2013年12月12日

古代ギリシャ経済の歴史を概観する(1/5)

目次

(1)古代ギリシャ経済を学ぶ意義とは
(2)ポリス社会形成までの過程を辿る
(3)ポリスの3形態――農耕的、商工的およびその混交
(4)アテネの経済――対外依存による発展から衰退へ
(5)プラトン、アリストテレスは自給自足を理想とした

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)古代ギリシャ経済を学ぶ意義とは

 第2次安倍政権が発足して、もうすぐ1年になります。第1次安倍政権が、発足当初こそ高い支持率を誇ったものの、まもなく支持率を急落させ、1年ほどで退陣を余儀なくされたのとは対照的に、第2次安倍政権はこれまで安定して6割前後の高い支持率を保ってきました(もっとも、秘密保護法の強行以降ようやく低下の傾向が見えてきましたが)。第2次安倍政権が高い支持率を保ってきた背景として、アベノミクスなる経済政策への期待があったことは否定できないでしょう。

 アベノミクスは、金融緩和、財政出動、成長戦略を3本の柱とするものとされます。このうち前の2つ、すなわち、金融政策と財政政策で景気浮揚をはかるというのは、いわゆるケインズ的政策であるのに対して、最後の成長戦略なるものは、規制緩和や税負担の軽減などで企業活動への制約を取り払おうというものであり、紛れもない新自由主義的政策です。つまり、アベノミクスというのは、まったく思想的系統の異なる諸政策を混在させたものなのです。

 こうしたごった煮のような経済政策が登場してきた背景には、ここ数年間にわたる世界的なレベルでの経済の混乱があるといえるでしょう。2007年のサブプライム危機や2008年のリーマン・ショックは、市場原理主義ともいわれた新自由主義的な政策思想への批判を強める契機になりました。また、世界レベルでの経済の深刻な落ち込みに対して、金融緩和政策のみならず大胆な財政出動政策への期待が高まり、“ケインズの復活”ともいわれるような情況が現出することになったのです。しかし、大胆な財政出動は、各国の財政状態を著しく悪化させることになりました。いわゆるギリシャ危機をひとつの大きなきっかけにして、各国の財政政策は緊縮政策(支出削減と増税)へと大きくカジを切っていくことになったのです。しかし、緊縮財政は、景気を冷え込ませ、世界的なレベルで民衆の生活を圧迫しますから、各国において政権への国民の不満が高まっていくことになりました。各国政府は、緊縮政策一本槍で押し進めていくわけにはいかず、ある程度の転換を余儀なくされるに至ったのです。こうした情況のなかで、この日本に登場してきたのがアベノミクスにほかなりません(日銀の異次元緩和による資金が、日本の金融市場のみならず、米国をはじめとする海外の金融市場をも潤していることに象徴的に示されているように、アベノミクスなるものもあくまでも世界的なつながりにおいて把握する必要があります)。つまり、深刻な経済危機に直面して各国政府の進める経済政策が右往左往してきたことが、アベノミクスのごった煮的性格に反映しているということができるわけです。

 アベノミクスの結果、景気が持ち直しはじめ、長年のデフレから脱却する展望がみえてきたかのようにもいわれています。円安・株高の進行したことにより、輸出企業の業績が大きく改善し、富裕層も大いに潤ったことは確かでしょう。しかし、労働者の賃金は低く抑えつけられたままですし、中小自営業者の経営状態も依然として厳しいものがあります。さらに重大なのは、来年以降、厳しい緊縮政策――消費税の大増税と社会保障の切り捨て――の実施が控えているということです。くわえて、TPP参加による影響も無視するわけにはいきません。来年以降、日本の景気が深刻に落ち込み、国民の生活が一層厳しい状態に追い込まれることもあり得ないではない(というよりもむしろ、その危険性がきわめて大きい)のです。

 このように、現代の世界においては、経済政策の迷走が人々の日々の生活を大きく翻弄しているという情況があります。それでは、なぜ経済政策が迷走するのかといえば、それは結局のところ、本来なら的確な経済政策を導く指針となるべき経済学がきわめてお粗末で頼りない状態にあるからだといわざるをえません。もう少し詳しくいうならば、学問の名に値するまっとうな経済学の体系がいまだに確立されておらず、経済についての基本的な見方・考え方が異なる複数の流派が分立し、相互に論争を繰り広げている状態にあるからなのです。これは非常に困ったことです。例えば、もし、医学において根本的に考えの異なる流派があったとして、それぞれの立場に立つ2人の医師が、ある患者のある病気の原因にたいして、まったくちがう原因を主張し、まったく正反対の治療法を提案したらどうでしょうか? 医療現場は混乱し、とてもまともな治療は期待できません。そうしたなかで、2つの治療方針を適当に折衷させてしまう――アベノミクスというのはちょうどそういう性格をもっています――としたら、それは暴挙というほかありません。現在の経済学の世界は、ちょうどそういう情況にあるといわなければならないのです。

 こうした現在の混迷した情況を打開する上で大切なのは、経済学の原点に立ち返って考える、ということです。そもそも経済学とはどういう学問だったのか、どういう問題意識を掲げ、どういう視点をもったものだったのか、問い直していく必要があるのです。

 それでは、経済学において、立ち返るべき原点とはいったいどこでしょうか。直接的には「経済学の祖」とされるアダム・スミス(『道徳感情論』『国富論』)であるといえるでしょう。わが研究会が、この間、アダム・スミスについて検討を深めているのは、このためにほかなりません。

 しかし、経済学をひとつの個別科学として確立したのはスミスの偉大な功績にほかならないとはいえ、スミス以前の学者たちが、経済的な事象を学問的な考察の対象にしなかったわけではありません。ただそれが、経済学という独立した一個の科学という形態をとるまでには至らなかった、というだけなのです。このような観点から考えてみるならば、経済学の究極の原点は、あらゆる学問の原点というべき古代ギリシャ哲学に求められるべきだということになるでしょう。具体的に注目すべき文献としては、クセノフォン『家政について』、プラトン『国家』、アリストテレス『政治学』『ニコマコス倫理学』などを挙げることができます。現代の経済学の混迷した情況を打開するためのヒントを得るためには、スミス『国富論』にくわえて、これらの文献を真剣に検討していくことも必須の作業となるでしょう。

 しかし、これら古代ギリシャ哲学者たちの著作を学ぶのには、スミス『国富論』を学ぶのとは別種の困難さがあることに注意しなければなりません。それは、スミス『国富論』が研究の対象としたのは勃興期のイギリス資本主義であり、基本的に現代社会と同じ構造(資本主義経済としての普遍性)をもつものであったといえるのに対して、古代ギリシャの哲学者たちが見ていた古代ギリシャ社会の経済は、現代社会の経済とは大きく異なる構造をもつものであったのだということです。もちろん、スミスが見ていた18世紀イギリスの資本主義経済に比べると、現代世界の資本主義経済が大きな変貌を遂げていることは間違いないのですが、それは「生命の歴史」になぞらえてみるならば、魚類の体の構造と人間の体の構造くらいの相違にとどまっているといえます。ですから、スミス『国富論』の記述は、そのまま現代経済に通用するものと受けとって読んだとしても、それほど大きな問題は生じないといえなくもないのです。これに対して、現代経済と古代ギリシャ経済は、人間の体と単細胞体くらいの違いがあるといわなければなりません。ですから、プラトンやアリストテレスなどの著作を『国富論』と同じような感覚で読んでいくわけにはいかないのです。彼らの経済的思想が盛り込まれた著作をまともに読みこなしていくためには、彼らが見ていた古代ギリシャの経済が、私たちが見ている現代の経済と大きく異なるものであったことを、明確に意識しておく必要があるのです。

 わが研究会では今後、経済学の直接の原点たるアダム・スミスの著作にくわえて、経済学の究極の原点ともいうべきプラトンやアリストテレスなどの著作についても、本格的に検討を深めていくことにしているのですが、そのための大前提として、何よりもまず、現代資本主義経済と大きく異なるものであったであろう古代ギリシャ経済の姿について、大雑把にでもイメージを描いておく必要があります。

 本稿は、以上のような問題意識から、古代ギリシャ経済の歴史について概観することを試みるものです。とはいえ、古代ギリシャ経済と現代資本主義経済の差異にばかり注目するわけにはいきません。人間と単細胞体が見かけの上でどれほど大きく異なっていようとも、生命体としての共通性に貫かれているのと同様、古代ギリシャ経済と現代資本主義経済は、見かけの上でどれほど大きく異なっていようとも、経済としての共通性に貫かれているはずです。高度に複雑化した現代資本主義経済に比較して、古代ギリシャの経済は比較的単純な構造をもっていることが予想されるだけに、その検討をつうじて、現代経済の複雑な構造の背後に隠された経済の本質を浮き彫りにすることも可能になってくることが期待されます。わが研究会は、経済の本質について、あくまでも仮説的なレベルではありますが、「無限に発展していく社会的欲求を最大限満たしつづけるべく、有限な社会的総労働を適切に配分していくこと」と定義しています。このような仮説的経済本質論も念頭におきつつ、次回以降、古代ギリシャ経済の歴史を概観していくことにしましょう。
posted by kyoto.dialectic at 05:00| Comment(12) | TrackBack(0) | 経済学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
5回の連載が楽しみです。期待しております。

ちなみに、古代ギリシャの「経済思想」ではなく「経済活動そのもの」を知る文献があればご紹介ください。

カール・ポランニーの『人間の経済』や岩片磯雄さんの『古代ギリシャの農業と経済』あたりでしょうか?

素人的に考えて、プラトンやアリストテレスの「経済思想」は「当時の経済の現実」に規定されていると共に、「当時の思考力」に規定されていたと推測することが出来るのではないかと考えるところです。

ですから、当時の経済状況と経済思想とは一対一の完全対応するとは思えず、現代経済学から当時の経済活動にメスを入れることも可能てはないかと思うところです。

そんな相対的独立な現実があるのか否か?調べてみなければ分かりませんが、とにかく連載を楽しみにしております。
Posted by 匿名希望 at 2013年12月12日 18:34
経済について本質的なところに行き当たりました。見解が一致するか楽しみでもあります(^^)
Posted by 匿名希望あらためイヴァン at 2013年12月12日 19:50
イヴァン様、コメントありがとうございました。古代ギリシャの「経済活動そのもの」を知る文献として、古典的なものとしてはウェーバー『古代社会経済史』などがあるのではないでしょうか。本稿の執筆にあたって大いに参考になったのは、宮本又次『ギリシヤ社会経済史』(弘文堂)です。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2013年12月14日 07:15
S・Kさま

お返事ありがとうございました。

調べたところ『ギリシア社会経済史』は極めて貴重な本で入手困難のようですね。国会図書館あたりで閲覧するしかないようです。

ちなみに、貴君の
>「無限に発展していく社会的欲求を最大限満たしつづけるべく、有限な社会的総労働を適切に配分すること」
との経済の本質仮説なのですが、これは現在でいう「人事経済学」に相当するのでしょうか?
「適切に配分すること」という実践的な志向性から政策経済学を指しているようにも思ったのですが、配分するのが「所得ならぬ労働」ですから「所得の再配分」は除外されるのでしょうし。

門外漢の素人ではありますが、プラトンやアリストテレスは確かに「国家政策」の一として経済を論じたのだと思うのですが、今現在彼らが用いた「欲望」「分配」「無限、有限」「正義」といった概念を使って経済が語れるものなのか疑問を持っております。

例えば、「需要」という経済学的な専門用語で「買う」ことを想定することと「社会的欲求」というヨリ広いカテゴリーを使うこととで違いがあるのか?私にはS・Kさまの本質仮説には経済がないように感じてしまうのですが…
Posted by イヴァン at 2013年12月15日 11:08
 「社会的総労働の配分」という仮説的本質論は、ヒューム、アダム・スミス、マルクス、ケインズなどが、結局何を問題にしていたのか、と問うてみた上で、導き出したものです。こうした観点が比較的はっきりと打ち出されているものに、マルクスがクーゲルマンに宛てた有名な手紙(1868年7月11日)があります。

 分配される「所得」というのは労働によって産み出されたものですし、所得を分配するのは、労働が継続的に行われるようにするためにほかなりません。所得の生産→分配→消費という流れを根底的に規定するのは、社会的総労働の配分のあり方でしょう。

 経済本質論については、いずれ別の小論で詳しく論じることにしたいと思います。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2013年12月16日 06:57
ありがとうございます。

「社会的総労働の配分」というのはマルクスの考えでしたか…。

大変に勉強になりました。本業の合間に今後もリサーチするつもりです。ただ、この経済規定は必然的に計画経済につながるもので、計画経済は淘汰され市場による自由経済が選ばれたのが歴史的な現実ではないか?と…

Posted by イヴァン at 2013年12月16日 11:38
 「社会的総労働の配分」というのは、マルクスのみならずスミスやケインズについても、究極的な問題意識はそこにあったのだ、と言い得るものだと思います。スミスの理論においても、かの有名な「見えざる手」によって実現されることが期待されているのは、結局のところ社会的総労働の合理的配分にほかなりません。

 計画経済だろうが市場経済(自由経済)だろうが、実現されるべきは、社会的総労働の適切な配分です。前者においては、それがいわば「見える手」によって目的意識的になされるべきだとされるのに対して、後者においては、あくまでも「見えざる手」の機能に期待する、といった違いがあるだけで、両者は本質においては同じでしょう。森嶋通夫『思想としての近代経済学』(岩波新書)では、「自由経済も一種の計画経済と解釈できる」「基本的なのは計画経済であって、資本主義経済はその一種」(pp.204-205)と述べられています。

 なお、「配分原理」こそ経済の本質だとの主張を明確に打ち出した人物として、大熊信行(1893-1977)がいます。三浦つとむさんは、大熊がマルクス主義における「生活の生産」概念を正しく理解していなかったことを批判していますが、配分原理こそ経済の本質だという主張には非常に鋭いものがあるように思います。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2013年12月17日 06:25
S・Kさま

勉強させていただいております。森嶋通夫さんと大熊信行さんの著書も参照するつもりです。

ただ、現時点ではやはり「社会的総労働の配分」という概念が上手く理解できず、ニューディール政策やナチスのナチスの労働者政策などの、あるいは旧社会主義国のような特殊な状態を想起してしまいます。

S・Kさまは古代ポリスを「戦士の共同体」と呼ばれておりますが、イメージは自由主義経済とは対極の「戦時下の国家統制経済」ではありませんか?

アダム・スミスの古典的経済学(自由放任的自由主義)は「自由主義」によるGNPの増大が国内の最貧層さえも未開より豊かになると「自然なる貧富の差」を是認していたそうですから、「計画経済」でも「国家による労働分配」でも無いように思うのですが…。

社会保障は極めて重要だとは思いますが、社会保障を経済の本質としてしまうことは逸脱・行き過ぎかと考えます。そこには対立統一の二重構造が存在し、それが今日の新自由主義として顕れているのではないでしょうか?
Posted by イヴァン at 2013年12月17日 13:48
 「社会的総労働の配分」というのは、社会における様々な欲求を満たすために、どの生産部門にどれだけの労働力(並びに生産手段〔=対象化された労働〕)を配置すればよいのか、ということです。

 スミスは、富とは(重商主義が主張するような金銀ではなく)生活資料のことであり、その源泉は国民の労働にほかならぬ、としました。その上で、どの部門にどれだけの労働(富の源泉!)が配分されるべきかという問題は、国家権力が恣意的に介入しなくても、自由競争に任せれば「見えざる手」が上手く解決してくれるのだ、と主張したわけです。

 新自由主義の理論的根拠ともいうべきミクロ経済学は、しばしば、市場における自由競争によって効率的な資源配分が実現されることを論証するものである(端的には、ミクロ経済学は効率的な資源配分についての理論である)とされます。人間は労働によって自然(地球環境)を能動的に変革することによって生活そのものを生産するのだ、という観点からすれば、この「資源」というのは対象化された労働にほかならないし、資源配分は労働の継続のために行われるものにほかならない、ということになるのではないでしょうか。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2013年12月18日 18:13
S・Kさま

『国富論』も真っ当に読んでいなかった私が経済学のことなど分かろうはずもないのですが、それでも現在までの感想を述べることをお許しください。

S・Kさまの説く「社会的総労働の配分」というのは、アダム・スミスの原書では「Division of Labour」のことですよね?「労働の配分」というのは経済学では専門用語なのかも知れませんが、私のような門外漢でも「分業」という言葉でしたら違和感なく了解できます。そしてそれは「生産力を増大させるため」ですから。

ですが、「社会的総労働の」という規定がこれまた引っかかってくるのです。たとえばキリンビールという会社があり、企業内業務を製造工程から流通、宣伝広告まで分業しているとします。そしてアサヒビールという会社が「俺たちも独立起業しよう」と会社を立ち上げて企業内分業を進めていったとします。その場合、それは決して「ビール製造業」という総労働を分割分業したわけでも分配したわけでもありません。私が引っかかり違和感を感じているのは、そういった言語表現の部分なのです。

『国富論』を読んでから、あらためて考察してみるつもりです。
Posted by イヴァン at 2013年12月19日 00:57
 この数日忙しく、返信が遅れて申し訳ありません。

 スミスのいわゆる分業は、工場内の分業(作業の分割)という意味で使われる場合と、社会的分業(一個の国家内における職業の分化)という意味で使われている場合があります(後にマルクスがこの両者を明確に異なった概念として区別すべきだとしました)。私が、「社会的総労働の配分」というのは、何よりもまず後者の意味です。スミス『国富論』のなかでは、以下の文章が、経済本質論とのかかわりにおいて注目に値するとおもいます。

「多数の労働者を雇用する資本の所有者はとうぜん、自分の利益のために、達成可能な最大量の製品が生産できるように、仕事の適切な分割と分配を行おうとつとめる。これと同じ理由から、かれは、自分なり労働者なりが考え及ぶ最善の機械類を労働者に供給しようとつとめる。個々の作業場の労働者間に起ることは、同じ理由から、社会全体の労働者間にも起る。労働者の数が多くなればなるほど、かれらはますます仕事のさまざまな種類や小部門に自然に分れる。ますます多くの人々が、各自の仕事を遂行するうえにいちばん適切な機械類の発明に専念し、したがってまたそういう機械類が発明される見込みもいっそう大きくなる。それゆえ、こうした改善の結果として、多くの商品がいままでよりもずっとわずかな労働で生産されるようになり、労働の価格の騰貴を相殺してあまりあるほどになるのである。」(スミス『国富論 T』中公文庫、p.147)
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2013年12月22日 07:16
S・Kさま

忙しいのはお互いさまです。私も多忙な日々を過ごしております。

同じく中公文庫版の『国富論』を発注しましたので、検討していくつもりです。

私も「青春の弁証法」というブログを立ち上げましたので、気が向いたらお立ち寄りください。S・Kさまの記事から私が受けている良い刺激を、S・Kさまにもお返しできればいいのですが…。
Posted by イヴァン at 2013年12月22日 13:16
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 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
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 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
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 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて