今回は,認識論の基礎をしっかり確認し,自分の他人化に近づくためにはどうすればいいのかの考察を深めていきたいと思います。
そもそも認識とは何だったでしょうか? 端的にいえば,認識とは対象の頭脳における反映であり,像でした。この反映も,厳密にいえば,たんなる反映ではなく,問いかけ的反映といわなければなりません。ここが今回の最重要ポイントです。
では,問いかけ的反映とは何でしょうか? 簡単にいえば,個性的な反映ということです。人間の認識は,外界にある対象が純粋に反映して像を結ぶのではなく,いわば不純に,その人らしい反映の仕方をするのです。すなわち,認識とは反映像と問いかけ像の合成像である,ということができるのです。たとえば,杉の木を見ても,杉の木の前で失恋した経験のある人は,杉の木をいや〜なものとして反映します。目の前の杉の木の反映像が,振られたときのいや〜な認識=像を呼び覚ますのです。このように,蓄積された像,過去像が問いかけ像になります。
ロ・テストは,対象(図版にあるインクのしみ)が何に見えるか答える検査でした。このような検査の場合,明確な対象なら,問いかけ像が関与する余地は少ないといえます。馬の写真を見せて「何に見えますか」といわれても,「馬」以外にはほとんど考えられません(もちろん,馬自体を知らない場合は,そういった問いかけがないわけですから,「馬」と答えることはありませんが)。しかし,あいまいな対象が何に見えるか尋ねられると,その答えには,問いかけ像がより多く関与することになります。その人の過去の体験・学習で創られた像や,それらの合成像が頭の中に蓄積されていますが,これらの蓄積された過去像が問いかけ像となります。その結果,インクのしみという対象の反映像と,それによって呼び覚まされた問いかけ像(過去像)が合成されてそのときの認識が成立するわけです。対象自体はいかようにも見えるあいまいなものですので,何に見えるかは問いかけ像によって大きく規定されているといえます。したがって,ロ・テストは,あいまいな刺激によって問いかけ像=過去像を知るための検査であるといえるでしょう。
認識は反映像と問いかけ像との合成像ですので,そもそも近似的に同じような問いかけを持っていなければ相手に二重化することはできないということになります。いくら同じ対象を見たとしても,問いかけ像が違うと,認識も異なってくるのです。だから,問いかけ像があまりにも違う場合は,なかなか相手に二重化できない,ということになります。外国人に二重化する場合を想定してもらえれば,分かりやすいと思います。同じ日本人なら,ある程度共通した環境や文化の中で生活してきたので,相手の問いかけ像も自分と同じようなものである可能性が高く,偶然にせよ,意図しなくても二重化できる確率も高くなります。しかし,外国人の場合は,生活してきた環境も文化もまったくといっていいほど違いますので,当然,問いかけ像も全く違います。こういう場合にはこうするといったような常識もかなり違う場合がありますので,二重化するのは困難なのです。
では,同じような問いかけ像を持つにはどうすればいいのでしょうか? それは,観念的に相手の経験を辿り返してみればいいのです。問いかけ像というのは,頭の中に蓄積された過去像であり,過去の経験や学習によって創られた像でした。したがって,同じような問いかけ像を持つには,相手と同じような体験をし,同じような学習をすればいいのです。ただし,全く同じ経験・学習をするのは時間もかかりますし,現実問題としても不可能です。したがって,相手のこれまでの歩みを聞いたり,同じような体験をした人物を描いた小説や映画を参考にしたりして,その人の人生を観念的に歩んでみるのです。
子どもに二重化する場合を考えてみると分かりやすいかもしれません。子どもに二重化しようとしても,私たちは往々にして自分の自分化しかできず,真の意味での二重化はできません。これは,同じような状況なら自分はどう考えるか,と大人的に考えてしまうからです。つまり,自分の問いかけ像が呼び覚まされるのです。そうではなくて,子どもが小学2年生なら,小学2年生までの人生を観念的に辿り直し,そのレベルでの問いかけ像でもってその状況を体験する必要があるのです。子どもは非常に未熟なものです。私自身の記憶でもそうです。幼稚園に入る前くらいだったと思いますが,「双子」「兄弟」という概念が理解できていなかった頃の記憶があります。母親に「双子」とか「兄弟」とかいわれて意味が分からず,ようやく行事の一種だと思って,「双子は手をつながないといけないの?」とか尋ねた記憶があります(もっとも,「行事」という概念も成立していなかったので,今にして思えば行事の一種だと捉えてしまっていた,ということですが)。関係性の一般的把握など,まだまだできないレベルです。そういうレベルの問いかけ像をもって二重化しないと,本当に子どもに二重化したことにはならないのです。
最後に,人は二重化しようとしても,観念的に相手の経験を辿っておかないとどうしても自分の自分化になってしまう,ということに関して一言触れておきたいと思います。ブログ記事「理論武道家の末路?−南郷継正&甲野善紀」を読んでみてください。なんと,南郷先生が「碩学を貶めることにより自分が偉くなったような気がする」というレベルだと,このブログ筆者は述べているのです! 南郷先生に二重化しているつもりでも,実は自分の自分化でしかなく,単に自分ならそう考えるだろうという,自分の下劣さを表明しているだけなのです。ご本人もおっしゃっているでしょう,「こういう表現をしたくなる気持ちは痛いほど分かる」と。南郷先生と同じ修行過程を辿り,同じ問いかけ像を創る努力をしなければ,いつまでたっても自分の自分化レベルから一歩も抜け出せないのです。