2017年02月01日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史、』ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約@

 前回は、シュヴェーグラー『西洋哲学史』でカントが取り上げられている部分の後半の要約を紹介しました。先験的分析論とは、対象を能動的に把握しようとする悟性にもともと備わっている形式が分析される部分であり、量(全体性、数多性、単一性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体性と内属性、原因性と依存性、相互性あるいは相互作用)、様相(可能性と不可能性、存在性と非存在性、必然性と偶然性)の4つが悟性の根本概念(カテゴリー)として示されました。これらの形式が悟性によって対象(物自体を現象させたもの)に付与されるのだ、というわけです。先験的弁証論とは、これらカテゴリーを物自体にまで適用して認識しようとすることによって生じてしまう「先験的仮象」について論じられる部分であり、心理学、宇宙論、神学の3つの領域において、「先験的仮象」が論じられていました。

 さて今回は、ヘーゲル『哲学史』でカントが取り上げられている部分の前半の要約を紹介します。ここでは、カント哲学が総論的に論じられていきます。

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ヘーゲル『哲学史』より「第3部 近代の哲学/第3篇 最近のドイツ哲学」

B カント

 ヤコービにあっては、第一に思惟すなわち証明は、有限的なるものや制約されたものをついに超えないし、第二に、たとえ神が形而上学的対象である場合でさえ、証明はむしろ神を制約し有限とすることに終わる。そして第三に、制約されぬものでありしかも直接に確実なものはただ信仰のなかのみにあり、主観的には動かすべからざるものであるが、それはしかし認識できぬものであり、換言すれば規定されないもの、規定すべきでないもの、したがって実を結ばぬものである。これに反してカントの哲学の立場は、第一に思惟がその推究によって、自らを偶然的なものとしてではなく、むしろ自己自身のなかにおいて絶対に究極的なものとして捉えるに至ったという点にある。有限的なるものにおいて、またそれとの関連において絶対的な立場が現われ、それが中間項ともなって、有限的なるものを結合するとともに、無限的なるものへと昇り行く通路となる。思惟は自己自身を絶対的に決定的なものとして捉えた。思惟の確信にとっては外的なものは何らの権威もなく、一切の権威はただ思惟によってのみ有効となりうる。しかし、この自己自身内で自己を規定する具体的な思惟は、第二に主観的なものとして把握された。主観性のこの側面こそヤコービの見解においてとくに支配的な形式であるが、これに反して思惟が具体的であるということはヤコービがどちらかといえば不問に付したのである。両者の立場はともに主観性の哲学にとどまる。すなわち、思惟が主観的たることによって思惟には即自且対自的存在者を認識する能力が否定されるのである。カントにあっては神は、一面、経験のなかには見出されない。外的経験のなかにもなく内的経験のなかにもない。他面、カントは推論によって神に到達する。すなわち、神は彼にとっては説明のための仮説であり、実践理性の要請である。カント哲学の真実なる点は、自由を容認することである。すでにルソーが自由のなかに絶対者を掲げていたが、カントもまた同一の原理を、理論的な側面から掲げたのである。フランスでは、抽象的な自由を現実に当てはめることで現実を破壊したが、ドイツにおいては、意識が自己に関心をもつということが、ただ理論的な形で遂行されたのである。

〔批判的観念論〕
 全てのものがそれに対して存在すべきものは、つまるところ人間であり自己意識であって、しかもその人間とは全ての人間一般としてのそれにほかならない――こういうことを抽象的な形で意識にのぼらせたのがカント哲学なのである。それは、自己意識に自体的なものの一切の要素を取り戻すことを要求しながら、しかもこの自体的なものをなお自己と区別することによって、みずからは依然として対立から抜けきれないでいる観念論である。カント哲学は、単純な思惟を自己自身に区別を備えたものと解しはするが、一切の実在がまさにこの区別によって成立することを未だ解するに至らず、自己意識の個別性を克服する術も知らず、理性を描くことには巧みを究めるものの、その描き方は、真理それ自身を再び失うような没思想的な経験的な仕方でしかないのである。カント哲学は、知り得るものは真実体でなくただ現象のみであるというにすぎない。それは知を意識と自己意識のなかに導入するものの、この知は主観的な有限的な認識として固定されてしまう。この哲学は、客観的独断論としての悟性形而上学を終息させたが、しかし実際にはそれをただ主観的な独断論に、換言すれば同一の有限な悟性規定が根差している意識のなかに移しかえ、即自且対自的に真なるものを求める問題を放棄してしまったのである。
 カント哲学は、第一に、ヒュームと直接に関係する。カント哲学の一般的意味は、普遍性や必然性という規定は知覚のなかには見当たらないというヒュームの指摘を、ただちにその根本から認めることにある。しかし、ヒュームが総じて範疇の普遍性と必然性に反対し、ヤコービはその有限性を難じたのに対して、カントは、その客観性にのみ反対する。もっとも彼は、数学や自然科学の例が示すように、それが普遍妥当的必然的なものの意味では客観的であるとして主張するが、外的事物それ自身のなかに存在するかのような意味では、その客観性に反対するのである。我々が客観的なものを成立させるものとして普遍性と必然性を希求するという事実は、カントはこれを充分に容認する。しかし、普遍性と必然性が外的事物のなかにないとすれば、それはどこに見出されるかが問題になる。ここでカントはヒュームに反対して、それはアプリオリに、換言すれば理性自身のなかに、自覚した理性としての思惟のなかに存在しなければならない、その源泉は私の自己意識内の主観、自我なのである、という。これがカント哲学を簡明に表わした主要命題である。
 カント哲学は、第二に、その目的がカントの言葉によれば認識能力の批判にあるという理由で、批判哲学とも呼ばれる。すなわち認識する前に、人は認識能力を研究せねばならぬというのである。認識はその場合、真理を獲得するための道具だと考えられている。真理それ自身に到達する前に、まずその道具の性質や作用を認識しなければならない、というのである。しかし、人は認識する前に認識能力を認識すべき、というのはできない相談である。泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものである。とはいうものの、認識を考察の対象としたことは、カントのなした偉大にして重大な一歩ではある。
 第三に、経験によって与えられる材料と範疇との関係についていえば、カントによると、思惟の主観的な規定、例えば、原因と結果のなかには、すでにそれ自身だけで上の材料の区別を結合する素地がある。その限りカントは、思惟を総合的活動と呼び、したがって彼は、哲学の問題を次のように設定する。「如何にしてアプリオリな総合判断は可能であるか」と。アプリオリな総合判断とは、相反するものの自己自身による連関、または絶対概念にほかならない。換言すれば、原因と結果等々のような区別された規定を経験によって与えられないで、思惟によって与えられる関係で関係づけることにほかならない。同じように、空間と時間も結合するものであり、それらもまたアプリオリ、すなわち自己意識のなかにある。カントは思惟が知覚から汲み取られないアプリオリな総合判断を有することを指摘することによって、思惟を自己内において具体的なものとして示すのである。このなかには偉大な理念があるが、展開そのものは粗雑な経験的見解にとどまり、学問的形式をもっていない。
 カントの粗野な表現の一例をあげれば、自身の哲学が純粋理性の諸原理の体系であり、その諸原理は自覚した悟性のなかの普遍的なものと必然的なものとを示すだけで、対象に携わることもなく、また普遍性や必然性の何たるかを研究することもない、という意味で、先験哲学(Transzendental-philosophie)などと呼ぶことである。そうならば、それは超越的(transzendent)というべきだろう。transzendent と tranzendental とは厳密に区別しなければならない。カントは先験哲学を、超越的となり得るものについてその源を主観的思惟のうちに、意識のうちに指摘する哲学である、と規定する。必然的なもの普遍的なものは人間の認識能力のなかにあるとされるのだが、カントはこの人間の認識能力から依然として物自体を区別するから、普遍性と必然性とはただ認識の主観的制約であるにとどまり、理性はその普遍性と必然性をもってしては、真理の認識に到達できないのである。理性は主観性として認識するために、直観や経験、すなわち経験的に与えられた材料を必要とするからである。もし、理性がそれだけで自存しようとし、自己自身においてまた自己自身から原理を汲み取ろうとするなら、理性は超越的となり、経験を超える。それゆえ、理性は認識においては構成的でなくて単に統制的であり、感性の多様に対する統一であり、規則である。しかし、この統一はそれだけでは経験を超えてただ矛盾に陥ってしまう。したがって、理性の批判は、まさに対象を認識することではなく、認識とその原理を認識すること、認識が飛躍的にならないためにその限界と範囲を認識することである。
 以上が一般論であり、続いて個々の部分をみていく。カントは第一に理論的理性、すなわち外的対象に関する認識を考察する。第二に、自己実現としての意志を考究し、第三に判断力、すなわち普遍的なものと個別的なものとの統一を考察の対象にする。いずれにせよ、認識能力の批判が主要な事柄である。
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 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言