2017年11月30日

教育実習生に説く人間観の歴史(12/13)

(12)人間観の歴史とは人間としての価値を認められる存在が拡大する過程である

 本稿は教育実習生に向けて、人間観(人間に対する見方・考え方)が歴史的にどのように変化していったのかを説こうとするものです。ここでこれまでの流れを振り返ってみましょう。

 まず人間観の出発点は、自分は他の動物とは違った存在であるという自覚が芽生えたことだとして、そのような自覚がどのようにして生まれたのかを見てきました。サルの集団はボスザルを中心として束ねられています。サルたちは本能に基づいてボスザルの指示に従うようになっているのでした。つまり自分よりも強いもの(ボスザル)には従うということはあらかじめプログラムとして組み込まれているし、またそのボスザルの出す合図がどういう意味であり、どういう行動をすべきなのかということももともとわかっているということでした。ところが、こうしたサルの集団の中で、徐々に徐々に本能が薄らいでいくサル(子ザル)が出てきます。こうしたサル(ヒト的サル)の数が増え、純粋なサル集団とは質的に異なった集団へと変化していきました。そのヒト的サルの集団が純粋なサルの集団と対峙する中で、自分たちとの違いを感じるとともに、自分たちはあいつらとは違うということが自覚されるようになっていったのでした。サルの集団との戦いに勝った人間の集団は、その生活範囲が次第次第に広くなっていき、他の人間の集団との争いを行うようになりました。争いは当初は偶然に行われていましたが、相手を滅ぼせば食料を確保できるということから、人々はやがて意図的に争いをしかけるようになりました。こうして戦争があちこちで行われていたのが原始社会の時代でした。争いに勝った人々は、当初は負けた人々を皆殺しにしていましたが、その後、徐々に奴隷として働かせるようになりました。古代ギリシャやローマでは、奴隷は自分で労働するモノとして扱われていました。生物としては同じ人間でありながら、人間としての価値は認められていなかったのです。このように社会的な条件によっては人間として認めないという人間観が生まれてきたのでした。中世ヨーロッパ社会においても、階層的な身分秩序が成立しており、その社会的な身分によって人間としての価値に差はあるものだと考えられていました。同じ人間であっても社会的な階級が違えば違う存在だと考えられていたのです。「王であろうと、僧侶であろうと、農奴であろうと同じ人間だ」というような考え方は全くなかったのでした。

 このような中世までの人間観は近代に入ると大きく変化することになります。経済的な発展の中でカトリック教会の権威が弱まり、腐敗が進んでいく中で、中世の階層的な身分秩序を正当化していたカトリック教会の教えを批判する動きが出てきました。教会の教えに従うだけではなく、聖書に基づいて自分のアタマで判断して生きていくべきだという考え方が芽生えてきたのです。これを明確な形で打ち出したのが宗教改革で有名なルターでした。神からすれば、人間の階級などちっぽけなものであり、人間と人間の間に差などないと主張したのでした。このルターの考えを受け継いだコメニウスは、神は個人個人に対して平等であるから、我々もある人間に対しては教育を行い、ある人間に対しては教育を行わないということは人間に対する侮蔑であり、神の冒涜だと考えたのでした。教育の対象となる人間というのは性別や素質の有無を問わずすべての人間であり、いかに素質がなかろうと教育すれば改善するのだと主張したのでした。しかし、コメニウスは、あくまでも神という絶対的な存在を想定することによって、人間の平等を主張していました。そうではなく、現実の人間の在り方に基づいて、人間の平等を説いたのがルソーでした。ルソーが生きた18世紀のフランス社会は第一身分の僧侶、第二身分の貴族、第三身分の平民という3つの身分で構成されていましたが、経済的な発展の中で、それぞれの身分の中にも貧富の差が入り交じるようになりました。第三身分にも経済的に豊かになる人々が出てくる一方、僧侶や貴族の中にも没落する人々が出てくるようになりました。こうして社会的な身分による区別は絶対的なものではないことが自覚されてきたのでした。そこでルソーは、現在みられるような不平等はあくまでも人間がつくりだしたものにすぎないのであって、もともと人間は人間として平等なのだと主張し、その人間とはどのような存在なのかを考察したのでした。そのルソーの主張は、人間というのは自己を改善する能力をもった存在であり、それは人間の一般性であるからこそ、すべての人間に教育の可能性が存在しているし、その教育によって人間の本質である自らの意志に基づいた行動ができるようにすること(=自由の獲得)が必要だと解釈することのできるものだったのでした。このルソーの影響を強く受けた人物がペスタロッチでした。『隠者の夕暮』『リーンハルトとゲルトルート』において教育によって国家を改造すべきだと主張し、文筆家、教育者として非常に有名になっていたペスタロッチは、戦争による孤児や浮浪児を預かる孤児院の院長となり、50人の子どもを相手に一人で教育を行ったのでした。そこには歩けない子、衰弱して骸骨のようにやせている子、愛情がなく邪推深い子、詐欺を常習とする子などもいましたが、ペスタロッチは1人でその子達と生活を共にし、必死で関わる中で、子どもたちを変容させていったのでした。ここにおいて、すべての人間に可能性があることが事実として示されたのでした。

 こうした人間観を土台として、産業革命を迎えた各国は次第に近代的な公教育制度を創りあげていくこととなります。産業革命を迎えた欧米諸国では、資本家たちが利益を上げるために、子どもたちを長時間働かせ続けたのでした。その扱いはまさに古代の奴隷なみのものであり、まともな人間として考えられていなかったことを裏づけるものでした。しかし、「人間は平等である」「人間は自由である」「すべての人間に可能性がある」などの考えに基づいて、日曜学校や慈善学校といった取り組みが行われ、またロバート・オウエンが少年労働者に学校を作るなど、民間の動きが活発になる中で、次第に公的に教育制度が整えられていったのでした。このように、少年労働者の問題を解決しようとする動きの中で義務就学・無償制などを原則とする近代的な公教育制度が整えられていったのでした。しかし、子ども全員の就学が行われるようになると、集団の中でうまくかかわっていけない、あるいは授業についていけない子どもが出てくるようになりました。そうした子どもたちの事例が数多く集められて分析される中で、肉体的・精神的な問題があることが自覚され、20世紀前後から障害のある子どもというものがクローズアップされるようになっていきました。いかにして新たな障害児(障害者)が生まれないようにし、社会から根絶するかということが議論され、社会的に価値がないと判断された人々については断種することが合法化されました。アメリカのインディアナ州で初めて合法化され、それを受けてドイツのナチス政権も断種法を制定したのでした。ナチス政権ではさらに、肉体的・精神的に不適格だと判断された人々を強制的に安楽死させる政策をとるようになりました(T4作戦)。このように労働によって経済的に社会を支えることができない存在は、人間として認められず、その生存すら許されない状況だったのでした。しかし、次第に障害児(障害者)を救おうとする動きが現れてきます。その1つとして近江学園を創設した糸賀一雄を紹介しました。敗戦を迎えた日本では、戦災で親を失った子どもたちが徘徊するようになりました。生活が苦しくなった家からも子どもは放り出されて、浮浪児の群れに入り、反社会的な人間として育てられていったのでした。その中には知的に障害のある子どもも含まれていました。そこで生活困窮児と障害児を教育する場として近江学園を創設したのでした。障害者にも手を差し伸べる福祉国家であってこそ日本の再建は可能だと考えたのでした。そして、「四六時中勤務」「耐乏の生活」「不断の研究」という「近江学園三条件」を職員に掲げて実践に取り組んだ結果、学園内の生活困窮児と障害児が心から交流できる事実を創ることができたのでした。糸賀は障害児にも焦点を当て、障害児こそ世の光になってほしいという思いを抱いていたのでした。

 以上、これまでの流れを振り返ってみました。人間観の歴史を概観するならば「すべての人間に価値があり、可能性がある」ということが自覚されていなかった段階から、「すべての人間に価値があり、可能性がある」ということが自覚されるようになる段階へと変化したということがわかるでしょう。人間観の歴史とは人間としての価値を認められる存在が拡大する過程なのです。当初は一部の教育者・教育学者の中に生まれたこの人間観の革新が、社会的な認識へと広まっていきました。それが近代の学校制度や障害児教育などの形で現実の教育のあり方へと反映していったのです。そして、こうした人間観の歴史の大きな原動力となったのは、目の前の子どもの価値が認められていない現状を憂い、その子の可能性を信じたコメニウス、ペスタロッチ、糸賀一雄などの先達たちの、文字通り懸命な努力だったのです。
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2017年11月29日

教育実習生に説く人間観の歴史(11/13)

(11)障害児教育の生成・発展−糸賀一雄

 前回は、近代公教育制度の成立によってクローズアップされるようになってきた障害児(障害者)を取り上げ、彼らにどのような政策がなされていたのかを紹介し、その背後にある人間観を明らかにしました。端的には、障害児(障害者)は社会的に役立たない存在だとされ、その存続が認められなかったのでした。当時の人々が考える「人間」の中に、障害児(障害者)は含まれなかったのだということでした。

 しかし、やがてこうした子どもたちを救おうとする動きが生じてくることとなります。その代表的な人物が、日本の教育者である糸賀一雄です。今回はその糸賀一雄(1914-1968)が障害児たちとどのように向き合ったのかを紹介したいと思います。

 糸賀一雄は鳥取市で生まれ、自由な校風で知られていた鳥取第二中学校に進学しました。医師になる希望をもって1930年に松江高校に入学するも、自分の将来に悩み、在学中に洗礼を受けて宗教哲学を志望しました。そして京都帝国大学文学部に入学し、宗教哲学の確立を目指していた波多野精一の指導を受けます。卒業後、京都市の第二衣笠尋常小学校の代用教員となり、そこで同僚であった池田太郎と親しくなります。池田が指示していた京都帝国大学文学部哲学科助教授の木村素衛(京都学派で有名な西田幾多郎の弟子)の自宅に出入りするようになり、その教育哲学から大きな影響を受けました。その後、池田の紹介で田村一二と出会い、この三人で敗戦後に近江学園を創設することになるのです。

 この三人の中で、当時、障害児教育に取り組んでいたのは田村一二でした。田村は知的障害の子の教育に10年間取り組んでおり、たくさんの教育現場や施設を見学して回っていました。しかし、その中に知能指数が50以下の障害の重い子はどこにもいないこと、教育から排除されていることに気づいたのでした。また教室だけの教育にも限界を感じ、生活をともにする教育というものが障害のある子どもたちにとって大切なのだと考えていました。

 やがて日本が敗戦を迎えると、戦災で親を失った子どもたちが町を徘徊するようになりました。生活が苦しくなった家からも子どもは放り出されて、浮浪児の群れに入り、反社会的な人間として育てられていったのでした。繁華街や駅などにあまりに浮浪児が群がると、警察の手で「浮浪児狩り」が行われました。トラックに駆り集められて、一時保護所につれて行かれるのでした。田村と池田はこうした現象を見、その中には知的に障害のある子どもも含まれていることを考えると、やり切れない思いになるのでした。仮に日本が経済的に立ち直ったとしても、こうした弱者を切り捨てたまま発展することになるのではないかという問題意識も抱いていたのでした。

 そこで二人は、戦争孤児と障害児を対象とした学園を開くことを糸賀に提案し、糸賀には園長になってもらいたいと話したのでした。同様の問題意識を抱いていた糸賀は、悩んだ末に申し出を受け入れることにしたのでした。「いくさに負けた日本を再建するには、福祉国家よりない。世界中の障害者を集めて、世界中の寄付で日本という国を再建する。それを自分がやる」(高谷清『異質の光−糸賀一雄の魂と思想』大月書店、2005年、p.125)。このような志をもって、近江学園の設立に向かったのでした。

「近江学園要覧」にはその問題意識と意義が書かれています。戦争孤児、生活困窮児は「街頭に、あるいは駅頭に食を求めて放浪しており、社会的混乱の波に揉まれながら次第に社会の裏面に追いやられて、恐るべき犯罪の温床と化している」とし、障害児も「忘れられ虐げられた存在として、いたずらに社会の足手纏とし、あるいは犯罪へと追いやっているのが現状である」としたうえで、「戦災孤児達は、このような姿で戦争の責任をとらねばならない理由があるのであろうかと怒りを表明しています。そして近江学園は「児童にとって何りも温かく楽しい、そして腹のくちくなる過程でなければならない」とし、知能が普通の子と知的障害がある子を同一施設において教育することは、「教育的にはむしろこの姿が本質的形態であることの確信が抱かれるに至った」と述べた上で、「この学園でお互いに助け慕って暮す美しく温かい環境を現出するために、吾々は努力して行きたい」と決意を表しています。そして、「四六時中勤務」「耐乏の生活」「不断の研究」という「近江学園三条件」を職員に掲げたのでした。

 こうした取り組みの中で様々な事実を生み出していったのですが、その1つとして1951年の修学旅行のエピソードを紹介しましょう。近江学園では戦災孤児・生活困窮児と知的障害児は生産と遊びは一緒にするものの、専門の教育は別々のクラスで行われており、それぞれ一部・二部と呼ばれていました。修学旅行は一緒に行くものの、これまでは班は別々にしていました。ところが一部の子どもたちが「もっとちがう行き方はないか」と発言し、一部も二部も一緒の班にすることになったのでした。その議論の中では、「知らないから仲良しになるのだ」「同じ学園にいるのに別々になる必要はない」「私たちが連れて行ってあげるべきだ」などの意見が出されていました。子どもたちがこのように育っていたことをうれしく思った糸賀は、子どもたちに任せることにしたのでした。そして一件の万引き事件やケンカもなく終えたのでした。子どもたちは「二部の人たちと一しょに寝られたことが一番うれしかった」「二部の人もお話しをしたら、いくらでもしやはります。なんでもっと早く仲よしにならなかったか」「二部の人となかよしになれたことがうれしかった」「ともだちがふえてうれしい」「二部の者は一部の者よりすなおに言うことを聞いてくれたので、けっして、めんどうくさいなどと思ったことはなかった」と振り返っていました。修学旅行を引率した教師は「一部の子どもたちのなかに思いやりのこころが次第に芽生えてきているし、二部の子どもたちの純粋無雑なこころの美しさが、一部の子のこころを実際の場で引き出したのでしょうね」と述べ、糸賀はその通りだと感じたのでした。近江学園の設立趣意書では、「お互いに助け合って行くという精神を養うのであります」と書かれており、それこそが本来の社会のあるべき姿だと糸賀は考えていたのでした。それが近江学園の中で実現されていったのです。

 糸賀の代表的な著作に『この子らを世の光に』というものがあります。ここで注意してもらいたいのは『この子らに世の光を』ではないということです。この場合、障害児たちは社会の恩恵を受けさせるという意味になります。そうではないと糸賀は言うのです。

「精神薄弱といわれる人たちを世の光たらしめる、精神薄弱な人たち自身が光り、また光となっていく、そうしたことをするのが、私たちの仕事ではないか」(『近江学園年報』第10号)


 つまり、障害児たち自身が社会の光となる存在なのだということです。ここに糸賀の人間観が端的に表されていると言えるでしょう。
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2017年11月28日

教育実習生に説く人間観の歴史(10/13)

(10)障害児(障害者)と優生思想

 前回は、近代公教育制度が確立される過程について見てきました。産業革命によって少年労働者の過酷な労働状況が問題になってくると、それを解決しようとする民間の動きが現れ、次第に国家としてもこの問題に取り組むようになっていったのでした。これは近代において掲げられた人間観を現実化していく過程とも言えるということでした。

 子ども全員の就学が行われるようになると、集団の中でうまくかかわっていけない、あるいは授業についていけない子どもというものが出てくるようになります。そうした子どもたちの事例が数多く集められて分析される中で、肉体的・精神的な問題があることが自覚されるようになっていきます。これらは障害として把握されるようになり、20世紀前後から障害のある子どもというものがクローズアップされるようになっていきました。今回はこうした障害児あるいは障害者というものに対して、当時どのような考えに基づいて、どのような扱いがなされていたのかを見ていきましょう。

 障害児(障害者)に対して考えられたのは、いかにして新たな障害児(障害者)が生まれないようにするか、いかにして社会から根絶するかということでした。こうした問題意識のもとで大きく広まっていったのが、優生学と呼ばれる学問です。フランシス・ゴルトンが『人間の能力とその発達の研究』という本の中で優生学(eugenics)という言葉を使ったのが、優生学の始まりとされています。ここで優生学とは「人間の優良な血統をすみやかに増やす諸要因を研究する学問的立場」とされ、ゴルトンは人間の才能がどの程度遺伝に因るのかを明らかにしようとしたのでした。この優生学を研究する人々の中には、「文化の発展によって人間という種の変質(退化)が起こっている」と主張する人(ドイツのシャルマイヤー)もいました。医療や福祉が充実した結果、本来なら自然に死んでしまうべき人間が生存できるようになってしまったのだということです。こうした人間がもつ疾患や障害が伝達されないようにしないといけないと考えられたのです。さらに、こうした疾患や障害は環境や教育で現れたり改善したりするものではなく、遺伝的なものだとされたのでした。そこで社会的に有意義な人々の血統は残し、社会的に価値がないと判断された人々の血統は根絶しようという政策が実施されるようになっていきました。これを優生政策と言います。

 社会的に価値がないと判断された血統を根絶するために大きく2つの方法がとられました。1つは断種手術です。つまり、障害などがある人々に対して、子どもが生まれないように手術をするということです。これは1907年、アメリカのインディアナ州で世界で初めて認められることとなりました。1923年までには多くの州で断種法が定められて、10000件以上の断種手術が行われました。

 このアメリカの断種法をモデルとして、ドイツのナチス政権も断種法を制定しました。その背景には世界恐慌によって、ドイツが不況にまみれていたということがあります。経済的に苦しい中、「遺伝的に問題のある人々にお金を使っても何の社会の役にも立たない」と考えられ、そうした人々を排除する方向へと進んだのでした。

 しかし、断種をしたとしても、結局はその人々自身は国家が経済的に支援をしていかなければなりません。そこでそうした人々を根絶するもう1つの方法として、ナチス・ドイツでは肉体的・精神的に不適格だと判断された人々を強制的に安楽死させる政策をとるようになりました。これはT4作戦と呼ばれます。当初は3歳児以下の乳幼児を対象としていましたが、第二次世界大戦がはじまると、年長児や大人も安楽死の対象になりました。その実態について、デイヴィッド・ライト『ダウン症の歴史』(明石書店、2015年)では次のように書かれています。

「特別殺戮センターに送られた子どもは、特殊なケアが必要なために病院に入院させると告げられ、収容した数週間後に医師と看護師が、餓死させるか薬物過服用、まれに致死注射によって子どもを『処置』する許可を下した。親たちは、子どもは『肺炎』で死んだと後に知らされた。少なくとも5000人の子どもが、22の殺戮施設で以上の方法で殺されたのである。
 1939年10月15日には、すべての健康管理施設は、身体障害・精神障害のすべての患者数を記録し、国に登録することが義務付けられた。国家登録は、戦争への従事能力の可否を判断するためであると信じた、様々な施設の医師たちは、労働や軍事奉仕から患者たちが免れることを望み、彼らの無能力をひどく誇張することも多かった。政府から信頼された(たいてい若手の)専門家たちは、症例簿を検討し、3人の医師の承認を受けた後、患者を『安楽死』させるか否かの判断を下し、安楽死させるものには−誰もじかに患者を見ることはなく−名前の隣に赤い十字架を書き、そうでない者には青いマイナス記号を記した。患者は、当局によって連行され−たいていの患者が起こったことを即座に理解して恐怖の感情を出す場面である−殺戮センターに送られたが、家族がその運命を知ることはなかったのである。」(pp.119-120)


 古代の奴隷や産業革命期の子どもたちであれば、労働によって経済的に社会を支えることができますから、その生存自体は否定されていませんでした。ところがそれができない障害児(障害者)たちは、社会的に役立たない存在、あるいは社会的に害をなす存在だと捉えられ、その生存さえ認められなかったのです。当時の人々の「人間」という言葉の中には、障害者は含まれていなかったのだと言えるでしょう。社会を経済的に支えることのできる人間のみが「人間」だとされたのです。これがこの当時の人間観だったのです。
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2017年11月27日

教育実習生に説く人間観の歴史(9/13)

(9)近代公教育制度の確立

 本稿は教育実習生に向けて、人間観が歴史的にどのように変化してきたのかということを説くものです。サルの集団の中から、本能による統括が薄れてきたサルの集団が誕生し、これが純粋なサルの集団と対峙してその違いを自覚する中で、「あいつらとは違う自分たち」という認識をもつようになったのでした。これが人間観のスタートです。さらにその人間の集団が食料をめぐって互いに争うようになり、勝った人々が負けた人々を奴隷とするようになりました。こうして人間でありながら人間としての価値が認められない存在が生まれたのでした。さらに中世社会になると、より複雑な階層的身分構造が形成されるようになり、身分に応じて人間としての価値が定められるようになったのでした。しかし、近代になる過程でこうした人間観が大きく変化するようになります。中世社会において絶対的な権力をもっていたカトリック教会が腐敗する中で、ルターは教会を批判するようになり、神の下に人間は平等だと主張するようになったのでした。こうした人間観を受け継いだコメニウスは、どんな人間であっても教育によって成長するのだと主張しました。さらに社会が大きく変化する中で、社会的な身分が個人の人生の中で変わるということも起きるようになると、どんな社会的な身分についていようと、人間として同じだという見方が生まれてきたのでした。ルソーはその人間とはどのような存在なのかについて考察し、人間は本能ではなく自らの意志によって行動するのであり、だからこそ他の動物とは違って自らを改善していく能力をもつのだと主張したのでした。こうしたルソーの主張を受けて、実際に貧しい子どもたちに教育を行ったのがペスタロッチでした。ペスタロッチの教育を受けた子どもたちは大きく変化し、どんな人間であっても確かに改善する能力があり、可能性があるということを実証したのでした。

 このようにすべての人間の可能性が自覚されるようになる中で、産業革命を迎えた各国は次第に近代的な公教育制度を創りあげていくこととなります。今回はその過程について見ていきましょう。

 18世紀の半ばごろになると、イギリスを始めとして生産の過程に機械が用いられるようになりました。例えば、布を織る織機や、糸をつむぐ紡績機などが次々と開発されたのです。また、水力や蒸気機関を動力とする機会を使って生産を行う大規模な工場も現れました。安くて質のよい商品を大量につくることができるようになったのです。このような大規模な工場を経営する資本家が、大きな経済力をもつようになりました。一方で、1つ1つの商品を手作業で作っていた職人たちは競争に敗れて職を失い、労働者として貧困に苦しむこととなったのでした。このように、機械の発明や改良が続き、社会の様子が大きく変化することを産業革命と言います。

 機械の導入によって、生産の過程にこれまでのように熟練した技が必要なくなりました。そこで資本家たちは、利益をあげるために、安い賃金で働かせることができる女性や子どもを雇うようになっていったのでした。子どもたちは、1日10数時間も働かされる過酷な状況におかれました。その状況について、梅根悟『世界教育史』の中では次のように書かれています。

「遠い田舎から狩りだされた子供たちは、もちろん工場の中に泊りこみであったが、寄宿舎というような気のきいたものはなかった。工場の片すみの床にベッドがならべられ、子供たちは昼番と夜番と交替でそれを使った。食べ物もひどかった。たえかねて逃げだす子供もいたが、つかまると足くびをくさりでつながれて働かされた。死ぬ子供も多かったが、死ぬ子供が多いという評判がたたないように、人目につかない場所に母床も立てずにほうむられた。
 毎日十六時間ずつ、六日間ぎっしり働いて、そして日曜は機械の掃除をさせられた。
『くさい、熱気にみちた室、百千の車のまわっている室で、子供たちの小さな指、小さな足がひっきりなしに働いている。監督員のごつい手足でなぐられ、けとばされ、あくことを知らぬ利己心のわるがしこさが発明させたかずかずの体罰の道具によって責めさいなまられながら、不自然な仕事を強いられて・・・』とある著者は述べている。」(p.284)


 これは、ほぼ奴隷に近い扱いだと言えるでしょう。当時の働く子どもたちはほとんど人間として扱われていなかったのです。

 しかし、コメニウスやルソー、ペスタロッチなどによって、「人間は平等である」「人間は自由である」「すべての人間に可能性がある」などの考えを抱くようになっていた人類は、こうした状況を改善する方向へ進んでいくこととなりました。例えば、工場で働く少年を対象とした日曜学校や、親が工場に行き家に取り残されている子どもを対象とした慈善学校などが行われるようになりました。また、労働者の擁護に努めたロバート・オウエンは、工場経営者でありながら、少年労働者には学校をつくって保護と教育を行いました。労働者とその子どもたちに健康な環境を与えて教育することによって、貧困や社会悪をなくすことができるとオウエンは考え、大きな成果をあげたのでした。

 こうした民間の動きを受けて、次第に公的に教育制度が整えられていきました。例えばイギリスでは1870年に初等教育法が定められ、子どもの就学が義務となりました。また、1891年には多くの学校で授業料が無料となりました。フランスにおいても、1881年の教育法により、初等教育の完全無償制が規定され、6歳から13歳までのすべての者の初等教育が義務となりました。アメリカにおいても、ホレース・マン(1796〜1859)が、光や空気と同じようにすべての民衆が共通に教育を享受する学校として、コモン・スクールを提唱しました。無償制、非宗派、義務就学を原則としたコモン・スクールの構想は次第に実現していくこととなりました。

 このように、少年労働者の問題を解決しようとする動きの中で義務就学・無償制などを原則とする近代的な公教育制度が整えられていったのでした。これは近代において掲げられた人間観に基づいて、現実の教育のあり方を変革していこうとする動きであったということができるでしょう。
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2017年11月26日

教育実習生に説く人間観の歴史(8/13)

(8)すべての人間が可能性をもつことの実証−ペスタロッチ

 前回は、ルソーの人間観がどのようなものであったのかを見てきました。経済的に豊かだった人間が没落したり、貧しかった人間が裕福になったりして階級が入り乱れる中で、ルソーは、社会的な条件と個人の価値が切り離して考えるようになったのでした。そして、そもそも人間とはどういう存在なのかということについて動物との対比においてとらえ、可能性をもった存在であり、自由を求める存在であることを指摘したのでした。

 このルソーの影響を強く受けた人物こそが今回紹介するペスタロッチです。彼は自分の子どもに「ヨハン・ヤコブ(フランス語でジャン・ジャック)」と命名するほどルソーの信奉者でした(ルソーは、ジャン・ジャック・ルソー)。今回は、ペスタロッチが人間観の歴史においてどういう役割を果たしたのかを見ていきましょう。

 ペスタロッチは、1746年、スイスのチューリッヒで生まれました。幼い頃に父親が亡くなってしまったので、祖父が父親としての役割を果たしていました。祖父は村の牧師として定期的に教区の貧しい家を訪問し、宗教的、家庭的な面で指導を行っていましたが、ペスタロッチは幼い頃からしばしばこの祖父についていき貧民の状況について目の辺りにしていました。彼らの苦悩とその悲惨な姿が原点となって、彼らの解放のために生涯を捧げることをペスタロッチは決意したのです。当時、貧民の子どもは大きな農家にひきとられてこき使われたり、乞食の手先として使われたりしていました。また、当時スイスでも盛んになってきていた工場生産の労働力として縛り付けられている者もいました。こうした子どもたちを救うために貧民学校を開きました。貧民が幸福に過ごせるようになるためには、単に施しを与えるだけでは不十分であり、貧民自身が自立して人間らしい生活をしていけるようにならないといけない。そのために必要な能力や手段を身につけられるように教育することが重要なのだと考えていたのです。

 しかし、この貧民学校も経営が成り立たなくなりました。以後、ペスタロッチは文筆家として生計を立てることになります。その中で発表した『隠者の夕暮』『リーンハルトとゲルトルート』において教育によって国家を改造すべきだと主張し、文筆家、教育者として非常に有名になりました。

 この頃、フランス革命の影響を受けて、スイスでも革命が起こり、新政権が誕生していました。しかし新政権に対する反対運動はまだまだ活発でした。特に反革命運動の拠点であった地域では武力抗争が起こり、多くの孤児や浮浪児を生み出していたのです。こうした子どもを救済するために新政権は孤児院を設立することを決め、その院長としてペスタロッチが選ばれました。

 孤児院には50人の子どもが集められ、そこには歩けない子、衰弱して骸骨のようにやせている子、愛情がなく邪推深い子、詐欺を常習とする子などもいましたが、ペスタロッチは1人でその子達と生活を共にし、必死で関わる中で、子どもたちを変容させていきます。そこでの成果をまとめたものが『シュタンツ便り』です。

 心も体も荒れ果てた子どもたちを前にしたときの心境を、ペスタロッチは次のように書いています。

「わたしにはほとんど何の不安の感も懐かせなかった。というのは最も憐れな最も見離された子供にも神の与え給う人間性の諸力をわたしは信じているので、この人間性が無教育と粗野とそして混乱との泥土の間にあっても、最も美しい素質と能力とを発展させるということを、ただに今までの経験がすでに久しくわたしに教えていただけではなくて、わたしはわたしの子供の場合にも、無教育ではあるが、この生き生きとした本性の力がいたるところに発露するのをみた。」(同上書、pp.50-51)


 つまり、どんな人間に対しても、人間がもつべき力を神が与えているのだから、何の不安も懐かなかったということです。現代においても、例えば身体障害の方などを見ると、その外見から「えっ!」「うわっ」と思う方はいるはずです。しかしペスタロッチはそういった現象にひきずられず、すべての人間がもっている可能性をそこに見出していたのだということです。

 もちろん、シュタンツでは壮絶な戦いと言えるレベルの教育があったはずです。みなさんは、サリバンによるヘレン・ケラーの教育を知っているでしょうか。あそこでは甘やかされて育ったヘレンが自分勝手な振る舞いをするのに対して、サリバンがヘレンと対峙し、文字通り格闘レベルで関わっていく姿が見られます。これをペスタロッチは何十人もの相手に行っていたのだということです。そう考えれば、ペスタロッチの信念の強固さというものがイメージできるはずです。

 こうした教育の結果、子どもたちは大きく変わっていきます。当時、子どもたちの親は、革命政府がよこしたペスタロッチを何も信用しておらず、ペスタロッチを非難し、子供を連れ帰ることもざらにあったようです。ところが、ペスタロッチの教育を受けた子どもたちはペスタロッチを信頼し始め、やがてペスタロッチを非難する親をたしなめるまでに至ったのです。自分たちの成長を自覚しているからこそ、それをもたらしてくれたペスタロッチに対して信頼を抱いているのだと言えるでしょう。

 どうしてこのような信頼を得ることができたのか。それについて、ペスタロッチは次のように語っています。

「子供の気持や考え方を左右するものは、教師の個々の行為ないしはたまさか行う行為ではない。汝に対する彼等の感情を断然左右するものは、毎日毎時繰返されて、しかも彼らの眼の前で働いている汝の心情状態の真相の程度であり、また彼ら自身に対しての汝の懐く愛情もしくは嫌悪の情の程度である。」(同上書、pp.75-76)


 つまり、教師が子どもに対して何をしたかではなく、教師が子どもに対してどういう思いをもっているか、その思いがどの程度のものなのか、本気なのかどうか、ということが重要だということです。こうしてペスタロッチからの愛情を注がれた子どもたちは、他者への愛情を注ぐようになっていきます。

「アルトドルフが丸焼けになったので、わたしは子供たちをわたしの周囲に呼び集めて言った。『アルトドルフは丸焼けになった。多分今ごろは100人もの子供が家もなく、食べ物もなく、着物もなくているだろう。お前たちは慈悲深いお上へお願いして、これらの子供を20人ばかりわたしたちの家に修養するようにしないか』『いいですとも、いいですとも』と言った感激の様子を、わたしは今も眼のあたりに見る思いがする。そこでわたしは言った。『しかし子供たちよ、お前たちが熱心に望んでいることをよく考えてご覧。わたしたちの家には思うほどのお金はないし、これらの貧しい子供のために今まで以上にお金の工面ができるかどうかも怪しいものだ。それでお前たちはこれらの子供がきたために、自分たちのお稽古には今まで以上に骨が折れ、食べ物は今までよりもずっと減らし、その上お前たちの着物も分けてやらなければならないような羽目になるかも知れない。だから彼らが困っているからといって、これらのすべてのことをお前たちがいかに喜んで心から納得しているかのような振りをして、うっかりこれらの子供が来ればいいなど言ってはならない』わたしは力をこめてできるだけ強くそう言った。わたしは自分の言ったことを彼ら自身に繰返させた。それは彼らの申し出の結果がどんなことになるかということを、明瞭に彼らが理解しているかどうかはっきりさせるためだった。しかし彼らは頑として心を翻さず、しかも繰返して言うのだった。『そうです、そうです、たといわたしたちの食べ物はもっと悪くなり、仕事はもっとふえ、着物は分けてやらなければならなくなっても、彼らが来れば嬉しい』」(同上書、pp.71-72)


 子どもたちは、たとえ自分たちが貧しい思いをすることになっても、アルトドルフの子どもがここに来ることを望んでいるのです。他者に対する非常に深い思いやりが込められています。

 このように、シュタンツの子どもたちは、ペスタロッチの教育を受けて他者への愛情を注げるまでに成長したのでした。そして、自分自身がその成長を自覚しているからこそ、ペスタロッチに深い信頼を抱くようになったのだということになるでしょう。ペスタロッチが「どんな人間も教育によって成長する」という人間観を抱いて、子どもに愛情を注ぎ続けた結果、子どもたちも自分たちがもつ人間としての可能性を自覚することができたのです。

 コメニウス以来、すべての人間に可能性があるということが主張されるようになりましたが、そのことがペスタロッチによって事実として示されたのです。ここに人間観の歴史におけるペスタロッチの意義があったと言えるでしょう。
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2017年11月25日

教育実習生に説く人間観の歴史(7/13)

(7)人間とは何かという問いかけの誕生−ルソー

 前回はコメニウスがどのような人間観をもっていたのかということを紹介しました。カトリック教会に対する反発が高まる中で、ルターは「神の下に人間は平等だ」という主張をするようになったのでした。それを受けて、コメニウスはいかなる人間であっても可能性があり、教育によって成長するという人間観を打ち出したのでした。これは、階級という社会的な条件に応じて人間の価値の差が認められていた中世社会からすれば大きな変化だということでした。

 しかし、コメニウスは、あくまでも神という絶対的な存在を想定することによって、人間の平等を主張しています。その意味では宗教的だと言えるでしょう。そうではなく、現実の人間の在り方に基づいて、人間の平等を説いたのがルソーです。今回はルソーの人間観について見ていきましょう。

 ルソーが生きた18世紀のフランス社会はアンシャン=レジームとよばれる階層社会で、3つの身分に分かれていました。第一身分の僧侶、第二身分の貴族、第三身分の平民です。僧侶や貴族は税金を免除されていたり、(第三身分の)農民から生産物を徴収することを認められていたりと、多くの特権をもっている一方、第三身分の人々は重い税金に苦しんでいました。しかし、経済的な発展の中で、それぞれの身分の中にも貧富の差が入り交じるようになりました。第三身分にも金融業者や上層市民、商工業や資本主義的農業経営にたずさわる中産市民など、経済的に豊かになる人々が出てきたのです。一方、僧侶や貴族の中にも経済的に没落する人々が出てくるようになりました。このように個人の人生の中で社会的な条件が様々に移り変わってしまうという状況が生まれてくるようになったのです。

 こうした中で、個々の人間の価値にはもともと差があるわけではないということが自覚されるようになっていきました。そのことを最も強く主張したのがルソーです。ルソーは次のように述べています。

「自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。だから、そのために十分に教育された人は、人間に関係のあることならできないはずはない。わたしの生徒を、将来、軍人にしようと、僧侶にしようと、法律家にしようと、それはわたしにはどうでもいいことだ。両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間として生活をするように自然は命じている。生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。」(ルソー、今野一雄訳『エミール(上)』岩波文庫、1964年、p.31)


 現在みられるような不平等はあくまでも人間がつくりだしたものにすぎないのであって、もともと人間は人間として平等なのだとルソーは主張しています。だから、まずはどの人間も人間として生きていけるようすることが教育としては重要であり、それさえできればどんな職業について生きていくことになったとしても、すべて人間に関係あることなのだからできるはずだと主張しているのです。

 では、人間として育てるとはどういうことなのでしょうか。そもそも人間とは何なのでしょうか。ルソーは次のように述べています。

「私はどんな動物のなかにも精巧な機械しか見ない。すなわちこの機械は自分で自分のねじをまくように、またこれを壊したり狂わしたりしそうなあらゆるものからある点まで身を守るために、自然から感覚というものを授かっている。私は人間機械のなかにも確かに同じものを認める。ただ、禽獣の行動においては自然だけがすべてを行なうのに対して、人間は自由な能因として自然の行動に協力するという点がちがっている。一方は本能によって、他方は自由行為によって、択んだり斥けたりする。」(ルソー、本田喜代治訳『人間不平等起原論』岩波書店、1972年、pp.51-52)


 つまり、動物は本能によって機械のように動くし、人間もそういう側面はあるけれども、人間の場合は自らの意志に基づいて行動するのであり、その意味で人間の行為は自由行為なのだということを説いているのです。このような捉え方は本稿の(3)で指摘した人間と動物との違いに近いものがあると言えるでしょう。

 さらに、人間と他の動物との違いとしてもう1点挙げています。

「もう一つ、両者を区別して、なんらの異議もありえない、きわめて特殊な特質が存在する。それは自己を改善(完成)する能力である。すなわち、周囲の事情に助けられて、すべての他の能力をつぎつぎに発展させ、われわれのあいだでは種にもまた個体にも存在するあの能力である。これに対して、動物は数ヶ月の後には一生涯そのままであるようなものになり、またはその種は千年たってもその千年の最初の年にそうであったままで変らない。」(同上書、p.53)


 つまり、人間は自己を改善(完成)する能力があるけれども、他の動物にはそれがなく、個体としても種としてもいつまでも変わらないということです。これは結局、第一の違いとつながるものだと言えるでしょう。人間以外の動物は本能という決められたプログラムに従って動くだけであり、このプログラムそのものが変わることはありません。だからそこに発展性はありません。しかし、人間は自らの意志に基づいて自由に行動するのであるから、その意志が発展すれば、自らのあり方も発展するし、人類全体としても発展していくことになるのです。

 人間というのは自己を改善する能力をもった存在であり、それは人間の一般性であるからこそ、すべての人間に教育の可能性が存在しているし、その教育によって人間の本質である自らの意志に基づいた行動ができるようにすること(=自由の獲得)が必要だと主張しているのです。

 このように、現実社会の人間のあり方を踏まえて、社会的な条件と人間の価値を切り離して考えたこと、そうして切り離された人間とはどういう存在なのかということについて動物との対比においてとらえ、人間は可能性をもった存在であり、自由を求める存在であることを指摘したこと、ここにルソーの人間観の歴史的な意義があると言えるでしょう。
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2017年11月24日

教育実習生に説く人間観の歴史(6/13)

(6)人間は平等であるという人間観の誕生−コメニウス

 本稿は教育実習生に向けて、人間観が歴史的にどのように変化してきたのかということを説くものです。ここまで原始社会、古代社会、中世社会の人間観の流れを見てきました。サルの集団の中に本能による統括が薄れてきたサルが誕生し、その数が多くなると、その集団は純粋なサルの集団とは異なったものとなっていきました。その集団が純粋なサルの集団と対峙する中で、「あいつらとは違う自分たち」という自覚をもつようになりました。これが人間観のスタートです。やがてそれぞれの人間の社会が拡大し、接触するようになると相争うようになり、負けた集団の人間は奴隷として扱われるようになったのでした。ここにおいて、生物としては人間であることを認めながら社会的な条件においては人間としての価値を認めないという見方が生まれてきたのでした。さらに、中世社会になれば、その身分秩序はより複雑化し、(生物としては同じ人間であるけれども)階級に応じてその価値の程度が考えられるようになったのでした。これは古代社会からの延長線上にあるということでした。

 このような中世までの人間観は近代に入ると大きく変化することになります。今回から3回にわたってその変化の過程を教育学の歴史において有名な人物(コメニウス・ルソー・ペスタロッチ)に焦点を当てながら、見ていきたいと思います。

 中世社会ではそれぞれの荘園で自給自足の生活が行われており、互いの交流がほとんどなされていなかったのでした。しかし、少しずつ生産力が向上していって、生活に必要以上の物資を獲得できるようになってくると、余ったものを荘園同士で交換するようになりました。交換に便利なように貨幣も使われるようになると、商品の交換に携わる商人や、商品の生産に携わる人々が次第に豊かになっていきます。また、余った生産物を売ることで得た金を納めることによって、領主の支配から逃れる農奴も出てくるようになりました。その一方で、領地を支配していた貴族や僧侶たちは経済的に苦しい状況に追い込まれることにもなりました。このようにして、カトリック教会によって裏付けられていた身分制度が絶対的なものではないということが、徐々に明らかになってきたのです。

 こうした時代の流れの中で、教会の教えに従うだけではなく、自分のアタマで判断して生きていこうという考え方が芽生えてくることとなりました。その背景には、当時のカトリック教会が金儲けのことばかり考えていたことに対する反発もあります。

 その反発を明確な形で打ち出したのが宗教改革で有名なルターです。ルターは僧侶と民衆を区別することを批判しました。神からすれば、人間の階級などちっぽけなものであり、そこに差などないと考えたのです。そして、民衆一人ひとりが聖書を読み、神が何を望んでいるのかを知り、それに従って生きていくことが重要だと主張しました。

 ルターの教えに賛同した人々(新教)は徐々に勢力を伸ばし、カトリック(旧教)と激しく争うようになっていきました。この対立の中心地だったのが、コメニウスが生まれたボヘミア(チェコ・スロヴァキア)であり、ここでは30年にわたる戦争が繰り広げられました。

 コメニウスは新教の立場の人間として生まれ育ち、結婚もして平和な生活を送っていました。しかし、戦争が起こると、仕事を追われ、逃避生活に入るようになります。その中で妻を失い、さらにコメニウスを含めた新教の人間は祖国を追われることとなりました。

 こうした絶望の日々を送る中で、コメニウスは、祖国の回復と平和な世界の実現を強烈な問題意識として抱くようになり、その手段として教育の改善が必要だと考え、有名な『大教授学』を執筆したのです。コメニウスはその冒頭において、次のように書いています。

「この我々の教授学の目指す全目的は(中略)キリスト教社会が在来のように暗黒、混乱、軋轢の場所とならずして、それによって却ってより多くの光明と秩序と平和と休息とを得るような教授法を探求し発見することに存している。」(コメニウス、稲富栄次郎訳『大教授学』明治図書、1956年、p.14)


 つまり、現在のように混乱したキリスト教社会ではなく、平和なキリスト教社会を築くことを目的としているということです。そのための教授法を探求した結果をこの『大教授学』で書いているということです。
 では、そこでは具体的にどのようなことを説いているのでしょうか。人間観という観点から注目すべきは、以下の文章です。

「神は一視同仁で、個人個人に対して何等の依怙贔屓もしないことを表明している。それ故に若しも我々が、或人間には精神の教育を施し、他の人間にはこれを許さないということになれば、我々は生来我々自身と同じ素質を持った人間に対して侮辱を加えることになるばかりでなく、神そのものをも冒涜することになるのである。」(同上書、p.92)


 つまり、神は個人個人に対して平等であるから、我々も平等に教育すべきだということです。ある人間に対しては教育を行い、ある人間に対しては教育を行わないということは人間に対する侮蔑であり、神の冒涜だというのです。

 中世ヨーロッパでは、まともな教育を受けられるのは一部の特権階級だけであり、農奴などには教育が行われませんでした。そうした中で、人間は神のもとに平等であるというルターの人間観を引き継ぎ、すべての人間に教育を与えることを主張しているのです。さらに、その「すべての人間」というのは性別や素質の有無を問わず、本当にすべての人間だとコメニウスは述べています。

「人の素質が、遅鈍であり、薄弱であればある程、このような生まれつきの動物的な愚鈍、愚昧から解放されるために、より多くの援助を必要とする。のみならず、およそ世に、教育によって之を改善することができない程、その智力の薄弱なるものはないのである。」(同上書、p.93)


 つまり、いかに素質がなかろうと教育すれば改善するのだというのです。ここには人間の可能性に対する信頼、教育の力に対する信頼があふれていると言えるでしょう。このような人間観・教育観をコメニウスは抱いていたのです。このような人間観・教育観に基づけば、子どもが成長しないのは教師の働きかけが悪いからだということになります。では、どのように働きかければよいのかということについての原則が、この『大教授学』では述べられているのです。

 このようにコメニウスはルター派の牧師として、人間は神のもとに平等であるという人間観を受け継ぎ、いかなる人間であっても可能性があり、教育によって成長するという人間観を打ちだしたのです。「王であろうと、僧侶であろうと、農奴であろうと同じ人間だ」というような考え方が全くなかった中世社会からすれば、非常に大きな意味をもつ主張だと言えるでしょう。
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2017年11月23日

教育実習生に説く人間観の歴史(5/13)

(5)人間の価値が社会的な条件によって定められた−中世社会

 前回は、古代社会の人間観とはどのようなものかを見てきました。古代社会では、人間ではあるけれども人間として認められていない奴隷という存在が正当化されていたのでした。このように(戦争に負けたという)社会的な条件によって、人間ではあるけれども人間として認めないという人間観が生まれてきたのが古代社会だということでした。古代社会において大きく発展したローマ帝国は、異民族の侵入によって滅ぼされてしまいます。こうしてヨーロッパでは民族同士の戦乱が繰り広げられる舞台となり、やがて各地に王国ができて落ち着きを取り戻していきます。こうした時代が中世です。今回はこの中世社会の人間観はどのようなものであったのかを見てみましょう。

 中世ヨーロッパの社会の特徴は、階層的な身分秩序が成立していたという点にあります。つまり、王の下に諸侯がいて、その諸侯の下には臣下がいて、さらにその下にはその臣下がいるというような状態だったのです。こうした王や諸侯たちはそれぞれ自分の土地(荘園)を保有していました。領主としてその土地を治め、その土地の農民を働かせて、収穫したものを納めさせていたのです。荘園同士の交流はほとんどなく、各地の荘園が自給自足的な生活を送っているという社会だったのでした。

 こうした仕組みが成立した背景には、先に述べたように、ローマ帝国が崩壊した後の民族大移動によって、ヨーロッパ各地が戦乱の舞台になってしまったということが挙げられます。土地の所有者たちは、こうした戦乱の中にあって、自分の生活のために自分の土地を何とかして守らなければなりませんでした。そこで彼らが考えた方法は、力の強い者に土地を譲りわたす(寄進する)代わりに、自分たちの生活の保障をしてもらうことだったのです。こうして力の強い者に自分の生産物を譲り渡す代わりに、その力の強い者に守ってもらうという仕組みがつくられたのです。さらにその力の強い者は、より力の強い者に自分の土地を譲り渡すようになります。これが積み重ねられる中で、階層的な身分秩序が成立したのでした。

 こうした社会では、身分の間の行き来ということは行われませんでした。つまり、農民の子どもとして生まれれば、農民として生きていくことになるし、貴族の子として生まれれば、貴族として生きていくことになるということです。このように、社会的な階級は変わらないものだと考えられていたのです。

 このような制度を正当化していたのが、キリスト教を担うカトリック教会でした。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教が絶対的なものだと信じられていたのです。戦乱が絶えず、生活が不安定になるなかで、人々の心のよりどころになったのがキリスト教だったのです。コトワザでいう「苦しいときの神頼み」ということです。「自分たちの力ではどうしようもないから、神様に何とかしてもらおう」というような思いから、キリスト教が大きく広まっていたのです。中世ヨーロッパにおいてキリスト教の担い手となったカトリック教会では、階層的な身分秩序が正当化されていました。こうした身分秩序は神によって定められたものであり、その神に定められた仕事に取り組むことが、(神に従う)よい生き方だとされたのです。

 この階級は決して平等と言えるようなものではありませんでした。最も大きな力を持っていたのは、キリスト教を司るカトリック教会の僧侶たちです。僧侶たちは、神の言葉を地上の人々に伝えてくれる存在として絶対視され、その指示に従うことが神の望むことだと考えられていました。また、彼らも領地をもっており、そこから得られる富によって、経済的にも大きな力をもっていました。カトリック教会は国王をもしのぐ絶対的な権力を握っていたのです。

 したがって、教育においても優秀な僧侶をいかにして育成するかという観点が重視されていました。修道院に付属して僧院学校や本山学校と呼ばれる学校がつくられ、僧侶の養成のために、七自由科(文学・修辞学・弁証法・算術・幾何・天文・音楽)という当時の学術の基礎的な内容が教えられていたのでした。また、中世の半ばにつくられるようになった大学では、神学が中心的な学問として教えられていました。

 このように、社会的に大きな価値を認められ、優遇されていた人々がいる一方で、農民たちはその価値をほとんど認められていませんでした。古代の奴隷ほどではないにせよ、土地の一部という程度の認識でしか捉えられていませんでした。当然、農民たちに対して公的な制度として教育が行われるということもありませんでした。

 つまり、中世社会においては、同じ人間であっても社会的な階級が違えば全く違う存在だと考えられていたのです。「王であろうと、僧侶であろうと、農奴であろうと同じ人間だ」というような考え方は全くなかったのです。確かに古代社会に比べれば、社会的な階級の在り方がより複雑化しているものの、社会的な条件によって人間として認められる存在と人間として認められない存在がいるという点では同じであり、中世社会の人間観は古代社会の人間観の延長線上にあると言えるでしょう。
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2017年11月22日

教育実習生に説く人間観の歴史(4/13)

(4)人間の中での区別がなされるようになった−古代社会

 前回は、「自分たちは人間だ」という自覚がどのようにして芽生えてきたのかということをお話しました。本能の薄れていったサルの割合が増える中で、集団の質もこれまでと大きく異なってきたのでした。そうしたサルの集団が純粋なサルの集団と対峙したときに、「あいつらとは違う自分たち」という自覚が芽生えてきたのだということでした。そして、ヒト的サルの集団はサルの集団との戦いに勝利するようになり、主導権を握っていくようになったのだということでした。また、この過程でサルはヒト(人間)へと発展していくこととなります。今回は、原始社会から古代社会(ポリスを基礎とした古代ギリシャや、大帝国を築いた古代ローマ帝国を思い浮かべてください)への過程において人間観がどのように変化したのかを見ていきたいと思います。

 サルの集団との戦いに勝った人間の集団は、周囲から食料を獲得し、比較的安定的に生活していました。次第に人口も多くなり、その生活範囲が次第次第に広くなっていきます。生活範囲が広くなると、他の集団との接触が行われるようになります。こうして食料をめぐって、人間の集団と人間の集団との争いが行われるようになったのです。もし争いに負けてしまえば、その集団は全滅させられてしまいます。このように集団の存亡をかけたものであったために、人々は戦争に勝つために必死の努力をさせられることとなりました。より指導能力の高い人間が指導者になり、戦力となる兵士が育成され、という形で、集団の中で組織化が進められていったのです。
 原始社会では一人前の大人として認められるための儀式として入社式というものが存在していました。若者が集められ、断食させられたり、生き埋めにされたり、歯を抜かれたり、背中を切り裂かれたりといった苦行を命じられるのです。そして、苦行のあとでは集団の指導者から集団の掟が教えられ、その掟を破ったものがどうなるかを伝えられ、また、戦闘や労働の技能の訓練がなされました。これも集団の力を高めて、他の集団との争いに負けないようにするために行われた教育の1つだと考えられます。

 争いは当初は偶然に行われていました。つまり、たまたま他の集団と遭遇したから争いになっていたのでした。しかし、相手の集団を全滅させれば、相手がもっていた大量の食料をすべて獲得することができるという体験を積む中で、人々はやがて意図的に争いをしかけるようになりました。こうして戦争があちこちで行われていたのが原始社会の時代です。

 争いに勝った人々は、当初は負けた人々を皆殺しにしていました。しかし次第に、殺してしまうのではなく、生かしておいて奴隷として働かせた方が自分たちにとって得だということがわかってくると、滅ぼした集団の人間を生け捕りにするようになります。古代ギリシャや古代ローマの奴隷は、このようにして誕生したのです。

 こうした奴隷たちがどのような扱いを受けていたか、みなさんはご存知でしょうか。古代ギリシャやローマでは、奴隷は自分で労働するモノという見方をされていました。したがって、死ぬまで働かせ続けられますし、死んでしまったりして新しい奴隷が必要になれば、金を払って購入する、そんな存在でしかありませんでした。何か事件があったときに、真実を奴隷に述べさせるために拷問することも認められていました。椅子に縛りつけ、鞭で打ったり、皮をはいだり、引き伸ばしたり、レンガを体の上に積み上げるなどの拷問がなされていました。また古代ローマでは、剣闘士を務める奴隷もいました。お互いに剣をとって殺し合いをさせられ、それをローマ市民たちが見世物として楽しむのです。

 古代ギリシャで代表的な哲学者であるアリストテレスは、奴隷について次のように述べています。

「他の人々にくらべて、身体が霊魂に、また動物が人間に劣るのと同じほどに劣る人々は誰でもみな自然によって奴隷であって、その人々にとっては、もし先に挙げた劣れるものにも支配されることの方が善いことなら、そのような支配を受けることの方が善いことなのである。」(山本光雄『アリストテレス』岩波書店、1977年、p.201より孫引き)


 つまり、動物と同じ程度に劣っている人間は、奴隷として支配を受けた方がよいのだということです。このように古代の人々は奴隷を正当化していたのです。

 恐らく奴隷であっても生物としては自分たちと同じ人間であることは否定していないでしょう。しかし、人間としての価値はもっていないと考えているわけです。戦争で負けてしまったという社会的な条件によって、人間ではあるけれども人間ではないという見方をされてしまっているわけです。このように同じ人間であっても人間としての価値を認めないという見方(人間観)が生まれてきたのが、古代社会の特徴だということができるでしょう。
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2017年11月21日

教育実習生に説く人間観の歴史(3/13)

(3)動物と区別された存在という自覚が芽生えた−原始社会

 本稿は教育実習生に向けて、人間観(人間に対する見方・考え方)が歴史的にどのように変化していったのかを説こうとするものです。人間観の出発点は、そもそも自分たちが人間である(他の動物とは違う存在である)という自覚が芽生えてきたことです。人間はサルから進化してきたわけですが、その過程でこのような自覚が生まれてきました。今回はその過程を詳しく見ていきたいと思います。

 まず人間とサルなどの他の動物はどのように異なるのかを押さえておきましょう。一般的には様々なことが言われています。考える力があるかないか、二足歩行ができるかどうか、道具を作ることができるかどうか、などです。

 しかし、根本的な違いを言えば、変化性に富んでいるかどうかという点が挙げられるでしょう。動物は本能によって支配されています。本能というのは生きていくためのいわばプログラムのようなものであり、これによって支配されている動物は、そのプログラムによって決められたことしかすることができません。例えば、犬は犬としてどう成長していくかが決められており、それに沿って成長していきます。生活の仕方も定められており、例えば食べるものも犬のエサのみであり、牛のエサを食べたりすることはありません(もしあるとすれば、それは人間がペットとして飼うことによって本能を歪められたということができます)。このように本能によって支配されており、変化性に乏しいのが人間以外の動物だと言えます。

 これに対して、人間は変化性に富んでいます。単純な話、1000年前のサルと今のサルは同じであるのに対して、1000年前の人間と今の人間は大きく異なっています。これはなぜかと言えば、人間の場合、本能という定められたプログラムによって動くのではなく、自分で「あれをしよう」「これをしよう」と新たな目的(像)を描いて行動するからです。このように、次々と新たな目的をアタマの中に描いて、それを実現していこうとするという点に人間の特徴があります。

 人間と他の動物の違いをこのように押さえた上で、どのようにしてサルの集団が人間の社会へと発展していったのか、また、その過程で人間という自覚はどのようにして生まれていったのかを見てみましょう。

 サルの集団というのは単にたくさんのサルが集まっているだけではなく、ボスザルによってそのサルたちが束ねられています。餌を見つけたときや危険が迫ったときにはボスザルが吠えるなどの形で合図をし、他のサルはその合図に従って行動をします。このようにしてサルの集団は生存が維持されているのです。

 ここで押さえておかないといけないことは、サルがボスザルに従うのは本能に基づいているということです。つまり自分よりも強いもの(ボスザル)には従うということはあらかじめプログラムとして組み込まれているし、またそのボスザルの出す合図がどういう意味であり、どういう行動をすべきなのかということももともとわかっているということです。だからこそ、自分の命を守ることができるのです。

 ところが、こうしたサルの集団の中で、徐々に徐々に本能が薄らいでいくサル(子ザル)が出てきます。本能が薄らいでいるわけですから、ボスザルが合図を出しても、他のサルのようにすぐさま行動するということができにくくなります。そうすると、外敵に襲われたときに一人逃げ遅れて死んでしまったり、あるいは自分の指示に従わない者ということで、ボスザルに殺されてしまったりします。

 こうなると最も苦しいのはその子ザルの母ザルです。そこで、自分の子どもが殺されてしまわないように、「ボスザルがこう合図したらこう動く」ということを教えるようになります。もちろん言葉などはありませんから、実際にボスザルが合図を出したときに、身振り手振りをしたり、無理やり行動させたりして教えたものと思われます。これが教育の出発点です。

 本能の薄らいだサルが徐々に徐々に増えていくと、やがてボスザルもそうしたサルが務めるようになり、集団自体が純粋なサルの集団とは質的に異なったものとなります。行動の仕方や見た目なども含めて、大きく変わっていったものと思われます(もちろんその過程には何百年、何千年という長い年月がかけられています)。

 こうしたサルの集団が、純粋なサルの集団と出くわした場合、どんなことを感じると思いますか。「自分たちとは違う」という感覚になるのです。これは逆に言えば、「自分たちはあのサルたちとは違う」ということを感じるようになるということです。

 たとえ話で言えば、小学校を卒業した中学生が、小学校を訪れて小学生を見たときに「あぁ、小さいなぁ。自分とは違うなぁ」と感じるようなものです。このとき同時に、「自分は中学生になって大きくなった」ということが自覚されることになります。

 このように純粋なサルの集団と出会う中で、「自分たちはあいつらとは違う」という自覚が生まれてきたのです。これこそが人間観の出発点(「自分たちは人間だ」という自覚)だと言えるでしょう。また、ここにおいて、サルの集団とは区別された人間の社会が誕生したとも言えるでしょう。

 やがてヒト的サルの集団と純粋なサルの集団は、エサをめぐって縄張り争いを行うようになります。当初は本能によって完璧に統括されたサルの集団が勝っていたでしょうが、ヒト的サルの集団が戦い方を工夫し、次第に勝利を収めるようになります。このようにして、サルの集団から人間の社会へと主導権が移っていったのです。
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2017年11月20日

教育実習生に説く人間観の歴史(2/13)

(2)教育実習で学ぶべきものとは何か

 前回は、教育実習の目的について確認しました。2週間から1か月という短い期間の教育実習でしっかりとした学びを得るためには、教育実習の目的をしっかりと押さえておく必要があります。現在、文科省は教員として求められる資質能力として、「教職に対する強い情熱」「教育の専門家としての確かな力量」「総合的な人間力」という3つを挙げていますから、教育実習もこの3つを目的とするものだと言えますが、中でも「教職に対する強い情熱」こそが教育の出発点という意味で最も重要だということを書きました。実際に子どもを教育するなかで、教育することの楽しさを実感し、教職に対する強い情熱をもてるようにすることこそ、教育実習の最も大きな目的だと言えるだろうということでした。

 では、教育することの楽しさとはいったい何なのでしょうか。

 教育実習を経験した人の中には、「子どもたちといろいろな話をしたり、休み時間に遊んだりして楽しかった。やっぱり教師は楽しい」という感想をもつ人がいます。つまり、子どもたちと仲良くなって、話したり遊んだりすることが教育の楽しさだということになります。これはこれで教職に対する強い情熱につながっており、よい経験になったのだと思います。

 ただし、子どもたちと楽しい時間を過ごせたというだけでは、果たして正規の教員となったときに続けていくことができるか、疑問符がつくところです。なぜならば、教育実習はかなり優遇されている期間だからです。まず教育実習生という存在がクラスの子どもにとっては新鮮であるため、子どもの方から寄ってくる状況にあります。またクラス自体は担任の教師によってある程度創られているため、授業の実力が未熟であっても、子どもは真面目に授業を受けようとします。さらに基本的な責任は担任にあるため、仮に勉強ができない子がいたり、友達関係でトラブルを抱えた子どもがいたりしても、そうした子どもにはあまり向き合う必要がありません。保護者に対応しなければならないことも普通はありません。このように、かなり恵まれた条件の中で子どもたちと関わっているのです。

 正規の教員となり、こうした条件が失われたときに、子どもたちと同じように楽しい時間を過ごすことができるかは不明です。場合によっては子どもたちから大きく反発されることもあります。教育実習の経験から抱いていた自らのイメージとの間に、大きなズレを感じることになるのです。そうしたときにも教職に対する強い情熱を維持することができるかということが大きな問題になるわけです。

 では、このようなときにも教職に対する強い情熱を支える、教育の本質的な楽しさとはいったい何なのでしょうか。

 一言で言えば、目の前の子どもが成長する姿を見ることにほかなりません。全然勉強ができなかった子どもが、個別に教えたりすることによって、徐々にできるようになっていく。学校へ来られなかった子どもが、数か月間のかかわりの中で登校できるようになる。こうした子どもの成長の姿を見ること、すべての子どもが可能性をもっていることを体験すること、これこそ教育の醍醐味だと言えるでしょう。

 以前、私の知り合いの先生が、教職に就こうと思ったきっかけを次のように話しておられました。その先生は就職活動もせず、大学卒業後はとりあえず中学校の講師を務めたそうですが、あまり意欲はなく、授業は適当でメチャメチャなものだったそうです。そんなとき、生徒指導の担当となり、問題行動を起こす生徒たちと関わっていくことになります。その中には、常に目を光らせておかないと、何かしらの問題を起こす生徒がいました。ずっとその生徒と関わり続けていたそうですが、ある日、その生徒と一緒にいるときに、別の生徒が暴れている姿が見られました。そこでこんなやりとりをしたそうです。

生徒「先生、あいつら止めてきいや。先生が行かなやめよらへんで。」
先生「でも、俺が行ったら、お前、どっかいくやろ。」
生徒「せえへん、せえへん。行ってきい。」


 生徒がこういうので、その先生は別の生徒の方へ行ったそうです。そしてそちらの方を解決してから、あまり期待せず戻ってみると、その生徒はちゃんとその場にいたそうです。その体験が教職に就こうと思ったきっかけだということでした。

 それまでは常に目を光らせておかなければならなかった生徒。そんな生徒が教師とのかかわりの中でよい方向へと変化している。そこに教師としての楽しさを感じたのだろうと思います。

 このように、どんな子どもであっても可能性があり、教師とのかかわりの中で変化していくということ、これこそが教師がもつべき人間についての見方・考え方(人間観)です。これがあるからこそ、教職に対する強い情熱が生まれてくるのです。

 したがって、教育実習においても、「確かに子どもには可能性がある」と感じるような体験をしてほしいと思います。その体験があれば、仮に正規の教員となって苦しい状況に陥っても、自らの支えになるはずです。

 このような人間観は、昔から存在していたわけではありません。近代になってから生まれてきた見方・考え方であり、歴史的に創られてきたものです。「目の前の子どもたちを何とかしたい」、そういう強い情熱を抱いた先人たちの努力によって創り上げられた文化遺産なのです。こうした歴史的な過程を知ることは、自らの人間観を鍛え、これからの教育実習をより充実したものにすることにつながると考えられます。

 そこで本稿では、人類がどのような過程を経て子どもの可能性を見出していったのかという人間観の歴史を説いていきたいと思います。教育実習生にも読みやすいように、やさしく、わかりやすいものにしたいと思います。
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2017年11月19日

教育実習生に説く人間観の歴史(1/13)

(1)教育実習の目的とは何か

 教職を志す学生は、大学3回生か4回生のときに教育実習に行くことになっています。2週間から1か月ほどの間、実際に学校現場に入って、教師としての仕事を体験するのです。教育実習はこれまで教職課程で学んできた知識や技能を実際の現場で生かしてみる場であり、教職課程の締めくくりとも言えるでしょう。

 教育実習に向かうときは大きな不安を抱くものです。授業はしっかりできるだろうか。子どもとちゃんと教師として接することができるだろうか。学校の先生とはいい関係が築けるだろうか。こうした不安をもちながらも実習に臨みます。そして実習に行くと、朝早くから出勤して仕事をすることになり、ようやく子どもが帰ったと思ったら、今日の授業についての指導を受けたり、実習簿を書いたり、明日の授業の準備をしたりして、夜遅くまで残ることにもなります。とりわけ教育実習の終盤に行われる研究授業が近づいてくると、睡眠時間を大きく削られることにもなります。

 このように肉体的にも精神的にも非常に苦しい時間を過ごすのですから、できる限り教師として充実した学びを得られる時間にしてほしいと思います。そして、これからの大学での学びの意欲づけになり、正規の教員として現場に立つのが待ち遠しくなるような時間になってほしいと思います。

 そのためには、教育実習でいったいどんな学びを得るべきなのか、教育実習の目的は何なのかということを予めしっかりと押さえておく必要があります。教育実習はわずか2週間から1か月という短い期間でしかないのですから、なおさらです。例えば、近畿大学のホームページには、教育実習の趣旨として次のように書かれています。

http://www.kindai.ac.jp/academics/teacher-training/strength-training/teaching-practice/detail.html

1.教育実習の趣旨

教育実習は、教育職員免許法第6条に規定されている必須科目です。それは一定期間、教育の場での実地体験をとおして、教師として必要な知識、技能、態度、心構えなどを修得するために行われるものです。

教育実習は、教育現場における教育の実際を観察し、また体験し、さらに経験や体験を積むことにより、教育の意義についての体験的認識と理解を深め、教師としてのあり方を学ぶことを目標にしています。すなわち、大学での学問研究の成果(理論と技術)を、教育の実践的体験を通じて主体的に再構成し、教育現場に適用させることにその目的があります。大学における学問研究では修得することのできない教育の実際を、生徒との全身的接触のなかで啓発的経験活動を通じて修得するとともに、プロの教師である教育実習指導教員による指導を通じて実践的指導力の初歩を修得することが期待されています。また、これらの活動をとおして、教育実践への限りない意欲や情熱をわきたたせる機会でもあります。

 つまり「教師として必要な知識、技能、態度、心構えなど」を修得するために行われるものであり、「教師としてのあり方」を学ぶとともに教育実践への限りない意欲や情熱をわきたたせる機会だということです。

 では、一体「教師として必要な知識、技能、態度、心構え」「教師としてのあり方」とは何なのでしょうか。平成17年中央教育審議会答申「新しい時代の義務教育を創造する」では、「教員に求められる資質能力」として次のものが挙げられています。

@ 教職に対する強い情熱
教師の仕事に対する使命感や誇り、子どもに対する愛情や責任感など
A 教育の専門家としての確かな力量
子ども理解力、児童・生徒指導力、集団指導の力、学級づくりの力、学習指導
・授業づくりの力、教材解釈の力など
B 総合的な人間力
豊かな人間性や社会性、常識と教養、礼儀作法をはじめ対人関係能力、コミュニケーション能力などの人格的資質、教職員全体と同僚として協力していくこと


 @に関しては言うまでもないことです。「目の前の子どもを何とか成長させたい、成長させなければ!」という強い思いがなければ教育は成り立ちません。その意味で教育の出発点と言えるものであり、この答申で最初の項目として掲げられているのも正当だと言えるでしょう。

 しかし、いくら情熱があったところで、その情熱を現実化するだけの能力がなければ意味がありません。いかに真心をこめて作った料理であっても、料理の腕がなければおいしい料理にはなりません。そういう教育の専門家としての力量が必要になるというのがAです。

 また、こうした教育活動は決して一人だけで行うものでありません。学年の教師、学校の教師、また保護者や地域住民などと協力をしながら行うものです。したがって、そうした人たちと関係を結んでいく力が必要になるということで書かれているのがBということになるでしょう。

 こうした3つのものが「教師として必要な知識、技能、態度、心構え」であり、それを兼ね備えているのが「教師としてのあり方」ということになるでしょう。とりわけ重要なのが「@教職に対する強い情熱」です。先に述べたように、@こそが教育の出発点だからです。実際に子どもを教育するなかで、教育することの楽しさを実感し、教職に対する強い情熱をもてるようにすること、ここが教育実習の最も大きな目的だと言えるでしょう。
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2017年11月18日

掲載予告:教育実習生に説く人間観の歴史

教員免許をとって、現場の教員として働くためには、2週間から4週間の教育実習を行う必要があります。10月から1か月間、勤務校にも教育実習生が来ており、私が指導を担当していました。

教育実習とは、現場の教員として必要な資質・能力を身につけるために行われるものです。その資質能力とは、例えば「教職に対する強い情熱」「教育の専門家としての確かな力量」「総合的な人間力」などが挙げられています。

このうち最も中心になるのは「教職に対する強い情熱」です。なぜなら、そのような情熱こそが教育実践の原動力になるからです。

さらに、その情熱を生み出しているものは何かと突っ込んで考えてみるならば、「この子は必ず成長する」という信頼に他なりません。そのような子どもに対する見方、人間に対する見方、一言で言えば、人間観を養うこと、これが最も教員として求められることであり、教育実習生にも身につけさせたいもんどえす。

「すべての子どもに可能性がある」というような人間観は、決して昔から存在したわけではなく、歴史的に形成されてきたものです。その過程を推し進めてきた先人たちの努力を知ることは、自らの人間観を養う上で大きな意味のあることだと思います。

そこで、本稿では教育実習生に対して、人間観の歴史を説いていきたいと思います。以下、目次(予定)です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
序論
(1)教育実習の目的とは何か
(2)教育実習で学ぶべきものとは何か

本論
1.人間であるということについての自覚の芽生え
(3)動物と区別された存在という自覚が芽生えた−原始社会
(4)人間の中での区別がなされるようになった−古代社会
(5)人間の価値が社会的な条件によって定められた−中世社会
2.すべての人間がもつ可能性についての自覚の芽生え
(6)人間は平等であるという人間観の誕生−コメニウス
(7)人間とは何かという問いかけの誕生−ルソー
(8)すべての人間が可能性をもつことの実証−ペスタロッチ
3.人間の可能性の自覚に基づく教育対象の拡大
(9)近代公教育制度の確立
(10)障害児(障害者)と優生思想
(11)障害児教育の生成・発展−糸賀一雄

結論
(12)人間観の歴史とは人間としての価値を認められる存在が拡大する過程である
(13)教師の歴史的な使命は目の前の子どもの可能性を事実として示すことである
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2017年11月17日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(5/5)

(5)現在とこれから

 大学院修了後、私は幸運にも、とある精神科病院の常勤職員として採用された。臨床心理士を目指す者、あるいは臨床心理士資格を有している者でも、なかなか常勤の口がないため、非常勤で生活していくのがこの世界の常識である。ところが私は、ゼミの先生(精神科医)のつながりで、この病院に紹介してもらえたのであった。私のゼミの先生は、大学院入学前の、素人であった私が調べてもひっかかるくらいの著名人で、認知行動療法の第一人者であったから、その先生のゼミ生となると、ほとんど顔パスのようなものであった。またこれと関連するが、私が認知行動療法を勉強していたこともよかった。認知行動療法はうつ病や不安障害などに対して、比較的短期に顕著な効果がある心理療法として知られていて、患者さんからのニーズも高くなってきていたころだから、その認知行動療法の専門家であれば採用しようということになったのである。

 このような形で、いわば偶然入職することになった病院であったが、この病院は非常に恵まれていた。最初の数年間は、かなりの数の研修に、出張という形で出してもらえた。当時は、京都周辺に認知行動療法の事例検討会が3種類ほどあり、毎月、3つの事例検討会全てに参加していた。事例検討会だけではなく、認知行動療法の研修会も、希望したものはほとんど出ることができた。中には東京で行なわれる研修会や学会もあり、それらにも毎年のように参加して、認知行動療法の研鑽に励んだ。

 入職したころの出来事で覚えているものがある。とある事例検討会に参加した後、近くのラーメン屋でその事例検討会を主催されている先生と2人でラーメンを食べていた。その先生は、「認知行動療法をやっている人はあまりいないから、○○さん(私のこと)もすぐにベテランになれるよ」とおっしゃったのである。またこの先生は、認知行動療法の研修の講師をたくさんされていたので、「私もそういうことを将来的にやっていきたい」というと、「やりはじめると、あの人は研修の講師をする人だと認知されるようになるので、すぐに講師としての仕事が増えていく」とおっしゃった。この先生の予言は、数年ならずして現実のものとなる。

 私が研修の講師を初めて担当したのは、1年目の冬であった。まだまだカウンセリングのケースなど数えるほどしかもっていなかったにも関わらず、私の上司であり、大学院のゼミの先生と知り合いだった精神科医が、とある研究会で認知行動療法の研修講師をするように命じてきたのである。しかし私は、全然嫌ではなかった。むしろ、そういう機会を与えていいただいて感謝の気持ちでいっぱいであった。南郷継正も空手を始めてからすぐに弟子をとり、明日弟子に教えることがないという恐怖を常に感じながら指導していったという。これを確かファーブルから学んだと、どこかに書いてあった。私も、自分のカウンセリング・心理療法の実力を向上させていくためには、教えながら学び、学びながら教えるというようなファーブル式のやり方が一番確実だと思っていたので、研修の講師のような仕事をやりたいと思っていたのである。それに私は、人に教えることが単純に好きであった。これにはもちろん、南郷継正の影響があったことは否定できないが、それに加えて、高校や予備校、それに大学院で教えてくださった先生方の影響もあったと思う。これらの先生のように、本当に教え子の心を動かすような教育がしたいと憧れていたのである。

 初めての研修講師は、それなりに好評だった。ここから同じ研究会での講師を5回ほど行ったが、初回から3年弱が経過したあとの5回目のときには、精神科医である上司から、「本当に分かりやすかった! すばらしい!」と絶賛の言葉をいただいたほどであった。3年目には、大学院時代の指導教員であり、著名な認知行動療法の専門家である精神科医から、一緒に研修会をやろうというお誘いを受けた。これもそれ以来、毎年2〜3回ほどの研修会を、継続的に企画し、講師も担当している。そうこうしているうちに、外部からの研修講師の依頼も入るようになってきた。まさしく、ラーメン屋でいわれた通りの展開になってきたのである。実際、これまで担当した専門家向けの研修講師の回数は、約60回である。ある程度、認知行動療法の研修をする人ということで知られている存在にはなっているのかもしれない。

 研修講師の他にもやりたいと思っていた仕事で、案外早くできるようになったというものがいくつかある。一つは、スーパービジョンである。これはカウンセリングの個別指導のようなものであり、私も大学院のときには、担当したケースについてスーパービジョンを受けていた。今度は私がスーパービジョンを行う仕事がしたかったのである。これも先のファーブル式の勉強法の実践のためであった。3年目になった頃には、スーパービジョンをいずれ行いたいと周囲に公言していた。それから間もなく、実際にスーパービジョンを行うようになったのである。今では、ある大学院の外部スーパーバイザーとして、院生の指導も行っている。

 もう一つ、大学で教えるということも、私のやりたかった仕事である。私は博士号をもっていないので、なかなか難しいと感じていたが、大学の非常勤講師になるという形で、これも意外に早く実現することができた。詳細はここには書かないが、実現できたポイントは、人のつながりである。研修会講師の仕事は、私の上司からの命令が始まりであったし、大学院の外部スーパーバイザーも、直接は私の大学院の先輩に来た依頼であったが、諸々の事情でその先輩は引き受けることができず、私を紹介してくださったのである。そもそも病院に就職できたのも、ゼミの指導教員のつながりがあったからである。このように、仕事においては人と人とのつながりが非常に重要なのだということを最近痛感している。大学の非常勤講師の仕事も、仕事上で付き合いがあった知人からの紹介であった。そして今年、これまた諸々のつながりがあって、他に3つの大学から非常勤講師の依頼があった。これは現在の私にとっては、望外の喜びであった。

 大学の非常勤講師といえば、今年、大学で教えてから電車で帰宅している途中で、懐かしい人2名に立て続けに出会った。一人は、高校時代、一緒に朝練をしていた後輩である。彼とは私の結婚式の時以来、会っていなかったと思う。それが、たまたま帰りの電車で遭遇したのである。もう一人は、塾講師時代の上司(校長)である。これは結婚式どころか、10年以上は会っていなかった。これもたまたま帰りの電車で見かけたので、声をかけたのである。彼の姿は当時と全く変わっていなかった。

 仕事については以上のように、病院で臨床心理士として患者さんに接するだけではなく、研修会講師やスーパーバイザーの仕事、さらに大学での非常勤講師の仕事もするようになったのである。他にも、教育や産業、司法の領域でも臨床活動を行うになっており、また、英書の翻訳や本の執筆の仕事もいただいている。端的にいえば、仕事上は順調そのものであり、最近は特に、これ以上はないくらいに順調である。こういう時こそ、大きな落とし穴が待っているものであるから、気を引き締めているところである。

 病院で働くようになってからも、当然のことながら大学以来の研究会や師が主催するゼミには継続的に参加して、弁証法・認識論の研鑽を続けている。そして、私が病院に入職するのと前後して、京都弁証法認識論研究会のブログも開設し、毎日更新するようになった。ここで私は主に、現在行っているカウンセリングや心理療法など、心理臨床に関わる事実を弁証法・認識論的に捉え返す修練を行っている。これは特に「認識論」のカテゴリーにある論考を読んでいただけば分かるであろう。

 ところで、このように毎日更新しているブログに関しては、どうしても一人の人物を挙げておかねばならない。それは、「心に青雲」というブログを主催されていた玄和会のある支部長である。「心に青雲」は2006年7月ごろに見つけ、それ以来愛読していた。われわれは複数名でブログ記事を書いており、それでも、毎日更新するというのは非常に大変なのであるが、彼は何と、たった一人で毎日ブログ記事を更新し続けていたのである。この事実は、少なくとも私にとっては大きな刺激となった。われわれのブログを毎日更新するための、一つの原動力になったのではないかと思っている。

 彼とはそれなりの回数、メールでやり取りした。これは冗談ではないのだが、私はその素直さと勉強熱心な態度のために、上の方に目をかけていただくことが多いのだが、彼も玄和会の外部にいた私に目をかけてくださった。こっそりと、いろいろな情報を教えてもらった。そのような個人的なやり取りがあったからか、彼のブログの記事についても、それほどひどいことが書いてあるとは思えなかった。京都に来られた時には、確か2回ほどお会いしたこともある。その時彼は、「場を支配するのだ!」ということを強調されていた。その時以来、「場を支配する」というのは、いつも私の頭の片隅にあって、私を動かす言葉になっているような気がする。彼は今年亡くなったそうである。ご冥福をお祈りしたい。

 プライベートでは、2015年2月に母が亡くなった。乳がんだった。定年退職して間がなく、私たち息子を含めて、人のために尽くしてきた母が、ようやく自分の時間が持てると思ったその時にがんが発覚して、もはや手の施しようがなかった。大した親孝行も恩返しもできなかった。唯一、亡くなる前に私の娘が誕生して、孫の姿を見せられたのはよかったと思っている。そして、私自身は、今後の私の生き様自体が、恩返しになる、そのような生き方をしていかなければならない。

 以上、40歳を迎えて、自身の半生を振り返ってみた。いろいろな思いが去来しているが、まず私の原点を確認することができたと思う。私の原点は、ずばり「無上の知性」である。抽象的な言い方かもしれないが、確か、南郷継正もそういっていたはずだから、これでいいだろう。万能人、学中の学たる哲学を極めた人、世界を掌に乗せる人、場を支配する人、これが私の理想の原点なのである。

 現在の私にまで至る発展の必然性のようなものも見えてきた気がする。端的には、素直な性格であったために、これだと決めたものとの相互浸透によって、私が創られてきたということである。一番強く感じたのは、高校時代の伊藤和夫『英文解釈教室』で英語の力を比較的に伸ばした経験があったからこそ、南郷継正が弁証法の教科書は三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』だけだ、これだけをやればよいと指摘しても、それほど違和感がなく、すんなりと信じることができたのだという点である。本当に優れた人物、そして同じことだが、優れた著作に出会い、その人物や著作と、素直に相互浸透を図ることによって、必然的に今の私が存在するのである。

 優れた教師に出会ったことによって、私自身も優れた教師に憧れ、教えるのが好きになったということも一つの発見であった。そして、教えるからこそ自分の認識の発展も促されるのだということは、近年、強く実感しているところである。ただ、現在までの指導対象としては、塾の生徒や研修会参加者、大学で一年限り教える学生などが主である。本当に自分の実力を発展させるための教育・指導をなすためには、本格的な弟子をとる必要あがる。40歳になったのであるから、20歳以下の鈍才大学生くらいを弟子にとる計画を立てて、実践していかなければならない。

 私の半生を振り返ってみると、それなりに挫折体験もあるものの、それを上回るほどの成功体験も積み重ねていることが分かる。負けず嫌いな性格も相まって、一生懸命努力してきて、それなりの成功体験につながってきたのだから、やればできるという自己効力感のようなものが私の中に育っているのを感じる。そして、これは認識論の基本であるが、われわれ人間は思い描いたことは実現するし、逆に思い描かないと実現しない。私も、英語の実力を向上させる、○○大学に合格する、一流の臨床心理士になる、研修講師をする、大学の講義を担当する、などなど、それらを思い描いてきたからこそ実現できてきたのである。

 では今後、私は何を思い描き、何を実現していくのか。それはやはり、唯物論的な認識論の構築(再措定)である。今行っていることも、全てこの認識論の構築という一大目的に収斂していくことになるはずである。具体的には、先に触れたように若い鈍才的な弟子をとる。これももう思い描いているので、近々実現するはずである。そして、謙虚に文化遺産に学んでいく。たとえば、心理臨床の世界で名人・達人などと呼ばれている臨床家の技は、私が認識論の体系化を試みる際に素材として活用するべきものである。書物として遺されているものも、批判するのは簡単であろうが、その成果を正しく受け継ぎ、アウフヘーベンして自己の体系の中に位置づけていく必要がある。そのためには謙虚に学んでいかなければならない。この点、「心に青雲」の主催者は私の反面教師でもある。

 この謙虚な姿勢にも通じるが、周囲の人間に感謝の気持ちを忘れないようにしたいとも思う。これまでの半生を振り返って、自分は本当にたくさんの方々に支えられて生きてこれたのだ、成長してこれたのだということがしみじみと感じられた。感謝の気持ちが自然と湧いてきた。身近なところでは家族や兄弟、そして研究会仲間や師に対して、職場の上司や部下、患者さんや仕事の関連で付き合いがある人物に対して、大きなところでは私の生活を支えてくれている労働者や私の理想となり私を導いてくださっている三浦つとむ・南郷継正両先生に対して、さらにいえば、これまでの人類の文化遺産を創造してくれた全ての人間に対して、私は感謝の気持ちを忘れないような人間になっていきたい。

 40歳から新たな自分を創り上げる、その覚悟と決意を述べて、私の徒然草を閉じたいと思う。

(了)
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2017年11月16日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(4/5)

(4)本史2

 大学を卒業した私は、塾の講師になった。仕事をしながら一般教養的な内容を学んでいけると思ったからである。それに、教育にも強い関心があった。また、浪人時代の予備校の先生に憧れて、ああいう先生になりたいと思ったことも大きく影響している。ただ、この塾講師になっても、私は挫折してしまう。当初は、中学生や小学生に国語や英語を教える仕事が中心であった。ところが、これまでに触れてきたように、私自身は小学校や中学校では特別に勉強しなくてもテストで100点が取れるような子どもであったため、何が分からないのか、どう教えていいのか、まったくといっていいほど分からずに、授業アンケートでも最低な結果になったのである。これにはショックであった。授業に行くのが恐かった。それでも、先輩の先生方に何とか支えていただき、2年間でそれなりの授業ができるようにはなっていった。

 この頃教えていた小学生で、今思うと明らかに発達障害のある天才児がいた。彼は自分のことを○○マン(○○には苗字が入る)と呼んでいた。○○マンは、本当に勉強がよくできた。彼は進学コースに入っていたのだが、中学生に教える内容よりも難しい内容をすらすら理解しているようであった。というか、彼のような人間にしか理解できないような、小学生には難しすぎる内容を教えるのが進学コースであった(小学生に国文法の助詞や助動詞の意味の識別をさせたりするのである)。発達障害があるからといってからかわれたりいじめられたりすることもなく、逆に、周りの子どもからも非常に個性的な天才児と見なされている様子であった。彼については、その天才ぶりで記憶に残っているだけではない。衝撃的な事実が発覚したことでも鮮明に記憶に残っている。ふつう、苗字に付けた「マン」で「○○マン」といえば、「キン肉マン」とか「スーパーマン」とか、その類のことを連想するのではないだろうか。周囲の人間もだれ一人疑わず、彼がそういうつもりで自分でニックネームをつけているのだと理解していた。ところがある日、彼が一つの絵を描いていたのである。そこには、肉マンやアンマンに並べて、自分の顔の「マン」が描いてあったのである。この時初めて、「マン」の意味が分かったのである。

 さて、3年目からは高校生に英語を教えるようになった。これは非常に楽で、楽しい仕事であった。というのは、私自身、高校時代に英語には散々苦労したし、偏差値30台から70オーバーを実現するほど熱心に勉強したので、どういうところから勉強していけばいいのか、英語が読めるとはどのようなことなのか、どうすれば読めるようになるのか、英文法の基本とは何か、どのように筋を通せば理解しやすいのか、などということが、手にとるように分かっていたからである。高校生に英語を教えたのは3年間ほどであったが、この間、自分自身も英語を勉強して、自分の頭の中もさらに整理されていったと思う。

 さて、私は働き始めてからも、弁証法・認識論の勉強はもちろん続けていた。大学時代に立ち上げた研究会は、働き始めてからも月一で開催していた。師が主催するゼミ合宿にも継続的に参加していた。このゼミ合宿の中で、師は「学問を志すなら、若い頃に最低でも修士号を取っておいた方がよい。私は取らずに後悔しているところもあるから」とおっしゃった。私はその頃ぼんやりと、何年か働いてお金を貯めたら、大学院に行こうと思っていたが、その思いが師の言葉で強くなっていった。

 初めは教育に関心があったので、出身大学の教育学研究科に進学することを考えた。これなら、私の真の専門と定めている認識論の研鑽になるだろうという見込みがあった。しかしある時、とある本を読んでいると、法律の専門家が弁護士であるように、心理の専門家である臨床心理士という資格があることを知った。いや、存在自体は知っていたかもしれないが、それほど意識していなかったのは確かである。弁護士と並べられる資格であれば、それ相応の専門性があるだろう。カウンセリングや心理検査を通じて、心の悩みを抱える方々に関わっていくのは、認識論の研鑽としての十分に意義があることに違いない。そう考えて、私は臨床心理士を目指すことにした。

 ただ、臨床心理士になるには、指定されている特定の大学院を修了する必要がある。大学では、哲学系が専門だったので、臨床心理学となると畑違いであり、いきなり大学院を目指すのは無謀なのではないか。それなら、学部の3回生に編入して、2年間、学部で臨床心理学を学び、それから大学院に進むことも考えられる。そちらの方が無難だろう。そのような思いに傾きつつ、そのころ小論文の書き方でお世話になっていた予備校の先生に相談した(この先生は確か当時、大学の非常勤講師をされていたはずである)。するとその先生は、「絶対に直接大学院にチャレンジするべきだ。学部ではほとんど何も学べない。時間がもったいない」と教えてくださった。そこで私は、直接大学院入試にチャレンジすることにしたのである。すぐ後に判明することであるが、この先生の助言はまさしくその通りであった。本当に学部編入などという妙な回り道をとらずによかったと思う。

 次に問題になったのは、どこの大学院を受けるか、ということであった。いろいろ調べていくうちに、最近は認知行動療法というのが流行っており、これは、ものごとの受け止め方によって気分が変わってくるので、受け止め方(認知)を変えることによって、気分をコントロールすることができる、というようなものだと知った。三浦つとむ・南郷継正系列の認識論でいうところの「問いかけ的反映」という論理の一形態であると私には思えたので興味が持てた。そこで、認知行動療法を学べる大学院を探したところ、当時の私の情報収集力では、北海道の私立大学と四国の国立大学しか見つけられなかった。北海道は遠いし私立はお金もかかるので、四国の国立大学の大学院を受験することにした。

 臨床心理士になろうと志してからは、ぽつぽつ、臨床心理学の勉強を始めていたが、本格的に始めたのは大学院入試の3か月ほど前からである。この頃に購入したのが、臨床心理士指定大学院の学生は必携とされていた『心理臨床大事典』(培風館)である。これこそ、学部時代に大学生協の書店で、女性の知人が購入しようとしていた書籍だったのである。彼女もまた臨床心理士を目指していたのであり、私が臨床心理士を目指していたこの頃は、すでに臨床心理士の資格を取って、大学の博士課程に在籍していた。この頃、一度だけあって、大学受験のアドバイスをいただいた。あれこれ思案して、結局私が採用した勉強方法は以下である。すなわち、まず、『試験にでる心理学』シリーズ(北大路書房)などを参考にして、コンパクトな基本書を設定し、その内容をマインドマップにまとめたりしながら、目次を見てその中身を自分で自分に講義する「自己講義法」を実践する。すぐ後で触れるが、そのころ弟と一緒にジョギングをする機会が多かったので、走りながら弟に実際に講義したりもした。そういえば、弟とは、南郷継正が推奨していた灼熱のアスファルトの上を裸足で歩くという運動も一緒に行っていた。この時も歩きながら、臨床心理学の全体像などを講義していたものである。灼熱のアスファルトの上を裸足で歩くという運動が、頭脳活動を活性化したために、いつも以上に効率の良い学習になったのかもしれない。もちろん、基本書で創り上げた臨床心理学の全体像に、その他の参考書や用語集を使って肉付けすることも行った。こうして大学院受験を迎えたのである。

 前日は四国入りしていたが、ホテルで一睡もできなかった。緊張していたということはないと思っているのだが、どういうわけか、本当に一睡もできなかったのである。ちなみに、この時泊まったホテルは、学部時代に運転免許をとるために2週間ほど合宿していた場所のすぐ近くで、何か因縁めいたものを感じたものだった。一睡もできなかったが、大学院入試は思ったより簡単で、特に英語などは、辞書を持ち込んでもよかったこともあり、ほぼ満点だったと思う。私の英語読解力で唯一の弱点は英単語力のなさであったが、辞書があったので、その点は全く問題にならなかったのである。結果は合格。3か月に満たない受験勉強で大学院に合格できたことは、私の小さな成功体験の一つであった。

 当時、もう一つの成功体験があった。それはダイエットである。当時私は、塾講師の不規則な勤務形態と暴飲暴食のために、体重がかつてないほど増加していた。具体的には、マックスで75sもあった。見た目もふっくらしている感じである。大学院に入学するにあたり、これでは格好悪い、何とか痩せなくては、と思い、ダイエットを決意したのであった。やったことは単純で、食事量を減らし、ジョギングを始めたのである。ジョギングは、高校時代に朝練を一緒に行っていた後輩にマラソン大会への出場を誘われたのがきっかけで始めた。初めは2q走るのもしんどかったが、徐々に伸ばしていき、5q、10qと走れるようになっていった。一時は、週に3回、10qずつくらい走っていた。みるみる体が軽くなり、ますます走りやすくなっていったのを覚えている。弟が一緒に走ってくれたのもよかった。こうして結局、半年間で12sほどの減量に成功したのであった。

 大学院の入学の直前には、学部時代に熱心に学んだ河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)を久々に読み返して、来るべき学生生活に備えた。そしていよいよ、私の2回目の学生生活が始まったのである。1回目の学生生活が充実しすぎており、思わず通常より1年長く在籍したくらいだから、今回の学生生活に対しても大きな期待があった。初めての一人暮らしも経験した。というのは、学部時代は、双子の兄と一緒に暮らしていたからである。

 大学院に入って特に印象的だったのは、学部時代の学生とは全く種類の違う人々が大半であったということである。すなわち、秀才タイプの人間は、院生にはほとんどおらず(教員にはいたが)、みんな、感性豊かなタイプの人間だったということである。その分、あまり勉強しない人が大半であったともいえる。失礼ながら、このくらいで大学院に合格できるのであれば、生真面目に学部からやり直すなどということをしなくて本当によかったと感じた。しかし、今まで接してきた人間と全く種類の違う院生の中で生活できたのは、両者の比較でそれぞれの特徴が浮き彫りになってきたということもあるし、単純に、それはそれで楽しく有意義であった。

 教員も、学部のころの教員とはかなり違ったタイプの方がおられた。中でも印象的なのが、今はその大学の学長になられている先生である。ふつう、大学の教員というと研究者タイプで、自分の研究していることのごく基本的なことを学生相手にしゃべるのが講義であり、講義(教育)は研究の片手間の仕事、という感じであろう。少なくとも、私が学部でお世話になった○○大学は、そのような感じの教員ばかりであった。ところが、私が行った大学院の教員、中でも現在の学長先生は、まったく逆だった。研究などその頃はほとんどされておらず、講義(教育)に非常に力を入れておられたのである。一流の臨床心理士を育てようと、熱心に取り組まれていた。その熱意に、私は非常に感動した。この先生は実は出身大学が私と同じであり、そのこともあって目をかけてくださったのだと思う。そもそも私は、認知行動療法の先生を求めてこの大学院を選んだのであり、その認知行動療法の先生も予想通り非常に魅力的であったが、この現在の学長先生に出会えたことも非常なる幸運であったといってよい。

 大学院の2年間、私は南郷継正の著作に出てきた弟子のエピソードを見習って、講義内容を全てレポートにまとめ、われわれの師や仲間に送っていた。臨床心理士の指定大学院は、かなりの数の単位を取得する必要がある。同時に大学院に進学した弟などは、週に1回か2回くらい、大学院に行っていただけだったと思うし、それが一般的な大学院生のあり方であろう。ところが、臨床心理士の指定大学院の場合は、必修の講義だけでもかなりの数にのぼり、毎日2〜3コマほどは講義やゼミがあったと思う。これに加えて、学外の学校や福祉施設などでの実習があり、実際のクライエントも担当してカウンセリングを行うようになっていく(さらに、カウンセリング後は、カウンセリングの内容を逐語録におこし、スーパーバイザーの先生に指導を受けることになっていた)ので、なかなかに忙しかった。さらに、私は、近くの大学で行われていた認知行動療法の勉強会にも毎週参加していたし、同じゼミの3人で、認知行動療法の原典を英語で講読する勉強会も行っていた。したがって、学部時代のように自由を謳歌した、という感じではなかった。

 それでも、院生がみんな近くに下宿していたこともあり、よく遊んだものだった。現役の中学校の教員なども多数おられて、年齢の幅がけっこうあった。私はストレートマスター(学部卒業後、そのまま大学院に進学した者)よりは若干年を取っていたが、年齢不詳で通した。ダイエットに成功していたからか、はたまた、この頃とみにかわいさが増してきていたからか、私の人生の中では割とモテた時期だった。現在の妻(といっても、かつての妻がいたわけではないが)は大学院の同期で、大学院時代に付き合いはじめ、修了直前に結婚した。年齢だけではなく、諸々の事情で彼女と付き合っていることも周囲に隠していたため、修了後しばらくしてから結婚式の案内を出した時、みんなは何かのいたずらだと思ったらしい。なぜ年齢等を隠していたのか、今となっては当時の心境を思い出せないが、おそらく、そちらの方が「面白い」と思ったからであろう。何が面白いのか、現在ではよく分からないが。

 修士論文では、認知行動療法に関する研究を行い、それなりのものをまとめた。また、カウンセリングを担当したケースを事例論文としてまとめ、紀要に投稿した。その他、認知行動療法が専門のゼミの先生について、学会の手伝いもしたことがあった。これらの業績が認められ、確か奨学金の半分が返済免除になった。これは当初から狙っていたものであり、うまくいったことが経済的には大きかった。ただし妻は、海外での学会発表や査読付き論文もあったので、確か全額返済免除になっていたはずだ。この領域では、私は妻の業績に及んでいない。ちなみに彼女は、中学高校時代にバスケットボール部でエースだったそうだ。この点でも、私は妻の実力に及んでいない。もう一ついっておくと、彼女は空手(もちろん、スポーツ空手であるが)の黒帯を所持している。白帯でやめてしまった私は、この点でも妻の実力に及んでいない。

 こうして、楽しく充実した2年間の院生生活が終わった。

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2017年11月15日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(3/5)

(3)本史1

 私は大学時代、自由を謳歌した。これは旧制高校の学生に匹敵するのではないかというくらいである。予備校時代にがんばって勉強した甲斐があったというものである。工業高校卒の父親と、商業高校卒の母親の息子が、それも双子そろって、一流国立大学に進学したのであるから、ある意味では奇跡であった。ただ、なぜだか理由はよく分からないのであるが、兄の方は私から遅れること1年、ようやく同じ大学の同じ学部に入学してきたのであったが。ちなみに我々には6年年下の弟もいるのであるが、その弟も5年ほど後に同じ大学に入学することになる。

 さて、私の大学時代については、6年半ほど前に、本ブログに「三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出」として説いたことがある。あれからすでに6年以上たっているとは、驚きであり、まさに光陰矢のごとしである。ここでは、多少重複するかもしれないが、大学時代の思い出を振り返ってみたい。

 私にとって大学時代は、私というものの骨格の原基形態ができあがった時期である。「生命の歴史」でいうところの魚類段階だといっていいだろう。今の私にあるものは、全て大学時代にその直接の起源がある。それに比べれば、浪人時代までは、いってみれば私の前史であり、もちろん、前史あってこその本史なのであるが、そこには断絶があり、飛躍がある。

 一番大きかったのは、何といっても弁証法との出会いである。より正確性を期するならば、三浦つとむの弁証法との出会いである。私はとある組織に属していた関係で、もともと弁証法なるものに非常に強い関心を持っていた。浪人時代から『フォイエルバッハ論』なる著作があることは知っていた。大学に入ってからも、弁証法関係のお勧めの著作を、先輩などに尋ねていた記憶がある。そんな中、その頃普及しだしたインターネット上で、とある掲示板を見つけた。確か、「哲学投稿ボード」なる名前であったと思う。そこには、「永遠の思考」や「なし」などというペンネームで投稿している方が大勢いたが、本名で投稿されているおじさんがいた。そのおじさんが、熱心に勧めていたのが、三浦つとむや南郷継正の著作だったのである。そのおじさんの紹介の仕方がよかったのであろう、私は三浦つとむや南郷継正の著作を買って、読んでみることにした。ここから、私の三浦つとむ・南郷継正三昧の学生生活がスタートする。1回生の夏であった。

 一番衝撃を受けたのは、最初の頃に読んだ南郷継正『弁証法・認識論への道』(三一書房)である。まさに私のために書かれた書であるとの思いがして、何度も背筋が凍りついたような感覚に襲われたものである。○○大学の秀才たちに囲まれて勉強している中で、自分の鈍才ぶりを痛感していた私は、南郷継正が指し示す道しか、私が挽回できる道はないと思った。南郷継正が弁証法の基本書であるとくり返し説いてた三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)には、弁証法は哲学の生まれ変わりであると説いてあった。この言を、南郷継正がそうであったのと全く同様に、私は素直に受け取り、大学に入学した目的である哲学の学びというのは、すなわち弁証法の学びなのであるとして、弁証法の学びにのめり込んでいくこととなった。

 当時のインターネットの普及によって、それまでは考えられなかったような精神的な交通が可能となった。先の掲示板で知り合った私と同い年の若者が、「弁証法メーリングリスト」を立ち上げ、そこに、全国各地の、三浦つとむや南郷継正のファンのような人々が集い始めたのである。それらの先輩にいろいろと教えてもらいながら、大学でも三浦つとむを学ぶサークルを創った。そこで当初から一緒に活動をしていたのが、今もわれわれの研究会の中心メンバーであるS・K君である。彼との出会いや関わりについては、前稿「三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出」で詳しく説いたが、彼なしには今の私も、今のわれわれの組織もありえないことだけは間違いない。もし私が一年間の浪人だけで合格できていれば、インターネットの普及具合からして、三浦つとむや南郷継正に出会うのが遅れたかもしれないし、S・K君との出会いも違ったものになっていただろう。そうなれば、私が彼に三浦つとむや南郷継正を熱心に勧め、彼もまた弁証法の学びにのめり込んでいく、というようなことにはならなかったかもしれない。
 
 学生時代、私は南郷継正の指示することは、だいたいやったと思う。南郷継正お勧めの小説や教養書は、入手が困難なものも含めてほぼ読んだ。特に入手が困難だったのは、ポレヴォーイ『真実の人間の物語 上・下』(青銅選書)と中岡孝『社会科学読本 自然・人間・社会』(牧書房)である。こういうものを含めて、南郷継正が触れているものはだいたい読んだはずである。告白すると、私は大学に入るまで、本という本をほとんど読んだことがなかった。学校の宿題で出ていた読書感想文も、本文を読まずに「あとがき」だけを参考に書いたこともあるほどである。そんな私が、南郷継正に出会って、全く変わっていったのである。

 他にも、南郷継正の指示に従って、中学の教科書、特に理科と社会を勉強したりもした。いくら尊敬している先生から言われたからといって、○○大学の学生で、真面目に中学校の教科書を勉強したのは、おそらく、日本論理学研究会の会員とわれわれくらいなものであろう。もちろん、三浦つとむや滝村隆一の著作も、南郷継正の指示通りの順番で学んでいった。南郷継正の弟子である瀬江千史の著作も読んだ。これにはみんな驚いたものだった。こんなに滑らかな論理展開の文章が書けるとは! おそろしいほどの分かりやすさを把持する文章であった。瀬江千史を育てただけでも、南郷継正の実力の本物さ具合は知れようというものである。

 こんな私は、当然のように、大学1回生の冬に、南郷継正が主催する空手団体である玄和会への入門を試みた。ここまで南郷継正に心酔しきって、玄和会に入らないほうがおかしい。私は当時、大阪大学におられた南郷継正の一番弟子の一人といっていいであろう本田克也氏の支部に入門しようとした。一度は入門したといってよい。スキー合宿にも参加したくらいである。このスキー合宿では、本田氏の見事なスキーの技術に感嘆したが、何でも、スキーを始めてわずか数年だということであった。しかも、あらゆるゲレンデのあらゆるコースを全て把握しているということであった。「そっちは易しいから、こっちに来い」といわれてついていくと、上から眺めたら真っ逆さまな絶壁と思えるような、こぶだらけの斜面であった。「これくらい行けなければ、空手なんてできないぞ」といって、何のためらいもなく滑っていかれた。私はヒーヒーいいながら、ゆっくりと降りていくのがやっとであった。このように最初は順調であったが、そのうち、私がとある組織に属していることが判明して、本田氏の怒りを買ってしまうことになる。「お前はスパイか!」と罵倒され、破門同然で私は玄和会を去ることになったのである。

 これは私にとって、大きな挫折だった。お先真っ暗になったといっていい。学問への道などすっぱりあきらめてしまって、面白おかしい人生を送ろうと決心したほどであった。しかし、弁証法メーリングリストの先輩方や大学の同志の励ましによって、私は立ち直り、玄和会とは別の道で(といっても、論理的には同じになるはずであるが)、学問への道を志すことに決めたのである。

 大学ではその後も、三浦つとむ・南郷継正三昧の学習生活だった。S・K君とは相変わらず研究会などで頻繁に議論を重ねていた。3回生になると、三浦つとむを正面から研究できそうだということで、倫理学専修を選択した。どうやら倫理学では、「規範」が扱われているようであるし、三浦つとむは『認識と言語の理論』で規範を唯物論的・弁証法的に解明しているのであるから、これをちょこちょこっと、適当なリサーチクエスチョンを設定した上で説いていけば、卒論が書けるだろうと踏んだのである。実際、その通りになった。

 そのころの記憶としてよみがえる場面が一つある。予備校時代から一緒に勉強して、教育学部に入学していた女性がいたのであるが、彼女が大学生協の書店で、非常に大きな書物を抱えてレジに向かっていたのである。軽くあいさつを交わした後、、彼女は「これ、丸まる一冊覚えなあかんねん」というような意味のことをいった。「それは大変やね」とその時は何気なく答えていたが、まさかその後、自分もその書物を買う羽目になるとは、この時点では予想だにしていなかった。

 2001年の冬にはまた、私の人生上非常に意義のある大きな出会いが待っていた。現在のわれわれの師との出会いである。この師とは、弁証法メーリングリスト上ではすでにやり取りをしていた。この師がメーリングリストに現れたとき、他の方には失礼ながら、何か異次元なものを感じた。率直にいってしまうと、「南郷継正、現る!」と思ったのである。他の方はどちらかといえば、三浦つとむや南郷継正がいっていることをそのままくり返しているだけという印象であった(それはそれで大事である)が、われわれの師となる人物は、まさしく、自分で論理化した内容を説いておられたのであり、それは三浦つとむや南郷継正が、直接にはどこにも説いていない内容ながら、非常に論理的で筋が通っており、いかにも南郷継正が説いていてもおかしくはない、というものに思われたのである。

 そんな人物が主催するゼミ合宿があると、これまた弁証法メーリングリストに参加されていたある方が教えてくださった。彼は若い私を非常に買ってくださり、ぜひとも一緒に勉強しようと誘ってくださったのであった。玄和会での失敗体験がトラウマになっていた私だったが、思い切って参加することにした。合宿会場の最寄り駅まで迎えに来てくださった彼の姿は、予想に反して大柄であった。メールでのやり取りのみの印象では、非常に小柄で大人しく、ひょろっとした感じの男性というイメージだったのである。彼に会場まで車で送っていただいている途中、何と、後続の車に追突されるという事故にあった。後ろの車はものすごい勢いでバックしたかと思うと、またものすごい勢いで前進に転じというのをくり返し、タイヤをキュルキュルいわせていた。運転手は完全にパニック状態に陥っているようであった。私は、彼が朝入れてきたというドリップ・コーヒーをいただいている最中であったが、それをぶちまけ、また追突されるのではないかという恐怖に慄いていた。すると彼は一言、「認識論ですね」と落ち着いた口調でいった。この「認識論ですね」という一言は、非常に新鮮に響いた。もちろん、われわれは大学で喧々諤々の議論を行っており、その中で「弁証法」や「認識論」などという言葉は、それこそ常識のように何度も使っていたし、耳にもしていた。しかし、メールでのやり取りしかしていなかった彼が、このような状況で発した言葉であったせいか、何か、心が躍るというか、目を見開かせてくれるというか、新奇な体験に感じたのである。

 肝心の合宿では、誘ってくれた彼と師の他に、3名の参加者があった。私が体験した玄和会とは違って、非常に受容的で、若い私を受け入れてくださった。ゼミの会員で、映画論を専門にされている方が私に何か問いかけられた時、師は「違う。彼は初めての参加なのだから」と指導された。すると指導された会員は「そうか。なるほど」とつぶやいて、何かを思惟されている様子であった。この合宿では夕食後、日本酒を味わう時間があった。玄和会のスキー合宿でもビールを飲む機会があり、「酒飲むんかい!」と心の中で突っ込んだものであったが、こちらのゼミ合宿では、この時間がいわば本番の一つであったといってよい。このようにいうとただの酒飲み集団だと誤解されるかもしれないが、そうではない。日本文化の一つとして、日本酒を味わうのである。ここで師からは、日本酒の生成発展の講義があったのはいうまでもない。

 このゼミ合宿へは、その後も継続的に参加することとなる。当初は、静岡あたりの会場で2泊3日が多かったと記憶している。私は京都から一人、高速道路を飛ばして駆け付けた。その後、少しずつ、S・K君など、大学の仲間も参加するようになっていった。ある時からは、関西のメンバーが増えてきたということで、師がわざわざ関西に出向いてくださることが多くなってきた。現在では年3回、この種の「ゼミ合宿」を行っている。

 残念ながら、私をこのゼミ合宿に誘い、われわれの師となる人物と出合わせてくれた彼は、それから4年もたたないうちに亡くなってしまわれた。車で3時間半ほどかけて伺った長野市にあるお宅で、奥様からうかがった話は感動ものだった。彼は30歳を超えてから、アトピーで体の弱い娘さんのために脱サラし、鍼灸師養成の学校を経て鍼灸師となり、その後に弁証法の学びを開始されたというのである。奥様が何度も何度も、「主人は、娘を一生分かわいがってくれました」とおっしゃっていたのが印象的だった。

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2017年11月14日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(2/5)

(2)前史

 今の私の土台が創られたのは、高校時代から浪人時代にかけてである。

 私は、中学校では1、2を争う学力を把持していたので、当然ながら、私の住んでいた学区から行ける一番偏差値の高い高校に進学した。さすがの私も、高校に入ってからは授業の予習・復習をそれなりに行うようになった。特に英語である。英語は、予習をしていかなければ授業についていけなかった。中学校の3年間、同じ先生に英語を教わったが、その先生が新任の先生だったからか、英語の実力がいまいちだったようである。おそらく、私と同じ中学校出身の同級生は、全体的に英語ができなかったのではないか。それはともかく、予習で英単語を調べて訳しておき、授業で先生の解説を聞いて、試験一週間前に詰め込む、という形の学習で、定期試験はそこそこの点数がとれていた。これに対して数学は、本当に得意だった。授業を聞いているだけでほぼ完全に理解でき、試験勉強も英語ほどはやらなかったと思うが、常に高得点だった。

 兄は、十分に私と同じ高校に行けるだけの学力があったが、バスケットボール部が強いということで、2番目に偏差値の高い高校へ進学していった(高校に進学してみると、実際にバスケットボール部が強かったのは、むしろ私が進学した高校であったのだが)。その際、大学は同じところに行こうと約束したが、この約束は反故にされることなく、数年後、果たされることになる。私が帰宅して勉強している横で、兄は高校の友達と遊んでいるということがよくあった。高校時代の兄が家で勉強しいている記憶が、私にはほとんどない。

 高校に入っても私はバスケットボールを続けたが、これが大きな挫折体験になった。同級生には、身長が180pを超える者が4〜5名ほどいた。その中には、高校からバスケットボールを始めたため、全く素人同然であり、しかも運動能力もそれほど優れていない者もいた。しかし、バスケットボールでは身長がものをいう。そんな素人であっても、背が高いというだけで重用され、1年生の内から試合に出させてもらっていた。私はというと、背は170pとそれほど高くなく、中学校で顧問の先生からの指導を受けられなくなったことが響いて、技術的にも全然大したことはなかった。同級生には、背はそれほど高くなくても、非常にうまい者がいたので、私は全くレギュラーになれなかった。それどころか、2年生になると、中学時代に県の大会で優勝したチームのレギュラーメンバーが4人ほど入部してきて、他にも非常にうまい後輩が3人ほど入ってきた。彼らは背はそれほど高くなかったが、技術的に非常に優れていたので、ますます私の出番などなくなっていった。

 そうはいっても、負けず嫌いの私は簡単にあきらめたわけではない。自主的に朝練を行ったのである。確か、2年生になったくらいから始めたはずである。朝練を行っていたのは、私と一人の後輩だけであった。この後輩は、同じ学年内で7番手くらいの実力であった。バスケットボールは5人で行うスポーツであるから、彼はスターティングメンバーに入れていない。そこで、スタメンよりも努力して、何とかスタメンを勝ち取ろうと思っていたのである。目つきの鋭い、どちらかというと不良少年のような風体であったが、どういうわけか、かわいらしく、真面目そのものの私と気が合った。2人とも負けず嫌いで、努力を厭わなかった(彼はそれほど勉強ができる方ではなかったが、持ち前の負けず嫌いと努力で、後に筑波大学に合格している)。二人で、来る日も来る日も朝練に励んだ。私の記憶では、ちょうど、阪神淡路大震災が起こった日も、朝練をしていた時期である。ところが、震災の影響で電車が止まってしまい、いとことともに私の母親に車で高校まで送ってもらったのはいいが、もちろん休校。それは予想していたので、バスケットの練習だけしようと体育館に向かうと、顧問の先生から「今日は部活禁止だ」といわれて、あえなくとんぼ返りした記憶がある。この顧問の先生のことを、私は好きではなかった。私と同じくらいか、私より下手だと思われる同級生を試合で使うのに、私はあまり出してもらえなかったからである。しかし、毎日朝練に励んでいる姿を見て、少しは出してくれるようになった。ただ、私が不貞腐れて、反抗的な態度に出たり、乱暴なプレイをしたりしたために、評価はダダ落ちになり、全く試合に出してもらえなくなってしまった。こうした反抗的な態度のために、件の後輩は逆に私を評価して、高校卒業後、唯一といっていいほど付き合いが続いていくのであるが。ともかく、このような事情で、私にとって高校生時代の部活動は大きな挫折体験になり、高校を卒業してからも、それどころかつい最近まで、試合に出してもらえなかった場面を悪夢として何度も何度も見たものだった。

 ただ、こういった朝練の影響もあったのだろうか、身体能力は高校時代に大きく発展していった。特に、走るのが驚くほど速くなった。私の記憶では、小学校の4〜5年生までは、どちらかといえば走るのが遅い方で、クラス代表のリレー選手に選ばれるなどということは全くなかった。ところが、中学校くらいから徐々に早くなっていき、特に長距離では、根性を出して、学年で3番くらいになったこともあった。それが高校に入ってからは、短距離走も早くなり、裸足で走った50メートル走では6.3秒くらいだった。また、3年生の部活の最後の大会のまさにその日にあった1500m走では4分40秒くらいで、サッカー部の一人に最後に抜かされただけで2位であった。ウォーミングアップのやり方などを教えてくれた陸上部の友人には、ダントツで勝ってしまった。おそらく、高校時代の私のイメージは、頭がいいが運動(バスケットボール)は苦手な秀才君という感じだったので、こんなに走りが速いというイメージはなかったと思う。

 高校時代の思い出の授業は二つある。一つは世界史である。2年生と3年生で同じ先生に教わったが、この先生のおかげで哲学に興味を持つようになった。あまりどういう内容だったかは覚えていないが、非常に面白かったということと、古代ギリシャの文化のところで、ゼノンの詭弁について触れられたことは覚えている。アキレスと亀の話である。これで哲学に関心をいだき、この先生の所に話を伺いに行くと、「哲学といってもいろいろあるが、哲学を学ぶなら○○大学文学部だ」と教えてくださったように記憶している。あとから記憶の改変が起こっているかもしれないが、何となく、この先生の授業で、哲学というのは学問中の学問であり、哲学者というのはその時代の最も頭のよい人間だ、というようなことを刷り込まれたような気がする。

 もう一つの思い出の授業は、3年生の時の英作文である。これは思い出の授業というより、思い出の先生である。強烈な個性の持ち主であった。どういう仕組みになっているのか分からないが、この先生は、公立の進学校であったその高校に20年ほど連続して勤務されていた。確か初回の授業で、「1回目の校内模試で200点満点中120点を取れたら、この参考書をやれ! 10回やれ!」と、独特の口調で強調されたのである。その参考書とは、伊藤和夫『英文解釈教室』(研究社)である。先生は、これを10回やればどんな英文でも読めるようになること、伊藤和夫というのは教えるプロである予備校講師のなかでトップであること、だからこれは難解だが素晴らしい参考書であること、を非常に熱く語っておられた。進学校であったが、高校の先生が参考書を勧めている場面に出会ったのは、これが最初で最後であったと思う。ここでいわれている校内模試というのは、3年生の内に5回ほど行われるもので、大学入試を意識した本格的な試験である。200点満点中120点というのは、この模試のレベルからすれば、かなりハードルが高い。素直な私は、そんなにすばらしい参考書であれば、ぜひとも購入して取り組みたいと思ったのであった。ところが、その模試を受けてみると、英語の結果は散々であった。200点満点で49点、偏差値は30台であった。定期テストでは英語でもそれなりの点数がとれていたものの、大学入試には全く通用しないことが明らかとなった。

 しかし、あきらめの悪い私は、この先生に直訴しに行った。「先生、120点をこえたら『英文解釈教室』をやれということでしたが、私は49点でした。それでもやっていいですか?」と尋ねたところ、「おう! やれ! やったらいいんや!」と力強く即答されたのである。冷静に考えてみると、それなら120点という基準は何だったんだと突っ込みたくもなるが、当時の私の心情は全く違った。「よし! 許可を得たぞ! これで『英文解釈教室』に取り組める。そして英語もできるようになるぞ!」と心の底から喜んだものである。その後の私は、大げさにいうならば『英文解釈教室』一筋であった。3年生になってからは、バスケットボールの朝練に代えて、朝勉(朝の勉強)を行っていた。授業開始の1時間ほど前に学校に着いて、そこからひたすら勉強するのである。同じくらいの時間に来ている女子生徒が1人いた。おそらく、お互い意識はしていたが、一言も話さずに、もくもくと勉強していた。授業と授業の間の休み時間も、誰とも話さずに勉強した。もちろん、行き帰りの電車の中でも、である。もっと恐ろしいことに、18時に帰宅すると、すぐに2時間の仮眠をとり、20時から翌日の3時まで勉強する。そして3時からまた2時間寝て、5時に起きて準備をして、学校に行く、という生活だったのである。この間、自主的な勉強の時間は、ほとんど『英文解釈教室』に充てることができた。というのは、たとえば数学などは、学校の授業だけで偏差値80くらいを叩き出していたので、安心して英語に集中できたのである。さすがに10回やることはできずに一通り終わらせただけであったが、その結果、最後の校内模試では、英語に関しては、帰国子女のバスケットボール部女子生徒に負けただけで、学年2位の点数を叩き出したのである。

 英語に関しては驚くほど成績が上がったものの、英作文はほとんど手つかずであり、他の教科にしても、哲学を学ぶべく志望していた○○大学文学部(国立の超一流大学である)に合格するほどの実力はついていなかった。現役時代、その大学しか受けなかったが、予想通り、不合格となった。そこで私は、京都のとあるマイナー予備校に通うことにしたのである。この予備校を選んだ一番の理由は、学費が安かったからである。模試でいい成績をとっている者には、授業料の免除規定があり、私は確か、年間6万円しか払わなくてよかったと思う。また、この予備校は、京都にある○○大学専用のコースもあり、合格実績もよかった。それも、この予備校を選んだ理由である。

 この予備校もすばらしかった。すばらしすぎて、2年間も通ったほどである。特に印象に残っている先生が2人いる。一人は英語の名物先生で、私はこの先生に習ったおかげで、英語の構造が分かったというか、英文法や英作文もかなりできるようになった。英語の理屈を、これ以上になくクリアーに教えてくれた先生である。後に私は、塾の講師をすることになるが、それもこの先生の影響である。この先生のように英語を論理的に教えたいというのが、塾の講師になった一番の理由である。また、現在、翻訳の仕事もいただいているが、そこまで英語ができるようになったのは、完全にこの先生のおかげである。この件は、また後ほど触れたいと思う。

 もう一つは、後期試験の小論文対策を担当してくださった先生である。この先生は、普段は予備校にいなかった。おそらく、どこかの大学の先生で、小論文対策に特化して教えていたのだと思う。この先生は非常に教養豊かで、あらゆる問題に的確にコメントされていた。ごく少人数で指導を受けていたのだが、ある学生がとある課題に対して、日本人は明確な目標を定めると、集団的にそれに取り組み、すばらしい力を発揮する、というようなことを書いていたが、それに対して、丸山真男か誰かを引き合いに出して、解説されておられた。一番印象に残っているのは、ルネサンス期の万能人についての話である。「万能人」という言葉も、この先生から初めて聞いたのである。この先生によると、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチは「最後の晩餐」や「モナ・リザ」で有名な画家・芸術家であるが、科学にも非常に精通しており、当時の最先端の知識を身につけていたという。このように、あらゆる分野に関心を持ち、それぞれの分野で一流の業績を残している人間を「万能人」と呼ぶ、ルネサンス期にはこのような万能人が何人も活躍したのだ、というような話だった。この話を聞いて私は、私が漠然と抱いていた哲学者というイメージと万能人のイメージが重なったような気がした。ありとあらゆる領域に関心を持ち、ありとあらゆる問題を解く実力を備えた人間こそ、哲学者であり万能人である、ということである。私はそのような哲学者・万能人に何としてでもなりたいと強く決意したことであった。

 熱心に勉強したこともあって、私の学力はみるみる向上していき、無事、志望の大学に合格することができた。本当は1年で合格することができたのであるが、2つの要因で2年間、予備校に通うことになった。一つは、ひょんなきっかけで入手した1万円を、その当時兄がはまっていたパチンコに費やして勝ってしまったために、パチンコに時間を割いて勉強時間が減ってしまったことである。もう一つは、センター試験の数学でのケアレスミスである。今でも覚えている。ある問題の途中の計算で、ルート4をなぜか4と計算してしまい(もちろん、正解は2である)、その後の問題が全滅してしまったのである。大問を丸々一つ、落したので、マイナス25点である。面白いことに、兄もまったく同じミスをしていた。途中の計算で、ルート4を4だとしてしまうと、その後の枠が合わないのである。センター試験はマークシート方式なので、たとえば2桁の答えの場合は、2つ枠があるのであるが、われわれの計算だと3桁になってしまう。こんな感じで、どう考えてもわれわれの出した答えが枠に合わないので、しかも、二人そろって同じ計算ミス(ルート4=4)をし、後はすべて正確に計算していたため、最終的に出てきた答えも同じであった。数学の試験が終わった後、お互いに「これは絶対に枠が間違っている。出題ミスだ」などと話し合っていたことを今でも鮮明に覚えている。

 予備校生活の最後も思い出深い。2年間、同じコースで勉強してきたが、お互い、全く口をきかなかったクラスメイトが、話しかけてくれたのである。「○○君、合格おめでとう。俺は落ちてしまったけど、この2年間、一緒にがんばってこれてよかったわ。これからもがんばって!」。彼はこういって握手を求めてきたのである。私は何ともいえず、感動して涙が出てきたのであった。彼は確か、第2志望の大阪大学に行ったはずである。

 このようなすばらしい予備校であったればこそ、2年間も通ったのであった。

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2017年11月13日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(1/5)

目次

(1)原点
(2)前史
(3)本史1
(4)本史2
(5)現在と未来

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(1)原点

 光陰矢のごとしとはよくいったもので、私もはや40歳である。本格的に学問への道を志したのが20歳の頃であったから、爾来、20年もの歳月が過ぎ去ったことになる。学問への道を志すまでが20年であり、学問への道を志してからが20年である。本エッセイでは、私のこれまでの人生を振り返り、私自身の原点を確認するとともに、原点を踏まえて、今後を展望したいと思っている。1ヶ月ほど前に本ブログに掲載された「徒然なるままに――40歳を迎えて」に触発されてのものである。

 私の記憶にある一番古い光景は、保育園時代のものである。おそらく、3歳か4歳ごろのものであろう。私はスプーンだったか、お箸だったかで、昼食を食べていた。私の前には、ちょっとした悪がき風の男の子が座って、同じく昼食を食べていた。その悪がきは、左手でスプーンだか箸だかを持っており、そのことを先生に注意されていた。「左手で持つのではありません。右手で持ちなさい」と。するとこの悪がきは私を指さし、「こいつもこっち(左手)で持ってるやん!」と反発したのである。この時の私の率直な感想は、「アホだな〜、こいつは」というものであった。向かい合わせに座っており、私が右手で持っていると、彼にとっては左側である。向かい合わせに座っている人間を自分に置き換えるときには反転させる必要がある。自分から見たら左であっても、反転させれば右である。そのことが彼には分らなかったのである。そこで私は「アホだな〜」と感じたわけである。しかし、今になって思えば、彼がアホだったというよりは、私が賢すぎたのである。3歳やそこらで、現象に引きずられることなく、相手の立場に立てば左は右になるということをしっかり理解していたのであるから。彼には悪いことをしてしまった。年齢不相応なレベルを求めて、それに達していないからといって「アホ」呼ばわりしたのであるから。

 そんな賢すぎた私も、アホなことをしていた。私は当時、シイタケを海の幸だと勘違いしていた。クジラのような魚の肉だと思っていたのである。この時点で少しアホである。さらに、海の幸全般が当時苦手だったため、シイタケを海の幸だと思い込んでいた私は、シイタケを食べることができなかったのである。そこで、給食でシイタケが出たときには、いったん口の中に入れて食べたふりをして、先生が見ていない隙に口から取り出し、さっと机の下に投げ捨てていたのである。これでばれないと思っていたのだから、愚の極みである。当時の予想に反して、あっという間に先生に見つかり、こっぴどく叱られた記憶がある。後年、シイタケがキノコの一種だということを知って非常に驚いた。と同時に、「それならそうと、いってくれたらよかったのに。それなら食べられたのに」などと、周囲の大人を不当に批判したものである。まったく、頭がいいのか悪いのか分からない、ただし、非常にかわいげのある子どもであった。

 このような勘違いは他にも覚えている。これも小学校に入る前のことだった思うが、布団のなかで母親から「兄弟」や「双子」なる概念を教えてもらっていた。当時の私にはよく理解できなかったようで、私は「兄弟」や「双子」は、今でいう(?)「行事」の一種だと理解した。そういう行事=イベントがあると思ったのだ。当時の私は、関係概念が理解できなかったものと見える。そこで私は母親に、「キョウダイは手をつながないといけないの?」と尋ねた。この記憶ははっきりしている。この記憶から推測すると、おそらく母親は、しばしばケンカしていた兄と仲良くしろというようなことをいっていたのではないか。「キョウダイは仲良くしないといけない」と。そこを私は、キョウダイという名のイベントでは、兄と仲良くしないといけないのかと理解して、仲がいい即ち手をつなぐと短絡的に思考して、「キョウダイ(という行事で)は(兄と)手をつながないといけないの?」と聞いたのだろう。これに対して母親は、「いや、別に手はつながなくていい」という至極まっとうな返答をしたが、それにしても、なかなかかわいらしい勘違いである。

 小学生時代の私は、もっぱら近所の友達と近くの公園で野球をして遊んでいた。今考えると理由がよく分からないのだが、当時、この公園をみんな「遊園地」と呼んでいた。ここにもちょっとした概念の混同がある。それはともかく、私のポジションはピッチャーで、それもエースであった。「自分はピッチャーだから、相手ピッチャーがどこに投げるかもだいたい分かる」などというかわいらしい嘘もついていた。しかし、試合になると、どこに投げるか分かっているはずのボールなのに、全く打てなかった。野球の思い出といえば、アニメ「タッチ」がある。ご存じの方も多いと思うが、「タッチ」というのは、双子の兄弟が主人公で、野球をやっていた弟が交通事故で亡くなり、その後、本当は才能があった兄が野球を始めて、甲子園に出場して優勝する(?)というようなストーリーである。私もたまたま双子の兄がいたため、夕方、「タッチ」を見終わってから、兄と「遊園地」に行って、キャッチボールをしたものである。日が暮れて、暗くなって、ボールがはっきり見えなくなるまで兄とキャッチボールをしていた。

 そういえば、この兄はひどい男で、小学校4年生くらいのときに、スポーツ少年団のなかに野球とサッカーがあったのだが、「タッチ」の影響を受けて二人で野球に入る約束をしていた。ところが、どういうわけか、勝手に一人、サッカーに入ってしまったのである。まったくひどい奴だ。

 他に小学校時代で覚えていることといえば、テストでは満点しかとったことがなかったということである。国語のテストなど、一字一句、模範解答と同じなので、先生もびっくりしていたくらいだった。もちろん、塾などに行っていたわけでもないし、特別に勉強していたわけでもない。それでも、自然と勉強のできる(かわいい)子どもに育っていったのである。今振り返ってみると、これには、家庭環境、特に母親と祖父の影響が強いと思う。母親は、子どもとかなり頻繁にコミュニケーションをとってくれたし、商業高校卒とはいえ、語彙力もそれなりにあり、難しいことでも子どもに教えてくれていた。どういう経緯でそうなったのか、全く覚えていないが、小学生の私に「ミゼン・レンヨウ・シュウシ・レンタイ・カテイ・メイレイ」と唱えさせ、さらに「ナイ・マス・マル・トキ・バ」と唱えさせていた。当時は全く意味が分からずに覚えただけであったが、その意味が中学校に入って国文法を習う中で分かるようになった。

 祖父は、地域では頭のいい人ということで有名な人物だった。将棋を教えてもらったのは祖父からだったと記憶している。最初は、私は通常の駒の配置で、祖父は王将と手持ちの歩3枚だけという条件で戦っても、コテンパにやられた。しかし、当時、父親が所有していたNECのPC88とか98とかで、将棋のソフトを買ってもらい、そのソフトでコンピューターと対戦したり、兄弟で対戦したりしているうちに、実力をつけていって、いつしか、祖父にも勝てるようになった。母親もそうだったが、祖父も、つまらないことをいって笑いをとるのが好きだった。小さい頃、祖父から出されたなぞなぞに次のようなものがあった。

「電線にスズメが5羽とまっている。銃で1羽を撃ち落とした。残りは何匹か?」

 普通の算数の問題だと思って、「4羽!」と私がかわいらしく答えると、「残念。銃の音に驚いて、他の4羽も飛び立ったので、正解は0羽」とかいってくるのである。後日、また全く同じ問題を出してくる。学習能力に秀でていた私は、すかさず「0羽」と答える。すると祖父はしたり顔で、「残念。4羽は銃の音に驚いて飛び立ったが、撃たれた1羽が下に落ちて残っているので、正解は1羽」などと屁理屈をいうのである。このような祖父との交流によって、考える力がついていったということはいえそうである。

 ついでに父親にも触れておこう。小学生だったある日、父親にある漢字の書き順を尋ねたところ、「書き順なんかは何でもいい。書いてしまえば同じだから」というようなことをいってきたのである。それ以来、素直な私は、本当に書き順なんてないんだと思い込み、あまり書き順を覚えなくなってしまったのである。これは痛い思い出である。しかし、これを補ってあまりある父親の言葉も存在する。それは、「テストでは習ったことが出るのだから、満点がとれて当たり前だ」というものである。これまた素直な私はそのまま受け取り、満点を取るのが常態となっていくのであった。

 中学生になると、さすがに全てのテストで満点を取ることは難しくなったが、テストの1週間前から集中的に勉強するだけで、学年の1位か2位の点数をとっていた。5教科500点満点で、480点は取っていたと思う。今、「テストの1週間前から集中的に勉強するだけで」と書いたが、これは本当にそうで、中学校になっても塾などには行っていないし、試験前までは部活に明け暮れていたので、最低限の宿題をするくらいで、家で勉強など、ほとんどしていなかった。私にとって学校の試験は、ちょっとした楽しいイベントであり、試験自体のも楽しみだったし、結果が返ってくるのがもっと楽しみだった。バツや三角になっていて納得できない場合は、すぐさま先生に抗議しに行き、場合によっては先生を説き伏せて丸にしてもらえることもあった。私の兄も、私ほどでは当然ないが、そこそこ点数がとれていたので、私たち兄弟は頭がいいと周囲からは認知されていた。

 もう一つ、われわれ兄弟は、バスケットボールがうまい兄弟としても認知されていた。小学生の時にスポーツ少年団で兄に裏切りにあっていた私であったが、そのことは水に流して、仲よくバスケットボール部に入部したのであった。小学生の時は、それほど運動ができるというわけでもなかったが、なぜか中学校に入ったころには、運動神経がよくなっていたようだ。何という名前だったか、準備運動で行う、斜め前に前進しながら内側の足で飛び上がり、飛んでいる間にその内側の膝を体まで引き付け、そして同じ足で着地し、今度は反対側の斜め前に前進して、逆の足で同じことを行うという特殊な運動(兄に聞いて、「ワンエンドワン」という名前であったことが判明した)は、1年生では私と兄しかできなかったように記憶している。見よう見まねですぐにできるようになったのである。長身なのに、旧型の小さなミニクーパーに乗っていた顧問の先生には重用され、1年生の内から3年生の練習に参加させてもらえた。ただ、バスケットのことなど何も分からなかったのに、ボールをキャッチした私に対して、いきなり「どっちを向いてボールをとってるんだ!」と怒鳴り散らし、ボールを投げつけられたことも覚えている。ゴールと逆の方を向いてキャッチしたのがいけなかったらしい。理不尽極まりなかった。そんな練習が嫌で、兄と示し合わせて、家のシャッターが開かなくなったというようなとってつけたようなウソの理由で、日曜日の練習を休んだこともあった。ただこの先生は、「メンタルタフネス」とかいって、精神面の重要性も強調しており、指導者としてはなかなかよかったと思う。残念ながら、3年生が引退した後、2年生男子がこの先生を嫌ったため、それまで一緒に練習していた男女のチームが分かれて、その先生は女子バスケットボール部に専念することになった。男子バスケットボール部には、きちんとした指導者がいないままとなり、私の中学での部活動は実りないまま、たいして上達もせずに終わってしまった。

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2017年11月12日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の反省概念の二義性についての部分を扱った我が研究会の2017年10月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 10月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回11月例会からは、いよいよ先験的論理学の第二部、先験的弁証論へと入っていくことになります。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回の例会では、主としてカントのいう先験的反省について扱った。反省というのは、唯物論的にいうと、自分の認識=像を見つめることといえるのではないかと提起したが、会員の中から反対意見は出なかった。およそ、そのような理解でよいのだろう。しかし、後から気づいたが、「反省」というのは、ロックが2種類の経験のうちの1つとして、感覚とともにあげていたものであった。ロックによると、感覚と反省とが、悟性というそれ自身は暗い部屋に観念という光が入る唯一の窓であるということであった。このように、「反省」というのは哲学史的にも重要なタームであって、「反省」という概念の生成発展のプロセスをも考慮に入れて、カントのいう「反省」を考えていくべきであろう。

 さて、今回の例会では、議論を通して、いくつか認識の発展・深化があった。まず、反省と4組の反省概念の関係である。たとえば、2滴の水という表象を反省するとき、これを感性に属すると捉えれば相違となり、純粋悟性に属すると考えれば同一となる。同じ表象であっても、どちらの認識能力・認識源泉に属すると考えるかによって、同一か相違か、変わってくるのである。このようなペアが、4組あるということである。この4組は、ある表象を反省する際の4つの観点ということもできるだろう。

 ライプニッツは、その表象がいずれの認識能力に属するかを考慮せずに、換言すれば、全て純粋悟性に属すると無意識的に考えてしまったために、2滴の水を同じものだと捉えるしかなかった。4組の反省概念に沿っていうならば、同一、一致、内的なもの、質料(先行)がライプニッツの立場である。このようなライプニッツ的な反省の仕方を、論理的反省というのであろう。

 今回は、反省概念のうち、内的なものと外的なものに関する部分を取り上げて音読し、逐語的に検討していった結果、カントのいわんとしていることが徐々に明確になっていった。これは研究会にとって非常に重要な経験だったと思う。分からないところを分からないままにしておくのではなく、その部分を集中的・集団的に検討することによって、分かるようになってくるのである。今後も、必要に応じて大切な部分については、このような取り組みが必要だろう。

 もう一つ、無の区分を検討する中で、先の4つの反省概念も、実はカテゴリー表に沿ったものなのではないかということが見えてきた。これも大きな収穫であったと思う。ただ、本来であれば、カテゴリー表はしっかりと頭に入っている状態で、この部分を読み進めていくべきなのだ。カテゴリー表が頭に入っていれば、例会当日の議論になって初めて、4組の反省概念がカテゴリー表と関連しているのではないか、などということが分かってくるということにはならない。これでは遅すぎるのであり、自分で一読している段階で気づいたはずである。カントのいわんとしていることは一つなのであり、前の部分をふまえておかないと後の部分が分からないということになるので、先験的分析論を読み終えて、次から先験的弁証論に入っていくというこの段階で、きちんと再読して、これまでの内容を頭に入れるようにしたいと思った。

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 今回は、論点の提示はできたものの、その論点に対する見解を執筆することができなかったことがまずは大きな反省点である。カント『純粋理性批判』への学びをしっかりと自分の学問への道に位置づけて、真剣に取り組んでいかなければならない。

 とはいえ、例会当日の議論では、カントのいわんとしていることの理解がかなり深まったと思う。特に、カントがライプニッツの単子論をどのように捉えているかという部分については、カントの文章を逐次読んでいって、研究会全体で理解を深めていけたことは大きな収穫だったと思う。どうしてライプニッツは単子論に行きついたのか、カントは説明しているのであるが、ここで先験的場所論を絡め、さらに実体がもつ表象力というものを想定したからこそ、ライプニッツの単子という概念が成立したことを、批判的に説いていることがよく分かったのである。

 これはひとえに、チュータによる議論のまわし方なり、根本的な理解なりが優れていたからこその討論過程であったと思う。分からない部分をどのように考えていけばよいのかということについても、たとえ自分だけで読み進めている場合でも参考になるようなアタマの働かせ方が学べたと思う。自分がチュータをやるときにも、こうしたことが実践できる実力をつけていきたいと思った次第である。

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 今回の例会で何よりも反省すべきは、子どもを寝かしつけた際に自分も寝てしまって、無断で欠席することになったことだ。その週は仕事の関係で、連日8時9時の退勤になっていて疲れていたというのはあるが、生活リズムをしっかりと整えて、疲れをためないように工夫すべきだった。

 幸い翌日も議論の続きを行い、論点3についての議論は参加することができた。無のそれぞれの内容についても理解を深めることができたと感じている。また、なぜここで無が取り上げられているのかということが論点として挙げられていたが、これについては、次から始まる弁証論へつなげる意味があるのではないかということで一応の結論を得ることができたのはよかったと思う。

 また、今回、カントの文章を1つ1つ細かく、丁寧に読み解いていく作業を行ったようだが、やはり重要な部分、理解ができない部分は、こうやってしっかりと向き合って、具体的なイメージを描いていく作業が必要なのだと思った。

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 今回の例会ではチューターにあたっていたので、該当範囲をそれなりに丁寧に読み込み、例会当日までに要約作業を終えてから、当日の議論に臨んだ。とはいえ、十分に理解しきったという自信をもって臨んだわけではなく、かなり漠然とした理解で臨んだのであった。

 各メンバーから事前に提示された見解は、自分自身のものも含めて、カントの表現(篠田英雄氏の訳文の表現)をそのまま利用してそれなりにまとめた、という部分が多かったので、核心的に重要だと思われる個所については、カント自身の文章(篠田英雄氏の訳文)を直接に読んでみることも含めて、きちんと共通の理解をつくっていく、という方針でもって進めてみた。結果としては、このような方針で進めてみたことが、非常によかったのではないかと思われる。カントがライプニッツの哲学をどのようなものとして捉えていたのか、その成立の必然的な過程をどう考えていたのか、非常に鮮明になった。今回の範囲には、ロックに対する批判的な言及もあったが、カントの『純粋理性批判』を哲学史の大きな流れのなかで位置付けて理解していく上で、重要な個所なのではないかと思った。

 また、論点3についての議論においてカテゴリー表を参照していくなかで、論点1および論点2において登場してきた4組の反省概念というものも、実はカテゴリー表に沿ったものだったのではないか、ということが指摘されることになったのも、非常に印象的な出来事であった。カントは自分の提示したカテゴリー表に大きな自信をもっていたのであり、これは先験的分析論の全体をつらぬく重要な柱であるはずなのだから、反省概念の4つの組がこのカテゴリー表と無関係であるわけがないだろう、ということになったのである。先験的分析論の全体を、このカテゴリー表を軸として読み込んで理解していくという作業が充分に出来ていないからこそ、議論が錯綜して充分に深まらないということになってしまうのではないか、という反省が語られたのも、『純粋理性批判』の学びをこれからどう進めていけばよいか考える上で、示唆に富むものだと思う。これまでの部分の再読ということをしっかりとやっていかなければ、と思わされた。
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2017年11月11日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(9/10)

(9)論点3:カントによる無の概念の区分はどのようなものか

 前回は、第二の論点、すなわち、カントはライプニッツをどのように批判しているか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。端的には、ライプニッツは、先験的反省をなさず論理的反省のみを行ったために、あらゆる表象が感性の制約にも服すことを見逃し、純粋悟性にのみ属すと考えてしまった(本来なら感性という場所に属するはずの概念も、純粋悟性という場に属するものとして考えてしまった)のだ、ということでした。

 さて、今回は第三の論点、すなわち、カントによる無の概念の区分はどのようなものか、という問題を巡ってなされた議論の内容をまとめて紹介することにしましょう。ここで改めて論点を紹介しておくことにします。

【論点再掲】
 カントは先験的分析論を完結するにあたり、無を4つに区分しているが、これらはそれぞれどのようなことを意味しているのか。また、そもそもなぜこのような話題を最後の部分にもってきたのか。


 4つに区分された無については、各自がカントの文言を踏まえつつ見解をまとめていましたので、具体的な例も念頭に置きつつ、それぞれがどういうことなのかよく確認しておこうということになり、以下のように確認しました。

 カントは、対象一般が何かあるものなのかそれとも無なのかという区別はカテゴリーの順序と指示とにしたがって行われる、として、以下の4つに区分しています。ちなみに、カテゴリーというのは、@分量(単一性、数多性、総体性)、A性質(実在性、否定性、制限性)、B関係(実体と付随性、原因と結果、相互性)、C様態(可能――不可能、現実的存在――非存在、必然性――偶然性)の4つです(pp.152-153)。

 @分量のカテゴリーに対立する無は、一切を滅却する概念、すなわち皆無である。直観が全く対応しないような概念の対象は無、すなわち対象をもたぬ概念、可想的存在のようなものがこれに当たる。「対象をもたない空虚な概念としての無」である。概念はあってもそれに対応する対象(現実的な存在)があり得ないようなもの。

 A性質のカテゴリーに対立する無は、何かあるものとしての実在を否定する無である。対象が欠けているという概念であり、例えば光が欠けている無としての影、暖かさが欠けている無としての寒さである。「概念に対する空虚な対象としての無」である。光という概念に対する光という対象(現実的な存在)が欠けているようなもの。

 B関係のカテゴリーに対立する無は、実体をもたない直観の単なる形式のことである。純粋空間や純粋時間などは直観の形式としては確かに何かあるものではあるが、それ自身としては直観されるような対象ではない。「対象をもたない空虚な直観としての無」である。

 C様態のカテゴリーに対立する無は、自己矛盾するような概念の対象としての無である。二直線で囲まれた図形のように自己のうちに矛盾を含んでいるものは概念として存在することは不可能であり、無なのである。「概念をもたない空虚な対象としての無」とされている。

 カントはなぜこのような話題を最後の部分にもってきたのか、という問題については、次のように議論しました。

 カントは、このような無の区分を説いたのは先験的分析論の体系を完全にするためだと説いていました。先験的哲学の出発点とされる最高概念は、普通には可能なものと不可能なものとの区分であるとされるわけですが、区分は区分が施されたもともとの概念を前提とするものです。したがって、区分を遡るごとに、いっそう高い概念が示されることになるはずです。そのような観点からして、最も一般的な概念は、対象一般(何かあるものか「無」かは未決定)という概念であり、この一般的概念に関係するのはカテゴリーだけであるから、カテゴリーの順序と指示にしたがって、何かあるものなのか無なのかという区別が施されるのだ、というわけです。

 このような議論を進めていくために、カテゴリー表を参照していくなかで、論点1および論点2において登場してきた4組の反省概念というものも、実はカテゴリー表に沿ったものだったのではないか、ということが指摘されることになりました。カントは自分の提示したカテゴリー表に大きな自信をもっていたのであり、これは先験的分析論の全体をつらぬく重要な柱であるはずなのだから、反省概念の4つの組がこのカテゴリー表と無関係であるわけがないだろう、ということになりました。先験的分析論の全体を、このカテゴリー表を軸として読み込んで理解していくという作業が充分に出来ていないからこそ、議論が錯綜して充分に深まらないということになってしまうのではないか、という反省も語られました。

 先験的分析論を読み終えていよいよ先験的弁証論に入っていくというこの段階において、きちんとこれまでの部分を再読してその内容を頭に入れておく必要がある、ということを確認して、論点3についての議論を終えました。

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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
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 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言