2012年06月27日

科学者列伝:近代科学の開始編(1/3)

(1)ヴェサリウス

 歴史に名を残す科学者の生涯や業績,その目的意識や後世への影響などを考察する「科学者列伝」シリーズ。今回から「近代科学の開始編」ということで,ルネサンス期の科学者を3人紹介したいと思います。

 初回となる今回は,近代解剖学の夜明けをもたらしたヴェサリウスを取り上げます。

 ヴェサリウスは1514年,ブリュッセルに生まれました。母親はイギリス人,父親はドイツ皇帝カール5世の薬剤師を務めた人でした。少年時代から鳥やネズミなどの小動物を解剖して研究するのが好きだったといわれています。

 19歳の時にパリに遊学して,動物を解剖したり,人骨を集めたりして,解剖学の研究に励みました。しかし,パリは古代ギリシャの医学者ガレノスの教義を固く守っていた保守的な町でした。ヴェサリウスはここでガレノス学説を十分に学び,解剖学への関心を高めていったものの,ガレノス学説を神聖化することだけでは満足できませんでした。

 ヴェサリウスは常々,自分が自ら手を下して解剖をしたいと考えていました。彼の目的意識は,ガレノスのような権威を盲信したり,ガレノスの説を立証しようとしたりするのではなく,先入見なしに自分の目で実物を観察して,人体の構造を明らかにしたい,というものだったのです。そのためには,当時普通に行われていたような解剖のやり方,すなわち,助手に解剖をさせて自らは壇上でガレノスの著作の解説を行うというようなやり方ではなく,自らが実際に解剖を行ってみせる必要があったのです。

 ヴェサリウスは医学生時代,絞首刑後さらしものにされて腐敗しかかった罪人の死体が町の一角にぶら下がっているのを見つけて,この死体を盗んで持ち帰り,解剖して研究したという逸話も残っています。当時,人体解剖そのものは違法ではありませんでしたが,死体を盗むのは違法でした。法を犯してまで決行したのは,自分の目で確認したいという目的意識が非常に強かったからでしょう。

 その後ヴェサリウスは,北ヨーロッパにいては死体の確保が難しいと思い知らされ,ルネサンス後期で研究の自由がどこよりも保障されていたイタリアに赴きます。そして,23歳の若さでパドヴァ大学の外科と解剖学の教授になりました。そこでは,ヴェサリウスの研究に理解を示した裁判官の取り計らいで,死体を合法的に入手できるようになりました。こうしてヴェサリウスは,解剖の実演を自分自身の手で行うモンディノ・デ・ルッチの方法を復活させたのです。彼は,男も女も,肋骨の数が同じであることを明らかにする展示をしました。中世的なキリスト教の世界観では,イブはアダムの肋骨から創られたことになっているので,男の肋骨は女より1本少ないと信じられていたのでした。このようなパフォーマンスもあって,彼の授業はたちまち評判となり,優れた弟子もたくさん育っていきました。

 しばらくしてバーゼル大学に移ったヴェサリウスは,1543年,それまでの研究成果をまとめて名著『人体の構造について(ファブリカ)』を出版しました。当時彼は,まだ30歳にならない若者でした。この書物は,史上初めての正確な人体解剖書であり,古代の書物に比べて際立って優れている点としては,美しい解剖図が載っていることでした。ヴェサリウスはベネチアの有名な画家ティツィアーノの弟子であるヤン・ステファンと知り合いになり,解剖図の作成を依頼したのです。ヤン・ステファンの描いた美しい解剖図は非常に正確で,特に筋肉の描写は,その後に出版されたものでこれより優れているものはないほどの正確さでした。

 彼はこの書で,ガレノスの誤りを200以上も訂正したといわれています。たとえば,骨格については,胸骨が三骨からなること(ガレノスによれば七骨),心臓骨が存在しないこと,尾てい骨の構成骨数に関するガレノスの記述が間違っていることなどを示しました。その他,左右の心室間の孔はゆきづまりであることを証明したり,神経が中空でない事実をも発見したりしました。こうして,ガレノスの医学を終局に導き,近代解剖学の夜明けをもたらしたと評価されています。

 ところが,このように正確無比な観察を行い,それを記述して大著をまとめたヴェサリウスにも限界はありました。彼は人体の構造は解剖し,自分の目で確かめたけれども,機能の説明,すなわち生理学はガレノスを踏襲するにとどまったのです。ヴェサリウスは,先にも触れたように,左右の心室間に血液を透過させる小孔をもつ隔壁が存在しないことを確かめたけれども,血液の運動に関してガレノス説に代わる説明は提出できませんでした。また,心臓は熱を発生し呼吸はそれを冷やすということも,左心室から出る動脈の血液には生命精気,神経には精神精気が含まれるということも,ガレノス説のままでした。

 『人体の構造について』は,ガレノスや聖書の権威・伝統に固執する当時の正統派医学者の猛反撃に遭いました。こうした大騒ぎに困惑したためか,ヴェサリウスは一時研究を中断します。しかし,その名声が高くなったため,カール5世の侍医に任命され,次いでその息子で,後にスペイン王になったフィリップ2世の侍医となりました。

 彼の名声が高まるにつれ,これを快く思わない正統派医学者からさらなる反感を買い,彼の学説は異教として攻撃されました。危うく死刑になるところでしたが,王家の侍医という地位にあったため減刑され,エルサレム巡礼の旅に出ることになりました。しかし,その途上,船が難破して海上で死亡しました。結果的には死刑と同じことになってしまいました。

 ヴェサリウスには時代の限界もあった(特に生理学の面で)ものの,中世の神学的教条主義から脱して,自然と人間を新しい目でみつめようとするルネサンス期の思潮を実際に解剖学の分野で実践したという意味で,その業績は偉大と評価できるでしょう。『人体の構造について』が,コペルニクスが地動説を唱えた『天体の回転について』と同じ1543年に出版されたことは,新しい天文学と新しい生物学が同時に生まれ,科学革命の誕生を導いたということを意味しているといえるでしょう。
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 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史