前回は、小沢一郎氏に対する検察審査会の「起訴議決」が、陸山会による土地購入の資金4億円のなかにゼネコンからの裏献金が含まれていたのではないかという、マスコミが垂れ流した根拠薄弱な邪推に影響されたものであったことを明らかにした。
このことは、検察審査会のあり方そのものに対して、重大な問題を提起するものである。
そもそも検察審査会とは、容疑者の起訴・不起訴について独占的な決定権を持つ検察の判断が恣意的なものでないかどうかをチェックするための機関として、1948年に設置されたものである。この検察審査会は、犯罪被害者の救済を強化すべきだとの声が高まるなかで、2009年5月に施行された検察審査会法の改正によって強制力――検察が容疑者を不起訴にしても検察審査会で2回続けて起訴すべきとの議決がなされれば、強制的に起訴される――を持たされることになったのである。
この検察審査会の制度の趣旨からすれば、今回の小沢氏の事件について、そもそも「真実を求める会」などという得体の知れぬ“市民団体”が申立人として認められたこと自体が妥当であったのかどうかが問題である。政治資金収支報告書における土地購入代金支出の記載が2ヶ月ずれていたからといって、国民が一体いかなる被害を受けたというのか。
審議の過程もまた諸々の問題を抱えている。
今回の陸山会の事件についての検察の捜査資料は2000ページにも及ぶものであったとされるのだが、このような膨大な、しかも難解な法律用語が多用されているであろう資料を、一般市民から抽選で選ばれたとされる審査員――平均年齢の異常な若さで恣意的な選任が疑われるばかりか、度重なる平均年齢の訂正でその実在すら疑われている――が、短期間で読み込んで的確な判断が下すことができたというのであろうか。審査補助員である弁護士が意図的に結論を誘導しようと思えばそれは非常に容易いことではないのか。
実際、読売新聞(10月6日付)が報道したところによれば、審査補助員であった吉田繁実弁護士は、審査員に「共謀」について説明する際、拳銃の不法所持について暴力団内部の共謀の成否が争点となった判例を示して、「暴力団や政治家という違いは考えずに、上下関係で判断して下さい」と説明したという。
「暴力団や政治家という違いは考えずに」というのは暴論である。「政治資金規正法」は、収支報告書の記載の正確性について会計責任者に第一義的な責任を負わせているのであって、「銃砲刀剣類所持等取締法」に基づいた暴力団内部の共謀についての判例をそのまま適用できるわけがない。にもかかわらず、吉田弁護士が、あえて暴力団と陸山会を同一視させようとするのは、マスコミよって刷り込まれた「小沢一郎=犯罪者」というイメージを利用して、「小沢は有罪の疑いが強い」という結論へ審査員を意図的に誘導しようとしたものと言わざるを得ないのである。
極めて深刻なのは、審査補助員によるこうした誘導の背後に、検察そのものの意向の存在が疑われることである。鈴木宗男衆議院議員は、東京地検特捜部の吉田正喜副部長が、2010年2月1日に、取調べ中であった石川衆議院議員(小沢氏の元秘書)に対して、「今回は小沢を起訴できなかったが検察審査会で必ずやられるんだ」と明言していたことを、石川議員から直接聞いた話として暴露している(2010年4月28日の「司法の在り方を考える議員連盟」の会合にて)。この吉田正喜氏の発言からは、検察は、法を犯しているとの確証を掴めなかったゆえに自ら起訴することができなかった被疑者であっても、検察審査会を使って起訴することができる、と考えていることが見てとれる。要するに、検察の恣意性をチェックすべき機関である検察審査会が、検察の恣意性を補完する機関に成り下がってしまっている疑いが濃厚なのである。
しかし、検察審査会事務局は、こうした疑惑の数々について、会議録はおろか会議の開催回数すら公表しようとしない。公表する法的な義務がないというのだ。検察審査会は、強制的な起訴という強い力を持つ機関であるにもかかわらず、適切に審査員が選任され、適切に審議が行われているのかどうか、国民がチェックする手段が何もないのである。すべては密室の深い闇の中である。
今回の起訴議決書は、最後の「まとめ」で、「国民は裁判所によってほんとうに無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利がある」と述べている。要するに、確かな証拠がないにしても、シロかクロか分からないのであれば法廷で判断してもらえばよい、ということである。何と粗暴な屁理屈であることか! 怪しい人はとりあえず裁判にかけてしまえ――こんなことがまかり通れば、マスコミが妄想であろうが捏造であろうが何らかの疑惑を喧伝しさえすれば、どんな人間でも、検察審査会を利用することで(マスコミに影響され感情的になった「素人」を補助弁護士に誘導させることで)、確実に起訴することができる。これが政治的な敵対者を抹殺する手段として権力者によって使われるとすれば、紛れもなく民主主義の危機である。