2017年09月30日

経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス(5/13)

(5)「外部感覚論」――人間観の生物学的基礎を問う

 前回は、スミスが自然哲学史研究で獲得した科学方法論にのっとって道徳哲学の構築に向かっていこうとした際に不可避的に直面したであろう大問題、すなわち、自然科学的な方法をそのまま社会科学的な研究に適用することができるのか、という大問題にたいして、どのような解決が与えられることになったのか、みてきました。スミスは、道徳哲学講義における第一の部門として位置づけられた自然神学において、社会の客観的法則性は諸個人の自由意志にもとづいた行動の絡み合いをつうじてこそ貫徹されていくものだ、という見方を確立したのではないか、と考えることができるのでした。

 自然哲学史の研究の成果と道徳哲学の構築という課題は、以上のような自然神学的な考察によって、一応は媒介されたということができます。しかし、この媒介は、あくまでも、諸個人の動きを総体としてみれば自然と同様に法則性を見いだすことができる、というレベルの把握にとどまっていたことが注意されなければなりません。そもそも、スミスのおこなった自然哲学史の研究は、あくまでも天文学史を中心としたものであり、そこに若干の古代自然学史と古代論理学史、古代形而上学史がくわわったものでしかありませんでした。このような自然哲学史研究のなかでは、「一般的な法則に支配され、それ自身の保存と繁栄およびそこにいるすべての種の保存と繁栄という一般的な目的を目ざす、完全な機械、まとまった体系」(「古代自然学の歴史による例証」)という自然観(宇宙観)の表明がなされていましたが、このような自然観から社会の客観的な法則性のあり方を類推するというやり方だけでは、諸個人の動きを総体として把握すればどうなるか……ということにしかならず、一人ひとりの具体的な人間がそもそもどのような存在なのか、という問題についての突っ込んだ究明が欠けてしまうことになるのです。

 しかしスミスは、こうした問題への考察を怠っていたわけではありません。スミスは、人間もまた神による創造された自然の一部にほかならない、という見地を堅持しながら、この問題に迫っていこうとしていたように思われるのです。それは具体的にはどういうことだったのでしょうか?

 そのヒントは、スミスが古代自然学史論文において表明した機械的体系としての宇宙という自然観をふまえつつ、前回紹介した『道徳感情論』の以下の文章を読むことで得ることができます。

「自己保存と種の繁栄とは、自然がすべての動物を創造するにあたって意図していた偉大な目的であるように思われる。人間は、こうした目的への欲求と、その反対物への嫌悪――生命への愛と死滅への恐怖、種の存続と繁栄への欲求とその完全な消滅という考えへの嫌悪――を与えられている」(第2部、第1篇、第5章)


 ここでは、すべての種の保存と繁栄という一般目的につらぬかれた自然のなかに、動物の存する領域があり、さらにその動物の一種として人間の存在が位置づけられる、というとらえ方が示されています。つまり、人間もまた動物の一種にほかならないのだから、動物としての一般性をふまえながら、人間としての特殊性をとらえていかなければならない、というとらえ方が示されているわけです。ここから、次のように推測することが可能でしょう。すなわち、スミスは、自然哲学(自然科学)と道徳哲学(社会科学)とを、諸個人の動きを総体として考察することで自然神学的に媒介しようとしていただけでなく、その媒介を、個々の人間の具体的なあり方の究明につながる生物学的な議論によって補強しようとしていたのではないか、ということです。

 実際スミスは、生涯にわたって生物学にたいして強い関心を抱いていたことが知られています。1756年(33歳)のときに『エディンバラ評論』という書評誌に寄稿した文章では、フランスにおける学問の動向に注意を払う必要があると力説するなかで、ビュフォン(植物の形成、動物の発生、胎児の形成、感覚の発達などについて哲学的な推理を行いました)やレオミュール(全6巻からなる大著『昆虫誌』を著しました)らの作品について言及していますし、『道徳感情論』刊行の前後には幼鳥や哺乳動物についてのフィールドワークに取り組んだとされています。また、1773年(50歳)にロンドンの王立協会の会員となってからは、ビュフォン(1740年に王立協会の研究員になっていました)やリンネなど、当時を代表する生物学者たちと親しく交流を重ねました。

 こうした生物学への強い関心が、道徳哲学の基礎となる人間観につながる論考として結実したのが、「哲学的研究を導き指導する諸原理」などとともに遺稿集『哲学論文集』に収録された「外部感覚論」(*)です。この論文でスミスは、人間がもつ5つの感覚(触覚、視覚、聴覚、臭覚、味覚)について、リンネなどによる生物学研究の成果を参照しつつ、他の生物の感覚のあり方にまで視野を広げて検討をおこない、触覚こそがもっとも基礎的で本源的な感覚なのではないか、という主張を展開しています。そもそも触覚は、感覚器官が外側から直接に圧迫されることによる感覚であり、外部の諸物体の存在をもっとも生々しくハッキリと知覚させる(というよりもむしろ、自他の区別は触覚によってしか明確にならない!)ものです(**)。スミスは、鳥類や哺乳類の産まれたばかりの子どもの行動にかんする観察から、ほとんどの動物が、あらゆる観察と経験に先立って、自分の身体の外部に物体が存在しているのだという何らかの概念のようなものを本能的にもっているのではないかと提起し、こうした本能的な示唆を与える感覚は触覚以外には考えられない、と論じています。こうした議論のなかでスミスは、動物のなかで人間だけがこうした本能的知覚(生得的観念)を与えられていないとは考えにくい、と主張するのです。

 少し難しい話になりますが、哲学の歴史の流れをふまえていえば、この論文は、人間の経験を重視するあまり、外部の物体の実在について懐疑的になってしまったイギリス経験論の発想を全く逆転させるものであったといえます。イギリス経験論は、人間の心にはもともと(生まれつき)神の概念や数学の公理などが書き込まれているという大陸合理論(デカルトやライプニッツ)の主張に対抗して、人間の心はもともと白紙であり、経験によって諸々の事柄が書き込まれていくのだ、と主張しました。経験によって確かめられないものの存在は認められない! というわけです。しかし、感覚器官を通じた経験そのものは、あくまでも人間の心のなかの出来事でしかありませんから、経験を重視する立場を徹底していくと、視野がだんだんと心のなかだけに限定されていきます。そうなると、心の外側に物体が本当に存在しているかどうかは確かめようがない、とか、諸々の感覚はもともとバラバラのものでしかなく、それらが結合されるのはもっぱら習慣によるものでしかない、といった主張が出てくることにもなります。これにたいしてスミスは、感覚的な経験のもとになる外部の物体の存在を大前提として復権させることで、諸感覚の必然的な結びつきについて明らかにしようとしたのです。その過程でスミスは、人間の精神はもともと完全な白紙である、というイギリス経験論の大命題について根本的な疑問を提起するに至りました。スミスは、人間を含むあらゆる動物は、外部の諸物体の存在について本能的な知覚を先天的にもっているのであって、それを直接に示唆してくれる触覚の機能の限界(器官が直接に物体に触れない限り働きようがない)を補うために、他の諸々の感覚が成立させられていったのだ、という結論に至ったのです。

 それでは、スミスが触覚の本源性を主張したことは、道徳哲学の構築という課題にとって、どのような意味をもったのでしょうか? 端的には、私たち人間が自分と異なる他人の存在について本能的といってよいレベルで確信を抱いていることを明確に確認した、ということができます。つまり、人間は自分以外の他人の存在を疑ったりすることなく、自分と同じように肉体と精神を備えた他の人間との関係のなかで生きていることをハッキリ自覚しているのだ、というわけです。このようにいうと「何を当たり前のことを!」と思われるかもしれませんが、スミスの先輩であるヒュームが、この当たり前のことを疑うかのような議論を展開していたから問題でした。ヒュームは、確かに存在するといえるのは感覚だけだという立場をとことんまで突き詰めた結果、外部に本当に物体が存在しているかどうかも、また人格の同一性(自分という1人の人間が本当に存在しているということ)すらも、疑わざるをえないところまで追い込まれていたのです。ヒュームによれば「人間とは、思いもつかない速さでつぎつぎと継起し、たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束あるいは集合にほかならぬ」(ヒューム『人性論』中公クラシックス、p.110)ということになるのです。

 このような人間観では、人間は自分と同じような他の人間との関係のなかで生きていることをハッキリ自覚している、などとはいえません。なにしろ、人格の同一性(自分という1人の人間が本当に存在しているということ)についてすらも、確信をもてなくなっているのですから。このような知覚の束としての人間観では、人間と人間との関係をどのように律するか、という道徳の問題をまともに扱っていくことはできません。これにたいしてスミスは、触覚(自分の外部に何らかのモノが存在していることをハッキリ知覚させてくれる唯一の感覚)中心論によってこうした人間観を克服し、ヒュームを大きく超えるレベルの道徳論を展開していくことになります。このことについては、次回以降、詳しく紹介していくことにしましょう。

(*)「外部感覚論」の執筆時期については諸説ありますが、田中正司『アダム・スミスの認識論管見』(社会評論社、2013年)は、『道徳感情論』の共感論との論理的つながりを根拠に、『道徳感情論』の執筆に先だつ1750年代前半という説を主張しています。スミスの学問的構想の全体像における「外部感覚論」の位置づけという観点からすれば、この説が妥当なものではないかと考えられます。

(**)ここで興味深いのは、スミスが、私たちがテーブルのような単なる物体に手を置いてみる場合と、他人や他の動物の身体に手を置いてみる場合とを区別していることです。私たちは、テーブルが私たちの手による圧迫を感じるなどとは思っていないので、取り立てて配慮してやるべき対象であるとは感じません。これに対して、他人や他の動物であれば我々の身体による圧迫を感じるであろうことを知っているので、それなりの配慮をしてやる必要を感じる(スミスは fellow-feeling という語でこれを表現しています)というのです。このことは「外部感覚論」における触覚論と次回取り上げる『道徳感情論』における共感論とのつながりを示唆するものだといえるでしょう。
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 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言