2016年08月13日

ロックの教育論から何を学ぶべきか(1/5)

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○目次
(1)ロックの教育論から何を学ぶべきか
(2)ロックは個人の発展が社会の発展につながるという視点を提示した
(3)ロックは子どもの認識に目を向けて習慣を形成することを説いた
(4)ロックは教師は子どもの理性として統括しなければならないと主張した
(5)科学的な人間観を子どもに伝えていかなければならない
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(1)ロックの教育論から何を学ぶべきか

 7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」にて、死者19人、重軽傷者26人を出す事件が起きました。本当に痛ましい、凄惨な事件であり、亡くなった方のご冥福をお祈りするとともに、関係者の方々に心よりお見舞い申し上げたいと思います。

 この事件では植松容疑者が「障害者はいなくなればいい」「障害者を殺せば税金が浮く」と話しているということです。非常に歪んだ考え方であり、そうした考え方に基づいて行った犯行は、障害児教育にも関わる筆者としては、決して許せるものではありません。

 これは障害をもつ方々、その家族、および関係者に対して、大きな波紋を広げました。「障害があっては生きていてはいけないのか。殺されないといけないのか」という重い重い問いを突きつけるものだったからです。この事件を受けて、知的障害者の権利擁護と政策提言を行っている「全国手をつなぐ育成会連合会」は早急に声明を出し、「安心して、堂々と生きてください」と呼びかけています(注1)。

 しかし、一方で、現在の日本社会には、容疑者の考え方を支持する見解が存在することも確かです。例えば、石原慎太郎元東京都知事は、1999年に障害者施設を訪れ、「ああいう人ってのは人格があるのかね」「絶対よくならない、自分が誰だか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状況になって……」「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」などと発言しています。つまり、障害のある人間は人格がなく、何らかの形で切り捨てることを考えるべきだという主張です。同様の見解はネット上などで様々に存在しており、決して容疑者のみに存在する特異な考え方とは言えないでしょう。

 こうした考え方の背後にあるのは、「個人は社会の役に立つべきだ。役に立たない人間はいらない。」ということです。これは一定の正当性をもっています。例えば、仕事の能力がなければ、会社(という小社会)をクビになることはあります。しかし、これを社会一般に拡大してもよいのでしょうか。また、役に立つとはどういうことなのでしょうか。もし働いて経済的・文化的に貢献するということだとすると、例えば重い病気にかかって余命が少ない子どもや乳児などはそれができませんから、さっさと死んでしまった方がいいということになります。果たしてそうなのでしょうか。

 これは結局、社会と個人の関係をどのように捉えるかという問題です。また、一人ひとりの人間をどのように捉えるかという人間観の問題なのです。

 子ども、さらには障害児に直接的に関わる教師は、この問題を避けてとおるわけにはいきません。一体、これまで人類が人間というものをどう捉えてきたのか、教育というものをどう捉えてきたのか、その歴史的な歩みを辿り返して自らの血肉とすることが求められます。これが個体発生は系統発生を繰り返すということであり、系統発生を繰り返してこそまともな個体発生になるということです。

 その系統発生である教育学の歴史をつかむべく、今年、筆者は教育学の歴史で著名な人物の教育論を把握していく取り組みを行っています。前稿「コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして」においては、近代教授学の祖と呼ばれるコメニウスの意義を次のようにまとめました。つまり、「コメニウスは17世紀という時代の社会的認識を受け継ぎながら、『すべての人間は教育によって人間となる』という科学的な人間一般論(につながる主張)を提示し、そして、科学的な姿勢で教育方法の探求を行ったということになります。一言で言えば、内容面と方法面において科学的教育学の基礎を築いたということになる」ということです。とりわけ、障害児も含めて、いかに素質としては劣った人間であっても教育によって改善されないものはないという内容を主張している点に着目していました。このように、コメニウスは非常に幅広い人間観を提示していたのでした。

 このコメニウスに次いで教育学の歴史に登場してくるのがジョン・ロック(1632-1704)です。ジョン・ロックと言えば、精神白紙説を唱えた哲学者として、また、社会契約説を唱えた政治思想家として有名ですが、教育に関しても言及しています。

 ロックが生きた時代はピューリタン革命(1640)・名誉革命(1688)という二度の革命が起こった時期であり、まさに中世から近代へと移り変わる時代でした。生産力の向上に伴い商品交換が発達すると、その担い手となった商工業者(ジェントリ)が大きな経済力をもつようになりました。また、領地に縛られていた農民の中にも、経済力を蓄えて領主の支配から逃れ、独立自営農民(ヨーマン)として農業を経営するようになりました。彼等は土地を囲い込んで毛織物工業にも力を注ぐようになり、経済的に大きな力をもつとともに、さらに議会派を構成し、政治的な発言力も強めていきました。やがて、議会を無視して課税を課したり、営利や蓄財を認めるカルヴァン派を抑圧して国教を押しつけたりする国王と対立するようになり、2度の革命が起こったのです。

 ジェントリ階級の人間として生まれたロックは、反体制派であったシャフツベリ伯爵の秘書兼侍医として日々を過ごし、新政府の樹立後は政治や経済にかかわる政策についての相談役として見解を述べるようになります。

 このようにロックは当時のイギリス社会の維持・発展に大きく関わる中で、自らの見解をまとめ『統治二論』『人間知性論』(1690)などの著作を執筆したのです。教育に関わっては、『教育に関する考察』という著作を残しています。これはロックの友人、エドワード・クラーク氏に宛てた手紙をとめ直したものです。そこには、紳士(ジェントルマン)となる人間をどのように育てればよいのかについて、ロックの見解が記されています。また、1697年に貿易植民委員会が政府へ提出した報告書(ロックによる原案作成)の中に含まれている救貧法改正についての提案が、貧民の教育についてのロックの思想をあらわしたものだとされています。

 本稿では、このロックの教育論に焦点を当て、そこから学ぶべきものを明らかにしたいと思います。ロックの教育論は紳士の教育と貧民の教育という形で分けて考えたとされていますが、このことをどう捉えればよいのか、ロックの人間観や教育観はどのようなものだったのかを最初に見ていきたいと思います。その上で、『教育に関する考察』に特に焦点を当てて、そこから掬い取るべき特徴を「子どもの認識に目を向けた」という点と「教師としてのあり方を説いた」という点に着目して見ていきたいと思います。

(注1)
「全国手をつなぐ育成会連合会」の声明は以下のHPから読むことができる。
「神奈川県立津久井やまゆり園での事件について(声明文)」
http://zen-iku.jp/wp-content/uploads/2016/07/160726stmt.pdf
「津久井やまゆり園での事件について (障害のあるみなさんへ)」
http://zen-iku.jp/info/member/3223.html
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2016年08月12日

改訂版・観念的二重化への道(5/5)

(5)最先端の時代精神に至るプロセスを辿り返す

 本稿は,どのようにすれば観念的二重化が行えるようになるのか,どのようにすれば自分の自分化から自分の他人化に近づくことができるのか,その方法について考察することを目的として説いてきました。ここで今までの流れをふり返ってみたいと思います。

 初めに観念的二重化の基本について説きました。そもそも観念的二重化とは何かについて,三浦つとむさんと海保静子先生の概念規定を確認しました。三浦さんは,観念的二重化とは,世界の二重化と自分の二重化との直接的同一性であることを指摘しました。また海保先生は,観念的二重化を現実と観念との像の二重化として概念規定し,自分の他人化を目指しても当初は自分の自分化レベルになってしまう必然性があると説かれていました。その上で,観念的二重化のためには,表現を参考にする,もっというと表現をまねる方法と,相手の世界を徹底的に描く方法が基本である,ということを解説しました。対象→認識→表現という過程的構造からすれば,認識を知るためには認識の物質的現象形態である「表現」をヒントにするか,認識の元となる「対象」をヒントにするか,どちらかしかないわけです。

 続いて,心理検査を取り上げました。心理検査は,人類が観念的二重化のための客観的で効率的なツールとして創り出してきたものです。その原理は,相手の知能なり性格なりを知るのに必要な場面を設定し,そこでの言動をサンプルとして,一事が万事方式でその人の全体像を推測するというものでした。心理検査によって,24時間モニタリングでもなかなか分からないような,その人の様々な知能・性格の諸側面を知ることができるのでした。また,ロ・テストのようなあいまいな刺激を提示する検査では,その人の問いかけ像――フロイトの精神分析では「無意識」などと呼ばれています――を知ることもできました。心理検査の結果をもとに相手に二重化して,相手の日常生活を追体験すれば,相手の困りごとがはっきり分かってきて,援助の方針も立てやすくなります。また,苦手なところや性格の歪みなども明らかとなり,教育や治療のターゲットを明確化できるという利点もあります。さらに,心理検査で測られるような知能・性格の諸側面は,認識を評価する際の客観的な物差しの働きもしますので,心理検査をくり返すことによってそれらの物差しを自分の中に取り込み,それをもとに問いかければ相手の特徴がよりクリアーになる,ということも確認しました。簡単にいえば,心理検査をくり返すことによって人を見る目が養われていくのです。

 最後に,認識の構造に踏み込み,二重の過程を辿ることの必要性を説きました。二重の過程とは,一つは個人の体験の過程であり,もう一つは人類の体験の過程です。そもそも認識とは反映像と問いかけ像の合成像であり,同じ問いかけ像を持たない限り二重化はできません。問いかけ像は過去像ですから,同じ問いかけ像を持つためには,その人個人が体験してきたことを,たとえ観念的にではあっても辿り返す必要があるのでした。また,個としての認識は,社会的認識に規定されています。その社会的認識は時代精神として生成発展してきていますので,その時代精神も辿り直し,相手の置かれている時代のレベルの問いかけ像を創る必要があるのでした。つまり,人間は時代性に規定されていることを忘れるべきではないのです。このように系統発生と個体発生という二重の過程をたどり返してこそ,自分の他人化レベルの観念的二重化が可能になってくるのである,と説きました。

 さて最後に,自分のオリジナルな学問の創出を目指すわれわれにとって,避けて通ることのできない問題を取り上げたいと思います。それは,ヘーゲルや南郷継正先生など,歴史上の大哲学者に二重化するにはどうすればいいのか,という問題です。学問は歴史的に発展していくものですから,過去の大哲学者の理論を再措定しないかぎり,オリジナルの学問の創出などありえないことになります。そして,哲学者の理論を再措定するためには,どうしてもその哲学者に二重化する必要があるのです。ここでは,われわれが現代の大哲学者だと考えている南郷継正先生に二重化する場合で考えてみましょう。

 では,どうすれば史上最高レベルの学者である南郷先生に二重化できるのでしょうか? これまで説いてきたことを踏まえれば,およそ3つのことに収斂すると考えられます。

 第一に,表現を利用するという方法です。簡単にいうと,南郷先生の認識の表現たる著作を読む,ということです。これは非常に当たり前のことですが,実は注意すべき点があります。それは,現時点では南郷先生と同じ問いかけ像を持っていないのだから,南郷先生の文章を読んでも,真に南郷先生には二重化できていないということをしっかり念頭においておくことです。先生の論文を読んで,理解できなかったり疑問に思ったりするのは,自分の問いかけが出てきているからです。そんな自分の問いかけを大切にするのではなく,むしろ否定して,形としては分かったことにして読んでいく必要があります。そうしないと,自分勝手な解釈のオンパレードで,見るも無残なことになってしまいます。

 これは,南郷先生の師である三浦つとむさんの著作を読む場合も同様です。南郷先生は徹底的に『弁証法はどういう科学か』を学び,三浦弁証法を技化されたといえると思います。したがって,われわれも『弁証法はどういう科学か』の学びを通して三浦さんに二重化する必要があります。その際,自分の問いかけを否定して,ひたすら三浦さんの論理でこの本を読む必要があるのです。自分を出さず,形を崩さないで学ぶよい方法は,『弁証法はどういう科学か』を音読したり,書き写したりする方法です。つまり,三浦さんの言語表現をまねることに徹するということです。まずは形から,の適用といってもいいでしょう。南郷先生の著作を学ぶ場合も同様です。そうすることによって,徐々に三浦さんや南郷先生の認識が自分の認識に浸透してくることが期待されます。

 南郷先生に二重化する第二の方法は,可能な限り,南郷先生の体験を辿り直すということです。そうすることで,同じ問いかけ像を創るのです。残念ながら,われわれは南郷先生が体験してこられた空手の修行を行ってはいません。したがって,まったく同じ体験を辿り返すことは不可能です。それでも,できるだけ類似の体験を重ねるように努力していくことは,必要だと考えています。

 たとえば,三浦さんの『弁証法はどういう科学か』を徹底的に学ぶということも,南郷先生の体験を辿り直すことになります。そのほか,南郷先生が勧めておられる本は,当然読みます。灼熱のアスファルト上を裸足で歩く実践も,南郷先生がやっておられるなら,そしてその効果についても論理的に説いてくださっているのですから,しないわけにはいきません。何らかの組織の指導者となって,指導するということも同様です。

 これらは南郷先生の見ておられる世界を可能な限り描く,ということでもあります。しかも,現時点の世界だけでなく,過程も含めて,南郷先生が経験されたこと・学習されたことを同じように辿ることによって,南郷先生の見てこられた世界を可能な限り描くのです。

 南郷先生のような偉人に二重化しようとする場合は,単に観念的にその経験を辿るだけでは不十分といえます。もちろん,過去の大哲学者や英雄の伝記を読んで,観念的にその人生を辿り直すことは,同じような人生を歩んでこられた南郷先生に二重化するための素材にはなりうるでしょう。しかし,現実に南郷先生がされてきたことを,可能な限り実際に同じようにやってみる,という実践がどうしても必要だと思われます。南郷先生の実践は,単に認識を創るというだけではなくて,脳細胞の変革をも促すようなものだからです。

 第三に,人類の系統発生を辿り直すことです。学問の歴史を自分の中でくり返すといってもよいかと思います。これは第二の点とも重なりますが,南郷先生自身がそういう学習をされてきた,という点でも重要です。しかしそれだけでなく,南郷先生は最先端の学的時代精神の中で,学的実践を重ねてこられたのだから,南郷先生を規定している時代精神を,しっかり辿り直してその内実をつかむことが大切なわけです。

 さらにいうならば,南郷先生自身が,その学的時代精神の最先端におられるわけです。そのゴールに辿り着くには,スタート地点から始まって途中のプロセスもしっかり辿る必要があるといえるのです。一足飛びにゴールに辿り着くことはできません。過去の学問の成果を文化遺産としてしっかり学び取り,その文化遺産で考える,その文化遺産で問いかけられるようになってこそ,真の学者といってよいものです。過去の文化遺産を徹底的に技化すれば,南郷先生のように,動けば即技になるレベル,問えばすぐに大発見になるレベルも夢ではないというものです。

 そのためにも,人類が獲得してきた論理を素朴で単純なレベルから学び,その論理でもって未知の対象に問いかけるということをくり返して,すなわち,過去の学者達が辿ったプロセスを自分もしっかり辿り直して,自分の認識を現在の最先端の学問レベルまで発展させていくことが必要といえるでしょう。

 我々は今後とも,本稿で確認したような観念的二重化への道を歩み続け,専門家として,学者として,研鑽を重ねていくことを決意して,本稿を閉じたいと思います。

(了)
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2016年08月11日

改訂版・観念的二重化への道(4/5)

(4)系統発生・個体発生を辿り返す必要がある

 前回は,まず,本稿でなぜ心理検査を取り上げるのかを説明しました。端的にいうと,心理検査は,観念的二重化のための客観的で効率的なツールとして,人類が創り出してきたものであるから,ということでした。「一事が万事」というように,相手の言動の一部分からその人の全体を知ることができるのだ,ということも確認しました。次に,知能検査の一つであるWISCを取り上げて,これを用いてどのように相手に二重化するのかを説明しました。特定の能力が低い状態で観念的に日常生活を送ってみることによって,その人がどんなことに困っているのかということがよく理解できるようになり,それを踏まえればその人に対する援助方針や対応策も導き出せるということが分かっていただけたと思います。最後に,ロールシャッハ・テストを取り上げました。ロ・テストは,あいまいなインクのしみを見せて何に見えるか尋ねる検査でした。そして,ロ・テストの反応には,その人の性格や感情が反映するのだということ,ロ・テストが明らかにする認識の諸側面は,認識を測る客観的・社会的な物差しとでもいうべきもので,人間の認識を見ていくときにはその特徴を浮き彫りにしてくれるものだということを解説しました。

 今回は,認識論の基礎をしっかり確認し,自分の他人化に近づくためにはどうすればいいのかの考察を深めていきたいと思います。

 そもそも認識とは何だったでしょうか? 端的にいえば,認識とは対象の頭脳における反映であり,像でした。この反映も,厳密にいえば,たんなる反映ではなく,問いかけ的反映といわなければなりません。ここが最重要ポイントです。

 では,問いかけ的反映とは何でしょうか? 簡単にいえば,個性的な反映ということです。人間の認識は,外界にある対象が純粋に反映して像を結ぶのではなく,いわば不純に,その人らしい反映の仕方をするのです。すなわち,認識とは反映像と問いかけ像の合成像である,ということができるのです。たとえば,杉の木を見ても,杉の木の前で失恋した経験のある人は,杉の木をいや〜なものとして反映します。目の前の杉の木の反映像が,振られたときのいや〜な認識=像を呼び覚ますのです。このように,蓄積された像,過去像が問いかけ像になります。

 ロ・テストは,対象(図版にあるインクのしみ)が何に見えるか答える検査でした。このような検査の場合,明確な対象なら,問いかけ像が関与する余地は少ないといえます。馬の写真を見せて「何に見えますか」といわれても,「馬」以外にはほとんど考えられません(もちろん,馬自体を知らない場合は,そういった問いかけがないわけですから,「馬」と答えることはありませんが)。しかし,あいまいな対象が何に見えるか尋ねられると,その答えには,問いかけ像がより多く関与することになります。その人の過去の体験・学習で創られた像や,それらの合成像が頭の中に蓄積されていますが,これらの蓄積された過去像が問いかけ像となります。その結果,インクのしみという対象の反映像と,それによって呼び覚まされた問いかけ像(過去像)が合成されてそのときの認識が成立するわけです。対象自体はいかようにも見えるあいまいなものですので,何に見えるかは問いかけ像によって大きく規定されているといえます。したがって,ロ・テストは,あいまいな刺激によって問いかけ像=過去像を知るための検査であるといえるでしょう。

 認識は反映像と問いかけ像との合成像ですので,そもそも近似的に同じような問いかけを持っていなければ相手に二重化することはできないということになります。いくら同じ対象を見たとしても,問いかけ像が違うと,認識も異なってくるのです。だから,問いかけ像があまりにも違う場合は,なかなか相手に二重化できない,自分の自分化レベルに留まってしまう,ということになります。外国人に二重化する場合を想定してもらえれば,分かりやすいと思います。同じ日本人なら,ある程度共通した環境や文化の中で生活してきたので,相手の問いかけ像も自分と同じようなものである可能性が高く,偶然にせよ,意図しなくても二重化できる確率も高くなります。しかし,外国人の場合は,生活してきた環境も文化もまったくといっていいほど違いますので,当然,問いかけ像も全く違います。こういう場合にはこうするといったような常識もかなり違う場合がありますので,二重化するのは困難なのです。

 では,同じような問いかけ像を持つにはどうすればいいのでしょうか? それは,観念的に相手の経験を辿り返してみればいいのです。問いかけ像というのは,頭の中に蓄積された過去像であり,過去の経験や学習によって創られた像でした。したがって,同じような問いかけ像を持つには,相手と同じような体験をし,同じような学習をすればいいのです。ただし,全く同じ経験・学習をするのは時間もかかりますし,現実問題としても不可能です。したがって,相手のこれまでの歩みを聞いたり,同じような体験をした人物を描いた小説や映画を参考にしたりして,その人の人生を観念的に歩んでみることが求められるでしょう。そのようなプロセスをしっかりと経ないと,自分の自分化レベルから一歩も抜け出せないということになってしまいます。

 もう一点,自分の他人化ができるレベルになるためには,押さえておく必要のあることがあります。それは「社会的認識」です。

 社会的認識とは,ある(小)社会の構成員が共通して持っている認識のことです。人間はある小社会の中で生まれ育ち,その社会的外界と相互浸透しながら認識が創られていきます。初めは家庭という小社会の中で育てられるのが普通ですから,認識はその家庭的な性質を帯び,その家庭のメンバー(父親や母親,祖父母など)と同じ認識を持つようになっていきます。すなわち,小社会たる家庭には社会的認識が存在しており,そこで生まれ育った子どもは,同じような社会的認識を創りながら成長していくことになるわけです。

 もう少し範囲を広げて考えてみましょう。県民性というものがあります。たとえば,大阪の人間はケチであるとか,沖縄の人間は時間にルーズだとか,愛知の人は豪華な結婚式をするとかいうように,それぞれの都道府県の特徴がよく話題になります。これは,それぞれの都道府県には特殊な社会的認識が存在しており,その中で生まれ育った人間は,自然とその社会的認識と相互浸透して,同じような認識を持つようになっていく,ということの一例なのです。

 端的にまとめると,個としての認識=像は小社会の像に規定されている,ということです。その結果として,同じ小社会に属する人間は,同じような認識を持つようになっていくのです。この社会的認識は,普段はなかなか意識することができないのですが,強力に個人を規定しています。引っ越しや大学進学で別の都道府県に行ったときなどには,社会的認識の威力を痛感することになるものです。

 したがって,相手に二重化する場合には,相手の属している小社会の像,すなわち社会的認識にも注目して,意図的にその像を創っていく必要があるといえます。たとえば,方言というのも社会的認識の1つの現象形態ですから,方言を話す人に二重化するには,その地方の社会的認識を知る必要があります。その地方独特の習慣や常識というものも存在しています。京都のお宅を訪問して,「ぶぶづけ(お茶漬け)でもどうですか」といわれたら,それはそろそろ帰ってくれという認識の表現であるわけです。知らずに「いただきます」なんて答えると,恥をかくことになります。

 このように,個としての認識は小社会の像に規定されているのですが,さらに大きな,その時代全体を規定しているような認識=像も存在しています。現代日本人ならたいていの人が持っているような認識とか,19世紀のヨーロッパの学者なら誰もが持っていたような認識とかです。前者の例としては,グルメ志向などが挙げられると思います。あるいは,情報化社会とかネット社会とかいいますが,これも一つの大きな社会的認識のあり方だといえます。後者の例としては,なんといってもヘーゲル哲学でしょう。実際に個々の学者がヘーゲルを読んでいたかどうかというような問題ではなくて,その時代をヘーゲル哲学が支配し,規定していたのでした。

 このように,社会的認識を大きく時代ごとに輪切りにしたものを「時代精神」と呼びます。時代精神も個人の認識を大きく規定しますので,これを踏まえて二重化していく必要があります。先に挙げた19世紀の学者に二重化する際には,どうしてもヘーゲル哲学を踏まえた上で,それに規定された個としての認識であるということを分かった上で,二重化していく必要があるのです。19世紀の中ごろに,マイヤー,ジュール,ヘルムホルツという3人の学者によって相対的独立的に,エネルギー保存の法則が発見されました。これは,ヘーゲル哲学に後押しされて,当時の時代精神がそこまでのレベルに達していたということを意味しているのです。時代精神=社会的認識の存在がなかったとしたら,ほぼ同時期に3人によって同じ法則が発見されるなどという偶然が起こるはずもありません。

 人類の子ども時代に二重化する場合も,その当時の時代精神を踏まえる必要があります。そうしないと,自分の他人化レベルで二重化することが不可能となります。そのよい例として,高木彬光『邪馬台国の秘密』を挙げておきます。邪馬台国は,3世紀の後半に陳寿が書いたとされる「魏志倭人伝」に記述があります。「魏志倭人伝」の記述(表現)をもとに陳寿に二重化するためには,まず当時の未熟な時代精神に二重化する必要があります。その上で,陳寿が属していた中国の官僚社会の社会的認識も踏まえなければなりません。普通は,現代の自分的な認識のままに「魏志倭人伝」を読んでしまうのですが,高木彬光は見事に子どもレベルの問いかけ像をしっかり創ることによって,当時の人間に二重化することに成功しました。その結果,邪馬台国の場所を特定しえたのです。小説という形での発表ですが,すばらしい研究成果だと思います。未読の方はぜひ読んでみてください。また,このテーマに関わって本ブログに連載した論文「高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く」もご覧ください。

 時代精神も,個としての認識と同じように,生成発展していきます。人類誕生と同時に生まれた時代精神は,人類の経験によって新たな像を次々と蓄積していきます。そして未熟なレベルから現代の高度なレベルまで発展してきたのです。このような歴史性を,しっかりと流れとして把握して,二重化する人間がどのレベルの時代精神に規定されていたのかを意識化しないと,真に二重化することはできないといっていいでしょう。

 特に,われわれのように一流の学者を目指す者は,時代時代の最先端の学者に二重化しなければなりません。そのためには,学的時代精神をしっかり辿り直すことによって,それぞれの時代のレベルをしっかり把握し,その時代の成果を自分のものにしていく必要があります。そうしなければ,古代ギリシアの文献を読んでも,その言語を現代的・大人的な概念として解釈するという愚をおかしてしまうことになるのです。

 以上のように,自分の他人化レベルの観念的二重化がしっかりとできるようになるためには,相手の個としての認識の生成発展と,その当時の時代精神とを,しっかりと辿り返す必要があるのです。すなわち,人類の認識(時代精神)の発展を辿り直し,それが個としての認識を規定していることを踏まえた上で,個としての認識の発展過程も観念的に辿り直し,相手と同じ問いかけ像を持つことが,自分の他人化のための条件である,ということができるでしょう。端的には,観念的二重化のためには,人類の系統発生と個体発生の二重の過程を辿ることが必要だ,ということなのです。

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2016年08月10日

改訂版・観念的二重化への道(3/5)

(3)心理検査は観念的二重化のための効果的なツールである

 前回は観念的二重化の基本について説きました。まずは観念的二重化とは何かを確認する必要があるとして,観念的二重化は世界の二重化と自分の二重化との直接的同一性として成立するという三浦つとむさんの解説,さらに,観念的二重化とは,自分がみている世界が,「現実の目」がみている像と「頭のなかでの目」がみている像との二重になることをいう,という海保静子先生の概念規定を提示しました。また,観念的二重化は,自分の他人化を目指しても当初は自分の自分化としてしか現象しない必然性があることも確認しました。

 その上で,観念的二重化のための基本的な方法として,認識が形として現れたところの表現を媒介にする――もっというと表現をまねる――方法と,相手の世界を徹底的に描く方法とを説いてきました。以上が観念的二重化に関する基本となる内容でした。

 今回は心理検査を取り上げたいと思います。「なぜ心理検査を?」と不審がる方もおられるかもしれません。その理由を端的に述べておけば,心理検査というのは,観念的に二重化するための客観的で効率的なツールとして人類が創りだしてきたものだからです。

 観念的二重化の方法の基本が,相手の表現を媒介にするということと,相手の世界を徹底的に描くということであれば,一番確実な二重化の方法は,24時間その人をモニターすることである,という結論になります。24時間その人を観察していれば,その人がどんな言動=表現を行っているかに関する膨大な量の材料が手に入ります。さらに,どんな世界を体験しているのかも全て明らかになるといってもいいでしょう。そうなれば,かなり高いレベルで自分の他人化が行えるといっても過言ではありません。

 しかし,このような方法はあまりにも非現実的です。特定の個人を24時間モニターするなどということは不可能です。そこでどうしたらいいでしょうか? それは,人間の言動の一部分をサンプルとして取ってきて,そのサンプルをもとにその人の特徴を捉えればいいのです。ことわざレベルでいえば「一事が万事」です。一事が万事というのは「一事を見れば,他の全てのことを推察できる」(『広辞苑』)という意味ですね。もっと論理的にいえば,部分は全体を貫く法則性を孕んでいるということです。したがって,ごく一部分だけを見ても,全体的なことはかなり確実に推測できるものなのです。

 心理検査でも,550とか120とか,あるいは検査によっては14とか1つだけの表現(反応)であっても,そこからその人の全体を推察することが可能になります。たとえばロールシャッハ・テストという有名な検査は,左右対称のインクのしみのような図版を10枚見せて,何に見えるかを尋ねる検査ですが,14の反応数があれば信頼性・妥当性がある検査結果が得られるということが統計的に実証されています。すなわち,14以上の反応を見てみれば,そこから「ああ,この人はこういう人なんだな」と分かる,量質転化が起こるというわけです。その結節点が14である,ということです。

 心理検査は単なる行動観察・モニターではなかなか分からないようなことも教えてくれます。たとえば知能を測る心理検査(知能検査)では,一定の課題を与えて,それをどのくらい解決できるかを調べます。24時間モニターしていても,そのような課題に相当する場面になかなか遭遇しないかもしれません。知能を測るという点でポイントになるような課題を精選して,それをやってもらうのですから,かなり効率的だといえます。

 人類は,歴史的にこのような心理検査をいくつも開発してきたのです。より客観的に,より効率的に相手に二重化したいという思いが,相手の認識の一側面を映し出すコンパクトな鏡を発明させてきたといえます。そうであるからこそ,「観念的二重化への道」と題する本稿で,心理テストを取り上げるのです。

 では,心理検査の中でもWISC(Wechsler Intelligence Scale for Children)という知能検査を取り上げたいと思います。この検査は,子どものIQ(知能指数)を測る代表的な検査の一つです。15ほどの下位検査を実施することによって,全体としての知能を測るだけではなく,知能のいろいろな側面も測定できるのがWISCの特徴です。たとえば,言葉を聞いて理解する能力がどのくらいあるか,目で見た情報をどのくらいうまく処理できるか,耳で聞いた情報をどのくらい記憶しておけるか,情報をどのくらい素早く処理できるか,などといった能力が個別に測れるようになっています。

 たとえば,IQ80の小学生が二人いるとします。IQの平均は100ですので,80だとあまり頭はよくないということは予想できます。しかし,IQは同じでも,それぞれ得意なところと不得意なところは違う可能性があります。一方は,言葉を耳で聞いて理解するのが特に苦手だという検査結果になったとします。そうすると,その情報を踏まえて,その子に二重化し,その人の日常生活や学校生活を追体験してみることで,よりその子のことがよく分かるようになってきます。この子に二重化してみると,先生の話はなかなか理解できないことが分かってきます。先生が何かを口頭で指示したとしても,何を指示されたのか,理解できないことが多くなるでしょう。授業中に言葉で説明されただけでは,内容が把握できづらいことも分かってくるでしょう。このような子どもにはどのように援助し,どのように働きかければいいでしょうか? それは,口だけで指示するのではなくて,実際にこうするのだと動作で伝えたり,個別に分かりやすい言葉でゆっくりと伝えたりするのがいいでしょう。また,授業の内容は,言葉だけでなく,できるなら絵や図を用いて説明してあげると,この子にとっては分かりやすくなる可能性が高まります。

 もう一人の子どもは逆に,言葉の理解はある程度できるが,目で見た情報をうまく処理するのが極端に苦手だという検査結果になったとします。これを踏まえてこの小学生に二重化すると,どんなことが分かってくるでしょうか? たとえば,時間割表や掃除分担表などが掲示してあっても,この子にとっては非常に分かりにくいものである可能性が高いです。お遣いに行ってもらう場合に,地図を描いても目的地が分からないということも考えられます。したがってこのような子どもに対しては,表で示すだけではなく,しっかりと言葉で,「明日は国語と算数と理科だよ」とか,「あなたの掃除当番は金曜日だよ」とか,説明してあげると,分かりやすくなるかもしれません。お遣いの場合は,地図で示すのではなく,「ゆうびんきょくを左にまがって,2つ目のしんごうを右にまがる。」といったように,言葉で説明したメモの方がいいでしょう。

 このように,WISCのような知能検査によって,その子の得意なところと不得意なところをしっかりと把握することは,その子への二重化を容易なものにしますし,それを踏まえれば対応もより効果的なものとなるのは間違いありません。知能検査を利用することによって,相手の困り事が具体的に見えるようになってくるのであり,そうなってこそ,適切に対応できるというものです。

 もう一つ,有名な心理検査の一つであるロールシャッハ・テスト(以下,ロ・テストと略す)を取り上げましょう。ロ・テストは,以前にも少し触れましたが,インクのしみのような図版を見せて「何に見えるか」を尋ねる検査です。図版は全部で10枚あり,見せる順番は決まっています。

 WISCが知能を測定する心理検査=知能検査であったのに対して,今回のロ・テストは性格(パーソナリティ)を測定する心理検査=性格検査です。しかし,インクのしみが何に見えるかを尋ねるロ・テストで,本当に性格が分かるのでしょうか? 結論からいえば分かるのです。すなわち,ロ・テストは観念的二重化のための有効なツールとなります。たとえば,ということでこんな例を挙げてみましょう。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句があります。夜道を歩いていたら,前方に何かがいます。ゆれています。幽霊だ! と思って恐怖が高まるのですが,実はたんなる枯れたススキでした。こんな情景を詠んだ句です。この人はよほど臆病者だったのでしょう。あるいは,夜道で不安が高かったのでしょう。この句が教えてくれるのは,あいまいな刺激が何に見えるかということに,その人の性格やそのときの気持ちが影響を与えるということです。

 ロ・テストの原理も同じことなのです。いかようにも見えるインクのしみというあいまいな刺激を提示して,何に見えるか答えてもらいます。すると,その答えにはその人の性格やそのときの感情――認識論的にいえば問いかけ像――が反映していると理解するのです。「大きな悪魔がこちらをにらんでいる」とか「鬼のお面」とか「首のない熊が血を流している」とかいうような反応ばかりする人と,「友人二人がダンスをしている」とか「男女が見つめ合っている」とか「キャンプファイヤーの炎」というような反応をする人とでは,性格やもののとらえ方が全然違うことが分かるはずです。

 また,インクのしみがどの程度客観的に,答えられた対象に見えるか,ということも問題となります。図版によってはよく答えられる典型的なものが存在します。そういう答えをするというのは,常識的で,ありふれたもののとらえ方をしているということになります。逆に,誰が見てもそうは見えないだろう,というような反応ばかりする人もいます。こういう人は,妄想・幻覚を伴った精神病者である可能性が高くなります。

 ロ・テストでは,一つ一つの反応をさまざまな観点から記号化し,それを集計・集約することによって,その人の感情面,認知面,自己イメージ,他者イメージなどが明らかになります。また,自殺の危険性,統合失調症やうつ病の可能性,対処力不全の程度,強迫傾向や警戒心の強さといったことも分かります。こういったものは,認識の諸側面であり,認識を眺める際の客観的な視点,社会的に創られた視点といってもいいでしょう。先に紹介したWISCで測れる知能の諸側面も同様です。これらの視点は,検査をくり返し実施することによって,徐々に検査者の中に取り込まれていき,検査をしていない場面でもそのような視点で問いかけられるようになります。すると,相手の認識の特徴がよりクリアーになってきます。ちょうど,日本酒を飲む時,甘い・辛いや淡麗・芳醇といった尺度(物差し)で問いかけて味わうと,その酒の特徴が浮き彫りになってくるのと同様です。

 なお,ロ・テストの反応は,文化差があることが確認されています。アメリカ人と日本人の反応を比べると,その傾向が大きく違うわけです。このように,反応に文化差が反映するということは,ロ・テストで何らかの性格を測れているという一つの証拠でもあるといえるでしょう。

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2016年08月09日

改訂版・観念的二重化への道(2/5)

(2)観念的二重化のためには表現と対象をヒントにする

 本稿は「観念的二重化への道」と題して,どうすれば観念的に二重化できるのか,どうすれば観念的二重化の実力を養成できるのか,という問題について考察する論考です。

 では早速この問題について考えていきましょう,といきたいところですが,ものには順序があります。「どうすれば観念的に二重化できるのか」「どうすれば観念的二重化の実力を養成できるのか」という問いに答えるためには,まず「観念的二重化とは何か」をしっかり把握しておく必要があります。ゴール(目的地)を明確にしておかなければ,そこに至る方法論を云々することはできないのです。旅行の行き先を決めなければ,バスで行くか電車で行くか,それとも飛行機で行くか決められないのと論理的には同一です。

 そういうわけですので,まずは,「観念的二重化」の概念規定をしっかり行っておきたいと思います。

 観念的二重化というのは,認識の運動の一つのあり方ですから,認識論という学問分野で問題にされてきました。弁証法の唯一の基本書とされている三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)にはかなりのページを割いて認識論の解説が行われていますから,まずはそこから,観念的二重化についての記述を引用します。

「このように,想像することは,現実の世界以外に観念的な世界をつくりだして世界を二重化することですが,それだけではなく,同時に現実の自分以外にその観念的な世界の中でそれに相対している観念的な自分をつくりだす自分自身の二重化をも意味します。」(pp.140-141)


 ここで三浦つとむさんは,想像を行うときには観念的な二重化が起こり,それは世界の二重化と自分の二重化の二重構造になっている,と指摘しています。

 次に,三浦つとむさんの認識論から出発し,認識論を大きく発展させた偉大な認識論学者である海保静子先生の概念規定を紹介したいと思います。

「観念的二重化とは,端的には自分の観念を二重化すること,つまり自分の頭のなかでもう1人の自分を創りだすことである。自分がみている世界が,『現実の目』がみている像と『頭のなかでの目』がみている像との二重になることを,現実と観念(頭のなか)との二重になることをいうのである。
この観念的二重化は,自分が現実の自分と頭のなかの自分とに分けられるので『自己の二重化』ともいい,またこの『観念的二重化=自己の二重化』は,自分が相手の立場に立って行なわれるばあいが多いだけに『自分の他人化』といわれる。さらにその構造を説くならば,観念的二重化はそのなかに『自分の二重化』があり,その自分の二重化には『自分の自分化』と『自分の他人化』の二重構造があり,そしてこれは『自分の自分化から自分の他人化へ』の過程性としてとらえることができるものである。」(海保静子『育児の認識学』,現代社,pp.355-356)


 ここでは観念的二重化とは像の二重化であり,観念的二重化の実力は「自分の自分化」しかできないレベルから「自分の他人化」が可能なレベルへと発展していく,ということが説かれています。詳しくはこの歴史的名著とされる『育児の認識学』をお読みいただくとして,ここで筆者が強調しておきたいのは「自分の自分化から自分の他人化へ」の過程性です。

 これは簡単にいってしまえば,相手の立場に二重化しようとしても,当初は,必然的に失敗してしまう,「他人になるつもりでも他人になりきれず,他人になりきったつもりでも,まったくのところ自分そのものでしかない」(同上,p.293)ということです。目的意識的な実力の養成期間をもたなければ,自分の他人化=真の観念的二重化は不可能なのだ,自分の自分化で相手のことが分かったつもりになっているレベルにとどまってしまうのだ,ということなのです。

 したがって,初めは自分の自分化しかできないのだという自覚が非常に重要となります。ここを自覚しないと,あたかも相手のことが分かったような,自分の他人化ができたような錯覚を持ち続けることになり,どうすれば観念的二重化ができるようになるのかとか,観念的二重化の能力を高めていこうとかいった問題意識を持つことすらないままで終わってしまうことになるのです。

 以上を踏まえて,観念的二重化の方法について考えていきたいと思います。まずは基本的なことから確認していきます。

 しっかりと観念的に二重化できているということは,しっかり相手の立場に立てているということであり,相手が描いている認識と同じような認識を自分も描けているということです。しかし,相手と同じような認識を描こうとしても,相手の認識は直接には目に見えません。なぜなら,認識とは実体ではなく,人間の脳細胞の機能であり,脳細胞に描かれる像のことだからです。

 このように目に見えない相手の認識=像をどのようにして描けばいいのでしょうか? 一番基本的な方法は,表現を媒介として相手に二重化する,ということです。表現から相手の認識を読む,といってもいいでしょう。

 では,表現とは何でしょうか? それは「人間の精神を映し出す物質的な鏡」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』,p.131)のことです。言語もそうですし,絵画・彫刻・舞踊・音楽・文学・演劇・映画などの諸芸術もそうです。表現は,言語や芸術のように,人間が意図的に創りだしたものだけに限られません。そこから相手の認識を読み取ることができれば,それは全て表現ということができます。たとえば,ちょっとした表情の変化や目の動き,姿勢や手足の動き,髪型や服装,声色や話すスピードなども表現の一種です。意図しないような人間の動きも全て表現といえるのです。認識は直接目には見えないのですが,表現という目に見える物質的な形態として現象する,といってもいいでしょう。その現象から,その背後にある認識を探ることができるのです。

 『弁証法はどういう科学か』で紹介されているエドガー・アラン=ポオの『盗まれた手紙』という小説では,相手の表現をまねることによって相手に二重化するという論理が説かれています。まずは『盗まれた手紙』の当該部分を引用します。相手の智力と合致させるのが得意な,すなわち観念的二重化が得意な子どものセリフの部分です。

「僕は,誰かがどのくらい賢いか,どれくらい間抜けか,どれくらい善い人か,どれくらい悪い人かまたそのときのその人の考えがどんなものか,というようなことを知りたいと思う時には,自分の顔の表情をできるだけ正確にその人の表情と同じようにします。それから,その表情と釣合うように,または一致するようにして,自分の心や胸に起ってくる考えや気もちを知ろうとして待っているんです。」(『弁証法はどういう科学か』p.248)


 これに対する三浦つとむさんの評価が以下です。

「百年以上前に,他人の智力と自分の智力をどうしたら合致させることができるかについて,ポオはこれだけつっこんだ分析をしました。他人の顔の表情が物質的な鏡となり,そこから『顔色を読んで』自分自身をその他人に観念的に二重化できることを指摘しました。」(同上,p.249)


 つまり,表情という表現をまねすることによって,認識を相手と合致させることができるということです。このように,認識の表現から認識へと遡るということは,観念的二重化のための基本だといえるでしょう。

 では次に,観念的二重化のためのもう一つの基本的な方法を取り上げたいと思います。それは,相手の世界を徹底的に描く,という方法です。そもそも認識とは対象の反映であり,像でした。したがって,相手と同じ認識を描こうとすれば,実際に相手の世界に立って,相手の視点から,相手が見たり聞いたりしている対象を,見たり聞いたりすればいいわけです。また,三浦つとむさんによると,観念的二重化は,世界の二重化と自分の二重化との直接的同一性として成立するものでした。したがって,相手の世界をきちんと描くことができたなら,それは直接に,しっかり相手に二重化できたことにもなるわけです。

 分かりやすい極端な例として,ヘレン・ケラーに二重化する方法を考えてみましょう。ヘレン・ケラーはご存じの通り,生後19ヶ月で病気のため目も見えず耳も聞こえなくなりました。家族に甘やかされて育ち,手のつけられない状態でしたが,奇跡の人たるサリバン先生が家庭教師としてやってきてから事態が一変します。ヘレンはサリバン先生の教育によって,ものには名前があることを学び,言葉も話せるようになって,猛勉強の末,名門大学を卒業,世界各地を講演し,視聴覚障害者の教育と社会施設改善に尽力した人物です。

 こんなヘレン・ケラーの立場に立って考えるにはどうすればいいでしょうか? その答えは,北島マヤが教えてくれます。北島マヤというのは『ガラスの仮面』という漫画の主人公です。彼女は一流女優を目指す少女でした。そんな彼女が『奇跡の人』という演劇でヘレン・ケラーを演じることになったのです。『奇跡の人』はヘレン・ケラーとサリバン先生の出会いから,ヘレン・ケラーがものには名前があるということを衝撃的に(急激な量質転化で)理解するまでを描いた物語です。

 なかなかうまく三重苦のヘレン・ケラーを演じられない北島マヤは,どのようにしてヘレン・ケラーに二重化して,リアルに演じられるようになったと思いますか? 実は彼女はある別荘に閉じこもり,目隠しをして耳栓をして,そこで暮らし始めたのです。これはすなわち,実際に目も見えず,耳も聞こえないヘレン・ケラーの世界に身を置いてみたことを意味します。このようにして北島マヤはヘレン・ケラーの世界を,実体験によって徹底的に描き続けたのです。ヘレン・ケラーの視点から,ヘレン・ケラーが見たり聞いたりした対象を,同じように見たり聞いたりして体験してみたわけです。もっとも,ヘレン・ケラーは目も見えず,耳も聞こえませんから,ここでの「見たり聞いたり」というのはもちろん喩えです。実際には触覚を中心とした残りの感覚器官のみで,対象を認識するということをやり続けたわけです,ヘレン・ケラーと同じように。こうしてヘレン・ケラーの世界を徹底的に描くことによってヘレン・ケラーに二重化できるようになった北島マヤは,見事にヘレン・ケラーを演じきり,ライバルを抑えて助演女優賞を獲得したのでした。

 私は『ガラスの仮面』を読んだ時,漫画とはいえ,非常にリアリティのある素晴らしい修行方法だと感心したものです。このエピソードから分かっていただきたいのは,相手の世界に実際に入り込んで,相手が実際に体験していることを,同じように自分も実際に体験してみることによって相手の世界を徹底的に描くことが,観念的二重化のための一つの有力な方法である,ということです。

 別の例を挙げてみましょう。小学校の国語では物語の読み方を勉強することになっています。物語の読解で重要なのは,登場人物の気持ちを理解することですが,小学校の先生は,あるいは小学生向けの問題集では,いきなり登場人物の気持ちを問うようなことはしません。たいていは,「いつのことですか?」「どこで起こった事件ですか?」「登場人物は何人ですか?」「どんな事件が起こりましたか?」といったような問いが先に来ています。これはなぜでしょうか? 端的にいうと,登場人物がいる世界を描けなければ,その人物に二重化して,その人物の気持ちを理解することなどできないからです。逆にいうと,登場人物がいる世界さえきちんと描くことさえできれば,自然と登場人物の気持ちは理解できるのです。自分の他人化とは,世界の他人化であり,その相手が置かれている世界をきちんと描くことができれば,それが直接に相手に二重化したことになるのです。だからこそ,どのような世界かを問う設問が先に来るわけです。

 小学校の先生は家庭訪問をしますが,家庭訪問の認識論的な意義も実は同じことなのです。どういうことかというと,あれは小学校の先生が,子どもの家庭環境=子どもが生活している世界を思い浮かべられるようになるために,行っているのです。学校での生活は,普段から目にしていますが,子どもの世界は学校だけではありません。家庭も大きなウェイトを占めています。したがって,小学校の先生が子どもに二重化する場合,家庭の様子・状態もしっかりと確かめることが必要となってくるのです。こういう環境で,こういう世界で生活しているのだということが分かれば,その子どもへの二重化が大きく自分の他人化レベルへと進んでいくことになります。

 このように,相手の視点から相手の世界を眺めて,相手の世界を徹底的に描くというのは,二重化のための有力な方法であるといえるのです。

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2016年08月08日

改訂版・観念的二重化への道(1/5)

目次

(1)社会生活では観念的二重化の能力が求められる
(2)観念的二重化のためには表現と対象をヒントにする
(3)心理検査は観念的二重化のための効果的なツールである
(4)系統発生・個体発生を辿り返す必要がある
(5)最先端の時代精神に至るプロセスを辿り返す

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(1)社会生活では観念的二重化の能力が求められる

 先日,南郷継正先生の最新刊『武道哲学講義 第三巻――『精神現象学 序論』(学の体系 講義)――』(現代社)が出版されました。その中の「まえがきに代えて」で,南郷先生は同じ内容を著すことには大きな意義が存在しているとして,次のように説かれています。

「一つは,私の年年歳歳的実力向上は,この何回もの「書き直し的綴り」の繰り返しが実践されているがためである。私の頭脳は何十年も,ここを実践してきているからこそ,頭脳(活動ではなく)の衰えがないままに,発展してきているのである。それだけにこれは,読者にも実践してほしいことである。同じことを何回となく書き綴っていくうちに,中身が立派になっていくのは,これも一つの大きな頭脳の量質転化への出立を促すものだから,である。」(pp.3-4)


 ここで南郷先生は,何回もの「書き直し的綴り」を実践してきているからこそ,自身の頭脳が発展してきているのであり,これを読者にも実践してほしいと説かれています。

 ここで説かれていることは,近年,南郷先生がくり返し説いておられる「正規分布図に従ったくり返し」が必要であるということと関連していると思われます。正規分布図に従ったくり返しとは,何かを学ぶ際に,必ず原点の位置へ戻ってそこから再び学び直すということをくり返す必要があるということです。正規分布図を思い出してください。左から右へと進んでいきます。少し昇ったら,また原点(初歩)に帰り,そこからまた辿り返します。そうして,また少し上昇したら原点(初歩)に戻り,そこからまた辿り返すのです。
このように正規分布を重層的に積み重ねながら少しずつ進んでいかないと,真の発展はない,ということだと思います。

 実は筆者は,この何回もの書き直し的綴りに近いことを既に実践しており,その効果を実感しています。その何回もの書き直し的綴りに近いこととは,専門家対象の研修会や学生向けの講義で,同じような内容を繰り返し説いていることです。具体的には,カウンセリングや認知行動療法の基礎的な内容を,くり返しくり返し研修会や講義で説いているのです。そうすることで,徐々に内容が整理されてきて,中身が立派になっていくということを体験しました。したがって,南郷先生の指摘を読んだとき,自身の体験とつなげてなるほどと理解できたのでした。

 本稿は,この南郷先生が指摘されている「書き直し的綴り」を実践するものです。

 当ブログには,2010年08月09日から11回にわたって「観念的二重化への道」と題する論文を掲載しました。この論文は,当ブログに掲載してきた論文の中でもかなり初期のものに相当します。そして,筆者の原点的な論文であるということもできます。そこで本稿では,この「観念的二重化への道」を改定版として説き直すことにしたいと思うのです。

 では本題です。

 先日の夕食時,何気なくテレビのクイズ番組を見ていたら,次のようなクイズをやっていました。それは,街中の人を適当につかまえて,その人が難読漢字を読めるかどうかを判断して回答する,というクイズです。テレビ画面にはその人の姿と,簡単なプロフィール,たとえば「慶応大学医学部学生」とか「大手自動車製造会社の営業職」とかが表示されます。そして,しばらくインタビューのやり取り(漢検何級をもっているとか,歴史小説好きであるとか,そういうヒント的なもの)が放送された後,「睫(まつげ)」「杜撰(ずさん)」「忝ない(かたじけない)」などの難読漢字とされるものをその人が読めるかどうかを回答させるというものでした。ちなみに回答者側には読み方が示されています。

 このクイズに正解するために必要な能力は何でしょうか? 自分が難読漢字を読むというクイズであれば,必要なのは漢字の知識だけです。しかし,自分ではなく他人が読めるかどうかを当てるクイズですので,しかも漢字の読み方はこちらには提示されているわけですから,漢字の知識の有無は直接的には関係ありません。実は,このクイズに求められるのが,本稿でテーマとして取り上げる観念的二重化の能力なのです。観念的二重化については詳しく,学問的な定義も紹介しながら説明していきますが,とりあえずは「相手の立場に立って考えられる能力」くらいに思っていただいてけっこうです。このクイズでいえば,街中のインタビューされている人の立場に立って,「この漢字が読めるかどうか」を考えられる能力が必要だったわけです。

 こんなクイズに答える場面だけではなく,日常生活には観念的二重化の能力が求められる場面がたくさんあります。というより,人間として社会的な生活を送っていく際には,必然的に観念的二重化の能力が要求される,といった方が正確でしょう。相手の立場に立って考えることができなければ,学校生活でもKY(空気読めない)となってしまって,適応的な生活ができなくなってしまいます。友人の気持ちも考えずに,ストレートに思ったことをいってしまって,相手を傷つけ,うまく人間関係が築けなくなります。観念的二重化の能力がなければ,家庭生活においても,兄弟同士,夫婦同士や親子間で,ケンカが絶えないということにもなってしまうでしょう。

 コミュニケーションの際にも観念的二重化の能力は必要となってきます。コミュニケーションにおいては一般に,相手に合わせて情報を整理してから発信する必要があります。相手に合わせるためには,いったん相手の立場に立って考えて,その後自分の立場に復帰して,適切な言葉を決めたり分かりやすい言い回しに変えたりというようなプロセスが必要となってきます。つまり,観念的に二重化して相手の立場に立つ必要があるのです。話が下手な人は,たいてい聞き手の立場を考慮していない,すなわち観念的二重化の能力が低いものです。

 「ありがた迷惑」という言葉があります。『広辞苑』によると,「人の親切や好意がかえって余計な干渉で迷惑と感ぜられること」という意味です。これも観念的二重化に関わってきます。本人は親切だ,いいことだと思ってやっていることが,実は相手にとっては迷惑以外の何ものでもない,ということですから,ありがた迷惑な人というのは,観念的二重化の能力が低いということがいえます。相手は本当は何を求めているのか,かえって迷惑と思うではないだろうか,というようなことを,相手の立場に立ってしっかりと考えることができていないからです。こういう人が周囲にいるのではありませんか。

 また最近,「発達障害」のある人たちが増えてきています。「発達障害」の特徴の1つとして,相手の立場に立てないというのがあります。これは観念的二重化の能力が低いということです。このような特徴のある人が「障害」とされているというのは,社会生活を営む上で観念的二重化の能力が必須であることを端的に物語っているといえます。

 単なる日常生活ではなく,仕事でも観念的二重化の能力が求められます。特に人間相手の仕事の場合,たとえば,教師,医師,看護師,保育士,弁護士,心理士,経営コンサルタントなどといった職業の場合,日常生活レベルの観念的二重化の能力ではとても役立ちません。もっと高いレベルの能力が求められるのです。こういった職種では,対象となる相手の立場に立ってきちんと考えることができなければ,適切な指導・助言・援助ができないからです。一般に,ある対象を変化させようとすれば,その対象をよく理解していないといけません。人間が対象である場合も同様です。人間の認識を変えようとするなら,変える前に,相手の認識についてよく理解していないといけないのです。相手の認識をよく理解するというのは,しっかり観念的に二重化して,相手の立場に立つことにほかなりません。だから,上記のような職業では,その専門職に見合うだけの高い観念的二重化の能力が必要となるのです。

 学問の構築を志すうえでも,観念的二重化の高度な能力が求められます。たとえば,現在わが研究会で読み進めているヘーゲル『哲学史』を読んで理解するということは,つまり,ヘーゲルに二重化することを意味しています。学問を志すうえでは,歴史上の学問の大先達である,アリストテレスやカント,ヘーゲルへの学びは避けては通れません。これは,アリストテレスやカントやヘーゲルに二重化できる能力を養っていく必要があるということです。

 このように,日常生活でも,人間相手の仕事を行う際にも,そして学問を志す際にも必須となってくる観念的二重化は,どのようにすればできるようになるのでしょうか? 自然成長性にまかせるのではなく,目的意識的に,観念的二重化という技を上達させる方法はないのでしょうか? 本稿では,こういった「観念的二重化への道」を,いくつかのポイントに絞って考察していきたいと思います。

 最初に,今目の前にいる相手に観念的に二重化するための基本的な方法を解いていきます。連載の第3回では,相手に観念的に二重化するためのツールとして誕生させられた心理検査を取り上げます。そして最後に,認識の構造により深く分け入って,観念的二重化の実力を向上させていくためには,どのような研鑽が求められるのかについて説いていく予定です。
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2016年08月07日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までは3回にわたって,論点に関してどのような討論がなされ,どのような(一応の)結論が導き出されたのかについて報告してきました。

 さて,本例会報告の最終回である今回は,参加者のメンバーそれぞれの感想を掲載したいと思います。

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 今回の例会では,ヘーゲル『哲学史』のうち,デカルトとスピノザを扱った範囲を中心に議論した。

 改めて感じたことは,「唯物論の立場で評価すれば」という論点については,問題とする哲学がどのような時代に創出されたのか,つまり世界歴史の一般教養が問われる,ということである。その時代の,その国がどのような背景を背負っていたからこそ,そうした哲学が生まれてくることになったのか,ここをしっかりと筋を通して展開できるような実力を,一般教養の学びで身につけておかなければならないということである。「唯物論の立場で」といいながらも,一般的な評価しか与えられていないということをしっかりと反省して,世界観の根本から学び直すとともに,世界歴史を含めた一般教養をゼロから学び始めなければならない。

 デカルトやスピノザの哲学に関しては,思考と延長,あるいは神といった実体から,世の中の全ての事物を説明しきるということができなかったことが大きな限界としてヘーゲルは論じているわけであるが,これは論文の書き方として,また学問構築論として捉えるべきだという指摘がなされたことが,非常に大切だと思った。論文を執筆する際には,序論において「一」たる問いを立てて,論証過程を経て,最後に結論部分でまたこの「一」に復帰する必要があるのであるが,こうした円環運動をデカルトもスピノザも辿ることができなかったというわけである。さらに大きな視点でいえば,学問とは「一」たる一般論を掲げて,全ての事実をここから説明し,ここへと収斂する形で,論理的に展開していくべきものであるが,これもデカルトやスピノザにはかなわなかった,ヘーゲルのいう「絶対精神の自己運動」「円環運動」である。このように,ヘーゲルの説く哲学史を,自らの論文や学問との関連において把握することなしには,つまり主体性をもって把握しようとすることなしには,単なるヘーゲルの解説者になってしまうだけであるということを,もう一度しっかりと見つめ直さなければならない。

 次回は報告レジュメの担当に当たっているのだが,内容の把握はもちろんのこと,自らの学問として捉え返した場合,どのようなことがいえるのかという主体性を表現できるような報告にすべく,しっかりと取り組んでいきたいと思う。
 
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 今回の例会では,まず,デカルトとスピノザの時代に,人類の社会的認識が,全世界のありとあらゆる存在を物質と精神という二大実体にまとめ切ったのであり,これは客観と主観を俯瞰的に眺めうる立場に人類が立つことができるほどの抽象化能力を身につけたことの証である,ということをしっかりと確認できた点がよかったと思う。このことは2年前のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びの中で確認したことであったが,今回,ヘーゲル『哲学史』の学びの中でも改めて確認できた。

 一番印象に残ったのは,デカルトやスピノザをヘーゲル自身の哲学と比較して,評価していた点である。ヘーゲルにおいては,思惟=存在であるところの絶対精神が,自己運動をすることによって,非常に単純なというかカオス状態にある中から,次々と具体的なものを生み出していくことになる。すべてが絶対精神なのであり,絶対精神が自然へ,そして社会へと外化していき,再び精神に立ち戻って,その発展の中でついには絶対精神に復帰する。この運動のすべてが,絶対精神の自己運動として一貫した流れで説かれていくのである。しかし,ヘーゲルもいきなりこのような着想を得たわけではなく,ここに至るまでには,前提として,思惟=存在という命題を人類の社会的認識として獲得する必要があったのであり,それをなしえたのがデカルトでありスピノザである,ということが今回非常に明確になったと思う。逆に言うと,この時代は,このような哲学の本質論とでもいうべき命題を措定できただけで十分であり,そこからの論理的に一貫した展開など,望むべくもなかった,といえるのかもしれない。

 唯物論の立場からの評価ということに関しても,改めて確認できたことがあった。それは,唯物論的に把握すれば,認識とは外界の反映で成立するものであり,その外界とは自然的外界と社会的外界の二重性があるのであるから,ある哲学者の認識の成立を唯物論的に評価するためには,その当時の自然と社会をしっかりと掴むことが必須になる,ということである。そのためにも,以前学習したシュテーリヒ『西洋科学史』などの学びと重ね合わせながら,ヘーゲルの『哲学史』を読み解いていく必要があることをしっかりと再確認できたのはよかった。

 「悟性」や「理性」というような概念や,「自己意識」というような概念については,今後の課題となった。今後は目的意識的に,このような概念の意味するところを探っていきたいと思う。 

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 今回の例会を通じては,デカルトやスピノザの偉大さと限界について,学問体系の構築という観点から深めて把握することができたのが大きな収穫であったと思う。

 ヘーゲル哲学へと至る過程としてみたとき,デカルトからスピノザへという流れのなかで,出発点として思惟と存在の直接性が主張され,絶対者としての神が確認されたことは大きな前進であった。しかし,諸々の具体的なもの(特殊的なもの,個別的なもの)が,絶対者が自己を展開していくなかで必然的に生じてくるものとしては把握されなかった(要するに,概念的に把握されなかった)のは,大きな限界であったといわざるを得ないのである。デカルトやスピノザは,諸々の定義を行ったが,それは出発点たる思惟=存在という絶対者とは必然的なつながりのないものとして,経験的に措定されたものにすぎず,固定的なものとして,相互が無関係のままに羅列されてしまう,というものにしかならなかったのである。

 これは,たとえていうならば,「教育とは国家社会の維持発展を担う社会的個人の育成である」という立派な教育本質論を掲げていたとしても,諸々の具体的な教育現象をその教育本質論から筋を通して把握しきることなく,経験的に(行き当たりばったりに)解釈して済ませてしまう,といったあり方にちょうど対応するものであるといえよう。このように,学的体系の完成に向けた道程として哲学史を描こうとしているヘーゲルの論は,他ならぬ自分自身の学問構築上の課題は何なのか,という問題意識を鋭く持ってこそまともに理解できるのだ,ということを強く感じ取ることができたのは,今回の例会の大きな収穫であった。

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 例会レジュメを作成する過程で,論点への見解を作成する当初においてはあまり理解できていなかった点について,ある程度理解を深めていくことができた。デカルトが全世界を物質と精神という形で整理したこと,その統一こそが課題として残され,それに取り組んだのがスピノザであったこと,しかし,スピノザは神の属性として物質と精神を捉えたものの,神からどのようにして物質と精神が生まれてくるのかが解けておらず,運動性に欠いた原理でしかなかったこと,などである。

 しかし,例会での議論をとおして,このスピノザ(あるいはデカルト)の課題をしっかりと自分のものとして受けとめなければならないのだと感じた。神という原理を掲げたものの,そこからすべてを説くことはできなかったというのは,学問構築という観点からいえば,一般論を掲げたものの,その一般論からすべての問題を説くことができなかった,一般論を使って現実の問題を解決することができなかったということである。現在の自分を振り返ってみれば,教育一般論から教師としての授業行為すべてを説くということは到底できていない。しかし,そのような一般論と事実ののぼりおりを繰り返してこそ学問は構築できるのであり,それこそがヘーゲルのいう絶対精神の自己運動である。そもそもヘーゲルの哲学史は,南郷学派の先生方によれば,学問構築論として読むことができるのであるから,そういう観点から,個々の哲学者に対するヘーゲルの評価を自らのものとして受け止めていかなければならないと感じた次第である。


(了)
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2016年08月06日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(9/10)

(9)論点3:スピノザの哲学とはどういうものか?

 前回は,デカルトの哲学に関わっての討論過程を紹介しました。ヘーゲルは,自己の思惟=存在である絶対精神の立場から,デカルトの思惟=存在を表す命題を評価していましたが,それ自体が自己運動によって具体的なものを生み出していくということにはなっておらず,具体的なものは経験から取ってくる形になっていたことを批判していたのでした。また,デカルトの哲学は,普遍数学の時代の社会的認識を象徴するものであった,ということも確認しました。

 今回は,スピノザの哲学に関する論点について,どのような討論がなされたのかを紹介します。論点は,以下のようなものでした。


【論点再掲】

 スピノザはデカルトの哲学をどのように受け継いだとヘーゲルは説いているか。ヘーゲルは,スピノザの哲学を無神論と見なす見解に対して,それは正鵠を射ておらず,むしろ無宇宙論というべきものだ,と述べているが,これはどういうことなのか。また,スピノザの「規定はすべて否定である(すべての限定は否定である)」という命題をどのようなものとして捉えているのか。否定の否定としての矛盾を捉えていない,と批判しているようであるが,これはどういうことなのか。自己意識の問題はここにどのように絡んでくるのであろうか。

 唯物論の立場からすれば,スピノザの哲学をどのように評価することができるか。



 この論点については,まず,スピノザはデカルトの哲学をどのように受け継いだとヘーゲルは説いているかについて確認しました。この点については,皆の見解が一致していました。すなわち,デカルトの思惟と延長という二元論を,神のみが唯一の実体であり,思惟も延長もその属性にすぎないとする一元論へと発展させた,ということです。また,唯一の実体である神から,思惟と延長という二つの属性がどのようにして生じるのかについては,スピノザは説けていないということも確認しました。

 次に,ヘーゲルは,スピノザの哲学を無神論と見なす見解に対して,それは正鵠を射ておらず,むしろ無宇宙論というべきものだ,と述べているが,これはどういうことなのかという問題に移りました。これについては,およそ次のような内容で,見解の一致を見ました。すなわち,スピノザによると,神こそ唯一の実体であり,自然や世界は特殊に規定された神にほかならないのであり,神のみが実体的なものとして永続することが許され,世界は何ら真実なる現実性をもたないとされるのだから,無神論ではなく,むしろ無宇宙論である,ということです。

 続いて,ヘーゲルが,スピノザの「規定はすべて否定である(すべての限定は否定である)」という命題をどのようなものとして捉えているのか,否定の否定としての矛盾を捉えていない,と批判しているようであるが,これはどういうことなのか,という問題について討論しました。「規定はすべて否定である」という命題について,ヘーゲルはかなり高く評価していることを確認しました。この命題は,唯一の実体である神だけが規定されえない積極的なものであって,その他の諸々の属性や様態といったものは,神の規定されたあり方である,否定を含むものである,ということを意味しています。このように,否定を本質的なものとして捉え得たことを,ヘーゲルは高く評価しているのでした。

 しかし,否定を一面的にしか捉えられていないとして,ヘーゲルはスピノザを批判してもいるのでした。この点についても討論して,次のような結論に至りました。すなわち,このスピノザの捉え方には悟性的思考の限界が露呈されており,否定が一面的にしか捉えられておらず,矛盾(否定の否定)が捉えられていないとヘーゲルは批判しているのであり,本来であれば(ヘーゲルの立場からすれば),実体は主体(ないし精神)として捉えられ,自己を否定して運動していき,実体から属性,属性から様態が演繹される(実体が自己を展開していくなかでの必然的なつながりとして生み出される)べきであるのに,そうなっておらず,その都度,眼前の対象から経験的に取り上げられるだけに終わっており,出発点としての実体(神)へと還帰するわけでもないとヘーゲルは批判している,ということです。

 ここを現代のわれわれの言葉で説き直すと,本質論・構造論・現象論ののぼりおりがないという批判だ,ということになります。本来であれば,本質論を自己運動させる必要があるのに,そうはなっていないという批判だ,ということです。ここに関連して,ある会員は,論文を書くときも同じだとして,次のように説きました。すなわち,論文を書くときも,序論で「一」を立てて,その「一」を自己運動させて本論を展開し,そして結論部分で再び「一」に帰ってくる必要がある,このような筋の通った論文を書く苦労をしていると,スピノザにはこのような「一」の自己運動がなかったからダメだと分かるはずである,ということでした。これには皆が納得しました。

 この問題に関連して,自己意識の問題はここにどのように絡んでくるのかについても討論しました。チューターは,ヘーゲルは哲学史を自己意識の深化と捉えているが,スピノザにはこのような自己意識が欠如しており,そのために思考対象に関わる認識の運動がないのだとヘーゲルは批判していると述べました。ある会員は,個別的な精神としての自己意識が,唯一の実体からの必然的な展開としては捉えられず,単なる制限された神のあり方として,すなわち,真実の絶対的な存在ではないものとして,捉えられてしまっているのがスピノザの問題点であると説きました。別の会員は,神という実体を現実の自己意識として把握することができなかった,神という実体を対象的に把握して,唯一無二の肯定者として把握してしまったために,現実の自己意識が運動性に富み,諸々の対象の性質を暴き出していくという過程性が掴めなかったのだと主張しました。

 チューターは,それぞれを取り出してみれば,もっともな主張のように思えるが,そもそも「自己意識」とは何かが共通の認識として成立していないように思えると発言しました。そこで,自己意識とは何かを議論しました。ある会員は,自己意識とは個々の人間の認識・精神のことであると理解していると述べました。確かに,ヘーゲルの描く哲学史は,自己意識の深化の過程(人間の意識の発展の過程)ということができるが,それは,人間が自由になっていくことを意味している,すなわち,奴隷的な立場ではなく,何らかの権威に押さえつけられているというのでもなく,自分のことは自分で決められるようになっていくということを意味しているのだ,ということでした。また,ヘーゲルはあくまでも「人間」ということに関心があるのであり,もともとは,絶対者が人間とは別物であった段階があり,キリスト教においてヒントが与えられ,それを踏まえて絶対者=人間としっかりと措定したのがヘーゲルである,ヘーゲルは人間は精神であるから絶対であるとしたのである,とも主張しました。このように考えるならば,自己意識=個々の具体的な個別的な認識と,絶対者である神がつながらないのがスピノザの弱点であり,これが自己意識を欠いているということの意味である,ということでした。

 この見解に対して,皆が概ね納得しました。しかし,チューターが,これだと意識と自己意識を同一視しているように受け止められるのであるが,ヘーゲルにおいて,意識と自己意識は区別されているのではないだろうか,という疑問を出しました。南郷先生は,『全集第1巻』の「読者へのあいさつ」や,最新刊の『武道哲学講義第3巻』において,ヘーゲルの言う「自己」について詳しく説かれているが,これを踏まえると,「自己意識」という場合の「自己」も,絶対精神のことを意味しているのではないか,というのです。ここに関しては,石ころや山や川も意識を持つといえるのか,意識を持つとしても自己意識を持つといえるのか,動物の場合はどうかなど,少し議論しましたが,結論は出ませんでした。先の見解を提示していた会員も,「自己」が絶対精神のことを指すということ自体に反対しているのではないと主張しました。すなわち,個々の具体的な人間の認識こそが絶対精神が自己という意識をもつ形態ではないかということでした。しかし,これ以上議論しても深まらないと判断したため,この問題については保留として,今後,『哲学史』を読み進めたり読み返したりする際の問題意識として,念頭に置いておくことになりました。

 さて最後に,唯物論の立場からすれば,スピノザの哲学をどのように評価することができるかについて議論しました。ある会員は,デカルト同様,世界の全てを思惟と存在として大きく括ることができたことが評価できよう,さらにこれらを「一」たる神から説こうとした頭の働かせ方がデカルトとの違いとして挙げられる,と主張しました。チューターは,この主張自体はもっともであるが,はたしてこれが唯物論の立場からの評価といえるかどうか,疑問であると述べました。この見解を出した会員も,確かに,唯物論の立場からの評価とはいえないと認めました。別の会員は,大きくいえば,デカルトと同様,数学的・力学的な世界観を象徴するような存在であるといえるとしたうえで,スピノザの生きた17世紀のオランダが世界最強の海運国として繁栄をきわめていたことや宗教的にも比較的寛容であったという社会状況が,スピノザの無神論ともいわれる哲学(認識)に反映しているのではないかと説きました。これに対しては皆が,社会的外界の反映という形でスピノザの認識を説いたものであり,唯物論の立場からの評価としても妥当であると納得しました。

 以上で論点3についての討論を終了しました。
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2016年08月05日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(8/10)

(8)論点2:デカルトの哲学とはどういうものか?

 前回は,ヘーゲルの説く「形而上学の時代とはどういうものか」という論点に関わって,どのような討論を行い,どのような(一応の)結論に達したのかを紹介しました。端的には,形而上学とはそもそも,感覚によって捉えられる諸々の事物・事象の背後に隠されている真実の姿(=実体)を探ろうとするものであり,そのような努力がデカルトの時代に始まったのだ,ということでした。

 さて今回は,デカルトの哲学とはどのようなものかについての討論過程を紹介します。まず,論点は以下のようなものでした。


【論点再掲】

 ヘーゲルは,デカルトの形而上学をどのように捉えているのか。「一切を疑わねばならない」(p.78)とは,デカルトのどのような考えを表現したものだとされているか。デカルトの「われ思う,ゆえにわれあり」という命題を推理(推論)であるとする見解(思考〔思惟〕から存在が出てくると考える見方)について,どのように批判しているのか。ヘーゲルの考える思考(思惟)と存在との不可分の結合とはどういうものであり,その観点から,このデカルトの命題をどのように捉えているのか。

 唯物論の立場からすれば,デカルトの哲学をどのように評価することができるか。



 この論点については,初めに,デカルトの形而上学をヘーゲルがどのように捉えているかについて確認しました。デカルトが思惟を出発点とした点をヘーゲルは新プラトン派以来の本来的な哲学の復活として,高く評価しているということでした。また,ある会員は,ヘーゲルによるデカルトへの否定的な評価についても触れました。すなわち,デカルトのいう思惟は非常に抽象的で単純なものでしかなく,自ら展開して具体的な内容を次々と産み出していく,というようなものにはなっていないのであり,具体的な内容は,経験,観察などを通じて,外部から思惟のなかに持ち込まれるしかないということでした。このようなデカルトの限界もしっかり把握しておく必要があるということになりました。

 次に,「一切を疑わねばならない」とは,デカルトのどのような考えを表現したものだとされているかについて議論しました。これについては,当初から,概ね見解が一致しました。すなわち,それは,あらゆる偏見(直接に真理とみなされるすべての前提)を捨て去って,思考から出発し,思考を純粋な始まりとして,そこから確実なものに至るべきだという考えの表現であるということでした。また,同じように「疑う」といっても,懐疑主義との違いを押さえておくべきだという見解も出されました。それによると,懐疑主義においては,疑うこと自体が目的であるのに対して,デカルトのいわゆる方法的懐疑においては,あくまでも確実なものに至るためにこそ,すべてを疑うのだということでした。ここに関しては,皆が同意しました。

 続いて,デカルトの「われ思う,ゆえにわれあり」という命題を推理(推論)であるとする見解(思考〔思惟〕から存在が出てくると考える見方)について,ヘーゲルがどのように批判しているのかという問題に移りました。この問題についても,見解の相違はありませでした。端的には,思考と存在が直接のつながりであることを捉えられていないという批判であり,「われ思う」の中には,既に自我の存在が含まれており,この思考=存在からデカルトが出発した点をヘーゲルは高く評価しているということでした。

 この問題に関連して,ヘーゲルの考える思考(思惟)と存在との不可分の結合とはどういうものであり,その観点から,このデカルトの命題をどのように捉えているのかについても検討しました。ある会員の見解によると,ヘーゲルにおいては,絶対精神こそが思惟と存在とを直接に結合した存在にほかならず,デカルトの命題を思惟と存在との直接のつながりを主張したものと捉えてこそ,まずはじめに絶対精神があった(全ての絶対的基礎としての絶対精神)というヘーゲルの発想に通じるのだということでした。

 このようなデカルトに対する肯定的な評価だけではなく,否定的な側面も見ておく必要があるとして,ある会員は,デカルトの場合は,思惟=存在といっても,極めて単純で抽象的なレベルにとどまっているので,そこから客観的に存在する諸々の具体的な事物にまで筋を通して展開していこうとしても,それは無理であったために,第三者として神をもってくるしかなかったのだと主張しました。ヘーゲルの立場からすれば,思惟=存在の原点である絶対精神が自己運動して,あらゆる具体的なものを生み出していくのであるが,デカルトの場合はそうではなく,具体的なものは経験から取ってこられるほかない,ということでした。要するに,思惟=存在というところからすべてを説ききることができていない,本質論から説ききれていないのだ,ということでした。これは喩えていうと,教育本質論から教育の具体的な現象が説けていないということであり,本質と現象がつながらずに,バラバラの状態にあるということである,という補足もありました。チューターも,デカルトは具体的内容に移行すると,思考と延長が別々のものとされ,一方は他方に依存することなく存在する実体であるから,両者を統一するためには,神の誠実さが必要だとされており,デカルトの哲学は結局,思惟と延長の二元論になってしまって,それを媒介するために第三者としての神を持ち出してこざるをえなくなったのだとまとめました。これらについては,皆が納得しました。

 最後に,唯物論の立場からすれば,デカルトの哲学をどのように評価することができるかという問題を討論しました。チューターは,聖書の記述や宗教的権威による先入見を排して,純粋に世界を見ようとする努力が始まったと評価することができるし,自我から始めて世界を説こうとするのは,主体性の芽生えといってもいいのではないかと述べました。ある会員は,人間の理性こそが真理の基準であると主張した点が重要であるとし,別の会員は,「思惟と延長」という形で世界の根本的な存在を2つに整理したことがあげられると主張しました。確かにそのようなことはいえるにしても,これらは唯物論の立場からの評価といえるのかがあいまいだということになりました。

 これに対して別の会員は,シュテーリヒ『西洋科学史』で説かれていた「普遍数学の時代」ということが大切なポイントになるのではないかと主張しました。すなわち,デカルトの哲学は,大航海時代における航海術の知識の蓄積や,戦争による火薬・武器の設計など,17世紀における社会的労働のあり方に規定された自然科学的(数学的,力学的)認識の発展を象徴するような存在であったといえるだろうということでした。この時代になると,中世期のように神の意図を問うようなことをせずに(=「なぜ」を問わずに),デカルトは,数学的な明快(単純で一面的)な論理で哲学を構築することを意図し,自然がどのように動くのかを数量的に把握しようという傾向が強まりました。そうして,機械的な自然観が成立していくことになったのですが,このような時代の社会的認識を象徴しているのが,デカルトの哲学だ,ということでした。これには他の会員も強く納得したのでした。

 以上で論点2に対する討論を終了しました。


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2016年08月04日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(7/10)

(7)論点1:形而上学の時代とはどういうものか?

 前回は,今回扱った内容を再度まとめ直した後,例会で扱った3つの論点を紹介しました。

 今回からは,それぞれの論点に対してどのような討論がなされ,どのような(一応の)結論が出されたのかのプロセスを紹介していきます。

 最初の論点は,ヘーゲルが「思惟する悟性の時期」の第一の時期として位置づけた形而上学の時代とはどういうものかに関わる論点です。以下に再掲します。


【論点再掲】
 ヘーゲルが,「思惟する悟性の時期」(思考する知性の時代)の第一の時期として位置づけた形而上学の時代とはどういうものか。そもそもヘーゲルのいわゆる形而上学とはどういうものなのか。ヘーゲルは,形而上学は実体に向かおうとする傾向がある,形而上学そのもののうちに,実体性(実体を重んじる立場)と個体性(個体を重んじる立場)との対立があるなどと述べているが,これらはどういうことなのか。

 唯物論の立場からすれば,この形而上学の時代なるものをどのように評価することができるか。



 この論点に関しては,まず全般的にいって,「形而上学の時代」とはどのような時代かについて確認しました。これに対してある会員は,ごく大雑把にいえば,デカルト以降,近代における哲学らしい哲学が行われるようになった時代であると述べました。また,思惟と存在の統一という課題に向かって主体的な努力がなされはじめた時代であるという見解も出されました。チューターは,教会の権威に頼るのではなく,自らの思惟を働かせて課題に取り組むようになったという点が重要であり,これが哲学らしい哲学ということにつながっていくのだとまとめました。

 次に,ヘーゲルのいう「形而上学」とはそもそもどのようなものかについて議論しました。これについては,世界の本質がどういうものなのかを見極めようとする学問であるという見解が出されました。これに対して,「世界の本質がどういうものなのかを見極めようとする学問」というのは一般的すぎるという批判がなされました。そもそも,本質という意識があったのかどうかも不明ですし,哲学と形而上学の関係をどのように考えるかという視点が欠けているということでした。これを踏まえて,感覚的(経験的)な世界の背後にある真実在の世界を対象にして普遍的な原理を探究する学問というくらいでいいのではないか,いわば形而上学とは哲学の核心的部分のようなイメージということでいいのではないか,ということになりました。

 この形而上学の問題について,チューターはが補足を行いました。ヘーゲルは「形而上学」という言葉を批判的に用いているとしたうえで,形而上学は,悟性的思考の立場にとどまっており,矛盾や対立の諸契機を含む対象をバラバラに,固定的・一面的にしか捉えられない,ヘーゲルにあっては,このような矛盾を捉えるのは理性であるとされている,ということでした。これはいわゆる,弁証法に対立する意味での「形而上学」という場合のニュアンスのことです。これに対して,ある会員は,ヘーゲルは別に形而上学自体を批判しているのではなく,古い形而上学を批判しているのであると反論しました。この会員は,南郷継正の「形而上学というのは,実体としてあるものを研究して,その論理構造を観念的に体系化したもの」という文言を紹介した後,ヘーゲルは,旧来の形而上学を批判しながらも,本来あるべき形而上学を構築しようとしたのだが,それは果たせなかったのだと主張しました。これには,皆が納得しました。

 続いて,形而上学には実体に向かおうとする傾向があるとはどういうことかについて議論しました。ある会員は,形而上学とはそもそも,感覚によって捉えられる諸々の事物・事象の背後に隠されている真実の姿(=実体)を探ろうとするものであったということを意味していると主張しました。別の会員は,実体(他のものに依存せず独立して存在するもの)としての存在と思考を統一しようとしたのだということだと述べました。チューターは,端的には一元論を目指すものであるとしたうえで,「実体」という原理から全てを説こうとした,哲学の原理となるべき「実体」とは何であるかを説こうとしたということだとまとめました。それぞれほぼ同じような中身であると確認しました。

 形而上学には実体性(実体を重んじる立場)と個体性(個体を重んじる立場)との対立があるとはどういうことかについては,もろもろ議論しましたが,よく分からない点が残りました。特に,ロックの哲学を形而上学といっていることについては,ロックの箇所を読んでみないと分からないということになりました。それでも一応,前者は,現象的な姿の背後にある実体レベルのものをまっすぐに追究していき,思惟(精神)と存在(物質)という問題につきあたって,両者を何とか統一しようと試みたのに対して,後者は思惟(精神)と存在(物質)という実体レベルの問題にぶつかりながらも,それをあくまでも個別的な人間の経験の問題として考えようとしているという理解でおおよそいいのではないか,ということになりました。

 最後に,唯物論の立場からこの形而上学の時代なるものを評価するとどうなるかという問題を考えました。チューターは,中世期の人間の自然化の結果,自己と世界,主観と客観を精神と物質という形で俯瞰できる認識能力が培われたのであり,その認識能力をもってして,世界全体についての思索を深めていった時代だと述べました。別の会員は,端的には,人間が人間としての自信を土台に,人間に対峙するこの世界の実体(世界の真実の姿)は何なのか,という本質的な問いを発するようになった時代だと主張しました。そのうえで,中世期における長い長い社会的労働の積み重ねによって,人間は世界を能動的に変革する主体としての自己という意識を培ってきた,自己がキリスト教の絶対的権威によって抑えつけられていた状況が打破されたことで,カトリック教会のいうことを無批判に受け入れて世界を理解しようとするのではなく,世界との間で生き生きとした相互浸透関係をもっているほかならぬ自己自身の立場から,世界の実体とは何か,という問いかけが発せられるようになったのだと説きました。これに皆は納得しました。

 以上で論点1に関する議論を終了しました。

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2016年08月03日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって,今回扱ったヘーゲル『哲学史』のデカルト・スピノザの部分の要約を掲載してきました。ここでもう一度,重要な部分をまとめておきたいと思います。

 はじめに,思惟する悟性の時期の特徴が概観されていました。そこでは,デカルトとともに,理性を自立的な出発点とし,自己意識が真理の本質的契機であることを自覚している本格的な哲学に足を踏み入れると説かれていました。ただし,まだまだ哲学の原理が,思惟の必然性に依拠して首尾一貫した方法的発展の道筋をたどるのではなく,内外の経験からも内容を得てくることがあると,その限界も説かれていました。

 デカルト哲学が属するのは,形而上学の形式ですが,ヘーゲルによると形而上学は実体への傾向にほかならず,二元論に反対して,ひとつの統一,ひとつの思惟を確立しようとする,ということでした。

 デカルトに対して,ヘーゲルはものごとをもう一度全くはじめからやりなおし,哲学の土台を新しく形成した巨人であると高く評価していました。デカルトの核心をなすのは,全ての前提を排し,自由で単純で誰にも分かるやり方をもちいて,誰でも思いつく思想や全く単純な命題を出発点として,対象となる内容を思想と延長(あるいは存在)に還元し,思想にいわばその対立物をぶつけた点にあると説かれていました。

 人はただ思惟そのものから出発しなければならないことをデカルトは,「一切を疑わなければならぬ」と表現しているとヘーゲルは説いていました。そして確実で真なるものを求めて,「我思う,ゆえに我あり」という認識に到達したのでした。「我思う」は,直接に私の存在を含んでおり,これが全ての哲学の絶対的基礎だとデカルトは述べていたということでした。

 デカルトは,事物を二つに分けて,思惟するものと延長をもつものという二つの実体を措定しました。この2つが実体と名づけられるのは,それぞれがそれ自体でひとつの全域,全体をなすからであり,互いに相手を必要としないからだとされていました。しかし,この二つの実体をうまく統一できなかったとヘーゲルは説いていました。すなわち,デカルトは,抽象的な自己と外部の個物を結合する中間項が神であるとしたが,神が第三者として両者の外に現れることとなったために,統一が概念化されることはなく,思惟と身体が概念として捉えられることもなかったのだ,と説かれていたのでした。

 続いてヘーゲルは,スピノザの哲学の解説に移っていきました。ヘーゲルによると,スピノザの哲学は,もっぱらデカルト哲学の原理を首尾一貫した体系へと展開したものであり,デカルトの体系中に存在した二元論は,スピノザによって全く止揚されてしまった,ということでした。つまり,スピノザの哲学は,真なるものは端的にひとつの実体であり,この実体は思惟と延長を属性とする,それらの絶対的統一体が現実であり,それが神にほかならない,と定式化できるのでした。このように二元論を克服した点を評価しながらも,ヘーゲルは,絶対的実体が真理の全体を覆うものとなるためには,内部に活動と生命をもつような精神としても定義されなければならないのに,スピノザの実体は,一般的抽象的に定義されものにすぎず,硬直した実体の立場にとどまるものであると批判もしているのでした。

 ヘーゲルは,スピノザの『エチカ』は定義から始まるとして,その展開を紹介していました。最初の自己原因については,他者を分離しながら同時に自己自身を生み出し,かくて生み出すことにおいてこの差別を止揚する原因であり,原因と結果が一致するような無限の原因であると説き,高く評価していました。その後,有限なものや実体,属性や様相などについて説かれていくのでした。ヘーゲルはこれらの定義について,全体として形式的であり,定義から始めたところにスピノザの欠陥があると説いていました。スピノザは,単純な思想を説明し,それを具体的に表現するような定義を打ち立てはしたが,要求されるのは,この内容が真理かどうかを探究することであるというのです。

 定義の後には命題が来るのでした。スピノザは実体なる普遍的なものから下り,思惟と延長なる特殊なものを経て,個別的なものに達しますが,彼は個別性に該当する様態を本質的なものとは認めず,様態を概念には高めないとヘーゲルは批判していました。スピノザにとって,神の本質とは神の絶対的な力であり,神にあっては,現実と可能,思惟と存在がひとつであったのでした。ここでヘーゲルは,全て規定は否定である,というスピノザの言はとりわけ特異なこととして注目せねばならないと述べていました。

 スピノザの難点について,ヘーゲルは,属性がなぜ思惟と延長の2つだけなのかを示せていないこと,絶対的実体と属性と様態とを定義として順次に並べ,これを与えられたものとして受け取り,属性を実体から,様態を属性から引き出すことをしないことを挙げていました。

 最後にヘーゲルは,スピノザ哲学に対する批判を取り上げていました。第一に,スピノザ主義は無神論であるという批判について,神のみが実体的なものとして永続することが許され,世界は何ら真実なる現実性をもたないとされるのだから,むしろ無宇宙論と呼んだ方がよいとしていました。第二に,スピノザはその哲学の叙述のために幾何学の証明法を用いたが,これは思弁的内容には役立たぬものであると説いていました。スピノザは,一切の規定はそのうちに否定を含む,という偉大な命題を立てたが,否定は否定の否定であり,それによって真の肯定となる,という否定的な自己意識の契機を欠いていたとヘーゲルは批判していたのです。最後に,主観性,個体性,人格性の原理,本質における自意識の契機がスピノザにあっては根絶されてしまった,実体は自己を展開せず,精神的な活動性には到達しない,とヘーゲルは説いていました。

 以上,今回扱った内容を再度まとめ直しました。

 2016年7月例会の場では,おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて,参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され,議論がたたかわされました。これから,その内容を大きく3つの論点に沿って整理した上で,紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し,次回以降,討論の具体的な内容を紹介していくことにします。


論点1:形而上学の時代とはどういうものか?

 ヘーゲルが,「思惟する悟性の時期」(思考する知性の時代)の第一の次期として位置づけた形而上学の時代とはどういうものか。そもそもヘーゲルのいわゆる形而上学とはどういうものなのか。ヘーゲルは,形而上学は実体に向かおうとする傾向がある,形而上学そのもののうちに,実体性(実体を重んじる立場)と個体性(個体を重んじる立場)との対立があるなどと述べているが,これらはどういうことなのか。

 唯物論の立場からすれば,この形而上学の時代なるものをどのように評価することができるか。



論点2:デカルトの哲学とはどういうものか?

 ヘーゲルは,デカルトの形而上学をどのように捉えているのか。「一切を疑わねばならない」(p.78)とは,デカルトのどのような考えを表現したものだとされているか。デカルトの「われ思う,ゆえにわれあり」という命題を推理(推論)であるとする見解(思考〔思惟〕から存在が出てくると考える見方)について,どのように批判しているのか。ヘーゲルの考える思考(思惟)と存在との不可分の結合とはどういうものであり,その観点から,このデカルトの命題をどのように捉えているのか。

 唯物論の立場からすれば,デカルトの哲学をどのように評価することができるか。



論点3:スピノザの哲学とはどういうものか?

 スピノザはデカルトの哲学をどのように受け継いだとヘーゲルは説いているか。ヘーゲルは,スピノザの哲学を無神論と見なす見解に対して,それは正鵠を射ておらず,むしろ無宇宙論というべきものだ,と述べているが,これはどういうことなのか。また,スピノザの「規定はすべて否定である(すべての限定は否定である)」という命題をどのようなものとして捉えているのか。否定の否定としての矛盾を捉えていない,と批判しているようであるが,これはどういうことなのか。自己意識の問題はここにどのように絡んでくるのであろうか。

 唯物論の立場からすれば,スピノザの哲学をどのように評価することができるか。


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2016年08月02日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約C

 前回は,ヘーゲルがスピノザについて説いている箇所の前半部分の要約を紹介しました。そこでは,スピノザの哲学は,デカルト哲学の原理を首尾一貫した体系へと展開したものであり,神という一つの実体を措定し,思惟と延長はその属性であると位置づけたこと,自己原因とは,他者を分離しながら同時に自己自身を生み出し,生み出すことにおいてこの差別を止揚する原因であるとスピノザは説いていたこと,定義からはじめたところにスピノザの欠陥があることなどが説かれていました。

 さて今回は,スピノザについて説かれている後半部分の要約を紹介します。ここでは定義の後に来る命題について,スピノザの道徳論について,スピノザ哲学に対する批判について,説かれていきます。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二,命題

 定義の後に命題が来る。スピノザは実体なる普遍的なものから下り,思惟と延長なる特殊なものを経て,個別的なものに達する。しかし,彼は個別性に該当する様態を本質的なものとは認めず,様態を概念には高めないのである。

 (a)要点は,定義された概念から,神という唯一の実体が存在するのを証明することである。論理は単純で,極めて形式的である。神は必然でもあれば自由でもある,とスピノザはいう。神の本質とは神の絶対的な力であり,神にあっては,現実と可能,思惟と存在がひとつである。神は自分が創造しえなかったような思惟をもつことはない。神は,特定の目的や内容を追求する知恵の対極にある,絶対的な力である。全て規定は否定である,というスピノザの言はとりわけ特異なこととして注目せねばならない。神は世界の原因であるといえば,神は有限なものとなってしまう。世界が神とは別のものとして並び立つことになるからである。

 (b)スピノザにおける最大の難点は,規定されたものの神に対する関係を捉え,しかもこの規定されたものがなお存続を保つように捉えることである。同一実体が,思惟の属性の下においては叡智界であるが,延長の属性の下においては自然であり,こうして自然と思惟の両者は神の同一の本質を表現する。この2つがどのようにして唯一の実体から生ずるかは,スピノザは示さない。また,なぜそれがただ2つでのみあり得るかも明らかにしないのである。スピノザは,絶対的実体と属性と様態とを定義として順次に並べ,これを与えられたものとして受け取り,属性を実体から,様態を属性から引き出すことをしない。その上,また特に属性に関しては,それがまさに思惟と延長であるという必然性が存在しないのである。

 (c)スピノザの個物,とりわけ自己意識への移り行きについていえば,彼は個々の事物を確立するというよりも,規定された事物ないし性質の全てが実体に還元されるという否定面を強調する。スピノザは,各属性には2つの様態がある,という。延長には静止と運動があり,思惟には悟性と意志がある,と。それは単に我々にとってのみ存在するもので,神の外にある様態にすぎない。これをスピノザは「所産的自然」という言葉で一括する。「能産的自然」とは自分のうちにあり,自分によって捉えられる,自由な原因としての神のことであり,永遠かつ無限の本質を表す実体の属性のことである。「所産的自然」とは,神の本性の必然性ないし神の各々の属性から生じてくる全ての様相のことであり,それらは神のうちにあり,神なくしては存在もしないし,認識もされないのである。

 スピノザは,様相,悟性,意志,感情,喜び,悲しみ,等々について名目上の定義を与え,意識について考察する。彼はただちに精神からはじめ,人間の本質は神の属性の様態からなる,という。この様態は人間の悟性との関係においてはじめて生じるものである。人間精神があれこれのものを知覚するというのは,無限なものとしてではなく,人間精神という形をとった神が,あれこれの観念をもつということにほかならない,という。
 人間の意識における思惟と延長の関係について,スピノザは,人間の精神を構成する観念の客体は身体である,さもなければ,人間精神を構成する神のうちにあるのは,身体の状態に関する観念ではない(身体の状態に関する観念が人間の精神のなかにない)ことになってしまう,という。一面において思惟と存在が絶対的同一性だとされるのに,他面において,それぞれが神の全本質を表わすがゆえに相互に絶対的に無関係だとされてしまうのである。
 個体ないし個物についてスピノザは,いくつかの物体が他からの圧力によって互いに統一されまとまったものだ,と規定する。個体や一が単なる寄せ集めにすぎず,ベーメの自我とは正反対の,自己意識のないものになる。スピノザは硬直した実体を無限と考えはしたが,それとは別の形式の無限は知らなかった。

三,道徳論

 有限な精神は,認識と意志を神に向け,神の観念を真に認識するときに道徳的真理を獲得する。混乱した観念である感情(特に波立ちが激しいのが喜びと悲しみ)が人間の行動を左右するとき,人間は受動的な不自由のなかにある。我々の幸福と自由は,神への絶えざる永遠の愛のうちにある。精神が一切の事物を必然的なものとして眺めるかぎり,それだけ精神は恣意的で偶然的な感情の力を支配する大きな力を獲得する。これこそ精神の神への還帰であり,これこそ人間の自由である。
 スピノザは,神のなかでは一切が一であり,善悪の区別が消滅する,という主張に反論する。神は,絶対的で真なる自己原因で,内部に実質(肯定的な実在)を含む一切のものの原因であるが,悪や誤謬や悪徳は,単に否定,欠如,限定,有限,様態にすぎず,それ自体として真に実在的なものではないから,神が悪の原因とはいえない,というのである。神こそは欠如なき実在なのだから,とは上手いいい方ではあるが,充分に納得できるものではない。

〔スピノザ哲学の一般的批判〕
 第一に,スピノザ主義は無神論であるとの批判がある。神と世界が区別されず,自然を神として神を自然に引き下ろす,したがって,神が消え失せてただ自然のみが立てられる,というのである。しかし,スピノザにおいては,神こそが絶対的真実であって,自然も人間精神も個人も特殊な形で顕われた神だとされるのである。神のみが実体的なものとして永続することが許され,世界は何ら真実なる現実性をもたないとされるのだから,むしろ無宇宙論と呼んだ方がよい。
 第二に,スピノザはその哲学の叙述のために幾何学の証明法を用いたが,これは思弁的内容には役立たぬものであった。スピノザが出発点とする諸々の定義は,幾何学が線や三角形からはじまるように,頭から採用され前提されるのみで,演繹されず,その必然性において証明されない。スピノザは,一切の規定はそのうちに否定を含む,という偉大な命題を立てたが,否定は否定の否定であり,それによって真の肯定となる,という否定的な自己意識の契機――思惟されたものに即して経過する認識の運動――を欠いていた。数学と同様,証明することはできても,事柄を概念的に把握することはできない。否定の否定は矛盾である。単純な規定性としての否定を否定すると,一面では肯定であるが,他面ではまた総じて否定一般でもある。この理性的な矛盾がスピノザには欠けているのである。そこには,無限の形式,精神性,自由が欠けている。
 否定が一面的に捉えられた結果,第三に,主観性,個体性,人格性の原理,本質における自意識の契機がスピノザにあっては根絶されてしまった。スピノザにおいては,絶対的普遍的実体のみが真に現実的なものであり,主観,精神等々といった場合の特殊なもの,個別的なものは,他に依存する制限された様態として,自立的に存在するものではないから,心も精神もそれが個別的存在である限り,一切の規定されたものと同様,単なる否定にすぎないのである。一切の規定は唯一実体に還元されるだけで,スピノザの体系においては一切が絶滅の深淵に投げ込まれてしまう。しかし,そこからは何も出て来ない。唯一実体から特殊的なものが演繹されるのではなく,眼前に見出された表象から正当な理由もなく特殊的なものが取り上げられるだけである。実体は自己を展開せず,精神的な活動性には到達しない。スピノザの哲学はただ硬直した実体をもつのみで,いまだに精神をもたないのである。


3,マルブランシュ

 マルブランシュの哲学はスピノザ主義と全く同一の内容を有するが,それとは違って敬虔な神学的形式をとった。このため,スピノザのように無神論という非難を浴びることはなかった。
 
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2016年08月01日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約B

 前回は,デカルト哲学の中身について説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは,デカルトの出発点は,思想は自己自身からはじめられなければならないという点にあったこと,絶対に確実な「我思う」は,直接に私の存在を含んでおり,これが全ての哲学の絶対的基礎だとデカルトが説いていたこと,事物は思惟するものと延長をもつものという2種類に分けられるとされていたことなどが説かれていた。

 今回は,スピノザについて説かれた部分の前半の要約を紹介します。ここでは,スピノザの生涯やスピノザが『エチカ』の中で説いている定義についてヘーゲルが説いていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2,スピノザ

 スピノザの哲学は,もっぱらデカルト哲学の原理を首尾一貫した体系へと展開したものである。彼にとっては,魂と身体,思惟と存在とは,もはや,それぞれが別物として独立に存在するものではなくなる。デカルトの体系中に存在した二元論は,スピノザによって全く止揚されてしまった。それはいかにもユダヤ人にふさわしい。ヨーロッパにおいて表明された彼の哲学のこの深い統一,すなわち,神を第三者として設定するのではなく,神のうちで無限と有限が精神的に一体化するという発想からして,東洋的な余韻が感じられる。絶対的同一性という東洋の世界観が,ヨーロッパのデカルト哲学のすぐ近くに引き寄せられ,そのなかに取り入れられるのである。

〔スピノザの生涯〕
 彼は1632年アムステルダムにおいてあるポルトガルから移住したユダヤ系の家族から生まれた。青年時代にラビ(ユダヤ教の聖職者)から教育を受けたが,まもなくタムルード(経典)学者の夢想に異を唱えたために,シナゴーグ(会堂)から破門された。かといってキリスト教に移ったわけではなく,ラテン語に身を入れ,デカルトを研究した。後に,ライデンのリンスブルグに移り,多くの友人の尊敬を受けつつ,静かに暮らした。彼はみずからレンズ磨きをしながら生計を立てた。プファルツ選帝侯カール・ルードヴィヒはスピノザをハイデルベルグ大学に招聘しようとしたが,スピノザはこの申し出を断った。彼は長く患った肺結核が原因で,1677年2月21日,44歳で亡くなった。

 スピノザの哲学は極めて単純であり,全体として理解しやすいものである。スピノザの哲学は,デカルトの哲学を絶対的真理という形式のうちに客観化したものである。スピノザの観念論を簡単にいえば,真なるものは端的にひとつの実体であり,この実体は思惟と延長を属性とする,それらの絶対的統一体が現実であり,それが神にほかならない,と定式化できる。デカルトにあっては,物体性と思惟する自我とはそれだけで自立的なものであるが,両極端のこの自立性がスピノザにあっては唯一の絶対者の契機となることによって自己を止揚する。大切なのは,対立を廃棄することではなく,対立を媒介し解決することなのである。
 スピノザの理念は,エレア派の有と同一のものである。絶対的実体が真理の全体を覆うものとなるためには,内部に活動と生命をもつような精神としても定義されなければならない。しかし,スピノザの実体は,一般的抽象的に定義されものにすぎず,精神の基盤をなすとはいえるが,絶対的な土台となるような確固たる基礎ではなく,精神の内部にある抽象的統一体にすぎない。そのような実体のもとにとどまるかぎり,いかなる発展も精神性も活動も生まれてこない。彼の哲学は,硬直した実体の立場にとどまるもので,神は三位一体の精神的存在になっていない。

一,定義

 スピノザの『エチカ(倫理学)』は定義から始まる。展開は以下のようである。
 (a)自己原因。「自己原因とは,その本質(概念)が存在を含むもの,存在しないとは考えられないものである。」自己原因とは,他者を分離しながら同時に自己自身を生み出し,かくて生み出すことにおいてこの差別を止揚する原因であり,原因と結果が一致するような無限の原因である。自己原因の意味するところをスピノザがもっと掘り下げていたら,彼のいう実体はあれほど硬直したものにはならなかったはずである。
 (b)有限なもの。「有限なものとは,同種の他者によって制約されたものである。」他との関係が生じるところにしか,制約(限界)は存在しないのである。
 (c)実体。「実体とは自己のうちにあり,それを捉えるのに他のものの概念を必要としないもののことである。」他を必要とするものは,自立せず,他に従属したものである。
 (d)実体に対する第二のものとしての属性。「属性とは悟性が実体についてその本質を構成するものとして捉えるものである。」属性には思惟と延長の2つしかなく,その2つが悟性によって実体の本質と捉えられる。実体のこの2つの側面は,もともと表裏一体をなす無限の性質である。ここに実体は真に完成された姿を現し,悟性は属性のうちに実体の内容全体を捉えるのだが,実体がどこで属性に移項するのかは述べられていない。
 (e)実体に対する第三のものとしての様相。「様相とは実体が形を変えたものであり,他なるもののうちにあり,他なるものにとらわれた姿である。」様相は,他なるものを通じて,他なるもののうちに存在する実体の姿である。実体,属性,様相の定義は特に重要で,それらはそれぞれ,普遍,特殊,個別と呼ばれるものに対応する。スピノザは,このように実体から下りてくるのであり,様相は退化したものとされる。彼の欠点は,第三の存在を,悪しき個別たる様相としてしか捉えない点にある。真の個別性(主観性)は,端的に規定されて普遍から遠ざかるだけでなく,端的に規定されたものとして独立自存し,自己自身を規定するものである。個別的なもの,主観的なものは,普遍的なものへ返っていくのであり,個別的なものは,自己自身のもとにあることによって普遍的なものである。スピノザにはこの返っていく過程がない。硬直した実体こそスピノザにとっては究極の存在で,それが無限の形式をとることがない。スピノザの思惟は規定されたものを消し去っていくようなものでしかなかったのである。
 (f)無限。無限なものは,無限大ととるか即自且対自的に無限なものとしてとるか,曖昧な点がある。「その種において無限なるものについては無限の属性をもつとはいえない。しかし絶対的に無限なるものは,本質を現わし,かつ何らの否定をもふくまない一切のものを包み込んでいる。」スピノザはさらに想像上の無限と思惟上の無限を区別する。ほとんどの人が想像上の無限にしか思い当たらないのであるが,これは例えば,星から星への無限の空間とか,無限の時間とか,数学の無限数列とかであるが,実をいうと悪しき無限である。この無限がそっくりと眼前に現われることはなく,次々と否定を重ねていくだけで,現実の無限とはいえない。哲学的無限だけが現実の無限であり,自己肯定の無限である。悟性の無限をスピノザは絶対の肯定と名づけるが,これはまさにその通りである。惜しむらくはもっと良い表現があるということで,「それは否定の否定である」というべきところである。無限が現実に存在するものとしてイメージされるべきだとすれば,「自己原因」という概念こそ真の無限である。
 (g)「神は絶対的に無限な存在であり,無限の属性からなる実体であって,属性の各々は永遠にして無限の本質を表わしている。」神は2つの属性(思惟と延長)しか持たないとされるのだから,ここで無限とは無規定的な多ということではなく,積極的に,例えば円が自己内における完全な無限であるようにとらねばならない。

 スピノザの哲学の全体の以上の定義のなかに含まれているが,以上の定義は全体として形式的である。定義からはじめたところに彼の欠陥がある。彼は,単純な思想を説明し,それを具体的に表現するような定義を打ち立てはしたが,要求されるのは,この内容が真理かどうかを探究することである。
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<講義一覧>

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 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
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 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
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 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
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 ・2010年8月例会報告
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 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
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 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
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 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
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 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
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 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
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 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
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 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
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 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言