2016年10月31日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(7/10)

(7)論点1:ヤコービの哲学とはどういうものか

 前回まで、ヘーゲル『哲学史』のうち、ヤコービおよびカントについて論じられている部分の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、ヤコービの哲学とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 ヘーゲルは、ヤコービが「信仰を思惟に対立して登場させる」(p.66)というが、これはどういうことか。また、これに関連してヘーゲルは、「媒介された知と直接知との対立」について言及しているが、これはどういうことか。両者の関係について、より根本的にいえば、そもそも「知」ということについて、ヘーゲルはどのように考えていたのであろうか。
 唯物論の立場からすれば、ヤコービの哲学はどのように評価できるか。


 まず、信仰と思惟の対立という問題から、確認していきました。この問題をめぐっては、事前に各メンバーから提示されていた見解に、大きな食い違いはありませんでした。簡単にまとめれば、次のようになります。すなわち、色々な根拠をもってきて、これがこうだからあれがああなって……と筋を通していくのが思惟ですが、絶対者である神はそのようなやり方では把握できません。絶対者である神は確実に存在するのだ、と直接に把握するしかありません。これがヤコービのいわゆる信仰であり、直接知であり、内的な啓示である、ということでした。この点に関わっては、ヘーゲルが、直接知としての啓示は神学的意味としての啓示とは異なる、としているのも重要だろう、という指摘がなされました。直接知としての啓示は我々自身のなかにあるのだが、教会は啓示を外から伝えられるものだと考える、というわけです。歴史的にいえば、ルターによる宗教改革を通じて、人間が教会の権威から主体性を取り返したという経過があってこその主張といえるのではないか、という意見も出されました。

 媒介された知と直接知との対立との問題についても、大きな見解の相違はありませんでした。端的にいえば、信仰が直接知、内的な啓示であり、思惟というのが媒介された知である、ということです。また、ヘーゲルが、直接知と媒介知を絶対的に対立させるヤコービの見地を厳しく批判したということについても、全員が一致して指摘していました。ヘーゲルの批判の要点は、直接知のみならず媒介知も、結局のところは、自我(自己意識)に対するものとしての絶対的存在を、自己自身と直接に同じものにしようとしている、と指摘した点ではないか、というものでした。とりわけ、思惟は絶対者を思惟するとき直接に絶対者自身になっている、というヘーゲルの主張は、思惟によっては絶対者を把握することができないというヤコービに対する批判の重要なポイントとして押さえておくべきではないか、という指摘もなされました。

 結局、ヘーゲルは、信仰も思惟も同じように知なのである、と主張していることになるわけですが、ここで、ヘーゲルのいわゆる知とはそもそもどういうことなのか、ということが問題になりました。これについては、絶対的存在(世界の本質的な原理)を人間が直接に自分と同じものとして捉える、ということにほかならない、という見解が提示されました。ヘーゲルにおける知とは、現実の世界と観念の世界とをピッタリと重ねてしまうことにほかならず、そのためには、世界の本質としての神を自己自身として自覚すること(神とは精神であり、人間もまた精神である、と自覚すること)がカナメとなるのだ、というわけです。この見解に対しては、「ピッタリ重ねてしまう」とはどういうことか、無限に多様な世界を人間は認識しつくすことはできない、「どこまでいても近似的」(『弁証法はどういう科学か』p.139)という三浦つとむの主張との整合性はどうなのか、という疑問が出されました。この疑問に対しては、唯物論の立場からすればそういう疑問の余地はあるにしても、ヘーゲルの観念論の場合は、文字通り、世界=自己という図式が成立するので、まさに「ピッタリと重ねてしまう」ということになるのではないか、また唯物論の立場でも、あたかも自分=世界という図式が成立するかのように、世界の全てをあたかも自分自身のようによく分かるという状態が知(=学問)の完成形態だといい得るのであって、これは世界のあらゆる現象の隅々まで脳細胞に鮮明に反映させるというのとは別次元の問題ではないか、という意見が出されました。疑問を提示したメンバーも、大筋で納得しました。ヘーゲルにおける知ということについては、「知というものは、体系的に組み上げられた全体としてこそ真理であるといえるのであり、その部分も、全体の中にしっかりと位置付けられているのが、本来の知のあり方である」という見解もなされました。これはこれで重要な指摘であることを確認しました。

 ヘーゲルが、あらゆる知は直接知であると同時に、媒介された知でもあるのだ、という立場を強調していることについては、事前に見解を提示した全てのメンバーが一致して指摘していました。ごく簡単にいえば、直接性というのは結果であり、そのためには過程すなわち媒介が必要である(例えば、人間が神を精神であると直接に知るのは、本質的には教説により長く継続された教養によって媒介された結果であることは明らかである)、ということです。こうしたヘーゲルの指摘は、「媒介と同時に直接性を含んでいないものは、天にも、自然にも、精神にも、どこにも存在しない」(『大論理学』)という論に通じるものであろう、という指摘もなされました。


 ヤコービの哲学への唯物論の立場からの評価については、チューターのみが見解を提示していました。まず、社会的歴史的条件についていえば、カントと並んで、経済的・政治的に後進地域であったドイツにおける観念論哲学の大きな発展のきっかけをつくったといえるのではないか、ということでした。より詳しくいえば、19世紀に入ってなお封建的色彩の濃い領邦国家の分立状態にあったドイツは、政治的・経済的変革を通じて現実世界のなかに自由の理念を実現していったイギリスやフランスに強烈な憧れを抱きながらも、みずから同じように自由を現実世界のなかに実現することがかなわなかったために、それをまずもって観念の世界で発展させていく(理論的に考察して深化させる)という歩みを進めていくことになった(これが結実したのがドイツ観念論哲学)のであり、その歩みの発端に位置付けられるのがヤコービとカントである、ということです。哲学の内容という面からみたヤコービの意義としては、この世界の絶対的本質についての把握が可能であるという信念を、いささか強引な形であったにしろ、明確に打ち立てたということが指摘できるのではないか、ということでした。また、限界としては、まさにその強引さが問題で、経験(対象の反映)をもとにした思惟による媒介を否定してしまったという点で、観念論的というほかないないのではないか、ということでした。

 以上のようなチューターの見解そのものについては、大きな異論は出されなかったものの、そもそも唯物論の立場から哲学史の大きな流れを描く際に、ヤコービがそれほど重要な存在として浮上してくるものなのか、という疑問が提示されました。この疑問をめぐっては、カントと対になる存在としては、やはりそれなりの位置を占めることになるのではないか、という意見も出されましたが、何らかの結論を出すところにまでは至りませんでした。ともかく、我々自身の手で、唯物論の立場から、ヘーゲルに匹敵するレベルで哲学史の流れを描いていかなければならないのだ、という課題を改めて明確に確認したところで、この論点1をめぐる議論に一応の区切りをつけました。
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2016年10月30日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、ヘーゲル『哲学史』のうち、ヤコービおよびカントについて論じられている部分の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 まず、ヤコービの哲学についてです。ヘーゲルは、ヤコービについて、絶対的な存在を認識することはできないという結論はカントと同じであるものの、その出発点も結論に至る過程も異なると説いていました。ヤコービにおいて、認識とは、対象を何ものかに条件付けられたものとして把握することだとされるので、媒介されたもの(条件づけられたもの)しか認識することはできない、ということになる、というわけです。ここからヤコービは、何ものにも制約されない絶対者たる神は認識できないのであり、絶対者たる神は内的な啓示によって直接に知ることができるだけである、としたのでした。このように、ヤコービにおいては、信仰(直接知)と思惟(媒介された知)とが対立させられたわけですが、ヘーゲルはこれを厳しく批判していました。ヘーゲルによれば、全ての直接知は媒介性を含んでいる、ということになるのです。我々が直接に知ることは、無限に多くの媒介を経た結果なのだ、というわけです。ヘーゲルは、このようにヤコービを批判しながらも、人間精神が直接に神について知るという命題のなかには、人間精神の自由の承認であるという偉大なる点が含まれている、という肯定的な評価も与えているのでした。

 続いて、カントの哲学についてです。カント哲学の全般的な特徴として、ヘーゲルは、@普遍性や必然性を否定したヒュームの議論を受け止めつつ、普遍性と必然性は思惟のなかに存在するとしたこと、A認識する前に認識能力を認識すべきだとしたこと、Bアプリオリな総合判断は思惟によって与えられる関係で関係づけることだとしたことを挙げていました。ヘーゲルは、認識する前に認識能力を研究しなければならないというカントの主張について、泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものだ、と厳しく批判しつつも、認識能力そのものを研究の対象として設定したことについては、カントのなした偉大な一歩であったと評価していました。

 カントの純粋理性批判に関わってヘーゲルは、理論的意識の三段階区分――感性、悟性、理性――が、もっぱら経験的になされたもので概念の必然的な展開としては把握されていないと指摘していました。その上で、三段階のそれぞれについてのカントの議論を検討していました。カントによれば、経験によって与えられた材料は、感性の純粋形式である時間と空間の枠組みで取り込まれ、悟性の普遍的思惟規定であるカテゴリーと結合することで、はじめて認識が成立します。カントによれば、このようにして認識できるのは、物自体ではなく現象です。カントによれば、カテゴリーは悟性の対象たる有限的な存在には適用できるものの、理性の対象たる制約されないものに適用しようとすると、4つの二律背反に陥ってしまいます。カントはこの二律背反について、物自体ではなく主観の側に存在するものだとと説きました。

 ヘーゲルは、こうしたカントの議論について、時間空間の本来の性質やカテゴリーの必然性を問題にしていない点を批判していました。また、純粋感性と純粋悟性との共通の根に位置付けられる直観的悟性について、突っ込んだ考察がなされていない点をも批判していました。さらに、カントの二律背反論については、二律背反の必然性を指摘したことを高く評価しつつ、矛盾はただ我々の思惟のなかにあるもので物自体は矛盾していないのだとしてしまったことを批判していました。

 カントは、実践理性批判において、対象を必要とする理論理性は自立できなかったが、実践理性は内部で自立した存在であり、人間は道徳的存在としては、全ての自然法則や現象を超えて自由である、と説いていました。この実践理性批判について、ヘーゲルは、カントが自己意識の本質をなす事柄を絶対的な法則とみなし、そこに全てを集約していったことをこの上なく重要な視点であると高く評価していました。自由こそが人間の行動を支える究極の心棒とされたことは偉大な進歩であった、というわけです。ただし、その自由が抽象的で無規定であることが指摘され、自然のうちに理性の目的が実現されるべきということから神の存在が要請されるものの、必然性の法則と自由の法則は別のものであるという二元論が前提される以上は自然と善との統一は決して現実にはなりえず、神は単なる信念以上のものにはなりようがない、と批判されていました。

 カントは、判断力批判において、自然と理性、必然と自由の統一を実現するのが判断力の理念であり、美と有機的生命が判断力の対象である、としていました。ここでカントは、直観の完全に自発的な能力が悟性と一体化した直観的悟性を考えていたのですが、ヘーゲルはこのことを高く評価して、これが叡智の原型であり、我々がものにすべき思想であると力説していました。

 ヘーゲルは、カント哲学の全体について、結論的に、二元論に終わるものだと批判していました。しかし、全体を三段構造の図式によって貫いた(批判を3つに分かれており、カテゴリーもまた4×3という形になっている、など)ことについては、高い評価を与えていました。カントは認識の、学的運動のリズムを普遍的図式として描き、至るところで定立・反定立・綜合という精神のあり方を樹立した、というわけです。ただし、これらの諸契機がバラバラなままで、概念の必然的な展開としては把握されていない、ということが指摘されていました。

 2016年10月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、ヤコービの哲学とはどういうものか
 ヘーゲルは、ヤコービが「信仰を思惟に対立して登場させる」(p.66)というが、これはどういうことか。また、これに関連してヘーゲルは、「媒介された知と直接知との対立」について言及しているが、これはどういうことか。両者の関係について、より根本的にいえば、そもそも「知」ということについて、ヘーゲルはどのように考えていたのであろうか。
 唯物論の立場からすれば、ヤコービの哲学はどのように評価できるか。

2、カントの理論理性とはどういうものか
 ヘーゲルは、カントによる理論理性への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。カントの物自体論および二律背反論から、ヘーゲルの絶対精神を核心とする哲学体系がどのようにして導かれることになったのであろうか。
 唯物論の立場からすれば、カントの理論理性への批判について、どのように評価することができるか。

3、カントの実践理性、判断力とはどういうものか
 ヘーゲルは、カントの実践理性への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。また、カントの判断力への批判について、どのように説明し、どのような評価を与えているのか。これらのことを踏まえつつ、ヘーゲルは、カント哲学の全体についてどのように総括しているか。ヘーゲルの立場からすれば、カント哲学は、どのような前進を成し遂げ、どのような課題を後に残したといえるのであろうか。ヤコービの哲学とカントの哲学との共通点と相違点は、ここにどのように関わるか。
 唯物論の立場からすれば、カントの実践理性への批判、および判断力への批判について、どのように評価することができるか。また、カント哲学の全体については、どのように評価することができるか。
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2016年10月29日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』カント〔実践理性批判、判断力批判〕 要約

 前回は、カントの理論理性批判についてヘーゲルが論じている部分の要約を紹介しました。そこでは、ヘーゲルが、カントによる理論的意識の三段階区分――感性、悟性、理性――について、もっぱら経験的になされたもので概念の必然的な展開としては把握されていないと批判していたこと、カントの二律背反論において、矛盾はただ我々の思惟のなかにあるものであって、物自体は矛盾していないのだとされたことを批判していたことなどをみました。

 さて、今回は、カントの実践理性批判、判断力批判について、ヘーゲルが論じている部分の要約を紹介することにしましょう。

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2、〔実践理性批判〕

 意志の本性とその原理を考察するのが実践理性批判であり、そのなかでカントは意志は本来的に自由だというルソーの規定を取り上げている。対象に関係する理論理性はついに自立性には到達しない。これに反して、理性が自己内において自立的になるのは実践理性としてである。道徳的存在として人間は自由であり、一切の自然法則一切の現象を超えた高みにある。
 実践理性における第一の要請は、自己自らを規定する独立の自由意志である。自己意識にとって本質的な存在、法則や自体として妥当するものを自己意識自身のなかに帰着させたことは、カント哲学のこの上なく重大な規定である。自由は人間がそれを究極の軸として回転するものであり、何ものによっても左右されない究極の尖端であり、したがって、人間は何らの権威をも認めず、人間の自由が尊重されない限りは彼に何らの責任も負わすことはできないという原理が樹立されたことは、大いなる進歩である。しかし、この原理にカント哲学は依然として立ち止まってしまった。この自由は、自己自身との一致ということでしかなく、無規定的で無内容である。
 第二は、意志の概念と個人の特殊的意志との関係である。ここで具体的な点は、私の特殊的意志と普遍的意志とが同一であることである。しかし、そこでは何が道徳的であるかは語られず、自己を実現する精神の体系についても何ら考えられていない。むしろ理論理性が感性的対象に対立させられるように、実践理性は依然として実践的感性たる衝動や傾向性に対立させられる。道徳性とは普遍的意志によると特殊的な意志(感性的なもの)の規定だとされるから、道徳的意志の目標はただ無限の進行においてのみ達せられるという結果になる。そのことに基づいてカントは魂の不死を要求する。
 第三は最高の具体的なるもの、すなわち全ての人間の自由の概念である。したがって自然界も自由の概念と調和的にあるべきことが要求される。それこそ神の要請にほかならない。意志は全世界(感性の全体)を自己と対立させるが、理性は世界の究極目的たる善の理念として道徳律と自然との統一に迫ろうとする。カントは、神の存在を、道徳律が神聖だという考え、また自然のうちに実現される理性の目的のために要請するのである。こうした要請は、あるがままの矛盾を成立させ、ただその解決の抽象的当為のみを表明するにとどまるものである。必然性の法則と自由の法則は別のものであるという二元論のなかにおかれる限り、善は自然に対して彼岸にあり、自然が善の概念に適合するなら、もはや自然ではなくなる。両者の統一を立てることは当然に必要なのだが、両者の分離が前提される以上、統一は決して現実にはならない。神はカントにとっては単なる信念、あて推量にすぎず、単に主観的にとどまり即自且対自的な真理ではない。

3、〔判断力批判〕

 判断力批判には、統一の理念を現在的なものとして立てようという要求が登場してくる。感性的なものとしての自然概念の領域と、超感性的なものとしての自由概念の領域との間が隔絶しているにしても、自由概念はその法則によって課せられた目的を感性界に現実化すべきであり、したがって自然はその形式の合法則性が自由法則によって自然のなかに働く目的の可能性に一致するように考えることができなければならない。反省的な判断力は、自由であると同時に合法則的な必然性の理念またはその内容と直接一つになっている自由の理念を原理とする。判断力の原理は、経験的諸法則一般の下にある自然の諸事物の形式に関していえば、その多様性における自然の合目的性だということになる。換言すれば、この合目的性という概念によって、あたかも悟性のなかに自然の経験的諸法則の多様が統一される根拠があるかのように自然は表象されるようになる。反省的判断力の原理は、形式的合目的性と実質的合目的性と二重になっている。判断力も一方で美的であるとともに他方で目的論的であり、前者は主観的合目的性を考察するものとして芸術作品における美を対象とし、後者は客観的・論理的合目的性を考察するものとして、有機的生命の自然産物を考察する。

a〔美的判断力〕 美的判断力の美は、対象の合目的的な形式が快の根拠として価値判断される場合に成立する。美的判断力において、普遍的なものと特殊的なものの没概念的な直接的統一がみられるが、カントはこの統一を主観においたために、それは制限を免れず、また概念的に把握された統一でないために、美的なものとしても一層低いものである。

b〔自然の目的論的考察〕 自然の目的論考察では、有機的な自然産物において概念と実在との直接的統一が対象的統一として直観される。しかし、こうした考察は外的目的観ではなく内的目的観(生物はそれ自身が目的であり、目的が外部におかれることはない)によって行われなければならない。カントによれば、有機体とは自然の機械性と目的とが同一になっているようなものである。こうして、普遍的概念が特殊的なものを規定するという具体的なものの表象がカント哲学のなかに入ってくるのであるが、しかしカントはこの理念をただ主観的な規定においてのみとりあげたから、概念と実在との統一を表明しても、ただ概念の側面を掲げるだけで終わってしまう。彼は制限を制限として立てた瞬間にその制限を止揚しようとはしない。それがカント哲学が常に犯す矛盾である。思想の豊かな富は、カントにあっては常にただ主観的形態においてのみ展開される。客観的なものは、カントによればただ自体のみであり、事物が自体において何であるかは我々には分からないのである。
 カントは、普遍的法則を与えることで等しく個別的なものを規定する直観する悟性の考えに到達しはする。しかし、この「叡智の原型」なるものが悟性の真の理念にほかならないことには、カントはついに思い及ばない。我々の悟性はそれと違って、分析的な普遍的なるものから特殊的なものへと進むように造られているから、というのである。にもかかわらず、概念と直観を唯一の統一としてもつ直観的悟性こそ、我々がわがものとすべき思想なのである。

c〔善〕 カント哲学において具体的なもののの表象が現われる最高の形式は目的がその全き普遍性において捉えられる場合であるが、この場合の目的こそ善にほかならない。総じて世界全般が善たるべきという絶対的要求が存在しているが、善と現実との同一という実践理性の要求は、主観的理性によっては実現されない。世界の究極目的としての普遍的な善は、第三のものとしての神によってのみ実現される。こうして判断力批判もまた神の要請をもって終わる。カント哲学においては、神は証明されないものの、要求されるのである。カントによれば神はただ信じられるにすぎず、この点でカントはヤコービと一致する。神を信じることは絶対者への復帰であるが、しかし神は何であるかの問題は依然として残る。

 こうしてカント哲学は二元論に終わる。すなわち、ただ本質的な当為にすぎない関係、不断の矛盾をもって終わるのである。しかし、自体において差別をもつ普遍的なるものというべきアプリオリな総合判断という普遍的な理念以外に、カントの本能は、没精神的とはいえ全体を三段構造の図式によって貫いた。批判を3つに分けたことのみならず、大抵の分類、範疇や理性理念等々の場合もそうである。カントは認識の、学的運動のリズムを普遍的図式として描き、至るところで定立、反定立、綜合という精神のあり方を樹立した。それによって精神は自己を意識して区別するものとして精神となるのである。第一は存在であるが、それは意識にとっては他在である。第二は、対自的存在、自己自身の現実性であり、ここで逆転した関係が現われ、自体に対する否定者たる自己意識が自己自身にとって本質的存在となる。第三は両者の統一であり、対自的に存在する自覚した現実性は、対象的な存在も対自的存在もそのなかに取り戻したあらゆる真の現実性にほかならない。こうしてカントは歴史的に全体の諸契機を示し、これを正当に指摘し区別した。カント哲学の欠陥は絶対的形式の諸契機が離れ離れになっていることにある。我々の認識が自体への対立を構成するが、当為を止揚すべき否定的なものが欠けており、それが概念的に把捉されていない。
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2016年10月28日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』カント〔理論理性批判〕 要約

 前回は、カントの哲学についてヘーゲルが総論的に論じている部分の要約を紹介しました。そこでは、ヘーゲルが、認識する前に認識能力を研究しなければならないというカントの主張について、泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものである、と批判していたこと、一方で、認識能力そのものを研究の対象として設定したことはカントのなした偉大な一歩であったと評価していることをみました。

 さて今回は、カントの理論理性批判についてヘーゲルが論じている部分の要約を紹介することにしましょう。

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1〔理論的理性〕
 
 カントは純粋理性批判において、理論的意識の主要段階を叙述する。第一の能力は感性一般、第二は悟性、第三が理性である。以上は、概念からの発展として必然性をもって進行するものではなく、全く経験的にとりあげられたものである。

a、感性
 先験的なものの出発点は、感性におけるアプリオリなもの、感性の形式である。この感性についての論定を、カントは先験的感性論と呼ぶ。カントによれば、直観とは感性によって我々に与えられた対象の認識であり、感性とは外的なものとしての表象によって触発される能力にほかならない。直観には色や硬さや怒りや愛や快等々あらゆる種類の内容が見出されるが、こうした材料のなかにありながらそれとは別のものとして、空間と時間の規定が含まれる。空間と時間は純粋直観すなわち抽象的直観であり、その直観のなかにおいて我々は個々の感覚の内容を、あるときは時間のなかで前後に流れるものとして、あるときは空間のなかに並立するものとして、我々の外に置くのである。カントは、外的な物自体は時間空間を欠いており、それらが意識によって経験されることの制約として時間空間が加わるのだ、というように考える。そうであるならば、一体どうして、心はほかならぬ時間空間という形式的制約をもつのであろうか。しかし、時間空間の本来の性質は何かということは、カント哲学は全く問題にしないのである。

b、悟性
 感性は受動性であるが、思惟一般は自発性であるとカントはいう。悟性は感性から経験的な材料とアプリオリな材料(時間と空間)を得て思惟する。感性と悟性の双方が働いたときのみ、認識が姿を現わす。先験的論理学は、悟性がアプリオリにそれ自身においてもつ概念を掲げる。思想のもつ形式は多様を統一にもたらす総合的機能である。この統一は、先験的統覚たる自我・自己意識の純粋統覚作用であり、自我はあらゆる我々の表象に随伴するとされる。生硬な言い方だが、偉大で重大な認識である。
 自我が、表象一般の経験的材料を結合するのは、普遍的思惟規定たる範疇の先験的な本性である。カントによれば、12の根本範疇があり、これが3元をなす4つの組に分かたれる。@量の範疇…単一性・雑多性・総体性。A質の範疇…実在性・否定性・制限性。B関係の範疇…実体と偶有性・原因と結果・相互作用。C様態の範疇…可能性・現実性・必然性。カントが、第一の範疇は積極的であり、第二は第一を否定するもので、第三は両者の総合だといっているのは、概念の偉大なる本能である。しかし、カントは、これらの範疇を経験的にとりあげるだけで、統一からこれらの差別を必然性をもって発展させることには思い至らない。
 これら範疇はそれだけでは空虚であり、知覚や感情等々の与えられた多様な材料と結合してはじめて意味をもつ。感情または直観に属する知覚の材料はその個別性と直接性の規定のままに放置されず、むしろ私はそれに対して働きかけてそれを範疇によって結合し、普遍的類や自然法則等々に高めるのである。経験のなかにこれら2つの構成部分を見出すことは正当であるが、カントはこれに結び付けて、経験は単に現象を捉えるにすぎない、としてしまう。
 純粋悟性概念が如何にして現象に適用され得るかの可能性を示すのが、先験的判断力である。純粋直観を範疇にしたがって規定し、経験への移り行きをなすのは、純粋悟性の図式論であり、先験的構想力である。これによって先に絶対的に対立するとされた純粋感性と純粋悟性とが今や合一される。そこには直観的悟性あるいは悟性的直観が含まれるのだが、カントはそうは考えず、この思想をまとめ上げることはしない。

c、理性
 カントは悟性から出発して同じく心理学的に理性に向って進んでいく。理性はカントによれば、原理から認識する能力、すなわち、概念によって特殊的なるものを普遍的なもののうちに認識する能力である。悟性は有限的な関係における思惟であり、理性は制約されぬものを対象とする思惟であって、理性の産物は理念だとされるが、カントにおいてそれは抽象的な普遍的なるもの、規定されぬものにすぎない。
 この制約されぬものを具体的に把握することに真の困難がある。ここでカントは、理性は無限的なるものを認識しようとしつつそれを果たしえない、という。その第一の理由は、無限的なものは感性的知覚の世界には与えられない、ということである。しかし、そもそも無限的なものを感性的に知覚しようというのが誤りである。第二の理由は、理性が範疇という思惟形式以外のものをもたない、ということである。範疇は客観的規定を与えるが、それ自体においては主観的なものであり、ただ現象に適用され得るこれら範疇を無限的なものの規定に用いるならば、誤った推理と矛盾(二律背反)のなかに巻き込まれてしまう――これがカント哲学の重要な規定である。
 制約されぬものには、形式論理学の3つの理性推理――断言的・仮言的・選言的――にしたがって、3つの種類がある。第一は思惟する主観、第二は一切の現象の総体、すなわち世界、第三は思惟され得る一切のものの可能性の最高の制約を含むもの、すなわち神である。

(α)先験的主観の統一という必然的な理性理念が物としていいあらわされる点に、推理の誤謬が生じる。自我は自己自身のなかで持続的であるが、ただ意識のなかだけでそうなのであって、意識の外においてではない。我々が思惟するものについて表象をもつのは、外的経験によってではなく、単に自己意識によってである。自我が主観的であることは分かっても、我々が自己意識を超えてそれを実体であるというならば、我々は我々に正当に許された範囲以上に出ることになる。したがって、私は主観に何らの実在性をも与えることはできない。カントが自我について、感性的存在をもつ心的事物や死んだ持続体でないと主張するのは正当である。しかし、カントはこれと正反対の点、すなわち、この普遍的なるもの、または自己思惟としての自我が、彼が対象的あり方として望む真の現実性を自己自身に備えているということを主張しない。彼は、実在性とは感性的実在であるというような考え方を抜け切れていないのである。

(β)二律背反、すなわち制約されぬものの理念を世界に適用し、世界が諸制約の完全な総体であると叙述するときに生ずる矛盾。現象は有限であり、世界は制限されたものの連関であるが、もしこの理性の内容が思惟されて制約されぬもののうちに包括されると、有限と無限という相互に矛盾する2つの規定が生じる。カントは4つの矛盾を指摘するが、本当はあらゆる概念のなかに二律背反があるのである。

 (αα)二律背反の第一。「定立 世界は時間において始めと終わりがあり、また限られた空間内にある。反定立、世界は時間において始めも終わりもなく、また空間においても限りがない」。カントは両方とも充分に証明され得るという。
 (ββ)第二の二律背反。定立は「合成された実体はいずれも単一な部分からなる」、反定立は「単一なるものは存在せず」。
 (γγ)第三の二律背反は自由と必然性の対立である。
 (δδ)第四の二律背反。一方において、総体が完結するのは出発点として自由というものがあるか、世界の
原因として絶対的必然的存在があるかいずれであるが、いずれにしても当然に進行は中断される。しかし他方において、自由に対しては原因結果の制約による進行の必然性が対立し、必然的存在に対しては一切が偶然であるということが対立する。すなわち「世界には端的に必然的な存在がある」、その逆は「世界の部分としても、世界の外にも端的に必然的な存在は存在しない」。

 これらの矛盾の必然性こそ、カントが我々に意識させた興味ある側面である。しかし、彼はこれら二律背反を、先験的観念論に独特な意味においてしか解かず、物自体はこのように矛盾するものではなく、この矛盾はその源をただ我々の思惟のなかにもっている、としてしまう。

(γ)カントは次いで神の理念に達する。これをカントは、たんに一切の可能性の総体にすぎない理念と区別して理性の理想体と呼ぶが、これは存在する理念である。カントはここで神の実在の証明を考察し、この理想体に実在性が与えられるか否かを問うている。カントが固く執って譲らない規定は、概念から存在をひねり出すことは決してできないということである。しかしカントは、理性だけでは悟性認識の方法的組織化への形式的統一をもつにすぎない、というところから一歩もふみ出さなかった。理性または表象としての自我と外的事物は、両者とも相互に端的に他者として相対し、そしてそれがカントによれば究極の立場なのである。
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2016年10月27日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(3/10)

(3)ヘーゲル『哲学史』カント〔批判的観念論〕 要約

 前回は、ヤコービの哲学について論じられている部分の要約を紹介しました。そこでは、ヤコービが、認識とは何ものかに条件付けられたものとして把握することだとした上で、何ものにも制約されない絶対者たる神は認識できないとしたこと、絶対者たる神は、内的な啓示によって直接に知ることができるだけである、として、信仰(直接知)と思惟(媒介された知)とを対立させたことをみました。

 さて今回から3回にわたっては、カントの哲学について論じられた部分の要約を紹介していきます。今回は、カントの哲学についてヘーゲルが総論的に論じている部分です。

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B カント

 ヤコービにあっては、第一に思惟すなわち証明は、有限的なるものや制約されたものをついに超えないし、第二に、たとえ神が形而上学的対象である場合でさえ、証明はむしろ神を制約し有限とすることに終わる。そして第三に、制約されぬものでありしかも直接に確実なものはただ信仰のなかのみにあり、主観的には動かすべからざるものであるが、それはしかし認識できぬものであり、換言すれば規定されないもの、規定すべきでないもの、したがって実を結ばぬものである。これに反してカントの哲学の立場は、第一に思惟がその推究によって、自らを偶然的なものとしてではなく、むしろ自己自身のなかにおいて絶対に究極的なものとして捉えるに至ったという点にある。有限的なるものにおいて、またそれとの関連において絶対的な立場が現われ、それが中間項ともなって、有限的なるものを結合するとともに、無限的なるものへと昇り行く通路となる。思惟は自己自身を絶対的に決定的なものとして捉えた。思惟の確信にとっては外的なものは何らの権威もなく、一切の権威はただ思惟によってのみ有効となりうる。しかし、この自己自身内で自己を規定する具体的な思惟は、第二に主観的なものとして把握された。主観性のこの側面こそヤコービの見解においてとくに支配的な形式であるが、これに反して思惟が具体的であるということはヤコービがどちらかといえば不問に付したのである。両者の立場はともに主観性の哲学にとどまる。すなわち、思惟が主観的たることによって思惟には即自且対自的存在者を認識する能力が否定されるのである。カントにあっては神は、一面、経験のなかには見出されない。外的経験のなかにもなく内的経験のなかにもない。他面、カントは推論によって神に到達する。すなわち、神は彼にとっては説明のための仮説であり、実践理性の要請である。カント哲学の真実なる点は、自由を容認することである。すでにルソーが自由のなかに絶対者を掲げていたが、カントもまた同一の原理を、理論的な側面から掲げたのである。フランスでは、抽象的な自由を現実に当てはめることで現実を破壊したが、ドイツにおいては、意識が自己に関心をもつということが、ただ理論的な形で遂行されたのである。

〔批判的観念論〕

 全てのものがそれに対して存在すべきものは、つまるところ人間であり自己意識であって、しかもその人間とは全ての人間一般としてのそれにほかならない――こういうことを抽象的な形で意識にのぼらせたのがカント哲学なのである。それは、自己意識に自体的なものの一切の要素を取り戻すことを要求しながら、しかもこの自体的なものをなお自己と区別することによって、みずからは依然として対立から抜けきれないでいる観念論である。カント哲学は、単純な思惟を自己自身に区別を備えたものと解しはするが、一切の実在がまさにこの区別によって成立することを未だ解するに至らず、自己意識の個別性を克服する術も知らず、理性を描くことには巧みを究めるものの、その描き方は、真理それ自身を再び失うような没思想的な経験的な仕方でしかないのである。カント哲学は、知り得るものは真実体でなくただ現象のみであるというにすぎない。それは知を意識と自己意識のなかに導入するものの、この知は主観的な有限的な認識として固定されてしまう。この哲学は、客観的独断論としての悟性形而上学を終息させたが、しかし実際にはそれをただ主観的な独断論に、換言すれば同一の有限な悟性規定が根差している意識のなかに移しかえ、即自且対自的に真なるものを求める問題を放棄してしまったのである。

 カント哲学は、第一に、ヒュームと直接に関係する。カント哲学の一般的意味は、普遍性や必然性という規定は知覚のなかには見当たらないというヒュームの指摘を、ただちにその根本から認めることにある。しかし、ヒュームが総じて範疇の普遍性と必然性に反対し、ヤコービはその有限性を難じたのに対して、カントは、その客観性にのみ反対する。もっとも彼は、数学や自然科学の例が示すように、それが普遍妥当的必然的なものの意味では客観的であるとして主張するが、外的事物それ自身のなかに存在するかのような意味では、その客観性に反対するのである。我々が客観的なものを成立させるものとして普遍性と必然性を希求するという事実は、カントはこれを充分に容認する。しかし、普遍性と必然性が外的事物のなかにないとすれば、それはどこに見出されるかが問題になる。ここでカントはヒュームに反対して、それはアプリオリに、換言すれば理性自身のなかに、自覚した理性としての思惟のなかに存在しなければならない、その源泉は私の自己意識内の主観、自我なのである、という。これがカント哲学を簡明に表わした主要命題である。

 カント哲学は、第二に、その目的がカントの言葉によれば認識能力の批判にあるという理由で、批判哲学とも呼ばれる。すなわち認識する前に、人は認識能力を研究せねばならぬというのである。認識はその場合、真理を獲得するための道具だと考えられている。真理それ自身に到達する前に、まずその道具の性質や作用を認識しなければならない、というのである。しかし、人は認識する前に認識能力を認識すべき、というのはできない相談である。泳ぐことができるようになるまでは前もって水に入ろうとしないようなものである。とはいうものの、認識を考察の対象としたことは、カントのなした偉大にして重大な一歩ではある。

 第三に、経験によって与えられる材料と範疇との関係についていえば、カントによると、思惟の主観的な規定、例えば、原因と結果のなかには、すでにそれ自身だけで上の材料の区別を結合する素地がある。その限りカントは、思惟を総合的活動と呼び、したがって彼は、哲学の問題を次のように設定する。「如何にしてアプリオリな総合判断は可能であるか」と。アプリオリな総合判断とは、相反するものの自己自身による連関、または絶対概念にほかならない。換言すれば、原因と結果等々のような区別された規定を経験によって与えられないで、思惟によって与えられる関係で関係づけることにほかならない。同じように、空間と時間も結合するものであり、それらもまたアプリオリ、すなわち自己意識のなかにある。カントは思惟が知覚から汲み取られないアプリオリな総合判断を有することを指摘することによって、思惟を自己内において具体的なものとして示すのである。このなかには偉大な理念があるが、展開そのものは粗雑な経験的見解にとどまり、学問的形式をもっていない。

 カントの粗野な表現の一例をあげれば、自身の哲学が純粋理性の諸原理の体系であり、その諸原理は自覚した悟性のなかの普遍的なものと必然的なものとを示すだけで、対象に携わることもなく、また普遍性や必然性の何たるかを研究することもない、という意味で、先験哲学(Transzendental-philosophie)などと呼ぶことである。そうならば、それは超越的(transzendent)というべきだろう。transzendent と tranzendental とは厳密に区別しなければならない。カントは先験哲学を、超越的となり得るものについてその源を主観的思惟のうちに、意識のうちに指摘する哲学である、と規定する。必然的なもの普遍的なものは人間の認識能力のなかにあるとされるのだが、カントはこの人間の認識能力から依然として物自体を区別するから、普遍性と必然性とはただ認識の主観的制約であるにとどまり、理性はその普遍性と必然性をもってしては、真理の認識に到達できないのである。理性は主観性として認識するために、直観や経験、すなわち経験的に与えられた材料を必要とするからである。もし、理性がそれだけで自存しようとし、自己自身においてまた自己自身から原理を汲み取ろうとするなら、理性は超越的となり、経験を超える。それゆえ、理性は認識においては構成的でなくて単に統制的であり、感性の多様に対する統一であり、規則である。しかし、この統一はそれだけでは経験を超えてただ矛盾に陥ってしまう。したがって、理性の批判は、まさに対象を認識することではなく、認識とその原理を認識すること、認識が飛躍的にならないためにその限界と範囲を認識することである。

 以上が一般論であり、続いて個々の部分をみていく。カントは第一に理論的理性、すなわち外的対象に関する認識を考察する。第二に、自己実現としての意志を考究し、第三に判断力、すなわち普遍的なものと個別的なものとの統一を考察の対象にする。いずれにせよ、認識能力の批判が主要な事柄である。
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2016年10月26日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(2/10)

(2)ヘーゲル『哲学史』ヤコービ 要約

 前回は、京都弁証法認識論研究会の10月例会において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそれに対して他メンバーからなされたコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、ヘーゲル『哲学史』の要約を紹介していくことにします。

 今回は、ヤコービの哲学について論じられている部分の要約です。ここでは、ヤコービが、神の存在証明を批判し、信仰と思惟を対立させ、直接知と媒介された知とを対立させたことが説かれています。

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第3節 最近のドイツ哲学

 カント、フィヒテ、シェリングの哲学こそは、精神が最近のドイツにおいて思想の形式をとって遂行した革命を記録し、かつ表明するものにほかならない。これらの哲学的思索が継起する順序のなかには、同時に思惟そのものがとった進行過程が含まれている。最近のドイツ哲学の課題は、哲学一般の根本理念たる思惟と存在との統一をいまやそれ自体として対象とし、かつこれを概念的に捉える、すなわち、その最深の必然性たる概念を捉えるという方向に向ったのである。カント哲学は、この課題の形式的な点をとりあえず掲げたのであるが、その結果は自己意識内の理性の抽象的絶対性を確保するだけに終わり、一面では、批判的なものや否定的なもののなかに停滞して、積極的な点といっては意識の事実や憶測を頼りとするが、思想を断念して感情に還るといった皮層と無気力とを結果するのである。しかも他面では、またそこからフィヒテの哲学が生れでるのであって、フィヒテ哲学は自己意識の本質を具体的自我として思弁的に把握しながら、しかも絶対者のこの主観的形式を超えることができない。それを出発点として、やがてシェリング哲学がその形式を放擲し、絶対者の理念、即自且対自的真実体を樹立するのである。

A ヤコービ

 カントと関連して、あらかじめヤコービ(1743-1819)について語っておかねばならない。2人の到達点は同じだが、出発点も行程も異なる。ヤコービは、フランス哲学とドイツ形而上学から出発したが、カントはイギリスのヒュームの懐疑論から出発した。ヤコービは、認識の仕方の客観的な点を考察し、認識はその内容上、絶対者を認識することができないと宣言した。すなわち、真実体は具体的で現前しなければならないが、有限的であってはならない、というのである。これに対してカントは、内容を考察せず、認識を主観的と認め、この理由から、それが即自且対自的存在者を認識することができないと宣言した。カントにあっては、認識はただ現象の認識にすぎない。それも範疇が単に制限され有限であるからでなく、範疇が主観的だからである。これに反してヤコービにあっては範疇は主観的であるのみならず、それ自身制約されているという点が主眼になる。これらの点が結果においては一致するにせよ両者の見解の本質的な相違である。

 ヤコービは、神の存在証明について、神を演繹されたもの、何かに基づいたものとして表象することだ、という。彼は、超自然的なもの(制約されたもの、すなわち自然的に媒介されたもの連関の外にある一切のもの)は、我々の明瞭な認識の領域外にあり、概念によっては理解され得ないのであるから、事実以外の仕方で我々に受け取られることはできない、という。この超自然的なものは異口同音に神と呼ばれる。人間の思惟が自然的なもの有限的なものを超えて達する超自然的なものの存在は、ヤコービにとっては自己自身と同様確実である。この確実性は、彼の自己意識と同一であり、私が確実であると同様、神は確実である。このように彼は、自己意識に立ち戻るのであるが、それによって無制約者は、ただ我々によって直接的な仕方でのみあることになる。この直接知をヤコービは信仰と名づけ、内的な啓示と呼び、人間においてはこれに訴えることができるとする。絶対者、無制約者たる神は、ヤコービによれば、証明され得ない。なぜかといえば、証明し理解することは、或るもの対して制約を工夫し、それを制約から演繹するということだからである。直接知としての啓示は、神学的意味としての啓示とは異なる。直接知としての啓示は我々自身のなかにあるのだが、教会は啓示を外から伝えられるものだと考えるのである。

 ヤコービはここで、信仰を思惟に対立して登場させる。我々は、両者に天地の隔たりがあるのかどうか、両者を相互に比較してみよう。一面において、信仰にとっては絶対的本質は直接知であり、信じる意識には絶対的本質が行き渡っており、それが自己の本質になっている。信じる意識は絶対的本質と直接に一となって生きている。思惟は絶対的本質を思惟する。思惟は絶対的本質に対しては絶対的思惟、絶対的悟性、純粋思惟である。換言すれば、思惟はまた同じく直接的に絶対者自身なのである。他面において、信仰にとっては絶対的本質の直接性は同時に存在の意味を有する。それは在り且つ自我以外のものである。思惟するものにとっても同様である。それは彼にって絶対的存在、現実的なもの自体であり、自己意識すなわちいわゆる有限悟性としての思惟以外のものである。

 ところで、信仰と思惟とが相互に理解し合い、一方は他方のなかに自己を認めることをしないのは何ゆえであるか。第一に、信仰は自らが思惟であるということについて何らの意識をもっていない。それは、絶対意識を直接に自己と合一して自己意識として立て、内部において直接に自己を知るからである。しかも、信仰は、この単純な統一を口に出して表明するが、統一はただ没意識的な実体の統一としてあるにすぎない。第二に、思惟には対自的存在が含まれており、信仰はこれに対して存在の直接性を対立させる。思惟は、直接の存在を絶対的な可能性、絶対的に思惟されたものとして捉え、絶対的存在との直接の一体化を現に存在する生命のあり方としては捉えない。こうして、抽象の極限において両者は対立する。自己意識を否定するものとして現われた絶対存在が、否定を貫いて彼岸にあるものとされるか、自己意識と直接に一体化するものとされるか、である。

 信仰も思惟もともに知である。我々は全く普遍的な知を思惟と呼び、特殊的な知を直観と呼ぶ。そして外的規定を持ち込むことを悟性と呼ぶ。人間における普遍的なものは思惟であり、これにまた例えば宗教的感情も数えられる。この感情が宗教的である限り、それは思惟するものの感情としてあり、またこの感情の規定は自然的衝動等々の規定ではなくて普遍的規定である。こうして神はたとえただ感じられ信じられるにすぎなくても、依然として全く抽象的にとられた普遍的なるものであり、それ自身その人格のままで絶対的普遍的人格である。

 思惟と信仰とがこのように一つであるように、いまやまた、媒介された知と直接知との対立も同様の関係にある。本質的に見失ってはならないことは、直接知のなかで啓示されるものが普遍的なるものであることである。しかも、抽象的なあり方の直接知は、自然的な知、感性的な知である。直接的人間はその自然的態度において、その欲情において普遍的なるものを知らない。子どもやエスキモーは神について何も知らず、エジプト人は神が牝牛や猫であることを直接知として知っていた。これに反して、もし、人間が神をただ精神の対象として、すなわち精神的なものとして知るようになったとすれば、この直接的として主張される知は、本質的には教説により長く継続された教養によって媒介された結果であることは明らかである。人は直接的に知るが、ただ媒介的にそこに至ったのである。私は思惟し、普遍的なるものを直接に知る。まさにこの思惟こそ自己自身内における過程であり、運動であり、生命性である。直接性と媒介性との対立は全く空虚な規定であり、これを真の対立と見るのは皮層のきわみである。直接性がそれだけで何ら自体のなかに媒介なくして何ものかでありうると考えるのは、もっとも枯渇した悟性である。ヤコービにおいて哲学が堕した究極の形式、すなわち直接性が絶対者として把握される究極の形式は、一切の批判、一切の論理の欠如を示している。しかし、人間精神が直接に神について知るという命題のなかには、これこそが人間精神の自由の承認であるという偉大なる点が含まれている。この承認のなかに神を知ることの源があり、こうして権威の一切の外面性は、この原理のなかに止揚されているのである。
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2016年10月25日

2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』ヤコービ 要約
(3)ヘーゲル『哲学史』カント〔批判的観念論〕 要約
(4)ヘーゲル『哲学史』カント〔理論理性批判〕 要約
(5)ヘーゲル『哲学史』カント〔実践理性批判、判断力批判〕 要約
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:ヤコービの哲学とはどういうものか
(8)論点2:カントの理論理性批判とはどういうものか
(9)論点3:カントの実践理性批判、判断力批判とはどういうものか
(10)参加者の感想の紹介

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 我々京都弁証法認識論研究会は、昨年および今年の2年間を費やして、ヘーゲル『哲学史』に取り組んでいます。3年前のヘーゲル『歴史哲学』、一昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて、この『哲学史』を通読することにより、ヘーゲルが描く哲学史の流れを理解することはもちろんのこと、それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた一歩を確実に進めていくことを課題としているわけです。

 10月例会では、いわゆるドイツ観念論哲学の起点をなす2人の人物――ヤコービとカント――について論じられている部分を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

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京都弁証法認識論研究会  2016年10月例会
ヘーゲル『哲学史』 ヤコービ、カント

【1】ヤコービ
 ヘーゲルはヤコービについて、絶対的な存在を認識することはできないという結論はカントと同じであるが、その出発点も途中経過も違うと説いている。ヤコービにとって認識とは、順番からいってすぐ前にある条件をとらえることであるから、媒介されたもの、条件づけられたものしか認識できないことになるという。ところが、絶対者=神は無条件のものであるから、認識することはできず、ただ直接知=信仰によってのみ捉えることができるのである。ヘーゲルはこのように思惟と信仰、媒介性と直接性を対立させるヤコービの説を批判している。ヘーゲルによると、全ての直接知は媒介性を含んでいる。われわれが直接に知ることは、無限に多くの媒介を経た結果なのであるというのである。このようにヤコービを批判しながらも、人間の精神が直接に神を知るという立場にも、人間精神の自由を承認しているという長所があると、ヘーゲルは説いている。

〔報告者コメント〕
 ヤコービが思惟と信仰、媒介性と直接性を絶対的に対立するものとしてとらえてしまったのは、弁証法的な実力がなかったからであろうか。媒介と直接性については、三浦つとむさんも『弁証法はどういう科学か』の中で引用されていてる「媒介と同時に直接性を含んでいないものは、天にも、自然にも、精神にも、どこにも存在しない」(ヘーゲル『大論理学』)という弁証法的な把握が必要になってくるだろう。次に見るように、カントは物自体の世界と現象の世界の二元論に陥ってしまったが、ヤコービは思惟と信仰の二元論に陥ったのであり、その原因は両者とも、弁証法的な実力の不足のゆえに、対立物を統一して把握できなかったから、ということがいえそうである。


【2】カントの理論的理性批判
 ヘーゲルはカント哲学の特徴として、普遍性と必然性は思惟の中に存在するとしたこと、認識する前に認識能力を認識すべきだとしたこと、アプリオリな総合判断は思惟によって与えられる関係で関係づけることだとしたことの三点を挙げている。
 カントの純粋理性批判については、感性、悟性、理性が、概念からの発展として必然性をもって進行するのではなく、全く経験的に取り上げられていると批判している。そのうえで、順に検討している。カントによれば、経験によって与えられた材料は、感性の純粋形式である時間と空間の中でとらえられ、さらに悟性によって、普遍的思惟規定であるカテゴリーと結合して初めて認識が成立する。このようにして認識できるのは、物自体ではなくその現象であるという。ヘーゲルは、カントが時間空間の本来の性質やカテゴリーの必然性を問題にしていない点を批判している。また、純粋感性と純粋悟性の合一たる直観的悟性(ヘーゲルのいう絶対精神の萌芽形態)についても考察していないと批判している。
 カテゴリーは、悟性の対象である有限な存在に対して適用できるが、これを理性の対象である制約されないものに適用すると、4つの二律背反などの困難に陥るとカントは説いている。カントはこの二律背反を物自体ではなく主観の側に存在すると説いた。ヘーゲルは二律背反の必然性を説いた点を高く評価しつつも、二律背反を4つに限った点や物自体に矛盾はないとした点を批判している。

〔報告者コメント〕
 感性、悟性、理性を明確に区別した点がカントの業績といえそうであるが、一方で、これらをバラバラに考察しており、一つの認識能力としては捉えられていないという点がカントの限界だったのではないか。とはいえ、人間の認識がどのようにして成立するかについて、かなり突っ込んで検討して、そのプロセスを観念論の立場であったとはいえ、それなりに明らかにした点は、唯物論の立場からも大きく評価できるといえるだろう。カントのいうカテゴリーとは、われわれ唯物論の立場でいうと、対象の諸々の共通性を把握したもの、つまり論理のことであり、カテゴリー(論理)なくして、対象のきちんとした認識は成立しない。それは、生まれたばかりの赤ん坊の認識が、何が何だかわからない像になっていることからもわかる。生まれたばかりの赤ん坊には、もちろん対象を認識する経験がないので、論理がない。したがって、外界が反映しても、頭の中でごちゃごちゃな像しか描けないのである。逆に、論理があれば、論理でもって問いかけて、きちんとした対象の認識=像が成立する。カントはこのような論理を、これまでの学問の文化遺産を整理して、3×4の枠組みとしてまとめ上げたといえるだろう。


【3】カントの実践理性批判、判断力批判
  カントは、対象を必要とする理論理性は自立できなかったが、実践理性は内部で自立した存在であり、人間は道徳的存在としては、全ての自然法則や現象を超えて自由であると説いている。そして、実践理性は己を本質とするような自己意識であるとしているが、ヘーゲルはカントが自己意識の本質をなす事柄を絶対的な法則とみなし、そこに全てを集約していったことをこの上なく重要な視点であると高く評価している。自由こそが人間の行動を支える究極の心棒とされたことは偉大な進歩であると評している。ただ、カントにあっては、人間は道徳的であるべきであり、自然は理性と調和すべきだが、このあるべきはいつまでたってもあるべきであるため、魂の不死と神が要請されるという。ヘーゲルはこの点を真理の一歩手前で立ち止まっていると批判している。
 カントにおいては、自然と理性、必然と自由の統一を実現するのが判断力の理念であり、美と有機的生命が判断力の対象であるとされる。ここでカントは、直観の完全に自発的な能力が悟性と一体化している直観的悟性を考えているが、ヘーゲルはこれを評価して、これが叡智の原型であり、われわれがものにすべき思想だと説いている。ヘーゲルは、結局カントの哲学は二元論に終わっていることを批判している。

〔報告者コメント〕
 カントは『実践理性批判』や『判断力批判』において、ヘーゲル哲学の核心に近づくような発想を出しているといえる。たとえば、実践理性は自立しているがゆえに人間は自由であり、実践理性は自己意識であると説いている点や、直観的悟性という感性と悟性を統一したような概念に触れている点である。結局、カントのいう物自体も自己意識も、全て一なる精神的な存在であり、叡智の原型である直観的悟性に弁証法性を与えて、これが主体的に運動していく中で、全世界の具体的なものが生み出されていくのであり、それを通して自由が実現されていくのだという形で、統一的に把握してこそ、カントの二元論が克服できるということなのではないか。

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 この報告をめぐっては、ヤコービおよびカントについてヘーゲルが論じている内容を、的確にポイントを押さえて簡潔にまとめているといえるのではないか、という感想が出されました。一方で、報告者コメントについては、いくつかの疑問が出されました。

 第一は、ヤコービやカントが二元論に陥ってしまったことを「弁証法的な実力の不足」として切って捨ててしまうことは妥当なのか、という問題です。神の存在証明を云々していた論者や、普遍的なるものや必然性、法則性などを否定していた論者は、果たしてヤコービやカントに比べて弁証法の実力が上だったといえるのか、という疑問が出されたわけです。これに対して報告者は、「弁証法的な実力の不足」というのは非常に抽象的なレベルの批判であり、ここにヤコービやカントの問題点を解消してしまうと、哲学史の歩みの具体的な構造が見えなくなってしまうことを認めました。

 第二は、カントの理論理性批判に関わっての報告者コメントのなかで、「それは、生まれたばかりの赤ん坊の認識が、何が何だかわからない像になっていることからもわかる」としているのは妥当なのか、ということです。「生まれたばかりの赤ん坊の認識」という自分自身の五感覚器官で直接に体験したわけでもなく、世間一般で常識として認められているわけでもないことを、あたかも自明の理であるかのように持ち出すのは不適切であり、どうしてもこの例を出す必要があるのなら「海保静子『育児の認識学』が明らかにしたように……」と断るべきであろう、ということでした。報告者もこのことは認めました。
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2016年10月24日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(13/13)

(13)科学的な言語学体系の創出を目指して

 前回は、改めて本稿の内容を振り返った上で、三浦の言語理論の歴史的意義(*)について考察しました。端的には、弁証法を駆使して、言語における矛盾の構造を解き明かしたのだということでした。

 ここで、連載第1回に取り上げたレスリングの吉田沙保里選手の言葉を思い出してみましょう。吉田選手は、五輪4連覇を逃した決勝戦の後、涙ながらに「取り返しのつかないことになってしまった」と語ったのでした。この言葉を表面的に、言語の「意義」として把握すると、「失ったものを取り戻すことが不可能になってしまった」というようになると思います。しかし、こうした把握では、内容があまりにも抽象的であって、吉田選手が思い描いていた認識を部分的にしか捉えられていないということがいえるでしょう。それでは言語の「意味」、すなわち内容全体を捉えるとどうなるでしょうか。そのためには、観念的な自己を吉田選手の立場に立たせ、吉田選手の認識を追体験する必要があります。こうした過程を経ることによって、亡き父との約束を果たすことができなかったからこその「取り返しのつかないことになってしまった」という表現なのだということが分かるのです。連載第1回で述べた「取り返しのつかない」という表現に関する分析は、論理的にいえばこのようになるわけです。

 それでは、三浦の言語理論でもって言語学は完成したのだといいきることができるのでしょうか。実はそうではないのです。連載第2回に示した『認識と言語の理論』の目次をご覧いただければ分かるように、三浦は本書で言語に関する諸々の問題を一応の筋を通して説いてはいるのですが、科学的な言語学体系としては不十分だといわざるを得ないのです。三浦が本書を執筆した当時の、個別的な言語に関わる論争に関わる記載が、論理的な展開と並列されていたり、言語表現の過程的構造を説くにしても日本語についてのみ解説されていたりと、体系だった流れとはなっていないのです。何よりも、言語の一般的な概念規定がない、言語の本質論がない、というのが決定的に不十分な点として指摘されなければならないでしょう。

 三浦は『認識と言語の理論』第3部p.53において、自身が「言語理論の建設を目ざすようになった」理由について、「根本的にはまだ一般論すら確立されていない分野で仕事をしてみよう」、「言語学者の手におえない難問題を解決してやろう」ということがあったと述べています。では三浦が措定した言語の「一般論」とはどのようなものなのでしょうか。果たして本当に言語の「一般論」が説かれているのでしょうか。pp.56-57には以下のように述べられています。

「感性的な音声や文字を使って超感性的な一般的な認識を直接に表現しなければならぬという言語の矛盾から、特定の一般的な認識にはつねに特定の種類の音声や文字を対応させて表現するよう強制する規範が欠くべからざるものとなり、この規範による表現の媒介という特殊な過程の存在こそ、言語における矛盾がもって自らを実現するとともに解決する運動形態である」

 確かにこの規定は、言語がどのような過程を経て創出されるのか、その必然性も含めて言語の特徴をよく表しているといえるでしょう。しかし、この規定を読んだだけでは、言語とは何かの本質は理解できません。言語の「一般論」といいながら、言語とは何かを本質レベルで説けていないといわざるを得ないのです。それはつまり、言語がどういうものであるのかについて、一言で言い表したような概念規定ができていないということです。言語の本質論がなければ、そこから体系的な構造論を展開し、科学的な言語学体系を創っていくことはできないでしょう。さらにいえば、人間が言語を創出した歴史的必然性についてや、言語が表す認識はどのような過程で人類の頭脳に生成してきたのかについては、つまり言語やその基盤となる認識の原点については、論理的に筋を通して説かれてはいないのです。三浦の言語理論は、言語を矛盾として把握し、静的な構造を解明しただけであって、こうした言語や認識の原点から論理的に把握し、なぜ言語学を創出する必要があるのかを現代社会の諸問題も絡めながら説ききれるような科学的な言語学体系にはなっていないのです。厳しくいえば、弁証法を適用して言語の謎の一部を解き明かすことができましたという以上の言語学創出に対する情熱がなかったのだといえるでしょう。

 それでは最後に、筆者が考える言語の仮説的一般論を示しておきます。

「言語とは、人間が精神的交通を可能にすることで社会的労働を統括し社会を維持・発展させられるよう、社会的認識を媒介することで概念を音声や文字の類的創造として物質化した表現である。」

 この言語の仮説的一般論は、日常的なコミュニケーションにおける言語がどのようなものかを規定するのみならず、連載第2回で触れた人間の本質的なあり方、すなわち認識によって集団生活を統括するという人間のあり方における言語の役割をも規定していると考えています。

 さらにいえば、これまで人類が獲得してきた文化を世代を超えて継承し発展させる上で、言語が果たしてきた大きな役割についても内包していると思います。言語のように、抽象的、一般的な認識を表現する手段なくしては、学問の発展もあり得ないといえるでしょう。人類が長い年月をかけて獲得してきた文化遺産を継承し、さらに発展させていくためには、どうしても言語が必要になってくるのです。

 言語は単なるコミュニケーションの手段ではなくて、こうした人類の生成発展の流れと共に生成発展して、社会の維持・発展に欠かすことのできない役割を担っています。人間の社会の土台であり、全ての学問の基礎であるこうした言語の本質的な役割をしっかり踏まえた上で、言語の本質論が統括する科学的な言語学体系を創出することを決意して、本稿を終えたいと思います。

(*)三浦の言語理論を言語研究史という角度から評価すると、ソシュールの「ラング」と「パロール」を統一したのだともいえます。ソシュールは言語の持つ2つの性格を分けて把握し、それぞれに「ラング」と「パロール」という名前を付けました。言語の社会的・精神的・体系的な性格を「ラング」と呼び、言語の個人的・物理的・個別的な性格を「パロール」と呼んで、全く別の実体として把握したのです。「ラング」は頭の中にあり、「パロール」は現実の世界の中にあるというわけです。そして「ラング」は他の全ての記号と異なるという関係において、自らを同定する記号の体系だと捉えたのでした。また、「パロール」は物理的なあり方が問題であって、言語の本質からは外れる存在だとソシュールは考えたのでした。詳細については、本ブログに掲載した「文法家列伝:ソシュール編」を参照していただくとして、このソシュールの把握は、言語を言語表現と非言語表現との統一だとする三浦の把握に、今一歩のところまで迫ったものだと評価することができます。つまり、言語には2つの性格があることを見抜いたものの、音声や文字そのものに種類という側面があることを把握し切れず、言語の本質たる「ラング」を頭の中にある記号の体系に解消してしまったのでした。三浦は、音声や文字の中に「ラング」的な性質である言語表現と、「パロール」的な性質である非言語表現とが、不可分に統一されていることを見事に指摘したのでした。

(了)
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2016年10月23日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(12/13)

結論
(12)三浦言語学は言語を矛盾として把握した

 本稿は、認識を正しく伝える言語を創っていくためには、あるいは言語に表れている認識を正しく把握するためには、認識と言語とのつながりをしっかりと把握する必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み進め、三浦の言語理論の歴史的意義を明らかにするとともに、科学的な言語学体系を構築する土台を築きあげることを目的として執筆する小論です。これまで三浦が、言語の問題を解くためにまずは認識の理論を説いていったこと、認識から表現への過程的構造を明らかにしたこと、言語を二重性で把握したことを述べてきました。

 ここで改めて、本稿の流れをポイントとなる部分を中心に振り返っておくことにしましょう。

 三浦は、言語はまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字が創造されるという形で生まれるものであるために、言語学のためには認識についての科学的な理論が必要だと述べた上で、認識の個別的性格と社会的性格について説いていきました。認識とは現実の世界の感覚器官を通した模像であって、個人の頭脳にしか描かれないものであるにも関わらず、認識が交通関係に入っていくことによって、他人の認識を受け取り、社会的な性質を帯びていくものであるということでした。認識の基本的な性質を確認した上で三浦は、認識論の2つの柱について説いていきました。1つ目は、観念的な自己分裂という問題についてでした。三浦は、人間の認識は「受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」という性質があると述べ、「現実的な自己」から分裂した「観念的な自己」が時間空間を超えて移行していき、そこで捉えた成果を引っさげて「現実的な自己」に復帰することで、認識が発展していくのだと説いていたのでした。もう1つは、規範とは何かという問題でした。規範とは、観念的に対象化された意志であって、心の中から自分自身に命令するものでした。規範は、個人の頭の中にしか存在しないにも関わらず、対象化された意志という形をとるために、個人の独自の意志と対立することがあるということでした。

 言語学に必要な認識論を説いた上で、三浦は認識から表現への過程的構造について説いていきました。三浦はまず、表現一般について、精神の物質的な模像であると規定しました。そして、現実の世界にある物質的な存在においては、実体が直接に内容とよばれるのに対して、表現の場合は、実体は媒介的に内容を形成する存在であるということでした。言語についていえば、言語の内容(意味)とは、認識が言語の形式(音声や文字)と結ぶ関係であって、感性的に捉えられるものではないということでした。続いて三浦は、言語の表現としての特殊性について説いていきました。言語には、言語を規定する社会的な約束である言語規範が必須であって、この規範を媒介するということこそ、言語の表現における特殊性だというのでした。では、なぜ言語には規範が必要となってくるかといえば、それは言語が具体的な感性的な対象のあり方を捨象した認識である概念を表現するものであるために、こういう種類の認識(概念)を表現するためには、こういう種類の音声や文字を使うのだという社会的な約束が言語には必要になってくるのだということでした。さらに三浦は、言語における観念的な自己運動とはどういうものかについて説いていきました。過去の追想や否定判断を用いる場合には、簡単な構造の文であっても、その背後には、観念的な自己が時間空間を移行するという運動が潜んでいるのでした。また代名詞を用いる際にも、観念的な自己が現実的な自己から分離して、聞き手の立場に立つなどの運動を行うのでした。

 最後に、三浦が言語を二重性で把握した中身を見ていきました。まず、表現一般について、客体のあり方のみならず、主体のあり方をも表現している事実を確認し、この客体的表現と主体的表現とが、言語においては分離する可能性があることを見ていきました。これは言語が対象の感性的なあり方から解放された表現であるために、対象のあり方を表現しても、必ずしも主体のあり方を共に表すということにはならないためでした。次に三浦は、言語の「意味」と「意義」の違いを説いていきました。言語の「意義」とは、規範に対応する内容の抽象的・部分的な面であって、言語の「意味」とは具体的な内容全体のことでした。三浦は、言語の「意義」を手掛かりにしてその「意味」を把握する必要があるとして、観念的な自己が表現者の認識を追体験することで、言語の「意味」を掴むことができるのだと説いたことを見ていきました。最後に、言語は言語表現と非言語表現の統一であるということがどのようなことか、見ていきました。三浦は、言語がどのような形で表されようと、一定の範囲に属する限りは同じ言語として取り扱うのだと述べて、同じ種類に属するという側面こそが言語表現であるとしたのでした。一方、同じ種類に属していたとしても、感性的なあり方は様々であって、言語のこうした感性的なあり方の側面を非言語表現と名付けたのでした。

 以上、三浦つとむ『認識と言語の理論』の論理展開を概観してきました。改めてまとめてみると、三浦は、言語とはどういうものかを解明するために、まずは観念的な自己がどのように運動するのかという問題と、規範とは何かという問題とを中心に認識の理論を説いた上で、認識から表現に至る過程を明らかにしつつ、言語を表現一般に位置づけながらその特殊性を指摘し、言語と認識との関係を繙いてきたといえると思います。

 ここで三浦の言語理論の歴史的意義を問えば、それは徹底して言語を矛盾として把握しようとしたことだといえるでしょう。三浦は弁証法を「物ごとの本質そのものにおける矛盾の研究」(『弁証法はどういう科学か』p.25)だと述べていますが、それを言語において実践したことが大きな成果であるといえるということです。「矛盾の本質は、ある事物が対立を「せおっている」という関係」(同上書p.276)だと説く三浦は、言語においては超感性的な認識を感性的な音声や文字として表す必要があるという根本的な矛盾があるという把握のもと、言語における3つの二重性、すなわち客体的表現と主体的表現との二重性、意味と意義との二重性、言語表現と非言語表現との二重性を解き明かしたのでした。言語の根本矛盾を解決するためには、音声や文字を種類として創造する、つまり言語表現と非言語表現との統一したものとして創造する必要がありました。これを実現するためには、規範を媒介するという認識の運動が必要不可欠であって、この規範を媒介するという手段を創出することは、直接に言語の「意味」と「意義」とを二重化するということだったのです。こうした言語の過程的構造を創出したことは、対象の感性的なあり方に縛られない表現が可能となったことを意味し、結果として客体的表現と主体的表現の分離という言語の特殊性が生じてきたのでした。
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2016年10月22日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(11/13)

(11)言語表現と非言語表現との統一としての言語

 前回は、三浦が言語の「意味」と「意義」をどのように捉えていたのかについて見ていきました。言語は超感性的な認識である概念を表現したものであるために、音声や文字から直接把握できるものは、表現者の認識のうち、規範に対応する内容の抽象的・部分的な面でしかないのであって、これを三浦は言語の「意義」と呼んだのでした。一方、言語が表す具体的な内容全体のことを三浦は言語の「意味」と呼び、言語の「意義」から「意味」を把握する過程を解き明かしたのでした。具体的には、観念的な自己が表現者の立場に立ち、表現者が表現の過程で捨象した具体的な認識を追体験することによって、言語の「意味」を把握することが可能となってくるということでした。

 さて今回は、言語の二重性の最後の1つである、言語表現と非言語表現との統一とはどういうことかについて、三浦の論理展開を追っていくことにしましょう。

 連載第7回において、三浦が言語は「対象を類的存在において概念として忠実にとらえ音声や文字の類的創造において忠実に表現する」ものだと説いたことを紹介しました。簡単にいえば、言語は「音声や文字の類的創造」としての表現であるということです。ではこの「類的創造」とはどういうことでしょうか。このことに関して三浦は、以下のように説いています。

「たとえ、感性的な具体的なありかたとしてどんなに異っていても、行書で書かれた原稿用紙の文字を活字や電光ニュースで複製することが許されたり、あるいは文字を読みあげて音声で複製することが許されたりするのは、ほかならぬ種類として同一と認められているからである。これは、種類としての普遍的な側面こそが言語としての表現であって、種類として対応する複製ならば感性的にどのような変化があろうとも表現として忠実な複製であることを、実践的に承認しているのである。」(p.388)

「言語表現の持っている感性的なかたちそれ自体は決して言語としての表現でないからこそ対象の感性的なかたちからいくらでも遊離できるのだ」(p.387)

 ここで三浦は、音声や文字の二重性について言及しています。すなわち、音声や文字は「種類としての普遍的な側面」と「感性的なかたちそれ自体」という側面との統一であるというのです。そして三浦は、前者を言語表現、後者を非言語表現と規定しています。これは一体、どういうことでしょうか。

 例えば、「犬」という文字があります。この文字は、黒で書こうが赤で書こうが、行書で書こうが楷書で書こうが、鉛筆で書こうが万年筆で書こうが筆で書こうが、電光ニュースで流すために光の点で書こうが、どのような感性的なあり方をしていても同じ文字だといえます。ある一定の範囲に属している限り、同じ文字だとして扱うことになるのです。但し、限界を超えて別の種類として扱われてしまうような変更は許されません。「犬」という文字の「点」を中央下方に移して、「太」とすれば、これはもう別の種類の文字だということになります。音声についても同様です。「イヌ」という音声を、低く発音しようと高く発音しようと、早くいおうと遅くいおうと、その感性的なあり方に関係なく、同じ音声だといえます。ある一定の範囲に属している限り、同じ音声だとして扱うことになっているのです。但し、限界を超えて別の種類として扱われるような変更、例えば、「キヌ」(絹)とか「イン」(印、員など)とか発音すれば、これはもう別の種類の音声として扱われることになります。このように、音声や文字には、ある一定の範囲に属しているという種類の面(言語表現)と、具体的な感性的なあり方そのものという面(非言語表現)という二重性が存在していて、それらが統一されていると三浦はいうのです。

 三浦は非言語表現を活用する例として、「音声言語から相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を音楽として作曲するところに」(p.390)成立する「歌唱」(同上)や、「文字言語から相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を絵画として創造するところに」(同上)成立する「文字デザインあるいは書」(同上)などを挙げています。音声言語や文字言語の種類としての側面を保ちつつ、その範囲内で音声や文字の感性的なあり方、つまり非言語表現の部分を工夫して、様々な芸術が生み出されているというわけです。

 さらに三浦は、連載第9回に取り上げた客体的表現と主体的表現について、これらは言語表現だけではなく非言語表現にも存在するといいます。具体的には、非言語表現の客体的表現としては、以下のように、文字の配置で「「谷間」や蛾の「飛び立つ」ありかたを絵画的に示している」(p.395)例が挙げられています。

非言語表現の客体的表現.png

 非言語表現の主体的表現としては、「怒りや、憎しみや、悲しみや、あるいは愛情などが、非言語表現としての主体的表現すなわち声色によって示される」(p.396)例が挙げられています。例えば、「バカ!」という言葉を頑固おやじがいたずら息子を叱りつけるときに使えば、この声色という非言語表現が父親の怒りを直接に表現する主体的表現であると捉えることができるというわけです。

 以上三浦は、言語は「音声や文字の類的創造」としての言語表現という側面と、感性的なあり方そのものとしての非言語表現という側面とが統一されたものであると説き、この言語表現と非言語表現との二重性と、客体的表現と主体的表現との二重性とが複雑に絡み合った構造を解き明かしたのでした。
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2016年10月21日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(10/13)

(10)言語の「意味」と「意義」の違いを説く

 前回は、客体的表現と主体的表現とは何かという問題に関して、三浦の見解を追っていきました。三浦はまず、表現一般について、客体のあり方を表現した客体的表現と、主体のあり方を表現した主体的表現とがどのようなものか説明していきました。例えば写真であれば、被写体となったものの表現であることは間違いないのですが、同じ写真の画面に、主体の位置も表現されているということでした。そして、感性的なあり方を忠実に捉えて表現する場合には、客体的表現と主体的表現とが不可分に統一されていること、言語の場合には、対象の感性的なあり方から自由であるために、客体的表現と主体的表現とが分離し得ることを確認しました。

 さて今回は、三浦が言語を二重性で把握した中身の2つ目として、言語の意味と言語の意義との違いについて見ていくことにしましょう。

 三浦は、言語が概念の表現であることを踏まえて、「概念以前の対象や認識のありかたの差異は表現の向こう側にかくれてしまって、聞き手や読み手が言語から直接にとらえることができるのはすべて話し手や書き手の概念でしかないのである」(p.381)と述べています。これはどういうことかというと、連載第7回で見たように、言語が表現する概念は、対象を一般化して捉えた認識なのですから、対象の感性的なあり方やその具体的な認識については、言語から直接把握することはできないということです。例えば、山を対象として絵画を描くのであれば、その具体的、感性的なあり方がキャンバスの上に描かれるのですから、「対象の感性的なあり方やその具体的な認識」を直接捉えることができますが、言語の場合、「山がある」といわれても、その対象たる「山」の感性的なあり方や、それを表現者が具体的にどのように認識したのかについては、言語から直接掴むことはできないのです。

 ではどのようにして言語の内容(意味)を把握するのでしょうか。この問題について三浦は、「音声や文字に接したときに、その内容の抽象的・部分的な面を規範に従って直ちに予想するわけであるが、つぎにこの予想を手びきにしてそれ以外の話し手や書き手の認識がどんなものかを推察していき、内容全体の理解に達するのである」(pp.328-329)と述べています。ここで重要なのが、三浦が言語の「内容の抽象的・部分的な面」と言語の「内容全体」とを区別していることです。三浦は別の箇所で、「言語の場合は、規範に対応する抽象的な部分と具体的な内容とを区別する」(p.303)必要があるとも述べています。さらに『日本語はどういう言語か』においては、前者(規範に対応する内容の抽象的・部分的な面)を「意義」とよび、後者(具体的な内容全体)の「意味」と区別して、「意義」は「辞書の教えてくれる表現上の社会的な約束」(『日本語はどういう言語か』p.63)であり「普遍的・抽象的に対象を取り上げているだけ」(同上)だと述べているのです。また、「個々の言語はすべて「意義」に相当するものをふくんでいる」(同上)のであって、「話したり書いたりする場合の対象の認識には、個別的な事物の特殊なありかたが具体的にとらえられていて、いわば「意味」が「意義」に相当するものをふくんでいる状態にあ」(同上)るとも述べています。

 ここで三浦が説いていることは、例えば、ある人が「犬がいる」という表現を行った場合、その「犬」という語から聞き手なり読み手が直接把握できるものは、ワンワン鳴く動物という概念だけであって、この語の「意義」から、具体的な内容、すなわちどんな大きさでどんな色の犬か、どちらを向いているのかといった「内容全体」つまり「意味」を把握して初めて、その「犬」という語を理解したといえるということです。

 では、先の問いに戻って、言語の「意義」から言語の「意味」を把握するためには、どのようにすればいいのでしょうか。連載第6回に、「言語の内容(意味)は、認識が言語の形式(音声や文字)と結ぶ関係である」ということを述べました。また、連載第3回には、「認識とは客観的な現実の世界を感覚器官を通して捉え、脳細胞に描き出した模像」であることも述べていました。つまり、言語の表現者は、対象を把握して認識を形成し、それを音声や文字に表したのですから、言語の「意味」を正しく掴むためには、音声や文字に「むすびついている関係を逆にたどって、作者の頭の中へ、対象へと、その背後にあったはずの関係した存在をたぐっていく」(p.339)必要があるわけです。「表現は関係を逆にたどっていくための手がかりを形式として与えているのであって、この手がかりにもとづいて作者が表現したときの観念的な世界を自分の頭の中に近似的に再現しようと努力する」(同上)必要があるのです。

 これがどういうことを意味するかというと、言語の「意味」を把握するためには、観念的な自己を現実的な自己から分裂させて、観念的な自己を表現者の立場に位置づけ、表現者がかつて辿った表現への過程を遡ることによって、表現者の体験を追体験する必要があるということです。こうして、表現者の認識を把握したうえで、現実的な自己に復帰し、表現に込められた具体的な内容全体を理解することができるのだということです。

 以上のように三浦は、言語における「意味」と「意義」の違いを、具体的な内容全体と規範に対応する内容の抽象的・部分的な面との違いとして把握するとともに、「意義」から「意味」の把握への過程において、観念的な自己の運動が必要不可欠であることを説いたのでした。
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2016年10月20日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(9/13)

3、三浦は言語を二重性で把握した
(9)客体的表現と主体的表現とは何か

 本稿は、言語の問題を本質的に把握するためには、言語が認識とどのようにつながっているのかを明らかにする必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み解き、三浦言語学の歴史的な位置づけを明らかにするとともに、筆者自身の科学的言語学体系構築の一助とすることを目的として執筆するものです。

 前回まで3回にわたって、三浦が認識から表現への過程的構造についてどのような解明をなしたのかについて見てきました。三浦はまず、言語を表現の一種と捉えて、表現が精神の物質的な模像であるとしたのでした。では言語が如何にして認識を模写するのかといえば、その過程において言語規範を媒介するということでした。超感性的な認識である概念を感性的なあり方に模写するためには、こういう種類の認識(概念)にはこういう種類の音声や文字を用いるのだという社会的な約束である言語規範が必要だということでした。さらに、言語の場合、認識から表現に至る過程において、観念的な自己が如何なる運動を行うのかという問題についても見ていきました。三浦は、時制の表現や代名詞を用いた表現において、観念的な自己が時間的、空間的に様々に移行しつつ、現実的な自己に復帰したり、復帰せずにそのまま観念的な世界に留まったりする認識の運動と言語とのつながりを解き明かしたのでした。

 さて今回から3回は、言語の問題を論じる際には認識の理論が不可欠であることを踏まえた上で、三浦が言語を二重性で把握した中身を見ていこうと思います。まず今回は、三浦が言語を大きく客体的表現と主体的表現とに分けて捉えたことを見ていきたいと思います。

 三浦はまず、表現一般が「客体についての表現であるばかりでなく主体についての表現でもある」(p.356)ことを、写真や映画を例にとって説明します。例えば写真であれば、「対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に表現する」(p.355)だけでなく、「作者が写真機を手にした位置」(p.356)をも表しているというのです。また映画の場合には、「ねむくなると画面がとけて流れる」(同上)ことによって、あるいは「よっぱらって帰って来た夫には、迎えに出た妻の顔が二重にも三重にも映じる」(同上)ことによって、あるいは「悲しい思いで手紙を読んでいるうちに、目に涙があふれて手紙の文字がぼやけてくる」(同上)ことによって、「主体的な認識のありかた」を表現しているというのです。このように、表現には表現しようとする対象である客体のあり方のみならず、対象を捉えるところの主体のあり方、例えば主体の位置であったり主体の生理的なあり方であったり主体の感情なども映し出されているというわけです。そして三浦は、客体についての表現という側面を客体的表現、主体についての表現という側面を主体的表現と呼ぶのです。

 さらに三浦は、「対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に表現する場合には、客体についての表現が同時に主体についての表現でもある」(同上)と述べます。つまり、写真や絵画などの場合には、客体的表現と主体的表現とは直接統一されていて、分離することが不可能であるというのです。上記の例でいえば、写真が対象のあり方を表現しているのと同時に、作者がどの位置から写したかという主体のあり方をも表現しているのですが、両者は写真の画面の上に統一されていて、どの部分が客体的表現でどの部分が主体的表現だというようには分けられないということです。

 では言語の場合の客体的表現と主体的表現とはどのようになるのでしょうか。三浦は言語の特殊性について、「主体的表現ぬきの客体的表現ということが言語表現にあっては可能であり、また客体的表現と関係ない独立した主体的表現ということも可能である」(p.393)と述べています。これは、言語においては、主体的表現と客体的表現とが分離する可能性があることを説いているのですが、それはなぜかというと、「対象の感性的なありかたに足をひっぱられない」(同上)からだといいます。つまり、対象の感性的なあり方を表現しようとするからこそ、表現者の位置や認識のあり方が必然的にそこに表れてしまうのであって、言語の場合には、概念という超感性的な認識を表現するのであるから、そうした制約からは解放されているというのです。例えば、山を対象として、絵画で描く場合と言語で表現する場合を考えてみましょう。絵画の場合、対象である山を目で捉えて、それを忠実に表現していくことになります。当然、絵画には山の客体としてのあり方の他に、主体である表現者がどの位置から山を捉えたのかが表れています。しかし言語の場合であれば、単に「山」と表現する限りにおいては、山が客体として把握されていることが分かるのみで、そこに表現主体のあり方は何ら表れてはいないのです。逆に例えば「あなたは学生ですか」と質問されて、「はい」と答える場合は、「学生」という対象のあり方を捉えた客体的表現を抜きにして、単に表現者の承認する気持ちを直接に表しているといえるでしょう。「学生です」という形で、対象のあり方を「学生」と捉えた上で、肯定判断という表現主体の認識を直接に表現する「です」を加えることもできます。いずれにしても、客体的表現と主体的表現が不可分に統一されているのではなくて、分離している(分離し得る)というのが言語の大きな特殊性だということです。

 言語における客体的表現や主体的表現にはどのようなものがあるかについて三浦は、『認識と言語の理論』ではあまり詳しく説いていないのですが、『日本語はどういう言語か』において、日本語を例にして説明しています。客体的表現には、実体を対象として捉えて表現する〈名詞〉、属性を運動し発展し変化するものとして捉えて表現する〈動詞〉、属性を静止し固定し変化しないものとして捉えて表現する〈形容詞〉などがあり、主体的表現には、主観的な感情や意識を直接表す〈感動詞〉、〈助動詞〉、〈助詞〉などがあるといいます。また欧米の言語では、客体的表現の語に主体的表現の部分が語尾変化の形で癒着していて、別の単語として分離していないものも多く存在する事実も指摘しています。英語の”liked”のような動詞の過去形は、日本語では「好き・だっ・た」と客体的表現の語に主体的表現の語を累加した形をとるところを、一語で表していて、客体的表現と主体的表現が癒着しているということです。
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2016年10月19日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(8/13)

(8)言語における観念的な自己運動とはどのようなものか

 前回は、三浦が認識の理論の柱として述べたものの1つである規範論が言語の問題とどのようにつながっているのか見ていきました。三浦は、表現一般における言語の特殊性として、規範を介した表現であると述べていました。ではなぜ、言語においては規範を介する必要があるのかというと、それは言語が超感性的な認識である概念を表現するからでした。感性的な認識であれば、絵画のように、直接それを感性的に忠実に表現することができますが、超感性的な認識である概念を表現しようとすれば、こういう種類の認識(概念)にはこういう種類の音声や文字を用いるのだという社会的な約束、すなわち言語規範を媒介して表現する必要があるのでした。

 さて今回は、三浦の認識の理論のもう1つの柱である観念的な自己分裂という問題が、言語とどのように関わっているのかについて見ていきたいと思います。

 三浦はまず、「言語表現は現実の世界のありかたを直接にとりあげるにとどまる場合もすくなくないが、…追想や予想や空想をとりあげる場合のほうが多い」(p.486)と述べ、「このような言語表現をとりあげる場合には世界の二重化および観念的な自己分裂がその背後に存在するものとして、認識構造を考えてみなければならない」(同上)ことを指摘します。それでは、「追想や予想や空想をとりあげる場合」に「世界の二重化および観念的な自己分裂がその背後に存在する」とは具体的にどのようなことか、以下で詳しく見ていくことにしましょう。

 三浦が取り上げるのは、「少年だ」(1)と「少年だった」(2)という簡単な文です。

「現実の世界での対象が「少年」であるときには、…それをそのままとらえて、これに話し手の肯定判断「だ」を加えてそれですむ。これが追想になると、観念的な世界での対象「少年」をとらえて、観念的な自己としての肯定判断「だ」を加えてから、現実的な自己へもどって来て「た」をさらに加えるのである。」(p.487)

 ここで三浦は、いわゆる「現在形」で対象をとりあげる場合(1)においては、現実的な自己が現実の世界の対象を捉えて、そのまま肯定判断を下すだけであるのに対して、いわゆる「過去形」の文(2)では、観念的な自己が現実的な自己から分離して、過去の世界という観念的な世界に移行し、そこで対象を捉え、観念的な自己として肯定判断を下した後、現実的な自己に復帰して、これまでの表現が過去の認識の表現であったことを「た」で指摘するのだというのです。このように三浦は、実に簡単な構造の文であっても、「助動詞といわれるものが累加される場合には、そこに自己の立場の移行が存在することがしばしばであるから、その点に注意しなければならない」(p.488)ことを指摘するのです。

 「明日は晴れるだろう」という表現では、観念的な自己が明日という未来の観念的な世界に移行し、そこで「晴れる」という対象のありかたを把握して肯定判断を加えて後で、現実的な自己に戻って、「う」という形で、これまでの表現が未来の認識の表現であったこと(「予想」であったこと)を表しています。また、「お化けはいない」という表現では、観念的な自己がお化けがいる空想の観念的な世界に移行し、そこで対象を捉え、そこから現実的な自己に復帰した後で、これまでの表現が空想の世界での認識の表現であったことを「ない」という形で、否定判断を加えて表しているのです。

 三浦はさらに、いわゆる「歴史的現在」(過去の出来事であるにもかかわらず、それを「現在形」で表現する用法のことです)と呼ばれる「現在形」の用法について詳しく解説していきます。

 三浦はまず、「現在」という時制がどのようなものであるのかについて、「同じ時点にあるという客観的な関係を現在とよぶ」(p.499)と説明します。これは具体的にどういうことかといえば、過去のある時点の対象について、その時点、その世界に移行した観念的な自己の立場からすれば、その対象は「現在」という関係にあるということです。このときの観念的な自己にとってその対象は「現在」という関係にあるということです。

 以上のように、「言語表現における時制は対象における時の区別と直接に対応しない」(p.500)ことを確認した上で、三浦は、いわゆる「歴史的現在」というのは、観念的な自己分裂によって観念的な自己が過去のある時点に移行し、ここで対象を「現在」として把握し表現し、その後次々にその観念的な世界で対象を捉えていき、現実の自己に復帰しないままで表現し続ける場合のことであると説明します。通常であれば、「カエサルは、ガリア戦争を行い、ポンペイウスと対決し、ブルートゥスに暗殺された」となりますが、これを観念的な自己が古代ローマ時代に移行したままで事件を「現在」として把握し表現し続けて、現実的な自己に復帰しなければ、「カエサルは、ガリア戦争を行い、ポンペイウスと対決し、ブルートゥスに暗殺される」というように、いわゆる「歴史的現在」と呼ばれる形になるということです。現実的な自己から分裂した観念的な自己は、ガリア戦争やポンペイウスとの対峙やブルートゥスによる暗殺の現場を、カエサルと共に体験しているのです。

 三浦は、こうした時制に関わる観念的な自己分裂の他に、代名詞における観念的な自己分裂についても述べています。例えば、「この俺が承知するものか」という表現を取り上げて、観念的な自己が現実的な自己を「こ」と呼べる位置に移行して、そこで対象たる現実的な自己を取り上げる場合の表現であると説明しています。また、親が子供に対して、「お母さんはちょっとお使いにいって来ますよ」とか「おまえにはお父さんの心配がわからないのか」とかいう表現を取り上げて、このような場合の「「お母さん」「お父さん」は客体化された主体であり、これを表現する主体は観念的な自己として現実的な自己の外部に位置づけられている」(pp.524-525)と説明しています。つまり、こうした表現を行う親は、観念的な自己を「現実的な自己の外部」、この場合であれば聞き手である子供の立場に位置づけて、子供の立場で現実的な自己を捉えて表現している、というわけです。

 以上見てきたように、三浦は言語が表現される際に、現実的な自己から観念的な自己が分裂し、その観念的な自己が如何に運動するかについて、具体的に説明しているのです。
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2016年10月18日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(7/13)

(7)言語の表現としての特殊性とは何か

 前回は、表現とは何かという問題についての三浦の見解を見ていきました。三浦は、表現とは「精神の物質的な模像」であり、「精神のありかたをそれに対応する物質的なありかたに模写し、それによって他の人間に理解できるよう表面化した」ものであると規定しているのでした。また、対象から認識へ、表現へという過程において、一貫して像としての反映関係があるのだということでした。三浦はさらに、表現の内容というものは、認識が表現形式との間に結ぶ関係であって、決して実体的なものではないということを、形式と内容との統一に関して、像でない場合と像である場合の違いを明らかにすることで説いていたのでした。

 さて今回は、三浦が言語の表現としての特殊性をどのように考えていたのかについて見ていくことにしましょう。

 三浦は言語の表現としての特殊性について、「絵画表現には見られない言語表現に特殊なものとして、規範によって表現が媒介されているという事実」(p.364)を取り上げます。ここでいう「規範」とは言語規範のことですが、言語規範については、前々回に軽く触れました。簡単にいえば、言語規範とは言語を規定する社会的な約束ということでした。では、なぜ言語にだけ、こうした規範が必要になってくるのでしょうか。以下、三浦の説く論理の流れを追っていきたいと思います。

 三浦は言語を表現の一形態として、つまり言語を模写として把握する姿勢を貫きつつ、「言語的な模写は絵画的な模写とは異っている」(p.366)と説きます。絵画の場合、対象の「感性的な色彩のありかたを忠実にとらえ忠実に表現することができるのだが、言語ではそれは不可能」(p.376)だというのです。では、言語では対象をどのように捉え表現するのかというと、言語は対象を「一般化して表現」(同上)すると三浦は説きます。例えば、我々が「赤い」といった場合、「色彩の変化に対してある幅を設定」(p.377)することになり、その「主観的な幅・主観的な境界線」(同上)の中にあるものはまとめて「同じ種類として近似的に扱っている」(p.378)ことになりますが、これが言語は対象を「一般化して表現する」ということなのです。そして、この主観的な幅の中にある同じ種類として捉えた認識を、三浦は概念と呼びます。ですから、端的にいえば、言語は概念を表現するものであるということになります。

 概念とはどういうものかをもう少し分かりやすく説明しておきましょう。例えば「犬」という言葉があります。ある人が「あっ、犬だ」という言葉を発した場合、その人の頭の中には、個別具体的な犬のイメージが描かれていることになります。茶色の毛並みの良い、大型の犬がこちらに向ってゆっくりと歩いてきているのかもしれません。黒色の小型犬が、目の前をサッと横切ったのかもしれません。いずれにしても、こうした情況における対象を言語で示すならば、それは「犬」ということになります。その時の認識は、対象の具体的なあり方がそぎ落とされ、種類という側面で対象を捉えているのです。これが概念です。また、「私は犬より猫の方が好きだ」という場合の「犬」は、具体的なあり方をもとから捨象して、種類として捉えています。これも概念です。このように言語では、「「一般化」して表象としてから概念化するなり、あるいは直接に「普遍相」を概念としてとらえるなりして、それを表現する」(p.381)ことになるのです。

 この概念というものは、現実の多様なあり方を一般化して捉え、具体的な感性的な認識が捨象されているものですから、超感性的な認識でありながら、それを運用するためには感性的な手がかりを必要とします。ここに言語の特殊性として、言語規範が必要になってくる理由があると三浦はいうのです。どういうことかというと、こういう種類の認識(概念)を表現するためには、こういう種類の音声や文字を使うのだという社会的な約束が言語には必要になってくるということです。感性的な認識を絵画で表現するのであれば、その感性的な認識のあり方そのものを忠実に絵画で再現すればいいのですが、超感性的な認識である概念を言語で表現する場合には、その概念をどういう種類の音声や文字で表すのかという社会的な約束がなければ、表現のしようがないということです。

 言語に言語規範が必須である理由について、以上のように説いた三浦は、「対象の感性的なありかたを感覚として忠実にとらえ絵画やカラー写真に忠実に表現するのが模写であるならば、対象を類的存在において概念として忠実にとらえ音声や文字の類的創造において忠実に表現するのもこれまたりっぱな模写で」(p.388)あると述べています。三浦は、言語にも表現一般の特徴である模写という性質が貫かれていることを主張しているのです。このことは逆からいえば、言語は表現の一種であることを証明しているともいえるでしょう。

 以上のように三浦は、表現とは精神の物質的な模写であって、言語も表現の一種であるとした上で、言語の表現としての特殊性について、概念という超感性的な認識を感性的な形として表現するために、こういう種類の認識(概念)にはこういう種類の音声や文字を用いるのだという社会的な約束である言語規範が必要になってくると説いているのです。ここでひょっとしたら、少し引っかかる読者があるかもしれません。それは何かといえば、「こういう種類の音声や文字」と述べたり、1つ前の引用では、三浦が「音声や文字の類的創造」と述べたりしていることです。音声や文字が「類的創造」であるとはどういうことか、この問題については連載第11回で詳しく述べていくことにします。
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2016年10月17日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(6/13)

2、三浦は認識から表現への過程的構造を解明した
(6)表現とは何か

 本稿は、言語を本質的に把握するためには、認識と言語とのつながりをしっかりと検討する必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み進め、三浦の言語理論の歴史的意義を明らかにするとともに、科学的な言語学体系の構築の第一歩とすることを目的として執筆する小論です。

 前回まで3回にわたって、三浦の認識論を見てきました。言語はまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字が創造されるという形で生まれるものであるために、認識についての科学的な理論が必要だと考えた三浦は、人間の認識の私的な側面と社会的な側面についてまずは説明したのでした。認識は個人の頭脳にしか描かれないという面で私的な側面を持つものであるが、その認識が交通関係に入ることで、社会性を帯びたものとして発展していくということでした。こうした認識の一般的な性質を押さえた上で、三浦は認識論の2つの大きな柱について説明していきました。1つ目が観念的な自己分裂、2つ目が規範の問題についてでした。まず、観念的な自己分裂とは、現実的な自己が感覚器官の捉えられる限界に規定されているという限界を突破するために、現実的な自己から観念的な自己を分裂させることであり、この観念的な自己が時間的空間的に様々に移行し、そこでの経験を踏まえて現実的な自己に復帰することで、認識を発展させていくことが可能となるということでした。また、規範の問題については、規範とは意志を観念的に対象化したものであって、心の中から自分自身に命令を下すものでした。約束、契約、法律などが規範であって、「表現上の秩序を維持するために、人びとの間の社会的な約束として成立したもの」であって、「民族全体の言語表現を規定する」言語規範も規範の一種だということでした。

 さて今回から、いよいよ三浦の言語の理論について見ていきたいと思います。とはいっても、三浦はいきなり言語の問題に入るのではなくて、表現一般をまずは問題にします。

 三浦はまず、表現とは「精神の物質的な模像」(p.300)であり、「精神のありかたをそれに対応する物質的なありかたに模写し、それによって他の人間に理解できるよう表面化した」(同上)ものであると規定します。絵画や映画、彫刻などの他にも、「痛みを感じるときにいつでも顔をしかめて見せたり、怒ったときにいつでもこぶしをふりあげたり、嘲るときにいつでも舌を出したり」(p.301)することも表現の1つのあり方だといいます。簡単にいえば、認識という感覚器官で捉えられないものを感覚器官で捉えられる形にしたもの、これが表現だということです。例えば、作者がどのような風景を見ているのかを直接知ることはできません。しかし、それが絵画として、物質的なあり方として表現されれば、その時の作者の頭の中のイメージを捉えることができるのです。また、足の小指をタンスの角にぶつけたような場合、それがどれほどの痛みであるのかについては、周りの人間は直接経験することはできません。しかし、そのぶつけた本人が顔を歪め悶絶することを見れば、それがどれほどの痛みであるのか、ある程度の想像はつきます。物質的なあり方としてはいろいろありますが、とにかく、感覚器官で捉えられない認識を物質的なあり方に写し代えたものが表現だということです。

 ここで、三浦が認識は現実の世界の映像であり模写であると述べていたことを思い出していただきたいと思います。認識は現実世界の対象の精神的な模像だということです。このことと表現は認識の物質的な模像だという上記の論理をつなげて考えるとどうなるでしょうか。それは、対象から認識へ、表現へという過程においては、常に像としての反映関係が貫かれているということです。対象は認識に反映し、認識は表現に反映する、ということです。しかし注意が必要なのは、最初の対象と最後の表現が物質的な存在であるのに対して、真ん中の認識は精神的な存在だということです。そして、対象が像ではないのに対して、認識も表現も像としての性質を持っているということです。

 このように、表現一般の性質について確認した上で、三浦は形式と内容との統一という問題の考察に移っていきます。三浦は、「まず、像でない場合の形式と内容との統一から考えてみよう」(p.309)といい、現実の世界にある物質的な存在について、「空間的なかたち」(同上)が形式であり、「それらを構成している実質」(同上)が内容であることを指摘します。例えば、1つのリンゴが目の前にあるとすれば、そのリンゴの形式とはその形のことであって、そのリンゴの中身が内容だということになります。そして、「像でない場合」には、「実体が直接に内容とよばれる」(同上)ことに特徴があると述べています。では、認識や表現のような像の場合には、形式と内容との統一はどのようなものになるのでしょうか。これらの場合、「像のかたちを形式とよぶ」(同上)が、「実体が直接に内容とよばれるのではなくて、実体は媒介的に内容を形成する存在」(同上)であると説明しています。具体的にいえば、例えば太陽の光が地上に影を落とす場合、その影の形式とはその影の形のことであるが、その影そのものは何ら実体的ではなくて、原型の側に実体的な存在があるというのです。そしてその影の内容というのは、原型の側にある実体的な存在から媒介されて形成されるというのです。認識の場合でいえば、認識そのものは実体的なものではなくて、対象の側に実体的な存在があり、その対象たる実体自体が認識の内容なのではなくて、その対象たる実体は媒介的に内容を形成する存在だということです。リンゴを見た場合、リンゴの像が形成されますが、この認識の内容は、リンゴという対象たる実体そのものではなくて、リンゴという対象たる実体から媒介的に形成されるのだということです。リンゴを見た後で、そのリンゴを食べてしまったとしても、リンゴの像を維持できますが、もとのリンゴなくしてはリンゴの像は形成されなかったという意味で、認識の内容は「リンゴという対象たる実体から媒介的に形成される」というのです。

 以上のことを、言語という表現について考えてみると、言語の内容(意味)は、認識という実体が媒介的に形成するものだということになります。言葉を換えれば、言語の内容(意味)は、認識が言語の形式(音声や文字)と結ぶ関係であるということになります。だから、言語の内容(意味)はどこにあるかといわれれば、それは言語の形式(音声や文字)の中にあるのですが、言語の内容(意味)は感性的に把握できるようなものではない(関係は目には見えない!)ということになります。物質的な存在である音声や文字を分解してみても、言語の内容(意味)がその中から物質的に取り出されるわけではないのです。
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2016年10月16日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(5/13)

(5)規範とは何か

 前回は、三浦が認識の構造について突っ込んで検討している部分を見ていきました。三浦はまず、人間の認識がなぜ・いかにして・変化・発展するのかという問いを立てて、その原動力として、「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界がある」という「認識の本質的な矛盾」を挙げていることを紹介しました。そして、この矛盾を解決する手段として、人間は世代を超えて他人の認識を受け継いでいくということがあることに触れた後、「個人の認識の構造」を見ていきました。三浦は、人間の認識は「受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」という性質があると述べ、「現実的な自己」から分裂した「観念的な自己」が時間空間を超えて移行していき、そこで捉えた成果を引っさげて「現実的な自己」に復帰することで、認識が発展していくのだと説いていたのでした。

 さて今回は、三浦が説く認識の理論において、観念的な自己分裂に並んで重要な規範の問題を見ていくことにしましょう。

 三浦はまず規範について、「心の中から自分自身になされる命令」(p.149)であって、「社会的な関係で規定されながらもさらに社会的な関係を発展させるためにつくり出す、意志の特殊な形態」(同上)であると説明しています。例えば、酒とたばこを楽しんでいる者が自分で酒やたばこを有害だと判断して、ここから「やめよう」という意志をつくり出したとすれば、この「やめよう」という意志が規範だということです。また、恋人同士で「5時に有楽町で会いましょう」という約束をしたとすれば、この約束も規範の一種ということになります。他にも三浦は、契約や法律なども規範の一種だと述べています。

 しかしこのような三浦の説明を見てみると、「約束が規範であるというのは何となく分かるが、契約や法律が規範であるとはどういうことか分からない」、「契約や法律は「心の中から自分自身になされる命令」ではなくて、契約書や六法全書が外部から自分に命令するのではないのか」「契約や法律が「意志の特殊な形態」であるとはどういうことか分からない」などといった反論や疑問があることが想定されます。そこで三浦が規範をどのようなものだと考えているかについて、少し詳しく見ていくことにしましょう。

 三浦はまず、「簡単な規範のありかた」(p.154)を検討していきます。「簡単な規範のありかた」にも「規範の本質が示されている」(同上)からだというのです。そこで取り上げられるのが、先に示した「禁酒禁煙」の例です。初めに示されるのが、医師から「おやめなさい」といわれる場合です。医師からこういわれて、患者自身の自由意志でこの医師の命令を受け入れることになれば、この医師の命令の複製が患者の頭の中で患者の意志として維持されこれに従うことになるというのです。ここでは、命令の複製が患者にとって観念的な「外界」として、つまり観念的に対象化されたかたちをとって、維持されていくということがポイントになります。次に、患者が自分で酒やたばこを「やめよう」と思った場合が取り上げられます。この場合には、「自分でつくり出した「やめよう」という意志を自分から観念的に対象化して、「外界」から「おやめなさい」と命令されているかたちに持ってい」(p.153)き、「この観念的に対象化された意志を維持して、これに対立する「楽しもう」という意志が生れてくるのを押さえつけていく」(同上)というのです。これは先に見た医師から「おやめなさい」といわれて従う場合とまったく同じ構造になっています。このように、「自己の意志が観念的に対象化されたかたちをとり、「外界」の客観的な意志として維持される場合には、ここに規範が成立したのであって、単なる意志と区別する必要がある」(同上)と説明されているのです。

 ここで三浦が述べていることの要点は、規範というものは意志の一形態であって、自分の頭の中にしか存在しないものであること、それにも関わらず対象化されているため、つまり自分とは別の対象の位置に置かれているため、自分独自の意志と対立する可能性があること、この2点です。具体的に考えてみればよく分かるでしょう。例えば、酒やたばこを「やめよう」と決めたにもかかわらず、どうしても誘惑に負けて楽しみたい気持ちを押さえられないこともありますし、恋人と「5時に有楽町で会いましょう」という約束をしたのに、他にもっと楽しい用事ができて恋人との約束をキャンセルしたくなることもあります。このような場合、頭の中で、対象化された意志である規範とその時の自分の独自の意志とがせめぎ合い、葛藤することになるのです。

 以上のような三浦の説明をもとにすれば、「契約や法律が規範であるとはどういうことか」、「契約書や六法全書が外部から自分に命令するのではないのか」「契約や法律が「意志の特殊な形態」であるとはどういうことか」という問題も解けてきます。まず契約についていえば、「契約に際して自分の意志が同時に他人の意志でもあるような、両者に共通の意志を成立させる」(p.156)のであって、これが取も直さず自分たちの行動を規制する規範だということになります。契約書というのは、「後になって共通の意志の存在を否認されることのないように、客観的なかたちを与えて証拠とする」(p.157)ためのものであって、契約書がないから契約が成立しないということはありませんし、契約によって従わなければならないのは、自分たちの頭の中に成立した「共通の意志」、すなわち規範なのです。契約が特殊な人々(契約した者)だけに適用される命令であるのに対して、法律の場合は、「社会全体に適用されるものとして成立する」(p.164)ものである点が特殊性ですが、その他の点については契約と同じ構造になっています。つまり、人間が法律に従うというのは、いちいち六法全書を参照して従うのではなくて、頭の中に複製された社会全体に「共通の意志」に従うのであって、制定されている法律でも本人が知らなければ「共通の意志」を観念的に対象化できないわけで、思いもよらず法を犯してしまうこともあるでしょう。

 三浦は以上のような「目的的につくり出す規範」(p.170)の他に、「自然成長的な規範」(同上)もあるとして、言語規範についても触れています。言語規範は、「表現上の秩序を維持するために、人びとの間の社会的な約束として成立したもの」(p.177)であって、「民族全体の言語表現を規定する」(同上)ものであるとされていますが、詳細は次々回に扱うことにします。
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2016年10月15日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(4/13)

(4)人間の観念的な自己分裂とは何か

 前回から、いよいよ三浦つとむ『認識と言語の理論』の中身に入っていきました。前回はまず、言語を問うためには認識を問う必要があると主張する三浦の論理展開を追っていきました。言語はまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字が創造されるという形で生まれるものであるために、認識についての科学的な理論が必要だということでした。そこで認識とは何かを簡単に見ていきました。認識とは、あくまでも個々の人間の脳細胞に描かれる客観的な現実世界の模像として成立するものであるが、人間の認識が交通関係に入ることによって、認識は社会的な性質も帯びることになるということでした。そして、認識の科学が個別科学として科学者の手で体系化されなければならないという三浦の科学観も紹介しました。

 さて今回は、三浦が認識の構造についてさらに突っ込んで検討していく内容を見ていくことにしましょう。

 まず三浦は、人間の認識が変化し発展していくことに関して、「なぜ・いかにして・この変化と発展が起るのかを説明しなければならない」(p.16)と述べます。そして、「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界がある」(同上)という「認識の本質的な矛盾」(同上)こそが原動力となって、認識が変化・発展していくのだと説くのです。具体的には、まず先回も説明したように、他の人間の認識を受け継ぐことで個人の認識の限界を突破するということが述べられます。しかもこのことは、「事実上限りなく継続していく人間の世代の認識を系列化すること」(同上)を通じてヨリ発展していくというのです。つまり、人間は言葉などの表現を介して他人の認識を受け取って認識を変化・発展させていくのですが、このことは同時代の人間間の問題に限られず、世代を超えて継続させられていくのだということです。例えば、人間が獲得した成果を書き言葉として書物などの形態で残しておけば、同世代のみならず、世代を超えた人々の認識に働きかけることができますし、いわゆる伝統とか習慣とかいったものも、家庭での躾や学校教育などによって世代を超えて継承されていくというわけです。

 三浦はこのように、集団における人間の認識の変化・発展の構造を説いた後、「個人の認識の構造」(同上)にも言及しています。つまり、人間の認識は「受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」(同上)という性質があるというのです。これはどういうことかといえば、前回も説明したように、「認識は、客観的に存在している現実の世界のありかたを、個々の人間が目・耳その他の感覚器官をとおしてとらえる」(p.4)ものであるという意味で、確かに受動的な反映だといえるのですが、それだけではなくて、「能動的に想像していく」(p.16)という性質も持っていて、このことによって感覚器官で捉えられる限界を超えた認識が可能になっていく、ということです。例えば、縁側の障子から尻尾が現れているのを見て、その陰に猫がいることを予想する場合には、実際には障子によって隠されてしまっている猫の体の大部分を頭の中に描いているということなどが「能動的に想像していく」ということなのです。

 このように、人間の認識には受動的な側面と能動的な側面があることを説いた上で、三浦はさらにこの能動的な側面について詳しく説明していきます。「能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」とは具体的にどのようなことなのかが説かれていくわけです。

 三浦はここで、「現実的な自己」「観念的な自己」(p.24)という概念を導入します。これがどういうものであるかについて三浦は、自分の家の中で、訪ねてくる友人のために自分の家のありかを教える地図を描く場合の例で説明しています。地図を描くときは、机に向って現実的な位置で目の前の白紙を眺めながら描くのですが、地図としての自分の家は、現実的な感覚器官(目)の位置では捉えられず、観念的に自分の家の上空から自分の家を見下ろすところに自分(の感覚器官(目))を位置づけて描かれるというのです。このときの現実の白紙を眺めている自己が「現実的な自己」であり、上空から自分の家を見下ろしている自己が「観念的な自己」だということです。「現実的な自己から、観念的な自己が分裂して、観念的に空中の一点に自己を位置づけていることになる」(同上)わけです。先の障子に隠れている猫の例でいえば、「現実的な自己」の目では、現実の世界の障子に隠されている猫の本体の部分は見えないわけですが、「観念的な自己」の目では、障子が取り外された観念的な世界を見ていて、猫の本体の部分もしっかりと見えているわけです。

 このように三浦は、人間の認識が感覚器官が捉えられる限界に規定されているという受動的な側面(現実的な自己の側面)と、感覚器官が捉えられる限界を超えて生成される能動的な側面(観念的な自己の側面)とを持つことを説きつつ、人間が観念的に「この限界を超えたりまたもどったりする活動をくりかえしながら生活している」(同上)ことによって、認識が発展していくことを説明しているのです。

 三浦は、「観念的な自己」が持つ目をクリスティの探偵小説の中の表現をとって「頭の中の目」とも呼んでいますが、この「頭の中の目」は「空間的時間的制約をのりこえて真理をとらえる」(p.58)ことができると説明しています。具体的には、「直接見ることのできない原子核の内部やガン細胞の内部」(同上)、「物的証拠の抹消された殺人事件」(同上)、あるいは「自然の法則」(同上)などを、この「頭の中の目」は見抜くことができるというのです。これは「現実的な自己」から分裂した「観念的な自己」は、「現実的な自己」が入りこめないような微細な空間に入りこんだり、「現実的な自己」が戻れないような過去の殺人現場に時間的に移行したり、または「現実的な自己」が捉えられないような超感性的な世界の関係性を捉えたりすることができることを述べたものです。

 以上見てきたように、三浦は「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界がある」という「認識の本質的な矛盾」が原動力となって、「現実的な自己」から「観念的な自己」が分離することを述べ、この人間の観念的な自己分裂が認識の変化・発展に大きく関わっていることを説いているのです。
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2016年10月14日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(3/13)

本論
1、三浦は言語学にとって必要な認識論から説き始めた
(3)言語を問う前提として認識を問う

 本稿は、認識を正しく伝える言語を創っていくためには、あるいは言語に表れている認識を正しく把握するためには、認識と言語とのつながりをしっかりと把握する必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み進めていくことで、三浦の言語理論の歴史的意義を明らかにするとともに、科学的な言語学体系を構築する土台を築きあげることを目的として執筆する小論です。

 今回からいよいよ『認識と言語の理論』の中身について見ていくことにしましょう。

 三浦はまず、言語の問題を解明するためには、認識についての理論を説明する必要があるとして、以下のように述べています。

「法律学には法哲学なるものが、言語学には言語哲学なるものがそれぞれくっついてまわっているばかりでなく、法律学者あるいは言語学者も、この問題は法哲学に属するとか言語哲学に属するとか述べて、いわば下駄を預けている状態にある。しかも、それではいけないのだという反省さえ見られないのである。では、この哲学に下駄を預けている問題はどんな問題かというと、それは精神活動に関する問題である。法律は国家の意志という特殊な認識として成立する。言語は話し手や書き手の頭の中にまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字を創造する活動がはじまるのである。法律学あるいは言語学が、いまだに哲学と名のるものによりかからなければならないのは、認識についての科学的な理論を持たないためであって、この理論を持つことによって真に科学の名に値するものになるであろう。それゆえ、本書はまず、言語学にとって必要な認識論を述べてから、言語についての理論に入っていくことにする。」(p.3)

 ここで三浦は、「精神活動に関する問題」を「哲学」に委ねてしまっている法律学や言語学の現状を憂い、それでは駄目なのだ、認識についての科学的な理論を土台としてこそ、法律学や言語学が真の科学となれるのだ、だからこそまずは認識論から説いていくのだ、と述べているのです。これまでの言語研究史においては、言語の問題を検討するに際して、認識の問題を考察する必要があるということが、長い歴史の中で徐々に把握されてきたのでしたが、ここまで明確に認識論を取り上げることはなかったといっていいでしょう。そういう意味では、三浦の言語理論は言語研究史の最先端に位置づけられるものだといえるでしょう。

 上記のように、言語が表現者の「思想や感情」をもとにして創造されるからこそ、まずは「言語学にとって必要な認識論」を論じなければならない、ということのほかに三浦は、「なぜ・いかにして・言語の意味が変動変遷するのかという問題」(p.5)や「なぜ・いかにして・単語を構成していくのかという問題」(p.6)を解決するためにも、認識論の構築が必須であると述べています。言語の意味の変遷や単語の構成方法というものは、認識のあり方が大きくかかわっているというのです。

 以上のように、言語の理論を展開する前提として認識の理論を検討していくとした上で、三浦は認識とはどういうものか簡単に説明していきます。

「認識は、客観的に存在している現実の世界のありかたを、個々の人間が目・耳その他の感覚器官をとおしてとらえるところにはじまるのである。認識は現実の世界の映像であり模写であって、たとえどのような加工が行われたとしてもその本質を失うことはないし、脳のはたらきとして個々の人間の頭の中にしか存在しない。」(p.4)

 ここで三浦は、認識とは客観的な現実の世界を感覚器官を通して捉え、脳細胞に描き出した模像が大本であって、私的なものだと説明しています。今、現に見ているものは、個人の認識として形成されるのであって、決して他人と共有されるものではないという認識の私的な側面を説いているのです。しかし一方で三浦は、「人間の認識は社会的なものである」(p.3)とも述べています。これは一体どういうことでしょうか。

 三浦は、「人間は…精神的に相互につくり合っている」(p.4)といいます。これはどういうことかといえば、「他の人間の認識を自己の頭に受けとめたり自己の認識を他の人間に伝えたり」(同上)することによって、「人間の認識が交通関係に入りこむ」(同上)ということです。具体的にいえば、日常的な会話によって、あるいは仕事上のやりとりによって、あるいは学問上の議論によって、人間は他の人間の認識を知り、自分の認識を相手に伝えることによって、互いに認識に影響を与え、互いの認識をつくり合っているということです。「他の人間の認識を自己の頭に受けとめることによって認識がさらに広く深くなる」、「自己の認識は他人的になることによって自己として成長していく」(同上)というわけです。これが認識が社会的であるということの意味であって、個々別々の人間の認識も他の人間の認識によって創られる側面があるということです。そして、こうした精神的な交通を媒介するものこそ、言語を中心とした表現であると三浦は説くのです。

 認識について、個々の人間の頭の中にしか存在しないにもかかわらず社会的な性質も受け取ると述べた上で、三浦は「認識の科学も、科学者の手によって一つの個別科学として体系化されなければならないのであり、認識の具体的なありかたととりくんで研究しなければならない」(p.6)ことを強調します。こうした考え方の背景には、「科学は哲学者が机に向ってあれこれと空想を展開しながら体系化していくものではなく、あくまでも対象ととりくんで対象からつかみとりたぐっていくものである」(同上)という三浦の科学観があり、「この問題は法哲学に属するとか言語哲学に属するとか述べて」いる現在のいわゆる法律学者や言語学者への批判があるといえるでしょう。あくまでも現実の問題を自分自身の手で解決するのだという三浦の主体性にも学ぶ必要があるといえるでしょう。
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2016年10月13日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(2/13)

(2)三浦言語学の歴史的意義とは何か

 前回は、リオデジャネイロオリンピックにおいて、4連覇を目指しながらそれが果たせなかった吉田沙保里選手の試合後の発言を取り上げて、吉田選手がどのような思いを持っていたのかを分析してみました。単に期待してくれていた国民の願いに応えることができなかったとか、日本選手団の主将として4連覇をしなければならないという責任があったのにもかかわらずそれが果たせなかったとか、そういう謝罪や無念の気持ちだけではなくて、亡くなった父との約束が果たせなかったことこそが、「取り返しのつかないことになってしまった」という表現に表れているのだということを説明しました。そして、こうした言葉の正確な理解のためには、あるいは言葉の正確な表現のためには、認識と言語との関係に関する科学的な理論が必要だと述べたところまででした。

 では、認識と言語との関係はどのようなものなのでしょうか。

 まず、前回も見た通り、認識は必ずしも言語に表現されるわけではありません。父との約束が果たせなかったという強烈な思いがあったとしても、それが必ずしも言語として全て表現されるとは限らないわけです。逆に、表現しようと意図していなかったことまで言語で表現してしまうということもあります。例えば、殺人事件の犯人が捕まって、当初は否認していたものの、警察の巧みな誘導によって、犯人しか知りえないことをうっかりと話してしまった、などということもあるでしょう。このように、認識と言語とは相対的に独立しているという関係があるのです。

 しかし一方でしっかりと押さえておくべきことは、言語には認識が間違いなく表現されているということです。なぜこんな当たり前のことを強調するかというと、言語研究の歴史において、言語を人間の認識とは無関係の、それ自体で生成・発展・消滅する有機的な存在であると考えられていたこともあるからです。また、言語には認識が表現されているからこそ、前回見たように、吉田選手の言葉から、そこには直接表れていない父との約束が果たせなかった無念さを把握することができるのです。

 認識と言語との関係というのは、こうした日常的な事柄に関する関係だけではなくて、人間の本質的なあり方にも大きく関わっています。

 人間は、他の動物と違って、本能の統括によってではなく、認識の統括によって生活している存在です。例えば、ライオンであれば、空腹時にはエサを求めて草原を駆け巡り、満腹であればたとえ目の前にエサとなる動物がいたとしても、決して襲うことはないでしょう。これは本能によって統括されているからです。しかし人間の場合であれば、もちろん空腹時には食事をとろうとし、満腹になれば食事をやめることが基本となるのですが、これは本能という予め決められたプログラムによってなされるのではなくて、目的像を描いて行動するという認識の統括によるのです。ですから、ダイエット中であればたとえお腹が空いても食事をとらないこともありますし、逆にスポーツなどで体を大きくする必要があるような場合には、満腹でも食べ続けるようなこともあります。これが認識の統括によって生活しているということの中身です。

 人間はさらに、集団での生活を統括するために、掟レベルの社会的認識を創出してきました。他の動物であれば、集団生活は本能により統括されているために、それぞれが勝手に行動するなどということはあり得ないのですが、人間の場合であれば、本能が薄れている分、独自の認識に基づいてバラバラに行動し、集団生活が維持できないということになりかねません。そこで、自分たちの集団内において守るべき事柄を掟として定めておいて、これに従って生活することで、集団を統括するという形態が生み出されたのです。単純な掟、例えばあの場所には近寄ってはならないとか、ボスには従わなければならないとかいったものであれば、これは言語なしにも創ることは可能でしょう。危険な場所に近寄ろうとした者を力ずくで引き止めたりすれば、そこには近寄ってはならないのだということが分かってきて、そうした掟を自分の頭に持つこともできるからです。しかし、現代社会における法律のような複雑で込み入った内容を言語なしに理解させることは不可能です。端的にいえば、人間が社会を維持するのに必須の規範(社会的認識)を形成するためには、言語はなくてならない存在なのです。こうしたことを考えてみても、認識と言語とが如何に深くつながっているかということが分かってくると思います。

 そこで本稿では、こうした認識と言語との関係を解明するために、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読んでいきたいと思います。三浦はこの著作のタイトルが示唆している通り、言語の問題を考える上で、認識の問題を解く必要があるという問題意識の下、認識の構造を解明し、認識から言語に至る過程的構造を解き明かしているのです。この著作を読み進めることで、認識と言語との関係を明らかにするとともに、これまでの言語研究者の研究史の流れを踏まえつつ、三浦の言語理論の歴史的位置づけを明らかにし、科学的な言語学体系を構築する土台を固めたいと思います。

 今回の最後に、『認識と言語の理論』の目次を提示しておきます。なお、本書は第3部までありますが、この第3部は第1部第2部では十分に説けなかった部分を補うために、独立した論文を集めたものですので、本稿では第1部第2部を中心に読んでいくこととします。

『認識と言語の理論』 目次

まえがき

第1部 認識の発展

 第1章 認識論と矛盾論
  1 識論論と言語学との関係
  2 認識における矛盾
  3 人間の観念的な自己分裂
  4 「主体的立場」と「観察的立場」
  5 認識の限界と真理から誤謬への転化
  6 表象の位置づけと役割
  7 予想の段階的発展――庄司の三段階連関理論

 第2章 科学・芸術・宗教
  1 法則性の存在と真理の体系化
  2 仮説と科学
  3 概念と判断の立体的な構造
  4 欲望・情感・目的・意志
  5 想像の世界――観念的な転倒
  6 科学と芸術
  7 宗教的自己疎外

 第3章 規範の諸形態
  1 意志の観念的な対象化
  2 対象化された意志と独自の意志との矛盾
  3 自然成長的な規範
  4 言語規範の特徴
  5 言語規範の拘束性と継承
  6 国際語とその規範

 第4章 パヴロフ理論とフロイト理論の検討
  1 パヴロフの人間機械論と決定論
  2 フロイト理論の礎石
  3 不可知論と唯物論との間の彷徨
  4 フロイトの基礎仮説――「エス」「自我」「上位自我」
  5 無意識論と精神的エネルギー論
  6 夢と想像
  7 性的象徴
  8 「幼児期性生活」の正体
  9 「エディプス・コンプレックス」の正体
  10 エロスの本能と破壊本能
  11 右と左からのフロイト批判

第2部 言語の理論

 第1章 認識から表現へ
  1 表現――精神の物質的な模像
  2 形式と内容との統一
  3 ベリンスキイ=蔵原理論
  4 対象内容説・認識内容説・鑑賞者認識内容説
  5 言語学者の内容論
  6 価値論と内容論の共通点
  7 吉本と中井の内容論
  8 記号論理学・論理実証主義・意味論

 第2章 言語表現の二重性
  1 客体的表現と主体的表現
  2 記号における模写
  3 小林と時枝との論争
  4 言語における「一般化」
  5 概念の要求する矛盾
  6 言語表現と非言語表現との統一

 第3章 言語表現の過程的構造(その1)
  1 身ぶり言語先行説
  2 身ぶりと身ぶり言語との混同
  3 言語発展の論理
  4 「内語」説と第二信号系理論
  5 音声と音韻
  6 音声言語と文字言語との関係
  7 言語のリズム

 第4章 言語表現の過程的構造(その2)
  1 日本語の特徴
  2 「てにをは」研究の問題
  3 係助詞をどう理解するか
  4 判断と助詞との関係
  5 主体的表現の累加
  6 時制における認識構造
  7 懸詞、比喩、命令
  8 代名詞の認識構造
  9 第一人称――自己対象化の表現

 第5章 言語と文学
  1 作者に導かれる読者の「旅行」
  2 言語媒材説と芸術認識説
  3 鑑賞法の表現としての俳句の構造
  4 文体と個性
  5 芸術アジ・プロ論――政治的実用主義
  6 生活綴方運動と「たいなあ方式」
  7 上部構造論争――芸術の価値の基礎はどこにあるか
  8 本多の「人類学的等価」とマルクスのギリシァ芸術論

 第6章 言語改革をめぐって
  1 言語観の偏向と言語改革論の偏向
  2 文字言語に対する見かたの対立
  3 表音文字フェティシズムからの幻想
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2016年10月12日

三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む(1/13)

序論
(1)言語に関する科学的な理論が求められている

 8月に行われたリオデジャネイロオリンピックでは、数々の名場面が誕生するとともに、多くの名言も残されました。皆さんは、どのシーン、どの言葉が印象に残っているでしょうか。内村航平選手の体操個人総合二連覇でしょうか。男子400mリレーでの日本の銀メダルでしょうか。あるいは、柔道73kg級で金メダルに輝いた大野将平選手の「柔道の素晴らしさ、美しさ、強さを伝えられたと思う」という言葉でしょうか。卓球シングルスで銅メダルを獲得した水谷隼選手の「今日負けたら一生後悔すると思った。死にたくなると思った。絶対に負けたくないという気持ちで頑張りました」という言葉でしょうか。

 筆者が最も印象に残っているのは、五輪4連覇を目指したレスリングの吉田沙保里選手が、惜しくも決勝戦で敗れた後、涙を流し声を詰まらせながら次のように話したことでした。

「たくさんの方に応援していただいたのに、銀メダルに終わってしまって申し訳ない。日本選手団の主将として金メダルを取らないといけなかった。最後は勝てるだろうと思っていたが、取り返しのつかないことになってしまった。」(*1)

 映像で見ていただくと非常によく分かるのですが、日本選手団の主将として金メダルを取らなければならない試合、それも五輪4連覇もかかった試合に敗れたことの無念さ、責任を果たせなかった悔しさ、大きな期待を寄せてくれた国民への申し訳なささがとてもよく表れている言葉だと思います。ただ、筆者はこの発言を聞いた時、少し引っかかることがありました。それはこの発言の最後の部分で「取り返しのつかないことになってしまった」と吉田選手が述べていることです。通常、「申し訳ない」と言われれば、期待してくれた沢山のファンに謝っているのだということが分かりますし、それは「たくさんの方に応援していただいたのに」という言葉で直接表現されてもいます。また、責任を果たせなかったということについても、「日本選手団の主将として」という部分によく現れています。だから、吉田選手が国民の大きな期待を背負って、4連覇を果たすべく日本選手団の主将としての大きな責任感を持って戦ったのに金メダルを取れかなった、そのことに対して謝罪し、無念さをにじませるということはとてもよく分かるのです。しかしそのことを、「取り返しのつかないことをしてしまった」といわれると、少し大げさ過ぎる表現ではないかと感じました。筆者はそこに何か非常に大きな背景があるのではないかと思ったのでした。

 そこで調べてみると、次のようなことが分かりました。吉田選手の父は幼いころから吉田選手の指導をしていました。2年前に亡くなる前には、吉田選手と4連覇の約束をしていたそうです。また、「勝って終わるのと負けて終わるのは違うよ」とよく吉田選手に話していたそうです。(*2)

 こうした事実を踏まえるならば、吉田選手はまず何よりも、亡き父との約束を果たすべく決勝戦に臨んだはずです。もしかしたら4連覇を成し遂げて、勝ち切って引退を考えていたのかもしれません。しかし、今回の五輪で決勝で敗れ、4連覇を果たせなかった、勝って終わることができなかった、父との約束を果たせなかった、約束をした父はすでに他界しているため、再度約束してそれを果たすこともできない、だからこそ「取り返しのつかないことになってしまった」という表現になったのだろうと思います。

 ここで考えてみなければならないことは、言語は人間の認識を表現するものなのですが、認識にあることの全てが言語として表現されるわけではない、ということです。吉田選手の言葉には、先に見たように、謝罪の気持ちや責任感については、直接に表現されています。「申し訳ない」とか「日本選手団の主将として」などと述べられています。しかし、この吉田選手の言葉には、「取り返しのつかないことをしてしまった」という以外に、父との約束に関するものは、言葉としては表現されていないのです。ではこの発言をした時、吉田選手の頭の中に父との約束は全くなくなってしまっていたのかといえば、そうではないはずです。吉田選手の頭の中には父との約束がしっかりと存在していて、必ず4連覇するのだという強い気持ちがあったにも関わらず、それが達成できなかったからこその「取り返しのつかないことになってしまった」という発言になったのです。

 このように、言葉の意味するところを正確に掴むためには、その言葉を発した人間の頭の中をしっかりと捉える、つまり言葉からその背後にある認識を辿っていく必要があるのです。そうすることによって、実際には言葉として語られなかった認識をも把握することができるのです。言葉として語られた部分だけで吉田選手の気持ちを全て把握したつもりになるのであれば、この吉田選手の言葉に込められた重みを理解できていないということになってしまうでしょう。

 しかし、言葉から認識を辿っていくというのは、そう簡単なことではありません。言葉に込められた全ての内容を正しく把握することは非常に難しいことです。一体、どのようにすれば、言葉から認識を辿っていって、その言葉に込められた思いをしっかりと受け止めることができるのでしょうか。逆に、一体、どのようにすれば、認識をしっかりと言葉に表すことができるのでしょうか。

 こうした問題に解答を与えるためには、認識と言語との関係について、きちんと把握した理論が必要になってきます。

(*1)朝日新聞DEGITAL2016年8月19日
http://www.asahi.com/articles/GCO2016081901001112.html
参考ページhttps://www.youtube.com/watch?v=U2KSd4pHnEA

(*2)livedoor news2016年8月19日、Sponichi Annex2016年8月18日
http://news.livedoor.com/article/detail/11907765/?p=2
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/08/18/kiji/K20160818013189650.html
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 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う