2017年05月06日

ヘーゲル『哲学史』を読む(8/13)

(8)中世の哲学――観念世界と現実世界の宥和という課題の登場

 前回は、ヘーゲルのいわゆるギリシャ哲学の第3期(新プラトン派の哲学)について概観しました。新プラトン派は、第2期の終わり、懐疑論によって得られた自己の内部の世界(抽象的で無内容な主観的世界)を、具体的に規定された世界――叡智的世界――として構成しなおそうとしました。新プラトン派は、全ては一者から流出したものであると説明しました。一者とは、あらゆる存在の究極の本質であり、神のことにほかなりません。一者から流出したものは一者とは別のものではなく、やがて方向を転じて一者へと還帰し、一者は自己を直観する、というのです。一者とは思考であり、そこから流出した対象は、結局のところ思考と一致するものである、というのが、新プラトン派の三位一体でした。

 これに対して、キリスト教の三位一体は、父(としての神)と子(としての神)と聖霊(としての神)の三位一体です。父なる神は造物主としての神であり、子なる神はイエス・キリストという人間であり、神と人間との一致が聖霊によって示される、というわけです。新プラトン派の神(一者)は、具体的な姿をもっていませんでしたが、キリスト教の神はハッキリと人間の姿をもっています(正確には逆に、神が自分の姿に似せて人間を創造したのだ、とされるわけですが)。新プラトン派の神は人間の姿をしていませんから、個人としての意識の彼岸にあるとされざるをえませんでした。新プラトン派も神と人間との一致という発想をもってはいますが、それは、人間が個人としての意識を否定して(個としての人間の感性的・具体的なあり方を全否定して)抽象的な一者に没入する、という形で達成されるものでしかありませんでした。これに対して、キリスト教の神は、人間の本来の姿というべきものであり、個人の意識の内部に神が見出されていくことになります。神=人間=聖霊であり、三者は全て精神です。キリスト教においては、現実に生きて生活している具体的な人間をそれ自体として精神とすることで(具体的には個人が内面的良心の領域を確固として持つことで)、神と自己との一致に到達するのです。

 ヘーゲルの歴史観においては、キリスト教の登場によって、歴史の終局的な目標(人間が精神になること)が明確になったのであり、その目標の実現に向けた歩み(人間=精神という原理で社会の隅々までつくりかえていく過程)が新たに始まったのだ、と解されることになります。ヘーゲルにおいては、キリスト教の原理が、人間が絶対者(=神)と本質的に同一であるという直観をもたらしたことが力説された上で、この直観を概念的に把握し直していく過程こそが、哲学の完成に向けた歩みなのである、と位置づけられることになるわけです。

 しかしながら、ヘーゲルは、キリスト教がローマ世界において(あるいはビザンチン世界においても)教会としては支配権を握るに至ったものの、それとは独立したものとして、国家体制や文化などが確固として確立されていたために、キリスト教の原理にもとづいた世界を築くことはできなかった、と指摘します。したがって、キリスト教の原理にもとづいた世界が形成されるためには、キリスト教の原理が、確固とした国家体制や文化をもたない未熟な民族のなかに持ち込まれることが必要だったのであり、その未熟な民族がキリスト教の原理を自分のものとして、新たなキリスト教世界を形成していく過程が必要だったのです。そうしたキリスト教世界の建設の担い手となったのが、ゲルマン民族にほかなりませんでした。

 ヘーゲルは、ゲルマン民族がキリスト教を受け入れて自分のものにしていく過程について、自然(≒主観的精神)と精神(≒絶対的精神)との闘いの過程として描きだしています。未開民族としてのゲルマン民族の素のままのあり方が自然(個々人の粗野な感覚や思い込み)であり、そこに精神がキリスト教の原理として押しつけられたのです。自然は精神に従うことを強制されつつも、やがて、両者の相互浸透が進んで、主観的精神と絶対的精神とが調和した状態が実現されていくことになっていきます。

 ヘーゲルは、ゲルマン民族が精神の自由を獲得するためには、まずは宗教的束縛のもとで奉仕し戦慄すべき規律に耐え抜く必要があった、と指摘します。自由を獲得するために、まずは不自由に耐え抜かなければならなかった、という把握です。ヘーゲルは、これを全体的な枠組みとして押さえた上で、学問の歴史について論じています。スコラ哲学は、ヘーゲルにいわせれば、端的に「不自由な哲学」ということになります。それは、キリスト教の教義によって外から枠をはめられた営みであり、神学と一体になったものでした。ヘーゲルは、スコラ哲学は感覚的世界に関わる経験に無関心であり、叡智的世界を抽象的概念を駆使して説明しようとしたのだ、といいます。こうした試みのなかから、ひとつの命題を立て、次にそれに異議を申し立て、最後に三段論法と区別によってこの異議を否定する、といった一般的な形式が確立されていくことになったのですが、これは具体的な内容を全く欠いた空虚な形式でしかありませんでした。ヘーゲルは、スコラ派に見られるのは、精神として言明された絶対的で無限の真理が、自己を精神的人間として意識しない野蛮人のうちに放り込まれたという情景である、とします。ゲルマン世界においては、生活の全般が2つの部分に分裂し、精神の国と世俗の国が対立していましたが、学問もまた現実的な土台を欠いており、思考を内面的に統一する絆である自我がなかった、というのです。

 しかし、教会が世俗化していくとともに、世俗の権力そのものも精神化されていき、封建制の内部でも、法や市民秩序や自由が次第に現われてくるようになると、学問も目の前の材料を扱うようになっていきます。ヘーゲルは、時代精神がこうした転回点に立って観念世界を放棄し、いまや此岸の世界(現実世界)に目を向けるようになったのだ、といいます。こうして、観念世界と現実世界の宥和という課題が浮上してきます。自然的なもの(世俗的なもの、個人の心の内面も含む)の価値を単純に全否定していたところから、精神と相互浸透した形で(自然的なもののなかにも理性がつらぬかれているのだという形で)、自然的なものの価値が認められるようになっていったわけです。

 このようにして、個人の意志が次第に実力をつけてくると、人間は、外から神の意志を押し付けられるというあり方に反発して、何事も自分で決めて自分で思ったとおりに動こうとするようになっていきます。人間が教会の絶対的権威に対抗して、人間らしさを主張するために依拠したのは、カトリック教会の絶対的権威が確立される以前の、ギリシャおよびローマの古典でした。人間がまだ幼く、絶対的権威というものを明確には意識できなかった段階のあり方を、絶対的権威への対抗のために利用したわけです。これは一見すると幼児期への後退のようでありながら、教会の絶対的権威への対抗のために、自分が思うように行動できるようにするために、という目的意識をもって選択された行為だという点で、自由の実現に向けた大きな前進であったということができます。

 カトリック教会においては、人間的なもの(結婚、労働、所有など)と神的なものとが分裂させられ、前者はそれ自体としては価値の低いものであるとみなされていました。啓示的真理は教会が独占するものであり、精神の救済はあくまでも教会(司祭)によって媒介されなければならなかったのです。これに対してルターは、一人ひとりの個人がそれ自体として神聖な存在なのであり、個人の内面的良心が直接に神につながっているのだ、と主張しました。このことについてヘーゲルは、人間が彼岸の権威から解放されて自分自身に返ってきた、精神が自分自身との宥和を意識し、宥和が精神のうちで実現されねばならないことを自覚できるようになった、と表現します。こうして、善悪の規準が、外的に存在する教会の絶対的権威ではなく、各個人の内面的良心の領域に求められるようになったことで、結婚や労働や所有といった人間的な生活のあり方が、それ自体として肯定されるようになりました。自己の内面的良心に従って行動するということこそが、ヘーゲルのいわゆる自由(=自らに由る)ということであり、主体的ということにほかなりません。ヘーゲルは、こうした自由が成り立つためには、人間は自分の所有する言葉で安心して話したり考えたりすることができなければならない、と強調して、ルターが聖書をドイツ語に翻訳したことの重大な意義を示唆してもいます。

 以上、今回は、ギリシャ哲学とゲルマン哲学(近代哲学)の中間に位置する中世の哲学について概観しました。キリスト教は本来、人間(自己意識)と神(世界の絶対的本質)との同一性の自覚にもとづくものであったはずですが、教会の絶対的権威が個々の具体的な人間を抑圧する形をとって発展していきました。自己意識(思惟)と存在(世界)という対立構図は大きく歪められて、「神の国」(観念世界)と「地上の国」(現実世界)という対立構図が描かれ、自然(外的な自然と人間の自然=本性)は後者に属する価値の低いもので克服されるべきものだと捉えられたのです。こうした中世的なあり方を否定して、現実の自己意識を改めて出発点として定め直して、思惟と存在という対立構図を明確に復活させた上で、これを克服しようと向かっていったのが、近代哲学の歩みにほかなりません。
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 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言