2016年07月11日

心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想(4/5)

(4)使命感があるべき観察や経験につながる

 前回は,心理士の上達に必須の条件としての対話について考察した。対話の際のポイントとして,気づきを促すということと,自分で答えを導ける力を育てるということをまず確認した。相手の視点に移動して相手の立場に立つことの重要性についても説き,最後に,『初学者のための『看護覚え書』』のシリーズはナイチンゲールとの対話の過程であったという神庭先生の指摘を確認して,本稿を含む「一会員による『初学者のための『看護覚え書』』の感想」のシリーズも神庭先生との対話のプロセスであったこと,心理臨床における対話は,セラピストとクライエントとの認識の相互浸透の過程であることを説いた。

 さて今回は,『初学者のための『看護覚え書』(4)』の最終章で説かれている「使命感」ということに関わって,心理士の上達に必須の条件を考えたい。

 神庭先生は本書の最終章「第9章 ナイチンゲールの説く 「看護師とは何か」 に学ぶ」において,「自分自身はけっして感じたことのない他人のただなかへ自己を投入する能力を,これほど必要とする仕事はほかに存在しない」というナイチンゲールの指摘に触れ,看護師は対象の表情に現われた変化からその認識を読み取ることが求められるとして,次のように説かれている。

「『患者の顔に現われるあらゆる変化,姿勢や態度のあらゆる変化,声の変化のすべてについて』しっかりとまずは観察することが大切です。そして,顔の表情の変化をみてとり,それがなぜなのだろうかと考える,姿勢や態度のちょっとした変化を逃さずみてとり,それがなぜなのかを考えようとする,声のわずかな変化を聴き取り,それがなぜなのかをしっかりと探ろうとすることが看護師になるためには大事な姿勢であるという指摘です。

 看護師は,病む人の現わす変化の『その意味を理解《すべき》』であり,それが病む人の認識(=像)の表現であることをしっかりと知った上で,その認識をしっかりと分かって必要なケアを実施していくことが看護師には求められるということです。そして,そのように観察できる実力をつけることが看護の基本なのである,とナイチンゲールははっきりと示してくれているのです。」(p.185)


 ここでは,相手の表現のあらゆる変化をしっかり観察して,それがなぜなのかをしっかり考えてその意味を理解したうえで,必要なケアを実施していかなければならないと説かれている。そのうえで,観察をしない看護師は看護者としての何の経験にもなりえないと説き,「経験というものをもたらすのは観察だけなのである。」(p.189)というナイチンゲールの言葉を紹介されている。

 要するに,相手の表現をしっかり観察して,そこから相手に観念的に二重化してその認識を読み取り,それを踏まえて必要なケアを実施していくことが求められるのであり,このような一連のプロセスをしっかり辿ることこそが看護師としての経験になるのであり,その経験の積み重ねで実力がついていくのである,ということであろう。

 このような観察や経験の重要性については,本書の初めから一貫して説かれている。重要な指摘を列挙したい。

「特別な情報収集の機会ではない,わずかな待ち時間での患者さんとの会話や触れ合いを持つことであっても,看護するための『観察』の場面になっている」(p.23)


「『あらゆる病気に共通するこまごまとしたこと,および一人ひとりの病人に固有のこまごまとしたことを観察すること』が,何よりも大切」(p.27)


「すべては経験」(p.46)


「大切なことは日常の生活の中に,その経験の中に解決策は見いだせるはずだということ」(p.96)


「すべて観察と経験を通してのみ知ることができる」(p.99)


 このように,本書ではいたるところで観察と経験の重要性が指摘されているのである。

 心理臨床においても,観察と,それによってもたらされる経験が重要なことはいうまでもない。観察の重要性については,「専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想(4/5)」で説いておいたが,ここで簡単にふり返っておこう。心理士は観察の目的をしっかり押さえておくことが大切である。服装や髪形,表情などの観察の目的はあくまでも相手の認識を知るためである。また,ラポール形成のために相手にペーシングする必要があり,そのために相手の言語表現,非言語表現を観察する必要があり,この場合の観察の目的はペーシングやラポールの形成にあるといえる。また,観察不足にならないように,事実と解釈を区別し,事実を事実として把握することは非常に大切である。事実を事実として把握していなければ,介入が妥当であるかどうか検討することすらできないからである。概ね,このように説いておいた。

 以上のように,看護実践においても心理臨床においても観察や経験は非常に大切なのであるが,それをふまえた上で,さらに大切なポイントがあるとして,神庭先生は次のように説かれている。

「そして,そこをふまえた上で,さらに(ここが大切なのです!)「使命感」を持つことが必要であるとして,その姿勢について,看護師としての対象への問いかけ,目的意識性を取り上げていきます。

 これは看護師自身の認識のありよう,心の持ち方が,その“問いかけ”そのものを,看護師としての目的意識性に導かれたものに創り上げていくことが大切なのだ,と説いているのです。それが先ほどの本物の“経験”の積み重ねにつながっていくであると受けとめることができますか。」(p.195)


 ここでは,「使命感」を持つことが大切であり,それによって,問いかけが看護師としての目的意識性に導かれたものになっていき,そうなってこそ,経験を積み重ねていくことができるのだと説かれている。換言すれば,使命感こそが何よりも大切であり,これがなければ,専門的な目的意識性に導かれた問いかけができず,適切な観察もできないことになるので,結果として,まともな経験を積んでいくことができなくなる,ということであろう。

 ここについて,筆者自身の心理臨床の実践を踏まえて,もう少し考えてみたい。

 そもそも「使命」とは「はたさずにはいられないと自覚されるような任務」(『例解新国語辞典』)のことである。そうすると,上で説かれたことを心理士に置き換えてみるならば,果さずにはいられないというような思い・感情をもつことこそが,心理士の上達にとって必須の条件であるということになるだろう。なぜなら,果さずにはいられないという感情をもっていれば,問いかけそのものが,心理士としての目的意識性に導かれたものになるために,観察不足に陥ることなく,しっかりと必要な事実を捉えていくことができるようになるからであり,その結果,心理士としての経験を積み重ねていくことが可能となるからである。

 ここで思い出されるのが,筆者の失敗事例である。父親から依頼されて,あるクライエントの面接を行っていたのであるが,本人の意欲が低く,何が問題なのかもあいまいなまま,漫然と面接を重ねてしまっていたのである。つまり,「何とかよくしてやるんだ」という使命感もないままに,だらだらと面接を継続していたわけである。するとしばらくして父親が来談されて,「面接の経過が全く分からない」「病識がない点と,間違った認知に固執している点は全く変化がない」という厳しいクレームをいただいたのである。ここで恥ずかしながら初めて,父親が息子のためにどのくらい苦労されていたのか,息子の問題を解決するためにどのくらい骨を折ってこられたのか,息子に対する心理療法にどのくらい期待されているのか,ということを思い知らされたのである。と同時に,自分には心理士としての使命感がどれほど欠如していたのかということも痛感して,深く深く反省したことであった。

 本来であれば,心理士としての使命感をしっかり把持したうえで面接に臨むべきであった。そうすれば,本人の意欲を高めるためにはどうすればいいのか,必死で考えたであろうし,目的意識的な問いかけのために,わずかな表情の変化などから意欲の高まりを察知して,それをより促進していくための介入を行えた可能性がある。本人が困っていることも,わずかな言動の変化からしっかりキャッチすることもできたかもしれない。そうすれば,そこを取り上げて,より突っ込んだ対話が可能となったはずである。使命感があり,目的意識性に導かれた問いかけがあれば,父親の思いやニーズも,その表現をしっかり観察することによって,しっかりと掴むことができ,それに応えた対応もできただろう。そういうことができなかったのは,ひとえに筆者の使命感が欠如していたためであった。

 それ以来,筆者はどんなケースに対しても心理士としての使命感を持って対話を重ねることを心がけている。前々回に説いた内容でいうと,Aさん的な,クライエントにしっかりと寄り添い,クライエントの回復のお手伝いをするのだという思いを,しっかり目的意識の中核に据え,それを目的意識的に捉え返すように心がけているのである。それこそが,心理士としてのあるべき観察につながり,ひいては,心理士としての経験の積み重ねにつながると考えているからである。今回,本書を学び直して,反省の気持ちを新たにしたことであった。

 この問題に関して,神庭先生は,次のようにも説かれている。

「看護という職業は『自分自身の理念の満足を求めて病人の世話をするのでないかぎり』,他者からどのように指示や命令を受けても,看護師自身の高い理念に基づいた使命感なしには,またその使命感に基づいた判断力なくしては,目の前にした病む人に対して「熱意」を持って必要な看護をすることはできないのだと,ナイチンゲールはしっかりと説いていくのです。」(p.196)


 すなわち,看護は自分自身の理念を満足させるためにこそするべき仕事であり,高い理念に基づいた使命感なしには熱意をもって看護することはできない,ということである。これは全く心理臨床の実践にも当てはまる指摘であり,先の筆者の失敗事例は,高い理念に基づいた使命感がなかったために,熱心に取り組むことができなかった例だといえるだろう。

 以上,今回は,使命感をしっかり把持して実践に取り組めば,専門家としての目的意識に導かれた問いかけによってしっかりとした観察ができるようになるのであり,そうであってこそ,専門家としての経験を積んでいくことが可能となるのである,ということを説いてきた。
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2016年07月10日

心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想(3/5)

(3)対話によって認識の相互浸透を図る

 前回は,心理士の上達に必須の条件として,視点の移動を取り上げた。まずは,人間は目的意識的存在であるから,あるべき将来像へと視点を移動して,そこから現在の自分をチェックすること,つまり目的意識性を目的意識的に捉えることが,上達にとっては必須であることを,3人の心理士の例を提示しながら説いた。そして,「神」的な視点に移動して,自分たちの行っている対話を客観視することが,より効果的・効率的な面接につながり,心理士の上達に貢献することも見た。

 今回は,『初学者のための『看護覚え書』(4)』で説かれている看護者としての対話の大事性を取りあげ,それを心理士の上達という観点から考察していきたい。

 神庭先生は本書の第5章から第8章にかけて,「健康への看護」の現代的な例として,地域看護教育を取りあげておられる。これは,看護者が自宅に訪問して,育児支援を行ったり,療養生活を整えるヒントを教育したりするものである。その際,問題性を直接的に指導したり,答えを教えて指導したりするのでは,問題の解決に至らず,ナイチンゲールの説く「健康への看護」にならないと指摘されている。

 ではどうすればいいのか。神庭先生は,対話を通しての支援が重要だと指摘している。どんな人でも自分の考えに従って生活しており,その人の育ちの背景がその考えや判断に影響を与えているのだから,正解を教えるだけではその考えを変えることは難しいとしたうえで,次のように説かれている。

「ですから,育児支援の場合には,安心して話ができる環境を整え,しっかりと話に耳を傾ける中で,母親自身が語ることを通して,その考えを整理し,思い詰めている心境から解放していくことも,意味ある支援の一つになっているのです。

 対話を通して,気づきを促し,気づきを育てていくことが重要なのです。なぜなら,自分で答えを導くことができるような力を育てることが何よりも求められていることだと考えるからです。」(pp.123-124)


 ここでは,安心できる環境を整え,考えを整理できるように対話を重ねながら,対話を通して気づきを促し,自分で答えを導ける力を育てていることが求められると説かれている。

 ここで説かれている内容は,まさに心理臨床そのものである,といえるだろう。われわれ心理士は,クライエントとの対話の中でクライエントの考えや気持ちを整理し,クライエントを癒していったり,クライエントの適応的な行動を強化したりすることが求められるからである。したがって,本書で説かれている対話の重要性や対話の際のポイントというのは,そのまま心理士の上達にとって必須の条件であり,われわれ心理士も心がける必要がある内容だといえるだろう。

 そこで,本書で説かれている対話についての指摘を,心理士の立場から読み取っていきたい。

 まずは,上の引用で説かれている気づきを促すということと,自分で答えを導ける力を育てるということに関してである。この二つが対話の二大柱といえるだろう。気づきを促すためには,本書の事例でも触れられているように,適切に質問を用いることが有効であろう。質問というのは,相手の問いかけ像に働きかけることであり,問いかけの矛先を変えることによって,これまで見えていなかったものが見えてくるようになる,つまり,気づきが促されるのである。この辺りの問題については,以前,本ブログでも「認知療法における問いの意義を問う」や「ブリーフセラピーを認識論的に説く」の中で説いたことがある。本書でも傾聴だけでは不十分であり,「聴くことを通して対象者にどのような変化や成長を導こうとしているのかの目標や看護者の目的意識性こそが大事になってくる」(p.156)と説かれている。傾聴は前提として必要であるが,それだけではなく,相手の変化や成長を狙って適切な質問をしていくなどの介入が求められるわけである。

 自分で答えを導ける力を育てているという点については,まずは「できていることを認め」(p.174)ることが必要であろう。自分で答えを導ける力というものは,これまでの学校教育を中心とした教育の中で,少なくとも芽生え,それなりに育っているはずのものである。したがって,どんなに困難な状況にある相手であっても,それなりに自分の生活過程を整える行動をとっていたり,それなりに自分の気持を落ち着かせるための行動をとっていたりするものである。そういった行動やそれに関わる話を見逃さず聞き逃さずに,しっかりとキャッチして,それを相手にフィードバックして,その行動を強化していくことは,自分で答えを導ける力を育てていることになり,重要な支援となるだろう。

 また,これも以前の論考で説いたことではあるが,特有の質問をくり返すことによって,その質問が相手に内在化し,自問自答できるようになるということも,自分で答えを導ける力を育てているということになるだろう。たとえば,「同僚に嫌われてしまったかもしれない」とか「上司に無能なやつだと思われたかもしれない」と考えて落ち込んでしまうようなことが多い方の場合は,「その考えの根拠は何ですか?」というような特有の質問をセラピスト側がくり返す。すると,いつしかその質問がクライエントの中に内在化され,気分の落ち込んだとき,ネガティブ思考に冷静に対峙して自問自答し,その考えを修正できるようになるのである。このように,質問を内在化させることによって考えの道筋を自分のものにするということも,自分の力で答えを導ける力を育てることになるだろう。

 前回説いた視点の移動ということに関連するが,相手の視点に移動して相手の立場に立つ,ということも,専門職が行う対話の大切なポイントである。神庭先生は,子どもを育てる母親が何を求めているかを理解しようとせずに,一般的な授乳方法や育児方法を指導してしまったら,自分が否定されたように感じたり,分かっていることしかいってもらえなかったと不満を持ったりして,相談の継続が難しくなると説かれている。そうならないためには,認識論の訓練が必要だとしたうえで,次のように説かれている。

「看護者が認識論の実力を持って母親にとって必要と思われることを,母親の立場からの視点で母親の求めるニーズにしていくことが必要になってくるのです。

 それは,端的にはその人の言葉として表現されたことから,その認識を読み取り,表現したい中身を理解する力でもありますし,言葉として表現されていないことから,その認識を読み取り,表現したい中身を理解する力でもあります。今は気づくことができていないとしても本当は気づいてほしい,ということに目を向けることができるようにする,つまりその人の認識を変化させるという力も必要になってくることです。」(pp.149-150)


 すなわち,表現されたことや表現されなかったことから認識を読み取って,相手の立場からの視点で,本当に気づいてほしいことに気づけるように導いていくことが必要だ,ということである。あくまでもスタート地点は相手の現在の認識なのであり,それを,本来は求めるべきニーズを求めるような認識へと,うまく変化させていくことこそが,専門職にとっての認識論の実力といっていいだろう。

 神庭先生は,相手の認識を読み取る実力がないと,「単なる勝手な想像や押しつけということになってしまいかねません」(p.150),「答えを与えなければという精一杯の思いでテキスト的な正しいとされる答え(文字的文章的解答)を頭の中で探しながら,相手の認識(=像)とは無関係に説明し」てしまう,と指摘されている。これは看護師であろうと心理士であろうと,対人援助の専門家にとっては共通する問題だといえよう。このように,相手の認識(=像)とは無関係的に対応するのではなく,相手の生活状況や身体状況,相手の語りの中にあるヒントをもとにしながら,しっかりと観念的に二重化できることが大切なのであり,そのような認識論的な実力を養うことが,心理士の上達にとっては必須であると考えられる。

 その他に,対話に関わる重要な指摘も確認しておく。先にも少し触れたが,神庭先生は,相手が分かっていることを指摘するのは信頼関係を崩すことになると説かれている。他にも,「『やってもよい』とその人が思えることを提案できることが大事」(p.153)であると指摘されている。また,「……自分で考えながらSさん自身の納得のいくように」(p.173)関わっていくことが大切であるとも指摘されている。さらに,「看護者は,患者がどうしてほしいなどといわなくてもその必要性が判断できなければならない」(p.181)という指摘もある。これらもすべて,相手に観念的に二重化しながら対話をすることの重要性を説いたものであり,心理士にとっても重要な指摘と受け止めるべきであろう。

 たとえば,うつ病で休職中のクライエントに対して,リハビリのために朝は定時に起きたほうがいいと指摘したとする。クライエントにしてみれば,そんなことは分かっているが,どうすればそれができるのかが分からないのだとすれば,この指摘は信頼関係の構築にとってマイナスである。昼寝をたくさんしているために,夜なかなか寝付けず,その結果,朝も寝起きが悪いということであれば,昼寝を防止するために,何か別の活動をしてみることを提案してもいいだろう。これだとその人がやってもよいと思える提案になる可能性が高い。昼寝をしないことによって夜眠る力が高まり,寝つきがよくなれば,朝もしっかり起きられる可能性が高くなるということを説明すれば,本人も納得して取り組むことができるだろう。このようなことは,わざわざクライエントから確認しなくても,うつ病で休職されている方を多数担当すれば,自然と分かってくることであり,相手がいわなくても相手のことが分かっていくと,より効果的・効率的に面接を進められることになるだろう。このように,神庭先生の対話に関わる指摘は,心理士も主体的に受け止めていく必要があると思われる。

 最後に,神庭先生が「あとがき」で触れておられるナイチンゲールとの「対話」について紹介しておきたい。神庭先生は,『綜合看護』の連載論文や本書のシリーズを執筆してきた十年間は,ナイチンゲールとの「対話」をしてきた過程であるとしたうえで,次のように説かれている。

「実はこの『対話』というものが学びの過程においてはとても重要なことであるといえます。それはどういうことかというと,ナイチンゲールに問いかけ,ナイチンゲールの言葉からその事実とその意味するところを読み取るということは,ナイチンゲールはどのように考えているのかという彼女の認識に近づこうとする試みとなるものであり,それが観念的な二重化による認識の相互浸透の過程性となっているということでもあるからです。」(pp.211-212)


 すなわち,『看護覚え書』に学ぶプロセスは,ナイチンゲールの認識に近づこうとする試みであり,ナイチンゲールへの観念的二重化によって認識の相互浸透を果たしてきた過程性であったということである。

 このように考えると,本稿を含む「一会員による『初学者のための『看護覚え書』』の感想」のシリーズは,神庭先生と筆者との対話であった捉えることができるだろう。また,心理臨床における対話は,クライエントとの認識の相互浸透の過程であり,セラピストがクライエント化し,クライエントがセラピスト化する過程でもあるということができるだろう。先に説いた気づきを促すこと,自分で答えを導ける力を育てること,相手の視点に移動して相手の立場に立つことなどといった対話の際のポイントも,すべて相手との相互浸透の一プロセスだと捉えることができるだろう。

 したがって,対話によって認識の相互浸透を図るということは,心理士の上達にとって必須の条件ということができるだろう。


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2016年07月09日

心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想(2/5)

(2)将来像や「神」の立場に視点を移動させる

 本稿は,心理士である筆者が神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(4)』(現代社)に学んで,看護師や心理士などの対人援助の専門家の上達に必須の条件を考えていく論考である。

 今回は,視点の移動という観点から本書に学んだことを認めていく。

 本書の第1章から第3章までは,看護者としての目的意識性の中身について説かれている。その中で,南郷継正先生の教育とは何かに関わる論文が引用され,目的意識性を目的意識的に捉え返すことの重要性が説かれている。その中で,結論的に次のようにまとめられている。

「すなわち,『看護者になりたい』という目的意識性を,『看護者になるために』という学びのあり方として目的意識的に捉え直すことによって,自らの意志で主体的に学びとる中身が違ってくる,ということだからなのです。それが人間の目的意識性ということであり,これは目的意識性を目的意識的に捉え直すことが,自己教育力としての差になって表れてくる,ということなのだ,としっかり分かってほしいと願っています。」(pp.59-60)


 ここでは,「○○になりたい」という目的意識性を,「○○になるために」という学びのあり方として目的意識的に捉え直すことが,主体的に学びとることにつながるのだし,自己教育力の差になって表れてくる,と説かれている。

 さらに神庭先生は,「目的意識性を『真に将来の成長につながる』ものとして目的意識的に捉え返すことの大事性」(p.72)を説いたうえで,「“観念的二重化”の実力をしっかりと身につけることが人間としての成長を導く鍵である」(p.73)として,“観念的二重化”による相互浸透の過程についても説かれている。ナイチンゲールの書簡を引用した後,神庭先生は次のように説かれている。

「ナイチンゲールの言葉から『自分がこうありたいと望む姿』に常に自分が『ある』ように努めること,それが未来のありたい自分から現在の自分を見つめるという目的意識的な問いかけ(観念的二重化)であり,それが看護者にとって大事なことであるとの指摘だと読み取ることができます。」(p.78)


 すなわち,自分がこうありたいと望む自分に常にあるべきだというナイチンゲールの指摘は,認識論的にいうならば,理想の自分に二重化して,理想の自分の視点から現在の自分を見つめるという目的意識的な問いかけなのだ,ということである。

 ここまでを少しまとめてみたい。人間は目的意識的な存在であり,必ず何らかの目的を描いて行動する存在であるが,その目的がどのようなものになるかは偶然性であり,しっかりと真に将来の成長につながるものとして,描いていく必要がある。そのためには,人間が目的意識的な存在であることを,目的意識的に捉え返す必要があるのであり,自分がこうありたいと望む将来像を目的意識的に描き,その将来像にしっかりと二重化して,そこから現在の自分を見つめ直し,現在の自分が理想の自分につながっているのかをしっかりチェックしていくべきなのである。そうしてこそ,自己教育力を高められていく。そしてこれが,理想像に観念的に二重化することによる理想像との相互浸透の過程である,ということであろう。

 このように,目的意識性を目的意識的に捉え返すということは,理想の将来の自分に視点を移動して,そこから現在の自分を眺めるということを意味するのである。そしてこれは,上達に必須の条件といえるだろう。なぜなら,目的意識性がその後の自分を規定するからであり,上達のためには,上達できるような目的意識をもつことが必要だからである。

 たとえばということで,3人の心理士の例で考えてみたい。Aさんは,中学時代に少し相談したことのあるスクールカウンセラーに憧れて心理士になり,しっかりとクライエントの気持ちに寄り添える心理士になりたいと考えている。Bさんは,うつ病の父親の担当になった病院の心理士に憧れて心理士になり,クライエントの気持ちに寄り添うだけではなく,効果的・効率的に精神疾患の治療が行える心理士になりたいと考えている。Cさんは,南郷継正先生の認識論の本を読んで南郷先生に憧れ,認識論を再措定したいと思って心理士となり,クライエントの気持ちに寄り添い,効果的・効率的な心理療法が行えるだけではなく,科学的認識論を駆使でき,あわよくばそれを発展させられる心理士になりたいと考えている。

 Aさんの場合,既に臨床を行っているので,あとはクライエントの気持ちに寄り添えるかどうかだけが問題となる。日々の面接を振り返って,「今日はあまり寄り添えなかったなあ」となれば反省して,どうすればいいかを自分で考えて,次回の面接に活かしていくことになるだろう。

 Bさんは,クライエントに寄り添えたかどうかを問題にするだけではなく,現在よりも効果的・効率的に心理療法を行えるようになるために,さまざまな研修会に参加したり,最新の方法を勉強するために専門書を購入したりすることになるだろう。学会に参加したり,事例検討会でケースを発表したりして,同じような志をもつ心理士と交流して,実力を高めていき,以前なら治療できなかったようなケースも何とか治療できるようになったり,16回かかっていたのが10回で回復させることができるようになったりしていくと考えられる。

 では,Cさんはどうであろうか。Cさんの場合は,クライエントに寄り添えたかどうかを反省し,心理療法のスキルアップの研鑽に励むのはBさんと同様であろう。それに加えて,Cさんは科学的認識論を駆使したいわけだから,当然に,その勉強をすることになる。精神疾患やその治療というのは,認識一般からすれば,特殊性だから,特殊性としてそういったものも勉強していくだろう。また,科学的認識論を発展させたいという大志をもっているわけであるから,ただ単に自分が効果的・効率的に治療できることだけに満足するのではなく,それがなぜなのかの説明をきちんと行えるように研鑽するだろうし,認識論の体系化に向けた学修も,しっかり行っていくことになるだろう。

 このように見てくると,AさんよりもBさん,BさんよりもCさんの方が,心理士としてより上達していくであろうし,より見事な心理士となるであろう。これが自己教育力の差ということになる。そしてこれがどこから来ているのかといえば,とりもなおさず各自が抱く目的意識性であるといえるだろう。Cさんの抱く目的意識には,中核にAさん的な目的意識があり,それに肉付けするようにBさん的な目的意識,さらにCさん的な目的意識が重なっているというような,三重構造になっている。このような目的意識の差が,自己教育力の差となって表れるのである。

 ちなみに,心理士は,カウンセリングや心理療法の過程で,クライエントにもしっかり自分のあるべき将来像を思い描いてもらい,そこに二重化してもらった上で,現在の自分をチェックしてもらう必要があると思う。すなわち,クライエントさんにも回復のために,目的意識を目的意識的に捉え返してもらう必要があるのである。このように,クライエントの目的意識性をターゲットとして介入を行い,クライエントの未来をクライエントのニーズに合わせていじっていくということこそが,カウンセリングであり心理療法である,といえるのではないだろうか。

 閑話休題,神庭先生は視点の移動ということに関して,次のようにも指摘されている。

「看護者としてあるべき姿を問う時のナイチンゲールの視点(観念的二重化)には,自分の目指すあるべき将来像への二重化だけでなく,また他者が自分をどう見るかどう見ているか,という二重化だけでもなく,『神が自分たちを見られる眼』への二重化があるのです。ここをみてとれればみなさんの誰にもそれに応えようとする崇高な信念がナイチンゲールをしっかりと支えているのだ,ということが理解できるのではないでしょうか。」(p.81)


 ここでは,自分のあるべき将来像への二重化や他者への二重化だけでなく,いわゆる「神」への二重化も必要である旨が説かれている。ナイチンゲールの説く自分たちを導く「神」というのは,現代の私たちにとっては理論であり法則性であると,神庭先生は説かれている。確かに,自らの実践をしっかりと理論に照らし合わせて検証することは大切であろう。

 しかしここでは,もう少し違った意味での「神」的視点への移動の重要性を考えてみたい。

 心理士が行う面接において,当然に,他者への視点の移動は重要である。相手から見て自分はどう映るのか,相手には自分の言葉がどのように理解されるのか,ということをしっかりと踏まえた上で,心理士としての介入を行っていく必要がある。しかし,面接中に必要な視点の移動はこれだけではない。心理士とクライエントとの対話を俯瞰するような視点,いってみれば「神」的な視点に移動して,対話自体を客観視することも必要となってくる。それは,対話自体を客観視できれば,現在の対話が噛み合ったものになっているかどうかのみならず,今後どのように展開していけばクライエントのニーズに応えることができるのか,より効果的・効率的にクライエントの認識を変えるにはどのようにしていけばいいのか,ということが分かってくるからである。

 こういったことは,他者が発表する事例検討会に参加したり,スーパービジョン(他者の面接に関しての個別指導)をしたりしているとよく分かる。直接自分が行っている面接ではないために,対話を客観視することができるので,より冷静に捉えることができるのである。逆からいうと,自分が行っている面接の場合は,自分特有の問いかけや,それまでの文脈に規定された問いかけのために,見えていいはずのものが見えなくなっていることも多いのである。しかし,それを俯瞰する視点から,先入見なしに眺めれば,当事者には見えていないものが見えてくることがあるのである。

 したがって,自分が面接を行っている時も,リアルタイムで「神」的な視点に移動して,自分たちの対話を客観視して,どう展開していけばいいのかを冷静に捉えてから,心理士としての自分の立場に復帰して,先の「神」的視点で考えた内容を実践していけるならば,より見事な対話が成立することになり,その面接がより効果的・効率的なものになっていくであろう。このようなことをくり返していけば,見事なる心理士として上達していけるはずである。

 以上,今回は心理士の上達に必須の条件としての視点の移動を取りあげ,あるべき将来像への視点の移動と「神」的な視点への移動について,それがいかに心理士の上達に繋がるかを考察した。

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2016年07月08日

心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想(1/5)

目次

(1)心理士の上達に必須の条件とは
(2)将来像や「神」の立場に視点を移動させる
(3)対話によって認識の相互浸透を図る
(4)使命感があるべき観察や経験につながる
(5)上達につながる経験を積んでいく

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(1)心理士の上達に必須の条件とは

 昨年,心理職の国家資格ができることが決まり,現在,その具体化に向けての動きが加速している。先日,次のような新聞記事が目に留まった。


「心の専門家に国家資格,「公認心理師」18年から試験,厚労省など,活躍の場拡大を期待。

 心に不調をきたした人に,専門知識を生かして助言やアドバイスをする国家資格をつくる動きが進んでいる。昨秋法律が成立し,近く国が試験内容などを詰める作業を本格化させる。国の“お墨付き”を得ることで専門家の待遇改善につなげ,患者らがアドバイスを受けやすい体制を充実させるのが狙いだ。
 昨年9月に「公認心理師法」が議員立法で成立。5月に試験を作成・実施する機関が日本心理研修センター(東京・文京)に決まった。
 今後,厚生労働省と文部科学省が,カリキュラム作成の検討委員会をつくり,今年度中にまとめる。試験は18年に始まる見通しだ。
 すでに大学などでも養成の動きが始まっている。同志社大学は,大学入試の説明会で公認心理師の資格にも対応する方針を説明している。担当者は「カリキュラムが出ていないので,教員確保などができない。早く作成してほしい」と話す。
 公認心理師はストレスにうまく対応できる心の状態をつくる「認知行動療法」などを使い,心の問題に取り組む。方法はカウンセリングが中心で,薬の処方など医療行為は行わない。大学で心理学に関係する課程を修了し,一定期間実務を経験した人らが受験できる。
 心のケアに取り組む資格としては,学会などが認定する臨床心理士や認定心理士,認定カウンセラーなど20以上ある。ただ取得の難しさはバラバラで,一定の水準を持った国家資格の必要性が指摘されてきた。
 国家資格となることで,専門家の待遇改善につながるとの期待もある。日本臨床心理士会(東京・文京)が11年に実施した調査では,臨床心理士の6割以上が修士課程を修了しているが,5割は年収300万円台以下だった。
 日本臨床心理士会は「国家資格でないことで,常勤採用してくれない病院などもあった。医療機関や企業でのうつ病対策など活躍の場の拡大が期待できる」と話す。」(2016/05/23 日本経済新聞 夕刊)


 ここでは,公認心理師の試験を作成・実施する機関が決まったこと,カリキュラム作成の検討委員会がつくられる予定であること,一定の水準を持った心理職の国家資格ができることによって専門家の待遇改善につながるという期待があること,などが報じられている。

 このように,心理職の国家資格である「公認心理師」に関して,その資格試験や育成カリキュラムの具体化の作業が進んでいるのであるが,このような対人援助の専門職は,資格に合格すればそれで一人前,というわけにはいかない。資格というのは,最低水準を保証するにすぎず,資格獲得後も,自己研さんを積み重ねて,実力ある心理士に向けて努力し続けることが求められるといえるだろう。

 これは,看護師も同様である。大学や専門学校を出て看護師としての資格を獲得すれば,それだけで見事な看護師として活躍できるのかと言えば,そうではない。看護師として実践していく中で,自分で自分を教育しながら,看護の実力をより高めていく必要があるのである。

 そこで本稿では,神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(4)』(現代社)を取り上げて,対人援助の専門家として上達していくためには,どのような条件が必要かを考えていきたいと思う。それは本書が,「教育編」ともいうべき内容になっているからである。神庭先生は,「教育編」ということには二つの観点があるとして,次のように説いておられる。

「一つはいわゆる看護教育,すなわち見事な看護者として育てるには,育つには何が求められるのかという視点です。これは,看護教育者にとって理解しておくべきことでもありますし,看護者自身の自己教育力を育ててほしいということでもあります。

 もう一つは,看護における教育機能に関わることです。これは病む人への患者教育ということだけではありません。特に地域に暮らす生活者への看護としては人を育てるという視点は欠かせないものです。」(pp.4-5)


 ここでは,「教育編」ということには,見事な看護者として育てる(育つ)という意味と,患者や地域に暮らす生活者を育てるという意味の二つがあると説かれている。

 これは心理士にとっても,まったく同じことがいえる。見事な心理士として育てる(育つ)という観点と,クライエントをしっかり教育するという観点の二つが,心理士にとっても必要なのである。したがって,直接的には看護の教育として説かれている本書に学び,そこから心理士にとっての教育に活かせる点や,心理士の上達のための条件をしっかり学びとることは可能だと考える。国家資格の誕生が目前に迫っている心理職としては,国家資格の大先輩としての看護職から,それも科学的な学問体系としての看護学を実際に適用して実践している神庭先生の書物から,しっかり学ぶことが必要であろう。

 そこで次回以降,心理士である筆者が,心理士の上達に必須の条件は何かという観点から,自分の心理士としての経験に重ね合わせながら本書を読み解き,学んだ内容を認めていきたいと思う。

 最後に,本書の目次を掲載しておきたい。



初学者のための『看護覚え書』 (4)


■第1章 看護教育における看護技の習得の過程性・構造性を問う

  第1節 看護者としての観察力の訓練の大切さを指摘しているナイチンゲール
  第2節 看護するために観察することの意味を事例から説く
  第3節 個別性に即した看護の実力はすべて観察力の養成にかかっている
  第4節 看護技の習得の過程性
       ―― 看護者の優れた観察力はどのようにして身につけられるか
  第5節 「看護技一般の上達過程の構造」 を示す
  第6節 「看護とは何か」 の一般論に導かれての看護技の習得の過程性・構造性
  
■第2章 看護教育における看護者としての目的意識性を問う

  第1節 看護者としての目的意識性が看護者としての成長につながる
  第2節 ナイチンゲールの説く看護者としての教育・訓練の必要性・大事性
  第3節 ナイチンゲールの説く看護を学ぶ者としての姿勢とは
  第4節 看護者として自分自身を統率することの大事性を指摘したナイチンゲール
  第5節 ナイチンゲールが目指した当時の看護教育改革の厳しい現実
  第6節 ナイチンゲールが創り上げた看護教育の原点
  第7節 現代において看護教育の原点とその意義を問うことの意味
  第8節 教育における 「目的意識性」 の意味を問う
  第9節 看護者になりたいという目的意識性を目的意識的に捉え返すことの重要性

■第3章 看護教育において目的意識性を目的意識的に捉え返すことの意義を問う

  第1節 教育・訓練の意義と必要性を説いたナイチンゲール
  第2節 看護者として目的意識性を目的意識的に捉え返すとはどういうことか
  第3節 そもそも 「人間は目的意識的な存在である」 とはどういうことか
  第4節 人間は必ず行動の前に目的的に問いかけている (認識=像を形成している) とは
  第5節 人間の目的意識性を目的意識的に捉え返すということの意義
  第6節 看護者としてより見事な将来像を描けるための認識の過程性
  第7節 目的意識性の質の違い・論理の違いを具体例で考える
  第8節 ナイチンゲールが捉えていた看護者としての 「目的意識性」 とは
  第9節 看護者として 「真剣な目的を持つこと」 を求めていたナイチンゲール

■第4章 ナイチンゲールの説く 「真の看護とは何か」 に導かれた実践を問う

  第1節 看護者として学び続ける姿勢のあり方
  第2節 ナイチンゲールが 『看護覚え書』 に説いてきた看護の要点
  第3節 看護者の看護の視点と実践のあり方が対象者の生き死にに関わる
  第4節 ナイチンゲールの説く病とは何か,看護とは何か
  第5節 ナイチンゲールの説く 「良い看護を構成する真の要素」 とは
  第6節 ナイチンゲールの説く正しい看護の知識と実践とは
  第7節 すべての人が健康の法則を理解し実践することを目指していたナイチンゲール
  第8節 ナイチンゲールが説く 「真の看護」 とはを知ろう
  第9節 ナイチンゲールの説く看護者たる実力をつける訓練の必要性とその覚悟

■第5章 地域看護教育において求められる看護者の育児支援の視点を問う

  第1節 看護者の視点が子どもの健康に及ぼす影響を視る
  第2節 ナイチンゲールの指摘する 「世話をする人間の管理の心構え」 とは
  第3節 事例から 「世話をする人間の管理の心構え」 とは何かを説く
  第4節 期待される母親像に近づこうと懸命に努力してきたNさんの心情
  第5節 対象者が抱える本当の育児上の不安を引き出す看護者の姿勢を説く
  第6節 子どもの成長発達を支える親の育ちを支援する看護者の取り組み
  第7節 地域看護において求められる看護者の育児支援の視点とは

■第6章 ナイチンゲールの説く 「健康への看護」 に学ぶ

  第1節 子どもの健康な成長発達を支える看護者の役割
  第2節 ナイチンゲールの説く 「健康への看護」 とは
  第3節 健康になるための学びとその実践が重要であると指摘したナイチンゲール
  第4節 育児相談の事例から看護者による支援の必要性を説く
  第5節 育児上の課題を看護者はどのようにみてとることが求められるのか
  第6節 「健康への看護」 は現代の育児支援において欠かせない意義を持つ

■第7章 地域における育児支援の実践を認識論の実力の必要性から問う

  第1節 家庭での健康を守る看護の重要性を指摘したナイチンゲールの意図
  第2節 認識論の実力から育児支援の必要性を問う視点
  第3節 母親の生活過程の現実から支援のあり方を問う視点
  第4節 ナイチンゲールの説く健康教育の意義とその成果とは
  第5節 対象との継続的な支援関係を創り上げるためには
  第6節 対象の生活過程や語りの中に相手の認識=像を描くヒントがある

■第8章 ナイチンゲール看護論を現代の地域看護教育に活かす視点を問う

  第1節 ナイチンゲールが 『看護覚え書』 を著した目的とは
  第2節 ナイチンゲールの看護の視点を地域における看護に活かした事例を説く
  第3節 ナイチンゲールの説く 「看護とは何か」 に導かれた支援の実際
  第4節 看護の視点から症状や苦痛を看るとはどういうことか
       ――事例から考えるナイチンゲール看護の視点
  第5節 家庭における療養生活を整える看護の力
  第6節 ナイチンゲールの教えを地域看護に活かすための視点とは

■第9章 ナイチンゲールの説く 「看護師とは何か」 に学ぶ

  第1節 ナイチンゲールの説く看護者に求められる能力とは
  第2節 看護師は対象の表情に現われた変化からその認識を読み取ることが求められる
  第3節 病む人の認識を読み取り看護することが重要であると指摘するナイチンゲール
  第4節 看護する人と看護される人とが互いに分かり合っているという関係性
  第5節 観察をしない看護師は看護者としての何の経験にもなりえない
  第6節 看護師としての経験を積み重ねるとはどういうことか
  第7節 ナイチンゲールの説く看護師が持つべき使命感とは
  第8節 使命感を持つ看護師と使命感を持たない看護師との違いを視よう
  第9節 ナイチンゲールの説く 「良い看護師」 とは
  第10節 看護師としての人間観,生活観,看護観を把持することの重要性


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2016年07月07日

2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、ヘーゲル『哲学史』の近代哲学の黎明期について論じられている部分を扱った我が研究会の2016年6月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 6月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回7月例会は、デカルト、スピノザ、マルブランシュについて論じられている部分を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回は,唯物論的に哲学の歴史を捉えていくということに関わって,大きく二つの学びがあった。1つは,今回取りあげたベーコンとベーメの登場を,社会の歴史とつなげて理解することである。ベーコンは,ルネサンス期のイングランドに生まれた哲学者であるが,この時代までのイングランドでは,王権の力が大陸に比較して弱く,個々の経済的Machtがそれぞれの意志を強力に押し出しつつ対抗していたのであり,商工業が大きく発展していたために,観念的な理念を云々するよりも,具体的な経験が重視されるような社会的認識が形成されていたのであった。このような社会的な土壌があったからこそ,イングランドにおいて経験論の祖であるベーコンが誕生してきたのだといえるだろう。

 他方ベーメは,ベーコンと同時期のドイツ人であるが,当時のドイツは,諸々の宗教戦争の結果,国土がかなり荒廃しており,ローマ帝政期と似たような社会の大混乱期であったといえる。このような状況では,個々人は自己の内面に引きこもりがちとなり,神秘主義的な思想が生まれやすくなると考えられる。ローマ時代に新プラトン主義という神秘主義思想が誕生し,影響力をもったのと同様に,当時のドイツにおいて,ベーメの神秘主義思想が誕生したのだろう。このように,社会状況につなげて,各々の哲学者の誕生の必然性をそれなりに理解できた点は,今回の例会の大きな収穫であった。

 もう一点,唯物論的に哲学史を把握するうえで重要な要素が,討論の中で浮上してきた。それは,唯物論的に哲学を評価する際は,国家的労働の統括に関連する哲学者の学説こそが高く評価されてしかるべきだ,という見解である。なぜならば,唯物論的には,世界の歴史とは,社会的労働(国家的労働)・社会的認識の発展の歴史であり,哲学の歴史は社会的認識の中でも頂点に位置づけられるような学的認識の発展の歴史を説くものだからである。その意味で,ベーメはひょっとすると,唯物論的にはそれほど重要な人物として,哲学史において取り上げる必要はないのではないか,という見解も出された。逆に,トマス・アクィナスは,中世の国家的労働にそれなりに関わった学説を提示したと思われるが,観念論者ヘーゲルはそれほど重視していなかったようである。このような点も,観念論的に哲学の歴史を捉えた場合と,唯物論的に哲学の歴史を捉えた場合の違いとして,重要な差異になってくるのではないかということが分かってきた。これも今回の例会の大きな収穫であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、近世哲学の序論から近世哲学の黎明までの範囲を扱った。内容を十分に把握した上で例会に臨むことができなかった点が反省点ではあるが、当日の議論を通じて、大きく2つの点を学んだと思う。

 1つ目は、古代哲学が到達した「現実の自己意識」という原理を手掛かりとして、中世から近世へと発展してきた哲学の大きな流れが大枠で把握できたことである。帝政ローマの混乱によって、人々は現実世界と対峙する自己という意識を強烈に抱くようになったわけであるが、この現実の自己意識が、中世期には大きく歪められることになった。思惟と存在との対立構造のうち、思惟に含まれていたはずの「現実の自己意識」が分離させられ、思惟の本質である「神」とは別のものとして、抑圧される側に回ってしまったのである。この歪んでしまった思惟と存在との対立構造を、もう一度「現実の自己意識」から捉え返そうとする試みが近世になって始まったのだという大きな流れが把握できたことであった。

 もう1つは、唯物論の立場から諸々の哲学者(の業績や限界)を評価するという論点に関わって、「唯物論の立場から」とは具体的にどのようなことか、今回の例会である程度イメージが持てたことである。まず、現実の社会情況が個々の哲学者の脳細胞に反映して、それが大本となって諸々の哲学説が生み出されるわけであるから、この社会情況と哲学との関係に着目して、なぜこのような哲学が生み出されたのかという原因を社会情況に求めるという姿勢が唯物論の立場からする評価になってくるということである。また、唯物論の立場から『哲学史』を叙述するという場面を具体的に思い描いてみて、ではある哲学者はどのような評価になるのかといえば、その哲学者が社会的労働の統括という国家の中心的役割に如何に関わったのかという観点から判断することが、唯物論の立場からの評価ということになるのではないか、という議論もあった。世界歴史を社会的労働の発展過程として捉える唯物論的な世界歴史の立場からの見解であって、非常に納得することができた。

 いずれにせよ、次回以降の例会に関しては、まずは準備をしっかりと行う、つまり該当範囲の読み込みを徹底して行ったうえで、こうしたこれまでの例会で獲得した観点でもって、論点を設定し、それに回答していくという繰り返しの作業が必須になってくると思う。自らが世界全体を把握するための学びとして、この例会での学びをしっかりと位置付ける必要がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の例会では、近世哲学の始まりについて扱った。例会の論点や、論点への見解が十分作成することができなかったのは大いに反省すべき点であるが、当日の議論を通じて、かなり理解を深めることができたと感じている。

 まず1点目は、古代・中世・近代という過程で哲学史においてどのようなことが問題となったかという点について、「現実の自己意識」というキーワードをもとに理解を深めることができた、ということである。ポリス社会が揺らいでいく中で存在(客観)から独立した思惟(主観・現実の自己意識)が芽生え始め、存在と思惟という対立をどう解決するかが問題視されるようになったが、中世において、カトリック教会が権威をもつようになる中で、現実の自己意識が神に対して抑圧されるようになった。ところが、この現実の自己意識が再評価されて、存在と思惟という形での対立が再び浮上してきたのが近代哲学であるということであった。人間観の変遷が大きく絡んで哲学史が流れてきたのだなということを感じた。

 もう1点は唯物論の立場から哲学史を見るとはどういことかについてである。そもそも唯物論の立場からすれば、哲学とは社会的労働(国家的労働)を統括する認識なのであるから、それぞれの哲学者の学説が国家的労働の統括にいかに関わったのかを見ていかなければならないし、その統括の具合に応じて評価していかなければならないのだと思った。また、このことは哲学史の先端に立とうとする我々自身の研鑽としても意識しなければならないことだと思った。今の社会に対して明確かつ強烈な問題意識を抱き、社会を大きく前進させるような哲学説を構築してこそ、唯物論の立場からまっとうに評価されうるのだと思った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この6月は、例会のチューターにあたっていた。要約作業が当初の予定通り進められなかったこともあって、自分自身の論点の提起は不十分にしか行えなかった(他のメンバーからの論点の提起も、非常に難解な個所であったということで、必ずしも十分なものではなかった)が、論点は何とか整理することができた。整理された論点に対して出された各自の見解も必ずしも十分なものではなかったのだが、自分自身としては、遅ればせながら要約作業を進め、整理された論点への自身の見解を作成していく過程で、ヘーゲルが説こうとしている内容については、大よそつかむことができたと思う。他メンバーから出された見解に対するチューターとしてのコメントの作成を通じて、また当日の議論を主導する過程を通じて、近代哲学の黎明期において浮上してきた思考(思惟)と存在との関係の問題に、自己意識の問題がどのように絡んでくるのか、古代の哲学から中世のキリスト教神学への過程を踏まえながら、きちんと確認することができたと思う。

 もうひとつ特筆すべきは、唯物論の立場からの哲学史の把握ということに関して、研究会としての共通認識を大きく発展させることができたことであろう。私自身、論点への関係の作成の過程で、ベーコンおよびベーメが登場した歴史的社会的背景についての考察を試みてみたが、それなりに筋の通った説明ができたのではないかと思っている。また、当日の議論のなかで、ヘーゲルはベーメを高く評価しているが、唯物論の立場からの哲学史においても、同様の評価を与えうるのであろうか、という問題を提起してみることで、唯物論の立場からは、あくまでも国家的労働の発展との関係という観点から哲学的認識の発展についても評価しなければならないのではないか、ということが明確になったことも、非常に大きな収穫であったと思う。

(了)
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2016年07月06日

2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明(9/10)

(9)論点3:ヤコブ・ベーメの意義と限界とは

 前回は、第二の論点、すなわち、フランシス・ベーコンの意義と限界とは、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、ヘーゲルが経験的な側面の研究について、絶対精神が自己をよく知って、抽象的な理念を具体的なものへとしていくために必要な過程として評価していること、一方で、経験論者が経験のみによって事柄を純粋に把握できるかのようなつもりになっているのは誤りであると批判していること、唯物論の立場からすれば、当時のイングランドの社会情勢から経験論の登場の必然性をつかまなければならないこと、などが議論されたのでした。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、ヤコブ・ベーメの意義と限界とは、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 ヘーゲルは、ベーメの一般観念は深遠で根本的なものだが、その記述は粗野なものである、と述べている。ヘーゲルは、ベーメの思想の深遠さは、(α)神の子なる光が諸性質から産出されるという生き生きとした弁証法、(β)神(光)が自己自身を分離すること、の2点に認められるとしている(藤田訳ではp.69、長谷川訳ではp.203)が、これはどういうことなのか。一方で、そうした深遠な思想が非常に粗野な形でしか展開されえなかったのは何故なのか。
 唯物論の立場からすれば、哲学の歴史において果たしたベーメの役割(意義と限界)をどのように評価することができるか。


 この論点をめぐっては、ベーメについての記述は非常に難解でまともにほとんどまともに理解できなかった、という率直な感想も出されました。こうした感想に対してチューターは、ヘーゲルも述べているようにベーメの叙述には明瞭さも秩序もなく支離滅裂であり、概念が欠けているから宗教的なイメージが多用されていることも分かりにくさの原因であろう、として、細かい部分にとらわれて頭を悩ませるのはまったく生産的ではないのではないか、と発言しました。あくまでも大づかみに、ヘーゲルがベーメのどういう点に意義を見いだし、どういう点に限界を見いだしていたのか、簡単に確認しておけばよいだろう、ということでした。このことを前提として確認した上で、論点3をめぐっての議論に入りました。

 まず、ベーメ思想の深遠さとはどういうことか、という問題をめぐっては、端的には、極端に対立する両極(神と悪魔、など)を何とか統一しようとしていたことであろう、ということになりました。ベーメにおいては、絶対的存在としての神が自己自身を分割していく対立物の統一体としてイメージされているようです。こうした神の自己分割による対立の創出によって、あらゆる事物・事象が生じていくとされるのであって、ベーメにあっては全世界が神の身体としてイメージされることになります。ベーメは、神は自己自身を分割して対立を設定することなしには自己を認識できない、対立がなければ自己は外に向かうだけだが、対立があることによってこそ自己自身に帰ってくる(自己自身の何たるかを意識する)のだ、と説いています。ベーメは、あらゆる事物について、父なる神、子なる神(光)、聖霊という三位一体として把握しようとしているようですが、自己分裂によって対立物がつくりだされ、さらに対立する両者が絶対的に統一される、という過程が全世界に貫かれているというイメージをもっていたのではないかと思われます。これは、全てを絶対精神の自己運動として捉えるヘーゲル哲学の原型とも見なすことができるものです。ヘーゲルは、ベーメの神秘的な思想のなかに、自らの哲学の原型というべきものを見出したからこそ、ベーメを高く評価することになったのではないか、ということになりました。

 続いて、こうしたベーメの深遠な思想が非常に粗野な形でしか展開されえなかったのはなぜか、という問題について、議論を進めました。

 この問題をめぐっては、認識と言語との関係の問題であると指摘する見解が提示されました。当時までは学問的な思索はもっぱらラテン語でなされていたのであり、ドイツ語などは日常会話レベルの用をなすものでしかなく、哲学的な思索を行えるようなものではなかったのではないか、ということです。そういう未熟な言語たるドイツ語を用いて哲学的な思索を行ったために、感覚的で粗野な形でしか言語表現できなかったのではないか、ということです。もう少し踏み込めば、言語の未熟さが認識の成熟を妨げたという側面もあるのではないか、という指摘もなされました。諸々の哲学的な概念が未形成で、それらにふさわしい語彙が存在しなかったことが、ベーメの思考のレベルを大きく制約してしまったのではないか、ということです。こうした見解を踏まえて議論した結果、ベーメについては、対立を統一しなければ! とココロは逸るものの、それにアタマがついていけなかった、ということもできるだろう、ということになりました。

 最後に、哲学の歴史において果たしたベーメの役割(意義と限界)を唯物論の立場からどう評価するか、という問題に議論を進めました。

 ベーメが登場した社会的な背景については、1人の会員が見解を提示していました。それによれば、宗教戦争による国土の荒廃、人口の激減という社会の大混乱によって、(ちょうど新プラトン派が登場してきたローマ帝政期のように)人間が自己の内面に引きこもろうとする傾向が生れて来たことが、ベーメのような神秘主義的な思想を生み出したといえるのではないか、ということでした。ベーメのような神秘思想が登場してきた社会的背景の説明としては、概ね妥当なものではないか、ということになりました。

 唯物論の立場からみるベーメの哲学史上の意義については、ベーメがルター派の教義を徹底して深めていこうとしたことによって、後のドイツ観念論哲学の原型が創られたのであり、とりわけ、対立物の統一ということに大きな問題意識をもったことは、弁証法の発展という観点から大いに注目されることではないか、ということになりました。

 ベーメの限界については、具体的な社会的現実と格闘して論理的な像を形成していくという過程が全く(?)存在せず、言葉遊びのレベルに終始してしまったのではないか、という見解が示されました。

 ここでチューターから、ベーメについての唯物論の立場からの評価を問う場合には、唯物論の立場からの学問(哲学)とは何か、しっかりと踏まえて考えておく必要がある、という提起がなされました。唯物論の立場からする世界歴史とは、社会的労働(国家的労働)すなわち社会的認識の発展の歴史にほかならず、哲学の歴史とは、その社会的認識の頂点に位置づけられるような学的認識の発展の歴史を説くものにほかなりません。そのような観点を踏まえるならば、チューターは、唯物論の立場から哲学史を説く場合には、ベーメに対してそれほど重要な位置づけを与える余地はなくなるのではないか、という見解を述べました。ヘーゲルは、あくまでも自己の哲学の原型をベーメに見出したがゆえに、相当な紙幅を割いて詳しく論じているものの、吾々が『哲学史』なる著作を書く際には、それほど重視して取り上げる必要はないのではないか、ということです。逆に、ヘーゲルがわずか数行で片づけてしまっているトマス・アクィナスは、国家的な支配層に属する人間として、国家的労働の統括という観点を含んだ学説を提示していたという点で、唯物論的な哲学史の上では重視されることになるのではないか、という見解も出されました。

 観念論の立場からの哲学史と唯物論の立場の哲学史との違いをしっかりと意識して、とりわけ、将来的に自分たちの手で、唯物論の立場からヘーゲルを超える『哲学史』を書き上げるのだという意識で、この『哲学史』の学びに取り組んでいかなければならないのだ、ということを確認して、この論点3をめぐる討論を終えました。
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2016年07月05日

2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明(8/10)

(8)論点2:フランシス・ベーコンの意義と限界とは

 前回は、第一の論点、すなわち、近代の哲学は如何なる課題に取り組んだのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。そこでは、古代哲学が到達した原理たる「現実の自己意識」が、中世におけるカトリック教会の絶対的権威の確立によって抑圧されるようになったものの、それが再び大きく力をつけて教会の絶対的権威に対抗するようになったことで、思惟と存在という対立構図が明確に浮上させられ、この対立を如何に宥和させるかが大きな課題になっていったのだ、ということが議論されたのでした。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、フランシス・ベーコンの意義と限界とは、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 ヘーゲルは、ベーコンについて経験的な認識の進め方についての一般原理を打ち立てたと評価している。ヘーゲルは、哲学史の歩みにおいて経験的な側面の研究が果たした役割についてどのように捉えているのか。経験的な側面の研究(形成)が理念の発展と具体化(規定)にとって必然的な条件となる、と説かれている(藤田訳ではp.25、長谷川訳ではp.172〕)が、これはどういうことなのか。また、経験的な認識方法の限界について、ヘーゲルはどのように説いているか。
 唯物論の立場からすれば、哲学の歴史において果たしたベーコンの役割(意義と限界)をどのように評価することができるか。


 この論点をめぐっては、まず、ヘーゲルは哲学史の歩みにおいて経験的な側面の研究が果たした役割についてどう捉えているか、という問題から議論していきました。

 この問題については、ヘーゲルの哲学史とは絶対精神が自己をよく知っていく過程であり、ベーコンが果たしたような経験的な側面の研究は外的な自己たる自然を知るためのものであったから、自己理解にとって不可欠な要素だったのだ、という見解が出されました。こうした見解に対してチューターは、大筋では間違っていないと思われるが、経験的な側面の研究と外的な自然の研究とを単純に同一視してしまっているのは不充分ではないか、と指摘しました。外的な自己たる外的自然の研究はなぜ経験的な方法でしかなされないのか説明が必要ではないか、ということです。また、より決定的な問題点として、ベーコンの当時、外的自然のみならず、内的自然(人間の本性)の研究もまた大きな課題として浮上してきていたことを指摘しました。こうした指摘に対して、先ほどの見解を示した会員は、自身の見解が不充分であることを認めました。外的自然の研究が経験的なものにならざるをえないことについて若干の意見交換を行ったところ、自己とは一応別個のものとして存在させられている対象を知っていく過程だから、経験的な接触が必要になってくるのではないか、との意見が出されました。内的自然(人間の本性)の研究に関わっても、自己の内面を客観的に見つめる視点の獲得が必須の前提であることが指摘され、結局、外的自然についても内的自然についても、客観的な対象に経験的に関わっていくようにして研究が積み重ねられていくようになったのであろう、ということになりました。

 経験的な側面の研究が果たした役割についてヘーゲルがどう捉えているか、という問題については、異なる角度からの見解も示されました。ヘーゲルが理念の抽象的なものから具体的なものへの発展過程を哲学史として描こうとしていることに着目し、理念の内容が抽象的なものから具体的なものへと発展していくためには、個々の事物についての経験的認識が欠かせないことを指摘する見解です。例えば、新人教師の抱く「教師とはこういうもの」という抽象的なイメージが、教師としての具体的な諸々の経験を積み重ねていくことを通じて、具体的な内容を豊かに含んだものに広がっていく過程のようなものだ、ということです。チューターは、これはこれで重要な指摘だと思われるが、哲学史とは絶対精神が自己をよく知ること、という先の見解で示されたような大きな視野での把握ときちんとつなげて理解する必要があるだろう、とコメントしました。ここでもポイントとなるのは「現実の自己意識」というキーワードではないか、すなわち、個としての具体的な人間が世界全体に対峙して、あらゆる物事を他人事ではなく我が事として知っていく過程としてつかむことだ、ということでした。

 なお、ヘーゲルが、学問の形成過程の歩み(経験的なものから始める必要がある)と完成された学問における論理展開(一般的な概念から始めることができる)の違いについて指摘していることについても重要ではないか、との指摘もなされました。

 続いて、ヘーゲルは経験的な認識方法の限界についてどう説いているか、という問題に議論を進めました。この問題をめぐっては、会員間に大きな見解の相違はありませんでした。観察と経験だけで事柄を純粋に取り出したつもりになっているが無自覚のうちに推論や概念を使っていること、経験のみに関わっていると信じていながら知覚を受け取る際に無意識のうちに形而上学的思考を働かせていることが共通して指摘されていました。このことに加えて、ベーコンが目的論的考察に否定的であったことを挙げる見解もありました。この見解についてチューターは、結論的にはそのようにいえるのかもしれないが、ことはそう単純ではないのではないか、と提起しました。ヘーゲルは「外的な目的の考察にベーコンが反対するのは理にかなっている」と述べているからです。外的な目的とは、例えば、まぶたにまつ毛があるのは目を保護するため、とか、動物の毛皮が厚いのは寒暑を防ぐため、とか、木に葉が茂るのは太陽や風から実を守るため、とかいったものです。アリストテレスの自然哲学についてのヘーゲルの議論を振り返ると、有機物というのは自己目的、すなわち、自己自身の維持それ自体を目的としたものと捉えるべきであって、外部に何らかの目的を求めるのはおかしい、という議論が展開されていたのではないか、そういう観点からしてみれば、ヘーゲルは、ベーコンが外的目的の考察というそれまでの自然観察のあり方に反対したこと自体は肯定的に評価しているのであって、その点はしっかりと押さえておくべきだろう、ということでした。ただし、ベーコンは、物の内在的性質や自然の法則といった一般的な概念を形式(フォルマ)的な原因と名づけ、その発見と認識を目標としたものの、それを達成することはできなかった、という趣旨のこともヘーゲルは説いています。この点を捉えれば、ヘーゲルは、ベーコンが目的論的な考察に否定的であったことを彼の限界とみなしていた、という先の見解も、結論的には間違ってはいないだろう、ということになりました。

 最後に、哲学の歴史において果たしたベーコンの役割(意義と限界)を唯物論の立場からどう評価するか、という問題に議論を進めました。

 ベーコンが登場した社会的な背景については、1人の会員が見解を提示していました。それによれば、当時までのイングランドにおいては、王権が有無をいわさず絶対的に支配するというよりも、個々の具体的な勢力がそれぞれの意志を主張してぶつかり合う、という社会的な雰囲気があったのであり、とりわけ商工業の大きな発展は、具体的な経験が何よりも重視される雰囲気を強く醸成したのではないか、ということでした。イングランドにおいて経験論が台頭してきた社会的な背景の説明としては、概ね妥当なものではないか、ということになりました。

 唯物論の立場からみるベーコンの哲学史上の意義については、認識は対象の反映であるという認識の一般論を措定したといえるのではないか、という見解が出されました。この見解に対してチューターは、ベーコンの問題意識は、認識とは何か、といったところにあったわけではなく、教会の権威に代えて自己の感覚を真理の規準として打ち出すところにこそ眼目があったのであり、せいぜい唯物論的認識論の萌芽といったレベルではないか、唯物論的認識論の一般論の措定はジョン・ロックまで待たねばならないのではないか、と指摘しました。このような指摘に対しては、先の見解を出した会員も納得しました。また、教会の権威ではなく自己の感覚を……という点に関わっては、ベーコンのいわゆる「イドラ」論が、問いかけ的反映としての認識のあり方を把握したものだといえることを確認しました。

 ベーコンの限界については、感覚的な経験から如何にして論理レベルの像が形成されていくのか分からなかった、ということを確認しました。

 以上で、この論点2をめぐる議論は一応の終了としました。
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2016年07月04日

2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明(7/10)

(7)論点1:近代の哲学は如何なる課題に取り組んだのか

 前回まで、ヘーゲル『哲学史』のうち、近代哲学の黎明期について論じられている部分の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介し
ていくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、近代の哲学は如何なる課題に取り組んだのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 近代哲学は、古代哲学が到達した原理(現実の自己意識)から出発して、思惟と存在との対立を克服しようとすると説かれているか、これはどういうことか。そもそも思惟と存在との対立とは、中世においてどのようなものとして考えられていたものなのか。この対立の解決をめぐって、哲学が実在論と観念論に分かれるというのはどういうことなのか。また、近代哲学に特有な問いとして4つの対立――@神の理念と存在との対立、A善と悪、B人間の自由と必然、C魂と物質の対立――があげられているが、これらはどのように関連しているのだろうか。
 唯物論の立場からは、近代哲学の登場をどのように評価することができるだろうか。


 この論点をめぐっては、まず、古代哲学が到達した原理(現実の自己意識)とはどういものか、という問題を確認しました。端的には、ギリシャのポリス共同体が崩壊してなかで、人間が個としての自覚を強めて(客観的世界から分離した主観が目覚めて)、この世界のなかで自分が如何に生きていくべきかは自分自身で決めなければならなくなってきた、ということでした。現実世界に対峙する自己という意識が痛切に自覚されるようになったわけです。ここから、思惟と存在との関係、すなわち、自己(主観)と世界(客観)との関係をどう捉えるかという大きな課題が浮上し、この課題をめぐる試行錯誤のなかから、自己と世界の絶対的本質(一者)との同一性を直観的に把握するに至った新プラトン派こそが古代哲学の到達点であったのだ、ということも確認しました。

 その上で、思惟と存在との対立が中世においてどのようなものと考えられていたか、という問題に議論を進めました。この問題については、思惟ばかりが重視されて、存在すなわち客観的な世界はほとんど等閑視されていたのではないか、という見解が出されました。この見解に対してチューターは、思惟と存在という対立構図そのものの存続を前提にしているがそれでよいのか、思惟と存在という対立構図そのものが大きく歪められてしまったことこそが問題なのではないか、と提起しました。その上で、以下のように説明しました。

 そもそも、イエス・キリストの受難を契機として成立したキリスト教は、新プラトン派と同様に、人間と神との本質的な同一性を主張するものでした。しかし、キリスト教の原理が未開民族であったゲルマン人に押しつけられ、カトリック教会の絶対的な権威が確立されていく過程で、個々の現実的な人間は、絶対的な存在としての神から分離されて、教会の権威によって支配される側に追いやられてしまったのです。自己と世界という対立構図と直接的に重なっていた思惟と存在という対立構図(両者の本質的な同一性の予感)は大きく歪められてしまい、「神の国」(宗教的な生活)と「地上の国」(外面的な生活)という対立構図(両者の絶対的分離)が描かれるようになり、自然(外的な自然と人間の自然=本性)は後者に属する価値の低いもので、克服されなければならないものだと捉えられるようになってしまったのです。

 以上のような説明に、他の会員も納得しました。

 このことを踏まえた上で、思惟と存在との対立の克服が近代哲学の課題となった経過について、確認しました。

 簡単には、個々の現実的な人間の力が強まってカトリック教会の絶対的権威に対抗していくようになっていくことで、宗教的な生活を外面的な生活に絶対的に優越させるという中世的なあり方が否定されていき、現実の自己意識が改めて出発点として設定され直されたのだ、ということでした。このことにより、思惟と存在という対立構図が明確に復活させられたのであり、この対立を何とかして克服しようと向かっていったのが近代哲学の歩みにほかならないのだ、ということでした。

 思惟と存在との対立の解決をめぐって哲学が実在論と観念論に分かれるとはどういうことか、という問題をめぐっては、会員間に大きな見解の相違はありませんでした。端的には、思惟と存在との対立を思惟の側から筋を通す形で克服するか、存在の側から筋を通す形で克服するか、対立する2つがあるからそれを克服する道も2つ考えられる、ということでした。

 近代哲学に特有な4つの対立(問い)とはどういうものか、という問題については、思惟と存在という根本的な対立に基づくものだ、この根本的な対立が特殊な形で現われたものだ、ということは共通して指摘されました。ただ、「具体的にどういうことなのかよく分からない」という率直な感想も出されましたので、それぞれの対立について、可能な限り突っ込んで検討してみました。@神の理念と存在との対立については、存在と思考を如何に一致させるかということを、この世界の絶対的本質にかかわるレベルで問うものであろう、ということになりました。A善と悪との対立については、この世界の絶対的本質たる神は理念としては完全な善であるべきはずなのに、現実には諸々の悪が存在する、という矛盾を解こうとするものかもしれない、ということになりました。B人間の自由と必然については、人間は内的には自由に振る舞っているが、外的自然は必然的に決定されているはずである(思惟は自由で、存在は必然である)という対立をどのように克服するか、という問題であろう、C魂と物質(肉体)との対立はBから派生したもので、魂と肉体はどのように結びついているのか、という問題であろう、ということになりました。

 チューターは、思惟と存在という根本的な対立に関わって、その時代の社会的認識――キリスト教の教義を個人の自覚の高まりとの関連でどのように解釈していくか――に規定される形で、もう少し具体的なレベルの一連の問いとして立てられたのが、この4つの問いであろう、と述べました。さらに、こうした流れが、やがてカントの二律背反につながっていくのではないか、との予想も述べました(Bがカントの4つの二律背反の3つ目と同じであることも指摘されました)。

 最後に、唯物論の立場から近代哲学の登場をどう評価するか、という問題について議論しました。

 この問題そのものについては、各会員から提示された見解の間に、大きな相違はありませんでした。チューターは、押さえておくべきポイントは2つあるだろう、として以下のように述べました。

 第一は、近代哲学の登場とは、自然の人間化の進展によって、人間が自然についての理解を深めつつ、それと同時に自然と関わる人間自身への理解も深めてきた流れのなかで、教会の権威(啓示的真理)によらず、自分自身のアタマで外的自然および内的自然(人間の本性)を理解したいという意欲を高めてきた結果にほかならないということです。

 第二は、教会の絶対的権威が具体的な個人を抑えつけていた関係が崩され、自己と世界という対立構図が改めて鮮明に浮かび上がってきたことで、これがやがて精神と物質の対立という構図(どちらが究極の根源かという問い)に整理されていく道筋が見え始めてきたということです。

 以上で、この論点1をめぐる議論は一応の終了としました。
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2016年07月03日

2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、ヘーゲル『哲学史』のうち、近代哲学の黎明期について論じられている部分の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 まず、近代哲学についての序論部分において、ヘーゲルはまず、近代哲学は古代哲学が到達した原理である現実の自己意識という立場から出発すると説いていました。その上で、思惟の世界と存在する宇宙を絶対的に分離してしまっていた中世の立場を超えて、思惟と存在の対立を宥和させる(主観と客観とを統一する)ことこそが近代哲学の課題であったのだ、としていたのでした。ヘーゲルによれば、思惟と存在との対立を克服していくためには、2つの道がありました。第一は、経験を土台とする実在論的な哲学の道であり、第二は、内面的な思考(思惟)から出発する観念論的な哲学の道です。さらにヘーゲルは、近代哲学に特有な対立(問い)として、神の理念と神の存在との対立、善と悪との対立、人間の自由と必然との対立、魂と肉体との対立を挙げていました。これらの対立の存在を確認したヘーゲルは、近代哲学について、@存在と思惟の統一が独自の試案として具体性のない形式で予告される時期、A形而上学的統一として本来の近代哲学が始まる時期、B実現されるべき統一がどのようなものかが意識の対象となる時期、という3つの段階を経て発展していくのだ、という展望を示していました。

 続いて、ヘーゲルは、近代哲学の黎明期を対照的な形で代表する2人の人物として、イングランドの政府高官であったフランシス・ベーコンと、ドイツの靴屋の親方であったヤコブ・ベーメについて論じていました。

 ヘーゲルは、ベーコンについて、彼が導入した帰納法という方法、すなわち、経験を認識の唯一の源泉とみなし、経験にもとづいて思惟を秩序立てる方法こそ注目に値するものだ、と説いていました。ヘーゲルは、経験的な側面を研究することこそが、理念の発展と具体化にとって本質的な条件であり、ベーコンの指示によって生み出された経験的な近代科学がなければ、近代哲学は古代哲学を超えるものにはならなかっただろう、とも説いていました。一方で、ヘーゲルは、ベーコンの限界として、推論や概念なしに事柄を取り出すことなどできるはずがないのに観察と探究と経験だけから事柄を純粋に取り出した気になっていたこと、無意識のうちに形而上学的思考を働かせているのにそのことに気づいていないことなど、ベーコンの限界を指摘してもいました。

 ヘーゲルは、ベーメについて、ドイツで初めての哲学者であり、彼の哲学の内容は正真正銘のドイツ流である、としていました。ベーメの際立った特徴は、知的世界を自分の心情の内部に移し入れ、かつては彼岸にあった一切を自分の自己意識において直観し認知し感じるという、プロテスタントの原理であった、というのです。ヘーゲルは、ベーメの根本理念が一切を絶対的な統一のうちに維持することにあり、その中心思想は万物のうちに神聖な三位一体を捉えることである、と説いていました。ベーメの神は、自分で自分を分割していく対立物の統一体としてイメージされており、存在する一切のものはこの分割から流出すると捉えられたのだ、ということでした。このようにヘーゲルは、絶対的な対立を統一しようとするベーメの思想の深みについては高く評価していたのですが、一方で、彼が概念を欠いていたために、非常に強引で支離滅裂な記述にしかならなかったことも指摘していました。

 2016年6月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。


1、近代の哲学は如何なる課題に取り組んだのか

 近代哲学は、古代哲学が到達した原理(現実の自己意識)から出発して、思惟と存在との対立を克服しようとすると説かれているか、これはどういうことか。そもそも思惟と存在との対立とは、中世においてどのようなものとして考えられていたものなのか。この対立の解決をめぐって、哲学が実在論と観念論に分かれるというのはどういうことなのか。また、近代哲学に特有な問いとして4つの対立――@神の理念と存在との対立、A善と悪、B人間の自由と必然、C魂と物質の対立――があげられているが、これらはどのように関連しているのだろうか。
 唯物論の立場からは、近代哲学の登場をどのように評価することができるだろうか。


2、フランシス・ベーコンの意義と限界とは

 ヘーゲルは、ベーコンについて経験的な認識の進め方についての一般原理を打ち立てたと評価している。ヘーゲルは、哲学史の歩みにおいて経験的な側面の研究が果たした役割についてどのように捉えているのか。経験的な側面の研究(形成)が理念の発展と具体化(規定)にとって必然的な条件となる、と説かれている(藤田訳ではp.25、長谷川訳ではp.172〕)が、これはどういうことなのか。また、経験的な認識方法の限界について、ヘーゲルはどのように説いているか。
 唯物論の立場からすれば、哲学の歴史において果たしたベーコンの役割(意義と限界)をどのように評価することができるか。


3、ヤコブ・ベーメの意義と限界とは

 ヘーゲルは、ベーメの一般観念は深遠で根本的なものだが、その記述は粗野なものである、と述べている。ヘーゲルは、ベーメの思想の深遠さは、(α)神の子なる光が諸性質から産出されるという生き生きとした弁証法、(β)神(光)が自己自身を分離すること、の2点に認められるとしている(藤田訳ではp.69、長谷川訳ではp.203)が、これはどういうことなのか。一方で、そうした深遠な思想が非常に粗野な形でしか展開されえなかったのは何故なのか。
 唯物論の立場からすれば、哲学の歴史において果たしたベーメの役割(意義と限界)をどのように評価することができるか。
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2016年07月02日

2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』ヤコブ・ベーメ(続) 要約

 前回は、ヤコブ・ベーメについて論じられた部分の前半の要約を紹介しました。そこでは、ベーメが善と悪といった対立物を統一しようと悪戦苦闘したものの、概念が欠けていたために、恐ろしく乱暴で粗野な力が必要となったこと、ベーメの中心思想が、万物のうちに神聖な三位一体を捉え、一切を三位一体的の顕現として捉えようとするものであったことが説かれていました。

 さて、要約文紹介の最後となる今回は、ヤコブ・ベーメについて論じられた部分の後半の要約を紹介します。ここでは、全ての力の源泉たる「父なる神」から、光り輝く力である「永遠なる子」が生れ、さらに光と力の実体との内的統一たる聖霊へと至る、というベーメの三位一体的なイメージが説明されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2、対立と苦悩

 第一に来るのが全ての力や性質の源泉ないし胚胎であったとすれば、第二はその出現である。この第二原理は極めて多様な形式をとって現われる中心概念のひとつで、例えば、言葉、分割者、苦悩、啓示、などの形式で現れるが、一般的にいえば、自我の働きによって生じる全ての区別や意志の源泉であり、さらには自然物の力のうちにあって、光がのぼるとき安定へともたらされる内面存在の源泉である。
 (a)第二段階についてベーメは、絶対的な存在としての神の直観ないし認識のうちに分裂が生じなければならない、という。なぜなら、不快感がなければ絶対的存在は何も明らかにならないからである。自分と対立するものをもたない限り、それはいつもひとりで外に向かうだけで自分に帰ってくることがないが、自分の出発点であった自分の内部に戻ってこない限り、自分の原状態については何もわからない、という。見られるように、ベーメは、最高の存在という空虚な抽象などとは比較にならないほどの高みに立っている。
 (b)ベーメは、全ての存在の始まりは神の言葉である、という。言葉は一なる神の流出であり、啓示された神そのものである(ギリシャ語のロゴスはもともと言葉と理性の両方を意味する単語)。流出する言葉は全ての力をもった知恵であり、色、徳、性質の始まりであり、原因である。全世界とはまさに創造力によってつくられた神の存在にほかならない。
 (c)ベーメは、子は父に由来し、父のうちにあり、父の心臓であり光である、という。子は太陽が世界全体に光を与えるように、父の全体に光を与える。子の生命力が重要である。
 (d)抽象的な中性体たる神とは別のものとして、全ての存在と被造物の創造主として、神の似姿が現われる。それは意志の流出のなかで全体を分割し、永遠なる一の意志を宥和させ、宥和した意志のなかから力と性質を根源的に生みだす。しかし、神の第一子ルシフェルと呼ばれるこの分割者は堕落し、代わってキリストが登場してくる。それが神と悪魔とのつながりである。まず他なる存在があり、次に自分に向き合う存在、一に向き合う存在があって、他が一と対立する。それが神のうちにあって神から発する悪の起源である。自己知とは、自分と向き合うこと、一切を自分のうちに焼き尽くす火だからである。ここにベーメ思想の深遠の極致がある。分割者のうちにはそのような否定的な苦悩があり、それがすなわち神の怒りである。神の怒りとは地獄であり、自分の力で自分のうちに向って想像力を働かせる悪魔である。
 (e)この分割者は、自分のなかから性質をくりだし、そこから無限の多様性が生じ、それによって永遠なる一は、統一体からの流出として感覚されるようになる。流出はどんどん進んで極限の鋭さに至り、火を噴くようになる。この火が高まって切迫してくると光が生じる。この光が他の原理を受け止める形式となる。それが一に帰っていく過程である。
 (f)ベーメは、分割者における対立をいうのに、「イエス」と「ノー」の形式を用いる。「イエス」はまったき力、生命であり、神の真理もしくは神そのものである。が、神は「ノー」がなければ自分が何者か分からないし、内部の喜びも感覚ももたないであろう。「ノー」は「イエス」の対極にあって、真理の存在を照らし出し、そこに対立が生れ、永遠の愛が発動し、感受され、意志されるのである。たえず対立し続ける「イエス」と「ノー」がなければ、全ての事物は無であり、運動なしにじっとしているだろう。――以上が第二段階の要旨であるが、ベーメには概念が欠けていて、宗教的な表現形式と化学的な表現形式しかないために、思想の深みで悪戦苦闘している。
 (g)感覚の無限の働きのなかから目に見える世界が生じる。世界とは流出した言葉が性質のうちに入り込み、自分の意志を勝ち取ったものである。


3、三位一体

 最後に来るのが三位一体の形式であり、光と分割者と力の統一であって、それが聖霊である。ベーメの抱く本質的なイメージはこうである。自然と被造物の深淵(存在)が神そのものである。どこかに神という名のひとつの物体(7つの泉の精霊がうむ物体ないし心臓)があると考えてはならない。全天をまとめる天である全体的な神の力が父なる神とよばれ、そこから全ての天使や人間精神が永遠に生れてくる。天上でもこの世でも、どこかに神の生まれない場所といったものを指定することはできない。空間的な被造物の円環を閉じ、そこに神があると考えるなら、そこにはすでに神の泉の7つの精霊が存在する。
 この三位一体は普遍的な生命であり、あらゆる個体のうちに欠けることなく存在する生命であり、絶対的な実体である。この世の全てのものはこの三位一体の似姿をとって生成する。人間の心臓や血管や脳髄に宿る精神、そこに働く力は全て父なる神を指し示す。その力から立ち現れる光で全身が力と認識を得て活動する。それが子なる神である。その光のなかから現われる理性、知性、技術、知恵が同じ力となって現われ、全身を統制するとともに、身体の外にあるもの全てを弁別する。この2つの働きが心の支配下でひとつとなるのが精神であり、それこそが聖霊の似姿である。木や石や茎にも3つのものがある。第一に力があり、そこから身体が生じ、木や石や茎になる。次に同じ物体に樹液が生じ、それが事物の心臓となる。第三に、そのなかに力が溢れ、匂いや味が生じ、それが事物の精神である。それによって生長や繁殖が行われる。3つのうちどれか1つでも欠けると、事物はもちこたえられない。このように、ベーメは全てが三位一体をなすものと考えている。
 ベーメの個々の記述には曖昧なところが多く、具体例をめぐる解説にはあまり汲み取るべきものはない。

 ベーメの深遠な思想は、(α)神の子なる光が、性質から生み出されるという生命力溢れた弁証法、および、(β)光そのものの分裂、の2つに認められる。論の進め方が粗野なのは明白だが、彼は思想に言葉を与えようとして、神の塩、チンキ剤、エキス、苦悩、爆発などの感覚的イメージを強引に用いたのである。しかし、一方で、絶対的な対立を統一しようとして悪戦苦闘する思想の底深さも明白で、彼は対立を極端な荒々しさのうちに捉えながら、その厳しさに怯むことなく統一を打ちたてようとしたのである。その表現形式は人を納得させるものではなく、細部については明確なイメージをつくることが不可能である。しかし、この人のうちにどれほどに深い哲学的思索の欲求があったか、それを見損なう人はいないだろう。
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2016年07月01日

2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』ヤコブ・ベーメ 要約

 前回は、フランシス・ベーコンについて論じられた部分の要約を紹介しました。そこでは、ベーコンがスコラ派のやり方に反対して現にあるものをありのままに観察しようとしたこと、経験的な認識の進め方についての一般原理を打ち立てたことが評価されていました。同時に、推論や概念を否定しようとしつつ自ら無意識のうちに推論を行っていたこと(そもそも推論を排除することは不可能であること)、物の内在的性質や自然の法則を認識しようとしつつ果せなかったことが限界として指摘されていたのでした。

 さて、今回は、ベーコンの対極において近代哲学の黎明期を代表するもう1人の存在たるヤコブ・ベーメについて論じられた部分の前半部分の要約を紹介することにしましょう。ここでは、ベーメが如何にして善のうちに悪を捉えるか、神を出発点として悪魔を捉えるかを問題としたものの、概念が欠けていたために、その思想が極めて強引で粗野な表現にしかならなかったことが説かれています。

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B ヤコブ・ベーメ

 ベーコンの対極をなすのがチュートンの神智学者ベーメである。イギリスの司法長官にして外的感覚的な哲学の総帥から、いわゆるドイツの哲学者にしてラウジッツ出身のドイツ人靴屋に目を向けよう。
 ベーメはラウジッツ北部、ゲルリッツ近郊のアルト・ザイテンベルクで、1577年、貧しい両親の子として生まれ、若い頃は農家で家畜の番をしていた。彼はルター主義の教育を受け、ルター主義を離れることはなかった。彼は、靴屋の下に修行にやられ、1594年には自ら親方となり結婚した。一生のうち何度か、神々しい光に囲まれ、最高の瞑想と喜びの日々を送る、といった感情の昂ぶりを経験している。1624年、靴屋の親方として亡くなった。
 彼の最初の著作は『黎明』で、以後たくさんの著作があるが、最も有名なのは『3つの原理について』と『人間の3つの生き方について』である。彼が大変な読書家であったのは確かで、特にパラケルススの作品を含む、神秘的、神智学的、錬金術的著作をよく読んでいる。彼は「チュートンの哲学者」と呼ばれたが、実際、彼によってはじめてドイツに独自の性格をもつ哲学が生み出されたのである。
 ヤコブ・ベーメは初めてのドイツの哲学者であり、その哲学の内容は正真正銘のドイツ流である。ベーメの際立った特徴は、知的世界を自分の心情の内部に移し入れ、かつては彼岸にあった一切を自分の自己意識において直観し認知し感じるという、既に述べたプロテスタントの原理である。一方で、ベーメの一般観念は深遠にして根本的なものであるが、他方、その神秘な宇宙観を展開する上で、明晰さと弁別が必要で、その努力をしてほしいと思うのに、叙述には明瞭さも秩序もない。体系的なつながりに欠け、分類の仕方にも大きな混乱が見られる。結局は支離滅裂である。
 彼の記述の方法は粗野なものといわねばならない。ベーメは、絶対的存在の生命や運動を心情のうちに感じるとともに、全ての概念を現実のうちに直観する。換言すれば、現実を概念として扱い、概念内容を提示するかわりに、自然物や感覚的性質を強引にもちだしてきて自分の理念を記述する。例えば、硫黄や水銀などは、彼にあっては、普通にいう物ではなくて、物の本質を現わし、概念が現実の形をとったものである。彼は理念に深い関心をもち、理念と格闘する。彼が述べようとする瞑想上の真理は、思考という形式がなければ捉えられない。思考のうちにこそ統一があって、彼の精神はその統一の中心にあるものと捉えられねばならないのであるが、まさにその思考の形式が彼には欠けている。思考によって統一がもたらされない以上、記述が強引なものになってしまうのは当然である。
 もうひとつ、彼は理念の形式として感覚的なイメージで語るキリスト教の形式を採用している。それは一面では粗野なやり方であるが、他面では、全てのものについてその現実ないし心情から出発して語るという臨場感があり、天上のことも自分の内面に引き下ろされる。
 信仰者にとっては精神が真理であるが、その真理には自己確信という要素が欠けている。自己意識にあっては思考や概念が、つまりブルーノのいう対立物の統一が不可欠だとすれば、まさに信仰に欠けているのがこの統一である。信仰の様々な要素は、特殊な形態をもつものとしてバラバラに存在し、特に、最高の要素たる善と悪、神と悪魔などがそうなっている。神は存在し悪魔もまた存在し、両者はそれぞれにある。神は絶対の存在だが、全ての現実を、とくに悪を所持しない絶対の存在とはどういうものか。ベーメは、如何にして善のうちに悪を捉えるか、神を出発点として悪魔を捉えるかを問題とした。しかし、彼には概念がなかったため、この問題は苦痛に満ちた闘争としてイメージされるだけであった。かれは、善と悪といった対立物を統一し、結合しようと悪戦苦闘するが、概念が欠けているために、恐ろしく乱暴で粗野な力が必要であった。
 彼の文章の背後には、哲学的思考が隠されているが、それにふさわしい表現を得ていない。彼には体系的な叙述を期待できないし、細部の正確な追究も期待できない。神の理念のうちに否定的なものを捉え、神を絶対のものとして捉えることは、思想形成がまだ極めて不充分なベーメにとっては、ぞっとするような闘いである。
 私はまず、ベーメの主要な理念に簡単に触れ、次いで、彼の掲げる個々の問題や形式をみていく。彼の根本理念は、一切を絶対的な統一のうちに維持すること――神の絶対的な統一と全ての対象の神のなかでの合一――にある。彼の中心思想、いうならば一切を貫く彼の唯一の思想は、一般化していえば、聖なる三重性、万物のうちに神聖な三位一体を捉え、一切を三位一体的の顕現ないし表現として捉えることである。三位一体こそ、全ての存在を成り立たせている一般原理であり、しかも、万物はこの三位一体を、イメージの三位一体ではなく、現実の、絶対の、理念としてうちに含む。ベーメの中心思想は、宇宙が全一の神の生命であり、万物が神の啓示である、ということである。詳しくいえば、全ての力や性質を包括する神という存在から、永遠なる子が生れ、それが力となって光り輝く。光と力の実体との内的統一が聖霊である。

1、父なる神

 第一に来るのが父なる神である。一なる存在としての神のうちに苦悩による区別が生じる(苦悩ということばは絶対的な否定力を、つまり自己を否定する力を、したがって絶対的な肯定を表わす)。問題の全ては、対立を含む否定的なものを単一体として思考することにある。つまり、苦悩(Qual)は内面の分裂であるとともに単一体でもある。そこから源泉(Quelle)が導かれる。否定力たる苦悩が生命力や活動力へと連なり、こうして苦悩は性質(Qualität)ともつながる。区別されたものが絶対的に同一であることを彼は断固として主張するのである。
 (a)ベーメの神は空虚な単一体ではなく、自分を分割していく対立物の統一体としてイメージされる。最初の一なるものは、様々な要素の全てがそこで調和する統一体とされ、偉大なる塩とも呼ばれる(塩というのは中世の一般的物質を表わす)。新プラトン派の一が知られざるもの、隠されたもの、認識されないものであったように、この偉大なる塩も、隠された、啓示されない存在である。
(b)父なる神は、全ての力と性質を未分化のまま含んでおり、この神の塩はまた全ての性質や力を含む神の肉体としても現われる。だからこそ、神は全ての実在の実在だといわれる。自然の全体、すなわち、天と地、天地のうちなる万物、天を超えたもの、等々を含めて、神の肉体であるとされるのである。
(c)中心概念のひとつが性質である。『黎明』には「性質とはものの動き、源泉、衝動である」という言葉があって、後にそれが苦悩に結びつく。そこには熱があり、熱が全ての万物の源泉となり、自然の全ての力を支配し、全てを温める。熱のなかの光が全ての性質に力を与え、全てを愛らしい歓喜に満ちたものにする。
 彼はまた全ての力を父とも名付け、この力を主だった7つの泉の精に分けるが、そこには混乱があって区分は明確ではない。7つが相互に浸透しあってひとつの精神となり、それぞれが神のうちで全体をなす、とされる。
 ――神が全てである以上、善のうちに悪を捉え、神のうちに悪魔を捉えることが求められる。この闘いがベーメの著作を全体として特徴づけ、彼の精神の苦悩を表わす。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
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 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
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 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
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 ・わかるとはどういうことか
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 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
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 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
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 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
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 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言