2017年05月07日

ヘーゲル『哲学史』を読む(9/13)

(9)近代哲学の黎明、デカルトからライプニッツまで――思惟と存在との対立を形而上学的に統一する試み

 本稿は、2015〜2016年の2年間、ヘーゲル『哲学史』の内容に関わってなされた要約、例会への報告、例会で提示された論点をめぐってなされた討論などをしっかりと振り返りつつ、ひとつの流れをもった論稿にまとめなおすことをめざしたものです。前回までの3回にわたっては、ヘーゲルのいわゆるギリシャ哲学の第2期、第3期、および、ギリシャ哲学とゲルマン哲学(近代哲学)との中間に位置付けられた中世の哲学について概観してきたところでした。

 ヘーゲルは、古代哲学が到達した原理は現実の自己意識であった、と述べています。これは一体どういうことでしょうか。ギリシャのポリス共同体が崩壊して、人間が個としての自覚を強めていくと(客観的世界から分離した自己=主観に目覚めていくと)、自分自身がこの世界のなかで如何に生きていくべきかは自分自身で決めなければならなくなってきます。これが現実の自己意識ということです。ここで大きく浮上してくるのが、自己(思惟)と世界(存在)との関係をどう捉えるか、という課題にほかなりません。この課題をめぐる試行錯誤のなかから、自己と世界の絶対的本質(一者)との同一性を直観的に把握するに至った新プラトン派こそが、古代哲学の到達点であったわけです。キリスト教もまた、人間(自己意識)と神(世界の絶対的本質)との同一性の自覚にもとづくものでした。しかし、中世ヨーロッパにおいては、カトリック教会の絶対的権威が個々の具体的な人間を抑圧する形をとって発展していきました。自己意識(思惟)と存在(世界)という対立構図は大きく歪められて、「神の国」と「地上の国」という対立構図が描かれ、自然(外的な自然と人間の自然=本性)は後者に属する価値の低いもので克服されるべきものだと捉えられたのです。現実の自己意識はまったく抑圧されてしまったのでした。

 こうした中世的なあり方を否定して、現実の自己意識を改めて出発点として定め直して、思惟と存在という対立構図を明確に復活させた上で、これを克服しようと向かっていったのが、近代哲学の歩みにほかなりません。思惟と存在との対立を克服するというのは、思惟と存在との同一性を把握するということ、すなわち、自己が世界全体をほかならぬ自己自身として把握できるようにすること(自己=世界という関係を概念的に把握すること)であり、分かりやすくいうならば、世界のあらゆる事物事象を自分自身のことであるかのようによく分かること、です。

 ところで、思惟と存在とを一致させるためには、思惟から出発して存在も結局は思惟に解消されるのだ(世界の正体は思惟であり、存在は思惟が姿を変えたものだ)とするか、あるいは、存在から出発して思惟も結局は存在に解消されるのだ(世界の正体は存在であり、思惟は存在が姿を変えたものだ)とするか、2つの道がありえます。対立する2つがあるから両者を一致させるための道も2つある、ということに論理的にはなるのであって、実際の哲学史の歩みもその2つの道に分かれていきます。

 ヘーゲルは、近代哲学の黎明期を、存在と思惟の統一が独自の試案として具体性のない形式で予告される時期として特徴づけた上で、この時期を対照的な形で代表する2人の人物として、イングランドの政府高官であったベーコンと、ドイツの靴屋の親方であったベーメについて論じています。ベーコンについては、帰納法(経験を認識の唯一の源泉と見なし、経験に基づいて思惟を秩序だてる方法)を導入したことが注目される一方、経験を重視するあまり、推論や概念を全否定して、経験のみで事柄を純粋に取り出せるかのように考えてしまったことが批判されていました。ベーメについては、絶対的存在としての神が自己自身を分割していく対立物の統一体としてイメージされ、存在する一切のものはこの分割から流出すると捉えられていたことが高く評価される一方、彼が概念を欠いていたために、非常に強引で支離滅裂な記述しかできなかったことも指摘されていました。

 近代哲学の黎明期に続く時期を、ヘーゲルは思惟と存在との対立を形而上学的に(思惟する知性〔悟性〕によって)統一する試みがなされる時代として位置づけています。これは、デカルト以来、近代における哲学らしい哲学が行われるようになった時代のことを指しています(ヘーゲルは、本格的な哲学は新プラントン学派以来のこと、とも述べています)。

 ヘーゲルは、デカルトが思惟を出発点として定めたことについて、哲学を再び本来の土台に据えたものとして、非常に高く評価しています。ヘーゲルによれば、デカルトの有名な命題「我思う、ゆえに我あり」の最も重要なポイントは、思惟と存在との不可分の結合(直接のつながり)です。「我思う」は直接に私の存在を含んでおり、これが全ての哲学の絶対的基礎だと主張されたことを、ヘーゲルは高く評価しているのです。思惟=存在、ともかく存在しているものとしての思惟が出発点に据えられることが重要です。しかし、その思惟は非常に抽象的で単純なものでしかなく、自ら展開して具体的な内容を次々と産み出していく、というようなものにはなっていませんでした。思惟はあくまでも抽象的なものにとどまって、具体的な内容は、経験、観察などを通じて、外部から思惟のなかに持ち込まれるしかなかったのです。デカルトは、思惟(精神)と延長(物体)という2つの実体を認め、両者の関係をどう考えるかで苦労することになりました。デカルトの哲学を継承しつつ、その二元論を一元論へと止揚しようとしたのが、スピノザです。スピノザは神のみが唯一の実体であり、思惟と延長というのはその唯一の実体たる神の2つの属性にほかならない、とすることで、一元論を打ち立てようとしたのです。しかし、ヘーゲルは、唯一の実体からこの2つの属性がどのようにして生じるのか、そもそもなぜこの2つなのか、という問題については、スピノザは何の説明もしていない、と指摘しています。

 デカルトやスピノザは、現象的な姿の背後にある実体レベルのものをまっすぐに追究していき、思惟(精神)と存在(物質)という問題につきあたって、神を持ち出すことで両者を何とか統一しようと試みました。これに対して、思惟(精神)と存在(物質)との関係という問題を、あくまでも個別的な人間の経験の問題として考えよ抜こうとしたのがロックでした。ロックは、思惟と存在との区別にこだわり、我々の外にある感覚的な対象こそが真実の存在である、と主張しました。経験によって形成された単純な観念のそれぞれを真理だとして済ませてしまうロックに対して、ヘーゲルは、根源的な存在としての絶対精神から全世界のあらゆる事物事象にまで(それら全てについて絶対精神それ自身が姿を変えたものとして)体系的に筋を通して把握しきってこそ真理が現出するのだ、と主張します。ヘーゲルのいわゆる「真理そのもの」とは学問体系のことにほかならず、そのような立場からみれば、ロックにおいては個々の知識(具体的経験から析出された一般概念)がバラバラのまま放置されているだけで、およそ弁証的ではない、ということになるのです。一方で、ヘーゲルは、魂は白紙である、というロックの主張について、「生得観念」の本来の意味を明らかにする上で重要な指摘を含んでいる、という積極的な評価を与えてもいます。ヘーゲルによれば、生得観念とは本来、思惟の本性にもともと存在する本質的な要素のことであり、いまだ実在しない萌芽的性質のことをいいます。真理が思惟の本性にもともと含まれている、などということはそう簡単に証明できるものではない――それこそ「概念の労苦」を通じた学問体系の構築過程が必要――にもかかわらず、あまりにも簡単に、生得観念なるものはあるのだ(人間は生まれつき真理を把握しているのだ)、ということが主張されてきた状況に対して、ロックの白紙説は重要な一石を投じたのだ、ということです。

 スピノザは、「我思う、ゆえに我あり」(思惟=存在)を出発点と定めたデカルトを継承し、思惟=存在としての神を唯一の普遍的実体として根底においたものの、個々の具体的な事物・事象にまで筋を通して説明しきることはできませんでした。一方、ロックは、個としての認識にこだわり、経験(感覚レベルの反映)にしか真理(思惟=存在)を認められなくなってしまいました。ロックとスピノザとそれぞれ対立しつつ、両者を結合しようとしたのが、ライプニッツです。ライプニッツは、根源的存在としての無数の個体的実体を単子(モナド)と呼び、それぞれの単子(モナド)は宇宙の全体をそれぞれの仕方で表象するものだとしました。個体的な区別の絶対性を主張した点では、ライプニッツはロックを継承するといえますし、感覚的存在ではなく思惟こそが真理であると主張した点では、スピノザを継承するともいえます。ライプニッツは、観念的な存在(宇宙全体を表象する能力をもった叡知的存在)たる無数の単子を根源的存在とすることで、ロックとスピノザを結合したのです。しかしながら、ライプニッツにあっては、宇宙(自己)を表象するという叡智性は、単子という無数の狭い枠のなかに閉じ込められてしまうことになり、宇宙全体としてのつながりは、単子そのものから説明することは不可能となってしまいました。こうした難問を解決するために、ライプニッツは、単子とは全く別のレベル(より根本的なレベル)で改めて神の存在を想定することになり、あらゆる単子は神があらかじめ定めたとおり調和的に展開していくのだ、としてしまいました。こうしたライプニッツの対応について、ヘーゲルは、理解できないもの(概念的に把握しきれないもの)を神に押し付けているだけだ、全ての矛盾を神という名のもとに流し込んでいるだけだ、と厳しく批判しています。
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 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
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 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
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 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
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 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
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 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
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 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
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 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言