2010年08月08日

佐村河内守『交響曲第一番』(講談社)

 本書は、佐村河内守という作曲家の半生を綴った自伝です。出版された当初、表紙に「交響曲第一番」と大書された本が書店に並んでいるのを見た際には、「無名の新人作家による音楽小説だろう」と思い、特に興味を惹かれることなく、手にとることはしなかったのですが、数ヶ月ほど前、HMVサイト内の「許光俊の言いたい放題」の「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」(2007年11月6日http://www.hmv.co.jp/news/article/711060001/)の記事で佐村河内守氏の交響曲第1番が取り上げられていたのをたまたま発見して、非常に興味をもちました。

 佐村河内守氏がいったいどのような作曲家なのか、この許光俊氏による記事から引用することで紹介しておきましょう。

「1963年広島に生まれている。早くから作曲家を志したが、楽壇のややこしい人間関係などに巻き込まれることをよしとせず、独学の道を選んだ。それゆえ、なかなか仕事に恵まれなかったが、ある時期から映画、テレビ、ゲームなどの音楽を書いて徐々に知られるようになってきた。なんと、一時はロックバンドで売り出されそうになったというから、一風変わった経歴と言えるだろう。
 妙な人間関係を嫌うことからもわかるように、佐村河内はまれに見る潔癖な人間のようだ。自分が本当に書きたい曲だけを書きたいと、あえて実入りのよい仕事を断り、厳しい日雇いの仕事をして生計を立てていたこともあるし、住む場所もなくホームレス状態になっていたときすらあるという」

「実は、彼は非常に大きな肉体的なハンディキャップを抱えている。なんと、あるときから完全に耳が聞こえないのだ。それどころか、ひどい耳鳴りで死ぬような思いをしているのだ。しかし、彼はそれを人に言わないようにしてきた。知られるのも嫌がった。障害者手帳の給付も拒んできた。自分の音楽を同情抜きで聴いてもらいたいと考えていたからだ。
 彼のところにはテレビ番組を作らないかという話が何度も舞い込んだという。確かに、耳が聞こえない障害者が音楽に打ち込むなんて、いかにもテレビが好みそうな話だ。だが、佐村河内は障害を利用して有名になることを拒んだ。テレビ局からは『せっかく有名になるチャンスなのに、バカじゃないか』と言われたという」

 この記事を読んで、佐村河内守氏に興味をもった私は、早速『交響曲第一番』を買い求めて読んでみたのですが、そこには想像を絶するような壮絶きわまりない人生が綴られていました。被曝二世として生まれ、クラシック音楽の作曲家、交響曲の作曲家になることを志しながらも、35歳の時に完全に聴力を失ってしまった、というのです。肉体も精神も破壊されてしまいそうな苦しみのなかで、音楽以外の一切を捨て、隠者生活のなかでただ音楽だけを求道する、という孤高の闘いに圧倒され、一気に読まされてしまいました。

 もともと佐村河内守氏は、音楽大学の現状を批判して独学の道を選ぶだけの作曲に対する高い志を持っていました。

「いまの音大の作曲科で学ばされるのは『現代音楽(不協和音を駆使して構築する無調音楽)』だけであり、いったん作曲科に入ったなら、その学校の教師(現代音楽作曲家)に師事しないわけにはいかず、師事した教師の作風からはずれた音楽を書くことは許されず、卒業して『クラシック音楽作曲家(いわゆる調性音楽)』として身を立てることなど認められない時代になってしまったことを悟ったからでした。
 当時の私は、マーラーのような、壮大でロマンチックな曲を書くことを夢見ていました。音大に進めば夢はかなわず、現代音楽作曲家の道に集約されてしまう。私はそう思い、それを恐れました。何とかクラシック音楽の作曲で身を立てるために、まず、調性音楽を基本とした、ロマン性が認められる、映画やドラマの音楽を創る劇伴作曲科となり、そこから道を開いていこうと考えていたのです」(p66)

 ところが、聴力を完全に失い激しい耳鳴りによって肉体も精神も破壊されんばかりの苦しみを味わうようになるに至って、作曲をするということは文字どおり、命を懸けた闘いとなったのです。

「肉体的苦痛を考えれば、私の持ち時間は長くはないのかもしれない。
 現世では顧みられず終わってももはやかまわない。死後、誰かが自分の楽譜を見つけて演奏が実現し、人々に聴いてもらえる音楽――そんな作品を書けるようになりたい。そのためにも、詩、文学、世界史、西洋宗教学、哲学などを可能なかぎり極めたい。
 それに要する期間を三年間と区切りました」(p109)

 このようにして、まさに生命を削るようにして作曲されたのが、本書のタイトルともなった交響曲第1番でした。この曲は、全3楽章で70分を超えるものですが、第1楽章・第3楽章のみの短縮版で、2008年に秋山和慶氏が指揮する広島交響楽団によって初演されました。

 その際の第3楽章部分の演奏(およそ23分)は、Youtubeで聴くことができますが、これを聴く限り、重厚で深刻きわまりない響きに満ちていると同時に、苦難を打ち破って前進していこうという圧倒的な力強さをも感じさせる音楽であり、この曲が本格的な大交響曲であることを予想させます。悲劇的に高揚していく部分ではショスタコーヴィチを、また最後の祈りに満ちた平穏な音楽はブルックナーやマーラーを(とくにマーラーの交響曲第3番終楽章の終結部に似ています)想起させます。全曲を聴かない限り断定的なことはいえませんが、演奏時間が1時間を超えるという規模の面はもちろん、その充実した内容の面でも、ブルックナーやマーラーなどと並べてもそれほど遜色ないのかもしれない、と思わせるだけのものがあります。

 この交響曲第1番は、今年の4月4日にも東京交響楽団が大友直人氏の指揮で演奏していますが、この際も広島初演と同じく第1楽章・第3楽章のみの短縮版でした。第2楽章も含めた全曲版の初演は、今週8月14日(土)に、秋山和慶氏が指揮する京都市交響楽団によって行われます。この全曲版初演に際し、佐村河内氏はこの曲に「HIROSHIMA」というタイトルを付しました。「これまでは先入観抜きで音楽を味わっていただきたいと考えてきたが、これからは被爆2世の私が作った、平和への祈りを込めた曲であることを明確に示そうと思った」(「日本経済新聞」8月5日付「作曲家魂 聴覚障害に勝つ 35歳のとき音を失うが、交響曲書き上げる」)とのことです。第1楽章は「運命」、第2楽章は「絶望」、第3楽章は「希望」を描いたということです。
 
 いずれにせよ、現代の日本において、過去の偉大な作曲家たちの交響曲にも匹敵しうるかもしれない新作交響曲の初演が聴けるというのは、非常に貴重な体験となることでしょう。


追記(2014年3月5日)

 周知のとおり、先月の初めになって、この曲は佐村河内氏が作曲したものではなく佐村河内氏の「発注書」に基づいて新垣隆氏が作曲していたものであること、また、佐村河内氏が全聾であるということもどうやらウソであるらしいことが明らかになりました。

 私が佐村河内氏を知ったのは、2010年の初め、許光俊氏の文章を偶然に読んだことによってです。この時期は、佐村河内氏が本格的に売れ始める直前の時期に当たっていました。自伝的著作たる『交響曲第一番』(講談社)を読んでそこに描かれていた生き様に深く感動し、同年8月に京都で「交響曲第1番」の全曲初演が行われるらしいことを知って演奏会チケットを購入して聴きに行き、翌年7月に発売された「交響曲第1番」のCDを購入しました。ということで、このブログでは3回に渡って、この佐村河内氏の名義で発表された「交響曲第1番」について取り上げてきたのでした。

 音楽そのものを聴いた感想としては、確かに聴き応えのある立派な大交響曲ではあるけれども、「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」(許光俊)という割には、甘く感傷的な部分が多いな、というものでした(許氏はペッタションの交響曲をまともに聴いたことがないのかな、などとも思いました)。しかし、ゲーム音楽や映画音楽を創作してきた人が挑んだ交響曲としてはそんなものなのかな、とも思いましたし、取り立てて論うほどの欠点でもない(甘いといえばラフマニノフの交響曲も相当に甘い)とも思いましたので、特にその点に触れることはしませんでした。また、熱狂的な“佐村河内ファン”とでもいうべき人たちが、交響曲作曲家・吉松隆氏による「日本人が書いた最高の交響曲のひとつ」という評価を最後の「のひとつ」を抜いた上で流布させようとしたり、あたかもブルックナーやマーラーやショスタコーヴィチの諸交響曲を凌駕するような大傑作であるかのように持ち上げたりしている様子に対しては、正直いってちょっと距離を置きたいな、という思いがないでもありませんでした(日本人が書いた後期ロマン派風の交響曲としては、諸井三郎が大戦末期に作曲した「交響曲第3番」の方が素晴らしいのではないか、と思っていました)が、当時はまだ佐村河内氏が世間一般的にはそれほど知られている存在ではありませんでした(一部の音楽愛好家に知られるに止まっていた)し、そういうことにもあえて触れることはしませんでした。

 この点、佐村河内氏の人生にまつわる壮絶な物語(虚構だったわけですが)に幻惑されて、音楽そのものへの評価が甘くなっていた面があるのではないかといわれれば、それを否定することはできません。純粋に音楽そのものを聴いて評価すべきだ、というのは正論かもしれませんが、佐村河内氏の生き様に強烈な印象を受けた上で音楽を聴いてしまった以上、それは困難なことでした。しかし、そもそも芸術作品とは作者の認識(生き様)の表現にほかならないのですから、作品に作者の人生を読み込もうとする鑑賞の仕方そのものは一概に否定されるべきものではないと思います。

 さて、当ブログで3回に渡って佐村河内氏名義の「交響曲第1番」を取り上げた時期は、ちょうど佐村河内氏がレコード会社やマスコミによって盛んに持ち上げるようになっていき、爆発的に売れ始めていく端緒の時期に相当していました。ところが、そもそも許氏の文章では以下のように述べられていたのでした。

「彼のところにはテレビ番組を作らないかという話が何度も舞い込んだという。確かに、耳が聞こえない障害者が音楽に打ち込むなんて、いかにもテレビが好みそうな話だ。だが、佐村河内は障害を利用して有名になることを拒んだ。テレビ局からは『せっかく有名になるチャンスなのに、バカじゃないか』と言われたという」。

 私は、この記述に深く感動していただけに、この記述を全く否定してしまうような展開に戸惑いを感じざるを得ず(ハッキリいえば、裏切られた、佐村河内氏も俗物に堕してしまったのか、との思いを抱かされて)、「シャコンヌ」以降の佐村河内氏(名義)の作品をまともに聴いていく気を失ってしまったのでした(私の家にはテレビがないので、諸々のテレビ番組で佐村河内氏がどのように取り上げられるようになっていったのか具体的には知りません)。今回の一件で、「ああ、そういうことだったのか」と思った次第です。

 とはいえ、今回明るみに出た事実によって、この「交響曲第1番」の音楽的な価値を全否定してしまうことも行き過ぎでしょう。もちろん、佐村河内氏の人生にまつわる物語がこの音楽を実態以上に感動的なものに聴かせていた、ということは否定すべくもないところですが、そういった点を割り引いても、この「交響曲第1番」は充分に聴き応えのある、立派な交響曲であるといえるのではないかと思っています。

 今回の一件で、この「交響曲第1番」に対して以前から批判的に論評していた人の意見が正当なものとして持ち上げられる傾向にありますが、これはそんなに単純に割り切ってよいものではないでしょう。一つの音楽作品についての評価は色々あり得るもの(なかなか難しいもの)です。例えば、新垣氏の告白のきっかけとなった文章(『新潮45』2013年11月号に掲載された「『全聾の天才作曲家』佐村河内守は本物か」)を書いた野口剛夫氏が熱心に紹介に努めているフルトヴェングラーの交響曲については、一般の音楽家愛好家から専門家の間まで、散々に酷評する声の方が圧倒的に多いのです(とはいえ、私自身は、佐村河内〔新垣〕氏の交響曲よりフルトヴェングラーの交響曲の方が好きなので、これを機にフルトヴェングラーの交響曲の評価が高まると良いな、などとも思っています)。

 問題の「交響曲第1番〈現代典礼〉」の「発注書」において非常に興味深いのは、一番上の部分に「後世にのこる芸術的価値のみを追求!」という壮大な目標が高々と掲げられていたことです。端的にいえば、佐村河内氏には、歴史に残るような立派な大交響曲を創作したいという願望だけは強烈にあり、音楽についての漠然としたイメージもあったものの、それを具体化し楽譜化する技術は持っていなかった、だからそういう優秀な技術を持っていた新垣氏を利用した、ということなのでしょう。というよりも、現代のアカデミックな世界で専門的な技術を身につけた人は、そもそもそういう大それた夢は描けなくなってしまうのであって、歴史に残るような大交響曲などという夢は、彼が素人だったからこそ描けた夢であった、という側面があるのではないでしょうか。そのような佐村河内氏の強烈な願望(よくいえば大志、悪くいえば誇大妄想)が根底にあった(新垣氏も意気に感ずる部分があった)からこそ、出来上がった交響曲は、独特の魅力を放つものになり得た、といえそうです。

 この事件の構図を端的に纏めるならば、歴史に残るような立派な大交響曲を世に出したい! という佐村河内氏の強烈な願望がまずあって、その売り込みのための手段として、全聾、過酷な病との強烈な闘争を演じることが選択された、ということになるでしょう。もちろん、障害者を偽装した、被爆地や被災地を出しにしたという点で、決して許されるものではありませんが、そういう売り出し方をせずに正攻法でこの交響曲を世間に認めさせようとしても、それは不可能なことだったでしょう。そういう売り出し方が、予想以上(予想通り?)に当たって世間を賑わせ、レコード会社やマスコミも巻き込んで巨額の金になった、という面はあるでしょうが、2003年の「交響曲第1番〈現代典礼〉」の完成時点、すなわち、佐村河内氏がほとんど無名であり、この曲が本当に金になるかどうか分からない時点で200万円の報酬が新垣氏に渡されているとのことなので、佐村河内氏は最初から金儲けが目的の詐欺師であった、などと切って捨てるのは適当でないように思われます。

 現在は、佐村河内守氏の創作していた物語に感動していた人々のショックと怒りで世間は大混乱(これは当然のことです)で、この「交響曲第1番」そのものが冷静に評価される、ということは不可能な情況です。しかし、これから数十年も経てば、今回の一件も創作にまつわる一種の興味深いエピソード程度に受けとめられるようになり、音楽そのものが評価されるようになっていくのではないでしょうか。
posted by kyoto.dialectic at 15:39| Comment(2) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私が最も尊敬する芸術家、それが佐村河内守です。

勉強になりました。ありがとうございます。
Posted by 勝田道広 at 2012年07月07日 20:52
潔く無いですね。
長く語れば語る程、無様。
外見や評伝をもって作品を評するべきではないのです。
もうアーティストに関して語らないでいただきたい。
理屈屁理屈を捏ねくり回して、日々の糧としていてください。
Posted by PD at 2016年05月23日 05:48
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 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する