今回はこの出来事について書きたいと思う。その出来事とは,三浦つとむさんの奥さんである横須賀壽子さんとお会いして,お話を伺ったということである。横須賀さんは関西の方面に私用があるので,その折りにわれわれに会いたいといってくださったのである。そこで日程を調整して,先日,京都でお会いすることになったのである。横須賀さんにお会いするということで,三浦さんとの出会いを振り返っておこうということになり,あの回想録となったわけである。
横須賀さんは初め,われわれが「三浦つとむ生誕100周年」という切り取り方で三浦さんを取り上げたことや,ブログの文章が丁寧であったことに対して,かなり好感をもったと強調されていた。そして,三浦さんは自分の理論が若い人間にどのように受け継がれていくかということをたいへん気にしていたので,われわれの研究会のような存在を知ったら,さぞかし喜んだだろう,という意味のことをくり返してお話しくださった。そして,ご自身も「ホッとした」というようなことをおっしゃった。
「ホッとした」というのがどういう意味だったのかは分からない。しかし,三浦理論が,南郷継正先生の組織や薄井坦子先生の看護学,あるいは言語学の分野やそれに関わる機械翻訳の分野など,既に公に知られている以外にも,しかも若い世代に,しっかりと受け継がれている姿を目の当たりにされて,かなり期待してくださっていることは,非常によく伝わってきた。
横須賀さんは,現在86歳だという。しかし,とても86歳とは思えないほど若々しさに溢れ,生き生きと三浦さんとの思い出を数多く語ってくださった。
三浦さんの追悼集である横須賀壽子編『胸中にあり火の柱 三浦つとむの遺したもの』(明石書店)でも触れられているが,横須賀さんは最初,ガリ版の技術を習うために三浦さんのもとに通ったのだという。当時三浦さんは,日本で1,2を争う謄写の技術,ガリ切りの技術をお持ちだったらしい。
ところが,横須賀さんが当時ぶつかっていたサークル活動の問題をふと三浦さんに相談したところ,「そちらの問題の方が大切だ」ということで,仕事そっちのけで組織運営のあり方をと討論するようになったのだということであった。「私は仕事の技術を教えてもらいに行っていたのに」と横須賀さんはおっしゃった。
こうして三浦さんとの討論を踏まえて書かれたのが,横須賀壽子『文化會の運營はどうしたらよいか――ある友人の質問にこたえて――』という39ページの小冊子である。今回,三浦さんの手によって印刷されたこの小冊子のコピーを,横須賀さんはわれわれに贈ってくださった。
三浦さんの切られた文字は,見事というほかないものであった。活字並みに整った字体であるとともに,手書きの温かさが伝わってくる,そんな非常に読みやすい文字であった。三浦さんは,指先の神経を駆使して,非常に細かい字を丁寧に,活字レベルで書き続けることによって,脳細胞が鍛えられ,頭がよくなっていったのではないか,と思わせるような,そんな字であった。
また,ガリ版の仕事については別のエピソードも伺った。それは,東京帝大の講義ノートのガリ切りの仕事をされていたという話である。三浦さんの追悼集にある「三浦つとむ略年譜」によると,これは戦前の1937年のことだという。まだまだ学問の格調高かったであろう当時の東京帝国大学の講義を,大学に行っていない三浦さんは,仕事の傍ら,学ぶ機会をもてたということである。しかも,誤字・脱字などは三浦さんがチェックして,訂正していたらしい。東京帝大の先生(?)にいわせても,「三浦君の方が正しい」ということだったという。
今回の横須賀さんのお話で特に印象に残ったのは,三浦さんが自身の理論の継承に対してどのように考えていたか,ということである。三浦さんは1977年,脳出血で倒れて,その後は13年間,闘病生活を送ることとなる。そのとき,横須賀さんが口述筆記を申し出たとがあるそうである。しかし,三浦さんは,このような状態では誤りを犯すかもしれないとして,それを断ったという。また,三浦さんは,自分は言語学でそれなりの業績の遺した,国家論や他の分野でも,基本的な問題点は指摘したのだから,後は若い人がこれを引き継いで,理論を発展させてくれればいい,そのように考えていたという。三浦さんとしては,自分の理論を引き継いでくれるような若人が登場することを,切に願っていたということであった。
このお話を伺って,やはりわれわれ京都弁証法研究会は,しっかりと三浦さんの業績と魂を引き継ぎ,三浦さんの理論を発展的に継承していこうという決意を新たにしたことであった。
三浦さんの理論を継承しようとした若者で,英語学の宮下眞二さんのことはわれわれも以前から知っていたし,その著作も読んだことがある。ところが,追悼集にその宮下さんと並んで写真が掲載されている伊藤烈子さんについては,全くといっていいほど知らなかった。その伊藤さんが,「二十歳の誕生日に,これからは『インテリとしての仕事を残したい』と決意し」(『胸中にあり火の柱』p.273)て書かれたという論文を,今回横須賀さんに送っていただいた。"History and logic of brain science with an approach to chemotherapy of cancer"というタイトルの英語論文である。じっくり学ばせていただきたいと思う。
横須賀さんは三浦さんが亡くなった後も,三浦さんの言に従って,自分の仕事をされてこられた。それは,両親のいないロシア人大学生に対する奨学金支援の仕事であったり,“被爆のマリア”に関わる仕事であったりした。しかし,今後は,三浦さんの成し遂げた仕事をしっかり後世に伝えるための仕事をしたいとおっしゃっていた。それは横須賀さんにしかできないことである。三浦さんの仕事を著作として残していただければ,いつかわれわれと同じように,三浦さんの著作との感動的な邂逅を果たす若者が現れるかもしれない。
他にもいろいろとお話を伺った。われわれ三浦つとむに学ぶ人間にとっては,本当に貴重でためになるお話であった。何よりも,わざわざあうために京都まで来てくださったことが,われわれにとってはこれ以上にない励みとなった。
最後になりましたが,横須賀壽子様,このたびは本当にありがとうございました。またお目にかかれる日を楽しみにしております。
History and logic of brain science,: With an approach to chemotherapy of cancer Unknown Binding – January 1, 1965
by Retsuko Ito (Author)
ですね!
でも手に入りそうもありませんね。
の中に
En el año 2000, Retsuko Ito y sus colabo- radores en la Universidad de Cambridge, em- prendieron un estudio experimental sobre el entrenamiento en la autoadministración de cocaína.
との記載がありました。当時、ケンブリッジ大学に在籍していたのでしょうか?