2016年07月19日

夏目漱石の中・長編小説を読む(7/16)

(7)『坑夫』――硬直したものの見方・考え方を突き崩す

 前回は、漱石の職業作家としての第一作である『虞美人草』を取り上げました。これは、小刀細工の好きな人間は死に突き当たるしかない、死に突き当たらなければ浮ついた不真面目さはなくならないものだ、という思想を展開した作品にほかなりませんでした。そして、その根底には、明治維新以降の皮相上滑りの開化によって埋没させられてしまった古き良き日本の道義を復活させるためには、悲劇を媒介とするほかなさそうだ、という漱石の苦しい思いがあったのではないか、ということでした。

 さて、今回は『坑夫』を取り上げます。これは、1908年(明治41年)の元旦から4月6日まで、「朝日新聞」に連載されたものです。

 『坑夫』は、『虞美人草』の小野さんを思わせる恋愛事件(三角関係のもつれ)の結果、家出を余儀なくされた青年(名前は明らかではありません)が、ポン引きの長蔵さんに誘われるまま坑夫として働くことを承諾し、鉱山(足尾銅山がモデルとされます)へと向かう、といった筋書きになっています。

 この作品の特徴を端的にいうならば、『虞美人草』の対極にある作品、すなわち、『虞美人草』の限界を踏まえ、あえて全く逆の方向を模索した作品である、ということができるでしょう。職業作家としての第一作であった『虞美人草』は、登場人物の造形にしろ物語の筋立てにしろ、力が入りすぎた感は否めませんでした。登場人物の性格は確固として明瞭であり、様式美を感じさせるほどに勧善懲悪の筋が鮮明でした。これに対して『坑夫』は、明瞭な筋らしい筋がなく(時間の経過にしたがって出来事を淡々と書き連ねているだけ、といった印象です)、人間の心は変わりやすいものでまとまった性格などないのだということが、随所で強調されています。主人公の独白のなかで、小説ではなく事実だ、と繰り返し強調されているのは、如何にも物語らしく拵え上げた諸々の小説なるものへの批判であるのはもちろん、何よりもまず、漱石自身の前作『虞美人草』の硬直性(わざとらしさ)への反省が込められたものとして受け止めるべきだと思われます。そのような意味において、この『坑夫』は、小説としての出来栄えを云々する以前に、漱石文学の発展過程における必然的な経過点として捉えるべき作品であるといえるかもしれません。かなり硬直的であった『虞美人草』に対して、徹底的に型を崩した、流動性そのものといってよいような『坑夫』を書くことによってはじめて、次作『三四郎』以降への発展の道が切り拓かれたのです。

 しかし、この徹底的な流動性というものは、単なる『虞美人草』へのアンチテーゼという消極的な意味を持つものにとどまりません。硬直したものの見方・考え方を突き崩してこそ社会の真実を見究めることができる、という積極的な主張が込められていることを見逃してはならないのです。

 そもそも、上流階層の「坊っちゃん」が社会の底辺たる坑夫になろうとするという設定そのものが、漱石の社会への見方、ハッキリいえば、社会的格差への批判的な眼差しを表わしているといえます。『坑夫』の主人公は、『虞美人草』の小野さんを思わせる恋愛事件(三角関係)の結果、明るい社会にいられなくなり、暗い方へ暗い方へと向かっていきます。主人公には当初、上流階層の自分は赤毛布や小僧(主人公と同じく、ポン引きの長蔵さんに坑夫にならないかと誘われる若者たち)などとは全く別ものだ、という意識(優越感、自負)が強烈にありました。坑夫に対しても相当に軽蔑的な視線が感じられます。しかし、赤毛布や小僧とともに鉱山を目指す道中で、さらに、実際に坑夫の世界に投げ込まれ、坑夫たちとの様々な交流を行うなかで、そうした意識は次第に解体されていくのです。

 長蔵さんが赤毛布を誘う場面は、主人公の自負心、優越感が崩壊していく重要な場面のひとつといえます。

彼れはこの酒、めし、御肴の裏から飛び出した若い男を捕まえて、第二世の自分であるごとく、全く同じ調子と、同じ態度と、同じ言語と、もっと立ち入って云えば、同じ熱心の程度をもって、同じく坑夫になれと勧誘している。それを自分はなぜだか少々怪しからんように考えた。その意味を今から説明して見ると、ざっとこんな訳なんだろう。――
 坑夫は長蔵さんの云うごとくすこぶる結構な家業だとは、常識を質に入れた当時の自分にももっともと思いようがなかった。まず牛から馬、馬から坑夫という位の順だから、坑夫になるのは不名誉だと心得ていた。自慢にゃならないと覚っていた。だから坑夫の候補者が自分ばかりと思いのほか突然居酒屋の入口から赤毛布になって、あらわれようとも別段神経を悩ますほどの大事件じゃないくらいは分りきってる。しかしこの赤毛布の取扱方が全然自分と同様であると、同様であると云う点に不平があるよりも、自分は全然赤毛布と一般な人間であると云う気になっちまう。取扱方の同様なのを延き伸ばして行くと、つまり取り扱われるものが同様だからと云う妙な結論に到着してくる。自分はふらふらとそこへ到着していたと見える。長蔵さんが働かないかと談判しているのは赤毛布で、赤毛布はすなわち自分である。何だか他人が赤毛布を着て立ってるようには思われない。自分の魂が、自分を置き去りにして、赤毛布の中に飛び込んで、そうして長蔵さんから坑夫になれと談じつけられている。そこで、どうも情けなくなっちまった。自分が直接に長蔵さんと応対している間は、人格も何も忘れているんだが、自分が赤毛布になって、君儲かるんだぜと説得されている体裁を、自分が傍へ立って見た日には方なしである。自分ははたしてこんなものかと、少しく興を醒まして赤毛布を、つらつら観察していた。


 「自分」が長蔵さんに誘われたとき、ある意味で自分は認められたのだし、認められるだけの価値ある人間だという自負がないではありませんでした。長蔵さんに誘われている自分の様子を客観的に見ることができなかったわけです。ところが、今、赤毛布が自分と全く同じように誘われている場面を見て、その時の自分を否応なしに客観的な視点から眺めさせられることになり、自分の思っていたことは勘違いにすぎなかったのだということを強烈に分からされることになったのです。

 さらに決定的な箇所としては、健康診断の結果を親方に報告しに行く場面での主人公の以下のような独白が指摘することができるでしょう。

坑夫は世の中で、もっとも穢ないものと感じていたが、かように万物を色の変化と見ると、穢ないも穢なくないもある段じゃない。……ふと往きに眼についた蒲公英に出逢であった。さっきはもったいないほど美しい色だと思ったが、今見ると何ともない。なぜこれが美しかったんだろうと、しばらく立ち留まって、見ていたが、やっぱり美しくない。それからまたあるき出した。だらだら坂を登ると、自然と顔が仰向になる。すると例の通り長屋から、坑夫が頬杖を突いて、自分を見下している。さっきまではあれほど厭に見えた顔がまるで土細工の人形の首のように思われる。醜くも、怖くも、憎らしくもない。ただの顔である。日本一の美人の顔がただの顔であるごとく、坑夫の顔もただの顔である。そう云う自分も骨と肉で出来たただの人間である。意味も何もない。


 自分も坑夫も日本一の美人もただの人間だ、ということで、世間一般で通用しているような価値観を全く無化してしまうような、ある意味、悟りきったような境地に達した、ということでしょう(*)。

 以上でみてきたように、力みすぎて硬くなってしまった『虞美人草』の徹底して逆をいくことで、あらゆる常識にとらわれない、柔軟性のきわみのようなものの見方・考え方を獲得した点にこそ、『坑夫』の大きな意義があるといえます。この根底にも、華族や金持ちによる権力や金力の横暴が貧しい人々を苦しめている社会の現実に対する漱石の激しい憤りの感情が流れていることを見逃すわけには行きません。漱石は、この『坑夫』において、上流階層の坊っちゃんを社会の底辺に突き落とすことによって、人間を等級付けるような価値観を拒否し、美醜や貴賤による差別や偏見を徹底して否定する立場を主張したのです。

(*)そのような観点からすれば、鉱山に向かう道中、主人公が長蔵さんから受け取った芋に対して「芋中の穢多」だとの感想を抱く箇所(岩波文庫版、p.79)を伏字にしてしまうのは、坑夫は穢いものと蔑視していた主人公の考え方が崩壊していくことの効果を弱めてしまうものだといえるだろう(健診結果を報告に行く場面での主人公の独白中に「穢」という字が多用されていることに注目すべきである)。岩波文庫版の解説(紅野謙介)では、漱石が「穢多」という差別語をあえて取り込んだ上でそれを見事に解体している、と論じられているが、妥当なものといえよう。漱石の本来の意図を汲むためには、この箇所は伏字にすべきではないであろう。
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 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言