2017年03月11日

一会員による『学城』第14号の感想(2/14)

(2)「発展の論理構造」は「弁証法の構造」である

 今回から、『学城』第14号に掲載されている各論文について、順次その感想を述べていきたい。

 初めに取り上げるのは、第13号に掲載された本田克也先生の遺伝子の体系性、重層構造に関わっての論文をP江千史先生が解説される論文である。ここでは、人類の遺伝子はどのようなものか、それはどのように変化していくのかが説かれていく。

 まずは以下に、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。

P江千史
「南郷継正講義」遺伝子の体系性から生命の世界の
発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く」
から発展の論理構造を学ぶ

 《目 次》
(T)はじめに
(U)生命体にとっての遺伝子とは何か
 (1) 講義録 人類の遺伝子は重層構造を把持している
 (2) 遺伝子とは何か
 (3) 生命体に遺伝子はなぜ必要か
 (4) 遺伝子は外界は勿論自らの内界そのものの情報をも吸収して変化する
 (5) 遺伝子は変化しないとする定説「セントラル・ドグマ」
 (6) 定説に対する新たな「動く遺伝子」説
 (7) 遺伝子と進化論の関わり
 (8) 遺伝子が変化することは「生命の歴史」が証明している
(V)人類の遺伝子は構造的体系性を把持した重層構造となっている
 (1) 遺伝子の歴史的発展過程
 (2) 遺伝子の構造的体系性を把持した重層構造とは
 (3) ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」
 (4) ヘッケルの遺伝子「終端付加の原理」の誤りを正す
(W)認識の変化が遺伝子の構造を変化させる
 (1) 人間の脳の機能としての認識=像の形成
 (2) 認識論から説く「思う」と「考える」の違い
 (3) 「考える」によって複雑化・重層化する遺伝子の中身
 (4) 認識を形成する脳の機能と実体との関係
 (5) 「生命の歴史」に見る脳の遺伝子の変化
(X)おわりに

 本論文では、南郷先生の講義が新たな弁証法の歴史を切り拓いたものであるとはどういうことかを明らかにし、この新たな弁証法の構造をしっかりと学びたいという決意がまずは述べられる。その上で、「人類の遺伝子は、構造的体系性を把持した重層構造というものになっている」という大事な中身が確認され、遺伝子=DNAではないということが強調される。さらに、生命体が自らを自らとして維持し、次世代へ伝えていくしくみとして、設計図レベルでその役割を担っていたものが遺伝子であること、遺伝子は従来考えられていたように不変のものではなく、変化してはならない構造と新たな情報を吸収して変化しなければならない構造の二重構造を持つものであることが説かれていく。ここから「人類の遺伝子は、構造的体系性を把持した重層構造というものになっている」の内容が説かれていく。まず、前の生命体の設計図の上に次の生命体の設計図がなぞるように上書きされること、また単細胞体×海綿体……という立体的重層構造が大切であると説かれる。そして、発展の論理構造が構造的体系性を把持した重層構造を持つものであることを理解しなければならないと述べられる。ここから議論はヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」、すなわち遺伝子「終端付加の原理」の批判へと移っていく。端的には、ヘッケルが前段階の生命体の遺伝子に新たな遺伝子が「+(プラス)」されると考えたことが誤りで、「前段階の遺伝子×(掛ける)新たな遺伝子」というように構造的体系性を把持しての立体的重層構造を有したものと把握しなければならなかったということである。論の展開はここからさらに、認識の変化が遺伝子の構造を変化させるということに関わっていく。このことに関わって、まずは認識とは何か、人間の脳とは何かが確認され、「思う」と「考える」の違いが説かれる。すなわち、「思う」は頭脳の中の認識を取り出して使うことであり、その像は過去、現在の像であるが、「考える」は思い描いている像を筋道を立てて何とか動かした未来的像だというのである。そして「考える」という労苦を続けていくことで遺伝子が複雑化・重層化してくるというのである。最後に結論として、変化し続ける外界に適応して、自らを維持していくために、変化の情報を吸収し、自らを変化させる設計図を創り直し続けているのが遺伝子であることが説かれるのである。

 本論文に関してまず述べておく必要があることは、『学城』第14号を貫くテーマとして設定した「発展の論理構造」というものは、「新たな弁証法の構造」(p.9)のことを意味しているということである。p.19には「唯物論を把持した弁証法の新たな構造、すなわち生成発展の論理構造」という文言もある。これはどういうことかというと、簡単には、弁証法は世界の全ての事物・事象に関わっての生成発展に関する学問であるということである。では、ここに「新たな」と付加されているのはどういうことか。それは、南郷継正先生による「遺伝子の体系性から生命の世界の発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く」という講義によって、弁証法の新たな歴史が切り拓かれたのであって、その新たな弁証法の構造をしっかりと学び取る必要があるということである。南郷先生はこの講義で、「遺伝子の構造的体系性を把持した重層構造」(p.23)に焦点を当てて説いておられるのだが、これは「一般性としての発展の論理構造」(同上)をも学べる中身を持っているということである。言葉を変えていえば、生命の歴史に発展の論理構造を学ぶ、生命の歴史から弁証法を学ぶ、ということによって、どんな事物・事象であってもその発展の論理構造を捉えることができるということである。

 では、「遺伝子の構造的体系性を把持した重層構造」とはどのようなものであろうか。ここを理解するために、P江先生は南郷先生の講義録から以下の2つの部分を引用しておられる。

「歴史を経るにつれて、(遺伝子の)その単細胞的紋様の設計図の上に海綿的設計図がなぞるようにして上書きされていくようになる」(p.20)

「結果としてのこの遺伝子を歴史的に分析すれば、単細胞体×海綿体……×哺乳類体×猿類体としての壮大かつ華麗なる体系性的構造を把持しての立体的重層構造となる」(同上)

 そして、この中で重要なのは、「上書き」という文言と「×(掛ける)」という文言であると説かれる。「上書き」に関しては、パソコンの文章作成ソフトでの「上書き」保存や、板敷きを何枚にも重ね合せたり板に何重ものペンキを上塗りしたりするイメージで説明しておられる。また「×(掛ける)」については、単に「+(足す)」という量的な変化ではなくて、質的な変化を伴うものだと説明されている。そして結論的には、「体系的に発展するということは、前段階の内実を自己の内に持たなければならないが、しかしそれはそのままに取り入れればよいというものではなくて、それを取り入れながらしっかりと自己化し、かつ変化させる実力を有することによって、前段階とは違った段階へと自らを変えていくということ」(p.22)だと説かれている。こうした「発展の論理構造」に関するイメージはしっかりと創っておく必要があると感じた。

 ここで筆者の専門分野である言語に関わって、少しだけ触れておきたい問題がある。それは、人間が幼少期に言語の知識を獲得していくに際して、周りの人間が話している日常の言葉以上の豊富で複雑な言葉を理解したり話したりできるようになるのは何故かという問題である。この問題の本格的な解答については、科学的な認識論(像論)をしっかりと踏まえて行う必要があると思うが、少なくとも、上記の「発展の論理構造」、特に「×(掛ける)」ということはどのような中身を持っているのかをヒントにすれば、筋を通した解答ができるのではないか。また、「単細胞体でしかなかった場合の設計図であった遺伝子の構造は、海綿体の誕生(進化)によって、単細胞体の遺伝子がより簡略化していき、その分海綿体の遺伝子の重要部分がより見事な重層構造化を果たしていく」(同上)という部分などを考察していくことも大きな手掛かりとなりそうである。このような検討を重ねていけば、生成文法でいわれている、複雑な言語知識を獲得可能にしている「言語機能」なる「心的器官」の存在に問題の解決を委ねてしまうような、観念論的・形而上学的把握に陥ることはなくなるであろう。
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2017年03月10日

一会員による『学城』第14号の感想(1/14)

《目 次》(予定)

(1)「発展の論理構造」が『学城』第14号の全体を貫くキーワードである
(2)「発展の論理構造」は「弁証法の構造」である
(3)発展のためには基礎をおろそかにしてはならない
(4)対象を弁証法的に捉える、対象と弁証法的に関わるとは如何なることか
(5)「発展の論理構造」は生命の歴史を媒介とする必要がある
(6)発展は前段階を実力と化すことによって可能となる
(7)部分を全体に位置づけることが認識の発展につながっていく
(8)実力向上のための学びには順序がある
(9)生命の歴史の論理と人類の系統発生の歴史の論理が発展のための契機である
(10)発展のためにはそれぞれの専門分野の原点を歴史的に辿る必要がある
(11)「素直さ」=「否定の否定」は発展のために必須である
(12)「いのちの歴史」から「発展の論理構造」の具体を学ぶ
(13)「発展の論理構造」を自分のこととして把握する必要がある
(14)「発展の論理構造」を文字として捉えるのではなく、像として主体的に描いていく必要がある


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(1)「発展の論理構造」が『学城』第14号の全体を貫くキーワードである

 2016年12月17日、遂に『学城』第14号が発刊された。

 前号、前々号は2号とも2015年に発刊されたため、今後もこのペースでと期待していたのだが、14号については、何とか2016年中に世に出たといったところであった。しかし待ちに待った分、また前号から1年以上経っている分、とても楽しみに読んでいくことができたし、内容が非常に濃いものになっていて、非常に勉強になった思いもある。特に前号の冒頭論文である、本田克也「「南郷継正講義」 遺伝子の体系性から生命の世界の発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く(1)」に関しては、非常に難解であったとの思いがあったのであるが、14号においては2つの論文においてこれが取り上げられていて解説されているのである。これらの解説をもとにして、改めて前号の論文を読み込んでいくことで、大きく認識を発展させていきたいと思っているところである。

 さて、今回も第14号全体に貫かれているであろうテーマを設定し、そのテーマを中心に据えて、各論文の感想を認めていきたいと思う。今回の第14号では、各論文において「発展の論理構造」が説かれているのではないか、これが筆者の読後感である。なぜそのように感じたのか。各論文の中身については次回以降、詳細に見ていくとして、ここではいつものように、「巻頭言」と「編集後記」の文言を見ておくことにしよう。まずは「巻頭言」である。

 「巻頭言」では、学問を体系化するための実力養成の土台として、弁証法的な論理能力を培う必要があるとした上で、本物の学的弁証法の実力の起源として、アリストテレスに着目されていくのである。「当時のアリストテレスの頭脳は事実レベルの反映像の並列的・経過的形成から、ようやくにしてそれらを一体化し始めるべき表象レベルの像形成へと二重化しかかる途上」(p.1)であったのであり、「学的将来として描かれるべき論理的な像へとしての出発点としての像を、描き始めていく途上」(同上)だったと説かれている。そして、そうした像を何とか表現しようとして、「ト・ティ・エーン・エイナイ」という言葉を生み出したというのである。これがアリストテレス弁証法の原基形態となり、学的弁証法の歴史的原基形態なのだと説かれているのである。

 ここで確認しておくべきことは、ある物事がどのようなものであるのかをしっかりと押さえるためには、その原点から、どのような発展を遂げた結果として、現在のあり方があるのかを把握する必要があるということである。このことは当然、弁証法についても当てはまるのであって、その原点からの発展の第一歩がこの「巻頭言」で説かれているということである。この原点からの第一歩という過程が、発展の論理構造を問う場合にはもっとも難しい部分であって、生命の歴史でいえば、生命現象が如何にして自分自身の体を持った単細胞生命体に発展したのかを説くことに等しい論理構造が、弁証法に関してこの「巻頭言」で説かれているのではないかと感じたのである。

 では「編集後記」に関してはどうか。ここでは以下のように説かれている。

「この生命の歴史を再措定的に学び直す中で強く考えさせられたことは、生命の歴史構築の過程で明らかとなってきた、森羅万象として現象してきている万物の生生・生成発展の重層構造の論理性ということである。万物の生生・生成発展してきた体系性としての流れを一般性的過程として把握しつつ、その一般性を論理的に押さえつつ、いかに生生・生成が体系的であったか、というところから見つめ直し、辿り返していく、生生・生成していくにもどれほどの体系的過程性が必要だったのかを説く努力をし続けていくことの重要性を、以前にも増して感じるようになってきた。この頭脳活動の営為なしには、社会の歴史へも、そして精神の歴史へも究明の道程が視えてこない筈である。」(p.191)

 ここでは、生命の歴史から発展の論理構造を学び直していく作業を続けていくことで、その発展の論理構造には重層構造があり体系性があるということが次第次第に分かってきて、その重層構造や体系性をこそしっかりと説き続けていくことが論理能力を向上させるためには必須であり、また自然の歴史から社会の歴史、精神の歴史を究明していく大本の実力ともなるということが説かれている。つまり端的には、「巻頭言」で説かれている弁証法の原基形態、そこからの発展の論理構造を把握するためには、やはりまずは生命の歴史の発展の論理構造にしっかりと学び続けていく必要があるということである。こうした過程を経てこそ、真の弁証法を自分のものとすることが可能となっていくのであって、さらに自らの頭脳活動の実力を「発展の論理構造」に沿った形で向上させていくことが可能となっていくのである。

 以上を踏まえて、本稿では次回以降、14号に掲載されている12本の論文を順次読んでいき、特に「発展の論理構造」とはどのようなものかを把握することを目的として、その感想を認めていくことにしたい。その際、発展の「重層構造」、「体系的過程性」ということに着目して、発展の内実を深く捉えていきたいと思う。

 では最後に、『学城』第14号の全体の目次を以下にお示しする。

学 城 (学問への道)  第14号


◎ 南郷継正   巻頭言 ― 「アリストテレス弁証法」 の起源を解く

◎ 瀬江千史   「〔南郷継正講義〕 遺伝子の体系性から生命の世界の発展性の帰結たる人間の遺伝子の重層構造を説く」 から発展の論理構造を学ぶ

◎ 北條翔鷹   実戦部隊飛翔隊修業の総括小論 (4)
           ― 1983年〜1988年3月の実戦部隊飛翔隊合宿修業小論

◎ 神庭純子   現代看護教育に求められるもの (3)
           ― 弁証法・認識論から説くナイチンゲール看護論

◎ 悠季真理   哲学・論理学研究余滴 (5)

◎ 北嶋  淳   人間一般から説く障害児教育とは何か (8)
  志垣  司   ― 障害児教育の科学的な実践理論を問う

◎ 瀬江千史   「医学原論」 講義 (12)
           ― 時代が求める医学の復権

◎ 瀬江千史   新・医学教育 概論 (3)
  本田克也   ― 医学生・看護学生に学び方を語る
  小田康友
  菅野幸子

◎ 聖  瞳子   医療における理論的実践とは何か
  高遠雅志   ― 初期研修医に症例の見方、考え方の筋道を
  九條  静   説く
  北條  亮   〈 第6回 〉 マイコプラズマ肺炎2

◎ 本田克也   法医学への入門 (3)
  矢野志津枝  ― 医学生のための法医学原論
  小田康友
  菅野幸子

◎ 朝霧華刃   唯物論の歴史を学ぶ (2)

◎ 橘  美伽   武道空手上達のための人間体を創る 「食事」 とは何か (3)
           ― 遺伝子としての食事を考える

◎ 南郷継正   武道哲学講義 〔11〕
           ― 学問とはいわば世界地図を描くことである (2008年冬期ゼミ講義詳説)

◎ 悠季真理   編集後記
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2017年03月09日

システムズアプローチを弁証法から説く(5/5)

(5)システムズアプローチは弁証法性を踏まえている

 本稿は,天才セラピストと称されている東豊が採用しているシステムズアプローチを俎上に載せ,なぜこの方法でセラピーが奏効するのかを,弁証法の観点から説いていく論考でした。システムズアプローチとは,「システムを念頭に置いた心理・社会的援助の総称」(東豊『セラピスト入門』p.5)のことであり,部分はシステムのあり方に規定され,システムのあり方は部分に規定されているという特徴を活かして介入するセラピーでした。ここで,これまでの流れを振り返っておきたいと思います。

 はじめに,システムズアプローチの前提となっているものの見方考え方について検討しました。それは,円環的思考法と呼ばれており,一方通行の直線的思考法とは違い,「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。」などと考える考え方,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方をする考え方のことでした。このような円環的思考法は,物事を矛盾として,対立物の統一として捉える見方であり,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。システムズアプローチでは,このような対象の弁証法性を的確に捉えられるような見方が採用されているからこそ,対象をきちんととらえられ,その対象に適切に働きかけていくことが可能となっているのだと説きました。もう一つ,コンテンツ(内容)よりもコンテクスト(前後関係,文脈)を重視するというシステムズアプローチの見方も検討しました。これは,コンテンツに囚われることなく,コンテクストに目を向け,悪循環のパターン(コミュニケーションの連鎖)を見出そうとするものの見方のことです。これは,システムの部分同士や部分と全体のつながりを見ようとする見方であり,全体を踏まえることによって部分だけを見ていたのでは見えてこなかった対立する性質を浮き彫りにする見方でもあるという意味で,非常に弁証法的な見方といってよいのでした。このように,システムズアプローチが奏効する背景には,弁証法的なものの見方があるのでした。

 次に,システムズアプローチの代表的・典型的技法の一つである「ジョイニング」を取り上げて,これを弁証法の観点から説きました。ジョイニングとはお仲間に入れていただくということであり,システムに参加する,とけ込むことを意味していました。東豊は,ジョイニングがすべてであり,ジョイニングができないと,他の指導は無意味になるし,ジョイニングのセンスがないと援助者にはなれないと断言するほど,ジョイニングを重視しているのでした。では,どのような操作をすればジョイニングができるのでしょうか。東豊は,ジョイニングを実現するためには,相手のムードや雰囲気,動き,話の内容,ルールに合わせなければならないと説いていました。これらは要するに,言語表現・非言語表現を媒介として,当該のシステムの諸々の社会的認識を見極め,セラピスト自身もその社会的認識を有しているものとしてふるまうことであるといえると説きました。セラピストは,当該システムの多様性・変化性を見抜き,それに合わせてこちらも変化していくという弁証法的な運動・変化が求められるのでした。一般に,ある対象をコントロールしたり思い通りに変化させたりしたい場合,まずはその対象の性質を見抜き,それに合わせてこちらが動いていくことが必要となりますが,システムズアプローチで家族システムを扱う場合も,論理的には全く同様のことがいえるのでした。すなわち,セラピストは,何か悪循環に陥っている家族システムをコントロールし,思い通りに変化させたいわけですが,そのためには,それぞれの家族システムの性質=社会的認識をしっかりと見極め,それに合わせてこちらが動いていく必要があるのでした。ジョイニングがそのまま変化に向けた介入になりうるということを,事例を通して検討したあと,「問題」と思われるようなものでも,システムズアプローチにおいてはそれも「資源」であるととらえて,活用していくという点,および,ジョイニングに際しては,一方に肩入れしないように,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するようなポジショニングを常に意識する必要があるという,ジョイニングに関わるあと2つの弁証法的側面にも触れました。

 最後に,もう一つの代表的・典型的技法である「リフレーミング」を取り上げて,これを弁証法の観点から論じました。「フレーム」(frame:枠あるいは枠組み)とは,物事の受け止め方,意味づけの仕方のことであり,リフレーミングとはクライエントがすでに所持しているフレームを変える作業であり,面接のゴールに至る第一歩であるとされていました。リフレーミングの中でもよく知られているものに,ポジティブ・リフレーミング(positive reframing:肯定的意味づけ)があり,これは否定的に見えることの中に肯定的側面を発見することであると東豊の本では説かれていたのでした。まず,「母親が口うるさいせいで,子どもが反抗的になった」というフレームを,「子どもが反抗的なせいで,母親が口うるさくなった」とリフレーミングしたり,「夫が家事を何もしないせいで,妻がすべてをやらないといけない」というフレームを,「妻が全部やってしまうせいで,夫は何もしない」とリフレーミングしたりする単純なリフレーミングについて,弁証法の観点から考察しました。これらはすべて,現実のもつ二面性,すなわち矛盾をそれなりに捉えたものであり,これらのリフレーミングが可能な現実的な根拠は,現実のもつ弁証法性にあると指摘しました。弁証法の教科書である『弁証法はどういう科学か』にも,「因果関係の構造」として,原因と結果には直接の統一があることや結果の内部にも原因があることが指摘されていると紹介しました。問題は役に立っているので解決すべきではないとリフレーミングするようなポジティブ・リフレーミングについても検討しました。二つの事例を紹介し,そこでは,問題とされている症状は,対立する性格(=システム内の他の問題を解決する機能)も有していて,弁証法的な存在であるがゆえに,ポジティブ・リフレーミングによって,180度異なった見方をすることが可能になったのだと説きました。また,人間の認識は,受動的であると同時に能動的であるという矛盾した存在であるから,見たいようにものごとを見る傾向があるのであり,ポジティブ・リフレーミングはこのような認識の弁証法性を活用した方法であるとも指摘しました。

 以上要するに,システムズアプローチが前提としているものの見方は非常に弁証法的であり,システムズアプローチが用いる代表的・典型的技法であるジョイニングやリフレーミングも,現実の弁証法性を踏まえたものになっているということです。弁証法的なものの見方が前提となっているために,現実の運動・変化やつながりを的確に捉えることができ,技法が弁証法性を踏まえているために,現実の弁証法性に見合った形で介入でき,思い通りに変化させることができるのだということです。東豊のセラピーが「天才的」と称されるのも,システムズアプローチという方法論を採ることによって,無意識的にではあれ,弁証法的な見立てと介入を行っているからこそ,ということもいえるでしょう。弁証法の教科書には,「現実の世界が弁証法的な性格を持っているのですから,現実ととりくんでそのありかたを正しくつかんだ著述には,多かれ少なかれ弁証法が顔をのぞかせています」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.244)と説かれていますが,システムズアプローチはその非常に典型的な実例だといってもいいでしょう。

 東豊は,非常に教育熱心なことでも知られています。大学院生に対する指導の一端は東豊『セラピスト誕生』などにも描かれていますが,そこで描かれているように,ロールプレイによる徹底した指導によって,院生はシステムズアプローチを学ぶと直接に,それとは自覚せずに,弁証法をも習得していくのだといえるでしょう。たとえば,物事をつながりで見ること,物事の両面性,矛盾を見ること,相手の変化性に合わせてこちらも変化すること,問いかけを変えればものの見方が変わることなどを,システムズアプローチと直接に,学んでいくのです。そうすることによって,弁証法の基本がある程度身につき,その弁証法の実力でもってセラピーを行うからこそ,面接上手になっていくのだと考えられます。

 リフレーミングのところで紹介したように,問題を問題として捉えずに,かえってそれが役に立っているのであるから,その問題を解消しようとすべきではない,とするリフレーミングは,別の角度から見ると,「逆説的介入(パラドックスの技法)」などと呼ばれることもあります。問題を解決しに来ているクライエントに,問題は解決すべきではないと教示して,それによって,実は問題の解決を図ろうとしているからこそ「逆説(パラドックス)」なのです。これも弁証法的に捉えれば,回り道によって問題解決を図ろうとしているわけであり,「否定の否定の法則」を使ったものだということもできるでしょう。

 また,システムズアプローチでは,家族システムにセラピストがジョイニングして,セラピストをも構成員として加えた「治療システム」の中でセラピストが介入し,従来の相互作用とは違った相互作用をもたらすようにします。すなわち,何らかの悪循環を好循環に変えるわけです。そうして,セラピストが抜けた家族システムにおいても,その好循環が維持するようにするのです。これは弁証法的に捉え返せば,家族システムと治療システムの相互浸透といえるのであり,治療システムの好循環が家族システムに浸透していくことを狙うのがセラピーである,ということがいえるでしょう。

 このように,連載2〜4回で見た以外にも,システムズアプローチは弁証法的な発想がちりばめられており,弁証法的な介入を行って成果を上げているといえるのです。

 本稿では,東豊が何故天才と称されるのかという問題意識のもと,彼が採用しているシステムズアプローチの優れた側面に焦点を当てて,これまで論じてきました。それでは,システムズアプローチを学べば,弁証法もしっかり勉強できて,面接上手になっていうことなしなのかというと,そういうわけでもありません。システムズアプローチには,大きな落とし穴があると筆者は考えています。詳細はまた別の機会に説きたいと思いますが,以下で簡単に触れておきます。

 結論から言いますと,システムズアプローチは観念論的な世界観に立っている点が大きな欠陥だといえます。観念論に陥ってしまっているのは,システムズアプローチが「社会構成主義」に依拠しているからです。東豊は次のように説いています。

「いかに真実のようにみえても,それはひとつのフレームに過ぎない。そして,多くの人が同じフレームを心に描いて言葉にすることで,社会的に存在感をもつフレームができあがる。社会構成主義ですね。だから,リフレーミングとは,脱構築,あるいは物語の書き換えのための作業であるといってもいいのです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』p.95)


 ここで説かれていることは,真実なんてものは存在せず,社会的な現象はすべてフレーム(受け止め方,意味づけの仕方)によって創られる,ということです。認識が社会を構成するという主張なので,これは観念論ということになります。現実には無限に多様な性質があるから,現実はフレーム次第で異なって認識される,というのであれば唯物論なのですが,そこから行き過ぎて,フレーム次第で現実はいかようにも創られるとしてしまうと,観念論に転落したことになってしまいます。

 ではなぜ観念論ではだめなのでしょうか。このあたりも別稿で詳細に論じたいところではありますが,簡単に説けば,一つには,観念論では,人間の認識は初めから「ある」とされているので,認識の生成発展の必然性が解けなくなってしまうからです。われわれの行う心理臨床は,端的にいえば相手の認識を変えるための働きかけですから,その認識の生成発展の必然性を掴むことがはじめからできないような世界観に立っていては,限界が来るのは論理的に明らかです。

 もう一つ,観念論は宗教と親近性がありますので,宗教の方に流れてしまう可能性が高いのです。実際,東豊は近年,神様やサムシング・グレートなるものに対する信仰を著作で公表しています。そしてセラピストは「他力本願」であるべきだと力説しているのです(東豊『リフレーミングの秘訣』p.46)。論理的には,神様の力を認めれば認めるほど,人間の力を不当に低く見積もることになりますので,セラピストの努力や実力を不当に低く評価したり,最悪の場合,セラピーで相手を力づけるのではなく,相手を無力なものとして扱う可能性すら生まれてくるといえるでしょう。

 システムズアプローチの限界について,もう一つ別の側面を指摘しておくならば,弁証法性を踏まえているとはいえ,文化遺産としての弁証法をしっかりと学んで吸収しているというわけではない点も挙げられます。認識論についても同様のことがいえます。要するに,哲学の遺産である弁証法や認識論といった,人類の文化遺産をしっかりと受け継いで成立したものではないために,運動・変化やつながり,それに人間の認識といったことについて,法則性レベルの把握が弱く,連載第4回の最後にも触れたように,偶然に左右される側面が大きくなってしまうのです。

 では,以上のように観念論に落ち込まずに,しっかりと弁証法的な介入ができるようになるためには,どうすればいいでしょうか。それは,システムズアプローチを学ぶにしても,唯物論的弁証法と科学的認識論の学びを踏まえることです。また,より根本的には,唯物論的弁証法と科学的認識論を心理療法の領域に具体化した新しい理論体系を創っていく必要があるといえるでしょう。それこそ,筆者が目指しているものであり,唯物論的弁証法と科学的認識論をこれまで学んできた臨床心理士である筆者の歴史的な使命であるといます。

 このような使命を全うできるように,これからも弁証法・認識論,および心理療法の研鑽を積んでいくことを決意して,本稿を終えたいと思います。

(了)

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2017年03月08日

システムズアプローチを弁証法から説く(4/5)

(4)リフレーミングの根拠は現実の弁証法性にある

 前回は,システムズアプローチの代表的・典型的技法のひとつであるジョイニングを取り上げ,それを弁証法の観点から考察しました。ジョイニングとは,お仲間にさせていただくことですが,そのためには,当該のシステムの社会的認識の変化性に合わせて,セラピストも弁証法的に変化していく必要があるのであり,そうしてこそ,対象となるシステムを思い通りにコントロールできるのだと説きました。また,ジョイニングには,「問題」も「資源」として捉える対立物の統一的な発想が含まれていること,ジョイニングの際には一方のみに味方せずに,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するような形態を創造しながら,システム全体に合わせていく必要があることにも触れました。

 今回は,システムズアプローチのもう一つの代表的・典型的技法である「リフレーミング」を取り上げて,これを弁証法の観点から論じたいと思います。

 まず,リフレーミングとは何かを説明するために,「フレーム」について説明します。システムズアプローチにおいては,ものごとは諸要素の円環的な相互作用によって成り立っていると考えます。この相互作用をどのように切り取って認識するかによって,ものごとに対する受け止め方,意味づけの仕方は変わります。たとえば,「夫の帰宅が遅いせいで,妻が不満をいう」というのと,「妻が不満をいうせいで,夫の帰宅が遅くなる」というのは,どちらも現実の相互作用の一面をとらえたものであり,両方とも正しいと考えられます。しかし,前者のように切り取れば,夫が悪いことになり,後者のように切り取れば,妻が悪いということになります。このように,現実の切り取り方によって,ものごとの受け止め方,意味づけの仕方は変わるのです。このような受け止め方,意味づけの仕方を総称して,システムズアプローチにおいては「フレーム」(frame:枠あるいは枠組み)と呼ぶのです。

 では,リフレーミングとは何でしょうか。東豊は次のように説明しています。

「前述した通り,システムズアプローチを専門とするセラピストは,コミュニケーションの相互作用を使って様々な変化を作る職人です。ゴールとしては,クライエントの心身の変化であったり家族の変化であったりするのですが,多くの場合,その第一歩はクライエントのもつフレームを変化させることであるといえます。クライエントがすでに所持しているフレームを変える作業,それがリフレーミングです。セラピストは面接中,様々なレベルで,様々な方法を駆使してリフレーミングを行います。」(p.18)


「リフレーミングの中でもよく知られているものに,ポジティブ・リフレーミング(positive reframing:肯定的意味づけ)があります。これは,クライエントのもつ否定的なフレームを,セラピストが肯定的な形に言い換えるものです。

 「ものは言いよう」と一般にいわれるように,どのように否定的にみえることでも,その肯定的な側面を発見すること(引き出すこと)は容易です。たとえばあるクライエントが,「(母・妻である)私は病気で家事ができないので,夫や子どもたちにやらせてしまっているのです」と述べたとします。これに対してセラピストは,「それは病気ではなく,家事をしないことで夫と子どもの協力関係を作ろうとする,あなたの無意識の知恵なのです」とポジティブ・リフレーミングすることができるでしょう。あるいは,家族間のコミュニケーションにおいて,「父親と子どもが口論していると,母親が口を挟む。すると父親がトーン・ダウンし,今度は子どもと母親の口論が始まる」というパターンがみられたとします。この場合,これを「母親が父親と子どものコミュニケーションの形成を邪魔している」とみるのではなく,「母親が父親と子どもの関係を守っている」とポジティブ・リフレーミングすることができるわけです。」(pp.19-20)


 ここでは,リフレーミングとはクライエントがすでに所持しているフレームを変える作業であり,面接のゴールに至る第一歩であるとされています。そして,ポジティブ・リフレーミングとは,否定的に見えることの中に肯定的側面を発見することであるとして,その具体例がいくつか挙げられています。

 では,このようなリフレーミングという技法を,弁証法の観点から検討すると,どのようなことがいえるでしょうか。まず,もっとも単純なリフレーミングを取り上げてみましょう。それは,原因と結果を入れ替えるリフレーミングです。先ほど取り上げた例でいうと,「夫の帰宅が遅いせいで,妻が不満をいう」というのを,「妻が不満をいうせいで,夫の帰宅が遅くなる」と言い換えるものです。他にも,「母親が口うるさいせいで,子どもが反抗的になった」というフレームを,「子どもが反抗的なせいで,母親が口うるさくなった」とリフレーミングしたり,「夫が家事を何もしないせいで,妻がすべてをやらないといけない」というフレームを,「妻が全部やってしまうせいで,夫は何もしない」とリフレーミングしたりするのも,原因と結果を入れ替えた単純なリフレーミングの例です。

 これらはすべて,現実のもつ二面性,すなわち矛盾をそれなりに捉えたものであり,これらのリフレーミングが可能な現実的な根拠は,現実のもつ弁証法性にあるということができます。連載第2回では,システムズアプローチが有する円環的思考法について紹介しましたが,そもそも現実は,いろいろな要素の相互作用として成立していますので,一面を切り取れば原因ともなり,別の一面から見れば結果ともなる,ということがいえるわけです。このように非常に弁証法的なものの見方がシステムズアプローチの前提にあるので,その見方を技法として取り出したものがリフレーミングである,ということができるでしょう。

 原因と結果については,弁証法の教科書にも「因果関係の構造」として,次のように説かれています。

「科学は原因と結果とのつながり,いわゆる因果性というものを問題にします。池に石を投げると波紋がおこる,波紋がおこるとハスの花がゆれる,──これが因果関係です。石が原因,波紋が結果,原因が結果を媒介する,これが常識です。しかし因果のつながりを考えると,波紋という結果そのものは,同時にまたハスの花をゆれさせる原因ともなっているわけで,ここに結果と原因との直接の統一があります。さらにつっこんで考えてみると,水の波紋が石の結果だと一方的にきめてしまうこともできなくなります。もしこれが氷なら,波紋は起らないでしょう。水自身,石によって波紋を起すような性質を持っていたことが,やはり波紋の原因の一つであると考えなければならなくなります。外部の原因から結果が媒介されるだけでなく,結果として生れる現象の内部にもまた原因のあることを考えなければならなくなります。」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.93)


 すなわち,原因が結果を媒介するだけではなく,その結果は,また次の結果の原因にもなるという直接の統一があり,さらに外部の原因から結果が媒介されるだけではなく,結果として生れる現象の内部にもまた原因があるのである,ということです。システムズアプローチでは,ここまで論理的にきちんととらえているわけではないとはいえ,あるものは原因でもあり結果でもある,というように非常に素朴ながら弁証法的な見方をするように促されているわけです。すなわち,現実の弁証法性を踏まえているからこそ,リフレーミングが可能となり,それによってシステム全体の変化も引き起こすことができるのです。

 次に,ポジティブ・リフレーミングについても見ていきましょう。東豊の本に登場するポジティブ・リフレーミングの代表格といえるのは,問題をポジティブに捉え返すというものです。すなわち,ある問題に困っているシステムに対して,「問題は役に立っているので解決すべきではない」とリフレーミングするのです。具体的にはどういうことでしょうか。東豊『セラピスト入門』で紹介されている事例を2つ紹介しましょう。

 まず,夜尿に困っている小学生の事例(p.198〜)です。この小学生の母親は長年,姑との関係に悩んでおり,涙の日々であり,夫も仕事にいちずで,相談に乗ってくれなかったが,息子の夜尿の問題が生じてからは,姑のことで涙している暇もなく,また息子のことで姑とともに心配するという共同作業ができるようになったばかりでなく,夫も相談に乗ってくれるようになって,夫婦関係も安泰になったということです。こういった情報を掴んだセラピストは,両親と息子を前にして,いかに夜尿という症状が家族の役になっているかを説明し,息子ほどの家族思いはいない,息子のオシッコこそ,かつての母親の涙である(笑),などと説いたというのです。この面接後,夜尿が急速に改善したということです。

 次の事例は,女子大生がうつになった事例(p.200〜)です。実は,この女子大生には姉がいたのですが,1年前にスキー場で亡くなっていたのです。それ以来,母親のうつが始まり,毎日毎日泣き暮らしていたということです。父親もどう支えていいのか分からずに酒におぼれる日々だったそうです。ところが,この女子大生がうつ病を発症したのちは,母親は世話のために泣いていられなくなり,父親も,生きている者を心配している母親に対しては援助しやすくなり,酒もピタッとやめたといいます。こういった情報収集をした後,セラピストは,彼女がいかに家族思いで,いかに症状が家族の役に立っているかを,もてる演技力をすべて注いで語っていきました。面接の三週間後,彼女のうつは回復し,すっかり普通の女子大生に戻っていたということです。

 この二つの事例でも,問題とされている症状は,対立する性格も有していて,弁証法的な存在であるがゆえに,ポジティブ・リフレーミングによって,180度異なった見方をすることが可能になったのだ,ということがいえるでしょう。また,人間の認識は,受動的であると同時に能動的であるという矛盾した存在であるから,見たいようにものごとを見る傾向があります。このことは,「人間には,自分のもっている癖の通りにしかものごとがみえない(みようとしない)という習性があるのかもしれません」(東豊『リフレーミングの秘訣』pp.13-14)という形で触れています。ポジティブ・リフレーミングはこのような,受動的であると同時に能動的であるという認識の弁証法性をプラスの方向へと活用した方法である,ということもいえるでしょう。

 さらに,システム構成員のフレームを変えることによって,まわりまわって症状が消失することを狙うというのも,ものごとはつながりあっており,そのつながりを活かしているという意味で,弁証法的な介入の方法だということもいえます。リフレーミングでは,システム構成員の問いかけ像を変えることによって,反映を変え,反映(=認識)が変わることで,認識に規定されている個々人の言動が変わり,それによって構成員間のコミュニケーションが変わり,それによって社会的認識が変わり,していく中で,当初の「問題」の維持要因が変わっていくのでしょう。これによって問題が成り立っていたメカニズムが崩れることになり,問題が消失していくのだと考えられます。これがどのようなつながりになっているのかについては,システムズアプローチでは問題にしない(できない)ので,介入が奏効するかはある程度偶然に左右されるといってもいいのですが,リフレーミングをくり返すことによって,かなりの確率で「問題」とされていたことの維持要因が変化して,最終的に問題が解消することになるのです。

 以上見てきたように,リフレーミングは,現実のもつ弁証法性を根拠として,さらに認識の弁証法性を活用して成り立つ技法であり,現実のつながりを前提としているという意味での,非常に弁証法的な技法だということができるのです。

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2017年03月07日

システムズアプローチを弁証法から説く(3/5)

(3)ジョイニングでは相手に合わせた変化が求められる

 前回は,システムズアプローチのものの見方である円環的思考法とコンテクスト重視の見方を取り上げ,両者ともに弁証法的なものの見方といえるのであり,そのように対象の弁証法性をしっかりと把握できるからこそ,対象の性質に見合った介入ができ,その介入が成功するのだということを説きました。

 今回は,システムズアプローチの代表的・典型的技法の一つである「ジョイニング」を取り上げて,これを弁証法の観点から説いていきたいと思います。

 まず,ジョイニングについての一般的な説明を引用しておきます。

「ジョイニング(Joining)とは,構造的家族療法の創始者であるアメリカのS・ミニューチン先生の言い出した用語で,平たく言えば,お仲間にさせていただくことといった意味です。よくラポール(Rapport)と混同されることがありますが,後者は信頼関係そのものを意味し,かつ,なにかしらこころの深いところで起きているものといったイメージを彷彿させますが,前者はむしろ信頼関係に至るプロセスとそのための手段を意味しているようですし,なにかしら表面的で意図的操作的なイメージを彷彿とさせるものです。」(東豊『セラピスト入門』p.41)


 要するに,ジョイニングとはお仲間に入れていただくということであり,システムに参加する,とけ込むことだといってもいいでしょう。

 東豊は,このジョイニングを非常に重視しています。その重要性について,次のように説いています。

「私は,家族療法を学びにくるひとにはいつも「ジョイニングがすべて」と強調して語っているし,実際,ジョイニングが上手になってもらえないと,それ以上のことは指導できそうもない。はっきり言って,ジョイニングのセンスがないとよい家族療法家にはなれないと思う(それどころか,どのようなタイプの援助者にもなれないと思っている)。」(東豊『家族療法の秘訣』p.169)


 ここでは,ジョイニングがすべてであり,ジョイニングができないと,他の指導は無意味になるし,ジョイニングのセンスがないと援助者にはなれないと説かれています。

 ここで「家族療法」という言葉が出てきているので,一言,注意事項を述べておきます。ここでの家族療法とは,これまで説いているシステムズアプローチとほぼ同義です。システムズアプローチでは,家族システムを扱うことが多く,できるだけ関わっている家族全員に来談していただき,その家族集団と面接をしていくことになります。ですから,システムズアプローチによる心理療法は,だいたい家族療法になるのです。ただし,システムズアプローチによる個人面接ということも場合によっては可能ですし,家族療法といえば必ずシステムズアプローチになるかといえば,そうともいえず,精神分析的なアプローチによる家族療法というものも存在しています。しかしここでは,ごく大雑把に家族療法=システムズアプローチととらえていただいてけっこうです。

 システムズアプローチでは,セラピストはまず,家族システムの一員として受け入れてもらう必要があります。そのシステムのお仲間に入れていただかないかぎり,介入のしようがないのです。そういう意味では,ジョイニングはシステムズアプローチのすべてであり,第一に習得すべき技法だといえるでしょう。それだけではなく,ジョイニングはラポール(信頼関係)構築に至るプロセスでもありますので,どのようなタイプの心理療法を行なうにせよ,必要不可欠な技法であるともいえるでしょう。

 では,セラピストは具体的に,どのような「操作」をすることによって,ジョイニングを実現するのでしょうか。それについては,以下の4つのテクニックが挙げられています。

「1 相手のムードや雰囲気(家族であるなら家風といったようなもの)に合わせること。
2 相手の動きに合わせること。
3 相手の話の内容に合わせること。
4 相手のルールに合わせること。」(東豊『セラピスト入門』p.48)


 すなわち,ジョイニング(お仲間にさせていただくこと)を実現するためには,相手のムードや雰囲気,動き,話の内容,ルールに合わせなければならない,ということです。ムードや雰囲気に合わせるというのは,カッコ書きで「家風」とあるように,そのシステム(小社会)が表現によってそれとなく醸し出している社会的認識に合わせる,ということです。動きに合わせるということは,足を組むことや顎に手を添えること,姿勢を正すこと等といった,文字通り,相手の認識の表現たる動き(非言語表現)に合わせるということです。話の内容に合わせるとは,これまた相手の認識の表現たる言語表現に合わせるということです。ルールに合わせるというのは,相手の持っている社会的認識たる規範(意志の対象化されたもの)に合わせるということです。

 要するにジョイニングとは,お仲間にさせていただくために,言語表現・非言語表現を媒介として,当該のシステムの諸々の社会的認識を見極め,セラピスト自身もその社会的認識を有しているものとしてふるまうことである,といえるでしょう。あるシステムAと,別のシステムBとでは,それぞれが把持している社会的認識は全く別物ですから,セラピストはそれぞれの社会的認識をしっかりと把握して,自分もそれに合わせて変化していく必要があるのです。つまり,セラピストは,当該システムの多様性・変化性を見抜き,それに合わせてこちらも変化していくという弁証法的な運動・変化が求められるのです。

 一般に,ある対象をコントロールしたり思い通りに変化させたりしたい場合,まずはその対象の性質を見抜き,それに合わせてこちらが動いていくことが必要となります。たとえば,ガラスのコップを扱うときと,ゴムボールを扱うときとでは,われわれは全く違ったふるまい方をするはずです。ゴムボールであれば,ぞんざいに扱って,そのへんの床にぽいっと投げておくこともありますが,ガラスのコップに対しては,そのような扱い方はせずに,置きたいときには,丁寧に置く場所まで手で運んで,静かに置くはずです。これは,われわれがガラスのコップの性質を見抜いているからであり,ゴムボールのようにぽいっと投げてしまえば,たちまち割れてしまうことを知っているからです。だからこそ,ガラスという対象の性質に見合った形で,こちらは動いていくわけです。これが対象をコントロールするということでしょう。ですから,ガラスの性質をまだまだ理解できていない子どもは,ガラスのコップもゴムボールのように扱って,割ってしまうことになるのです。これでは対象をコントロールできているとはいえません。

 システムズアプローチで家族システムを扱う場合も,論理的には全く同様のことがいえるのです。セラピストは,何か悪循環に陥っている家族システムをコントロールし,思い通りに変化させたいわけですが,そのためには,それぞれの家族システムの性質=社会的認識をしっかりと見極め,それに合わせてこちらが動いていく必要があるのです。

 このジョイニングがそのまま変化につながることもあります。そのような例として,東豊は次のようなケースを紹介しています。

「長い長い母親の陳述の後,やっとセラピストは男の子に話しかけるチャンスを得た。「それで君はどんなふうに考えてるの?」 セラピストの問いかけに男の子はうつむき始めた。すかさず隣の母親が割って入った。「それはつらいと思います,というのも……」

 セラピストは母親の方に身体を向けて,再び母親の話に熱心に耳を傾けた。長い陳述の後,セラピストは丁寧に母親の許可を仰いだ。「お母さん,この子に直接聞きたいことができたのですが,聞いてもよろしいでしょうか」

 母親はもちろん聞いてやってくださいと,セラピストに頼んだ。「それで君はつらいときはどうしているの?」 男の子はまたうつむき始めた。短い沈黙の後,再び母親が割って入った。「ふさぎこんじゃうね,ね? いつも暗い顔をしているんですよ,というのも……」

 セラピストはまたしても母親の方に少し大げさに身体を向けて,母親の話に熱心に耳を傾けた。しかし今度は前よりも短めにそれをさえぎった。そして,これ以上低くできないくらいに腰の低い態度で,頭を深々と下げ,母親の許可を仰いだ。「お母さん,誠に申し訳ありません。またこの子に直接聞いてみたいことができたのですが,聞いてもよろしいでしょうか」

 母親は手を口に当て,プッと吹き出した。「ああ,すみません。私,でしゃばりで……」

 セラピストは「母親はみんなそうですよ」と軽く受けてから,男の子の方を向いた。

 「それで君はどうなったらいいと考えているの」

 男の子はやっぱりうつむき始めたが,今度は母親が口をはさまない。

 しばらくの沈黙の後,彼は顔を上げた。そして「まわりのことが気にならなくなればいい」と,ボソッと答えたのである。」(pp.63-64)


 このケースでは,母親が主導権を握っているというこの家族システムのルールにジョイニングして,馬鹿ていねいに母親に許可をとることをくり返すことによって,ジョイニングしています。同時に,このようなジョイニングによって,母親は自分の「でしゃばり」に気づき,口をはさまないようになったために,今までにはなかった息子の見解が表明されたということです。このように,ジョイニング自体が変化をもたらすための大きな介入技法にもなり得るのです。

 このケースに関わって,ジョイニングの弁証法的側面を,あと2つ,指摘しておきたいと思います。まず第一に,「問題」と思われるようなものでも,システムズアプローチにおいてはそれも「資源」であるととらえて,活用していくという点です。子どもの代わりに母親が答えるというのは,一般的には「問題」であるととらえられがちですが,これすらも「資源」として活用して,たとえば先の引用のような介入を行うわけです。「問題」でもあれば「資源」でもあるという形で,対立物の統一として捉える点で,非常に弁証法的な発想だといえるでしょう。

 第二に,ジョイニングに際しては,システムの構成員の一部に肩入れするようなことはしてはならないという点に関わります。複数を相手に面接をしていると,「あちら立てればこちら立たず」ということになりがちですが,一人の話だけを長々と聞きすぎないとか,味方に引き込もうとする言動は無視するとか,システムのルールをアセスメントしてそれにまずは従うとかしながら,システム全体にジョイニングしていくことが求められます。弁証法的にいうならば,非敵対的矛盾を実現するとともに解決するようなポジショニングを常に意識する必要がある,といえるでしょう。微妙なかじ取りが要求されますし,バランスが難しいとはいえますが,この微妙なバランス感覚は,臨床のなかで培っていく必要があるといえるでしょう。

 以上今回は,システムズアプローチの代表的な技法のひとつであるジョイニングを取り上げ,これを弁証法の観点から論じました。

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2017年03月06日

システムズアプローチを弁証法から説く(2/5)

(2)前提に弁証法的なものの見方がある

 本稿は,天才セラピストと称されている東豊のセラピーがなぜうまくいくのかということを,彼が採用している方法論であるシステムズアプローチに着目して,弁証法の観点から説くことを目的にしています。

 今回は,システムズアプローチの前提となっているものの見方考え方について検討します。

 システムズアプローチの前提となっているものの見方は,「円環的思考法」と呼ばれています。円環的思考法について,東豊は次のように説明しています。

「円環的思考

 システムズアプローチを理解するための重要なキーワードのひとつなので,説明しておきましょう。

「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。上は下であり,下は上である,などと考えること」

 覚え方としてはこの程度でいいと思います。」(東豊『セラピスト入門』p.16)


「まずシステムとは,「部分と部分が相互作用している全体」,あるいは「その相互作用のあり方(連鎖・パターン・ルール)のことであると理解します。全体は部分に影響を与え,部分は全体に影響を与える。このようなものの見方を,円環的思考法と呼びます。

 私たちは通常,「事象Aは事象Bの原因である(事象Bは事象Aの結果である)」というように,矢印が一方通行の考え方(A→B)をする習性があります。これを直線的思考法といいます。これに対し円環的思考法とは,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方(A⇆B)をするものです。」(東豊『リフレーミングの秘訣』pp.10-11)


 ここでは,一方通行の直線的思考法とは違い,「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。」などと考える考え方,「事象Aは事象Bの原因でもあり,結果でもある(事象Bは事象Aの原因でもあり,結果でもある)」というように,双方向的な見方をする考え方を,円環的思考法と呼ぶと説かれています。

 たとえば,「母親の過保護のせいで子どもが甘えん坊になった」というのは,世間でよくある直線的思考法の例です。そういう見方もできるが,逆に「子どもが甘えるせいで母親が過保護になった」と解釈することも可能なのです。このように,あのようにも見えるし,このようにも見えるとするのが円環的思考法なのです。

 ここで説かれている円環的思考法が,非常に弁証法的なものの見方考え方であるのは明らかでしょう。というのは,弁証法では,対象を対立物の統一として見ますし,矛盾した存在と見るからです。「原因は結果であり,結果は原因である。善は悪であり,悪は善である。上は下であり,下は上である」などというものの見方は,弁証法の教科書にもそのまま説かれているような,物事を矛盾として見る見方だといっていいでしょう。一方だけ見るのではなく両方を見るというのも,物事を対立物の統一として見る,弁証法的な見方の典型例といえます。

 このように,システムズアプローチにおいては,物事を弁証法的に見るために,対象を的確に,その性質に見合ったものとして捉えることができるのだ,ということがいえるでしょう。このような対象の弁証法性を的確に捉えられるような見方が採用されているからこそ,対象をきちんととらえられ,その対象に適切に働きかけていくことが可能となっているのだと考えられます。

 このような円環的思考法と同様の弁証法的な発想として,システムズアプローチでは,コンテンツ(内容)よりもコンテクスト(前後関係,文脈)を重視するという見方が採用されています。これを理解していただくために,治療場面におけるある家族の会話の一部を引用します。

「母:あなたは,いったいいつまでこのままでいるつもりなの。中学校にも行かなければ高校だって行けないし,就職や結婚もできたものじゃないわ。

娘:放っておいてよ。いつもうるさいんだから。

母:なんですか,親に向かってその態度は。いい加減にしなさい。

娘:私,あなたのことを親とは思ってないわ。

母:なんですって,もう一度言ってごらん。

娘:何度でも言うわ,鬼,ブタ,ウスノロ!

母:黙りなさい。なんでこんな子になったの,あなたは。

父:まあまあ二人ともよしなさい。もっと落ち着いて話し合おうじゃないか。

母:あなたはいつもそんなことばかり言って本当に甘いんだから,もっと父親らしくしゃんとしてよ。

父:私はおまえのようにしつこく言いたくないんだよ。

母:私のどこがしつこいと言うの,子どものためにこれくらい当たり前よ。あなたももっとこの子を叱ってよ。情ない。

娘:この人(父のこと)が怒っても少しも怖くないよ。こんな人,ただの月給運搬人よ。

父:そんなことはないよ。お父さんはね,おまえたちのために一所懸命働いて……。

母:(娘に)ちゃんと座りなさい。何よその態度は。

娘:うるさいねえ,いちいち,くそババア! 死んでしまえ。」(東豊『家族療法の秘訣』pp.6-7)


 ここでコンテンツに注目すると,「母親は厳しすぎる」とか「父親は頼りない」とか,「娘の言葉遣いはひどいが,この年頃はこんなものだ」とかいう反応になります。しかし,コンテンツにとらわれることなく,コンテクストに目が向くようになると,次のようなパターン(コミュニケーションの連鎖)を発見できると説かれています。

「A.母親が娘を批判する
    ↓
 B.娘が母親に反抗する
    ↓
 C.母親と娘が対立する(緊張が生じる)
    ↓
 D.父親が会話に入る
    ↓(母・娘間の緊張下がる)
 E.母親が父親の態度を批判する
    ↓
 F.父親が母親に反発し両親間に緊張が生じる
    ↓
 G.娘が会話に入る
    ↓(両親間の緊張下がる)
 A.母親が娘を批判する
    ↓」(p.10)


 このような悪循環が見出されるというのです。これがコンテクスト重視のものの見方ということです。同時に,家族システムという大きな視点から,個々の構成員の役割を見出す見方であるともいえるでしょう。父親は頼りないという側面をもちつつも,母親と娘の緊張を和らげる役割を果たす優しい父親であり,娘も悪態をつきながら両親間の緊張を緩和させる役割を果たす優しい娘である,そのようなチームワークのいい家族と見なすこともできるわけです。

 これは,部分にのみ着目するのではなく,それがどのようにつながっているかをみるという意味でも,また,部分が全体とどのようにつながっているのかをみるという意味でも,つながりを重視する見方です。また,このようにつながりを見ることによって,部分だけを見ていたのでは見えてこなかった別の対立するような性質が浮き彫りになっています。したがって,このようなコンテクストを重視する見方は,とりもなおさず,弁証法的な見方であるといえるでしょう。

 システムズアプローチでは,このようにして発見したコンテクストを家族に伝えて共有したり,また,セラピストがこのシステムの中に入って,悪循環のパターンを変えたりします。それによって,システムが変わったり,個々の部分の反応が変わったりして,結果として,よい循環・相互作用を生み出すシステムに再構築されていくことを狙うのです。このようなことが成功する背景には,今回見たような弁証法的なものの見方があるということがいえるでしょう。
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2017年03月05日

システムズアプローチを弁証法から説く(1/5)

目次

(1)システムズアプローチはなぜ効果があるのか
(2)前提に弁証法的なものの見方がある
(3)ジョイニングでは相手に合わせた変化が求められる
(4)リフレーミングの根拠は現実の弁証法性にある
(5)システムズアプローチは弁証法性を踏まえている

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(1)システムズアプローチはなぜ効果があるのか

 みなさんは,「名医」という言葉を聞いたことがあるでしょう。非常に優れた医師のことであり,名医にみてもらえば,治療困難と思える病気も治してもらえるのです。現代日本においても,「スーパードクター」などと称して,テレビでも取り上げられている名医がいます。がんの名医や心臓病の名医,脳神経外科の名医などです。

 手塚治虫のマンガ『ブラック・ジャック』では,医師免許を持たないものの,天才的な外科手術の技術を有しており,手術成功の暁には法外な治療費を請求する医師の姿が描かれています。また,『三国志演義』には,華佗という伝説的な医師が登場します。彼はどんな病気や怪我でも治す名医として描かれています。彼の遺した医学書は結局燃やされてしまうのですが,もし燃やされていなければ,医学の歴史は現在とは大きく違ったものになったであろう,などといわれるほどの偉人として描かれているのです。

 このように,マンガや小説の世界にもたびたび取り上げられている名医ですが,筆者の属する心理臨床の世界にも,そのような「名医」にあたる人物が存在しています。世界的に有名なのは,何といってもミルトン・エリクソンです。彼の臨床は,臨機応変に,ケースに応じて変幻自在に変化させるもので,その名人芸から「魔術師」とも呼ばれるほどの実力でした。しかし,ケースに応じて異なるアプローチをすべきであるという信念のもと,あまりまとまった著作をものさず,弟子たちがそれぞれにエリクソンの遺産を受け継ぎ,体系化しているのが現状です。いずれ筆者もミルトン・エリクソンを正面から取り上げたいとは思っています。

 では,心理臨床の世界に属する日本人で「名医」レベルの人物はいるのでしょうか。結論からいうと,います。その人物の名は東豊(ひがし・ゆたか)。日本の臨床心理士であればだれもがその名を知っているほど著名であり,「天才」と名高い人物です。彼はミルトン・エリクソンやその弟子筋に学んでおり,若かりし頃は「日本のエリクソン」と自ら豪語していた時代もあったといいます。東豊については,その著作を出版している遠見書房の編集者のブログで,次のように紹介されています。


「2012年3月19日月曜日

【東豊】けっこうコレはすごい本になると思う【DVD!】

天才セラピスト!というと,なんだかいろいろと怒られそうであるが,東豊先生を知っている人は,みな,東先生のことをそう言う。「あのひとは天才だ」「天性やね」「天才的ですよ」などと。

現実問題として,天才セラピストとは,どういうことを指すのだろうか,とも思う。丁々発止がうまい,という感じもあるかもしれないし,包容力がある,という感じかもしれない。いや,単に「治す」という意味なのかもしれない。

東豊先生が「治す」のか,というと,これはよく治すらしい。以前,東豊先生の雇用者であった小郡まきはら病院院長の牧原浩先生がその論文か何かで,「東先生には一番の給料をあげていた。一番治してくれるからだ」ということを書いていた。その病院では,MDやNSを含めて,臨床心理士である東先生が一番の給金をもらっていたらしい。

その後,東豊先生は,鳥取大学医学部精神医学教室の助教授になった。非医師の医学部助教授は,東先生が最初のひと,というわけではないけれど,やはり珍しい。ここでも伝説的なセラピーを展開していたらしい。当時の論文をいくつか読むと,ものすごく面白い。

ともあれ,天才セラピストと語弊なく言えるうちの一人が東豊先生であることは,間違いないだろう。よくある出版社が勝手に天才だと持ち上げているわけではなく,周りの人が言っているという意味で,である。

実際の東豊先生は,とてもサービス精神の旺盛な方である。あちこちに目端がきく。頭の回転もすこぶる早い。そして,愉快な方である。一緒にいてとても楽しい。スゴ腕の話し上手である。天才セラピストの一面が確かにある。

で,なかなか厳しいところのある方でもある。自分にも厳しいし,他のひとにも厳しい。キレモノすぎて,いろいろとわかりすぎてしまうところがあるのかもしれない。

ともあれ,そんな天才の本,しかも! DVDで天才のセラピーが2回分(1つのケースで初回と2回目)の映像がついた本が出ます!」(http://tomishobo.blogspot.jp/2012/03/dvd.html


 ここでは,医師よりも給料をたくさんもらっていたという驚きのエピソードや,治療成績が抜群で誰もが認める天才セラピストであることなどが説かれています。

 では,なぜ東豊には,このような天才的なセラピーが可能なのでしょうか。もちろん,彼個人の特性に由来するものも多いでしょう。しかし,彼が採用している方法にも優れたものがあると考えられるのです。

 東豊が採用している方法というのは,「システムズアプローチ」と呼ばれています。システムズアプローチは,先に紹介した世界的な天才セラピストであるミルトン・エリクソンの影響も受けて成立したものです。いってみれば,エリクソンの臨床の一部分を切り取って,それを発展させたものということができます。そこで本稿では,このシステムズアプローチを取り上げて,これによって「天才的セラピー」が可能になる所以を説いていきたいと考えています。

 幸い,東豊は,ミルトン・エリクソンと違って,多くの著作を執筆しており,また,研修会も多く開催して,自らの方法論であるシステムズアプローチについてさまざまに説いています。それらを参考にして,システムズアプローチについて紹介しながら,それがどのように優れているのかを,弁証法という観点から論じていこうとするのが本稿です。

 詳細については次回以降検討するとして,ここではまず,システムズアプローチの概要を説明しておきます。システムズアプローチとは,「システムを念頭に置いた心理・社会的援助の総称」(東豊『セラピスト入門』p.5)のことです。では,「システム」とは何でしょうか。東豊は,次のように説明しています。

「ある一定の法則にしたがっているかのような活動を繰り返している複数の部分からなる集合体,もしくはその法則そのもの。小は分子原子レベルから,大は宇宙レベルに至る。」


「ただひとつ補足しておくと,この場合,部分と部分は相互に影響しあっており,まるで既存のシステムのあり方を維持しようとの意思をもっているかのごとく互いに活動を規制しあっているのだと仮説します。つまり,部分はシステムのあり方に規定されていると覚えておいてください。

 しかし一方,「なにかの拍子」に一部分が変化してしまうと,他の部分も連鎖的に変化していき,結果的にシステムが変わってしまうこともあると仮説します。つまりシステムのあり方は部分に規定されていると覚えておいてください。」(p.4)


 これだけではよく分からないと思いますので,実際に心理臨床でよく問題になるシステムを例に挙げて説明します。それは家族というシステムです。家族は,家族構成員という部分からなる集合体です。ですから,家族もシステムの一つです。この構成員は家族システムのあり方に規定されていると同時に,家族システムのあり方は構成員に規定されています。このように家族を捉えることが,システムズアプローチのものの見方だといっていいでしょう。

 これ以上の詳細については,次回以降,詳しく説いていくことにします。ここでは,システムというものの概要を大雑把に把握していただければと思います。

 では次回以降,天才セラピスト東豊が採用しているシステムズアプローチについて,弁証法という観点から説いていきたいと思います。次回は,システムズアプローチの前提となるものの見方考え方を,もう少し詳細に取り上げて検討します。連載第3回と第4回では,システムズアプローチの代表的・典型的な技法である「ジョイニング」と「リフレーミング」をそれぞれ取り上げ,それらが奏効する所以を弁証法的に解明していく予定です。

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2017年03月04日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の2つの序文を熱かった我が研究会の2017年2月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 2月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回3月例会は、『純粋理性批判』の緒言(pp.57-83)を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回の例会からいよいよカント『純粋理性批判』の中身に入っていった。今回は、序文を中心に扱った。

 カントが形而上学をどのように捉え、この著作をその歴史にどのように位置づけようとしていたのか、数学や物理学における考え方の革新とは如何なるもので、カントはそれを形而上学にどのように適用したのか、カントが物自体と現象とを分けて考えたのはなぜか、といった問題について、まずは本論に入る前の段階として理解しておくべき事柄については押さえることができたのではないかと思う。

 しかし同時に感じたことは、他会員と比べればはるかに理解の度合いが劣っているということであった。カントの物自体論と自由との関わりに関する議論が特にそうであった。解説してもらうと、なるほどそういうことかと一応の理解はできるので、苦手意識を克服して、分かったことを1つずつ丁寧に確認していき、分からなかったことを例会を通じて少しでも理解できていくよう努力していく必要がある。

 来月は緒言を扱うが、ここでも本論に入る前提としての理解が求められると思う。しっかりと読み込んで、上記の作業ができるように準備しておきたい。

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 今回の例会では、カント『純粋理性批判』を読み進めていくうえでの、いくつかの大切な問題意識を共有できた点が非常によかったと思う。

 まず、カントは形而上学の歴史を独断論と懐疑論の闘争の歴史として描いているが、どうやらこの闘争の歴史を踏まえて4つの二律背反が措定されたらしいことが分かった。もちろん、単純にテーゼが独断論の立場で、アンチテーゼが懐疑論の立場である、というような区分けではないにしろ、独断論と懐疑論の闘争、および独断論内部での闘争(内乱)の歴史を踏まえて、それを4つのアンチノミーとしてまとめ上げたのだ、という可能性が高いと分かったのである。それは、カントが理性批判を法廷になぞらえていることからも分かる。カントの論の流れからは、この法廷では従来の独断論と懐疑論の主張が戦わされる場であるというように解釈できるが、諸々の参考文献によると、この法廷というのは4つのアンチノミーについて、理性が裁判官としてのより高い立場から判定を下すという解釈が一般的であるようだ。すなわち、形而上学の歴史である独断論と懐疑論の闘争ということと、4つのアンチノミーということが、つながっていると理解できそうなのである。形而上学がぶつかっていた難問というのも、この問題にかかわってくるであろうから、ここはカントの問題意識の大前提として、しっかりと押さえておく必要があると感じた。

 次に、カントが形而上学に適用した考え方の革新についてである。数学や自然科学で成功した着想を形而上学にも採用したと説かれているが、ここに関して、結局物自体と現象というのは、どの程度つながっているのか、物自体が現象をどの程度規定しているのか、という問題意識が明確になった。カントも説いていたが、現象というからには、「何か」が現象しているのであり、その「何か」はとりもなおさず物自体であるはずだから、両者にはきちんとつながりがあるのは当然である。しかし、カントはこの二つの区別を強調もしているわけで、弁証法的にいえば、物自体と現象は、つながっているとともにつながっていないということができる。では、どのようにつながっており、どのようにつながっていないのか、その構造をきちんと理解していくことが、今後の大きな課題になるといえるだろう。

 最後に、物自体と現象とを区別することによって、無条件者についての矛盾が解消するとされていたわけであるが、そもそも、無条件者ということが形而上学の歴史において、どのような必然性があって扱われてきたのか、さらに、具体的にはどのような哲学者がどのような矛盾する見解を戦わせてきたのか、それをカントは本当に解決したといえるのか、こういった問題についても、しっかりと念頭に置きながら、『純粋理性批判』を読んでいかねばならないと感じた。カントは、自分の業績をコペルニクスになぞらえているが、それならばごくシンプルな説明でたりうるはずなのに、『純粋理性批判』は大著となっている。このあたり、カントの自信とは裏腹に、論理的にはスッキリと把握はされていなかった証左といえるのではないか、という気がする。いずれにせよ、歴史的に取り上げられてきている無条件者という対象の必然性をしっかりと掴んでいく必要があるのは間違いないだろう。

 このあたりの問題意識をもって、いくつかの入門的な参考書も参照しながら、『純粋理性批判』に取り組んでいきたいと思う。

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 今回の例会では、カントが『純粋理性批判』を書いたときの問題意識とその意義について理解を深めることができた。

 形而上学においては、独断論と懐疑論(または独断論同士)が争っていたが、とりわけヒュームが必然性は客観的に存在するものではないと主張したことを受けて、カントとしては、必然性は存在しており人間はそれを認識することができるということ、つまりアプリオリな認識が可能であることを示す必要が出てきたということである。例えば「机をたたけば音がなる」ということについて、いくつかの事例をもとにして、(実際に試してみなくても)どんな机でもそうだということがわかるということを示す必要が出てきたということである。そこで考え出されたのが、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うというコペルニクス的な転換なのだということである。こうして、対象そのもの(物自体)は何の性質ももたないけれども、我々がとらえた現象は認識によって性質を与えられているという物自体論が出てきたのである。

 このように現象と物自体を区別することにより、意志が自由であると同時に自由でない(法則性に縛られている)という矛盾を解決することができるようになった。つまり、現象としては自由ではないが、物自体としては自由であるということである。例えば、的に向かってボールを投げたとして、投げるのは自由な意志に基づくものである。ところが、その投げたボールが的に当たる過程は空気抵抗や重力など自然の法則性に縛られることになる、ということである。我々が見ることができるのは、ボールという現象だけである。しかし、その背後に「ボールを投げる」という(自由な)意志を想定することができる。このような形で意志の自由という問題を解決したのだということであった。

 もちろん今回の解答は現段階での暫定的なものであり、今後、これをより深めていく必要があるだろうが、大まかには把握することができたのは今回の例会の大きな収穫だった。

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 今回の例会を通じては、そもそもなぜカントが『純粋理性批判』を書かなければならなかったのか、そのそもそもの問題意識にしっかりと共感することが大切であると思わされた。ア・プリオリな総合判断はどのようにして可能か、ということがカントの根本的な問題意識であったといってよさそうであるが、ア・プリオリな総合判断とはどういうことなのか、なぜそういうものが切実に求められたのか、ヒュームの因果律批判からカントが受けた衝撃の大きさということをしっかりと踏まえつつ、カントの強烈な問題意識に幾分かでも共感できるようにならなければ、『純粋理性批判』はまともに読んでいくことはできないだろう、と思わされた。

 カントが現象と物自体とを区別してしまったこと、また結局は同じことであるが、理性を思弁的理性と理性の実践的使用とに二分してしまったこと(認識できるということと考えることができるとを分けてしまったこと)は、結論からみればおかしなことであり、現象と物自体との関係をカントは解けていない、というこもできるであろう。しかし、同時に、これがそれまでの形而上学の難問を解決するための画期的にすぐれた提起であったのだという側面を、絶対に見失ってはならないだろうとも思う。現象と物自体とを区別し、思弁的理性(絶対的なものを認識できない)と理性の実践的使用(絶対的なものを考えることができる)とを二分したことこそが、この『純粋理性批判』の哲学史上の不滅の意義なのであり、また同時にヘーゲルによって克服されるべき限界ともなったのだといえるだろうが、自分自身の不充分な実力のままヘーゲルらの尻馬に乗ってカントを非難すべきではないだろう、まずは『純粋理性批判』の画期的な意義をしっかりと受け止めることに重点を置くべきではないか、と思われるのである。

 『純粋理性批判』のまともな理解のためには、南郷継正『学問としての弁証法の復権』(『武道哲学講義(第二巻)』所収)に加えて「武道哲学講義〔Z〕」(『南郷継正全集第11巻』所収)をも繰り返し読み込んでおく必要があると確認することができたのも、この2月例会を通じた取り組みで得た大きな成果であった。

(了)
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2017年03月03日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(9/10)

(9)論点3:カントは自由についてどのように考えているのか

 前回は、第二の論点、すなわち、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが、数学や自然科学(物理学)は、対象が認識を規定するのではなくて認識(理性)が対象を規定するのだと捉えるという考え方の革新によって、学としての確実な道を歩むことになったのだと捉えていること、形而上学においては、対象が認識を規定するという前提ではうまくいかなかったので、逆に、認識が対象を規定するという考え方を採用してみることによって、それまでの形而上学の難問が解決されたのだと主張していることを確認しました。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、カントは自由についてどのように考えているのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、物自体と現象との区別の大切さを説くが、カントはなぜこの区別が大切だと考えたのか。「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」(南郷継正『武道哲学講義 著作・講義全集 第十二巻』、p.87)という指摘は、ここにどのように関わってくるのか。
 また、物自体と現象とを区別したことは、カントの自由論とどのように関わってくるのか。「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」(p.43)とはどういうことか。


 カントがなぜ物自体と現象との区別の大切さを説いたのか、という問題をめぐっては、各メンバーから事前に提示された見解の間に、大きな相違はありませんでした。端的には、物自体と現象とを区別しなければ無条件なもの(絶対的なもの)を矛盾なしに考えることができなくなってしまう(例えば、人間の意志は自由でありながら自由でないというような矛盾に陥ってしまう)から、換言すれば、無条件なもの(絶対的なもの)は間違いなく存在するものなのだということを保障するためにほかならない、ということでした。これは、詰まるところ、二律背反の問題に悩んだあげく、その解決策として物自体論(物自体と現象を区別すること)をもってきたということである、という指摘もなされました。

 「カントの「物自体」論は、これは本質論であり、けっして構造論でもなければましてや現象論や実体論でもない」という指摘がここにどのように関わってくるのか、という問題をめぐっては、カントにおいて、物自体というのは、世界の本質的な存在として考えられているのであって、認識できる現象と区別することによって、認識はできないけれども考えることができる存在として、世界の本質が成立し得る領域を残しておいたということなのではないか、ということになりました。

 物自体と現象との区別がカントの自由論とどう関わるか、という問題をめぐっても、大きな見解の相違はありませんでした。端的には、自然法則が支配するのは現象の領域であり、「物自体」は自然法則に縛られないから自由であるという形で、人間の意志の自由を主張しようとしたのだ、ということです。ただし、このことに関わっては、具体的にどういうことか正直よくわからない、という疑問も出されました。例えば、子どもと関わるとき、自分としては自分で考えて行動している(自由である)ように思うけれども、そのプロセスを客観的に眺めたときには、毎回同じような対応をしている(一定の法則性に縛られてしまっている)ということなのだろうか、という疑問です。こうした疑問に対しては、そんなに難しく考える必要はなく、例えば、ある人が石ころをある的に命中させるべく投げるとして、「あの的に当てるぞ」という意志を抱くか抱かないかはその人の自由だが、いったん手から放れた石ころは、重力とか空気の抵抗とかの諸々の条件によって必然的に規定された軌道を進んでいくことになる、というようなことではないか、という見解が示されました。疑問を出したメンバーも、大筋でこうした説明に納得しました。

 43ページの引用文(「思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできない」)をめぐっては、何がいいたいのかよく分からなかった、という感想も出されましたが、これは結局のところ、物自体と現象との区別がなぜ大切か、という問題と同じであることが、他のメンバーから指摘されました。すなわち、「思弁的理性から経験を超越して認識すると称する越権を奪い去」るというのは、思弁的理性は経験の限界を超えられないのであり、認識できるのは現象のみで物自体は認識できないことを明らかにする、ということにほかならず、そのようにしない限りは、神、自由、霊魂の不死といった無条件なもの(絶対的なもの)を矛盾なしに考えることはできないのだ、ということです。こうした説明に、「よく分からなかった」という感想を出したメンバーも大筋で納得しました。

 ただし、「理性の実践的使用」というのが神、自由、霊魂の不死といった無条件なもの(絶対的なもの)と関わるものでることは何となく分かるが、「理性の実践的使用」というのはそもそもどういうイメージなのか、カントが思弁的理性と理性の実践的使用とを分け、認識できるということと考えることができるということとを分けてしまっているのは、なかなかすんなりとは納得しがたいところがある、という感想も出されました。チューターは、このように思弁的理性(絶対的なものを認識できない)と理性の実践的使用(絶対的なものを考えることができる)とを二分したことこそが、この『純粋理性批判』の哲学史上の画期的な意義であり、またヘーゲルによって克服されるべき限界ともなったのではないか、と指摘し、本論部分を読み進めていくなかで、しっかりと検討を深めていくように提起しました。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点3に関する議論を終えました。
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2017年03月02日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(8/10)

(8)論点2:カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか

 前回は、第一の論点、すなわち、カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが「形而上学」「論理学」「悟性」「理性」といった用語をどのような意味で使っていたかを確認しつつ、理性が経験を超えたものについて論じようとすると混迷と矛盾に陥ってしまうという問題を正面に据え、理性自身を批判(吟味)することで形而上学の完成に道を切り拓こうというのが、カントの『純粋理性批判』の意図であったことを確認したのでした。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、カントが形而上学に採用した考え方の革新とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、数学と自然科学(物理学)が、考え方の革新によって一個の学としての確実な道を歩むことになったとしているが、それはどのような革新であったのか。カントはこうした考え方の革新を形而上学に適用することを試みてみたというが、それはどういうことか。


 この論点をめぐっては、まず、数学および自然科学(物理学)における考え方の革新とはどのようなものであったのか、確認しました。

 数学における考え方の革新について、カントは、タレスによるともいわれる二等辺三角形の論証(二等辺三角形の底角は等しいことの論証だと思われます)を例に挙げながら、図形のうちに見たものにもとづいて図形の性質を学び取ろうとしてはならないのであって、「彼が何ごとかを確実にかつア・プリオリに知ろうとするならば、彼は自分の概念に従ってみずから対象のなかへ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない」(p.29)と説いています。一方、自然科学(物理学)における考え方の革新について、カントは、ガリレイやトリチェリやシュタールの実験の例を挙げながら、あらかじめ仮説を立てて(理性判断の諸原理によって先導して)、それを確認するために実験を行うということでなければ、換言すれば、理性自身が自然のなかに原理を考え入れなければ、いくら実験・観察しても偶然的なものにしかならず、必然的な法則など見い出しようがないのであって、「理性は、自然から学ばねばならないことや理性自体だけではそれについて何も知り得ないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)」(p.30)と説いています。

 こうしたカントの主張をめぐって、2つの異なった捉え方が提示されました。ひとつは、認識が対象に性質を与えているのだという捉え方であり、もうひとつは、人間の認識が対象に備わっている性質を浮かび上がらせているのだ、という捉え方です。どちらの捉え方がカントの真意に近いのか議論をしました。後者の立場(認識が対象の性質を浮かび上がらせる)からは、自然科学について「自然を強要して自分の問いに答えさせる」「自分の提出する質問に対して、証人に答弁を強要する」といった表現をカントが行っていることから、自然そのものが何らかの答えをもっているのであって、それはすなわち、自然に備わっている性質を自然科学者の側からの目的意識的な問いかけによって浮かび上がらせるということにほかならないのではないか、という主張がなされました。こうした主張に対して、前者の立場(認識が対象に性質を与える)からは、確かに自然科学(物理学)に関していえば、自然にもともと何らかの性質が備わっているかのように読める表現はあるが、数学に関してはそれはないではないか、カントは「数学と物理学とは、それぞれその対象をア・プリオリに規定せねばならぬ両つの理論的認識である。そして数学は全体として純粋であり、また物理学は少くとも部分的に純粋である、しかし部分的に純粋ということになると、理性の認識源泉とは別個の認識源泉によっても幾分規定せられるわけである」(p.27)と書いているではないかという指摘がなされました。つまり、数学においては、理性が対象を全くア・プリオリに規定するのだが、自然科学(物理学)においては、理性が対象を部分的にア・プリオリに規定するのだ、というのがカントの捉え方であって、理性による対象のア・プリオリな規定という考え方の革新は、やはりあくまでも、認識(理性)が対象に性質を与えるということ、対象が認識を規定するのではなくて認識が対象を規定するのだと捉えるべきであろう、ということに落ち着きました。

 なお、「理性は、自然から学ばねばならないことや理性自体だけではそれについて何も知り得ないようなことを、自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、これを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)」という表現をめぐって、認識が対象に性質を与えるといっても、物自体たる対象に対して認識が勝手気ままにどんな性質でも与えることができる、ということではないのではないか、という提起がなされました。物自体たる対象と認識の側にもともと(ア・プリオリに)備わっている枠組みとの相互浸透で現象が生じるとして、その現象はどの程度まで物自体によって規定されているのか、という問題があるのではないか、この問題をカントはどのように論じているのだろうか(果たしてきちんと論じきれているのであろうか)という疑問も生じてきました。チューターからは、カントは形而上学の問題を最終的に解決したと自信たっぷりであることをまずは尊重すべきで、きっとカントは解けていないのだ、などと早急に結論を出してカントを軽く見てしまうことになっては問題ではないか、との指摘もなされましたが、これが重要な論点であることは間違いなく、本論部分を読み進めていきながらしっかりと検討を深めていく必要があることを確認しました。

 数学および自然科学(物理学)における考え方の革新を形而上学に適用するとはどういうことか、という問題をめぐっては、対象が認識を規定するという前提ではうまくいかなかったので、逆に、認識が対象を規定するという考え方を採用してみようということであり、これによってそれまでの形而上学の難問が解決されたとカントは主張しているのだ、といった見解がほぼ一致して示されました。チューターからは、対象が認識を規定するという前提では何がうまくいかなかったのか、カントが一挙に解決したという形而上学の難問とは何だったのか、ということこそが重要であると提起されました。

 これは、端的には、形而上学においては、ア・プリオリな認識、すなわち、対象が我々に与えられる前に対象について何ごとかを決定するような認識が可能であることが要求されているということであるわけですが、そもそもなぜカントがこのような問題意識を抱いたのか、ヒュームの因果律批判との関わりできちんと確認しておく必要があるだろう、ということになりました。ヒュームの懐疑論によれば、リンゴを手から放したらどうなるか、1個目から9個目のリンゴについては下に落ちていったとしても、10個目のリンゴもそうなるかどうか前もって確実にいうことはできません。手から放れたリンゴは下に落ちるという主観的信念が習慣によって形成されているにすぎない、というのがヒュームの主張です。これに対して、10個目のリンゴについても手から離せば落下すると確実に主張できるためにはどうすればよいか、というのがカントのそもそもの問題意識だったのではないかと思われます。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年03月01日

2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文(7/10)

(7)論点1:カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか

 前回まで、カント『純粋理性批判』の2つの序文の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、カント自身は『純粋理性批判』を哲学史にどのように位置づけたか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、形而上学とはどのようなものであり、その歴史はどのようなものであったと論じているか。その歴史の流れのなかに、『純粋理性批判』をどのように位置づけているのか。形而上学・論理学・悟性・理性(また純粋理性)といった基礎的・基本的な哲学用語の意味を押さえつつ、また、純粋理性批判が法廷にたとえられていることに留意しつつ、確認しておきたい。


 この論点をめぐっては、まず、基礎的・基本的な哲学用語の意味について確認していきました。チューターからは、事前に提示された各メンバーの見解においては、カントがそれぞれの語をどのような意味で用いているのかということと、本来の哲学(学問)的な意味としてはどうあるべきなのか、ということとが、必ずしも明確に区別されていなかったのではないか、という指摘がなされました。そして、本来の哲学(学問)的な意味としてどうあるべきかを確認していくためにも、南郷継正「武道哲学講義〔Z〕」(『南郷継正全集第11巻』所収)を繰り返し読み込んでおく必要があるのではないか、との提起がなされました。

 このことを確認した上で、これらの用語について、カントがどのように捉えていたのか、順番に確認していきました。まず、「形而上学」という用語についてです。第1版序文の冒頭で、カントは、人間の理性の本性について、経験上、確かだと思われる原則から出発しつつ、「その前提は何か?」「その前提の前提は何か?」とずっと問い続けていくことにある、と指摘しています。しかし、こうした問いの連続はどこまでいってもキリがないので、理性は、一切の経験によらないものの常識とも一致するような原則に逃避することになる、とカントはいいます。しかし、カントによれば、理性はこうした原則に逃避することで、かえって混迷と矛盾に陥ってしまいます。理性の用いる原則は一切の経験を超越しているので、経験による吟味は不可能であり、どこかに間違いがあるはずだと探しても見つけることはできません。カントによれば、この果てしない争いを展開する競技場が形而上学です。すなわち、一切の経験を超えた根本的な原則(世界は有限か無限かというような世界の究極的なあり方に関わるような原則)について、諸々の論争が闘わされてきたのが形而上学だ、というのがカントの説明であることを確認しました。

 続いて「論理学」という用語についてです。これについては、第2版序文において、一切の思惟の形式的規則を漏れなく説明し厳密に証明する学問だ、と説明されていることを確認しました。

 「理性」および「悟性」という用語をめぐっては、悟性は有限的な(経験できる)存在を対象とするものであり、理性は制約されない(超経験的な)存在を対象とするものだ、というようにカントが説明していることを確認しました。また、論理学においては悟性が悟性自身と悟性の形式だけを問題にし、形而上学においては理性が理性自身ばかりでなく、その対象をも究明しなければならない、と説明されているところから、カントが、論理学は悟性に関わるもの、形而上学は理性に関わるもの、という対比において捉えていたらしいことを確認しました。

 なお、以上のようなカントの論については、「武道哲学講義〔Z〕」において、「カントは悟性は経験から学んでくることが可能な論理能力の最上限としてしまうことによって自らの欠陥を隠してしまったのである。またそれだけに、本物の論理能力である理性に関わっては、先験的な存在として棚上げすることにして、自らの無能力を隠すことにも成功したことである」(『南郷継正全集第11巻』pp.307−308)と批判されていることが、チューターより紹介されました。つまり、経験に関わるものが悟性(論理学)であり、理性(形而上学)というのは経験を超えた神様からの授かりものだ、というのがカントの論であるわけですが、これは、経験された事実の論理化を形而上学レベル(学問を統括するレベル)にまで徹底する実力を欠いていたために、理性を経験から切り離して、いわば神棚に祭り上げてしまうようなものであった、というわけです。

 カントの描く形而上学の歴史については、以下のような内容を確認しました。

 カントは、諸学の女王たる形而上学の歴史を、王国の統治にたとえて描いています。カントによれば、王国の統治は最初は独断論者による専制的なものでした。これは、絶対に正しいとされる原則を前提に、そこから世界の全てが説明されていた、ということだと思われます。しかし、その原則は絶対的に正しいものかどうか、きちんと証明されているとはいえないシロモノであったために、しばしば懐疑論者によって攻撃されることになります。しかし、そうした攻撃は散発的なものにとどまり、独断論者の支配が覆されることはありませんでした。状況を大きく変えるのは、ロックの『人間悟性(知性)論』で、結局のところ全ての原則なるものは経験に由来するのだ、と主張されたことで、形而上学の支配が覆ったかに見えたのですが、経験によっては原則の成立を説明しきれないことが明らかになったために、再び独断論者の支配(しかし、それは陳腐な虫食いだらけだ、とされます)が復活することになった、というのです。こうした状況のもと、形而上学への真面目な関心がもたれなくなってしまった、とカントはいいます。しかし、カントは、こうした無関心は見せかけの知識には釣られない成熟した判断力の結果であり、理性が自己認識するための法廷を設けよ、という要求にほかならない、と前向きに捉えています。

 カントによれば、この法廷こそ『純粋理性批判』にほかなりません。理性が経験を超えたものについて論じようとすると混迷と矛盾に陥ってしまう、という問題を正面に据え、理性自身を批判(吟味)することで、形而上学の完成に道を切り拓こうというのが、カントの『純粋理性批判』の意図であるといえます。

 大よそ以上のようなことを確認した上で、論点1に関する議論を終えました。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
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 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
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 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言