2017年02月08日

斎藤公子の保育実践とその背景を問う(1/5)

○目次
(1)待機児童問題が大きくクローズアップされている
(2)斎藤公子は自然環境に触れさせることで子どもの認識を豊かにした
(3)斎藤公子は生命の歴史を辿らせることで脳の発達を促した
(4)斎藤公子は人間としての自由を追い求めた
(5)保育の理論化が求められている

・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)待機児童問題が大きくクローズアップされている

「保育園落ちた日本死ね」

 昨年の2月、匿名のブログで綴られたこのタイトルが大きな話題となりました。保育園に落ちたことに対する、母親の不満を激しい口調でつづったものです。2月29日の衆院予算委員会で、民主党の山尾志桜里議員がこのブログを取り上げたところ、安倍首相は「匿名である以上、実際に本当であるかどうかを、私は確かめようがない」と答弁し、議員席からは「誰が(ブログを)書いたんだよ」「(質問者は)ちゃんと(書いた)本人を出せ」とやじが飛びました。それを受けて、「保育園落ちたの私だ」と訴え、国会前で抗議行動をする人びとも出るようになりました。これをきっかけに待機児童問題が大きくクローズアップされ、このタイトルの言葉は昨年の流行語大賞のトップ10にも選ばれることとなりました。

 待機児童は都市部を中心に大きな問題となっています。厚生労働省が公表したデータによれば、2016年4月現在において、全国で23553人の待機児童が存在しています(注)。都道府県別に見ると、東京都が最も多く8466人と4割弱を占めています。その待機児童を年齢毎に区分すると、0歳から2歳が最も多く、20446人と実に86.8%を占めるに至っています。

待機児童解消に向けた現状と取組 (厚生労働省資料)
http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11901000-Koyoukintoujidoukateikyoku-Soumuka/0000137860.pdf

 もっとも待機児童の問題は以前から国会では取り上げられており、その数の減少に向けた政策も行われています。それが2015年4月から施行された「子ども・子育て支援新制度」であり、それを先取りする形で実施された「待機児童解消加速化プラン」です。「待機児童解消加速化プラン」では、「支援パッケージ」として、以下の5つの柱が掲げられています。

@賃貸方式や国有地も活用した保育所整備(「ハコ」)
A保育を支える保育士の確保(「ヒト」)
B小規模保育事業など新制度の先取り
C認可を目指す認可外保育施設への支援
D事業所内保育施設への支援

 つまり、新たな保育所をつくるとともに、これまで支援が行われていなかった形態の保育にも支援を行うようになったということです。後者については、「子ども・子育て支援制度」では、小規模保育等への給付(「地域型保育給付」)の創設という形になっています。これは小規模保育(利用定員6人以上19人以下)、家庭的保育(利用定員5人以下)、居宅訪問型保育、事業所内保育(主として従業員のほか、地域において保育を必要とする子どもにも保育を提供)について、市町村の認可を受けた場合は支援が行われるもので、「待機児童が都市部に集中し、また待機児童の大半が満3歳未満の児童であることを踏まえ、こうした小規模保育や家庭的保育などの量的拡充により、待機児童の解消を図る」ものだとされています。

 保育所の数が増えれば当然保育士の数も必要になりますから、その人材の確保として、「保育を支える保育士の確保(「ヒト」)」が掲げられているわけです。具体的には、「潜在保育士の復帰を促進し、他業種への移転を防ぐための処遇改善」「認可外保育施設等で働く無資格者の保育士資格取得支援」が掲げられています。実際に来年度予算では保育士の給与のプラス2%の改善が図られる予定です。また、技能や経験に応じた給料アップの仕組みも強化される予定です。

 このように、これまで支援対象外であった保育の事業への支援の拡大、また、潜在的保育士(保育士の資格を持っているにもかかわらず、保育園などの保育に関係した職場に就業していない人)の復帰という形での受け皿づくりが進められているわけですが、このような量的拡大は保育の質の低下を招くものだという批判があります。

 保育の質というと、保育所での子どもの事故の防止ということがクローズアップされる傾向がありますが、決してそのような最低限の環境を保証するという意味に留まるものではありません。例えば、日本総研主任研究員の池本美香氏は、「保育への投資はリターンが大きい」「幼児期の教育の質が、学校教育の効率性を左右する」というシカゴ大学のヘックマン教授の言葉を紹介し、「すべての乳幼児に質の高い教育を保障するという観点から、保育所を学校と同列の教育機関と位置づけ、学校を担当する省庁が保育所を所管する国も増えてい」ることに触れ、「目先の待機児童解消に取り組むより、より長期的な視野を持って、子どもの権利や効果的な公的投資の視点から、すべての子どもに質の高い保育を保障する方向に、舵を切ることが求められ」ると主張しています。

「待機児童問題と保育の『質』」(視点・論点)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/243476.html

 また、保育士であった海保静子先生は、次のように述べています。

「保育園はどういうことなの?と疑問をもたれるお母さん方もあるでしょう。(中略)やさしくいうなら、お手々つないでなかよく学校へ行け、なかよくケンカしながらよくあそぶことのできる人間関係ないしは人間的関係の育ちを学ばせる(しつける)構造をもつものです。世上、法律上、そうなっているばかりによく誤解されているような、親がいないからとか、親がはたらいているからといった家庭的に<保育に欠ける>子のあずかり場ではない!のです。本当は、若い親としてまだ十分でない父母よりも、プロとしての保育が可能な保母の下での集団的な育ちが、どれほどに大切かをわかっていただけるとよいのですが。」(海保静子『育児の認識学』現代社、1999年、p.271)


 つまり、決して保育園は忙しい親の代わりに見るところではなく、保育の専門家として、子どもの育ちを保障する場なのだということです。

 保育とはそのような専門性をもった仕事なのだということを示す人物こそ、本稿で取り上げる斎藤公子(1920-2009)にほかなりません。斎藤公子は戦後、環境も十分に整わない中で子どもたちの保育に全力を尽くしました。その中には重度の障害を負った子どももいましたが、「0歳から預かった子の場合、脳性麻痺や自閉症、脳の発達の遅れは解消されて一人も問題は残らなかった」(小泉英明『アインシュタインの逆オメガ』文藝春秋、2016年、p.146)ということです。実際、斎藤公子の著作の中では、重い障害を負った子どもがその保育によって大きな成長を遂げていく姿が描かれています。

 その中にマリネスコ・シェーグレン症候群の子どもの事例があります。マリネスコ・シェーグレン症候群は難病指定されており、小脳形成不全、筋無力、先天性白内障という三重苦を抱えています。独歩獲得も約35%というものですが、斎藤公子に育ててもらったこの子どもは、卒園の時には自分で3歩歩けるようになり、1年生で20歩、さらに歳を経るごとに歩けるようになっていって、5年生のころには3000メートル級の山を登り切ったということです。さらに、視力も思春期に入って1.0となり、普通の人と同じように見えるようになりました。成人になってからは、親元を離れて作業所で働き、終末には電車を乗り継いで実家に帰ってくるという生活をするようになったそうです。

 本稿では、このような事実を生みだした斎藤公子の保育実践とその背景について見ていきたいと思います。斎藤公子の保育実践というとリズム遊び、お話の語り聞かせ・読み聞かせ、描画が大きな特徴なのですが、その土台として、子どもが自然と関わることを重視していたことを見逃すわけにはいきません。そこで本稿では、この点に焦点を当てながら、斎藤公子の保育実践の背景を探っていきたいと思います。
posted by kyoto.dialectic at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月07日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までに、例会で報告されたレジュメを紹介したあと、2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介してきました。

 最終回となる今回は、例会を受けての参加者の感想を掲載しておきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、カント『純粋理性批判』を読んでいくに当たっての指針を獲得したいと考えていたが、その観点からして大きな収穫があったと感じている。

 まず報告者レジュメで、南郷先生が『純粋理性批判』について触れている箇所が引用されていたが、ここで説かれている南郷先生の言葉をしっかりと理解することがこの2年間の目標となるだろう。常にこの南郷先生の言葉をアタマに入れながら、『純粋理性批判』を読んでいくようにしなければならないと思った。

 中身を具体的に言うと、『純粋理性批判』は二律背反と物自体論が学的に評価できるものであり、カントはこれまでの哲学の成果を二律背反としてまとめたものの、二律背反をどう解決すればいいのかがわからず、物自体論という形で逃げてしまったということである。したがって、二律背反がどのようにして生まれてきたのか、また二律背反をどのように解決すればいいのかという観点から、『純粋理性批判』を読んでいくのがよいのだろうと思った。

 また、南郷先生は学問への準備運動として、ヘーゲル『哲学史』→カント『純粋理性批判』→ヘーゲル『エンチクロペディー』という過程を辿らなければならないと説いておられるが、これも1つには以上のような観点から意味づけることできるということがわかったのもよかった。つまり、哲学の歴史を大きく押さえた上で、それがどう結実して『純粋理性批判』(二律背反)になったのか、また二律背反をどうヘーゲルは解決したのかという過程を把握することをとおして、世界全体の体系的なイメージを創るということである。

 以上のような形で、『純粋理性批判』を読んでいくための指針とその意義を確認できたことがよかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、これまでのシュヴェーグラー『西洋哲学史』やヘーゲル『哲学史』の学びを踏まえて、カントの『純粋理性批判』の全体像をアバウトに描くとともに、それを大きな哲学の発展史の中に位置づけることを目的として臨んだ。『純粋理性批判』の構成に従って、それぞれの個所でどのようなことが説かれているのかをしっかり確認できた。また、ヒュームの懐疑論によって、独断論のまどろみから覚めたカントは、それでも科学的認識の確実性を求めて研鑽していたこと、カントのいう「構想力」がヘーゲルの絶対精神につながっていった可能性が高いことなども再確認できた。

 しかし、今回の例会で一番の収穫だったのは、南郷継正先生の言葉を通して、二律背反論と物自体論の関係が明確に掴めたことである。すなわち、カントは二律背反の問題に解答しようと苦しんだ挙句、その解答として物自体論を出したのだ、ということである。『純粋理性批判』の叙述の順序はこれとは逆になっていることもあって、このようなつながりは意識できない可能性があるだけに、われわれはここを明確に意識しながら読んでいく必要があるだろう。

 また、二律背反は、カント以前の哲学的成果を総括したものである可能性が高く、そのようなものとして捉えていく必要性も感じた。さらに、物自体論も含めて、現象論レベルでとらえてはいけないという指摘もあり、これはどういうことか現時点では不明であるが、ヘーゲルや三浦つとむレベルの把握の仕方では不十分なのだということだけは強烈に意識させられた。『武道哲学講義(第二巻)』では、「諸氏には『純粋理性批判』の学習はとても難解だと思うが、これは本書で説いている弁証法の成立過程に諸氏がしっかりと学んでいれば、次第にカントの理論の中身が分かってくることになっていく」と説かれているということなので、この書をしっかりと学びながら、カント『純粋理性批判』を読んでいく2年間としたいと思った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、シュヴェーグラー『西洋哲学史』とヘーゲル『哲学史』における、カント『純粋理性批判』の内容を確認することをテーマに議論が行われた。私自身の問題意識としては、カント哲学の全体像を、「二律背反」論と「物自体」論を中心にしっかりと把握しておくということがあった。

 報告レジュメにおいて、南郷継正先生のカントに関わる記述が引用されていたことによって、「二律背反」論と「物自体」論の関係がすっきり整理できたことが今後の学びにとって非常に大きかったと思う。つまり、カントは説くことのできない二律背反に陥ってしまったために、悩んだ挙句、それは物自体の性質によるのではなくて、かえって物自体に何の性質もないためだとしたのであった。物自体にあると思っている性質は、実は人間の認識が与えたものであって、物自体は人間の認識では捉えられないもの、人間の認識が捉えることができるのはただ現象の世界であるにすぎないとしたのである。

 こうしたカント哲学の中心概念の理解を踏まえて、今後具体的に『純粋理性批判』を読み進めていくことにしたのである。もちろん、個々の記述の内容で理解できない場面も多々あるとは思うが、細かい中身に振り回されることなく、弁証法の生成発展の歴史もしっかりと学び返す中で、カント哲学の理解を深めていきたいと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 1月例会では、報告レジュメの担当となっており、どういう内容のものにすべきか色々と悩んだのだが、最終的には、『純粋理性批判』に関わって南郷継正が説いている内容をまとめるものにした。南郷継正は、カントの哲学で評価に値する成果は二律背反と物自体論であること、二律背反の解決に悩んで物自体論が出てきたという関係(立体構造)があること、二律背反が出てくる必然性を古代ギリシャ以来の弁証法の発展史にたずねなければならないことなどを、説いていた。こうしたことを、『純粋理性批判』そのものを読んでいく前提として、しっかりと確認することができたのは、今後の例会の進行にとって非常によかったのではないかと思っている。『武道哲学講義(第二巻)』などの弁証法の発展史を真面目に学んでいけば、難解な『純粋理性批判』もだんだんと理解できていくはずなのだ、と説かれているのも、大いに勇気づけられるものであった。ヘーゲル『哲学史』の再読とも絡めて、しっかりと取り組んでいきたい。

(了)
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(9/10)

(9)論点3:カント『純粋理性批判』は哲学史上、どのように位置づけられるか

 前回は、カント『純粋理性批判』ではどのようなことが説かれているのかに関する議論について見ていきました。ここでは主に、「二律背反」論と「物自体」論が展開されていて、世界についての解くことのできない矛盾を「二律背反」として述べられるとともに、それを解消すべく、物自体には何の性質もなく、物自体に備わっていると思う諸々の性質は、実は人間の認識が物自体に与えて現象させたものに過ぎないという「物自体」論が展開されているということでした。

 さて今回は、3つ目の論点として、『純粋理性批判』の哲学史上の位置づけに関する論点を見ていきたいと思います。

論点3:カント『純粋理性批判』は哲学史上、どのように位置づけられるか

 カント『純粋理性批判』は哲学史上、如何なる問題に如何なる解決を与え、如何なる課題を残したのか。また、その成果(特に「二律背反」論、「物自体」論)はどのようにその後のドイツ観念論に受け継がれ、ヘーゲル哲学(絶対精神論)につながっていくのか。ヘーゲル『哲学史』からカント『純粋理性批判』を経て、ヘーゲル『エンチクロペディー』へと学びを進めていく必要がある(南郷継正先生の言)のはなぜか。

 この論点に関しては、まず、『純粋理性批判』は哲学史上、如何なる問題に如何なる解決を与えたのかという問題について確認しました。この論点に関しては、大きな見解の相違はありませんでした。すなわち、大きな観点からすれば、イギリス経験論と大陸合理論が掲げた真理の源泉について、カントが解答を出したということがいえるのであって、より具体的には、ヒュームの因果律批判が提起した大問題、すなわち、人間の認識と現実の世界の客観的法則性とはどのように関係しているのかという大問題に対して、人間の認識は自身にもともと備わっている枠組み(感性的直観の純粋形式としての時間・空間、および純粋悟性概念の12のカテゴリー)から物自体の世界に問いかけることによって、自身の対象となる現象の世界(客観的世界)を成立させるのだ、換言すれば、現象の世界に存在する客観的法則性は人間の認識によって創造されたものにほかならないのだ、と解決することによって、客観的法則性の認識可能性を根拠づけ、因果律の客観的妥当性を主張したのだ、ということでした。

 カントが残した課題についても概ね共通した理解で、物自体と自我とを絶対的に区別し、世界を物自体の世界と現象の世界とに2つに分けてしまったことが問題で、二律背反を客観的世界の性質にもとづくものとして捉えきるという課題が後世に残ったということでした。ここに関しては、カントが物自体論として逃げてしまった課題をヘーゲルが解決したのではないかとか、カントを読む上では二律背反と物自体論に全てを収斂させて読んでいくべきだという意見が出されました。

 カント哲学がどのようにヘーゲル哲学につながっていくのかという問題については、ヘーゲルはカントが第1版で述べた「自我と物自体とが同一の思考的な実体であることはありえないことではない」という問題提起を突っ込んで検討し、カントのいわゆる直観的悟性に解決の糸口を見出し、ここから絶対精神の自己運動として、自我=世界は矛盾によって発展していく存在だと考えたのではないかとい見解が示されました。これは黒崎政男『「純粋理性批判」入門』(講談社選書メチエ)の記述を参考にした見解ですが、内容的に非常に難しいという声も上がりました。重要なことは、この見解と南郷さんの二律背反に悩んで物自体論に行ったのだという論とを合わせて考えて熟成させる必要があるということであって、必ず絡む、大きな弁証法の歴史としてカントからヘーゲルの流れをつかむ必要があるということを全員で確認しました。

 最後に、ヘーゲル『哲学史』からカント『純粋理性批判』を経て、ヘーゲル『エンチクロペディー』へと学びを進めていく必要がある(南郷継正先生の言)のはなぜかという問題についてです。この論点に関しては、以前ある会員が我々の師に質問し、師から得た回答を踏まえて、以下のように見解をまとめました。すなわち、ごくごく簡単に(大雑把に)いえば、『哲学史』は一般教養、『純粋理性批判』は認識論、『エンチュクロペディー』は弁証法(論理学)ということであり、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について、徹底的に突き詰めて考え抜いたのが『純粋理性批判』だといえるであろう、端的には、認識論の問題ということであるが、角度を変えていえば、自己がこの世界とどのように対峙していくか、「そもそも何のために学問を?」という姿勢に関わるところをしっかりと押さえた上で、全世界の論理的体系的把握(『エンチュクロペディー』)に進まなければならない、ということがいえるのではないだろうか、ということでした。この見解については皆が同意しました。さらにこの会員は、『エンチュクロペディー』はそれなりの世界の全体像を描いたものであって、『純粋理性批判』はこれまでの哲学をまとめたものであり、これらを理解するためには『哲学史』が分かる必要がある、ということもいえると発言しました。別の会員も、まずは哲学の全体像を押さえるために哲学の流れを『哲学史』で把握し、そこから『純粋理性批判』によって世界全体の「本質論的構造論」を学び、その学びをふまえて、自然や精神といった諸々の事物・事象に関して筋を通して学んでいく必要がある(『エンチュクロペディー』)、という趣旨の見解を示しました。

 以上のような議論を行い、今回の例会における論点についての議論を終了しました。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月05日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(8/10)

(8)論点2:カントは『純粋理性批判』で何を説いたか

 前回は1つ目の論点、すなわちカント『純粋理性批判』の構成及びカントの問題意識に関する論点についての討論を見ていきました。カントはヒュームの主張に反駁して、自然科学的認識の確実性を明らかにすべく、認識能力そのものの研究を行おうとして『純粋理性批判』を執筆したのであって、ここでは、認識の2つの主要な要因として、感性(受容性)と悟性(自発性)とを挙げ、先験的感性論、先験的分析論、先験的弁証論という3つの構成で論を展開しているということでした。

 さて今回は、2つ目の論点として挙げられた、『純粋理性批判』の中身に関する論点について見ていきたいと思います。

論点2:カントは『純粋理性批判』で何を説いたか

 カントは『純粋理性批判』において、何を説いたのか。特に「物自体」論と「二律背反」論については、哲学史上、重要な概念であると考えられるので、「二律背反」論とはどのようなものか、「物自体」論とはどのようなものか、「二律背反」論と「物自体」論とはどのような関係にあるのかについて議論したい。

 この論点に関しては、まず、端的にいえば、『純粋理性批判』では人間の認識能力とはどのようなものかということが説かれているということを確認しました。このことを踏まえて、我々の弁証法の教科書である三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の中からカントについて説かれている部分を読み合わせました。

「世界は時間のうちに一つの出発点をもち、また空間的にも限界があるということを証明できますが、それと同時に、世界は時間的な出発点もなければ空間的な限界もないことをも証明できるのです。この解くことのできない矛盾が、「二律背反」として述べられています。この矛盾が何に基づいているかをカントは正しく解決しなかったとはいえ、それが必然性として指摘されたことは、弁証法にとって重要な進歩だといえましょう。カントは、この矛盾が、世界自体の性格に原因するもの、すなわち客観的な矛盾に原因があるものとは考えませんでした。彼は、わたしたちが物自体にそなわっていると思う諸性質を、認識から与えられたものと解釈しました。人間の認識はもともとそういう能力をそなえているのであって、物自体は何の性質も持っていないし、わたしたちの認識の向こうの岸にあってとらえることができない存在だと主張しました。」(p.60)

 さらにある会員は、論点1の『純粋理性批判』執筆時のカントの問題意識と絡めて、我々が眺めている客観的な世界(現象の世界)は、我々の認識の側に備わっている条件によって、きちんと因果律が成り立つものとして構成されている(人間の認識がまさにそのようなものとして創造した!)ということになる、ということが説かれていることを強調しました。

 さて、ではもう少し具体的にカントの主張を見ていくとどうなるでしょう。まず、「二律背反」論とはどのようなものかについて押さえていきました。これは悟性の諸カテゴリーを制約されないものに適用しようとすることで陥る矛盾のことであり、悟性概念の4つのカテゴリーに対応して、4つの二律背反があるということでした。また、「物自体」論に関しても議論し、端的には、我々の認識が捉えることができるのは、あるがままの「物自体」ではなくて、現象の世界に過ぎず、「物自体」は何の性質も持っていないのだという論であることを確認しました。ここでは、『純粋理性批判』だけを読んでいても、「二律背反」というのは単に先験的仮象の1つとして出てくるだけで、それが重要であることは分からないのではないかとか、三浦さんの理解ではカントが哲学史を踏まえた成果として「二律背反」論を提出していることがよく分からない、哲学史の総決算だという感じがしないから、二律背反の突っ込んだ検討が必要で、哲学の成果を4つに整理したということをしっかりと掴む必要があるのではないかとかいった意見が出されました。

 最後に、「二律背反」論と「物自体」論とはどのような関係にあるのかについて考えていきました。まず、南郷継正『全集第12巻』にある「論理学基本用語 五十」の記述を確認しました。すなわち、「二律背反の先にある難問の解決に悩んだあげく、二律が背反するのは、対象の性質のゆえではなく対象に性質がないが故として論理の問題として自分の観念たる認識、すなわち頭脳活動の実力に解決を求めてしまったのである。つまり、対象が二律になるのは、対象の成立が実際には無なるがために、自らの観念である認識の働き、すなわち頭脳の働きで、二律のどちらにもなるのだ、すなわちどちらも正しいのだ、としたのである」(p.113)という部分です。ここでは端的には、「二律背反」を解消するために「物自体」論が出てきたのだということです。この部分に関しては、三浦さんの文章では明確には説かれていないことであるし、『純粋理性批判』そのものにおいても「物自体」論が先に説かれることもあって、なかなかこうした理解には到達できない、だからこそこれは決定的に重要な指摘なのではないか、ということで意見が一致しました。

 ともかく、今後『純粋理性批判』を読み進める上で、以上のことを指針として学んでいくことを確認して、この論点に関する議論を終えました。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月04日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(7/10)

(7)論点1:カント『純粋理性批判』の構成はどのようなものか

 前回は、シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』においてカント『純粋理性批判』が取り上げられていた部分のうち、ポイントとなる部分を改めて振り返った後、1月例会で提出された3つの論点を紹介しました。

 今回から、その3つの論点について順次検討した内容を紹介していきたいと思います。まず1つ目の論点として挙げられたのは、カント『純粋理性批判』の構成を問う論点です。

論点1:カント『純粋理性批判』の構成はどのようなものか

 これから2年間にわたってカント『純粋理性批判』を読んでいく前提として、どういう構成で論が展開されているのか、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の記述に沿って、その全体像を確認しておきたい。合わせて、『純粋理性批判』を執筆したときのカントの問題意識も確認したい。

 この論点については、まず、カント『純粋理性批判』の構成に関して確認していきました。概ね見解は共通していて、カントが認識の2つの主要な要因として、感性(受容性)と悟性(自発性)とを挙げていることに触れた後、大きく先験的感性論、先験的分析論、先験的弁証論という3つの構成で本論を展開していることが指摘されました。また、先験的感性論では、感性の純粋形式は空間と時間であること、我々は物をありのままに認識するのではなくて、時間と空間という主観的媒質を通して物が我々に現象する姿を認識するに過ぎない、ということなどが論じられ、先験的分析論では、空間と時間という感性的直観の形式によって把握された対象が、さらに悟性にもともと(ア・プリオリに)備わっている形式(カテゴリー)によって把握されること、そのカテゴリーとは量(全体性、数多性、単一性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体性と内属性、原因性と依存性、相互性あるいは相互作用)、様相(可能性と不可能性、存在性と非存在性、必然性と偶然性)であることが論じられ、先験的弁証論では自然科学のように経験に基づくのではない(霊魂とは何か、世界とは何か、神とは何かなどを扱う)形而上学が扱われ、このような無制約的な理念に、悟性の概念を適用しようとすれば、われわれを欺く先験的仮象が生まれること、この先験的仮象は、心理学的理念、宇宙論的理念、神学的理念という3つにおいて論じられ、心理学的理念に関わっては魂の不滅の問題が、宇宙的理念に関わっては二律背反の問題が、神学的理念に関わっては神の存在証明の問題が論じられていることをそれぞれ押さえていきました。

 さらに、悟性を感性的対象に適用するには、感性と悟性との中間的な第三のものによって媒介される必要があるとして、「先験的図式」や「構想力」が取り上げられているという指摘もありました。シュヴェーグラーによれば、感性によって得られた素材とカテゴリー(純粋悟性概念)とは異質なものなので、それらを統一するために第三のものが必要であって、それを「先験的図式」や「構想力」と呼んで議論を深めていったということでした。感性と悟性との関係については、感性がイギリス経験論、悟性が大陸合理論の流れをくむものだという指摘もありました。大枠としては、感性と悟性の中間に値するものとして、「先験的図式」や「構想力」というものをカントが想定していたのだということを押さえておけばいいのではという結論になりました。

 次に、『純粋理性批判』を執筆したときのカントの問題意識について、議論していきました。この点についても概ね意見は一致していました。すわなち、カントの問題意識は、端的にいえば、因果律(原因と結果のつながり)は主観的な信念にすぎない、というヒュームの主張に反駁して、自然科学的認識の確実性を明らかにしたい、ということであって、人間が何を認識できるかを明らかにするために、認識能力そのものを研究しなければならないというものであった、ということでした。ここでチューターが、ある会員の見解に対して、「ヴォルフの独断論」という表現が使われているが、これは具体的にどのようなものか質問しました。これに対してその会員は、独断論とは経験によらずに神などの確実なもの(世界)についての認識を得られるということであって、ヒュームの懐疑論と対をなすものであるという説明をしました。これに対してはチューターも概ね納得しました。

 以上でこの論点に対する議論を終了しました。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月03日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、シュヴェーグラー『西洋哲学史』及びヘーゲル『哲学史』において、カント『純粋理性批判』がどのように取り上げられていたのかの要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところを振り返っておきたいと思います。

 まず、『西洋哲学史』に関してみていきました。純粋理性(理論的理性)の批判では、我々がこの世界をア・プリオリに認識しうるか否かが問題となっています。ここでカントは、認識を2つの要因、すなわち感性(受容性)と悟性(自発性)とに分けた上で考察しています。先験的感性論では、感性的認識に本源的に具わっている形式として、空間と時間の問題が説かれます。空間と時間はあくまでも主観的な形式であって客観的実在ではない、とカントは主張したのでした。結局、カントにおいては、我々は物をありのままに認識するのではなく、時間と空間という主観的形式を通して物が我々に対して現象する姿を認識するにすぎないのだ、ということになるのでした。我々は物自体(Ding an sich)ではなく現象(Erscheinung)を認識するにすぎない、ということこそ、純粋理性批判におけるカントの核心的な主張であるともいえます。

 先験的分析論においては、悟性の本源的形式が考察されています。ここは、対象を能動的に把握しようとする悟性にもともと備わっている形式が分析される部分であり、量(全体性、数多性、単一性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体性と内属性、原因性と依存性、相互性あるいは相互作用)、様相(可能性と不可能性、存在性と非存在性、必然性と偶然性)の4つが悟性の根本概念(カテゴリー)として示されていました。これらの形式が悟性によって対象(物自体を現象させたもの)に付与されるのだ、というのがカントの主張です。

 さらに、先験的弁証論においては、カテゴリーを物自体にまで及ぼして認識しようとすることによって生じてしまう「先験的仮象」について論じられていました。カントは、理性の誤った使用(理性を無制約的なものにまで及ぼそうとすること)によって、心理学、宇宙論、神学の3つの領域において、二律背反が生じてしまうことを示したのでした。例えば、宇宙論的仮象においては、「時間・空間は有限である」という定立(テーゼ)と「時間・空間は無限である」という反定立(アンチテーゼ)との二律背反など、4つの二律背反が示されています。

 続いて『哲学史』に関してです。カント哲学の全般的な特徴として、ヘーゲルは、@普遍性や必然性を否定したヒュームの議論を受け止めつつ、普遍性と必然性は思惟のなかに存在するとしたこと、A認識する前に認識能力を認識すべきだとしたこと、Bア・プリオリな総合判断は思惟によって与えられる関係で関係づけることだとしたことを挙げていました。ヘーゲルは、認識する前に認識能力を研究しなければならないというカントの主張について、泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものだ、と厳しく批判する一方で、認識能力そのものを研究の対象として設定したことについては、カントのなした偉大な一歩であったと評価していました。

 カントの純粋理性批判に関わってヘーゲルは、理論的意識の三段階区分――感性、悟性、理性――が、もっぱら経験的になされたもので概念の必然的な展開としては把握されていないと指摘していました。その上で、三段階のそれぞれについてのカントの議論を検討していました。カントによれば、経験によって与えられた材料は、感性の純粋形式である時間と空間の枠組みで取り込まれ、悟性の普遍的思惟規定であるカテゴリーと結合することで、はじめて認識が成立します。カントによれば、このようにして認識できるのは、物自体ではなく現象です。カントによれば、カテゴリーは悟性の対象たる有限的な存在には適用できるものの、理性の対象たる制約されないものに適用しようとすると、4つの二律背反に陥ってしまいます。カントはこの二律背反について、物自体ではなく主観の側に存在するものだと説きました。

 ヘーゲルは、こうしたカントの議論について、時間空間の本来の性質やカテゴリーの必然性を問題にしていない点を批判していました。また、純粋感性と純粋悟性との共通の根に位置付けられる直観的悟性について、突っ込んだ考察がなされていない点をも批判していました。さらに、カントの二律背反論については、二律背反の必然性を指摘したことを高く評価しつつ、矛盾はただ我々の思惟のなかにあるもので物自体は矛盾していないのだとしてしまったことを批判していました。

 以上のような内容について、例会では大きく3つの論点が提示されました。そして、各論点をめぐって様々な議論・討論がなされていきました。そこで今回は、その3つの論点を紹介したいと思います。次回以降、それぞれの論点をめぐってなされた討論過程と、その結果どのような(一応の)結論に到達したのかということを詳しく紹介していく予定です。

論点1:カント『純粋理性批判』の構成はどのようなものか

 これから2年間にわたってカント『純粋理性批判』を読んでいく前提として、どういう構成で論が展開されているのか、シュヴェーグラー『西洋哲学史』の記述に沿って、その全体像を確認しておきたい。合わせて、『純粋理性批判』を執筆したときのカントの問題意識も確認したい。

論点2:カントは『純粋理性批判』で何を説いたか

 カントは『純粋理性批判』において、何を説いたのか。特に「物自体」論と「二律背反」論については、哲学史上、重要な概念であると考えられるので、「二律背反」論とはどのようなものか、「物自体」論とはどのようなものか、「二律背反」論と「物自体」論とはどのような関係にあるのかについて議論したい。

論点3:カント『純粋理性批判』は哲学史上、どのように位置づけられるか

 カント『純粋理性批判』は哲学史上、如何なる問題に如何なる解決を与え、如何なる課題を残したのか。また、その成果(特に「二律背反」論、「物自体」論)はどのようにその後のドイツ観念論に受け継がれ、ヘーゲル哲学(絶対精神論)につながっていくのか。ヘーゲル『哲学史』からカント『純粋理性批判』を経て、ヘーゲル『エンチクロペディー』へと学びを進めていく必要がある(南郷継正先生の言)のはなぜか。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月02日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約A

 前回は、ヘーゲル『哲学史』でカントが取り上げられている部分の前半の要約を紹介しました。そこでは、認識する前に認識能力を研究しなければならないというカントの主張に対して、ヘーゲルがそれはできない相談だと非難していたこと、しかし認識を考察の対象としたことはカントの偉大な成果だと述べられていたことを紹介しました。

 今回はヘーゲル『哲学史』でカントが取り上げられている部分の後半の要約を紹介します。ここでは、理論的理性が感性、悟性、理性という3つの主要段階に分けて説かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ヘーゲル『哲学史』より「第3部 近代の哲学/第3篇 最近のドイツ哲学」

B カント(承前)

1〔理論的理性〕
 
 カントは純粋理性批判において、理論的意識の主要段階を叙述する。第一の能力は感性一般、第二は悟性、第三が理性である。以上は、概念からの発展として必然性をもって進行するものではなく、全く経験的にとりあげられたものである。

a、感性
 先験的なものの出発点は、感性におけるアプリオリなもの、感性の形式である。この感性についての論定を、カントは先験的感性論と呼ぶ。カントによれば、直観とは感性によって我々に与えられた対象の認識であり、感性とは外的なものとしての表象によって触発される能力にほかならない。直観には色や硬さや怒りや愛や快等々あらゆる種類の内容が見出されるが、こうした材料のなかにありながらそれとは別のものとして、空間と時間の規定が含まれる。空間と時間は純粋直観すなわち抽象的直観であり、その直観のなかにおいて我々は個々の感覚の内容を、あるときは時間のなかで前後に流れるものとして、あるときは空間のなかに並立するものとして、我々の外に置くのである。カントは、外的な物自体は時間空間を欠いており、それらが意識によって経験されることの制約として時間空間が加わるのだ、というように考える。そうであるならば、一体どうして、心はほかならぬ時間空間という形式的制約をもつのであろうか。しかし、時間空間の本来の性質は何かということは、カント哲学は全く問題にしないのである。

b、悟性
 感性は受動性であるが、思惟一般は自発性であるとカントはいう。悟性は感性から経験的な材料とアプリオリな材料(時間と空間)を得て思惟する。感性と悟性の双方が働いたときのみ、認識が姿を現わす。先験的論理学は、悟性がアプリオリにそれ自身においてもつ概念を掲げる。思想のもつ形式は多様を統一にもたらす総合的機能である。この統一は、先験的統覚たる自我・自己意識の純粋統覚作用であり、自我はあらゆる我々の表象に随伴するとされる。生硬な言い方だが、偉大で重大な認識である。
 自我が、表象一般の経験的材料を結合するのは、普遍的思惟規定たる範疇の先験的な本性である。カントによれば、12の根本範疇があり、これが3元をなす4つの組に分かたれる。@量の範疇…単一性・雑多性・総体性。A質の範疇…実在性・否定性・制限性。B関係の範疇…実体と偶有性・原因と結果・相互作用。C様態の範疇…可能性・現実性・必然性。カントが、第一の範疇は積極的であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だといっているのは、概念の偉大なる本能である。しかし、カントは、これらの範疇を経験的にとりあげるだけで、統一からこれらの差別を必然性をもって発展させることには思い至らない。
 これら範疇はそれだけでは空虚であり、知覚や感情等々の与えられた多様な材料と結合してはじめて意味をもつ。感情または直観に属する知覚の材料はその個別性と直接性の規定のままに放置されず、むしろ私はそれに対して働きかけてそれを範疇によって結合し、普遍的類や自然法則等々に高めるのである。経験のなかにこれら2つの構成部分を見出すことは正当であるが、カントはこれに結び付けて、経験は単に現象を捉えるにすぎない、としてしまう。
 純粋悟性概念が如何にして現象に適用され得るかの可能性を示すのが、先験的判断力である。純粋直観を範疇にしたがって規定し、経験への移り行きをなすのは、純粋悟性の図式論であり、先験的構想力である。これによって先に絶対的に対立するとされた純粋感性と純粋悟性とが今や合一される。そこには直観的悟性あるいは悟性的直観が含まれるのだが、カントはそうは考えず、この思想をまとめ上げることはしない。

c、理性
 カントは悟性から出発して同じく心理学的に理性に向って進んでいく。理性はカントによれば、原理から認識する能力、すなわち、概念によって特殊的なるものを普遍的なもののうちに認識する能力である。悟性は有限的な関係における思惟であり、理性は制約されぬものを対象とする思惟であって、理性の産物は理念だとされるが、カントにおいてそれは抽象的な普遍的なるもの、規定されぬものにすぎない。
 この制約されぬものを具体的に把握することに真の困難がある。ここでカントは、理性は無限的なるものを認識しようとしつつそれを果たしえない、という。その第一の理由は、無限的なものは感性的知覚の世界には与えられない、ということである。しかし、そもそも無限的なものを感性的に知覚しようというのが誤りである。第二の理由は、理性が範疇という思惟形式以外のものをもたない、ということである。範疇は客観的規定を与えるが、それ自体においては主観的なものであり、ただ現象に適用され得るこれら範疇を無限的なものの規定に用いるならば、誤った推理と矛盾(二律背反)のなかに巻き込まれてしまう――これがカント哲学の重要な規定である。
 制約されぬものには、形式論理学の3つの理性推理――断言的・仮言的・選言的――にしたがって、3つの種類がある。第一は思惟する主観、第二は一切の現象の総体、すなわち世界、第三は思惟され得る一切のものの可能性の最高の制約を含むもの、すなわち神である。
(α)先験的主観の統一という必然的な理性理念が物としていいあらわされる点に、推理の誤謬が生じる。自我は自己自身のなかで持続的であるが、ただ意識のなかだけでそうなのであって、意識の外においてではない。我々が思惟するものについて表象をもつのは、外的経験によってではなく、単に自己意識によってである。自我が主観的であることは分かっても、我々が自己意識を超えてそれを実体であるというならば、我々は我々に正当に許された範囲以上に出ることになる。したがって、私は主観に何らの実在性をも与えることはできない。カントが自我について、感性的存在をもつ心的事物や死んだ持続体でないと主張するのは正当である。しかし、カントはこれと正反対の点、すなわち、この普遍的なるもの、または自己思惟としての自我が、彼が対象的あり方として望む真の現実性を自己自身に備えているということを主張しない。彼は、実在性とは感性的実在であるというような考え方を抜け切れていないのである。
(β)二律背反、すなわち制約されぬものの理念を世界に適用し、世界が諸制約の完全な総体であると叙述するときに生ずる矛盾。現象は有限であり、世界は制限されたものの連関であるが、もしこの理性の内容が思惟されて制約されぬもののうちに包括されると、有限と無限という相互に矛盾する2つの規定が生じる。カントは4つの矛盾を指摘するが、本当はあらゆる概念のなかに二律背反があるのである。
 (αα)二律背反の第一。「定立 世界は時間において始めと終わりがあり、また限られた空間内にある。反定立、世界は時間において始めも終わりもなく、また空間においても限りがない」。カントは両方とも充分に証明され得るという。
 (ββ)第二の二律背反。定立は「合成された実体はいずれも単一な部分からなる」、反定立は「単一なるものは存在せず」。
 (γγ)第三の二律背反は自由と必然性の対立である。
 (δδ)第四の二律背反。一方において、総体が完結するのは出発点として自由というものがあるか、世界の原因として絶対的必然的存在があるかいずれであるが、いずれにしても当然に進行は中断される。しかし他方において、自由に対しては原因結果の制約による進行の必然性が対立し、必然的存在に対しては一切が偶然であるということが対立する。すなわち「世界には端的に必然的な存在がある」、その逆は「世界の部分としても、世界の外にも端的に必然的な存在は存在しない」。
 これらの矛盾の必然性こそ、カントが我々に意識させた興味ある側面である。しかし、彼はこれら二律背反を、先験的観念論に独特な意味においてしか解かず、物自体はこのように矛盾するものではなく、この矛盾はその源をただ我々の思惟のなかにもっている、としてしまう。
(γ)カントは次いで神の理念に達する。これをカントは、たんに一切の可能性の総体にすぎない理念と区別して理性の理想体と呼ぶが、これは存在する理念である。カントはここで神の実在の証明を考察し、この理想体に実在性が与えられるか否かを問うている。カントが固く執って譲らない規定は、概念から存在をひねり出すことは決してできないということである。しかしカントは、理性だけでは悟性認識の方法的組織化への形式的統一をもつにすぎない、というところから一歩もふみ出さなかった。理性または表象としての自我と外的事物は、両者とも相互に端的に他者として相対し、そしてそれがカントによれば究極の立場なのである。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月01日

2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史、』ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』 要約@

 前回は、シュヴェーグラー『西洋哲学史』でカントが取り上げられている部分の後半の要約を紹介しました。先験的分析論とは、対象を能動的に把握しようとする悟性にもともと備わっている形式が分析される部分であり、量(全体性、数多性、単一性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体性と内属性、原因性と依存性、相互性あるいは相互作用)、様相(可能性と不可能性、存在性と非存在性、必然性と偶然性)の4つが悟性の根本概念(カテゴリー)として示されました。これらの形式が悟性によって対象(物自体を現象させたもの)に付与されるのだ、というわけです。先験的弁証論とは、これらカテゴリーを物自体にまで適用して認識しようとすることによって生じてしまう「先験的仮象」について論じられる部分であり、心理学、宇宙論、神学の3つの領域において、「先験的仮象」が論じられていました。

 さて今回は、ヘーゲル『哲学史』でカントが取り上げられている部分の前半の要約を紹介します。ここでは、カント哲学が総論的に論じられていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ヘーゲル『哲学史』より「第3部 近代の哲学/第3篇 最近のドイツ哲学」

B カント

 ヤコービにあっては、第一に思惟すなわち証明は、有限的なるものや制約されたものをついに超えないし、第二に、たとえ神が形而上学的対象である場合でさえ、証明はむしろ神を制約し有限とすることに終わる。そして第三に、制約されぬものでありしかも直接に確実なものはただ信仰のなかのみにあり、主観的には動かすべからざるものであるが、それはしかし認識できぬものであり、換言すれば規定されないもの、規定すべきでないもの、したがって実を結ばぬものである。これに反してカントの哲学の立場は、第一に思惟がその推究によって、自らを偶然的なものとしてではなく、むしろ自己自身のなかにおいて絶対に究極的なものとして捉えるに至ったという点にある。有限的なるものにおいて、またそれとの関連において絶対的な立場が現われ、それが中間項ともなって、有限的なるものを結合するとともに、無限的なるものへと昇り行く通路となる。思惟は自己自身を絶対的に決定的なものとして捉えた。思惟の確信にとっては外的なものは何らの権威もなく、一切の権威はただ思惟によってのみ有効となりうる。しかし、この自己自身内で自己を規定する具体的な思惟は、第二に主観的なものとして把握された。主観性のこの側面こそヤコービの見解においてとくに支配的な形式であるが、これに反して思惟が具体的であるということはヤコービがどちらかといえば不問に付したのである。両者の立場はともに主観性の哲学にとどまる。すなわち、思惟が主観的たることによって思惟には即自且対自的存在者を認識する能力が否定されるのである。カントにあっては神は、一面、経験のなかには見出されない。外的経験のなかにもなく内的経験のなかにもない。他面、カントは推論によって神に到達する。すなわち、神は彼にとっては説明のための仮説であり、実践理性の要請である。カント哲学の真実なる点は、自由を容認することである。すでにルソーが自由のなかに絶対者を掲げていたが、カントもまた同一の原理を、理論的な側面から掲げたのである。フランスでは、抽象的な自由を現実に当てはめることで現実を破壊したが、ドイツにおいては、意識が自己に関心をもつということが、ただ理論的な形で遂行されたのである。

〔批判的観念論〕
 全てのものがそれに対して存在すべきものは、つまるところ人間であり自己意識であって、しかもその人間とは全ての人間一般としてのそれにほかならない――こういうことを抽象的な形で意識にのぼらせたのがカント哲学なのである。それは、自己意識に自体的なものの一切の要素を取り戻すことを要求しながら、しかもこの自体的なものをなお自己と区別することによって、みずからは依然として対立から抜けきれないでいる観念論である。カント哲学は、単純な思惟を自己自身に区別を備えたものと解しはするが、一切の実在がまさにこの区別によって成立することを未だ解するに至らず、自己意識の個別性を克服する術も知らず、理性を描くことには巧みを究めるものの、その描き方は、真理それ自身を再び失うような没思想的な経験的な仕方でしかないのである。カント哲学は、知り得るものは真実体でなくただ現象のみであるというにすぎない。それは知を意識と自己意識のなかに導入するものの、この知は主観的な有限的な認識として固定されてしまう。この哲学は、客観的独断論としての悟性形而上学を終息させたが、しかし実際にはそれをただ主観的な独断論に、換言すれば同一の有限な悟性規定が根差している意識のなかに移しかえ、即自且対自的に真なるものを求める問題を放棄してしまったのである。
 カント哲学は、第一に、ヒュームと直接に関係する。カント哲学の一般的意味は、普遍性や必然性という規定は知覚のなかには見当たらないというヒュームの指摘を、ただちにその根本から認めることにある。しかし、ヒュームが総じて範疇の普遍性と必然性に反対し、ヤコービはその有限性を難じたのに対して、カントは、その客観性にのみ反対する。もっとも彼は、数学や自然科学の例が示すように、それが普遍妥当的必然的なものの意味では客観的であるとして主張するが、外的事物それ自身のなかに存在するかのような意味では、その客観性に反対するのである。我々が客観的なものを成立させるものとして普遍性と必然性を希求するという事実は、カントはこれを充分に容認する。しかし、普遍性と必然性が外的事物のなかにないとすれば、それはどこに見出されるかが問題になる。ここでカントはヒュームに反対して、それはアプリオリに、換言すれば理性自身のなかに、自覚した理性としての思惟のなかに存在しなければならない、その源泉は私の自己意識内の主観、自我なのである、という。これがカント哲学を簡明に表わした主要命題である。
 カント哲学は、第二に、その目的がカントの言葉によれば認識能力の批判にあるという理由で、批判哲学とも呼ばれる。すなわち認識する前に、人は認識能力を研究せねばならぬというのである。認識はその場合、真理を獲得するための道具だと考えられている。真理それ自身に到達する前に、まずその道具の性質や作用を認識しなければならない、というのである。しかし、人は認識する前に認識能力を認識すべき、というのはできない相談である。泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものである。とはいうものの、認識を考察の対象としたことは、カントのなした偉大にして重大な一歩ではある。
 第三に、経験によって与えられる材料と範疇との関係についていえば、カントによると、思惟の主観的な規定、例えば、原因と結果のなかには、すでにそれ自身だけで上の材料の区別を結合する素地がある。その限りカントは、思惟を総合的活動と呼び、したがって彼は、哲学の問題を次のように設定する。「如何にしてアプリオリな総合判断は可能であるか」と。アプリオリな総合判断とは、相反するものの自己自身による連関、または絶対概念にほかならない。換言すれば、原因と結果等々のような区別された規定を経験によって与えられないで、思惟によって与えられる関係で関係づけることにほかならない。同じように、空間と時間も結合するものであり、それらもまたアプリオリ、すなわち自己意識のなかにある。カントは思惟が知覚から汲み取られないアプリオリな総合判断を有することを指摘することによって、思惟を自己内において具体的なものとして示すのである。このなかには偉大な理念があるが、展開そのものは粗雑な経験的見解にとどまり、学問的形式をもっていない。
 カントの粗野な表現の一例をあげれば、自身の哲学が純粋理性の諸原理の体系であり、その諸原理は自覚した悟性のなかの普遍的なものと必然的なものとを示すだけで、対象に携わることもなく、また普遍性や必然性の何たるかを研究することもない、という意味で、先験哲学(Transzendental-philosophie)などと呼ぶことである。そうならば、それは超越的(transzendent)というべきだろう。transzendent と tranzendental とは厳密に区別しなければならない。カントは先験哲学を、超越的となり得るものについてその源を主観的思惟のうちに、意識のうちに指摘する哲学である、と規定する。必然的なもの普遍的なものは人間の認識能力のなかにあるとされるのだが、カントはこの人間の認識能力から依然として物自体を区別するから、普遍性と必然性とはただ認識の主観的制約であるにとどまり、理性はその普遍性と必然性をもってしては、真理の認識に到達できないのである。理性は主観性として認識するために、直観や経験、すなわち経験的に与えられた材料を必要とするからである。もし、理性がそれだけで自存しようとし、自己自身においてまた自己自身から原理を汲み取ろうとするなら、理性は超越的となり、経験を超える。それゆえ、理性は認識においては構成的でなくて単に統制的であり、感性の多様に対する統一であり、規則である。しかし、この統一はそれだけでは経験を超えてただ矛盾に陥ってしまう。したがって、理性の批判は、まさに対象を認識することではなく、認識とその原理を認識すること、認識が飛躍的にならないためにその限界と範囲を認識することである。
 以上が一般論であり、続いて個々の部分をみていく。カントは第一に理論的理性、すなわち外的対象に関する認識を考察する。第二に、自己実現としての意志を考究し、第三に判断力、すなわち普遍的なものと個別的なものとの統一を考察の対象にする。いずれにせよ、認識能力の批判が主要な事柄である。
posted by kyoto.dialectic at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 例会報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言