2017年05月10日

ヘーゲル『哲学史』を読む(12/13)

(12)ヘーゲルの描く哲学史とは精神が自己を知る過程であった

 本稿は、2015〜2016年の2年間、ヘーゲル『哲学史』の内容に関わってなされた要約、例会への報告、例会で提示された論点をめぐってなされた討論などをしっかりと振り返りつつ、ひとつの流れをもった論稿にまとめなおすことをめざしたものでした。前回までの9回にわたって、ヘーゲル『哲学史』の記述に沿って、イオニアの自然哲学からシェリングまで、2500年に及ぶ哲学の歴史の流れを概観してきました。ここで、その大きな流れを簡単に振り返ってみることにしましょう。

 そのための大前提として大切なのは、そもそも哲学の歴史とは何なのか、ということです。結論的にいえば、哲学の歴史とは、人類がこの世界全体に体系的に筋を通して把握していこうとしてきた営みの歴史にほかなりません。観念論者ヘーゲルにあっては、世界の本質たる精神が(自己が精神であることに気づいた上で、さらに)この世界の全ての事物・事象は自己自身にほかならないという自覚を明瞭に把持するに至るまでの歴史が哲学史である、ということになるわけです。

 さて、ヘーゲルによれば、哲学史の始原は、この世界の本質(原理)とは何か、ということが問題になったところからです。この問いかけを始めたのがタレスを筆頭とするイオニア派であり、そこでは自然的な形(「水」や「空気」など)が原理とされることになりました。そこから、感性的なものと概念的なものとの中間的なものである数を原理としたピュタゴラス派を経て、エレア派によって不動の「一」あるいは「有」といった抽象的思想が原理とされるに至ります。しかしながら、これは純粋な思考の対象でしかなく、思想としては自覚されていません(「一」こそ原理であると思考した自己と「一」との関係が不明瞭で、自己自身が「一」なのだという自覚はありません)。思想としての自覚の過程がスタートするのは、ソフィスト派およびソクラテスからです。とくにソクラテスにおいては、アナクサゴラスによって感性的な世界と区別される原理として打ち立てられたヌース(具体的で豊かな内容をもつ感性的世界から明瞭に区別されただけに、それは抽象的で無内容なものでした)に自己の精神を重ねて、そこから感性的な世界の具体的で豊かな内容を自己のものにしていこうという運動が開始されたのです。この運動は、プラトンからアリストテレスへという流れで大きく発展していきましたが、普遍的な理念によって諸々の特殊な事物を貫くにまでは至らなかったのでした。

 したがって、ギリシャ哲学の第2期(ローマ時代のギリシャ哲学)では、普遍的だが抽象的な理念(プラトンのイデアやアリストテレスの能動的ヌースとして提示されたもの)が具体的で特殊的な事物を捉えていくことが課題となります。普遍的なものの特殊的なものへの適用は、真理とは何かという問題を論じる形をとりました。この課題を、概念的(普遍的)でありながら感性的(特殊的)なあり方をも保持している表象レベルのイメージこそ真理なのだと決めつけることで、簡単に片付けてしまったのが独断論です(その際、思考の側に主導権を認めたのがストア派で、感覚の側に主導権を認めたのがエピクロス派)。一方、こうした独断論による安直な解決のウソ臭さを鋭く突いたものの、逆の極端にまで走って一切の客観的真理を否定し去ったのが、懐疑論です。抽象的な理念が具体的な事物を捉えるにはどうしたらよいか、という共通の課題に挑みながらも、思考を重視するか、感覚を重視するか、何れも正しくないとするか、それぞれに一面的な主張が分立していくことになるのが、第2期の特徴でした。

 この第2期の終わり、懐疑論によって得られた自己の内部の世界(抽象的で無内容な主観的世界)を、具体的に規定された世界――叡智的世界――として構成しなおそうとしたのが、ギリシャ哲学の第3期に登場する新プラトン派の哲学者たちです。彼らは、全ては一者から流出したものであると説明しました。一者とは、あらゆる存在の究極の本質であり、神のことにほかなりません。一者から流出したものは一者とは別のものではなく、やがて方向を転じて一者へと還帰し、一者は自己を直観する、というのです。一者とは思考であり、そこから流出した対象は、結局のところ思考と一致するものである、というのが、新プラトン派の三位一体でした。

 ヘーゲルによれば、古代哲学が到達した原理は現実の自己意識でした。ギリシャのポリス共同体が崩壊して、人間が個としての自覚を強めていくと(客観的世界から分離した自己=主観に目覚めていくと)、自分自身がこの世界のなかで如何に生きていくべきかは自分自身で決めなければならなくなってきます。これが現実の自己意識ということです。ここで大きく浮上してきたのが、自己(思惟)と世界(存在)との関係をどう捉えるか、という課題でした。この課題をめぐる試行錯誤のなかから、自己と世界の絶対的本質(一者)との同一性を直観的に把握するに至った新プラトン派こそが、古代哲学の到達点であったわけです。キリスト教もまた、人間(自己意識)と神(世界の絶対的本質)との同一性の自覚にもとづくものでした。しかし、中世ヨーロッパにおいては、カトリック教会の絶対的権威が個々の具体的な人間を抑圧する形をとって発展していきました。自己意識(思惟)と存在(世界)という対立構図は大きく歪められて、「神の国」と「地上の国」という対立構図が描かれ、自然(外的な自然と人間の自然=本性)は後者に属する価値の低いもので克服されるべきものだと捉えられたのです。現実の自己意識はまったく抑圧されてしまったのでした。

 こうした中世的なあり方を否定して、現実の自己意識を改めて出発点として定め直して、思惟と存在という対立構図を明確に復活させた上で、これを克服しようと向かっていったのが、近代哲学の歩みにほかなりません。ヘーゲルは、近代哲学の本格的なスタートはデカルトであるとしていました。しかしながら、デカルトは端的に、思惟=存在(我思う、故に我あり)を出発点と定めたものの、そこから諸々の具体的な事物・事象にまで筋を通し切る(ヘーゲル流にいえば、概念的に把握する)ことはできませんでした。デカルトを継承して、思惟=存在としての神を唯一の普遍的実体として根底においたスピノザもまた、個々の具体的な事物・事象にまで筋を通して説明しきることはできなかったのでした。一方、ロックは、個としての認識にこだわり、経験(感覚レベルの反映)にしか真理(思惟=存在)を認められなくなってしまいました。スピノザとロックのそれぞれ対立しつつ、両者を結合しようとしたのが、ライプニッツです。ライプニッツは、思惟=存在という性格を備えた単子(スピノザにおける神を粉々に打ち砕いて、それぞれ絶対的に独立した個体としたようなもの)を、無数にバラまいて世界全体を充たしてしまうことで、世界全体を思惟=存在として説明しようとしました。しかし、単子どうしの関係をどう説明するかという難問にぶち当たって、結局、神とか予定調和ということに逃げ込むしかなくなってしまったのです。

 ヘーゲルは、ライプニッツ以降カントまでを移行期(思惟の凋落の時代)と位置づけ、この時代の哲学を、一般的な通俗哲学として特徴づけています。デカルト、ロック、ライプニッツらにおいては、思惟と存在との統一という課題に取り組む過程で現われた諸々の矛盾は、神の助力や予定調和などによって作為的に解決されるしかありませんでしたが、移行期においては、健全な人間の悟性(良識)のなかに合理的に納得のいく解決策を見いだそうとする傾向が主となります。ヘーゲルは、18世紀の哲学として、ヒュームやバークリーの懐疑論、スコットランドの哲学、フランスの哲学の3つを取り上げて、それぞれ批判的に検討していましたが、フランスの哲学において、具体的な個人のうちにある信念の自由、良心の自由が旗印として高く掲げられるようになり、人間が自己自身を無限者としてみるようになったことを、偉大な進歩として強調していたのでした。

 ヘーゲルは、ルソーによって絶対的な原理として掲げられた自由が、カントによって理論的な面に重点をおいて打ち立てられた、とします。カントは、「ア・プリオリな総合判断は可能か」という問題を立て、原因と結果というような規定は経験によって与えられるものではなく、自己意識のうちにもともとあるのだ、と主張しようとしました。しかし、カントは思惟(主観)と存在(客観)との間に絶対的な壁を設けてしまったために、両者の統一が不可能になってしまいました。カントがいくら思惟と存在の統一を主張しても、それは主観的にはそう見えるということでしかなく、物自体(存在)が実際のところどうなっているかは我々にはつかみようがない、という見解にとどまるしかなかったのです。これに対して、自我を絶対的な原理とし、宇宙の全内容をこの自我から演繹的に叙述しようとしたのがフィヒテです。しかしながらフィヒテは、主観(自我)の側から客観の側への道を充分には明らかにすることができませんでした。

 これに対して、シェリングは、ヤコービの直接知(叡智的直観)を援用しつつ、主観的なものと客観的なものの統一を強く押し出します。これが神であり、主観的なものと客観的なものとの具体的な統一として、生き生きとした運動をうちに含むものとされるのです。要するに、シェリングは、神(主観=客観)を生き生きとした運動として把握することで、絶対者の自己運動による世界(あらゆる具体的なもの)の創造という把握に向かって大きく前進したのです。ヘーゲルはこのことを高く評価しつつも、主観的なものと客観的なものとの無差別ということ(理性の概念)が絶対的に前提とされるだけで、これが真理であるという証明が全くなされていない、と批判していました。

 ヘーゲルは、シェリングの哲学に対して、絶対者の把握はあくまでも思惟的考察によってなされるべきだという主張を対置します。思惟=存在たる神(絶対精神)が自己運動して世界の全てが生み出されていくこと、それが個として人間の精神にしっかりと(直接に)つながっていることを概念的に(思惟的考察を通じて)把握してこそ、ヘーゲルのいわゆる哲学は完成することになるのです。
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 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
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 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言