2016年07月28日

夏目漱石の中・長編小説を読む(16/16)

(16)漱石の苦闘の過程を主体的に受け止め「現実世界」の変革へ

 本稿では、漱石が後世に託した自己の理想を現代に生きる我々はどのように受け止めるべきなのか、という観点から、漱石の中・長編小説を順番に読んできました。

 漱石の文学者としての生涯は、個人の自由な発展を阻む要素に満ち満ちている現実世界に対して、自己(漱石)がどのように対峙していけばよいのか、という問題をめぐる苦闘の過程にほかならなかったといえます。この過程を、『吾輩は猫である』から『明暗』までの発展の流れとして、改めてまとめなおしてみましょう。

 『吾輩は猫である』において漱石は、人間社会のあらゆるしがらみから自由な猫の視点を借りて、人間社会をまるごと笑い飛ばすようにして批判しました。しかし、それは、猫的偏見に制約されたものにしかならず、現実世界の変革とは無縁なレベルで空回りするものでしかありませんでした。

 人間社会に主体的に働きかけていけるのは人間だけです。漱石は、次作『坊っちゃん』で、曲がったことの嫌いな坊っちゃんを主人公にしますが、「江戸っ子」である坊っちゃんが、明治日本の醜悪な現実に対して癇癪を爆発させるというものにしかなりませんでした。

 醜悪な現実世界に直情的に突っ込んで敗北してしまった『坊っちゃん』の後、漱石は、醜悪な現実世界から距離を置こうとするかのように、『草枕』を書きます。この作品のキーワードたる「非人情」は、アダム・スミスのいわゆる「公平な観察者」の視点に通ずるものでした。明治日本の醜悪な現実に対して激しい怒りを燃やしていた漱石は、猫的な観察者から江戸っ子的な観察者へという過程を経て、「公平な観察者」の必要性に突き当たったのです。

 しかし、この時点の漱石は、「公平な観察者」的な立場を追求していくには、まだあまりに、崇高な理想に燃える文学者としての矜持が強すぎました。漱石は、「非人情」の世界での一時的な休息を挟んで、『二百十日』『野分』において、文学者としての自己の理想を強烈に表現したのでした。

 職業作家としての第一作である『虞美人草』において、漱石は、悲劇を通じてこそ個人の道義的実践が可能になり、社会を真正の文明に導くことができるのだ、という思想を展開しました。しかし、登場人物の造形にしろ物語の筋立てにしろ、力が入りすぎて硬くなってしまった感は否めませんでした。

 次作『坑夫』は、力みすぎて硬くなってしまった『虞美人草』の徹底して逆をいくことで、柔軟性のきわみのようなものの見方・考え方を獲得した作品でした。漱石は、上流階層の坊っちゃんをあえて社会の最底辺にまで突き落とし、その自負心を完膚なきまでに解体させることによって、美醜や貴賤によって人間を差別するような偏見を徹底して否定する立場を主張したのでした。

 続く『三四郎』において、自己と現実世界との関わり方が自己とある特定の異性との関わり方によって象徴される(ある特定の異性が現実世界との接点としての位置づけを与えられる)、というテーマが明瞭に打ち立てられます。いわゆる前期三部作(『三四郎』『それから』『門』)および後期三部作(『彼岸過迄』『行人』『こころ』)は、このテーマを徹底的に深く追究していく過程にほかなりませんでした。

 『三四郎』の三四郎は、現実世界に積極的に斬り込んでいきたいという思いを持ちつつも、それに伴う危険も見えているために踏ん切りがつかないという矛盾を抱えていました。三四郎が逡巡という形で自己のうちに抱え込んでいた矛盾は、続く『それから』において、自己対現実世界との矛盾(闘争)に転化されます。自分の愛する女性を友人に譲ってしまったことで現実世界とまともに向き合えなくなっていた代助は、その女性を取り戻すために、現実世界との激烈な闘争関係に突入することを覚悟するのでした。『門』では、この闘争の行く末が追究されます。友人の妻を奪ってしまった結果、否応なしに現実世界との激烈な闘争関係を経験せざるを得なくなった宗助は、何をやっても思い通りにいかないという現実に直面させられるなかで、現実世界との積極的な関わりを次第に断ち切っていき、いわば世間から隠れるようにして御米との幸福な夫婦生活を築いていきました。しかし、現実世界とのつながりは断ち切ろうと思っても絶対に断ち切れるものではないことが暴かれるのでした。

 「修善寺の大患」を挟んでの後期三部作では、自己と現実世界との闘争という形に転化させられていた矛盾が、再び自己内の矛盾に引き戻されて深められていきます。同時に注目されるのは、物語世界が、複数の視線が交錯するような立体的な構造をもったものとして構成されていることです。

 『彼岸過迄』の須永は、「胸(ハート)」で従姉・千代子を求めてやまないにもかかわらず、「頭(ヘッド)」に押さえつけられてしまう、という苦悩を語りました。『行人』では、特定の異性との関係に現実世界との関係を象徴させてみるというテーマが極限にまで掘り下げられ、主観対客観という「哲学」的なレベルにまで深められます。大学教員・長野一郎は、長男として甘やかされて育った結果、周囲の全てのものごとが絶対的存在たる自己の思い通りになるべきだ、というわがままさを把持し、それを哲学的思索によって理論武装していたのですが、自分の思い通りになって当然であるはずの妻が思い通りにならないことから調子を狂わせてしまい、自己(主観)と現実世界(客観)との関係に根本的に苦悩することになったのでした。『こころ』において、漱石はついに、自己対現実世界との関係に悩む主人公を自殺に追い込んでしまいます。先生(姓名不詳)は、自然な感情の発露を押しとどめてしまう「明治の精神」――形式ばかりを気にしてしまうために、他者との間で本当に打ち解けた関係を築いていくことを阻んでしまうような社会的認識のあり方――に殉じたのであり、我々の世代を反面教師にして、自然な感情の発露を大切にして良好な(本当に心の底からうち解けた)人間関係を築いていってもらいたいという期待を、若い「私」に託したのでした。

 このように、現実世界と自己との関わり方の難しさ――金力・権力が支配する世界と、全ての個人の自由な発展を願う自己との対決の厳しさ――を徹底して追究していった果てに、『こころ』においてついに主人公を殺してしまった漱石は、新たな物語世界の創造へと向かうためには、一度、自分自身の人生を厳しい批判の目で振り返ってみなければならなくなったのです。その課題を果たしたのが『道草』でした。『道草』では、「公平な観察者」的な視点から、周囲の人間よりも自分は立派な人間だという健三(漱石)の思い上がりが批判されていくと同時に、健三(漱石)にしか果たせない課題――片がつくという現象の背後にある片づかないという構造の追究――が鮮明に浮かび上がらされます。そして、『道草』で獲得した「公平な観察者」的な視点でもって、改めて、金力・権力が支配する世界に対して正面から闘争を挑んでいったのが、未完の大作『明暗』にほかならなかったのです。

 以上、『吾輩は猫である』から『明暗』までの流れをざっと振り返ってみました。端的にいえば、漱石の文学者としての生涯は、個人の尊厳を踏みにじる現実世界の根本的な変革という課題を確固として掲げ続けながらも、具体的にどのようにして変革していけばよいのかが見えてこないために苦しみ続けた過程であったといえます。漱石は、そうした苦闘の過程で、自己自身に対しても厳しい批判の目を向けていくことになっていったのでした。しかし、漱石は、どんなに苦しくても決して諦めずに、変革への道を模索し続け、後世の人々の魂を動かすべく、創作に挑み続けたのです。その思想的な強靭さは、実に見事なものがあるといわなければなりません。

 漱石の死から100年の後に生きる我々に鋭く問われているのは、こうした漱石の苦闘の過程を主体的に受け止めることができるかどうか、ということなのです。本稿の連載初回で紹介した「文芸の哲学的基礎」の最後の部分で、漱石は、文芸(文学)というものは、高い理想を抱きながらそれを現在の世にの中に実現することが出来ない者が、作物を通じて後世に働きかけようとするものにほかならない、としていました。作家の理想が作品を媒介にして読者の心を動かすならば、「社会の大意識」に影響して「永久の生命を人類内面の歴史中に得」るだろう、というのです。個人の尊厳の確立を目指した漱石の思想が、「人類内面の歴史」において永久の生命を得るか否かは、我々が漱石の小説作品を主体的に読み取ることができるかどうかにかかっているのです。

 漱石没後100年という記念すべき年にあたって、漱石の小説作品は、改めて大きな注目を集め、広く読み直されようとしています。しかし、漱石の小説作品を、単に人間の内面を深く掘り下げたものとして読むだけでは、決定的に不充分だといわなければなりません。漱石は、決して人間の内面のみを見つめていたのではなく、個々人を取り巻く日本社会の有様、さらには日本という国家を取り巻く世界全体の情勢の有様に常に強い関心を持ちつづけていました。漱石の小説作品は、漱石の思想――金力・権力の支配が個人の尊厳を奪っている社会の現状への激しい憤り、個人の尊厳が確立される社会への変革――と切り離して読むことはできないのです。

 漱石の死から100年が経過しましたが、現代の日本においても、世界においても、いまだに金力・権力の横暴な支配によって個人の尊厳が踏みにじられるという状況が続いているといわざるをえません。むしろ、資本主義経済の行き詰まりや世界情勢の混迷のなかで、状況はますます厳しくなっているともいえるのでしょう。漱石が小説作品を通じて遂行しようとした「百年計画」は、未完のままなのです。現実世界に我々自身はどのように対峙していくべきなのか。個人の尊厳が真に確立される社会に向けて、社会をどのように変革していけばよいのか。このような問題意識を明確に把持してはじめて、漱石の小説作品をまともに読んでいくことができるのであり、そうしてこそ、漱石の思想を「人類内面の歴史」において永久の生命を持ったものにしていくことができるのです。

(了)
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 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言