2013年08月09日

カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える(2/5)

(2)スミスは利己性と共感の原理との矛盾において人間を把握した

 本稿は、カントが自身の歴史哲学を構想していく過程において、アダム・スミスの『道徳感情論』から何らかの示唆を得たのではないか、という問題意識の上に立って、スミス『道徳感情論』における人間観および社会観と、カント「世界公民的見地における一般史の構想」における人間観および社会観とを比較検討し、スミスの議論をカントがどのように発展させようとしたのか、考えていくことを目的としたものです。

 今回は、そもそもスミス『道徳感情論』における人間観および社会観とはどのようなものであったのか、確認しておくことにしましょう。この『道徳感情論』において、スミスの人間観がもっとも端的に表現されているのは、『道徳感情論』の冒頭の文章であるということができます。

「人間というものがどれほど利己的なものだと思われるにしても、なおその本性のなかには、他人のことに関心をもたずにはおれないという何らかの原理があきらかに存在しているのであって、その原理は、他人の幸福について、それを目にすることが快いということ以外に何も得ることがなくても、自分にとってなくてはならないものだと感じさせるのである。」(『道徳感情論』冒頭、筆者訳)


 このように、スミスは『道徳感情論』の冒頭において、人間の本性を、利己的である(何よりもまず自分のことに関心をもち、自分のことを大切に考える)と同時に、他人のこと(他人の運不運)にも関心をもたずにはおれない、という二重性において把握したのでした。この後の部分で、スミスは、「他人のことに関心をもたずにはおれないという何らかの原理」というのが、共感(sympathy)の原理にほかならないこと、より詳しくいうならば、人間は想像力を使って相手の立場に立ってみることで相手の感情と同様の感情を抱く能力をもっていることを説明していきます。

 もっとも、人間の本性を利己的(selfish)であること、および、それと対立する要素との二重性において把握しようという試みは、何もスミスがはじめておこなったものではありません。人間を自己保存欲求の側面から利己的な存在として把握したホッブズ(1588〜1679)の主張は、当時の人々に大きな衝撃を与えたのですが、18世紀になると、ホッブズの論への対抗を意識しつつ、人間の本性を単純に利己的なものだけに解消してしまわないような論が、諸々に模索されていくことになったのです。こうしたなかで、利己的であることと対立する要素として措定されたのは、利他的(altruistic)であること(他人の利益を重視して他人の利益になるように行動しようとする)や、道徳感覚(善悪や正邪を知覚する感覚)でした。しかし、強烈な自己保存欲求をもつ個としての人間が、利己的であるのと同じレベルにおいて、もともと(生まれながらにして)利他的な性格をも備えているというのは、いささか説得力に欠ける議論であることは否めませんでしたし、道徳感覚なる感覚というのも、本当に実在するものであるのかどうか、疑わしいものでした。

 これらにたいして、スミスが利己性に対置したのは、「他人のことに関心をもたずにはおれない」というきわめて素朴なレベルにおける心の働きだったのです。ここで注目すべきなのは、スミスにおいては、人間本性におけるこのような二重性の把握が、人間および社会についての論を展開していくための出発点として、明確に位置づけられたことです。マルクス『資本論』のすべての議論が、商品の二重性(使用価値と交換価値)の把握を原点として流れ出しているのと同じように、スミス『道徳感情論』のすべての議論は、人間本性の二重性(利己性と他人への共感)の把握を原点として流れ出しているのです。スミスの議論においては、善悪や正邪の判断とか利他心(仁愛)とかいった心の働きも、あくまでも「他人のことに関心をもたずにはおれない」という素朴なレベルにおける心の働きを出発点にして、そこからしだいしだいに形成されていくものとして、解かれていくことになったのでした。

 以上のようなことをふまえた上で、『道徳感情論』の議論の大筋を確認しておくことにしましょう(*)。

 周囲の人々に関心をもたずにはいられない存在である人間は、他人から共感されることに快さを感じ、共感されないことに不快さを感じます。われわれは、他人からの共感を獲得することを切望するがゆえに、「他人の目から見て自分はどう見えるのか」を問わずにはいられなくなってくるのです。われわれは、周囲の人々を、自分の感情・行為が妥当なものであるか否かを映し出してくれる鏡とします。すなわち、自分の感情や行為にたいして周囲の人々が示した反応の良し悪しによって、自分の感情・行為の妥当性を判断していくのです。こうした経験を数多く積み重ねていくことによって、われわれの胸中に、特定の利害関係や特別の好意あるいは敵意にとらわれることなく、自身の行為・感情の妥当性を判断してくれる「公平な観察者」が創出されていくことになります。われわれは、胸中の「公平な観察者」の視点を借りて自分自身の行動の妥当性を判断することにより、利己心をコントロールしていくようになるのです。このようにスミスは、本来的に利己的な存在であるはずの人間が社会の秩序をきちんと形成していくことができるのは、現実の他者とかかわる経験(想像上の立場の交換)を積み重ねていくことによって胸中に「公平な観察者」を創出し、それによって利己心を適切にコントロールするようになるからにほかならないのだ、と論じたのでした。

 ここで注目しておきたいのは、スミスが、第2部の第1篇・第5章において、「人間は、社会の繁栄と存続とを望むような資質を生まれながらに付与されている」「自己保存と種族繁栄とは、自然がすべての動物を創造する際に企図していた偉大な目的なのである」とした上で、自己保存と種族繁栄につながる諸々の手段(飢えを満たしたり、渇きを癒したり、異性と結びついたり、苦痛から逃れたりするための諸手段)は、本源的で直接的な本能によって、あくまでもそれ自身のために追求されるのであって、それらが社会の繁栄と存続という慈恵的な目的に資するのだ、という理性的な判断を媒介として追求されるわけではない、と説いていることです。にもかかわらず、自然の偉大な支配者(=神)は、人間が諸欲求を満たすために追求する諸々の手段をつうじて、社会の繁栄と存続という目的の実現につながるような傾向を生みだそうと意図していたのだ、とスミスは説きます。つまり、人間はただただ利己的な諸欲求を追求しているだけのつもりでありながら、知らず知らずのうちに、社会全体の利益の促進という神の意図を実現していくのだというわけです。このような見方が、有名な「見えざる手」の議論へとつながっていくことになります。

「富裕な人々は、貧乏人にくらべてほんの少しばかり多く消費するにすぎず、彼らは生来の利己性と貪欲さにもかかわらず、〔中略〕自分たちの改良の成果を貧乏な人々にも分配する。彼らは見えざる手によって、仮に土地がその上に住むすべての人々の間に平等な面積で分割されていた場合になされていたであろうと思われるのとほぼ同様の生活必需品の分配をなすように導かれていくのであって、このようにして何ら意図することなく、また自覚することもなく、社会の利益を促進し、種族繁栄のための手段を供給することになるのである。」(第4部、第1章。筆者訳)


 ここでは、「見えざる手」が、富裕な人々による利己的な富の追求行動を、貧しい人々への生活必需品の供給という結果へと導いていくものとして位置づけられています。ちなみに、『国富論』における「見えざる手」は、より確実でより大きな利潤を追求する資本家の利己的行動を、きわめて不安定で一部の人々の利益にしかならない外国貿易への資本投下ではなく、国民全体の富を安定的に増大させる国内産業への資本投下へと導いていくものとして位置づけられています。いずれにせよ、スミスのいわゆる「見えざる手」とは、個々人の意図をこえて、自覚されることなく自然の創造主たる神の意図(社会全体の利益)を実現するように機能するものとして位置づけられているといえるでしょう。

 ここで考えてみなければならないのは、このような「見えざる手」がきちんと機能することを保障しているのはいったい何なのか、という問題です。結論からいえば、それこそ、個々人の胸中に存在する「公平な観察者」なのではないか、と考えることができます。『道徳感情論』第3部の第5章において、スミスは、「公平な観察者」の命令が神の戒律と同視されることを肯定的に捉えています。ここから、個々の人間はそれぞれに利己心に突き動かされながらも、神の戒律と同視されうる胸中の「公平な観察者」の命令によってコントロールされるがゆえに、社会全体としては望ましい結果が導かれていくのだ、という社会観を見て取ることができるでしょう。

 そもそもスミスは、大きくいえばニュートン以来の理神論の系譜に属していました。理神論とは、神は世界(宇宙)を創造したものの、創造後の世界は神からの介入によらずに自分自身の法則性にしたがって運動・発展していく、という見方にほかなりません。この見方からすれば、世界の運動・発展を規定する法則性は、神が世界の創造に際してプログラムしておいたもの、ということになります(ここから、自然の法則性と神とが同視されていくようになります)。結局のところ、スミスにおいては、創造主たる神は、人間を創造するに際して、「公平な観察者」による利己心のコントロールという形態が創出されていくように、その本性に利己性と共感の原理という二重性(矛盾)を内在させておいたのだ、と捉えられているのだということができるわけです。

*『道徳感情論』の詳しい内容にかんしては、本ブログに掲載したアダム・スミス『道徳感情論』を読む(全22回)を参照してください。
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 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言