2013年12月19日

2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ(3/10)

(3)ヘーゲル『歴史哲学』の要約A

 前回から『歴史哲学』全体の要約に入りました。前回は序論部分の要約でした。簡単にふり返ると、ヘーゲルは世界史を精神がその目的たる自由へといたる過程だと捉え、その手段として主観的精神を扱うということでした。この発展の必然性を把握することこそが、歴史の哲学的把握の核心であり、具体的には東洋の専制政体、ギリシアの民主政体、ローマの貴族政体、ゲルマンの君主政体という形で東から西へと流れるものであり、それは実体的自由から主観的自由への流れだいうことでした。

 今回は、東洋の世界です。東洋の世界は大きく中国、インド、ペルシャ、エジプトという構成になっています。中国では、自然物の中の個別的意志(個人)は実体に対立する自分という意識を持たず、普遍的意志(皇帝の道徳的意志)に服従します。この皇帝は、天(自然物における最高のもの)の代理を務める立法者と見なされます。

 これに対して、インドでは、独立的な主体が生まれています。しかし、それは没精神的なもの(初歩の内面性)にすぎず、自然性の制限(カスト)に束縛されたものにすぎないとされています。

 ペルシアになると、インドのようなカストの別を越えて、その上方に光の純粋性(善)が立っており、各人がその原理に参与するという点で、原理は各人の人格的価値を保証するようになります。この光への崇拝は感性的な方向と精神的な方向へ進み、精神的な方向からフェニキアのアドニス崇拝とユダヤの信仰が誕生したとされています。

 しかし、フェニキアのアドニス崇拝には具体的精神の統一が欠けており、ユダヤの信仰には具体的精神そのものが欠けていました。そこで、これらの互いに対立する要素を統一することが次の課題となり、ここでエジプトが登場したとヘーゲルは説いています。エジプトは、スフィンクスの像に代表されるように精神が自然から抜け始めた段階だとされます。一方、スフィンクスは、精神的なものの意味が解決されるべき課題であることを提示したものであり、これはギリシアの時代において解決されると説かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヘーゲル『歴史哲学』全体の要約A

第1部 東洋の世界

第1篇 中国
 中国においては、個別的意志(個人)は実体に対立する自分というものの意識を全然持たず、ただ無反省に、個人が何をすべきか言い表している普遍的意志(皇帝の道徳的意志)に服従する。皇帝の慈父の心と子としての臣下の精神とが相俟って、全体を一個の王国に形成しているのである。中国には皇帝を除いては特権階級とか貴族とかいうものは存在しない。その他すべてが同列〔平等〕で、ただ行政の手腕をもつ者だけが政務に参与するにすぎない。個々人の利害はそれ自身としては認められず、統治は専ら皇帝から発し、皇帝はこれを官吏(マンダリーン)の機構として動かすのである。

 中国においては、皇帝は国家の元首であるとともに宗教の長でもあり、皇帝の命令と統治とがそれ自身で絶対の正義である。中国において、個人は真の信仰の基礎となるような独立性をもたないから、宗教の中では自然物に依存するしかない。この自然物の中の最高のものが天であり、皇帝は天の代理を務める本当の立法者〔天子〕ということになるわけである。

 中国では、学問が極度に尊ばれているように見えるけれども、その学問には、内面性の自由な地盤も、本来の科学的関心も欠けている。

第2篇 インド
 精神の関心は、外面的に立てられた規定が内面的規定となること、自然界と精神界とが知性に属する内的な世界として規定され、それによって一般に主観と存在を統一する存在の観念論が打ち立てられることにある。この観念論はインドではじまるが、それは没概念的ですべてを空想へと変えてしまうようなものとして登場してくる。

 中国は専制君主によって統一されており、自立の自由というものはなかったが、インドでは区別が台頭し、独立的な主体が生れて来る。しかし、この区別(職業上、身分上の区別としてのカスト)は、有機的生命の場合のように、各部分が一個の魂を再構成して自由に成長させるということにはならず、萎縮し、死んでしまっている。

 インドにおいて宗教上最高の存在とされる梵(ブラフマン)は、あらゆる規定性の根源としての純粋統一である。人間は、実在的な自意識を滅却する(感覚を滅して意識をなくす、あるいは難行によって生を断つ)か、淫逸に恣に耽溺(自然性の中に没入)するかして、自然から自分を区別する意識を滅し、自然と一つになるのである。

 インドの原理からは、ただ抽象的思惟と空想とが発達するだけである。文法などは非常に正確になっているが、学問や芸術で実体的な素材が大切な問題となって来ると、こういう素材は、もうここでは求めることができない。

 中国の国家では、皇帝の道徳的意志が法律となって個人を外から支配するから、主観的自由は抑圧される。インドにおいては想像という初歩の内面性(自然と精神の夢幻的な一体化)があるだけに、自然と精神との原理上の対立がなくなり、主観的自由のみならず、即自的にある意志としての自由(中国における皇帝の道徳的意志に相当するもの)すらなくなってしまう。したがって、本来の意味での国家というものは存在し得ず、実に勝手気儘な専制政治がのさばることになる。

第3篇 ペルシア
 ペルシア王国からはじめて、われわれは歴史の関連の中に踏み込む。ペルシアにおいてはじめて自ら光り輝き、他を照らすところの光が現われる。中国には主観性も各項の独立もなく統一体の外的秩序だけがあった。インドには分離があったがそれは没精神的なもの(初歩の内面性)にすぎず、自然性の制限(カスト)に束縛されていた。ペルシアでは、このようなカストの別を越えて、その上方に光の純粋性(善)が立っており、各人がその原理に参与するという点で、原理は各人の人格的価値を保証しているのである。インドにおける普遍者(梵)は、まったく抽象的な無限な同一性という規定しかもたず、普遍者はただ意識を滅却することによってのみ意識されるという消極的態度があった。しかし、ペルシア人にあっては、人間は普遍者の中にあくまで積極的に生きるという仕方で、普遍者に関係するようになる。この普遍者は精神、真理という形で崇拝されるのではなく、まだ光という自然的形態をとっている。しかし、光は感性的普遍性であり、単純な啓示である。光はそれ自身の中に、その対立として闇をもっている(闇がなければ光もない)が、この対立の統一は、根源的存在としての無限定の全体という漠然とした観念にしかなく、対立を自分の中に再び取り戻すものにはなっていない。

 ペルシア王国は多くの国家からなっているが、その各国家は従属はしていても、各自の個性、それぞれの慣習と法律とを依然として維持していた。これらのすべてが普遍的な光の下で平和に共存していたのである。ペルシア王国は、3つの地理的契機のすべてを包容している。第一は、ペルシアとメディアの高地、第二は、ティグリス河とエウフラテス河との峡谷平野とナイルの峡谷平野であるエジプト、第三は、海洋の危険に身をさらすところの国民(シュリア人、フェニキア人、小アジア沿岸のギリシア植民地)である。ペルシアは3つの自然的原理をその中に統一しているのであり、その統治は、ただ一般的統一の形をとった民族の団結であって、その団結は、それに参与している各民族を自由のままに放任しておく体のものである。

 こうした王国の構成の中で、ペルシア人において登場した光の崇拝は、まるで反対の方向をとる2つの契機へと展開していく。その一方は感性的なものへの耽溺であり、ペルシア王国の外面的富と栄華の要素をなすバビロニア、シリアにおいて見られた。そこでは、自然の力と生殖の力が崇拝対象となり、儀式は贅沢と歓楽の場となっていたのである。展開のもう一方は、精神的な方向であったが、これがまた2つの形をとる。第一は、フェニキアにおけるアドニス崇拝(幼くして死んだ子を神として崇めるもの)である。ここでは否定的なもの(自然的な死)が神の契機であり、その宗教的表現が苦悩であった。人間は苦悩の中で自分の主観性を感得する(初めて自覚的存在となる)。精神的な方向の第二は、ユダヤ人に現われた客観的な神の崇拝である。フェニキアにおいては、精神がまだ自然によって制限を受けていた(神が死という自然的なものを契機としていた)が、ユダヤ人においては、精神が全く純化され、自然や自然との統一と真正面から対立する形をとって展開する。光はいまやエホヴァとなり、純粋な一者となったのである。しかし、この絶対者は抽象的な根本原理として把握されるだけで、まだ具体的な精神として把握されていない。ユダヤ人は、自分の存在の本質を、ただ一者の中におくしかないために、個人〔主観〕は、それ自身では何らの自由をもたないのである。

エジプト
 フェニキアのアドニス崇拝には具体的精神の統一が欠けていたし、ユダヤの信仰には具体的精神そのものが欠けていた。そこで、これらの互いに対立する要素を統一することが次の課題となる。この課題が現われたのがエジプトであった。半獣半人の得体の知れないスフィンクスの像こそ、エジプト精神の象徴である。獣の体からニョッキリ出ている人間の頭は、自然的なものからの脱出を始め、自然的なものを引きちぎって、すでにいくらか自由になって辺りを眺め廻している精神を表わしているが、しかしその精神はまだ全くはその縄目〔束縛〕を抜けきることにはなっていないのである。スフィンクスは、精神的なものの意味が解決されるべき課題であることを、われわれに向って掲げているものにほかならない。謎というものは、一般に分からないことをいうことではなくて、むしろ分からないものを解くことの要求であり、分からないものを分かるようにしてもらいたいという意欲なのである。

ギリシア世界への移行
 東洋精神はエジプトにおいて課題にまで高まったのであったが、その東洋精神の解決と解放とは実に次の点にあった。それは即ち、自然の核心が精神であって、その精神はただ人間の意識の中にのみ存在するということだった。これを成就したものこそ、ギリシア精神であった。エジプトはペルシア王国の一州となっていたから、歴史的な推移はペルシア世界とギリシア世界の接触によって起こる。われわれはここにはじめて国家の没落に立ち会う。外面的推移とは、ほかならぬ支配権の推移ということであり、この面は今後いつまでもくり返される事実である。ペルシアは政治的に一個の精神となっていなかったのであって、そこにギリシアに対して弱点を蔵していた。ペルシア人の抽象的原理は、異民族の対立の無秩序な、具体的でない統一という点で欠陥を暴露した。ギリシア人こそ、精神が自分の中に深く沈潜し、それぞれの特殊性に打ち勝ち、もって自分自身を解放することによって、これらのそれぞれの要素に、はじめて一貫性を与えることのできた民族だといわなければならない。


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 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言
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