2013年07月05日

ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか(1/5)

目次

(1)ヒュームの提起した問題――因果律は主観的な信念にすぎないのか
(2)カントは認識と客観的世界との関係を本質的なレベルで考察した
(3)スミスは科学的認識成立の過程的構造を歴史的に究明した
(4)カントの議論とスミスの議論とは互いに補い合う関係にある
(5)客観的法則性は能動的な問いかけによってこそ把握される

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)ヒュームの提起した問題――因果律は主観的な信念にすぎないのか

 私たちは、毎日の生活のなかで諸々の出来事にぶつかります。そうしたなかで、ある特定の出来事につづいて別のある出来事が起きるという経験が何度も何度もくり返されていくと、私たちはその2つの出来事をむすびつけて理解していくようになります。「手を叩けば音がなる」とか「マッチを擦れば火がつく」とか「蛇口をひねれば水が出る」といった具合に、です。ここから、原因と結果という観念、難しい言葉でいえば因果律というものが生じてくることになります。例えば、手を叩いたことが原因となって音がなるという結果が生じたのだ、ということになるわけです。私たちが目にする現実の世界は無限の多様性に満ちており、それらが複雑に絡み合いながらたえず流転しているものですが、私たちは諸々の出来事を原因と結果というつながりにおいて理解することによって、それなりに筋のとおった世界像を描き出そうとしているのだ、ということができるでしょう。

 しかし、ここで大きな問題が生じてくることになります。それは、人間は諸々の出来事をつなげて理解しようとするが、現実の世界においてそれらの出来事が実際につながっているかどうかは別問題である、ということです。たとえば、「流れ星に願い事をしたら実現した」とか「てるてる坊主をつるしたら天気が良くなった」というのはどうでしょうか。あるいは「風が吹けば桶屋が儲かる」というコトワザはどうでしょうか。これらについては、現実の世界のなかにそういう(原因と結果の関係として捉えられるような)つながりが存在しているのだ、というわけにはいきません。これらは、現実の世界の客観的なつながりとは異なるつながりを、人間が自分のアタマのなかで勝手につくりあげてしまった例だということができるわけです。

 これらは極端な例ですが、何が原因で何が結果なのか、というのはなかなか難しい問題です。「癌の原因は何か(どういう原因によって癌という結果が生じるのか)」という問題ひとつとっても諸々の見解がありますし、現時点において原因として広く認められているものが将来的には「無関係でした!」ということにならないともかぎらないのです。このように考えてみると、私たちがアタマのなかにおいて原因と結果というつながりで理解していることが、はたしてどれほど確かなことなのか(現実の世界のあり方に根拠をもっているといえるのか)、大きな疑問が浮上してくることにもならざるをえません。

 因果律というものがもつこのような問題を徹底的に考え抜いたのが、イギリス経験論を代表する思想家であるデイヴィッド・ヒューム(David Hume 1711〜1776)でした。ヒュームは、最初の著作にして代表作たる『人間本性論』(A Treatise of Human Nature 1739)において、因果律というものについて検討し、懐疑論と呼ばれることになる議論を展開したのです。

 ヒュームはまず、人間の心(mind)に現れるすべての「知覚 perception」を「印象 impression」と「観念 idea」とに二大別するところから議論をスタートさせています。ヒュームによれば、印象とは生き生きとした直接的な知覚のことであり、観念とは印象の再現であり印象ほどの勢いをもたない知覚のことです。ヒュームは、あらゆる観念を(経験から生ずる)印象に還元することで、生得観念なるものが存在することを否定したのでした。さらにヒュームは、印象や観念のもっとも基礎的な単位として単純印象、単純観念を想定することで、知覚を原子論的に捉えようとします。つまり、私たちが心(認識)のなかで原子としての単純印象や単純観念を任意に結びつけたり切り離したりすることで、複雑印象や複雑観念をつくり出していくのだ、と捉えようとしたわけです。ここで重要なのは、ヒュームにおいては、因果律(原因と結果とのつながり)というものが、知覚の原子(基礎単位)たる単純印象・単純観念を結びつける原理の一つとして位置づけられることになったのだ、ということにほかなりません。つまりヒュームは、原因と結果とのつながりという問題を、現実の諸々の出来事がどのように関連しているのかという問題としてではなく、私たちの心(認識)のなかで諸々の印象や観念がどのようにつなげられていくのかという問題として、捉えようとしたわけです。ひとつ、ヒュームのいうところを聞いてみましょう。

「二つの対象がわれわれに現われていて、その一方が原因、他方が結果であるとしよう。明らかに、一つの対象、あるいは両方の対象をただ調べるだけでは、それらをつなぎ合わせる結び目は決して知覚されないだろう。つまり、両者の間に結合があると確信をもって断言はできないであろう。
 しかし今度は、同じ対象がつねに相伴っているような実例をいくつか観察するとしよう。そうすると、われわれはすぐに両者の間の結合を思いいだき、一方から他方へと推理を行ない始めるだろう。したがって、類似する事例のこのような積み重ねこそが、力もしくは結合のまさしく本質を構成し、その観念が起こる源なのである。
 これらの事例はそれ自体としては互いにまったく別個のものであり、それらが結びつくのは、事例を観察し、その観念を集める心のなかを除いてほかにはない。そこで、必然性はこのような観察の結果であり、心の内的な印象、つまり、思考を一つの対象からもう一方の対象へと向かわせる規定にほかならないということになる。
 要するに、必然性は心のなかに存在する何ものかであって、対象のなかにあるのではない。もし必然性を物体のなかにある性質と考えるなら、必然性のほんのかすかな観念を形作るのさえ不可能である。必然性の観念をまったく持たないか、それとも必然性は、原因から結果へ、もしくは結果から原因へと、経験された、結びつきに従って移る思考の規定にほかならないか、そのいずれかなのである。」(ヒューム『人性論』、中公クラシックス、pp.85〜86)


 このようにヒュームは、原因と結果にかんするすべての推論は、習慣(例えば、Aという出来事に続いて必ずBという出来事が起きるという経験のくり返しにもとづく習慣)のみに起因するものであり、因果律というのは主観的な信念にほかならない、と考えたわけです。たしかにヒュームの主張するように、原因と結果との「結合」なる実体が現実世界のなかに客観的に存在するわけではありません。だとすれば、ある出来事と他の出来事を心(認識)のなかで結びつけてみるという場面以外に因果律の存在を指摘することができない、というヒュームの主張は、因果律というものがもつ重要な一側面を鋭く突いた主張であるといえるでしょう。

 しかし、因果律を(現実の世界のあり方と切り離して)印象や観念の結合の問題へと還元してしまうことは、不可避的に大問題を提起するものでもありました。それは、自然科学的な認識の確実性をどのように考えるのか、という問題にほかなりません。「啓蒙と理性の世紀」とされる18世紀においては、前世紀末におけるニュートン力学の形成という決定的な出来事もあって、自然科学的な認識は絶対的な確実性をもつものとして、すなわち、現実世界の合理的な構造を人間の理性が間違いなく把握したものとして、受け止められていました。しかし、ヒュームのように因果律を主観的な信念にほかならないと考えるならば、その自然科学的認識の絶対的確実性が大きく揺らいでしまうことになりかねないのです。はたして私たちは、自然科学的な認識と現実世界の客観的法則性との対応という問題をどのように考えていけばよいのでしょうか。

 この大問題に挑んだ哲学者としてよく知られているのが、イマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724〜1804)です。ヒュームの懐疑論(因果律批判)に強い衝撃を受けて「独断のまどろみ」から覚まされたカントは、ヒュームの提起した問題を、そもそも人間の認識はこの世界の姿をどのようにして捉えるのか、という問題として徹底的に突き詰めて考え抜き、10年以上の歳月をかけて『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft 1781)を書き上げたのでした。

 しかし、ヒュームの提起した大問題を深刻に受け止め、それを克服しようと挑んだのはカントだけではありません。ヒュームの問題提起に挑んだ哲学者として、ここにもう一人、『道徳感情論』『国富論』の著者として知られるアダム・スミス(Adam Smith 1723〜1790)の名をあげることができます。カントより1歳年長の彼が若い頃に書いたと思われる「哲学的研究を導き指導する諸原理――天文学の歴史による例証」(The Principles which Lead and Direct Philosophical Enquiries illustrated by the History of Astronomy 通称「天文学史」)という論考は、ヒュームの提起した問題にひとつの答えを与えようとする試みであったと考えることができるのです。スミスは、この「天文学史」において、学問的な認識が歴史的にみてどのように発展してきたのかを具体的にたどってみることで、人間の認識が客観的な現実世界の法則性をつかんでいく次第(科学的認識成立の過程的構造)をあきらかにしようとしたのでした。

 こうしたカントやスミスの試みが、人間の認識と現実世界の客観的法則性とはどのように関係しているのか、科学的な認識とはどのようにして成立するものなのかという問題について、大きな示唆を与えてくれるものであることは間違いありません。本稿では、このような観点から、ヒュームの提起した問題にたいしてカントおよびスミスがそれぞれどのように答えようとしたのかを比較検討することをつうじて、そもそも学問体系とはどういう認識なのか、それはどのような過程的構造において成立していくのかという問題について、考えていくことにします。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

今回のテーマは、
「弁証法は思考法則」であるか、
「森羅万象の運動・変化の法則」であるか、
の議論に似ていますね。

今回も今後の展開を楽しみにしています。

Posted by 自由びと at 2013年07月05日 11:47
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 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか