2016年11月10日

アダム・スミス『国富論』を読む(1/13)

(1)「統制経済」だと批判される「アベノミクス」

 2012年末に発足した安倍政権は、日本経済の再生を掲げていわゆる「アベノミクス」を進めてきました。しかし、政権発足から4年近くたった現在でも、世論調査では7〜8割の人々が景気の回復を実感していない、と答えています。こうした状況に対して、安倍首相は「アベノミクス」はまだまだ「道半ば」なのだと主張しています。

 この「道半ば」という捉え方を強く印象付けたのが、先日、日本銀行(以下、日銀)が行った「総括的な検証」なるものでした。日銀は、9月21日の政策決定会合において、2013年4月以来、3年半に及ぶ「量的・質的金融緩和」(いわゆる異次元金融緩和)についての「総括的な検証」を行い、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」と称する「金融緩和強化のための新しい枠組み」を決定したのでした。

 そもそもこの異次元金融緩和なるものは、2013年1月22日、政府(安倍政権)と日銀(当時の総裁は白川方明氏)との共同声明で、「物価安定の目標を消費者物価の前年比上昇率で2%とする」「上記の物価安定の目標の下、金融緩和を推進し、これをできるだけ早期に実現する」とされたことが出発点になっています。こうして、「アベノミクス」の「第一の矢」として、大胆な金融政策(金融緩和)が位置づけられたわけです。同年4月4日、日銀が「量的・質的金融緩和」の導入を正式に決定した際には(総裁は黒田東彦氏に交代していました)、この物価安定目標を「2年程度の期間」で達成する、と宣言されました。

 そもそも金融緩和というのは、民間金融機関の保有している諸々の金融資産を日銀が買い取り(いわゆる「買いオペ」)、その代金をそれぞれの金融機関が日銀に開設している預金口座(この口座にあるお金が日銀当座預金)に振り込む、という方法で行われています。逆に、日銀の保有する金融資産を民間金融機関に売り(いわゆる「売りオペ」)、その代金を日銀当座預金から引き落とすのが金融引き締めの方法です。こうして民間金融機関への資金供給をコントロールすることで、民間金融機関どうしの短期の資金貸借にかかる金利(とりわけ1日で満期を迎える「無担保コール翌日物金利」)を操作しようというのが、いわゆる「伝統的」な金融政策でした。しかし、「非伝統的」といわれる「量的・質的金融緩和」においては、金利ではなく、民間金融機関からの資産の買取そのものの量と質が焦点となります。民間金融機関から多様な質の金融資産を大量に買い取って、「マネタリーベース」(日銀が市場に供給するお金の量、具体的には、実際に流通している現金すなわち紙幣〔日銀券〕と硬貨に、日銀当座預金残高を加えたもの)を2年間で2倍に拡大しようというのが、2013年4月に導入された日銀の「量的・質的金融緩和」の方針でした。「量的」というのは、まさにマネタリーベースの量そのものを操作目標にするということであり、「質的」というのは、そのために日銀が買い取る資産の質も多様なものにするということ、ハッキリいえば、短期の国債に加えてよりリスクの高い長期国債(国債は満期までの期間が長いほど価格変動リスクが大きくなります)や上場投資信託(ETF)なども積極的に購入していこうということです。こうした異次元金融緩和のもとで、民間金融機関の日銀当座預金の残高は、2013年4月には61.9兆円だったのが、2016年9月末には300.1兆円と、およそ4倍以上も増えたのでした。

 しかし、決定的に重要なのは、世間に実際に流通しているお金、いわゆる「マネーストック」(現金+預金)です。実は、マネーストックの代表的な指標であるM3(*)は、2013年4月の1147.3兆円から2016年9月の1263.4兆円まで、ほとんど増えていないのです(1.1倍)。マネタリーベースは激増したもののマネーストックはほとんど増えていないというのは、要するに、日銀が民間金融機関に対して膨大な資金を供給したにもかかわらず、それは日銀当座預金として積み上げられたままで(これは「ブタ積み」と呼ばれています)、一般企業や個人への貸し出しにはほとんどまわっていない、ということを意味します。

 このため、日銀の「量的・質的金融緩和」は、実際の物価の動向にはほとんど影響を与えませんでした。日銀は、2015年4月以降、目標時期の先送りを繰り返し(**)、2016年1月には、日銀当座預金の一部にマイナス0.1%の金利を付すという「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」の導入にまで踏み込んだのですが、直近の統計(2016年7月)でみても、消費者物価の前年比上昇率は0.5%にとどまっています。期待された通りの成果を挙げていなからこその、「総括的な検証」だったわけです。そこでは、物価上昇率2%という目標が達成できなかった理由として、@2014年夏以降の原油価格の下落と消費税率の引き上げ後の需要の弱さ、A2015年夏以降の新興国経済の減速とそれを受けた世界的な金融市場の不安定化、という「逆風」が指摘されました。しかし、これらは日銀の政策でどうにかできる問題ではなく、そもそも金融緩和で物価上昇を実現しようと考えたこと自体が間違いだったのではないか、という疑問が浮かんできます。

 ところが日銀は、この「総括的な検証」を踏まえつつ、2%という「物価安定の目標」をあくまで下ろさず、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を導入することを決定したのです。これは、短期の金利のみならず長期の金利までも操作してしまおう、という前代未聞の政策です。具体的には、短期金利をマイナス0.1%に維持する一方、長期金利(残存期間10年の国債の利回り)を0%程度に誘導しようというのです。通常、短期の金利は低く、長期の金利は高くなります。縦軸に金利、横軸に期間をとったイールドカーブと呼ばれる曲線は右上がりとなるわけです。しかし、この間、日銀が長期国債を積極的に購入し続けたことで、長期の金利が下りすぎて、本来は右上がりであるはずのイールドカーブが平坦になってしまっていました。こうなると、保険や年金の運用が難しくなるといった副作用が出てきますから、イールドカーブがきちんと右上がりになるように、短期金利のみならず長期金利までも操作対象にしようというのが、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」なのです。

 長期金利を操作するということについて、「日本経済新聞」の連載「日本国債 見えざる手を冒す(1)」(2016年10月6日付朝刊)では、以下のように述べられています。

長期金利は経済の力強さや財政の健全さを示すその国の体温計。人々のインフレ予想や財政リスクに左右される。「長期金利を操ろうなんて傲慢だ」。日銀内にも不安を残したまま「官製固定相場」が走り始めた。
 日本国債の利回りである長期金利。「神の見えざる手」が決める市場の均衡に逆らう試みはいつか限界を迎える。


 「見えざる手」に逆らってまで長期金利を操ろうというのは傲慢であり、いつか限界を迎えるだろう、と警告を発するのです。この「見えざる手」という言葉が、もともとはアダム・スミスの『国富論』に登場するものであることはいうまでもないでしょう。

 本来は自由であるべき経済活動に介入して無理やり何らかの結果を出そうとする――これは、大胆な金融政策という「第一の矢」に限らず、「アベノミクス」全般にいえる特徴ではないか、とみる向きもあります。「毎日新聞」(2015年10月30日付夕刊)の「続報真相 アベノミクスは統制経済か」は「本来、企業活動は自由なはずだが、2年連続で経済界に賃上げを要請した「官製春闘」に続き、設備投資を促したり、携帯電話の料金引き下げを求めたりしているのだ。アベノミクスとは「統制経済」なのか」として、識者の声を紹介しています。例えば、以下のような具合です。

エコノミストの田代秀敏さんは介入は短絡的な発想だと批判する。「企業が国内の設備投資になぜ消極的なのかを考えるべきです。人口が減り、人手不足も深刻な中、生産設備は増やせないし、生産拠点を成長する海外から縮む国内へ再び戻すのも難しい。経済活動への政府の介入は、民間が受け入れない限り必ず失敗する、というのがアダム・スミスの『国富論』以来の経済学の成果なのです。市場機構は万能ではないが、市場原理に反する政策は手ひどい結果を招く」  
アベノミクスの問題点を指摘している早稲田大ファイナンス総合研究所顧問の野口悠紀雄さんは、安倍政権の経済政策を「社会主義的な経済政策」と見ている。そして「旧ソ連がどうなったかを振り返れば分かるように、そのような経済政策は企業の効率性を阻害し、結果的に国を貧しくするだけ。誤った政策です」と手厳しく批判する。
 しかも重大な介入はまだあるという。「日銀の独立性を尊重せずに金融緩和を進め、為替レートを政治的に動かして円安状態をつくり出したり、公的資金の年金資金を株式市場に投入し、株価を支えたりしていることも経済活動への介入で、いずれも間違っています」と、野口さんは顔をしかめるのだ。


 このように、いわゆる「アベノミクス」については、本来は自由であるべき経済活動にことさら介入する「統制経済」的な手法なのではないか、という批判が少なからずなされているのです。安直に経済活動への政府の介入を行う「アベノミクス」は、アダム・スミスの『国富論』以来の経済学の成果を踏まえていない、というわけです。

(*)M3=現金+預金通貨(当座預金、普通預金などの要求払い預金)+準通貨(定期預金や外貨預金など)+譲渡性預金。

(**)日銀は、2016年11月1日に公表した「展望レポート」(経済と物価の最新の見通し)で、実に5回目となる目標先送りを行い、「平成30年度ごろになる可能性が高い」として、黒田総裁の現在の任期(2018年〔平成30年〕4月8日まで)中には物価目標の達成は困難だという見通しを示すに至りました。
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2016年11月09日

掲載予告:アダム・スミス『国富論』を読む

 本稿では、明日より「アダム・スミス『国富論』を読む」と題した論稿を掲載していきます(全13回)。『国富論』(正式なタイトルは『国の富の本質と原因に関する研究』、原題:An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)といえば、経済学の古典中の古典であり、一般的には、「見えざる手」という言葉によって、政府の恣意的な経済介入を批判し、資源と労働の配分を市場経済の機能に委ねるべきことを主張したものだとして受け止められています。

 しかし、この『国富論』は、現代の私たちがイメージするような経済学の本としてではなく、もともとは法学の本(『法と統治の一般的諸原理と歴史』とでも題されるはずだった未完の大著)の一部分として構想されていたものでした。

 確かに『国富論』には、政府による経済への恣意的な介入に対する批判がみられます。同時に強調されなければならないのは、スミスの『国富論』は決して国家(政府)を考察対象から除外しようとはしていなかったということです。『国富論』において、スミスは、政府の経済への恣意的な介入が排されたとしても、政府がなすべき仕事はなお存在することを力説しています。

 さらにいえば、政府による経済への恣意的な介入の排除という主張自体も、さらに深く突っ込んで検討される余地があります。スミスにおいては、目的はあくまでも、社会全体の利益の実現であったことを見失ってはなりません。その目的を達成する手段として、政府の恣意的な介入の排除が主張されているにすぎないのです。それでは、スミスが「見えざる手」によって実現されるとした社会全体の利益とは何だったのでしょうか。また、目的達成の手段として、政府による恣意的介入の排除が主張されなければならなかった歴史的条件とはどういうものだったのでしょうか。そしてまた、こうしたスミスの主張は、現代の経済のあり方に対して、如何なる示唆を与えるものなのでしょうか。

 本稿では、『国富論』の全体を概観しながら、これらの問題について突っ込んで検討していくことにしたいと考えています。

 以下、目次(予定)です。

序論
(1)「統制経済」だと批判される「アベノミクス」
(2)アダム・スミスは自由放任を主張したのか
本論
1、分業と資本蓄積について
(3)分業による生産力の発展について
(4)各階層への生産物の分配――賃金、利潤、地代
(5)資本の配分と労働の配分
2、経済史および経済思想の批判的検討
(6)ローマ帝国崩壊後、豊かさへの自然な道筋はどう歪められたか
(7)国民と国をどのように豊かにするか――経済政策の考え方@
(8)国民と国をどのように豊かにするか――経済政策の考え方A
3、国家の財政支出と財源調達について
(9)政府のなすべき仕事――国防と司法制度の確立について
(10)政府のなすべき仕事――公共事業について
(11)政府の経費はどのように調達されるべきか
結論
(12)スミスは強者の利益のために経済が歪められることに反対した
(13)国民の富の持続的再生産という観点が必須である
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2016年11月08日

専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想(5/5)

(5)大志・論理能力・人間観の育成こそが求められる

 本稿は,薄井坦子先生の『科学的な看護実践とは何か(下)』を取り上げ,専門家教育には何が必要かを考えていく論考であった。ここで,これまでの流れをふり返っておきたい。

 初めに,薄井先生の生き方や姿勢から学ぶべき点を考察した。本書全体を通して,薄井先生の責任感の強さが印象に残り,目の前の苦しんでいる患者さんを何とかしたいという強烈な情熱が感じられること,そのような責任感や情熱がなければまともな看護は決してできないのだということを説いた。薄井先生は,人間には人の苦しみが分かる能力があるからこそ,苦しんでいる人をそのまま放っておけないのだと説かれていた。このような共感や感情の問題を無視してしまっては,本書で批判されている客観主義的傾向におちいってしまい,看護に不可欠な人間の認識や関係性をきちんと論理化・理論化できなくなってしまうことも確認した。苦しんでいる人を見て,自分の力で何とか苦しみを取り除いてあげたいという強烈な情熱や責任感があれば,どうすればいいかを必死で考え,工夫を重ねていく,その延長線上に看護学という科学的な理論が生まれてくるのであり,看護学とは現実の問題を解決するためにこそ生まれてきたのだと説いた。そしてこれは看護に限ったことではなく,あらゆる学問や科学は,人類が何とか問題を解決したいと思い,壁にぶつかった時に,必死の努力で対象を明らかにして創られてきたものであり,それによって問題が解決するからこそ,意義があるものなのであった。すなわち,学問や化学を創る際には,その出発点として,何とか問題を解決したいという情熱や責任感が必要なのであり,そのことを薄井先生の生き方や姿勢から学ぶべきであるということであった。薄井先生は,相手が何を求めているのかを常に意識できるようにならない限り,自分は看護師であると自分を許すことはできないと強い表現をされており,どれだけ相手を見つめられるか,どれだけ相手の状態に考慮できるかは,学歴ではなく生き方によって決まると説かれていた。このような先生の生き方や姿勢は,聴衆や学生に自然と伝わるはずであり,教育者たるもの,言葉ではなく生き方や姿勢で情熱や責任感を伝えるべきだと説いておいた。

 次に,認識ののぼりおりについて検討した。まず,初めの講演の冒頭部分の論の展開を丁寧に検討して,事実が提示され,その後,のぼって抽象的な認識が表現され,またそれを説明するための事実におりて,再びのぼってその事実から引き出された論理が提示された後に,本題の看護の問題へとつなげていくという展開であった。このようにのぼりおりがくり返されているからこそ,聴衆にとっては非常に説得的で分かりやすいものとなっているのであった。取り上げた冒頭の部分だけではなく,本書は全編これのぼりおりの典型例でありお手本であり,「例えば」といって具体例におりたり,「要するに」という形で抽象的な認識にのぼったりすることがいたるところで見られるのであった。大学で学生に教えておられるときもおそらくこのようにのぼりおりを駆使されているのであろう。教育者がのぼりおりを技化することの必須性を説いた。本書ではさらに,学生や看護師が認識ののぼりおりができるように訓練することが大切だということが,形を変えてくり返し説かれているのであった。たとえば,認識には,現象的認識,表象的認識,抽象的認識(本質を押さえた認識)の三段階があるということを,庄司和晃氏の図を援用しながら説明し,自らの実践の中から「看護とは」を本質レベルの認識として掴み取ってこなければならないと説かれていたり,自己の認識を鍛えるためには,よい書物をじっくりと精読し,一つの表現でも,認識の三つの段階を全部出してのぼりおりするのがよいと説かれていたりした。さらに,認識ののぼり(抽象化)も大切だと説かれており,言葉や知識で教えるのではなく,生の材料を提示して,そこからのぼれるように,科学的抽象ができるように,訓練することが必要だと説かれていた。また,自分自身の実践を客観視して,その実践の事実から,科学的抽象によって意味(論理)を取り出し一般化する訓練も必要であり,このようなことを丁寧に示せば,専門家ではなくてもその専門的実践の意味がきちんと分かるのだと説かれていた。

 最後に,科学的な人間観が実践の前提であることを説いた。まず,ここでいう「人間観」とは,おおよそ人間とはこのような存在であるという大まかな見方のことであり,「人間論」という場合のような抽象的・本質的な認識ではなく,表象的なレベルの認識であることを説明した。このような人間論を取り上げたのは,特定の人間観に基づいて看護がなされるからであり,どのような人間観をもっているかによって,実践の質が変わってくるからであった。例えばということで,本書で紹介され解説されている,医師が母乳で育てることの指導をしているテレビ番組を取り上げた。医師は母乳は必ず出るが,ミルクを飲ませるとでなくなるので,ミルクを買わないようにという行動レベルの助言を与えていた。これに対して薄井先生は,行動レベルの助言ではなく,認識に働きかけて,ミルクを飲ませると母乳が出なくなる理由を丁寧に伝えるべきだと説いておられた。ここで,両者の人間観の違いを検討した。すなわち,医師の人間観には,人間は認識を持っており,認識にしたがって行動するという側面が抜け落ちているのに対して,薄井先生の人間観は,人間は実体だけではなく認識をも持ち,社会関係の中で創り創られる存在である,また,人間は行動の前には必ず認識=像を描いてから行動する存在であるというものであると説いた。このような違いがあったために,医師は認識を無視してしまい,実体レベル・行動レベルの助言しかできなかったのに対して,薄井先生は行動に先行する認識に働きかけることができたのだと説いた。また,『狼に育てられた子』や肢体不自由児施設の歴史についての解説の部分から,人間観が狭いと特殊な人間を動物と見なしたり,殺してしまえと主張したりするようになるのであり,人間観が広いと,特殊な人間を特殊性において位置づけることができ,それでも人間だからということで大切にできるようになるのだということを見た。ことほどさように,人間観やその広さは,その人間の言動を規定してくるのだから,専門家教育の過程で,現実の人間に見合った科学的な人間観を教育していかなければならないと説いた。

 以上の内容を,専門家教育には何が必要かという観点に絞って再度まとめ直してみよう。まず,専門家が壁にぶつかり,問題を何とか解決しようとするのは,強烈な情熱や責任感がある故であり,それがあってこそ,その壁を乗り越えるための武器となる科学的な理論体系が構築できる可能性が生じてくるのだということである。そして専門的な科学を教育する者は,自身がその生き方や姿勢によって,学生に情熱や責任感を伝えていかなければならないのである。次に,高度に抽象化された理論を教育していく際には,必ず認識ののぼりおりを駆使して説得的に分かりやすく説明しなければならない。また学生に自身も,認識ののぼりおりができるように訓練していく必要がある。最後に,人間観が実践を規定しているのであるから,現実の人間に見合った科学的な人間観を教育していく必要があるし,人間についての幅広い学習によって,人間観を広げていかなければ,特殊な人間を大切にできないようになってしまい,とても対人援助の専門家としてはふさわしい実践ができなくなる。要するに,専門家教育には教育者の情熱と責任感,それに教育者・学生双方の認識ののぼりおり,そして科学的で幅広い人間観の教育が必要であるということである。教育者の情熱と責任感は学生の大志を育むためにこそ必要であるし,認識ののぼりおりは,結局,論理能力の養成ということになろう。したがって,結局専門家教育においては,大志・論理能力・(まっとうな)人間観の育成が必要不可欠である,ということがいえるだろう。

 最後に,以上の内容を自分自身の問題としてとらえ返し,どのようなことをしていく必要があるかを考えてみたい。

 まず大志の育成ということに関しては,強烈な情熱や責任感を持った先達に学んでいくことが必要であろう。歴史上の偉人についての伝記を読んだり,偉大な哲学者や科学者の生涯を学んだりする取り組みも,もっと力を入れてやっていきたい。また,心理臨床の世界にも,強烈な情熱や責任感を持って教育に取り組んでおられる先生がいる。そういった先生の著作を読んだり,研修会に参加したりして,先生の情熱や責任感を自分の中に浸透させ,自分が把持しているものの,時とともに薄らいでしまいがちな志を,大志と呼べるレベルにまで目的意識的に,くり返しくり返し育て直していくことが大切だと思う。くり返し自分の原点に戻って,そもそも自分は何の目的で何を成し遂げたいのかということを確認し,それに向かって着実に研鑽し続けることができるように,自らを奮い立たせていくことが,学問への道や学問の道といった困難極まる道程を歩ききるためには,ぜひとも必要だろう。

 次に論理能力の育成である。これについては,本稿でも説いたように,自分の生の対応を折に触れて振り返り,客観視して,そこからのぼる訓練,そこから論理を導き出し一般化していく訓練とともに,導き出した一般論を具体化して別の事例に適用していく実践を重ねるべきであろう。簡単にいうと,もっと事例検討を行っていくべきだということである。その際,薄井先生の事例検討集である『ナイチンゲール看護論の科学的実践』(1)〜(5)も非常に参考になりそうである。学習図書として設定しておきたい。生の対応ということであれば,専門的な実践だけではなく,家庭生活での家族間の交流や,職場での上司・部下とのやり取りも,もちろん,検討に値すべき生の材料である。たとえば子どもとの交流を通して,子ども側に,そして自分の側にどのような認識の発展があったといえるのか,これをしっかりと考察していくことも,のぼる訓練となるだろう。同様に,職場で部下にどのように働きかえれば教育的な効果があがるのか,今まで学んできた教育の一般論を具体化して使ってみる,これはおりる訓練になるだろう。

 最後に,まっとうな人間観の育成である。人間には無限の可能性がある,専門の領域に限ってもう少し具体化すると,人間には自然治癒力があり,回復不可能とも思われていた人が回復することもできる,というような人間観を,いろいろな小説や伝記,歴史の学びや心理臨床の事例集や事例検討によって,あるいは,自らの実践でもって証明していくことによって,しっかりと育てていくことが大切だと考えている。そうしないと,この人は治らない,この人には限界があるということで,介入をあきらめてしまうことにもなりかねない。そして何よりも,認識に働きかける心理臨床家としては,認識についての研究を深め,科学的な認識論を構築して,それを踏まえた人間観を把持していくことが大切であろう。

 以上のことを課題として取り組むことを決意して,本稿を閉じたい。

(了)
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2016年11月07日

専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想(4/5)

(4)科学的な人間観が実践の前提である

 前回は,認識ののぼりおりについて,『科学的な看護実践とは何か(下)』から学んだことを説いた。薄井先生は本書に収められた講演で,認識ののぼりおりをくり返しながら論を展開されているからこそ説得的で分かりやすいこと,看護学生や看護師に対しても,認識ののぼりおりを訓練することの大切さを形を変えてくり返し説いておられることを見た。

 さて今回は,本書で説かれている人間観を取り上げたい。

 まず,本稿でいう「人間観」とは何かを説明したい。端的にいうと,人間観とは,おおよそ人間とはこのような存在であるという大まかなイメージのことである。

 このように説くと,「それは『人間論』とは違うのか?」と質問したい読者もおられるかもしれない。答えておきたい。これはおおよそ同じようなものであるが,認識の抽象度が違うといえる。前回説いた言葉でいうと,認識の3段階のうち,表象的なレベルを「人間観」といい,抽象的・本質的なレベルを「人間論」という。これは「観」と「論」の違いである。すなわち,「観」というのは大まかな見方という意味であり,「論」というのは論理あるいは理論という意味である。したがって,人間観という場合には,人間に対しての素朴な見方のことであるのに対して,人間論という場合には,人間とはかくかくしかじかの存在であるというような本格的な論理の体系や理論のことを指すといってよいだろう。

 人間は,それまでの体験に基づいて,素朴な人間観をもっているが,高校までの学校や大学で学習を重ねることによって,すなわち,それなりの人間論を学ぶことによって,それが自分の人間観にも浸透してきて,人間観が広がったり深まったりしていくものであるといえる。また,時代によっても人間観の広さに違いがあり,人類は徐々に人間観を広げてきたということもできる。

 では,そのような人間観を,ここでなぜ取り上げるのか。それは,特定の人間観に基づいて看護がなされるからであり,人間観は看護実践の指針となるからである。すなわち,どのような人間観をもっているかによって,実践の質が変わってくるのである。

 このことがよく分かる例が本書に出ている。それは,赤ん坊を母乳で育てることの指導を医師がしているテレビ番組を薄井先生が取り上げておられる部分である。医師は「子どもを産めれば必ず母乳は出るのであり,出ないのはミルクを飲ませるからであるから,ミルクを買っておかないことが大切だ」という旨のまとめの発言をしたのだという。これに対して薄井先生は,母乳が出ないのではないかと不安に思ったときに,はたしてミルクを飲ませないでいられるかと問い,行動よりも認識を変えるようにということで,次のように説かれている。

「この問題の正しい結論は,初めての人に安定した気持ちで望ましい行動をとってもらうためには,それ相応の根拠を持たせることが必要だということです。「こうすればよい」という行動レベルの助言をしただけでは,それがその人の頭の中で,支配的な力を持つことは難しいのです。つまり,このばあいには,ミルクを買っておかないことだという行為レベルの助言ではなく,「なぜミルクを飲ませると母乳が出なくなるのか」を,具体的に判るように解いておけばよいのです。」(pp.147-148)


 すなわち,行動レベルの助言ではなく,認識に働きかけて,ミルクを飲ませると母乳が出なくなる理由を丁寧に伝えるべきだ,ということである。実際にこの後薄井先生は,赤ん坊は吸う力が強く,母乳を吸い続けることによって母乳が出るようになるが,ミルクを飲ませると強く吸う経験ができないだけではなく,満腹になってまともに吸わなくなるので,結果として母乳が出なくなると説いておられる。

 ここで問題にしたいのは,番組に登場した医師の人間観と,薄井先生の人間観の違いである。薄井先生自身も,この医師について「やはり男の眼だなあ,医師の眼だなあ」という感想をもらしておられるが,端的にいうと,この医師の人間観には認識が含まれていないといってもよい。目に見える実体だけから人間というものをイメージしているといえよう。これに対して薄井先生の人間観は,人間には実体があり,認識があり,社会関係の中で創り創られながら生活しているというものであり,もう少しいうと,人間は行動の前には必ず認識=像を描いてから行動する存在である,というものである。

 このように,人間観に違いがあったために,医師は人間の認識を無視して「このように行動すればいいのだ」と目に見える行動だけを問題にしたのに対して,薄井先生はその行動のもたらす認識に注目して,認識を変える働きかけの重要性を指摘されたのであろう。このように,把持している人間観によって,実践のあり方や質が全く違ったものになるのである。

 もう一つ,人間観の違いが言動の違いとなって表れる例を本書の中から紹介したい。それは,薄井先生が生の材料で学生に考えさせる際に使っておられる二つの教材,すなわち,『狼に育てられた子』と,光明養護学校という肢体不自由児施設の歴史を描いたビデオに関わる解説である。

 『狼に育てられて子』については,アマラとカマラという二人のオオカミに育てられた子どもを見たときの反応が,現地住民とシング牧師との間では違っていたのである。手足は人間のようだが頭のでかい4足歩行の生き物を見て,現地住民は化け物だといい,シング牧師は人間だと確信している。このことについて薄井先生は,現地住民は手足以外の人間とは違う部分,つまり特殊な部分を全てだと思って,化け物だと判断したのに対して,シング牧師は人間の一般的なあり方に照らし合わせて,特殊な部分を特殊な部分として位置付けることができたからこそ,人間だという適切な判断ができたのだと解説されている。

 肢体不自由児施設の歴史に関しては,戦時中に肢体不自由な子どもたちを差別し毒殺しようとした人がいる一方で,その子どもたちを必死で守っていた先生もいたということである。ここに関して,薄井先生は次のように説かれている。

「私たちは,守ろうとした人と殺そうとした人というのは,「いったい何が違うのだろうか」ということを,この中から学習することができます。両方ともその子供たちの肢体が不自由であるという特殊な状態は,事実として見ているわけですが,一方の殺そうとした人々は,さっきの現地住民と同じように,「そのことをすべてだ」と見なし,守った人たちは,それは「まともな人間のごく一部が違うだけだ」とみている。つまり後者は特殊な状態を人間全体の中で位置づけえたために,「区別」はしたけれども「差別」はしなかったんです。一方は「区別イコール差別」ということになった。そういう違いだというふうに理解できます。」(p.177)


 すなわち,殺そうとした人は肢体が不自由であるという特殊な状態をそれが全てだとみなしたために差別したのに対して,守ろうとした人はまともな人間のごく一部が違うだけだとみなして,特殊な状態を人間全体の中で位置づけることができたために差別をしなかった,ということである。

 さて,この二つの教材とそれについての薄井先生の解説は,人間観とどのように関わるのか。端的にいうと,現地住民や肢体不自由児を殺そうとした人々の人間観は狭く,シング牧師や肢体不自由児を守ろうとした人々の人間観は広いのである。そしてこの人間観の違いが,人々の言動の違いとなって表れるということなのである。後者は,これまでの体験や学習の影響でここまでが人間といってよいという括りの範囲が広かったため,アマラ・カマラや肢体不自由児もその中に含めて考えることができ,少し特殊だけれども同じ人間だということで,彼らを大切にすることができたのである。逆に前者は,人間と認められる範囲が狭かったために,彼らは範囲外となり,人間ではないということになった,だから化け物であるとして扱ったり,差別して殺してもかまわないということになったりしたのである。

 ことほどさように,人間観やその広さは,その人間の言動を規定してくるものなのである。したがって,看護師にしろ臨床心理士にしろ,対人援助の専門家にあっては,より広い人間観を持っておくことが必要であるし,その専門領域に見合った,科学的な人間観を把持していることが大切なのである。したがって,専門家教育の過程において,現実の人間の構造に見合った科学的な人間観をしっかりと教育していくということが,まともな実践の大前提となるのである。

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2016年11月06日

専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想(3/5)

(3)認識ののぼりおりを訓練する

 前回は,薄井先生の生き方や姿勢から学び取るべきことを考えた。薄井先生は,患者さんを何とかしたいという情熱や責任感が非常に強く,これが学問の体系化の大前提になること,そして教育者としては自らの生き方や姿勢を通して,暗黙のうちに専門家としての情熱や責任感を伝えていくことが必要であること,を見た。

 さて今回は,認識ののぼりおりということについて,本書から学んでいきたい。

 まずは,薄井先生の講演の方法としてののぼりおりについて検討したい。すなわち,薄井先生の話し方がどのような論の展開になっているのか,それがどのような効果をもたらしているのかについて確認したい。

 本書の初めに収録されている「これからの看護に期待される看護婦の育成」という北海道で行われた講演の冒頭部分を見てみよう。

 初めに,薄井先生が「北海道には行ったことがないが,どのような寒さか」と尋ねたところ,皆が「あの寒さはとても言葉には表せない,笑顔が凍る」などといったので,本当に笑えなくなるような寒さを想像してこわごわやって来たと述べられている。これは事実である。この講演に来るまでの経緯の事実を冒頭で語っておられるので,誰もがすっと話に入っていけるといえるだろう。

 次に薄井先生は,この体験をとおして,人間が初めての行動をとる時は,どんなに馬鹿げた準備をするものかということを学んだと語られる。ここでは,事実から引き出された論理が語られている。すなわち,同僚に脅されて恐れていたという事実レベルの具体的な認識から,人間は初めての行動の時には馬鹿げた準備をしがちだという一般的・抽象的な認識にのぼっているのである。

 この後,皆の意見に従って,必要以上に着込んで北海道にやってきたことが語られる。これは,先の論理の例証である。つまり,先の論理を事実で説明しているのである。認識ののぼりおりでいうと,先にのぼったところからまた事実へとおりているのである。

 さらに薄井先生は,この経験から,人間が他人からいろいろ聞かされて想像する場合は現実とかなりかけ離れると感じたと述べられている。これもまた,経験した事実から引き出した論理が述べられているわけである。先ほど事実におりたかと思うと,またのぼっているのである。

 最後に,このような話をした理由が語られる。すなわち,看護学を体系立てる時に,頭の中だけでいろいろと考えて創り上げていくことは非常に怖いことなのだということを,この事実が教えてくれると語られるのである。これは先程の論理を看護学に適用して,講演の本題へと繋いでいったということである。

 このように,講演の冒頭で事実を提示してそこからのぼり,また事実へとおりて再度のぼり,そこで得た教訓を看護の領域に適用していくというような論の展開になっているのである。このため,非常に説得的な展開になっている。事実から論理を引き出し,その論理を実証するような事実を提示して,またその事実から論理を導き出して,というくり返しになっているからである。

 このような展開は,この冒頭の部分だけではない。全編これ,認識ののぼりおりの典型例・お手本といってもいいくらい,認識ののぼりおりが活用され,非常に説得的な展開になっているのである。その証拠に,段落の冒頭に「例えば」とくることが非常に多い。これは,その前に説いた論理から具体におりているのである。「例えば」がなくても,抽象的な認識から具体的な認識におりていることは非常に多いし,具体的なことを語ったら,そこから「要するに」などのまとめで,また抽象的な認識にのぼっていることが多い。このような論の展開であるために,本書の「まえがき」にもあるように,薄井先生の講演は非常に分かりやすいと評判なのであろう。

 大学で,学生相手に専門の講義をする場合も,もちろん,このように認識ののぼりおりを駆使して,論理を説得力をもって伝えていく必要があるだろう。そういう意味で,教育者が認識ののぼりおりを技化しているということは,専門家教育にとって必要なことの一つであるといえる。

 本書ではさらに,学生や看護師が認識ののぼりおりができるようになることが大切だと,形を変えながらくり返し説かれているように思う。たとえば,認識には,現象的認識,表象的認識,抽象的認識(本質を押さえた認識)の三段階があるということを,庄司和晃氏の図を援用しながら説明し,自らの実践の中から「看護とは」を本質レベルの認識として掴み取ってこなければならないと説かれている。それは自分の行動に対する根拠を押さえ,安定感のある働きかけができるようになるためであるが,これは事実からのぼって抽象的な認識に達して,そこからおりて日々の具体的な実践に活かしていくことの大切さを説いたものであろう。

 また,自己の認識を鍛えるには,乱読ではなくて,よい書物をじっくりと精読することもコツだと説いた後,学生には同じ一つの表現でも,認識の三つの段階を全部あげさせ,三つの段階をのぼったりおりたりさせることも非常によいと説かれている。これは例えば次のようなことだろう。ナイチンゲールの『看護覚え書』を読んで,具体的な記述が出てきたら,それはつまりどういうことをいいたいがための具体例なのかを考えてみる,逆に抽象的な記述ができたら,それは例えばどういうことなのかを考えてみる,このようにしてこそ,ナイチンゲールの論理が自分自身が使えるものとして身につくのだということだろう。

 さらに薄井先生は,看護師の感じ方・考え方をどのようにして教育すればいいのかと問い,言葉で教えてもだめであり,知識で教えてもだめだ,生の材料で考えさせなくてはいけないと強調されている。そして,具体的な材料の例として,『狼に育てられた子』,光明養護学校の歴史のビデオ,『神への告発』,『むねの木学園』をあげておられる。このような具体的な事実から,看護師に必要な認識ののぼり方を訓練するということであろう。

 認識ののぼり(抽象化)ということについても,薄井先生はくり返し強調されている。科学的抽象とは,現象のカタチを捨てて内容をすくい上げることだと説き,自らの取り組みは折に触れて振り返り,その意味を考え直す必要がある,生の対応を複数人で協議して,どういう意味を持つかを一般化していく必要がある,と説かれている。また,主体性を育てるためには,自分の実践とその意味を客観視させなければならず,それが卒業研究の一つの大きな狙いであるとも説かれている。要するに,自分自身の実践を客観視して,その実践の事実から,科学的抽象によって意味(論理)を取り出す訓練を行わねばならないということである。これは,一般化する訓練でもあり,こういうことをすることによってこそ,専門家としての主体性が育っていくのだ,ということであろう。なぜなら,自分のなした実践の意味をしっかり把握できていてこそ,責任ある態度であるし,取り出した意味を一般化できれば,別の場面でも,同じように責任ある対応がとれるはずだからである。

 このような自分の実践を客観視し,一般化する訓練に使われるプロセスレコードは,使いようによっては,看護以外の人に対して看護の専門性を理解してもらうためのツールにもなると,薄井先生は説かれている。すなわち,現実の看護の過程の事実から,丁寧に科学的抽象を行って内容を取り出せば,いったい何が看護たりえたのかということを相手も得心できるということである。事実と,そこから導き出された論理を提示すれば,素人であっても看護の意味ということがきちんと理解できるということである。

 以上,今回は,看護教育者にとっても,また看護の学習者・実践者であっても,認識ののぼりおりがしっかりできるように訓練できることがいかに必要不可欠かということを見てきた。

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2016年11月05日

専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想(2/5)

(2)教育者には情熱と責任感が必要である

 本稿は,薄井坦子先生の『科学的な看護実践とは何か(下)』を専門家教育には何が必要かという観点から読み解き,学んだことを認めていく論考である。

 今回は,本書で描かれている,看護学の科学的体系化を成し遂げられた薄井坦子先生の生き方や姿勢から学ぶべきことをすくい取っていくことにする。

 本書を読んで非常に印象深いのは,薄井先生の責任感の強さである。苦しんでいる患者さんが目の前にいる,この患者さんを何とかしたい,少しでも楽にしてあげたい,そのような強烈な感情こそが看護の根底になければならず,これがなければその他がいくら整っていても看護とはいえない。そのようなメッセージが,本書の全体から読み取れるといってよい。

 たとえば,看護実習生の対応を非常に評価されているのがいい例である。この事例は2回出てきたが,久しぶりに病院に来られた患者さんに対して,医師が「定期的に通院しないとよくならない。こんなにひどくなって! もうあんたなんか来なくてよろしい!」といった。その患者さんはしょんぼりして帰っていこうとされた時に,実習生が駆け寄っていって,明日も必ず来てほしい,先生も悪い人ではなく,あなたのためを思っていっているのだ,というようなことを説明して,明日来ることを指切りげんまんをして約束して帰したという事例である。

 親切な人であれば,看護の専門家でなくてもできそうな対応であるし,指切りげんまんなどというのは幼稚な対応だと見ることもできる。しかし,薄井先生はこの実習生の対応を看護として高く評価されている。もちろん,しょんぼりして帰ったら,そのような認識が病状をさらに悪化させるという判断があったことや,この地域には他に通える病院がないというように社会関係をも踏まえていたことなど,専門的な看護として評価されるべき点はある。しかし,それ以上にというかその前提としてというか,何とかこの患者さんによくなってほしい,苦しみを少しでも取り除きたい,そういう思いこそが看護の原点であるということを伝える意味で,薄井先生はくり返しこの事例を取り上げられているように感じた。まだまだ看護技術が未熟な実習生の対応をあえてくり返し取り上げられているのは,看護を志す原点において,患者さんのためにできることをするのだといういてもたってもいられないような思いや情熱こそが大切だということを示したかったからではないだろうか。

 薄井先生は,人間には人の苦しみが解る能力があるからこそ,苦しんでいる人を放っておけないのだと説かれている。このような共感の能力や感情的な問題を切り捨ててしまうと,本書で批判されているような「客観主義的偏向」に陥ってしまうだろう。客観主義的偏向とは,「問題の対象の構造に分け入って問題を解こうとする,つまり問題の持っている性質(これは眼には見えません)を明らかにしていこうと取り組むのではなく,現実に眼に見えることを追いかけようとする方向」(p.150)のことであり,「例えば,数字に現われるような統計資料を集める発想」や「看護においても,看護学においても,人間と人間との関係を切って捨てたり,主観を切って捨てたりする」(p.152)傾向のことをいう。要するに,目に見えない主観(認識や関係)を問題にせず,目に見える客観(現象や数字など)だけを扱う傾向ということであろう。心理学の世界でも,このような客観主義的偏向を「科学的態度」であるかのように勘違いしているきらいもなくはないが,これでは認識のある人間が認識のある人間に対して働きかけるという対人援助の実践が,きちんと論理化・理論化できないことになってしまうだろう。

 薄井先生は,苦しんでいる患者さんに対して,その苦しみが解るだけに放っておけず,どうしたらよいかと考えて工夫することを積み重ねていった結果,相手の苦しみが和らぐのを見ると安堵する,ここに看護は端を発していると説かれている。すなわち,このような感情こそが看護の原点であるということであろう。そして,苦しみを和らげたいという感情から,さまざまな思考や工夫が生まれるのであり,そのような思考や工夫の量質転化したものとして,看護学という科学的な理論が生まれてくるのであろう。

 どういうことか,少し説明したい。苦しんでいる人に対して,何らかの働きかけを行っても,うまくいくときもあればうまくいかないときもある。うまくいくときはどういうときなのか,その働きかけの共通性をすくい上げ論理化し,うまくいかない場合も同様に共通性を論理として取り出していき,というようなことをくり返していく中で,徐々に看護とは何か,どのような働きかけが看護といえるのかということが分かってくる。つまり,看護の仮説的一般論ができてくるのである。そしてさらに,看護の一般論を基にして,実際に患者さんに働きかけ,うまくいくかどうかを検証して,その一般論をより豊富なものとして創り上げていく。およそ,このようなプロセスで,看護学が科学的な体系として創られていくと考えられる。こうしてみると,看護学とは,現実の問題をより効率的に,よりうまく解決するためにこそ必要なものであるということができるだろう。苦しみを取り除きたいと思っているのに取り除けない,楽にしてあげたいのにそれができない,そういった時に導きの糸となるのが看護学であり,看護学は現実の問題解決のためにこそ社会的に創られてきたものであるということができるだろう。

 これは何も看護に限ったことではない。あらゆる学問や科学は,人類が何とか問題を解決したいと思い,壁にぶつかった時に,必死の努力で対象を明らかにして創られてきたものであり,それによって問題か解決するからこそ,意義があるものなのである。そして,そのような学問や科学が創られていく際には,必ずその出発点として,問題を何とか解決したい,解決せずにはいられないというような情熱や責任感が存在しているということを,薄井先生の生き方や姿勢からしっかり再確認しておくことが必要だろう。

 われわれは出発点においてそのような情熱や責任感を把持していても,ついつい楽な方へと流されて,いつの間にか出発点で把持していたものが薄らいでいき,それを見失ってしまうということがある。そうならずに,どのような艱難辛苦に耐えてでも,当初の思いを実現していくためには,折に触れて薄井先生のような偉大な先達の生き方や姿勢に学び直し,自らの情熱や責任感を維持し,さらに発展させていくことが必須だと感じている。

 薄井先生は看護師の責任感ということについて,次のように説いておられる。

「あらためて言うまでもないと思いますが,看護は私たちのためにあるのではないし,医師のためにあるのでもありません。人びとが良い看護を求めているからこそ,看護が必要なわけです。だから,「ひとりひとりの人たちがいったい何を求めているのか」というふうに,私共の頭が切り替わらない限り,自分は看護婦であると自分を許すことができないのではないか,という気がします。」(p.103)


 ここでは,看護は看護師のためでも医師のためでもなく,看護を求めている人のためにこそあるのだから,相手が何を求めているのかを常に意識できるようにならない限り,自分は看護師であると自分を許すことはできないはずだ,と説かれている。「自分を許すことができない」というのは非常に強烈な表現であり,ここには薄井先生の看護の専門家としての責任感がにじみ出ていると思う。

 求めている人がいるから専門的な実践を提供するというのは,医師であれ,教師であれ,臨床心理士であれ,同じことであろう。したがって,「ひとりひとりの人たちがいったい何を求めているのか」というふうに,自分の頭が切り替わらない限り,専門家として自分を許すことができないということは,これらの対人援助の専門家にも,看護師の場合と全く同様に当てはまるといえる。このような覚悟のある責任感を,筆者自身も持たねばならないと強く感じた。

 また,薄井先生は,次のようにも説かれている。

「私たちの仕事は,「どれだけ人間を見つめる力があるか」,「見つめた人の状態に対してどれだけ考慮していけるか」ということにかかっている仕事なのです。これは学歴にはほとんど関係ないのです。その人の人間を大切にする気持ちは,「その人自身がどういう生き方をしてきたか」ということによって決まってくると思います。」(p.106)


 すなわち,どれだけ相手を見つめられるか,どれだけ相手の状態に考慮できるかは,学歴ではなく生き方によって決まる,ということである。いくら立派な学歴をもっていても,いい加減な生き方をしていたのでは,人間を大切にする気持ちが育っていかない,それでは看護師として失格だ,逆に,家庭でも職場でも,あらゆる場面で襟を正した見事な生き方をしてこそ,人間を大切にする気持ちが育っていき,しっかり人間を見つめる力やその人間の状態に対して配慮できる力が養われていくのだ,ということであろう。当然のことであるが,人に対して恥ずかしくない人生,人に対して誇れる人生を薄井先生自身が送ってこられたからこそ,このような言葉を発することができるのであろう。

 以上見てきたような薄井先生の生き方や姿勢というものは,今語られている聴衆や教育を行っている学生に対して,自然と伝わっていき,薄井先生の情熱や責任感が聴衆や学生に浸透していくだろう。そうしてこそ,聴衆や学生の中にある患者さんの役に立てる看護師になりたいという漠然とした志が,大志と呼べるほどのレベルにまで成長し,人間を突き動かす原動力となっていくのではないか。教育者たる者,言葉で相手に何かを教えるだけではなく,その生き方や姿勢を通して,対人援助の専門家に必要な情熱や責任感を伝えていく必要がある。そのようなことができてこそ,真に教育者といえるのだと,本書を読んで痛感した次第である。
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2016年11月04日

専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想(1/5)

目次

(1)専門家教育に求められるものとは
(2)教育者には情熱と責任感が必要である
(3)認識ののぼりおりを訓練する
(4)科学的な人間観が実践の前提である
(5)大志・論理能力・人間観の育成こそが求められる

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(1)専門家教育に求められるものとは

 本稿は,薄井坦子先生の『科学的な看護実践とは何か(下)』(現代社)の感想を認める論考である。以前,『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想文を認めた時にも触れたが,この講演集を取り上げるのは,われわれの師匠がこれを高く評価され,会員に改めてしっかりと学習するように言われたからであった。その後行われたゼミの場でも再び取り上げられた。

 そこでは,まず講演集であるから,コンパクトな記述の中に薄井看護論の全体像が描かれているので,いくつかの講演録を読むと,くり返しその全体像を学ぶことができると説かれた。また,予備知識のない聴衆に理解させるために,具体的な事実を示し,そこから論理を取り出し,その論理でもって別の事実を説き,ということがくり返されているので,非常に説得的である,ということであった。こうした解説の上で,改めて強力に推薦されたのである。

 そこで筆者としては,『科学的な看護実践とは何か(下)』を読み込み,しっかりした感想文を書く決意をしたことであった。

 その際留意したのは,前回の感想文について,会員からもらったコメントである。筆者は前回の感想文の最終回で,以下のように説いていた。

「さらに本書を読んでいて痛感したのは,薄井先生が事例で説かれることが非常に多いということである。ほとんど全編,事例を通して説かれていたといっても過言ではない。これは,事実に語らせるという科学的な方法論が徹底されているということもいえるが,それ以上に,一つ一つの事例を大切にされている,一つ一つの事例に対して自分が全責任を負って取り組まれている,ということの証であろう。薄井先生は本書の中で何度か「賭け」という言葉を使われている。この賭けというのは,専門家として自ら主体的に判断して,思い切って最善と判断した介入を行い,その結果に対しては自分が全責任を負う,という姿勢を表明したものである。また,「看護は怖い」という言葉も何度か発せられている。自分が全責任を追うからこそ怖いのである。このような姿勢を持っておられたからこそ,看護学の科学的学問体系を構築できたのであり,本書でも,何かを説くに際して,適切な事例が次から次へと出てくるのであろう。」


 ここでは,『科学的な看護実践とは何か(上)』は事例で説かれることが非常に多いこと,それは事実に語らせる科学的な方法論の故でもあるが,それ以上に,薄井先生が一つ一つの事例を大切にされ,その事例に対して全責任を負っておられることの証であること,を説いた。

 この部分に対してある会員から,ここで説かれているような内容をもっと突っ込んで展開してほしい,人間が現実世界に主体的・能動的に(社会的労働を介して)関わっていくなかで,科学という社会的認識が必然的に生じてきたのだというようなことを,深く考えておきたい,というコメントがあった。また別の会員からは,科学化の原動力として,「何とかしたい」という強烈な問題意識があるという点にぜひとも触れてほしいという要望も出された。そこで本論考では,前稿に欠けていた薄井先生の生き方や姿勢から学ぶことについても取り上げての展開とする予定である。

 本書の副題が「看護教育のめざすもの」であり,「白鳳選書版へのまえがき」によると,下巻のテーマは「看護教育」ということであるから,本稿では専門家教育という観点から本書を読み解き,学んだことを認めていきたいと思う。専門家教育ということでいえば,これまでもたびたび触れてきたように,心理職の国家資格化が現実のものとなり,現在,公認心理師養成のキャリキュラムについて検討されているところである。臨床心理士である筆者は,このような公認心理師に関連して,専門家教育ということに非常に強い関心を持っている。

 また,現代日本社会を見渡しても,専門家教育の質が問われる問題が数多く噴出しているといってよい。たとえば,医師による研究データの改竄,看護師のミスによる患者の死亡事件,教師による児童・生徒への犯罪,臨床心理士によるストーカー事件などである。もちろん,これらが全て,専門家教育の不備によるものだとはいえない。しかし,このような問題が出てくることの背景には,専門家の教育が十分にその役割を果たせていないという事情もあるのではないか。

 そこで本稿では,『科学的な看護実践とは何か(下)』を読んで,専門家教育には何が必要なのかということについて考えていきたいと思うのである。筆者の理解では,ナイチンゲールと薄井坦子先生のおかげで,看護学は一気に科学的な学問体系の構築に成功し,それをもとにした専門家の教育が行われつつある。言ってみれば,看護の領域は数多く存在する対人援助の専門家にとっては,学問化の先輩であるし,専門家教育のあるべき姿を示してくれているモデルであるといってよいだろう。

 このような看護学の大先達である薄井先生が,講演という形で非常に分かりやすく看護教育について説かれている本書は,他の対人援助の専門家の教育について考える際にも,多くのヒントを含んでいるはずである。したがって,看護の領域について説かれていることを一般化しながら,他の領域,特に筆者の専門である心理臨床の領域にも適用できることをしっかりと学んでいきたいと考えている。

 そこで本稿ではまず,薄井先生の生き方や姿勢といったより根本的なところに焦点を当てて,そこから学ぶべきことを考えていきたい。次に,われわれの師匠が指摘されていた事実と論理ののぼりおりという観点から,本書の内容を読み取りたい。最後に,実践の前提として存在している人間観について考察したいと思う。

 では最後に,『科学的な看護実践とは何か(下)』の目次を掲げておく。



科学的な看護実践とは何か(下)


1.これからの看護に期待される看護婦の育成

 (1) 看護をどうとらえるか
 (2) 看護婦にどのような能力が要求されるか
 (3) 看護の能力を高めていくには何が必要か
 (4) 「性差」について
 (5) 「生物体」と「生活体」
 (6) 看護学における人間論のレベル
 (7) 学生の認識をどう訓練するか
 (8) 何にでも興味を持って自己の認識を鍛える
 (9) 日常生活の規制はどこから出てくるか
 (10) 学校教育と現任教育の分担
 (11) 対立概念をとらえて考える

2.現代の看護教育について

 (1) 看護教育に求められている共通な性質
 (2) 教育の本来的な構造
 (3) ナイチンゲールと看護教育
 (4) 看護の心 ―看護をはかるものさし
 (5) 看護に高い目標を
 (6) 看護学の目指すべき方向 ―「生活研究」の必要性
 (7) 看護教育のレベルに合った要求水準を
 (8) 「生活研究」の具体例
 (9) 看護に高い誇りを

3.看護学における客観主義的偏向の克服 〔その1〕

 (1) 人間の面白さ,看護の生々しさ,すべてをくるめた看護学を
 (2) 対象を見つめ,その謎を解こうとする姿勢を
 (3) 関わりを見つめるとはどう見ることか
 (4) 対象の構造に分け入って問題を解く
 (5) 看護過程を浮きぼりにする
 (6) 意識的に取り組むことの大切さ
 (7) 精神面のことでも証拠を示せる方法論を

4.看護学における客観主義的偏向の克服 〔その2〕

 (1) 人間の心の触れ合いを土台に据えた看護理論を 
 (2) 「看護的な感じ方」と「看護的な行動」
 (3) 看護の頭脳(あたま)づくり
 (4) 看護の技づくり
 (5) 自らの意志としての看護

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2016年11月03日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 ここまで、例会で報告されたレジュメを紹介したあと、ヘーゲル『哲学史』のヤコービとカントについて論じられている部分の要約を4回に分けて掲載し、参加者から提起された論点についてどのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介してきました。

 最終回となる今回は、例会を受けての参加者の感想を紹介します。

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 今回の例会では、ヘーゲル『哲学史』のうち、ヤコービとカントの部分を扱った。論点の提示まではできたのであるが、それに対する見解で行き詰ってしまって、結局、見解をまとめることができなかった点は大いに反省する必要があると思っている。

 例会当日は、自分の読みで内容を把握できず混乱してしまった部分を少しでも理解し、大枠でヤコービやカントがどのような主張をしているのか、それをヘーゲルがどのように評価しているのか、何とか把握できるようになることを目標に議論していった。

 ヤコービに関しては、神はその存在を証明できるようなものではなく、思惟によって把握できないものであること、信仰によってこそ直接その存在を捉えられるものであることを主張していることが分かり、またヘーゲルはこうしたヤコービのいわば二元論、思惟と信仰とを全く別のものとして分けて捉えてしまっていることを批判していることが理解できた。

 カントに関しては、人間の認識能力を研究したこと、人間の認識能力を、対象に関する理論理性、自立的な実践理性、個別者と普遍者を統一する判断力の3つに分けたこと、理論理性には対象を時間と空間という制限を加えて捉える感性、12のカテゴリーで把握する悟性、それに超感性的なものを捉える理性に分けていること、自由と必然、物自体の世界と現象の世界を何とか統一しようと苦闘したことなどが分かってきた。カントのいう感性と悟性とを統一した直観的悟性こそがヘーゲルのいう絶対精神の萌芽形態であるということも何となく理解できたが、やはりカントの認識論を全て把握できたとは全く言い難いところがある。来年以降、『純粋理性批判』を読んでいくこととなるので、言語学創出のためにも、カントが人間の認識をどのように捉えたのか、しっかりと理解して自分の実力にしていく必要がある。

 次回はいよいよ『哲学史』の最後の部分、フィヒテとシェリングを扱う。細かな部分に捕われて大きな流れを見失ってしまわないように、過去の例会報告も参考にして、しっかりと準備していきたいと思う。

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 今回の例会では、カント哲学を大まかにも把握したいと考えていた。それは来年度からカントの『純粋理性批判』を扱うからであるが、その目標は達成できたのではないかと感じている。つまり、なぜカントが物自体の世界と現象の世界という2つに区分したのか、またそれらを統一するためにどう考えたのかという点を大体理解できたということである。

 カントが物自体の世界と現象の世界という2つに区分したのは、ヒュームの問題提起(必然性や因果関係といったものは客観的に存在しないという主張)に答えるためである。カントは、物自体の世界は何の性質ももたないが、その物自体の世界から得た材料が我々の感性・悟性を通過した結果として、現象の世界が成立するのであり、この現象の世界こそ我々が見ている世界(客観的な世界)だとしたのである。この現象の世界は悟性がもつカテゴリー(因果関係や必然性などを含む)を通過しているからこそ、因果関係や必然性などは存在しているのだと主張したということであった。そして、この感性と悟性は共通の根から誕生するとして、その共通の根として「直観的悟性」という概念を打ち立てたのだが、これがのちにヘーゲルに引き継がれて、絶対精神へと昇華したということであった。

 また、理性とは一体何なのかという点について、感性や悟性は現象の世界に関わるのに対して、理性(理論理性・実践理性ともに)は物自体の世界に関わるものだということだった。そして、両者を統一するものとして、理性と悟性の間に判断力があるのだということだった。

 以上を図式化すると、以下のようになると思う。

物自体    理性
         \
          判断力
         /
現象     悟性
         \
          直観的悟性
         /
現象     感性


 このような形で、カント哲学を大まかに把握できたこと、またヘーゲル哲学へのつながりについて少し理解できたことがよかった。

・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、まず、カントの立場に立って、なぜ物自体論や二律背反論を構築しなければならなかったのか、その必然性をしっかりと掴むことが大切だと思った。哲学史は一つにつながっているのであり、カントならカントの時代状況で、それまで明らかにされてきたことや取り組まれたりしてきた問題が前提としてある。そこから出発して、新たな学説を打ち立てたのであるから、カントが身を置いていた世界をしっかり描いて、カントの立場に立って、カントの理論構築の過程を辿り直す必要があるだろう。なぜこのような一見当たり前とも思えることを再確認しているのかというと、今回の例会の途中で、私はカントがなぜ二元論に陥ってしまったのか、その必然性をきちんと理解できていないことが明らかになったからである。もう少しいうと、カントの出発点たるヒュームとカントの哲学のつながりを、すっかり忘却していたのである。

 ヒュームは、経験論の立場を徹底させ、必然性や普遍性などといったものは、客観的世界やその反映である感覚の中には含まれていないのであるから存在しない、単なる観念の連合にすぎないとした。カントはこのヒュームの考え方から出発して、確かに客観的世界や感覚の中には必然性や普遍性はないが、それが存在しているのは確実であるから、それは悟性が与えるものであるに違いないとして、純粋悟性概念たるカテゴリーを措定したのであった。つまり、必然性や普遍性は、認識の中にしか存在しないということである。しかし他方で、経験がなければ認識が成立しないことも明らかであるので、認識を成立させるスタート地点としての経験を認め、経験によって与えられた材料に、感性の純粋形式である時間・空間の枠組みが与えられ、さらにそれを悟性がカテゴリーに適合させることによって認識が成立する説いたのである。こうなると、われわれが必然性や普遍性が存在するものとして認識しているのは、われわれの認識が作り出した現象の世界でしかないということになり、真に客観的な存在たる物自体は認識することができないということになる。物自体には時間も空間もなく、当然に、必然性や普遍性もない。そのようなものをわれわれは認識することができないのである。このようにしてカントの二元論が成立したのであった。一見するとカントの物自体論や二律背反論は、常識からかけ離れた非常におかしな論である。しかし、カントの立場に立って、その前提であったヒュームからの発展を考えると、この論は必然性のあるものだということが分かる。このように、それぞれの哲学者の立場に立ち、その哲学者が見ていた世界や前提としてた先行学説をしっかりと踏まえたうえで、その哲学者の学説の成立する必然性を押さえることが大切だと、再確認したことであった。

 さらにカントからヘーゲルへの流れとして、この二元論を克服するための取り組みであるということも大切だと感じた。カント自体が、この二元論を克服するためのヒントいうか、基本的発想を出してはいる。感性と悟性の共通の基盤としての悟性的直観や、悟性と理性の間にあるとされる判断力などの概念がそれである。一方では、必然性が支配する自然の世界たる現象界があり、他方では、自由が支配する物自体界がある。理性とか自我とかいったものは、物自体界の住人でもあるという捉え方のようである。ここをどう統一的に説き切るのかという格闘の歴史が、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルへと発展するドイツ観念論の歴史といっていいのであろう。こういう観点を忘れずに、次回の例会に臨みたいと思う。

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 今月は、チューターにあたっていたわけだが、その役割を果たす以前に、毎月継続して行ってきた『哲学史』の要約作業に、思った以上に時間とエネルギーを費やすことになってしまった。読めば何となく分かるのだが、その要点を短くまとめる上でどういう言葉を選択していけばよいのか、『哲学史』のこれまでの部分以上に、難しさを感じた。とくにカントの部分は大変であった。

 各自から出された論点の整理にあたっては、論点3に多くのテーマを詰め込み過ぎて、3つの論点の間のバランスが少々悪くなってしまったのは反省点である。整理した論点への自身の見解の執筆も、ヘーゲルがカントの議論に沿って展開している中身に沿ってまとめていくと、相当な分量になってしまってなかなか大変であった。それでも、丁寧に見解を書いていくなかで、ヘーゲルがカントの二元論を如何にして一元論にしようとしたか、より具体的には、カントの直観的悟性とヘーゲルの絶対精神が繋がるものであることが、次第に鮮明になってきた感があった。

 なお、見解の執筆に際しては、自身の過去のブログ掲載論稿「ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたのか」を読み直してみたが、非常に得るところがあった。自分自身が書いた文章を繰り返し読んでしっかりと血肉化していく事の大切さを改めて痛感した。

 各自から出された見解の整理については、特に問題なく行えたのではないかと思う。当日の議論も含めて、ヒュームとカントとの関係、カントが二元論に陥ってしまった必然性、二元論を克服する可能性を秘めていたはずの直観的悟性という着想等々について、研究会としての共通認識にすることができたのではないかと思う。

(了)
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2016年11月02日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(9/10)

(9)論点3:カントの実践理性批判、判断力批判とはどういうものか

 前回は、第二の論点、すなわち、カントの理論理性批判とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、カントが物自体は何らの矛盾ももたず、いわゆる二律背反は自我の側(我々の心のなか)にあるものだとしたこと、こうしたカントの主張をヘーゲルが批判して、物自体は矛盾しており、この矛盾を原動力として全世界は運動・変化・発展しているとしたこと、カントにおいて自我の側にあるとされた矛盾が、ヘーゲルにおいてそもそもは世界(物自体)の側にあるとされるためには、カントによって示唆された直観的悟性という発想をヘーゲルが徹底して突き詰めて絶対精神(自我=世界)という発想に到達する必要があったことなどが議論されました。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、カントの実践理性批判、判断力批判とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 ヘーゲルは、カントの実践理性への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。また、カントの判断力への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。これらのことを踏まえつつ、ヘーゲルは、カント哲学の全体についてどのように総括しているか。ヘーゲルの立場からすれば、カント哲学は、どのような前進を成し遂げ、どのような課題を後に残したといえるのであろうか。ヤコービの哲学とカントの哲学との共通点と相違点は、ここにどのように関わるか。
 唯物論の立場からすれば、カントの実践理性への批判、および判断力への批判について、どのように評価することができるか。また、カント哲学の全体については、どのように評価することができるか。


 カントの実践理性批判へのヘーゲルの評価については、事前に提出された各メンバーの見解の間に大きな捉え方の相違はありませんでした。簡単にいえば、道徳的存在としての人間を自由であるとしたことの意義を認めつつ、道徳的な自由の法則と自然界における必然の法則とを別物(二元論!)として出発してしまったために、両者の現実的な統一がありえなくなってしまったことを限界として指摘する、というのがヘーゲルによるカント実践理性批判への評価だということになります。

 カントの判断力批判へのヘーゲルの評価についても、事前に提出された各メンバーの見解の間に大きな捉え方の相違はありませんでした。簡単にいうならば、カントのいわゆる判断力とは、感性的なものとしての自然概念の領域と超感性的なものとしての自由概念の領域とを合目的性という概念によって統一しようとするものであるわけですが、ヘーゲルは、概念と実在との統一を表明しても、ただ概念の側面を掲げるだけで終わってしまっている、と否定的な評価を与えているのでした。「ただ概念の側面を掲げるだけ」というのは、カントがいくら概念と実在との統一を主張しても、それは主観的にはそう見えるということでしかなく、それ自体(実在)が実際のところどうなっているかは我々にはつかみようがない、という見解にとどまっていたことを指しています。この点に関わっては、ヘーゲルが、概念と直観を唯一の統一としてもつ直観的悟性こそ我々がわがものとすべき思想である、と力説していることも指摘されました。カントが十分には展開することができなかった直観的悟性こそ、思惟することによって世界自体を生み出す絶対精神の萌芽的形態であることを、確認しました。

 ヘーゲルの立場からのカント哲学の全体への評価については、カント哲学が二元論(物自体の世界/現象の世界)にとどまってしまい、この矛盾を解決できなかったことが批判されている、ということで、事前に見解を提出したメンバー間に意見の相違はありませんでした。この点に関わって、あるメンバーは、カントの二元論をバークリーやヒュームの主張と対比させつつ、普遍的なるものとか概念とか対象の構造とか法則性とかいうものも、我々が見ている世界(現象の世界)に間違いなく含まれていると指摘したことこそがカント哲学の意義だとされている、とも指摘していました。こうした指摘について、チューターは、普遍的なるものや法則性などを主張するために二元論を打ち立てなければならなかった、すなわち、物自体の世界とは別個に、自我の側から能動的に創出される現象の世界の存在を仮定するほかなくなってしまった、ということを押えておくことが重要であろう、というコメントがなされました。また、カント哲学の全体が三段構造の図式(定立、反定立、総合)によって貫かれている点が評価されている、という指摘もなされました。ただし、こうした三段構造の図式が、概念の必然的な展開としては捉えられず、諸契機がバラバラのままであった(自己を意識しつつ区別するものとしての精神の概念的把捉に至っていない)ことが批判されていることには注意が必要だ、というコメントがチューターからなされました。

 ヘーゲルが説くヤコービとカントの共通点と相違点としては、ともに神が認識されないと主張している点は共通するものの、そのような結論に至る過程も、そもそもの出発点も異なっていた、ということが確認されました。ヤコービは、フランス哲学(諸々の具体的なものが展開する此岸の世界に対する彼岸の存在として、抽象的・無内容な神が位置づけられました)とドイツ形而上学から出発し、範疇(カテゴリー)がそもそも制約されているから、絶対者は認識できるものではないのだと考えました。これに対してカントは、ヒュームの懐疑論(必然性などは実在するものではなく、原因と結果の法則などは習慣にもとづく主観的な信念にすぎない、とされました)から出発し、認識に備わった範疇(カテゴリー)そのものは制約されているわけではないが、現象界を創造する主観的なものでしかないから、(現象界とは区別された)客観的な物自体の世界の存在である絶対者を認識することはできないのだ、と考えたのでした。

 最後に、カントの実践理性批判および判断力批判、またカント哲学の全体を唯物論の立場からどのように評価すればよいか、という問題について議論しました。実践理性批判については、人間の認識の能動性、人間の主体性(=自由)ということを認めようとしたものであり、その社会的な背景としては、後進地域ドイツにおいて、自由を現実の世界のなかに実現するよりも以前に、観念の世界のなかで深めていくという過程が進行した、ということができるのではないか、という指摘がなされました。この点に関わっては、カントの両親がルター派の敬虔主義であり、その影響でカント自身も敬虔なルター派であったことが、道徳律に尊敬の念を抱くべしとの彼の思想に反映しているといえるのではないか、という意見も出されました。また、カント哲学の全体については、現象の世界(自然、必然)と物自体の世界(自由)という全く別個の(絶対的に区別される)2つの世界を前提としてしまったことが大きな制約となっており、判断力というのは、物自体の世界(自由)と重なり合うようなものとして現象の世界を把握できないものであろうか、という課題の解決に向けた苦闘の産物にほかならない、という指摘がされました。こうした指摘を踏まえつつ議論した結果、現象の世界と物自体の世界という二元論は一元論に解消されなければならないこと、全ては精神(絶対精神)の産物だとして、いわば物自体の世界の側から一元論化しようとしたのが観念論者ヘーゲルであるとすれば、我々の唯物論の立場からは、全ては物質の発展の流れのなかでの産物であるとして、いわば現象の世界の側から一元論化しなければならないことを確認しました。

 以上で、論点3をめぐる議論については、一応の区切りをつけました。
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2016年11月01日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(8/10)

(8)論点2:カントの理論理性批判とはどういうものか

 前回は、第一の論点、すなわち、ヤコービの哲学とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、ヤコービが思惟(媒介知)と信仰(直接知)を絶対的に対立させてしまったことに対して、ヘーゲルがあらゆる知は媒介的である(過程)と同時に直接的なものである(結果)、と主張していることについて、そもそもヘーゲルの考える知とはどういうことなのか、ということを踏まえつつ、議論したのでした。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、カントの理論理性批判とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。


【論点再掲】
 ヘーゲルは、カントによる理論理性への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。カントの物自体論および二律背反論から、ヘーゲルの絶対精神を核心とする哲学体系がどのようにして導かれることになったのであろうか。
 唯物論の立場からすれば、カントの理論理性への批判について、どのように評価することができるか。


 まず、カントの理論理性批判についてのヘーゲルの評価から、確認していきました。各メンバーが事前に提出した見解を比べてみれば、ごく簡単にまとめているか、より詳しくまとめているかの違いはあるものの、捉え方の大きな相違というものはないであろう、というコメントがチューターからなされました。総論的に大切なポイントとしては、そもそもカントが理論的意識を感性・悟性・理性の3段階に分けたことについて、ヘーゲルはこうした分け方はもっぱら経験的なもので、概念の必然的な展開というものにはなっていない、と批判していることが指摘されました。このことを踏まえた上で、カントが感性・悟性・理性についてそれぞれどのように説いていたかを確認しつつ、ヘーゲルが批判しているポイントについても押えていきました。箇条書きレベルで列挙すれば以下のようになります。

 感性をめぐっては、カントが、経験によって与えられた材料は感性の純粋形式である時間と空間の枠組みで取り込まれる、としていることを確認しました。その上で、ヘーゲルが、時間空間が感性の純粋形式だとされるだけで、そもそも時間空間とは何なのか、という問題が突っ込んで検討されていない、と批判していることを確認しました。

 悟性をめぐっては、カントが、感性が時間空間の枠組みのなかに受け入れた材料は悟性の普遍的思惟規定であるカテゴリーと結合させられることで、はじめて認識として成立する、としていることを確認しました。その上で、ヘーゲルが、カントのいわゆるカテゴリーはただ経験的に取り上げられたものにすぎず、経験は結局のところ現象しか捉えられないとされてしまったことを批判していることを確認しました。

 理性をめぐっては、カントが、カテゴリーは悟性の対象たる有限的な存在には適用できるものの、理性の対象たる制約されないものに適用しようとすると、4つの二律背反に陥ってしまう、と論じていたことを確認しました。その上で、ヘーゲルが、二律背反はカントが示した4つに限らずどんな概念のうちにも見出せること、カントにあっては物自体が矛盾するのではなく、心のなかにしか矛盾はないとしてしまったことを批判していることを確認しました。

 また、感性と悟性との共通の根源として直観的悟性なるものがあるはずなのに、このことを明確に理解しきれていないことについても、批判的に言及されていることを確認しました。この直観的悟性をめぐっては、いわば(自己が)想像することによって(世界を)創造するものであり、自我と物自体との二元論を克服する可能性を秘めたものとして、ヘーゲルの絶対精神の萌芽的形態ともいえるものなのではないか、という指摘もなされました。

 カントからヘーゲルへの道に関して、各メンバーが事前に提出した見解においては、カントにおいて主観的なものだとされた二律背反(=矛盾)は、世界そのものがもつものであり、この矛盾を原動力として全世界は運動・変化・発展しているという発想をヘーゲルは抱いたのだ、といったことが共通して指摘されていました。チューターからは、自我の側にあるとされた矛盾が、そもそもは世界(物自体)の側にあるとされるためには、カントによって示唆された直観的悟性という発想を徹底して突き詰めて絶対精神(自我=世界)という発想に到達する必要があったことを、しっかりと押さえておく必要があるのではないか、というコメントがなされました。

 なお、カントの二律背反については、ヘーゲルの扱いが非常にあっさりとしていることが意外であった、という感想も出されました。このことは、「カントの『物自体』論、『二律背反』論は本当はその成立過程の論理構造こそが大事であるのに、すなわちここは学問レベル、論理学レベル、哲学レベルでその構造の成立過程をとらえかえさなければならないのに、『物自体』論を事実レベルにおとしめて批判したヘーゲル(『大論理学』〔先験的観念論の物自体論〕)も含めて、そこをなすことをしなかったばかりに、多くの学者たちは哲学者カントの実力をずいぶんと低くみてしまったものだ」(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第二巻』p.367)とされていることに関わるのではないか、との意見も出されました。

 カントの理論理性批判への唯物論の立場からの評価ということについては、カントのいわゆるカテゴリーが「論理」にほかならないこと、すなわち、感性的な素材が与えられても、論理がなければきちんとした像は結ばないということをカントが指摘したことは高く評価するに値する、ということが確認されました。ここでいう論理とは、諸対象に共通する性質に関する像(例えば、鉛筆、ボールペン、万年筆という諸対象から「筆記用具」という共通性を抽象した像)のことです。このような論理という像がすでに我々のアタマのなかに(自我に)存在しているからこそ、我々は、現実の世界の姿をそれなりの秩序をもったものとして反映することができるわけです。アタマのなかにそういう論理がなければ、私たちは次々と出会う諸々の対象の無限の変化性、無限の多様性に振りまわされてしまい、完全な混乱状態に陥ってしまうでしょう。カントの議論はこの点を極めて鋭く指摘したものであり、認識論史上、特筆すべき成果であるといわなければならない、ということになりました。

 同時に、カントが、時間・空間の概念や諸カテゴリーについて、あらゆる経験に先だって認識にもともと備わっているもの(先験的な、純粋なもの)だ、としてしまった点は唯物論の立場からは批判の対象となる、という指摘もなされました。カントは、個々の具体的な認識は経験によってしか成立しない、と主張した点では唯物論(世界は永遠の昔から物質的に統一されたものとして存在していたのであり、精神は物質の特殊なあり方としてある時点で創造されたのだ、とする世界観)的であったといえるが、その大前提として、そもそも経験的認識が成立するための条件が認識の側にもともと備わっている(客観的世界は認識の側の条件によって創造される)、としてしまった点で、結局は観念論(物質的な世界はある時点において精神的存在によって創造されたものである、とする世界観)の立場をとったのだ、ということもできます。唯物論の立場からするならば、時間・空間の概念も、カントのいわゆる12のカテゴリーも、すべて具体的な諸経験(対象の反映)を出発点にして、そこから何重にも抽象化の過程を積み重ねていくことによって成立したものだ、と捉えられなければなりません。しかし、このような難点はあるにしろ、認識が対象のたんなる受動的な反映として成立するのではなく、あくまでも能動的な問いかけによってこそ成立するものであることを鋭く解明した点においては、カントの理論理性批判は不朽の意義をもっているといえるのではないか、ということになりました。

 なお、唯物論の立場からの評価をめぐっては、カントが認識内において矛盾は避けられないということを指摘した点も唯物論の立場から評価できるのではないか、という意見も出されました。しかし、この意見については、カントが認識内の矛盾を云々せざるをえなくなったのは、世界そのものが矛盾していることを認められなかったからであり、物自体(対象)と自我(認識)とに絶対的な壁を設けてしまったからではないか、という指摘がなされました。すなわち、唯物論の立場からすれば、カントにおいて、物自体(世界)の反映として認識が成立するという関係が否定されてしまったことが批判の対象とされるべきではないのか、ということです。この意見を提出したメンバーも、大筋においてこうした批判を受け入れました。

 以上で、この論点2をめぐる議論については一応の区切りをつけました。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
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 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
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 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
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 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
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 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
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 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言