん 

>「一般的見解」って多くの人々に共有されている見解ということじゃないんですか?
↑〜その通りです。

「思い切る」の「あきらめる」的意味の「容認不可」的人が多く存在していれば、当然にネットにも書き込まれている筈です。でも、私の検索した限り、その容認不可的記述は見つかっていません。このように反対意見がない!という事は、多くの人々に容認されている「一般的見解」という事なのではないでしょうか…私はこのように解釈しましたが、博多人さんは如何かな?!


>言語規範として通用性を事実レベルで確認したかっただけなので、どう考えるのが正論か、などという議論をするつもりはありません。
↑〜そうですか(驚きの)!
↑〜博多人さんは事実レベルの事にしか興味・関心がないのですか…それって〜私からすると寂しい人に思えてしまいますが…
私も特に「どう考えるのが正論か」を議論するつもりはありません。ただ、ここでの議論の意味・意義を確認したかっただけなのです。
だって、事実レベルの単なる暇つぶし的では、私にとっては、寂しいものになってしまいますから…


>自由びとさんの頭の中の言語規範にも「思い切る=あきらめる」という用法はなかった、という点が確認できて満足です。
↑〜博多人さんは、私の記述のその部分に満足してしまったのですか…
↑〜まあ博多人人さんの問い掛け的認識では当然だと言えば当然なのでしょうが…

前回の記述には、博多人さんが確認して満足してしまった事以外に、以下のような事も書かれています。
それは、その意味を考えずに使っていた言葉の私的意味を改めて考えてみた時、それは辞書とは違っていた。そこでその言葉を使った・使うだろう時の自己認識を過程的に考察した結果、辞書的意味と同じだ!と気付けた。というような事です。

これは、経験・体験的自然成長的に修得した言葉(技)は、それが正しく的確に使用されていても、その言葉(技)の意味を辞書(基本技)と同じ言葉で説明できる、とは限らないということなのです。

最後にネットでの「諦める」についての概要を以下に書きました。

[用法]あきらめる・[用法]おもいきる――「進学をあきらめる(思い切る)」「あの人のことはなかなかあきらめられない(思い切れない)」のような場合は、相通じて用いられる。◇「あきらめる」は「優勝はあきらめる」「あきらめてすごすご帰る」のように、望んでもかなわないことがわかって、望むのをやめる意。これらの場合、「思い切る」は用いない。◇「思い切る」は、「思い切って発言する」「思い切ったデザイン」のように、積極的に行う、覚悟して行うの意がある。また、名詞形「思い切り」の形で「四十代半ばで会社をやめるとは思い切りがいい」のようにも用いる。これらの場合に「あきらめる」は用いない。

上記の事から分かった事は〜博多人さんは、「思い切る」を「諦める」に言い変えられない場合だけ考えて「容認不可」としてしまったのでしょう。そして、その判断を正当化する為に、更に多くの「用いない」例をあげて、自己満足してしまったのですね…
 
それに対して自由びとは、辞書的意味を正しいと信じて、自身の認識過程と言語表現化過程の振り返りを行って、自身の思い違いに気付けたのでした。これは自己の誤謬修正過程でしたね〜♪♪♪〜






Posted by 自由びと at 2014年08月22日 10:47
自由びとさんは博多人さんの書かれていることをご理解されていないようです。自由びとさんには自由びとさんのお考えがおありだとは思いますが、相手が書いていることを理解しないことには会話が成立いたしません。

識字力に難がある自由びとさんのためにファシリテーターをお立てになられては如何でしょうか?
Posted by 善意びと at 2014年08月23日 14:54
自由人さん:
『「思い切る」の「あきらめる」的意味の「容認不可」的人が多く存在していれば、当然にネットにも書き込まれている筈です。でも、私の検索した限り、その容認不可的記述は見つかっていません。このように反対意見がない!という事は、多くの人々に容認されている「一般的見解」という事なのではないでしょうか…私はこのように解釈しましたが、博多人さんは如何かな?!』

世の中の大半の人は、そもそも「思い切る」に「あきらめる」の意味があったなんて知らないんじゃないでしょうか?現に、私も自由人さんもこのブログ記事を読むまではそうだったわけですから。知らなければ、「容認不可」とか「使わない」などといったことをわざわざ書き込んだりもしないでしょう。そこを確認するための方法は、基本的に2つしかありません。

1つは、多くの人に直接「そういう使い方をするかどうか」を尋ねること。これには物理的に限りがありますが、それでも、とりあえず私の周囲の人間6人(家族・職場の同僚)に尋ねてみましたところ、誰も「思い切る=あきらめる」という用法自体を知りませんでした。(ただ、町田氏の周辺にはそういう使い方をする人が多数いるのかもしれません。)

もう1つは、「彼との結婚は思い切った(=あきらめた)」というような使い方を_実際にしている例_が果たしてあるのかどうか、また、あるとしたらどのくらいあるかを、言語使用実例の収集資料(コーパスと言います)で調べてみることです。辞書に載っているくらいですから、過去においてはそのような用法があったのだろうと思いますから、古い文章のコーパスを調べれば出てくるかもしれません。インターネットでの使用例検索も、不完全ではありますが、コーパス調査の一種と考えることができます。で、前にも書いたように、Google検索の結果をざっと見てみた限りでは、そのような使用例は出てきませんでした。(これも、山のような検索例の中を丹念によく探せば、ひょっこり出てくるかもしれませんが。)

言語規範は、社会的共有物ではあるが、個人の認識としてしか存在しえない、という二面性を持っています。社会の個々の成員に共通する(=同じである)という性質がなければ言語表現を媒介することはできません。しかし、その一方で、個人の認識である以上、育ち・生活・言語体験の違いから、他人とは異なる部分も生じてくるものです。私が「思い切る=あきらめる」という使い方について、_私には_容認不可だと述べたのは、こうした、言語規範の個人間のズレを意識してのことです。自分以外の人間の判断に関しては(きちんとした調査をした上での結論でない以上)あくまで推測でしか語れないからです。

自由人さん:
「↑〜博多人さんは事実レベルの事にしか興味・関心がないのですか…それって〜私からすると寂しい人に思えてしまいますが…」

どうぞご自由に。
Posted by 博多人 at 2014年08月23日 17:48
コテハンが「善意びと」とは、悪意タップリの善人面が思い浮かんでしまうのは、私だけでしょうか…
本当の善意の人は、横から口を挟まずに傍観者を決め込むものだ、と私は思いますが…
もっとも、自由びとが博多人をイジメテいるのだと、勘違いして助けに出できた善意の第三者なら別ですが…
それでも善意の第三者なら、もっと客観的な言説を書くでしょうに…
それとも、形勢不利な博多人へのお仲間の援軍でなのしょうか…
案外、「博多人」と「善意びと」の二重化だったりして、だったら弁証法的ですね〜♪♪♪〜
まあ〜こんな事は、見る人が見れば一目瞭然なので、敢えて書く事もないのですが…


善意の人は思えない善意びと殿

自由びとを「識字力…」とか、「ファシリテーター…」とか、そんな自分勝手な思い込みを書くなんて…
もっと、場所をわきまえて、大人的記述をした方がよいと思いますよ!
この言葉は、私には貴殿の御バカ姿の丸出し的表現にしか思えないのですが…
もっとも私も時々、分かっていて書き込む事があるので、あまり偉そうな事は言えませんが…

博多人さん

 博多人さんの「容認不可」的個人的感情は最初から理解しています。だから、書いているでしょう〜私自身も最初は「思い切る=諦める」とは思っていなかった!でも〜〜!と…
 

 私は、個人的感情から辞書的意味による使用法を「容認不可」と決めつけて、その使用法に合わない例ばかり提示して自分一人で納得・満足している博多人さんの言動に、不足・不満を感じて、辞書に即して私的コメントを書き込んだのです。

 そんな私の記述を、読みとれなかったのは、博多人さんの方でしょう!が…
 なので、以下の善意びとの言葉は、そのまま博多人さんに投げ返して差し上げます。

<識字力に難がある博多人さんのためにファシリテーターをお立てになられては如何でしょうか?>



 最後に「どうぞご自由に」との事ですが、ここは弁証法、認識論、論理学、学問を求める人々の集っているブログですよ!

 だから、「博多人さんは事実レベルの事にしか興味・関心がないのですか…それって〜私からすると寂しい人に思えてしまいますが…」と思うのは私だけではない、と私は思います。

 もっとも、これは「寂しい人」ではなく「哀しい人」とか「哀れな人」とか「駄目な人」とか「凡人!」とかで…その博多人さんへの想いの像は十人十色でしょうが…

 さあ〜皆さん!思いっ切り〜自由に博多人さんの事を思ってあげましょう!






Posted by 自由びと at 2014年08月24日 20:07
自由びとさんが意固地になっちゃってるのは分かりますから無理強いはしませんが、時間をおいて読み返せば博多人さんの書いていることが自由びとさんでも素直に理解できるときがくると思います。

リテラシーの低さは頑固な性格からきてる場合もあるようですからね。
Posted by 善意びと at 2014年08月25日 05:30
ゆき様

 今回は色々とありがとうこざいました。この色々の内容は、自由びと言説のまるまる!の掲載、善意びと・博多人言説のまるまる?!掲載…等です。

 ゆき様には、私の本心を知って頂きたく、コメントしました。

 私が善意びと言説を一読した時の気持ちは、『何故?こんな言説が掲載されるの!〜ショック!〜』でした。
 このショックの理由は、『コメントが掲載されるのは、その記述の内容が正しいからであり〜私は、本当は博多人言説を理解していないのに、理解しているつもりで反証しているか?!』というような思いでした。

 でも、冷静になって考えたら、『今回のコメント掲載について、ゆき様は傍観者的になって、自身の正否・価値・選択判断を入れずに、全てまるまる掲載したのだろう…何しろ「滅びゆく対立物の統一」なのだから…』と思い直しました。

 それで、やっと書けたのが前回の善意びとへりコメントです。それは私の主観的一方的な即自的内容だったので掲載されるかどうか不安でした。でも、掲載頂けて心底感謝しています。ありがとうございました。

 さて、今回の博多人と自由びとのやりとりで気付いた事は以下のような事です。

 人は誰でも、過去の文化遺産(を修得している指導者)に対して、個人的感情的反発を感じてしまう時・場合があります。その時・場合、その個人は、どのような認識で、どんな態度・行動を取けばよいのか? どのような言動・態度・認識が自己の弁証法的生成・発展に繋がっていくのか!別の角度から書けば、対象との、どのような相互浸透(全体的・部分的)がよいのか!とったようなモノでした。

 ここでの博多人の「容認不能」は、個人的感情としては正しいものでした。しかし、彼・彼女のその後の行動は、言語規範の全部・丸ごとの相互浸透を否定するものでした。言語規範は人類の文化遺産です。それを個人的感情や周囲の数人の感情的意見を聞いただけで、部分的にではあっても否定してしまうなんて…これは…とても悲しく損な事だと、私には思えてしまいます。

 それを理解している、ゆき様(ここの会員の方々)だから、対象の否定・肯定を行うのに、必ず文化遺産・原理・原則等を用いているのですね。もっとも、南郷理論を文化遺産と呼ぶには、新し過ぎる気もしないではありませんが…そう〜まだ遺産になっていませんね〜♪♪♪〜







Posted by 自由びと at 2014年08月25日 09:39
「思い切る」をネットで検索していて、もう一つ気になったことを書いておきます。

国語事典(サイト)の「思い切る」の項で、第一義として「あきらめる」が出ているせいか、外国人用の辞書サイトでもその意味が第一義として挙がっています。例えば、検索で比較的上位に出てくるある中国人向け辞書サイトでは、冒頭の訳語が「断念」となっています。

一般の日本人が国語辞典で「思い切る」をひくなんてことは普通は考えられませんが、外国人の日本語学習者であれば、大いに可能性ありです。で、上記の辞書サイトにある「彼女への思慕の念を思い切る」(=断念)なんていう言い方が現在でも普通に通用するなんて思われたら、日本語の先生も説明に苦労するのではないだろうか、などと思った次第です。その先生が日本人でない場合、先生自身も誤解してしまうことだってあるでしょう。

もっとも、同じようなことは、日本人が英語学習をする際にも起こることではありますが。
Posted by 博多人 at 2014年08月25日 20:57


善意びと君

博多人がギブアップで、次は善意びと、ですか?
博多人は理屈的で、善意びとは感覚的、ですか!

善意びと君には、自由びとが「意固地になっている」とみえているのですか?
それは君の見当違いだね!そんな君こそ「識字力」はあっても、論理能力には「難がある」のでしょうね〜♪♪♪〜

そんな君の為に以下に、更なる詳細な解説を書きました。
そもそも私が、博多人にコメントをしたのは、その具体例から「思い切る≠諦める」が正しいと思えた(理解・納得した)からなのです。でも…辞書を調べると「思い切る=諦める」と書いてあります。

そこで思った事は、「思い切る=諦める」としても、これらは同じ漢字・平仮名で表記された単語ではない、という事です。同じ文字表記でないなら、当然に100%の一致はない筈だ!と考えて、更にネットを調べて「[用法]あきらめる・[用法]おもいきる――」に至りました。

これを読んだ瞬間に私は最初に書いた <「思い切る」を「あきらめる」として使う時には、それなりの了解可能な状況説明・設定的表現が不可欠なのしょう。> が正しい事を再確認しました。もっとも、正確には、ある言葉を正しく使うには、その言葉レベルの認識・像が不可欠である、なのですが…。

言葉は認識の表現なのです。諦めようとしてもなかなか諦められない事、そんな事の思いだから、諦めるなんて簡単に出来ないよ!的表現をしたくて「思い切れない」と書き、そんななかなか諦められない事の思いを積極的に諦めた時に「思い切った」と表現するのでしょう。

確かに、家内にも聞くと「私は思い切るを、諦めるとして使用しない!」と言っていました。そして私も家内と同じでした。
その時〜私は、私も家内も、そして多くの人が「思い切る=諦める」的に使用できないのは、その用法を知らない、知っていても使えない。それは、現代の多く人々が自分の認識を正確・的確に表現しようとしていない、自己の認識を見つめようとしていない、のではないだろうか?と考えました。

 そこで現代社会を見まわしてみると、確かに会話は片言「うざい!死ね!」、手紙は殆ど書かずに片言メール「ひま?」。…これでは、当然に「思い切る」での表現なんて無理。「諦める」でも無理かも。二つとも「やめた!」で表現して終了なのでしょうね…おっと…これは子供・学生社会でしたね。大人は仕事・遊びに忙し過ぎて、暇なら映画・DVD鑑賞…でしたね。

 私は、博多人レベルの事実レベルに留まっているのは、望んでいません。
 当然に、善意びと君のように、自分は正しい!相手は間違っている!的レベルも嫌なのです。
 私が求めているのは、自分も正しい!が相手も正しい!からば、それは何故だ!なのです ♪

 もっとも、見解に同意しない者は、それは相手側の能力に難がある!と自己の正当化を図る君には、「豚に真珠」でしたね♪♪♪

 善意びと君、それって、とても損する性格、自己の発展を阻止する性格ですよ(…涙…)…
 




Posted by 自由びと at 2014年08月26日 11:04
私も気づいたことを書かせていただきます。

ネット検索していたら「恋を思い切る」という表現は現在でも普通に使われているようです。とくに「叶わぬ恋を思い切る」というような強烈なる感情を伴った言語表現が見られます。それに対して「ゴルフを思い切る」といった表現は確かに見られません。そこから言えるのは「思い切る≠諦める」ということでしょう。

語源からいっても仏教用語の「諦める」が道理を悟ることなのに対して「思い切る」が感情を断ち切ることであるのは、心的現象学的には違う感情像なのでしょう。ですから「雨が降ってちゃ屋内のコースでもない限りズブ濡れだ。ボールも滑りやすいし視界も悪いから止めといたほうが良いな」と諦めることはあっても「ゴルフに行きたくて行きたくて、狂おしいまでの執着心を断ち切る」といった思い切ることは無いのでしょう。

それでも、そこまで把握して言葉を使い分けるのは状況によってクラブを使い分けるプロゴルファーのようなもので、大抵はドライバーでパッティングしようが何番アイアンだろうがお構いなしなのが言葉というものかも知れません。
Posted by 善意びと at 2014年08月26日 11:56
>上記の辞書サイトにある「彼女への思慕の念を思い切る」(=断念)なんていう言い方が現在でも普通に通用するなんて思われたら、日本語の先生も説明に苦労するのではないだろうか、などと思った次第です。その先生が日本人でない場合、先生自身も誤解してしまうことだってあるでしょう。

↑〜私が、外国人の為の日本語学校の先生なら、「彼女への思慕の念を思い切る」(=断念)と言う表現は、文章で書かかれる事はあっても、日常会話では殆ど使われる事はありません!と説明しますが…

外国人の日本語学習と言っても、二通り考える事が可能です。
@ 日本社会で生活するのに、即戦力的に使える為の日本語学習。
A 日本文化研究を目的にした日本語文献読解の為の日本語学習。

言語学習は、その国の文化の学習にもなります。なので言葉や言い回し…等を、通用する・しないレベルだけで考えるのではなく、使う事はなくても、そのような言い回しが可能な、その理由を考える事も必要だと、私は思います。

 もっとも、上記のような事は、このブログ・記事内だから必要なのであり、他の場所では不要な事かもしれませんが…。




Posted by 自由びと at 2014年08月27日 08:31
ゆきさん、こんにちは。「ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史」のゆきよきさんですね?いつも楽しく読ませていただいております。

今回コメントさせていただいたのは自由びとさんのコメントについての私の気持ちを知っておいて頂きたかったからです。

今の自由びとさんは絶好調のようですね。ノリに乗ってらっしゃるようです。ですが、彼の書いている内容は実にマナーに反した、私や博多人さんに自制心が無かったなら炎上しかねない発言の連続です。

>悪意タップリの善人面が思い浮かんで
>私には貴殿の御バカ姿の丸出し的表現にしか思えない
>これは「寂しい人」ではなく「哀しい人」とか「哀れな人」とか「駄目な人」とか「凡人!」とかで…
>博多人がギブアップで、次は善意びとですか?
博多人は理屈的で、善意びとは感覚的ですか!

私はこんなマナーの悪い不作法な人と言葉を交わしたくはありません。どんな学会や研究会に行っても、こんなマナーの悪い人はおりませんよ?互いの見解はどれほど相違しようとも、礼節をわきまえて議論すべきではありませんか?

最後に、私は

>「思い切る」を「あきらめる」として使う時には、それなりの了解可能な状況説明・設定的理が不可欠

だとは思いません。日本語の文法は良く分かりませんが、「思い切る」は他動詞のようなもので「何を」思い切るのかという目的語のようなものが不可欠なのだと思います。その際に、例えば「食べる」という他動詞?には「リンゴを」だとか「肉を」といった目的語?が必須ですが、この目的語?は経験的に食べ物に限定されていて「家を食べる」とか「宇宙を食べる」とかではありません。他動詞?と目的語?とが相互規定的に定め合っています。同様に「思い切る」という他動詞?の目的語?は「恋を」だとか強い感情・執着心を伴った対象に限定されていて、「あきらめる」という他動詞?につく目的語?とは一致しませんし、範囲も狭いでしょう。

ですから、言葉の意味の違いによる目的語?の種類の違いさえ言語規範として了解していれば、「何を思い切るのか?」という表現だけで意味は通りますし、俳句のような芸術表現にも使えます。状態説明は必須なものではありません。

「ゆきよき」というお名前は「雪(ゆき)雪(よき)」さんかな?二人のお子さんと奥さまとお幸せに。
Posted by 善意びと at 2014年08月27日 19:54

>彼の書いている内容は実にマナーに反した、私や博多人さんに自制心が無かったなら炎上しかねない発言の連続です。
↑〜この言い分にも確かに一理あります。この事は、ゆき様に『それは私の主観的一方的な即自的内容だったので掲載されるかどうか不安でした。』と書いた通り、私的には十分承知していました。

ただ…善意びとが本当に「自制心」ある人なら、私と博多人の間に突然に割り込んできて、あのような言をのたまう事はしないと思っての、あの私の言説なのです。しかもネームを自由びとに対しての善意びと、とは…私的には「自制心」のある人が、真面目に他人の非を説く時に、このようなネームを使うとは、絶対に思えません(と言うか真剣・真面目な時の私は絶対にしません)。

さて、>「思い切る」を「あきらめる」として使う時には、それなりの了解可能な状況説明・設定的表現が不可欠…
↑〜この言語表現は、非常に分り難いものですね…
これは、博多人の具体例では、「思い切る≠諦める」と了解不可だったのが、その表現を変えた時に「思い切る=諦める」と了解可能だった理由を書きたかったのです。でも…上手に表現できていませんね…

これは、言葉の単語的理解力はあっても、その事を通して、相手の言い分・認識を理解できない人物には、最終的に「思い切る」という表現に至った、その過程を詳細に言葉で表現する事も必要である、というような意味なのです。

最後に〜

>同様に「思い切る」という他動詞?の目的語?は「恋を」だとか強い感情・執着心を伴った対象に限定されていて、「あきらめる」という他動詞?につく目的語?とは一致しませんし、範囲も狭いでしょう。
↑〜私は日本語文法に詳しくありませんが、この記述が事実であったとしても、それが絶対的無条件に「思い切る≠諦める」とは、言い切れない!と確信しています。

Posted by 自由びと at 2014年08月28日 11:37
ゆきよきさんならどう思うでしょうか?ご意見を伺えたなら嬉しいですが、もちろん発言されるか否かはご本人の自由意志で何らの義務も強制もありませんが…。

私はこれまでの人生経験から人が意見を交わしているときには別の人間が自論を説いてはいけないというルールなど全く知りもしませんが。むしろ、同じ話題で意見があるなら他の人間がどんどんと参加することが望ましいという環境にいたものですから。それは震災や原発のような社会的な事柄ならば尚更ではないですか?また、国政のような事柄ならば主権者としての国民全員が参加することが望ましいのでしょうから、発言したいと思った人間が発言して何が悪いのでしょうか?

私が思うに自由びと氏が述べている「他の人間は口を出さずに傍観者でいろ」というのは「そうでであって欲しい」という自由びと氏個人の願望に過ぎません。そして、対話のルールは当事者間で決めるものですから、自由びと氏と博多人さんとの対話のルールが自由びと氏個人の意志で決められるはずもないのです。私はこのブログで「一対一で対話しましょう」といったルール決めを見た覚えはありません。ということは、自由びと氏は「自分はこうあって欲しい」という個人の願望が即ち一般的な社会ルールであるかに錯覚する人物だということです。

第一、何十年も玄和会に在籍してる黒帯で、南郷氏とも懇意にしているなどと発言すれば玄和会の指導力というものを推し量れるような実力者だと他人から見られて当然ですよ。だから普通の常識人はそんなこと言いません。恥ずかしいからですし、仲間と顔を合わせるのが嫌だからですよ。ゆきよきさんは違いますか?

しかも還暦前だと年齢まで公言している。私より全然年上じゃないですか。それが自制心を働かせることもなく言いたい放題の無礼講…。呆れてものも言えないとはこのことです。それが数十年の南郷氏から学んだ成果か、と。南郷氏の指導力というものも信用ならざるものですね。
Posted by 善意びと at 2014年08月28日 16:44
 みなさん、コメントありがとうございます。私の執筆した小論に関して、様々にご意見を戦わせていただくのは、わが研究会にとっても非常に有意義なことだと考えております。何といってもこのサイトは、「主体性確立のための「弁証法・認識論」講義」なのですから。

 今回の議論を拝見していて感じたのは、やはり言語規範は社会的認識だとはいえ、個人の認識に創り上げていくものだ、ということです。「事実レベル」「ファシリテーター」「バカ」などの言葉は、その創り上げた言語規範を媒介して、さらにその言葉の、意義ではなく意味を把握しようとして、表現者の認識に二重化する能力がなければ、誤った解釈をしてしまう恐れがあるということです。

 そういう意味では、言語規範と言語に表現される直接の基盤である認識とを、単に対立関係にあるものとして把握している私の言語観は、まだまだ不十分なものと言わざるを得ません。

 しかし今回の小論の趣旨は、言語道具説的な言語論を展開する町田氏の論説を批判することにその直接の目的があります。まだまだ未熟ながら、一定の批判が展開できたのではないかと思っています。

 今回、この小論に関して行われている議論は、直接的には私の問題意識(言語道具説批判)と関係のないもの(「思い切る」という表現についてのもの)でしたので、コメントはせずにいました。

 我々の研究会自体に対する誹謗・中傷に関しては、コメントを掲載しないことはありますが、閲覧者同士のやり取りについては、よほどのことがない限り、自由に議論していただいて結構かと思います。(少なくとも、私の小論に対するコメントについてはそうした方針です。)

 ちなみに、私のここでの名前はあくまで「ゆき」です。よろしくお願いします。
Posted by ゆき at 2014年08月29日 13:46

>我々の研究会自体に対する誹謗・中傷に関しては、コメントを掲載しないことはありますが、閲覧者同士のやり取りについては、よほどのことがない限り、自由に議論していただいて結構かと思います。(少なくとも、私の小論に対するコメントについてはそうした方針です。)

ゆき様の上記の御言葉、その寛大な御心に感謝しております。

本当のところ〜私は前回のコメントで、ここでの論議に終止符を打とう!と思っていました。
しかし、またまた〜まだまだ〜善意びとは書き続けているので、私にも続けさせて下さい!


善意びとは、ここの自由びと=『悟りを求めて…』ブログ主=玄和会関係者という、考えに基づいて書いています。

しかし、ここは、虚言・思い込み・勘違い発言…更には他人へのなり済まし発言と、何でもありのネット界です。こんな場所で上記の等号が成立する現実的証拠は何もありません。


そもそも博多人と自由びとのやり取りにおいては、今回のような流れは、まだ起っていなかったのです。この流れの根源は、善意びとの最初のコメントなのです。

彼が、「博多びとは○○○○と書いているが、自由びとは、××××と理解している」と事実的根拠をあげた上での「自由びとの識字力に難がある」的言葉なら、私の言説もたぶん大きく違っていたでしょう。

このように書いていない善意びとだから、私は彼にあのような言葉を叩きつけたのです。それでも、それは私だけの個人的見解として「私は…」と書いています。これは、決して「個人の願望が即ち一般的な社会ルールであるかに錯覚する人物」ではない!という証しなのです。

この事は、私の記述を真面目に読んで頂けたら、それこそ一読即解的に分かって頂けると、私は思います。このような理解が出来ていないのに、平気であのように書けてしまう善意びとだから、私の言説なのです。これは因果応報なのでしょうね… ♪

更に彼は、「ファシリテーターをお立てになられては」とも、書いています。なのにその具体的記述は零なのです。そもそも、ここは観念的ネット界なのです。この「ファシリテーターを人間関係……」と理解するならば、彼は、自由びとのネットでの言動=現実界での言動、と短絡的に理解している事になります。


このような認識・思考傾向のある善意びとと、議論するのは至難の技だと、私には思えています。

善意びとは、博多人のように事実に拘って、その事実を提示した上で書く方がよい!と、私は思っています。

もっとも、これは私の主観であり、私的言葉・信条なので、強制ではありません。

また、誰かさんのように、他人の貶める言葉でもありません!とも思っています。


ただ、今回の善意びとの書き込みを読んで、私の言葉は彼の心を乱し過ぎてしまった!、気の毒で悪かった…ような気になりました。

私は、善意びと氏が、もっと冷静になって、ネット界と現実界の相違、事実と思い込みの相違を明確にした上で、コメントを書けるようになれる事を心より願っています。




Posted by 自由びと at 2014年08月29日 21:13
ゆき様


最後に、今回の私の感想を書かせて下さい。

言語は人間が創ったものであり、ある特定の言語は、その時代の社会的認識に基づいて創られたモノ、そして社会的認識と伴に変化してゆくモノだと、私は再認識しました。

それは当初、「弁証法」は「弁証の方法」だったのが、時代を経た現代では、「変化・運動の科学」的意味を持っている、という事なのでしょう。言葉「弁証法」の意味(意義)の発展、という事でしょうか…ここで「意義」とは書けないのは「弁証法=変化・運動の科学」が言語規範にはなっていない、辞書には無い!為です。

また、言葉「情けは人の為ならず」のような意味変化もあります。当初は「情けをかけるのは人の為にではない」(巡り巡って自分に戻ってくる自分の為である)であったのが、現代では、「情けは人の為にならない」(人を甘やかしては駄目になる)的に意味が変化してきています。これは発展というより、衰退的変質でしょうか…

このような変化は「思い切る」にも当て嵌まる事なのだろう、と私は感じています。何故なら私自身、「思い切る」を諦める的に使用してこなかった、からです。

しかし、それでも、博多人のような、自己の短く狭い人生経験で形成された認識の範囲内での、言語規範の否定は、私的には感情的に納得・満足できなかった!のです。

そんな個人的感情からの今回の一連のコメント、私的には最大限の努力で、直接の感情的表現は控えたつもりでしたが…それでも、感情的になってしまっているようですね…それは、ゆき様と私の記述の対比で痛感されられました。

今後も、時・場所・相手を考慮した上で、ネット・現実界での感情的言説・態度・行動の私的最大限の制御を修得してゆきたい!・自分の可能な限り抑え込んでゆきたい!〜と、心に誓って、刻み込みます。

ここは、もし今の私に指導者の存在があれば、その指導者の認識・指導に合わせての制御なのでしょうが…

こんな私の論理的とは言い難い、感情的言語表現的言説の最後までの掲載〜

そのゆき様・指導者の広く深い御心に、私は心より感謝しております。
もっとも…これが大袈裟な表現でわざとらしい感じられた方には、心よりの謝罪と弁明を〜。

これも、私的思春期のなせる技であり…。いつの日にか死ぬ前までには、「赤毛のアン」のような、『自己の認識を多くの言葉で語る事を勿体なく感じられる』私になりたい!思いを達成します。自由びと的言葉で書けば、「自由の為の『悟り』の悟得」となりますが…。

その為に私に必要な事は、日常での使用言語の「概念の苦労」なのかな…とも思っています。

本当に皆さん!ありがとうございます!私の観念的世界の観念的記述に最後の最後まで付き合ってくれて…





Posted by 自由びと at 2014年08月31日 12:18
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 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
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 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
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 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
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 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
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 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
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 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
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 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言