2012年05月03日

科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編(3/3)

(3)イブン・シーナーとイブン・ルシュド

 歴史に残る科学者を取り上げ,その生涯や業績を紹介する「科学者列伝」シリーズのヘレニズム・ローマ・イスラム編も,今回で最終回となります。これまで2回にわたって,ヘレニズムのアルキメデス,ローマのガレノスを紹介しました。

 最終回の今回は,イスラムの科学者を2人取り上げたいと思います。イブン・シーナーとイブン・ルシュドの2人です。2人を取り上げるのは,イスラム帝国が大きな中心地を二つもっていたからです。東の中心は,アッバース朝のカリフに治められていたバグダードです。西の中心はスペインのコルドバです。そこで今回は,それぞれの代表者として,医学者であり哲学者でもあった2人の人物を紹介することにしたのです。

 イブン・シーナーは,ラテン名をアヴィケンナといいます。彼は980年頃,イスラム帝国東の中心地であるバグダードよりさらに東のブハラ近郊で生まれました。父親は徴税人だったといいます。10歳の時に『コーラン』を暗記した神童であったと伝えられています。当時としては最高の教育を受け,18歳の時には形而上学以外の全学問分野に精通し,医師としての名声も高まりました。数人のイスラム教国王に仕えましたが,政情が不安定で,何度も危険な目に合い,身の危険をおぼえながら放浪の生涯を送りました。

 イブン・シーナーは100冊以上の本を書いたとされています。なかでも優れているのは『治癒の書』と『医学範典』でした。前者は哲学上の主著であり,アリストテレスの哲学に基づいて,新プラトン主義とイスラム神学の思想を加味したものでした。その思想は,中世ヨーロッパのトマス・アクィナスに大きな影響を与えました。

 『医学範典』はギリシャとイスラムの医学の集大成であり,全五巻からなっています。第一巻は一般原理,第二巻は単一の薬物,第三巻は器官の病気,第四巻は一般の局所的な病気,第五巻は合成薬物について,それぞれ説かれています。全体として,健康と病気との関係を,アリストテレス流の四原因と四体液やガレノスのプネウマ説を踏まえて,精神と身体の調和を広く高度な視野で展望しています。この書は,12〜17世紀にかけては西欧の医学の基本書として,数種のラテン語訳,ヘブライ語訳,アラビア語原文が刊行されました。

 イブン・シーナーはまた,錬金術の研究も行いました。彼は錬金術によって金を作ることは不可能であると考えた少数の人々のうちの1人でした。錬金術師としてではなく,イスラム世界最初の化学者として,鉱物や化学薬品を分類し,その精錬方や製造方法を詳しく研究したのでした。

 他方,イブン・ルシュド(ラテン名アヴェロエス)は1126年,コルドバの裁判官の子として生まれました。当時のコルドバは,ビザンティンを除けば,ヨーロッパ最大の都市でした。イスラム教支配下にあるスペインの統治者によって,初めはセビリアで,次いで父と同じくコルドバで裁判官に任命され,宮廷の侍医にもなりました。その後,外交使節としても活躍しました。
 
 イブン・ルシュドは,アリストテレス哲学の注釈者として有名です。イスラム世界において,シリアを経由して入ってきたアリストテレスは,当初きわめて新プラトン主義的な色彩の濃いものでした。これは,プラトンのイデア論とイスラムの教義がうまくマッチしたためだと考えられます。すなわち,当初は,イスラム教の教えを合理化するために,プラトン的に解釈されたアリストテレスが利用されていたのでした。ところが,イスラム世界でギリシャ哲学の研究が進むと,アリストテレスの真の姿を求めようとする動きが出てきます。こうしてシリアを媒介せずに,直接ギリシャの学問が学ばれるようになっていきました。このような動きを押し進め,純粋にアリストテレスそのものを復興しようとし,かつそれを実現したのが,イブン・ルシュドだったのです。

 イブン・ルシュドは,アリストテレスのほとんど全ての哲学書の注釈を著しました。彼の思想は,イスラム世界では長続きしませんでした。しかし,彼の哲学書の多くは,13世紀にラテン語訳され,ラテン・アヴェロエス主義として西欧中世思想に絶大な影響を与えました。また,科学史上の「13世紀革命」と呼ばれるものを引き起こすことになりました。アリストテレスを紹介したことによって,科学的認識における経験への密着をも促し,西欧の学者たちに科学への関心をかき立て,直接ギリシャ語からの翻訳することを促進したのです。

 哲学以外の学問分野でも,イブン・ルシュドは活躍しています。プトレマイオスの『アルマゲスト』をアラビア語からラテン語に訳しました。また医学でも,『医学大全』を著しました。これは,イブン・シーナーの『医学範典』よりは劣っているとされていますが,ガレノスの医学を継承したものであり,後にヨーロッパで広く読まれるようになりました。

 こうしてみると,イブン・シーナーもイブン・ルシュドも,古代ギリシャやローマの学問,特にアリストテレスの哲学体系とガレノスの医学体系をしっかり継承し,それを中世のヨーロッパに伝える役割を果たしたことが分かります。ゲルマン人の大移動によって散逸してしまったギリシャ語文献を,イスラム世界がしっかりと保存し,再びヨーロッパに引き渡したのです。このように,学問体系を継承するためには,継承する側がしっかりとした学問的な素養をもっている必要があります。事実,イスラムの学者は,特定の領域のみを研究するような個別科学者ではなく,世界全体を把握しようとする哲学者であり,なかでも突出した業績を特定の分野で修めた場合には,医学者なり数学者なりという呼ばれ方をしたようです。

 また,イブン・シーナーとイブン・ルシュドがそうであったように,強力なイスラム支配者の保護がなければ,学問の継承はありえなかったと考えられます。支配者自身も,学問に対する理解が要求されます。この点に関して,イブン・ルシュドの興味深いエピソードをシュテーリヒが紹介していましたので,最後にその部分を引用しておきたいと思います。

「哲学者アヴェロエスは自分がはじめて総督を訪れた時のことを書いている。総督は,ある種の哲学説についてアヴェロエスに質問した。初めのうちアヴェロエスはなま返事をしていた。あまりずばずばものをいって君侯の不興を買うといけないと思ったからである――なぜなら,教養人の仲間どうしならあらゆる可能性についてきわめてあけすけな議論を戦わすこともできたが,君主は少なくとも一般民衆と違って,一度こうと信じたら意見をひるがえさないのを徳としていたからである。支配をぐらつかせないためには信念が不可欠だ,と支配者は考えていたのだ。ところがこの総督は,プラトンやアリストテレスその他の哲学者のことや,イスラムの神学者がこれに対して唱えている反対意見について,自分のほうから口をきった。この際総督は,該博な哲学者でも名誉とするだろうと思われるほどの知識を示した。そこでアヴェロエスも胸襟を開いて語りだした。侯は会談の後,金一封と乗馬一頭と高価な礼服を贈って彼をねぎらったという。」(『西洋科学史T』pp.296-297)


(了)
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 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言