前回は、東京第5検察審査会による小沢「起訴議決」の不可解さをめぐって諸々の疑惑が浮上してきていることを見るとともに、2009年3月3日の大久保秘書逮捕以降の検察・検察審査会やマスコミの動きの背後には、何としても小沢一郎氏を政治的に抹殺してしまおうという何者かの意志が存在しているのではないか、との疑問を提起した。
一体、このような意志は確かに存在すると言えるのであろうか。存在するとすれば、それは何者の如何なる利害関係に基づいたものなのだろうか。
一つの見方は、小沢氏を政治的に排除することは他ならぬ国民の意志である、というものである。マスコミによる「世論調査」なるものにおいて、小沢氏の議員辞職や民主党からの離党を求める声が多数を占めている――例えば、読売新聞が11月5〜7日に実施した調査では、小沢氏がどう対応すべきかについて、「衆院議員を辞職する」が55%、「議員は辞職しないで民主党を離党する」21%とされている――ことが、その有力な根拠とされる。
こうした見方に立てば、今回の検察審査会による「起訴議決」についての諸々の疑惑は不問に付したままで、「市民参加」の下で「市民感覚」による的確な判断が下されたものと肯定的に受け止め、小沢氏に政治的責任(国会における証人喚問での説明や離党・議員辞職など)を果たすことを求める、ということになる。実際、現局面におけるマスコミの論調は、概ねそのような内容のものになっている。
しかし、世論なるものは、その社会において支配的な位置にある人々の利害関係に基づいて、意識的に創出されていくものであることを忘れてはならない。三浦とつむ『弁証法はどういう科学か』において、以下のように説かれるとおりである。
「物質的な生活資料の生産手段を所有している階級は、また新聞・ラジオ・テレビ・出版のような精神的な生活資料の生産手段をも握っています。多種多様の思想家・学者と、多種多様の生産・伝達手段を通して、支配階級のイデオロギイがふりまかれます」
「世論調査」なるもののも、こうした過程的構造における一つの要素として把握されなければならない。すなわち、国民世論から独立した中立的な第三者的な存在である調査主体(多くは新聞社などのマスコミ)が公平な立場から調査する、といった綺麗なものではないのである。そうではなくて、マスコミは(支配層の利害を背景にして)明確に何らかの意図を持って「世論」を誘導すべく不断に働きかけているのであって、「世論調査」なるものは、何よりもまず、その不断の働きかけが的確に効果を発揮しているかどうかを確認するためのものであり、もっと踏み込んで言えば、質問の仕方によって意図的に結果を誘導し、その結果をまた意図的に解釈することによって、さらなる「世論」への働きかけの材料としていくためのものでしかないのである。世論調査とは世論操作に他ならない、と揶揄される所以である。
マスコミが振りかざす「世論」なるものは所詮この低度の代物でしかないということを踏まえて、冷静に眺めてみるならば、国民の多くは、マスコミによって喧伝された「政治とカネ」疑惑なるものによって、疑惑の具体的な中身については必ずしも明確なイメージを持たない(持てない)ままに、極めて漠然とした「小沢一郎=犯罪者」というイメージを刷り込まれてしまっているのではないか、と考えざるをえないのである。
そうであるならば、小沢氏をめぐる一連の動きは、現代の日本を支配している人々の利害関係に着目して考えていくべきだということになるであろう。
では、「現代の日本を支配している人々」とは一体誰のことか。
現代の日本社会(国家)は、本ブログ11月7日の記事(「奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」13/13)で解いたように、「政官財」という“鉄の三角形”をマスコミ、御用学者が補完する“鉄の五角形”を“宗主国”であるアメリカが統括する、という支配構造を持っている。
こうした支配構造についての把握を踏まえた上で注目されるのは、「脱小沢」を掲げた菅民主党が、官僚との対決姿勢を弱め、財界団体と接近(たとえば、法人税減税の検討、企業献金受け取りの再開)するとともに、米国の意向にも忠実であろうとする姿勢(たとえば、普天間基地の辺野古への移設)を強めてきていることである。
そもそも、民主党が政権交代を実現させていく過程で最も大きな貢献をしたのは、他ならぬ小沢氏であった。このことは誰もが認めるところであろう。その小沢氏を排除しようという動きが強まっていくのと歩調を合わせるようにして、民主党の自民党化とでも言うべき過程が進行してきているのである。
このことからも予想されるように、小沢氏をめぐる一連の動きの背景を探ることは、日本という国家の構造そのものを問うことに他ならないのである。そもそも小沢氏は、滝村隆一氏によって、「日本の政治・社会全体の革命的な大改造を目論んでいる」「小沢一郎をとりあげるならば、思想的な立場や理論的な方法の如何を問わず、今後の政治ばかりか、世界のなかでの日本の将来について、否応なしに、真摯に、また具体的に考えざるをえない」(『ニッポン政治の解体学』時事通信社、1996年)と評されたほどの政治家であることを想起しなければならない。
本稿では、こうした滝村氏による小沢評を踏まえつつ、検察審査会による「起訴議決」など小沢一郎氏の政治生命を断とうとするかのような一連の動きについて、その背景を日本という国家の歴史的な発展過程から解くとともに、このような動きが主権者たる国民に一体何を提起しているのかという問題についても考えていくことにしたい。