科学の歴史に名を残す偉大な科学者を紹介する「科学者列伝」シリーズも,今回で終了となります。最終回は「19世紀の精神科学編」として,ヘルバルト,マルクス,フロイトを取りあげたいと思います。初回はヘルバルトの生涯や業績を紹介します。
ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト(Johann Friedrich Herbart, 1776年-1841年)は,1776年,オルデンブルクで生まれました。彼の父は街の法律顧問官兼参事官で,母は同じ街の娘で想像力・決断力・強固な意志・不屈の精神など男性的な美徳を備えた人物でした。母はヘルバルトの教育に非常に熱心で,特に音楽に関しては,幼児期からヴァイオリン・チェロ・竪琴・ピアノの楽器を学ばせました。ピアノに関してはその天分を示し,11歳でコンサートを開き,その演奏に対して拍手喝采だったと言われています。また,ヴォルフ哲学に造詣の深い家庭教師による教育も行われました。後のヘルバルトの哲学的思索や体系性の萌芽はここではぐくまれたと言われています。さらに,1785年(9歳)から1年間,後にライプチヒ大学教授となるクルーゼの私塾に通い,自然科学に関する学びを深めました。
1788年にギムナジウムに入学してからは(正確にはヘルバルトが入学した翌年,ギムナジウムに昇格された),その哲学的な才能が開花し,14歳にして人間意志の自由に関する論文を書いたと言われています。17歳には,卒業式にて「国家において道徳の向上と堕落とを将来する一般的原因について」というテーマの演説を行い,翌年の自身の卒業の場では,「最高善及び実践哲学についてのキケロ及びカントの思想」の卒業演説を行いました。
1794年(18歳),イエナ大学に入学したヘルバルトは,後に生涯の友となるシュミット(Joh.smidt)が主宰する「文学会」というサークルの会員になりました。当時の学生たちが無意味な宴会や,野蛮な決闘に興味を持つ低級卑俗な様相を示していたのに対して,この「文学会」では,一切の世間的雑談は禁止され,それぞれの研究テーマに沿った論文の研究討議が行われていました。ここでヘルバルトはさらに哲学的思索を深めるとともに,フィヒテに直接師事して学んでいきました。しかし,次第にフィヒテ哲学に対して懐疑を抱くようになり,真理を求めて苦悶の日々を送るようになります。
そこへ,ベルンの貴族シュタイゲル氏から家庭教師の依頼があり,ルードウィヒ(14歳),カール(12歳),ルドルフ(8歳)の教育に携わるようになります。なお,この時代の家庭教師というのは,現在のようなものではありません。朝から夜まで共にするのであり,まさに教育担当として家族の一員になるというレベルのものです。1797年から1799年まで務め,その3年間の記録は『シュタイゲル氏への教育報告』という形で残されています。ここには,管理・訓練・多方興味など後のヘルバルト教育学の要素が見られます。
家庭教師時代,ヘルバルトはペスタロッチの学舎を訪問し,その授業を参観するとともに,ペスタロッチとの親交を深めました。『ペスタロッチの近著・ゲルトルートはその子をどのように教えたかについて』『ペスタロッチの直観のABC』などの著作も執筆し,ヘルバルトはペスタロッチの実践を理論化したと言われています。
1802年には,ゲッチンゲン大学の講師として務めるようになり,教育学のみならず,倫理学や実践哲学の講義を行うようになりました。そして,『教育の主要任務としての世界の美的表現』を執筆し,自身の教育に関する根本的な立場を明らかにするとともに,1806年(30歳)には代表的な著作『一般教育学』を著し,自身の教育学の体系を明らかにしました。
その後,カントの後任としてケーニヒスベルク大学の哲学教授となりました。この時期には『心理学教科書』を執筆しています。実は「心理学」という言葉を初めて使ったのはヘルバルトだとも言われています。1833年(57歳)にゲッチンゲン大学に戻ってから,もう1つの代表作『教育学講義綱要』を著しました。その6年後,65歳で死去します。
このように,ヘルバルトは幼児期からその哲学的才能を発揮し,その実力でもって,家庭教師としての自身の経験や,ペスタロッチの実践を捉え返し,自身の教育学を構築しました。それは『一般教育学』において現れており,晩年の『教育学講義綱要』においても基本的な輪郭は一貫しています。
その教育学とは,簡単に言えば,道徳性をもった人間を育てるということを教育目的とし,すべての教育的行為をそこにつながるように位置づけようとするものです。ここで言われている道徳性とは,幅広い教養・興味をもって正しい判断を下し,自らの自然的な欲求との葛藤に負けることなく,その判断に基づいて行動していくことです。ヘルバルトはギリシア神話に出てくるオデュッセウスを,理想的な人間像として思い描いていると考えられます。恐らく,当時の人間のあり方を眺めたときに,道徳性を持った人間の育成ということが,社会を維持・発展させるために大きな課題になっており,ヘルバルトはそこを把握したのでしょう。
また,ヘルバルトは教育対象としての人間を心理学という視点で把握しようとした点も特徴的です。ヘルバルト自身が自覚できていたかどうかは不明ですが,人間を把握するとはその人間の心を把握するということであり,その心のあり方に基づいて教育を論じていくということ,つまり,人間論に基づいて教育論を展開しました。このように大きな立場から教育を捉えようとする視点や,教育目的に全てを収斂させて体系的に論じていこうとする姿勢は,ヘーゲルを代表とする当時のドイツ哲学の風を受け継いだものだと言えるでしょう。
しかし,ヘルバルトの問題意識が,果たして人類の歴史に通用する教育学というレベルだったのかという点については疑問が残ります。もちろんその主張の中には,現代にも通用する論理が見られますが,彼は基本的には,あくまでもその当時の教育のあり方について論じているように思われます。
こうしたヘルバルト教育学の意義と限界については,近いうちに詳しく論じていきたいと思います。