2012年04月01日

科学者列伝:古代ギリシャ編(2/3)

(2)ヒポクラテス

 科学史上に名を残す科学者の生涯や業績などを紹介する「科学者列伝」シリーズの第2回目は,通常「医学の父」とされているヒポクラテスを取り上げます。「通常」などと断っていることから明らかなように,実はヒポクラテスは医学の父と評価できるほどのレベルには達していませんでした。このことは,諸星史文・悠季真理「学問形成のために問う医学の歴史(3)(4)」(『学城』第3号,第4号所収)で見事に論証されています。詳細はぜひとも,両論文を読んでいただきたいと思います。本稿では,両論文にも触れながら,ヒポクラテスを紹介したいと思います。

 ヒポクラテスは,紀元前460年に,小アジア沿岸のコス島で生まれたとされています。彼の家系は,代々,医神アスクレピオスを守る一族で,ヒポクラテスは父から医術を学んだと伝えられています。また,タレス同様エジプトを訪れ,紀元前2980〜2950年ごろに活躍したとされるイムホテプ以来,エジプトで伝えられてきた医術も勉強しました(なお,ギリシャの医神アスクレピオスはイムホテプのことだといわれています)。

 ヒポクラテスの生きた時代は,ペルシア戦争に勝利したギリシャが,アテネを中心に黄金時代(ペリクレス時代)を迎えていた時代にあたっていました。彼はソクラテスとほぼ同世代(正確には10歳ほど若い)の人間なのです。このことが,ヒポクラテスの実力を理解する際,非常に重要になってきます。ヒポクラテスの生きた時代における人々の認識の実力レベルについて,諸星史文・悠季真理両先生は,次のように説いておられます。

「そもそもヒポクラテスの時代は,医術について,あるいはその他の事柄についての一般的な像を頭にしっかりと描くことは困難な,というよりも不可能な時代であり,自分と弟子たち,あるいは他の医者や賢者たちと対話していく中で,その対話を通して相手の認識と自分の認識との交流を図る中で,少しずつ少しずつ,対象についての像を確定していくことに始まり,さらに対象の究明を重ねていく流れの中で,対象についての一般的な像を形成しつつある,まさにその途上にあったのである。」(諸星史文・悠季真理「学問形成のために問う医学の歴史(3)」,『学城』第3号,p.126)


 これは,ヒポクラテスは,ギリシャ時代に学問を現象論レベルで完成させたアリストテレスに至る,その途上にあり,対象について一般論というレベルで究明できていたわけではない,ということです。したがって,ヒポクラテスを「医学の父」と評価することはできないのです。

 「医学の父」と評価するほどの認識のレベルには達していなかったとはいえ,ヒポクラテスの功績は,当時としては偉大と称してもよいほどのものでした。彼は,迷信や無知が支配していた当時の治療法と戦い,長い経験と観察をもとにした合理的な治療法を確立しました。たとえば,当時てんかんは,神か悪魔が乗り移ったときに発作を起こす「神聖な病気」だとされていました。だからお祈りによって治療できるとされていたのです。これに対してヒポクラテスは,てんかんも他の病気と同様,自然的な病因が存在するのであり,てんかんの徴候は脳にあると断言しています。これは現代の知見とも合致する正しい見解であったということができます。

 ヒポクラテスは,人間には4つの体液があり,その調和が乱れると病気になるのだと考えていました。そして,体液の調和を崩す要因として,環境の影響を重視しました。したがって,治療法としては,環境を整えること,具体的には適正な食事を与えることや身のまわりを清潔にすることなどを強調しています。このような四体液説は,ヒポクラテスから500年ほど後のガレノスに受け継がれました。ちなみにこのガレノスこそ,医学の父と評価できる医学者です。ガレノスについては,科学者列伝シリーズの古代ローマ編で紹介したいと思います。

 先ほど,てんかんの話で脳に少し触れました。ヒポクラテスは脳についてもすぐれた見解を残しています。それは,人間の心は脳に宿っているとする見解です。ここに関して,最近出版された瀬江千史・菅野幸子『新・頭脳の科学(上巻) アタマとココロの謎を解く』(現代社)の中で,興味深い記述がありましたので,少し長くなりますが引用しておきたいと思います。

「そもそも人類の学問の歴史において,人間の心の存在や在り方というものは,常に究明の対象となってきました。

 あらゆる学問の源といえる古代ギリシャにおいても,人間の心というものは,人間の体のどこに宿っているものなのかという論争がありました。

 コス派(ヒポクラテスの学派)は心の座を脳であるとし,プラトンは心(魂)を三つに分けて,それらの中でも神的なもの(知性)は頭にあり,感情的なもののうちで優れたもの(気概など)は胸部,劣ったもの(欲望など)は横隔膜より下のあたりにあると考えました。それに対してアリストテレスは,それら気概や欲望などの感情的なものは,すべて心臓にあると考えていました。しかしながらアリストテレスは,人間が持つ最も優れた知性の座がどこにあるのかということについては,プラトン以上に解剖的究明を行ったものの(かえって当時の解剖レベルが未発達であった結果),脳であるということが見てとれずに終わりました。それでアリストテレス自身は明言していないものの,アリストテレスの説を全体として見ると,知性的な部分も含めて心の座は心臓にあると考えていたようである,と後世になって解釈されています。

 さらに古代ローマの偉大と言ってよい医学の祖ガレノスは,プラトンの考え(魂を三つに分ける)をふまえて,解剖などによる究明を詳しく進め,魂の知性的部分は脳の中の脳室にあるとし,感情的な部分は心臓,欲望的部分(ないし栄養を司る部分)は肝臓にあるとしました。そして17世紀頃までは,そのガレノスの説が受け継がれていたのです。

 また17世紀のフランスのデカルトは,「人間の心,特に理性は,身体とは別の次元のものであり,脳の研究から精神を理解することはできない」とする,いわゆる二元論の立場を取りました。」(pp.5-6)


 このように心のありかについての学問の歴史を概観してみても,ヒポクラテスの見解が正解そのものであり,直観的にとはいえ,このような正確な認識を把持し得たヒポクラテスの実力の高みが分かります。

 ヒポクラテスに関しては,他にも興味深いエピソードが伝わっています。たとえば,ヒポクラテスは,古代で初めて最も合理的な医師養成学校をコス島に創設したとされています。彼は古代ギリシャにおける最初の医師ではありません。彼の父親も医師でしたし,南イタリアのクロトンにはピタゴラス学派のアルクマイオンという名の優れた先達がいました。アルクマイオンは,人体の解剖は最初に行った人物として知られており,人間の知的活動が脳で行われていることも感じていたといわれています。しかし,医師養成の学校を創ったのはヒポクラテスが最初であり,これが「医学の父」と世間で呼ばれている根拠の一つともなっています。

 他にも,ペロポネソス戦争のときに,アテナイをはじめとする諸都市を疫病から救い,アテナイの市民権を与えられたとか,80歳まで生きたとか,いやいや109歳まで生きたとかいうエピソードも残っています。当時としては80歳まで生きるというのはかなり珍しい例だったと思われます。ましてや109歳となると,現代でもそこまで長寿の人はまれです。自分で自分に環境調整を中心とする治療法を施し,健康的に過ごした結果かもしれません。

 さらに,「ヒポクラテスの誓い」は医師の守るべき医道を説いたものとして今日もなお通用していますし,「人生は短く,技芸は長い」という彼の言葉は有名です。

 


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この記事へのコメント
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Posted by 木田元 at 2012年04月06日 10:56
木田様,コメントありがとうございます。

木田様には,「学問形成のために問う医学の歴史(3)」におけるどのような点が「言い掛かり」と反映したのでしょうか?

また,ヒポクラテスが「医学の父」かどうかを判定するには,そもそも医学とは何か明確でないといけません。木田様は「医学とは何か」という問いに,どのようにお答えになりますでしょうか。
Posted by 寄筆一元 at 2012年04月09日 09:30
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Posted by 木田元 at 2012年04月09日 15:21
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Posted by 木田元 at 2012年04月10日 11:11
木田様,返信が遅れてすみません。学ある木田様に対して,若輩者が意見するのもどうかと思いましたが,あえて分かりきったことを書かせていただきます。

まず,やはり学問とは何かの概念規定が違うのですね。我々のブログを読んでいただいているのであれば,あるいは瀬江先生の著作を読まれているのであれば,明らかなように,我々が「学問」という場合,本質論−構造論−現象論という形で体系化された認識のことを指します。

その文脈でいいますと,確かにヒポクラテスは論理化(事物・事象の共通性を認識の中に掬い上げる)はしっかりと成し遂げていますが,その過程で浮上した論理を,構造論,本質論にまで高め,体系化することはできていません。それどころか,現象論レベルでの体系化(一なる認識にまとめる)こともできていないと思われます。その意味で「医学の父」とは呼べないということです。

もちろん,木田様のおっしゃるレベルで「学」と呼ぶのであれば,ヒポクラテスも十分に学者であり,「医学の父」と呼んでも差し障りがないでしょう。しかし,そのレベルで学者というのであれば,何らかの実践に関わってカンやコツを体得している人であれば,(大げさに言えば)すべて学者ということになるような気もします。学問を,その歴史性を踏まえてどれほどの高みにおいて捉えているかの違いではないでしょうか。

また,医学のとらえ方に関しても,ご存じの通り,我々は「医学」は端的には「医療実践を学問化したもの」とは捉えていません。医学とは,人間の病を対象とした学問であり,病(に至る過程)を解いた病態生理論と,治療の過程を解いた治療論,そしてそれらの前提となる常態生理論が医学の構造論の三本柱となります。

悠季・諸星論文が瀬江先生に対するおべんちゃらだと反映するとのこと,南郷学派の外部にいるものとしては,正直に言ってしまうと,分からないでもないです。しかし,そのように捉えてしまうのは,あまりにも瀬江先生の実力を低く見積もることになり,学びの質を低下させるばかりだという気もしないでもないです。

なお,どうでもいい見解を述べておくと,悠季真理先生は,瀬江先生におべんちゃらををいうはずもない立場にあると私個人は予想しています。
Posted by 寄筆一元 at 2012年04月17日 21:57
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Posted by 木田元 at 2012年04月18日 15:13
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Posted by 木田元 at 2012年04月18日 21:36
 木田元さま、「医学の父」という言葉をどう捉えるべきか、という問題について、詳細に見解を述べていただきまして、誠にありがとうございました。非常に考えさせられるものがありました。「『医学の父』とはヒポクラテス固有の尊称であり、彼がいなければ後世の医学は無かったのだとアバウトな関係性で感じることが必要」との木田さまの結論そのものにかんしては、私としては大筋で同意したいと思います。

 たとえば、私自身の専門である経済学の分野に目を向けてみるならば、アダム・スミスを「経済学の父」と称するのは妥当かどうか、という問題にぶつかります。たしかに厳密に、「学問とは、本質論‐構造論‐現象論という形で体系化された論理である」との規定を適用することでその是非を判断するならば、『国富論』は必ずしもそのような形で論理を体系化しているわけではありませんから、「『経済学の父』ではない!」ということになってしまうでしょう。

 しかし、経済的な事象にかかわっての論理的把握を明確にスタートさせたという点を重くみて、やがて論理的体系化へとつながっていく流れの端緒の部分に位置する存在だという意味でとらえるならば、「経済学の父」という尊称も、必ずしも不適当ではないのではないか、という気はいたします。実際、私がこれまで執筆した論文のなかでも、スミスについて「経済学の父」という尊称を特に批判的に検討することなく使っている場合もあります。

 とはいえ、悠季・諸星論文の主張がおかしい、というわけでは必ずしもないのではないか、というのが、私自身の率直な思いです。この論文はあくまでも、現代において「本質論‐構造論‐現象論」という形で論理を整序した医学体系を構築しなければならない、との問題意識の上にたって、その目的意識性から医学の歴史を振り返ってみようとするものなのだろう、と考えるからです。この論文は、学問とは本質論‐構造論‐現象論という体系性を把持したものでなければならない、という確認を大前提にして、「医学の父ヒポクラテス」との世俗的な尊称があるが、この言葉からヒポクラテスが医療にかかわる諸々の事実について「本質論‐構造論‐現象論」というレベルで論理的な体系化をなしとげたと勘違いしてはならないぞ、と注意を促すようなものではないか、と私自身は受け止めております。

 「医学の父」というのは、木田元さまのおっしゃるとおり、世俗的な尊称なのであって、これが世俗的な尊称のレベルにとどまるならば、取り立てて問題にするまでもないことなのだと思います。ただ、悠季・諸星論文は、医学史研究者が医学史研究においてこの世俗的な尊称をあまりに無批判的に用いていることを(本来医学史研究は現代における医学体系の構築に資するものであるべきとの問題意識から)批判したものなのではないかな、と私は考えております。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2012年04月19日 09:46
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Posted by 木田元 at 2012年04月19日 13:33
 木田さま、学問とはどういうものか、という問題にかかわって、詳細に見解を述べていただきまして、ありがとうございました(本ブログでは、南郷学派と同一の見解でないという理由だけでは掲載不可としませんので、その点はご安心ください)。

 木田さまは、「南郷学派が説く『本質論・構造論・現象論』なる枠組みは、武谷三男の三段階論からきていると踏んでいます」とおっしゃいますが、私としては、南郷学派の学問論の構築の出発点においては、たしかに武谷三段階論は大きなヒントになったかもしれないものの、同じく大きなヒントとなったといえば、庄司和晃さんの「認識の三段階連関理論」も絶対に外すことはできないのではないか(むしろ、こちらからの影響のほうが大きいのでは?)と思っております。

 また、それらよりも何よりも、「人間の認識とはどういうものか」という問題についての南郷学派自身による突っ込んだ究明(これについての評価は私と木田さまとでは当然に異なるのでしょうが)に支えられてこその、より具体的にいえば、人間の認識が対象の把握をどのような過程的構造において進めていくのかという問題についての突っ込んだ究明をつうじてこその、学問論の構築であったのではないか、と考えております。木田さまは、武谷三段階論と南郷学派の学問論とをほぼ同一のものとみなされているような印象を受けるのですが、それはちょっとちがうのではないだろうか、というのが、私の率直な感想です。

 木田さまは、「『学問はすべからく本質論・構造論・現象論という三段階の体裁をもつべき』だとの考えは何ら自明なものではなく、その理由を解き明かさねばなりませんが、南郷学派はそれをしていない」とおっしゃっいます。南郷学派がそれを本当になしえていないかどうかはさておいて(少なくとも、木田さまが納得されるよう形ではなしえていない、といわなければならないのかもしれませんね)、私自身についていうならば、残念ながら現時点の実力からするとそれをきちんとはなしえないであろう、と認めざるを得ません。

 「学問はすべからく本質論・構造論・現象論という三段階の体裁をもつべきなのかどうか」という問題は、けっして、南郷学派の誰々がこれこれこういう説明をしているではないか! といってすむ問題ではなく、私自身がみずからの学問構築過程をつうじて培った実力を背景にして、自分自身の言葉で解いていかなければならない問題であると思うからです。

 もちろん、現時点においても、人間の認識が対象をどのように捉えていくか、という観点から考えるならば、やはり学問はすべからく三段階の体裁になるべきなのではないか、との漠然とした思いはあるわけですが。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2012年04月20日 06:09
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Posted by 木田元 at 2012年04月20日 09:27

木田元殿とS・K殿とのやり取り、学識が乏しい私にとって、とても勉強になっています。
木田元殿には、私の個人的感情的反感が無くもないのですが…
それでも、ここで堂々と持論を展開するその姿には感じ入るものがあります。

このような議論には、読んでいる私に自己の認識の深まりを感じさせるものがあります。

木田元殿、S・K殿、ありがとうございます。
Posted by 自由びと at 2012年04月20日 10:44
 木田さま、お返事をありがとうございます。

 庄司和晃さんの三段階連関理論は、(たしかに出発点としては仮説実験授業があり、その背景には武谷三段階論がヒントとしてあったのかもしれませんが)けっして自然科学的認識にとどまるものではなく、人間の一般的な認識のあり方についての理論として構築されたものであると、私は理解しております。この点で、もっぱら自然科学認識を対象とした板倉聖宣氏の仮説実験授業とは、異なるものとして構築されているのではないでしょうか。

 私は、木田さまのおっしゃるのとは逆に、人間の認識がつねに「具体的・表象的・抽象的」の三段階の「のぼりおり」をしているからこそ、学問としての構成が「本質論・構造論・現象論」として固まっていくことになるのではないか、という気がしております。ただし、対象についての認識がそのような三段階の構造をもったものとして整理されていくということと、そうしてできあがった体系的な認識を書物として表現していくこととは、相対的な独立の関係にあるものではないかと思います。だからこそ、書物として表現されたものをとってみれば、「『本質・構造・現象』の登り降りは、それぞれの章立ての中に縦横無尽に錯綜している」ようにみえてくる、ということになるのではないか、と思うのです。

 『科学的看護論』の構成についていえば、「本質論・構造論・現象論」という枠組みにちゃんと対応したものになっているように、私には思えます。すなわち、第1部理論編の第1章において「看護とは何か」の本質論(生命力の消耗を最小にするように生活過程をととのえる)が提示されたうえで、この本質論をふまえて第1部第2章以降で、構造論が目的論(生命力の消耗を最小に)・対象論(生命力の消耗・生活過程)・方法論(生活過程をととのえる)という3つの柱で展開されていく、という構成になっているのではないでしょうか。そして、あえていえば、第2部実践編が現象論に対応しているのではないでしょうか。

 もちろん、これはあくまでも大きな流れとしてはそうだ、ということです。この書のどの部分をとっても看護一般論(本質論)にしっかりつながるものとして書かれている、すなわち、つねに一般論に立ち返るということをくり返しながら論がすすめられているわけですから、「『本質・構造・現象』の登り降りは、それぞれの章立ての中に縦横無尽に錯綜している」ようにみえてくるのはある意味当然のことなのではないだろうか、と思うのです。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2012年04月20日 18:41
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Posted by 木田元 at 2012年04月20日 20:44
 木田さま。お返事ありがとうございます。

 庄司和晃さんの三段階連関理論は、つかみどころのない認識の世界をどうすればそれなりにつかむことができるか、という問題意識の上にたって、抽象度というものさしを導入することによって大きく3つの段階(具象的・半抽象的・抽象的)に整理してみたもの、であると思います。これは、いうまでもなく、庄司さんが小学校教師(こどもの認識を的確につかんだ上で教師たる自分の意図する方向へ変化させていかなければならない!)という立場にあったからこその理論化であったのだろう、と思います。

 「看護とは生命力の消耗を最小にするように生活過程をととのえること」というのは本質論といえるのか、とのことですが、本質論というのは、対象の本質を把握した論理(対象を本質レベルで把握した論理)のことであって、その核心は「看護とは××である」という簡潔なテーゼに集約されることになるのではないでしょうか?

 もちろん、自身のテーゼを打ち出すに際しては、木田さまのおっしゃるとおり、「看護に対する異なる本質、異なる看護観、異なるパラダイム同士の真偽」についての突っ込んだ検討過程が必須になると思います。ただし、実際に書物に著されたときに、こうした検討の内容がしっかりとそれなりの分量で論述されるかどうかは、また別の問題であるとも思います。もちろん、一般的にいえば、そこをきちんと書いたほうが本質論としての説得力は増す、ということはできるかと思いますが。

 ただ、これは、自身が打ち出す本質レベルのテーゼが、その専門分野の現状において、どのように受けとめられるか、ということに大きく規定されるのではないでしょうか? これまでの研究の流れを大きく転換させるようなテーゼを打ち出すのであれば、従来各派の本質規定たいする批判的な検討過程についての論述も、おのずと力の込もったものになっていくことでしょう。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2012年04月21日 06:38
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Posted by 木田元 at 2012年04月21日 12:24
 木田さま。お返事ありがとうございます。

 私も看護はまったくの門外漢ですので、「生命力の消耗を最小に抑えるために生活過程をととのえる」という『科学的看護論』における規定の妥当性について、責任ある発言はできかねます。ただ、ここでいう「生命力」には、日常生活で用いられている生命力という語からイメージされるのとはいささか異なった内容が含まれているようだ、ということには留意すべきではないかとは思っています(ここでは、生命力とは自然力と社会力の統合されたもの、と規定されているようですね)。

 エンゲルスは、マルクス『資本論』の英語版への「編集者序言」において、「科学上の新しい見地は、いずれも、その科学の述語における革命を含んでいる」と述べていますが、ここにもそういった事情が反映しているのではないでしょうか。

 とはいえ、『科学的看護論』については、しっかりと学びを深めていく必要性を感じつつ、まだまだ充分にはとりくめていないというのが実情です。木田さまとのやりとりをつうじて、あらためてしっかりと読み直してみたいという思いを強くしました。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2012年04月21日 22:30
「 人間は認識的実在であり、問い掛け的存在である」 的内容が事実である!か?どうか!?は、私には分かりません。

でも、私とはこのような生物だ!と思い問い掛けながら日々毎日を自信と反省、反省と自信を持ちつつ生き生活してきた結果、『自分は問い掛け的認識を持った存在だ!』と思える多くの体験( 数多く の失敗に少なかった成功… )をしました( 疑うより信じて生き生活してみる…こと )。

ここでのコメントに書かれている木田元殿と同じような認識 ( 思い、考え…)、私の中のその認識を認めてしまったら、今後の私の認識の上達進歩発展的変化・運動はない!のだろう〜と感じている、今の私です。

ただ…S・K殿のような人物、そう〜どんな質問にも真正面から率直な解答をして頂ける人物に出逢えたことが木田元殿、そして私にとっての幸運!なのでしょう〜。

私には、S・K殿のコメントが、何故か不思議に心の奥にまで響いてきます。

そう〜ふかい深い〜や・さ・し・さ・を感じています。

 私は、木田元殿の中に私を感じ、私の中に木田元殿を感じています。
そう…木田元殿は、私のとって、その存在を認めても常に否定し続けなければならない存在なのでしょう〜。


Posted by 自由びと at 2012年04月22日 10:41
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Posted by 木田元 at 2012年04月22日 11:30
 木田さま。お返事ありがとうございます。

 現在の看護界、とりわけ看護教育において『科学的看護論』がどの程度の影響力を持ち得ているのか、私には、実際のところはよくわかりません。ただ、仮に木田さまのおっしゃるとおりに、ほとんど影響力を持ち得ていないような現状であったにせよ、そのような現状をもってただちに、薄井看護論に対して襟を正して「お前はもう死んでいる」と告げるべきだ、との結論を導き出すのは、いささか性急に過ぎるのではないか、という気がいたします。歴史的にみて、革命的な理論がただちに正当な評価を受けるとは限らなかったように、まだまだ薄井看護論の真価が理解されていないのだ(その理由をどこに求めるかはまた論争の余地があるでしょうが)、という推測もまた充分に成り立ちうると思うからです。

 私としては、当然に後者であってほしい、という思いがあるわけですが、やはり看護にかんしてはまったくの専門外ですし、薄井看護論の普及に直接的な責任を負えるような立場にもありませんので、絶対にそうなのだ! と断定的な発言をすることはここでは慎んだほうがよいのかな、という思いもありますが。
Posted by S・K(京都弁証法認識論研究会) at 2012年04月22日 21:00
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Posted by 木田元 at 2012年04月24日 16:16

御二方〜長いコメントの応酬の数々を…お疲れ様でした。

御二方のやり取りから、私には、本当は…知らない分かっていないのに、知っている分かっているつもりになっていることが、たくさんある事実に気付かせて頂きました。
これも木田元殿が御自分の疑問を率直に書いてぶつけ続けてくれたおかげです。
木田元殿ありがとうございます。

ここでは、私も率直に木田元殿に質問です。
…「概念を中心とした自己に還る円」とは、具体的にどのようなことなのでしょうか?
確かヘーゲルが同じようなことを言っていたらしいですが…ここでの「自己」とはヘーゲルの絶対精神と同じなのでしょうか?

また、間違った「概念」を中心とした場合でも、自己に還ることは可能なのでしょうか?
正しい「概念」とは? 間違った「概念」とは? その区別と連関とは?

また、今回のやり取りで木田元殿の  >「医学」に対する考えや「看護」に対する考え< について、変化はあったのでしょうか?

学問における「技」とは何ですか? 学問の「基本技」、「個人技」、「名人に達人技」…とは?
学問では、どのような状態を「動けば技となる」と言うのでしょうか?

私的自分勝手な疑問の数々… 奥深い学識を御持ちの木田元殿にとっては自明のことで今更説明なんか〜と思われましょうが…
でも…きっと ここでのS・K殿と同じように〜サクさくっと答えて頂けると…信じて質問させて頂きました。

木田元殿の中の存在しているだろう !? 「学問魂」に ! お願いです。



Posted by 自由びと at 2012年04月25日 14:07
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 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言
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