2016年07月31日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(3/10)

(3)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約A

 前回は,思惟する悟性の時期について,形而上学について,さらにデカルトのさわりの部分について,要約を紹介しました。そこでは,デカルトとともに自己意識が真理の本質的契機であることを自覚している本格的な哲学に足を踏み入れること,形而上学は実体への傾向にほかならないから,二元論に反対して,ひとつの統一,ひとつの思惟を確立しようとすること,デカルトは,ものごとをもう一度全くはじめからやりなおし,哲学の土台を新しく形成した巨人であることなどが説かれていました。

 今回は,デカルト哲学の内容について説かれている部分の要約を掲載します。有名な「我思う,ゆえに我あり」という命題について,そして,物体と延長について説かれていきます。

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一,「我思う,ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)

 デカルトは,哲学において全く新たな転回を成し遂げた。彼とともに哲学の新しい時代が始まる。精神の高度な原理が普遍的な形式のもとに捉えられる。デカルトの出発点は,思想は自己自身からはじめられなければならないという点にあり,一切の従来の哲学的思索,特に教会の権威から発するものは無視されるに至った。しかし,思惟はここで抽象的悟性としてのみ自己を把捉しており,これに対して具体的内容は悟性からは演繹されず,経験的なやり方ではじめて受け入れられたのである。

 (a)人はただ思惟そのものから出発しなければならないことをデカルトは,「一切を疑わなければならぬ」と表現する。あらゆる偏見――直接に真理とみなされる全ての前提――を捨て去り,思惟を純粋なはじまりとして,そこから確実なものにいたるべきだ,というのである。しかし,デカルトがこの偉大で重大な原理の根拠としてあげるのは,感官も誤ることがあるとか,目の前のことを夢か夢でないか確実に判別できるのか,といった素朴で経験的な理由でしかない。デカルト的形式においては,自由の原理そのものが掲げられないから,通俗的な理由しか現われないのである。
 (b)デカルトは,それ自体として確実で真なるものを求める。デカルトにあっては,およそ何ものにせよ,意識おける内的明証をもたないもの,理性が明晰判明に疑いの余地なく認識したもの以外は真理ではない。「我思う,ゆえに我あり,という認識こそ,秩序だって思索する全ての人に第一に示される,最も確実な認識である」とデカルトはいう。「我思う」は,直接に私の存在を含んでおり,これが全ての哲学の絶対的基礎だと彼はいう。ここでは思惟と存在が不可分に結合されている。
 この命題をひとつの推論とみなす考えがあるが,そうすると,この命題のいおうとする真理の直接性が破棄されてしまう。この「ゆえに」は推論の「ゆえに」ではなく,存在と思惟の直接のつながりをいうものにすぎない。他の全ての命題はこのつながりの後にあらわれる。
 こうして哲学は再び本来の土台の上に立つことになった。思考は内面的に確実な自己から出発し,外的なもの,与えられたもの,何らかの権威にはよりかからない。思惟は「我思う」のうちにある自由を端的な出発点にするのである。
 (c)第三に取り上げるべきは,この確実性の真理ないし具体的な内容への移行のあり方である。デカルトはこの移行を如何にも素朴に行う。物体に関する知は,神の存在が証明されることではじめて真理であることが保証される。自己意識と対象意識との統一は神の手にゆだねられており,神そのものが統一だとされる。思惟と存在が統一された上に,神の存在論的証明が付け加わる。「神という完全無欠の存在の概念には,必然の存在が含まれる。そうでなかったら神は不完全な存在だということになろうから。」しかし,このような形で神という観念をもちだすのは,筋の通ったやり方とはいえない。神という観念形式のもとにあるのは,「我思う,ゆえに我あり」のうちにあるのと別のイメージではなく,存在と思惟との不可分の結合というイメージが,私が私のうちに所有するものという形態をもっているだけである。全能,全知,等々といった観念の内容は,全て後から付け加わった述語であり,それらの内容そのものは,あくまで観念の内容であって,それが後に実在や現実と結びつけられる。だから,これらの内容は経験的に次々と取り出されてきたものにすぎず,哲学的に証明されていない。アプリオリな形而上学において諸々の観念が前提され,前提された観念が思惟されているにすぎず,そのやり方は,経験的世界で探究や観察や経験が行われるのと変わらない。
 (d)第四に注目すべきは「神の啓示するところは,たとえ理解できなくても信じなければならない。我々が有限な存在である以上,神の本性のうちに,我々の理解を超えた無限なものがあったとしても,不思議はないのである。」ここでは議論が常識論に堕している。「神が誠実な存在である以上,……明晰に知覚されたものに目を向ける限り,誤ることはあり得ない。」ここでは全てが単純率直に述べられているが,内容は曖昧である。形式的に深みがないいい方で,まさにそうなのだ,といわれているにすぎない。

二,物体と延長

 デカルトは永遠の真理と対立する事物の考察に移り,事物は思惟するものと延長をもつものという2種類に分けられる,とする。思惟,概念,精神,自己意識は自分のもとにとどまるものであり,それと対立するのが自分のもとにとどまらない不自由な延長体(空間,外への拡がり)である。この2つは,それ以外のものより普遍的な存在であり,他の有限な事物は存在するためにさらにほかの事物や条件を必要とするのに対して,自然の領域をなす延長実体と精神としての実体は,互いに相手を必要としない。この2つが実体と名づけられるのは,それぞれがそれ自体でひとつの全域,全体をなすからである。2つの実体は,その本来のあり方からすれば同一で,絶対の実体たる神によって絶対の同一性を保証されている。
 デカルトは,思惟は精神の絶対的属性を構成し,延長は物体の本質的規定であって,それ以外のものはただ二次的性質たる様態にすぎないという(例えば,延長における形態や運動,思惟における想像力,感覚,意志等)。彼は延長物を追究しながら,形態や運動などを単なる感性的に把握するだけで,思惟することをしない。しかし,感性的特性の止揚は思惟の否定的運動であって,ここでは物体の本質は思惟によって制約されてしまい,真の本質となっていないのである。
 デカルトは,延長の概念から運動の法則へと考察を進める。延長と運動は力学の根本概念で,物体世界の真理を映し出す。彼は,感覚的性質の実在性をはるかに超えて自然を捉えようとしたが,自然の理念が特殊な場面でどう働くかを追究するには至らなかった。だから,力学的理解にとどまったのである。デカルトの自然哲学は,全ての関係を力学的運動に換言する,純粋に力学的なものである。この自然観は不十分なもので,生命現象などを説明できないが,思考に明確な枠組みを与え,その枠組みが自然の真相をなすものとした点で,偉大であった。

三,精神の哲学

 もうひとつが精神の哲学で,ここでも形而上学的な部分と経験的な部分がいりまじっている。デカルトが特別に注いで築いたのは物理学で,倫理部門までは手がまわらず,わずかに『情念論』なる論文が公刊されただけである。デカルトの形而上学は,全く素朴に綴られていて,哲学的思考からは程遠いものである。デカルトにあっては,思惟が原理とされてはいるが,この思惟がいまだ抽象的かつ単純で,具体的な内容をうちに含むものではなく,内容は経験から獲得せねばならない。思惟から具体的内容を発展させるべきだといった要求が,いまだ感じられていないのである。

 デカルトは,「我思う」という意識のなかに精神の自立性の基礎をおいた。デカルトは,この抽象的な自己と外部の個物を結合する中間項が神であるとした。ただ,デカルトの場合,神が第三者として両者の外に現れるために,統一が概念化されることはなく,思惟と身体が概念として捉えられることもない。思想へ返っていく仕事は,次のスピノザが引き受ける。

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2016年07月30日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(2/10)

(2)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約@

 前回は,例会の冒頭で提示されたレジュメを紹介し,そのレジュメにかかわった出されたコメントを紹介しました。

 さて今回から4回にわたって,2016年7月例会の範囲の要約を掲載していきます。今回は,ヘーゲルによって「思惟する悟性の時期」と名付けられた,デカルトから始まる時代の総論的な部分と,ヘーゲルが形而上学について説いている部分,さらにはデカルトの生涯について触れられている部分の要約です。

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第2節 思惟する悟性の時期

 デカルトとともに,我々は,新プラトン学派およびこれと関連する諸学派以来はじめて,本格的な哲学に足を踏み入れる。それは,理性を自立的な出発点とし,自己意識が真理の本質的契機であることを自覚している哲学である。とはいえ,哲学の原理が,思想から出発して首尾一貫して発展していく,といったことを期待するわけにはいかない。人間が反省的思考によってのみ真理に到達できるという古来の先入見が依然として前提され,これが文句なしに基礎となっている。しかも,神の規定,現象する多の世界観はいまだ思惟から必然的に発するものとして示されるには至らず,そこにあるのは,イメージや観察や経験によって与えられる内容についての思惟にすぎない。
 一方には形而上学があり,他方に特殊な学問がある。一方に抽象的な思惟そのものがあり,他方に経験に由来する思惟の内容がある。思惟に妥当する諸規定は思惟そのものから取り出されるべきだというア・プリオリな思惟と,我々は経験からはじめ,推理し思惟しなければならない,という規定との対立がある。これこそ,合理論と経験論との対立であるが,その対立はとことんまで突き詰められるものではない。というのも,内在的な思惟のみに価値を認める哲学が,思惟の必然性に依拠して首尾一貫した方法的発展の道筋をたどるのではなく,内外の経験からも内容を得てくることがあって,形而上学的側面に経験的な方法が入り混じるからである。
 第一に,思惟によって生み出される哲学の形式として,形而上学の形式,つまり思惟する悟性の形式がある。この時期に属する主要人物は,デカルトとスピノザ,マルブランシュ,更にはロック,ライプニッツ,ヴォルフ等である。第二に,懐疑論および批判主義である。これは思惟する知性や形而上学そのものに反対し,また,経験主義の一般理念に反対する。認識を純粋に認識として考察する試み,換言すれば,概念内容を認識そのものから導き出し,どのような概念内容が認識から出発してくるか,考察する試みである。ここで我々は一部はスコットランド哲学,一部はドイツ,一部はフランス哲学のさらに進んだ形態について述べるであろう。一方フランスの唯物論者に至っては,やがて再びまた形而上学へと逆行するのである。


第1章 悟性形而上学

 形而上学は実体への傾向にほかならないから,二元論に反対して,ひとつの統一,ひとつの思惟を確立しようとする。古代人が「有」を確立しようとしたのと似ている。しかし,形而上学それ自身の内部には,実体を重んじる立場と個体を重んじる立場との対立がある。第一は,無邪気で無批判な形而上学であり,存在と思惟の統一を立てるデカルトとスピノザである。第二は,経験の形而上学的な理念を考察しつつ対立そのものを扱うロックである。第三にライプニッツの単子に至ってはじめてそれ自身世界観の総体となるのである。

A 第一部門

 我々は第一にデカルトの生得観念に突き当たる。第二はスピノザの哲学,それはデカルトの哲学に対してその一貫した徹底化という関係を有するにすぎず,ここでは方法がおもな問題である。第三にスピノザ主義と並んでデカルト主義の完成形態として,マルブランシュがこの哲学をどう受け取ったが問題になる。

1,デカルト

 ルネ・デカルトは,ものごとをもう一度全くはじめからやりなおし,哲学の土台を新しく形成した巨人である。この地盤に,哲学は1000年の迂回の後,ようやく本来の場所に立ち戻ったのである。同時代および哲学教養一般に対するデカルトの多大な影響力のうち,その核心をなすのは,全ての前提を排し,自由で単純で誰にも分かるやり方をもちいて,誰でも思いつく思想や全く単純な命題を出発点として,対象となる内容を思想と延長(あるいは存在)に還元し,思想にいわばその対立物をぶつけた点にある。この単純な思惟は明確な悟性の形式で現れるので,思弁的思惟,思弁的理性と呼ぶことはできない。デカルトが出発するのは,ただ思想の規定であり,これがこの時代のやり方なのである。フランス人が精密科学,明確な悟性の科学と呼んだものは,この時代とともに始まった。哲学と精密科学の分離はさらに後になって起こる事柄である。

〔デカルトの生涯〕
 彼は1596年トゥレヌのラ・エーにおいて旧貴族の子として生まれた。イエズス会の学院で教育を受け,あらゆる方面に関心を向けてめざましい進歩を示した。書物を頼りとする研究への反感を強めて,学院を去ることになったが,学問への熱意はいよいよ掻き立てられるばかりであった。
 18歳の時パリに行き,上流社会の人となったが,そこでも満足は得られず,パリ郊外に隠棲して数学の研究に打ち込むものの,2年後に旧友に所在をつきとめられ,上流社会に連れもどされた。今度は書物の研究を全く断念し,軍務についたが,荒廃した戦場の光景に満足できず,1621年に軍隊を去り,ドイツの各地,ポーランド,スイス,イタリア,フランスを巡り歩いた。
 その後,彼はさらなる自由を求めてオランダに隠棲し,哲学の改造という自分のもくろみを実行に移した。晩年,スウェーデン女王に招かれて当代の最も著名な学者の集まるストックホルムの宮殿に赴き,この地で1650年に没した。
 デカルトは,哲学だけでなく,数学についてもあらたな興隆のきっかけをつくった。解析幾何学は彼の発明したもので,それは現代数学の針路を指し示すものであった。彼は物理学や光学や天文学にも身を入れ,その方面でも大発見をしたが,そうした点にはここでは触れない。

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2016年07月29日

2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約@
(3)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約A
(4)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約B
(5)ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:形而上学の時代とはどういうものか?
(8)論点2:デカルトの哲学とはどういうものか?
(9)論点3:スピノザの哲学とはどういうものか?
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は,昨年および今年の2年間を費やして,ヘーゲル『哲学史』の学びに取り組んでいます。3年前のヘーゲル『歴史哲学』,一昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて,この『哲学史』を通読することにより,ヘーゲルが描く哲学史の流れを理解することはもちろんのこと,それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた一歩を確実に進めていくことを課題としています。

 7月例会では,「思惟する悟性の時期」とされる時代の始まりの部分を扱いました。具体的な哲学者としては,デカルト,スピノザ,およびマルブランシュが取り上げられていました。今回の例会報告では,まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと,扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し,ついで,参加者から提起された論点について,どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に,この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

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ヘーゲル『哲学史』(思惟する悟性の時代)

1.形而上学の時代とはどのようなものか

 ヘーゲルは,デカルトとともに,本格的な哲学に足を踏み入れるとしている。本格的な哲学とは,理性を自立的な出発点とし,自己意識が真理の本質的契機であることを自覚している哲学である。思惟によって生み出される哲学の形式として,ヘーゲルは形而上学の形式(思惟する悟性の形式)と,懐疑論および批判主義があるとしている。
 ヘーゲルによれば,形而上学は,二元論に反対して,ひとつの統一を確立しようとするもので,その内部には,実体を重んじる立場と個体を重んじる立場との対立がある。第一は,存在と思惟の統一を立てるデカルトとスピノザである。第二は,経験の形而上学的な理念を考察しつつ対立そのものを扱うロックである。第三にライプニッツの単子に至ってはじめてそれ自身世界観の総体となるとヘーゲルは述べている。

<報告者コメント>

 この形而上学の時代というのは,一言でいえば,世界について1つの原理から把握しようとする傾向が生まれた時代ということになるだろう。こうした問題意識が生まれた背景には,当時の混乱した社会情勢が大きくかかわっていると思われる。カトリック教会の絶対的な支配が崩れる中で,政治的には諸国が国家としての枠組みを固めていき,また宗教的には新教徒が勢力を伸ばすようになり,ヨーロッパでは様々な対立が生じるようになった。その最も代表的なものが三十年戦争だと言えるだろう。こうした中で,「一体何が正しいのか」という問題意識が社会的認識として浮上してくることになったのだと思われる。そこで絶対に正しい1つの原理を求める傾向が芽生えてきたのだろう。
 これを個体発生になぞらえるならば,青年期に相当するのではないか。『手にとるようにわかる発達心理学』では,「青年期には『自分とはどんな人間なのか』『自分は将来どんなことをやりたいのか』『自分の生きている意味は何だろうか』といった問題について模索し,ゆるぎない自分を確立することが必要になるのです」とかかれている。これをアイデンティティの確立と呼ぶが,それを求め始めた時期ということになるのではないか。

2.デカルトの哲学とはどのようなものか

 デカルトの出発点は,思想は自己自身からはじめられなければならないという点にあるとされる。これを「一切を疑わなければならぬ」と表現する。あらゆる偏見を捨て去り,思惟を純粋なはじまりとして,そこから確実なものにいたるべきだ,というのである。デカルトは「我思う,ゆえに我あり,という認識こそ,秩序だって思索するすべての人に第一に示される,最も確実な認識である」と言う。ヘーゲルは,この「我思う」は,直接に私の存在を含んでおり,これが全ての哲学の絶対的基礎だという。ここでは思惟と存在が不可分に結合されており,哲学は再び本来の土台の上に立つことになったと評価している。
 ヘーゲルによると,デカルトは事物を思惟するものと延長をもつものという2種類に分けたとされる。自然の領域をなす延長実体と精神としての実体は互いに相手を必要としない。思惟は精神の絶対的属性を構成し,延長は物体の本質的規定であって,それ以外のものはただ二次的性質たる様態にすぎないという。そこで,デカルトは延長の概念から運動の法則へと考察を進める。延長と運動は力学の根本概念で,物体世界の真理を映し出す。このようなデカルトの自然哲学をヘーゲルは,全ての関係を力学的運動に還元するものだとしている。一方,精神の哲学は,形而上学的な部分と経験的な部分がいりまじっており,デカルトの形而上学は哲学的思考からは程遠いものだとしている。
 デカルトは,「我思う」という意識のなかに精神の自立性の基礎をおき,この抽象的な自己と外部の個物を結合する中間項が神であるとしたが,神が第三者として両者の外に現れるために,統一が概念化されることはなかったとヘーゲルは述べている。

<報告者コメント>

 絶対的な真理を求める傾向が芽生える中で,そもそもそれが真理であるかどうかをどうやって判断するのかという問題に解答を与えたのがデカルトだということになるだろう。それ以前は教会の啓示的真理に合致するかどうかが真理かどうかを判定する基準であったのだが,デカルトは,真理かどうかを判定する基準は個々の人間がもっているのであり,それを理性(良識)と呼んだ。これは当時の人々が自然の人間化を推し進める過程で,自らの力に対する自信を取り戻していったこと,それに伴いカトリック教会がその権威を失っていったことを受けての主張だということになるだろう。デカルト自身,スコラ哲学に関する教育を受けたものの,スコラ哲学は意味がないと失望していたようである(このことは,南郷先生の著作でも紹介されていた)。このように,個人の体験として,カトリック教会,スコラ哲学の衰退というものを感じていたからこそ,それに代わるものを求めたのだと言えるだろう。
 ヘーゲルは「人間は精神であるから,自分の力に絶対の自信をもってよい」という内容を就任演説で述べていた。このような人間の力に対する絶対的な信頼というものが,このデカルトにおいて芽生えたのだということができるだろう。


3.スピノザの哲学とはどのようなものか

 ヘーゲルによれば,スピノザの哲学はデカルト哲学の原理を首尾一貫した体系へと展開したものだとされる。デカルトにあっては,物体性と思惟する自我とはそれだけで自立的なものであったが,スピノザにあっては,真なるものは端的にひとつの実体(神)であり,この実体が思惟と延長を属性とするということである。しかし,スピノザの実体は一般的抽象的に定義されたものにすぎず,いかなる発展も精神性も活動も生まれてこないとヘーゲルは指摘している。
 以下,ヘーゲルはスピノザ『エチカ(倫理学)』から定義・命題・道徳論について扱っている。定義においてスピノザは実体,実体に対する第二のものとしての属性,実体に対する第三のものとしての様相を扱っている。この実体,属性,様相は普遍,特殊,個別に対応するが,第三の存在を悪しき個別たる様相としてしか捉えない点がスピノザの欠点だとしている。個別的なもの,主観的なものは,普遍的なものへと返っていくのであり,個別的なものは,自己自身のもとにあることによって普遍的なものであるが,この返っていく過程がスピノザにはないと指摘している。
 命題の要点は,ヘーゲルによると,定義された概念から神という唯一の実体が存在するのを証明することである。しかし,スピノザはその唯一の実体である神から自然と思惟という2つの属性がどのように生じるのか,なぜ2つしかないのかの証明はしないと指摘している。
 続いてヘーゲルはスピノザの道徳論について紹介している。道徳の原理は,有限な精神が道徳的真理を獲得するのは,認識と意志を神に向け,神の観念を真に認識するときに限られるというものだとされる。感情が人間の行動を左右するとき,人間は受動的な不自由の中にある。しかし,精神がすべてのものを必然ととらえるとき,感情を制御することがずっとたやすくなるというスピノザの言葉に触れて,これが精神の神への帰還であり,人間の自由であるとヘーゲルは述べている。
 スピノザは一切の規定はそのうちに否定を含むという命題を立てた点をヘーゲルは評価する一方,その否定が一面的であったため(否定は否定の否定であり,それによって真の肯定となるという否定的な自己意識の契機を欠いていた)こと,その結果,主観性,個体性,人格性の原理,本質における自意識の契機が根絶されてしまったことを批判している。

<報告者コメント>

 スピノザの哲学はデカルト哲学の原理を首尾一貫した体系へと展開したものだとされているが,要するにデカルトによって整理された思惟するものと延長をもつものという2つの実体を,神の二側面であるという形で統一して捉え,すべてがこの神の現れに他ならない(汎神論)と主張したのがスピノザの哲学だということになるのだろう。ヘーゲルは全世界を絶対精神の現れだと捉えているが,このスピノザの主張はそれに近いものがあり,その点をヘーゲルは評価しているのだと思われる。
 一方で,ヘーゲルは絶対精神が自然,精神へと転化し,再び絶対精神に戻ってくるという自己運動の過程を説いているのに対して,そうした運動性・発展性について説けていないということがスピノザに対する批判だと言えるだろう。神という唯一の実体を定めたのはいいものの,そこからどのようにして思惟と延長が出てくるのか,なぜその2つしかないのかという点が明らかにされていないということである。
 こういう観点からみると,このデカルトからスピノザの流れは,ドイツ観念論におけるカントからフィヒテ,シェリングという流れに類似しているように思われる。カントは物自体の世界と現象の世界という形で世界を大きく2つに区分したものの,その2つをどう統一的に把握するかが課題として残ることとなった。その課題に取り組んだのがフィヒテ,シェリングであり,シェリングにおいて絶対的同一性なる「絶対者」が掲げられたが,無差別とか同一性とかいわれる抽象的な「絶対者」から,無限の多様性をもって展開する現実世界が如何にして生成してくるのか,まともに解くことができなかったということであった。
 シェリングはスピノザの汎神論にヒントを得て「絶対者」を発想したようであるが,そのまま横滑りさせてしまったために,同様の問題点を抱えることになってしまったのだろう。我々も先哲の見解を横滑りさせるのではなく,その意義と限界をしっかりと把握していかねば,同じ失敗をしてしまうことを意識すべきであろう。


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 このレジュメに対して,まず,「この形而上学の時代というのは,一言でいえば,世界について1つの原理から把握しようとする傾向が生まれた時代ということになる」とあるが,これでは一般的すぎる,という指摘がなされました。「世界について1つの原理から把握しようとする傾向」ということであれば,それこそソクラテスの時代から,いや,それ以前からあるのであって,何もこの時代に始まったことではない,という指摘です。また,時代背景についての説明も一般的すぎるという指摘もありました。これについては,レジュメ報告者も同意しました。

 また,個体発生になぞらえようとする姿勢は重要であるものの,系統発生と個体発生の対応は一つではないのであり,いくつもの正解がありうるのだから,どういう観点で対応させたのかを説かないと,あまり意味がないのではないか,という指摘もなされました。これについても,レジュメ報告者は同意しました。

 さらに,「デカルトからスピノザの流れは,ドイツ観念論におけるカントからフィヒテ,シェリングという流れに類似している」という指摘については,興味深い観点であり,論理的には筋が通っているというコメントがなされました。ここに関して,別の会員は,新プラトン主義に至る過程も,デカルトからスピノザへの過程も,さらにカントからフィヒテ,シェリングへと至る過程も,すべて一元論に解消していく流れということでは同一であり,同じような過程のくり返しがなされているといえる,これは正規分布図に従ったくり返しによって発展しているということだ,とコメントしました。これには皆が納得しました。

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2016年07月28日

夏目漱石の中・長編小説を読む(16/16)

(16)漱石の苦闘の過程を主体的に受け止め「現実世界」の変革へ

 本稿では、漱石が後世に託した自己の理想を現代に生きる我々はどのように受け止めるべきなのか、という観点から、漱石の中・長編小説を順番に読んできました。

 漱石の文学者としての生涯は、個人の自由な発展を阻む要素に満ち満ちている現実世界に対して、自己(漱石)がどのように対峙していけばよいのか、という問題をめぐる苦闘の過程にほかならなかったといえます。この過程を、『吾輩は猫である』から『明暗』までの発展の流れとして、改めてまとめなおしてみましょう。

 『吾輩は猫である』において漱石は、人間社会のあらゆるしがらみから自由な猫の視点を借りて、人間社会をまるごと笑い飛ばすようにして批判しました。しかし、それは、猫的偏見に制約されたものにしかならず、現実世界の変革とは無縁なレベルで空回りするものでしかありませんでした。

 人間社会に主体的に働きかけていけるのは人間だけです。漱石は、次作『坊っちゃん』で、曲がったことの嫌いな坊っちゃんを主人公にしますが、「江戸っ子」である坊っちゃんが、明治日本の醜悪な現実に対して癇癪を爆発させるというものにしかなりませんでした。

 醜悪な現実世界に直情的に突っ込んで敗北してしまった『坊っちゃん』の後、漱石は、醜悪な現実世界から距離を置こうとするかのように、『草枕』を書きます。この作品のキーワードたる「非人情」は、アダム・スミスのいわゆる「公平な観察者」の視点に通ずるものでした。明治日本の醜悪な現実に対して激しい怒りを燃やしていた漱石は、猫的な観察者から江戸っ子的な観察者へという過程を経て、「公平な観察者」の必要性に突き当たったのです。

 しかし、この時点の漱石は、「公平な観察者」的な立場を追求していくには、まだあまりに、崇高な理想に燃える文学者としての矜持が強すぎました。漱石は、「非人情」の世界での一時的な休息を挟んで、『二百十日』『野分』において、文学者としての自己の理想を強烈に表現したのでした。

 職業作家としての第一作である『虞美人草』において、漱石は、悲劇を通じてこそ個人の道義的実践が可能になり、社会を真正の文明に導くことができるのだ、という思想を展開しました。しかし、登場人物の造形にしろ物語の筋立てにしろ、力が入りすぎて硬くなってしまった感は否めませんでした。

 次作『坑夫』は、力みすぎて硬くなってしまった『虞美人草』の徹底して逆をいくことで、柔軟性のきわみのようなものの見方・考え方を獲得した作品でした。漱石は、上流階層の坊っちゃんをあえて社会の最底辺にまで突き落とし、その自負心を完膚なきまでに解体させることによって、美醜や貴賤によって人間を差別するような偏見を徹底して否定する立場を主張したのでした。

 続く『三四郎』において、自己と現実世界との関わり方が自己とある特定の異性との関わり方によって象徴される(ある特定の異性が現実世界との接点としての位置づけを与えられる)、というテーマが明瞭に打ち立てられます。いわゆる前期三部作(『三四郎』『それから』『門』)および後期三部作(『彼岸過迄』『行人』『こころ』)は、このテーマを徹底的に深く追究していく過程にほかなりませんでした。

 『三四郎』の三四郎は、現実世界に積極的に斬り込んでいきたいという思いを持ちつつも、それに伴う危険も見えているために踏ん切りがつかないという矛盾を抱えていました。三四郎が逡巡という形で自己のうちに抱え込んでいた矛盾は、続く『それから』において、自己対現実世界との矛盾(闘争)に転化されます。自分の愛する女性を友人に譲ってしまったことで現実世界とまともに向き合えなくなっていた代助は、その女性を取り戻すために、現実世界との激烈な闘争関係に突入することを覚悟するのでした。『門』では、この闘争の行く末が追究されます。友人の妻を奪ってしまった結果、否応なしに現実世界との激烈な闘争関係を経験せざるを得なくなった宗助は、何をやっても思い通りにいかないという現実に直面させられるなかで、現実世界との積極的な関わりを次第に断ち切っていき、いわば世間から隠れるようにして御米との幸福な夫婦生活を築いていきました。しかし、現実世界とのつながりは断ち切ろうと思っても絶対に断ち切れるものではないことが暴かれるのでした。

 「修善寺の大患」を挟んでの後期三部作では、自己と現実世界との闘争という形に転化させられていた矛盾が、再び自己内の矛盾に引き戻されて深められていきます。同時に注目されるのは、物語世界が、複数の視線が交錯するような立体的な構造をもったものとして構成されていることです。

 『彼岸過迄』の須永は、「胸(ハート)」で従姉・千代子を求めてやまないにもかかわらず、「頭(ヘッド)」に押さえつけられてしまう、という苦悩を語りました。『行人』では、特定の異性との関係に現実世界との関係を象徴させてみるというテーマが極限にまで掘り下げられ、主観対客観という「哲学」的なレベルにまで深められます。大学教員・長野一郎は、長男として甘やかされて育った結果、周囲の全てのものごとが絶対的存在たる自己の思い通りになるべきだ、というわがままさを把持し、それを哲学的思索によって理論武装していたのですが、自分の思い通りになって当然であるはずの妻が思い通りにならないことから調子を狂わせてしまい、自己(主観)と現実世界(客観)との関係に根本的に苦悩することになったのでした。『こころ』において、漱石はついに、自己対現実世界との関係に悩む主人公を自殺に追い込んでしまいます。先生(姓名不詳)は、自然な感情の発露を押しとどめてしまう「明治の精神」――形式ばかりを気にしてしまうために、他者との間で本当に打ち解けた関係を築いていくことを阻んでしまうような社会的認識のあり方――に殉じたのであり、我々の世代を反面教師にして、自然な感情の発露を大切にして良好な(本当に心の底からうち解けた)人間関係を築いていってもらいたいという期待を、若い「私」に託したのでした。

 このように、現実世界と自己との関わり方の難しさ――金力・権力が支配する世界と、全ての個人の自由な発展を願う自己との対決の厳しさ――を徹底して追究していった果てに、『こころ』においてついに主人公を殺してしまった漱石は、新たな物語世界の創造へと向かうためには、一度、自分自身の人生を厳しい批判の目で振り返ってみなければならなくなったのです。その課題を果たしたのが『道草』でした。『道草』では、「公平な観察者」的な視点から、周囲の人間よりも自分は立派な人間だという健三(漱石)の思い上がりが批判されていくと同時に、健三(漱石)にしか果たせない課題――片がつくという現象の背後にある片づかないという構造の追究――が鮮明に浮かび上がらされます。そして、『道草』で獲得した「公平な観察者」的な視点でもって、改めて、金力・権力が支配する世界に対して正面から闘争を挑んでいったのが、未完の大作『明暗』にほかならなかったのです。

 以上、『吾輩は猫である』から『明暗』までの流れをざっと振り返ってみました。端的にいえば、漱石の文学者としての生涯は、個人の尊厳を踏みにじる現実世界の根本的な変革という課題を確固として掲げ続けながらも、具体的にどのようにして変革していけばよいのかが見えてこないために苦しみ続けた過程であったといえます。漱石は、そうした苦闘の過程で、自己自身に対しても厳しい批判の目を向けていくことになっていったのでした。しかし、漱石は、どんなに苦しくても決して諦めずに、変革への道を模索し続け、後世の人々の魂を動かすべく、創作に挑み続けたのです。その思想的な強靭さは、実に見事なものがあるといわなければなりません。

 漱石の死から100年の後に生きる我々に鋭く問われているのは、こうした漱石の苦闘の過程を主体的に受け止めることができるかどうか、ということなのです。本稿の連載初回で紹介した「文芸の哲学的基礎」の最後の部分で、漱石は、文芸(文学)というものは、高い理想を抱きながらそれを現在の世にの中に実現することが出来ない者が、作物を通じて後世に働きかけようとするものにほかならない、としていました。作家の理想が作品を媒介にして読者の心を動かすならば、「社会の大意識」に影響して「永久の生命を人類内面の歴史中に得」るだろう、というのです。個人の尊厳の確立を目指した漱石の思想が、「人類内面の歴史」において永久の生命を得るか否かは、我々が漱石の小説作品を主体的に読み取ることができるかどうかにかかっているのです。

 漱石没後100年という記念すべき年にあたって、漱石の小説作品は、改めて大きな注目を集め、広く読み直されようとしています。しかし、漱石の小説作品を、単に人間の内面を深く掘り下げたものとして読むだけでは、決定的に不充分だといわなければなりません。漱石は、決して人間の内面のみを見つめていたのではなく、個々人を取り巻く日本社会の有様、さらには日本という国家を取り巻く世界全体の情勢の有様に常に強い関心を持ちつづけていました。漱石の小説作品は、漱石の思想――金力・権力の支配が個人の尊厳を奪っている社会の現状への激しい憤り、個人の尊厳が確立される社会への変革――と切り離して読むことはできないのです。

 漱石の死から100年が経過しましたが、現代の日本においても、世界においても、いまだに金力・権力の横暴な支配によって個人の尊厳が踏みにじられるという状況が続いているといわざるをえません。むしろ、資本主義経済の行き詰まりや世界情勢の混迷のなかで、状況はますます厳しくなっているともいえるのでしょう。漱石が小説作品を通じて遂行しようとした「百年計画」は、未完のままなのです。現実世界に我々自身はどのように対峙していくべきなのか。個人の尊厳が真に確立される社会に向けて、社会をどのように変革していけばよいのか。このような問題意識を明確に把持してはじめて、漱石の小説作品をまともに読んでいくことができるのであり、そうしてこそ、漱石の思想を「人類内面の歴史」において永久の生命を持ったものにしていくことができるのです。

(了)
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2016年07月27日

夏目漱石の中・長編小説を読む(15/16)

(15)『明暗』――改めて「現実世界」に正面から闘争を挑んでいく

 前回は、完成された漱石作品としては最後のものとなる『道草』を取り上げました。これは、漱石自身をモデルにした大学教員・健三を主人公とした作品であり、かつて縁を切ったはずの養父とのいざこざを描いたものです。この作品で重要なのは、「公平な観察者」的な視点からの健三批判(すなわち漱石の自己批判)が真剣に行われており、自分は周囲の人間よりも立派な人間なのだという思い上がりが崩壊していく過程が描かれていることです。それでもなお、物語の結末部分では、表面的に片がつけばそれでよしとする周囲の人間に対して、片が付くという現象の背後にある片づかないという構造を見究めようとする健三という対照が鮮明に浮かび上がらされているのでした。すなわち、健三(漱石)の単純な思い上がりは否定されていくものの、それでも健三(漱石)にしか果たせないであろう課題があることがハッキリと示されているのでした。

 さて、今回は、漱石の最後の作品であり、未完成のまま遺された『明暗』を取り上げることにしましょう。これは、1916年(大正5年)5月26日から12月14日まで「朝日新聞」に連載され、作者病没のため188回までで中断、1917年(大正6年)に岩波書店から刊行されたものです。

 この『明暗』は、結婚して半年あまりとなる津田由雄(30歳)とお延(23歳)の夫婦を中心に据えた物語です。津田は、上司の妻・吉川夫人の仲立ちでお延と結婚したのですが、津田にはかつて、これまた吉川夫人に紹介された清子という恋人がいました。しかし、清子はあっさりと津田を捨てて、津田の友人・関と結婚してしまったのでした。津田はこのことをお延に隠していますが、お延は、津田が何か隠していることに感づきつつあります。痔の治療で入院していた津田のもとを訪れた吉川夫人は、清子が流産してある温泉場で湯治していることを告げ、津田にその温泉場を訪ねて、清子と話をしてくるようにそそのかすのです。

 『明暗』の物語世界は、経済的な力を規準として、下層、中層、上層という三重の構造をなしています。すなわち、津田とお延の夫婦を真ん中において、金力と権力によって他人を意のままに動かそうとする上層の世界と、貧困のためにあらゆる人間的なつながりから疎外されてしまった下層の世界とが広がっているのです。上層の世界は、放漫で他人をからかうことが好きな吉川夫人によって代表されます。一方、下層の世界は、食い詰めて朝鮮に渡ろうとしている小林(津田の友人)によって代表されています。中層の世界にいる津田とお延は、上層にいる吉川夫人、および下層にいる小林によって、それぞれの立場から批判されます。『明暗』の物語世界は、中層にいる津田の視線とお延の視線に、上層からの視線と下層からの視線が交錯しつつ、全体としては「公平な観察者」的な視点で括られる、という構造をもっています。

 しかし、同じく中層の世界の住人とはいえ、津田とお延とでは、上層の世界と関わっていく姿勢において、大きな相違が見られます。津田は、自らのハッキリした意志を持たず、上層の世界の有力者にあくまで従順な姿勢を示そうとします。露骨にいえば、吉川夫人の意図通りに動くことこそが自分の社会的地位を確かなものにするのだと割り切っているのです(いささか突飛なたとえだと思われるかもしれませんが、津田と吉川夫人の関係というのは、第二次世界大戦後の日本とアメリカとの関係を彷彿とさせるものがあります)。

 これに対してお延は、「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの」という言葉を口にしてお秀(津田の妹)をあきれさせてしまうほどに、自己の意志を強烈にもっています。自分の意志で主体的に行動しようとするお延は、上層の世界に属する人間から見れば、金力・権力が支配する秩序(金力・権力において劣る人間は、より大きな金力・権力を持つ人間のいうことに従順に従うべきだ、という秩序)を乱しかねない存在にほかなりません。だからこそ、吉川夫人は、「まあ見ていらっしゃい、私がお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せるから」(第142章)として、「お延の教育」なるものを企てるに至ったのです。とはいうものの、お延も、上層の世界にばかり視点を向けて(彼女が下層の世界に対して軽蔑以上の感情を持っていなかったことは、小林と対決する場面〔第81章〜88章〕で暗示されています)、夫から深く愛される悧巧な妻として見られたい、という虚栄心に縛られているにすぎません。ここに、お延の大きな限界が設定されています。

 さて、物語は、吉川夫人の「お延の教育」計画の一環として、津田がかつての恋人・清子のいる温泉場へと向かい、清子と再会したところで、突如として中断されてしまいます。ついに書かれることのなかった結末がどのようなものとして想定されていたのかは推測するほかありませんが、そのためには、そもそも漱石が、三重の構造をもった物語世界の提示によって、如何なる問題を追究しようとしていたのか、問われなければなりません。結論的にいえば、それは、金力や権力の横暴な支配を如何にして打破するのか、人と人との関係が金によって左右されてしまう状況を如何にして打破するのか、という問題であったと考えられるのです。なぜかといえば、これまで繰り返し確認してきたように、この問題こそが、漱石の思想的原点にほかならないからです。現実世界と自己との関わり方の難しさ――金力・権力が支配する世界と、全ての個人の自由な発展を願う自己との対決の厳しさ――を徹底して追究していった果てに、『こころ』においてついに主人公を殺してしまった漱石は、新たな物語世界の創造へと向かうために、一度、自分自身の人生を厳しい批判の目で振り返ってみなければなりませんでした。その課題を果たしたのが『道草』です(このタイトルは、新しい物語世界の創造に向かうための「道草」という意識が漱石自身にあったからだ、とも推測されます)。そして、『道草』で獲得した「公平な観察者」的な視点でもって、改めて、金力・権力が支配する世界に対して正面から闘争を挑んでいったのが、この『明暗』であったのです。

 そのようなことを踏まえるならば、ついに書かれなかった結末に向けての展開について、いくつかのポイントを指摘することができます。

 第一は、有力者のご機嫌をとることを優先し、何事にも優柔不断で煮え切らない津田がどうなるのか、という問題です。津田は、漱石が学習院での講演「私の個人主義」で熱烈に主張した「自己本位」の対極、すなわち「他人本位」を体現する人物として造形されているといえます。だとすれば、「他人本位」の津田は、何らかの出来事をきっかけに決定的に改心して「自己本位」に変わるか、「他人本位」を改められないまま破滅してしまうか、どちらかになるに違いありません。ハッキリどちらとは断言できませんが、この作品中の最重要人物というべき小林(この点については後述します)が、津田に一朝事があったとしても自分(小林)のように腹を据えた人物に早変わりすることなどできないだろう、と述べている(第158章)ことからすれば、津田は「他人本位」を改められないままに自滅してしまう可能性が高いのではないかと思われます(*)。

 第二は、漱石が金力・権力の横暴に激しい憤りを燃やしていたことからすれば、金力・権力を思いのままに操って他人を玩具のように動かして面白がる吉川夫人は、徹底して断罪されることになるであろう、ということです。少なくとも、吉川夫人の「お延の教育」計画が、吉川夫人の思惑通りに成功し、お延が奥さんらしい奥さんに育て上げられて大団円、などという結末だけは絶対にありえないでしょう。

 第三は、「自分のこうと思い込んだ人を飽くまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」というお延の「最後の決心」の単純な成功あるいは失敗という結末も考えにくい、ということです。お延の「最後の決心」は、本心から津田を愛するが故に出てきたものではなく、上層の世界に視線を向けつつ、悧巧な女性(妻)として認めてもらいたいという虚栄心から出てきたものにすぎないからです。漱石の思想からすれば、上層の世界における評価を気にするという「最後の決心」の前提条件そのものが崩される必要があります。とはいえ、「絶対に愛されてみたい」というお延の強い意志そのものは、積極的に肯定されるべき要素です。「絶対に愛されてみたい」という意志が、上層の世界のみを見つめる狭い視野のなかで虚栄心に絡めとられてしまうのではなく、下層の世界をも捉えるような広い視野のなかで鍛え直される過程が必要になってくるものと思われます。

 だとすれば、物語の展開上、最も重要な役割を果たすのは、小林にほかならないのではないかと考えられます。小林は、お延に対して「僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」と語ります。端的には、小林は人間社会のあらゆる関係から疎外されているということですが、これは見方によっては、人間社会のあらゆるしがらみから自由であるという決定的な強味、肯定的要素であるといえるのです。社会の最下層に近いところにいる小林の視点こそが、実は、「公平な観察者」の視点に最も近いのだ、ということもできるでしょう。漱石は小林に、天の目的に動かされることこそ僕の本望だ、と語らせることによって、このことを示唆しているものと思われます。

 結論的にいえば、物語世界で複雑に絡み合った諸々の問題を片付けるためには、強い意志を持ったお延と、あらゆる社会的なしがらみから自由である小林とが、何らかの形で結びつくことがどうしても欠かせない、ということになるのです。「絶対に愛されてみたい」「誰からも愛されたい」というお延(=明)は、「せめて人に嫌われてでも見よう」という小林(=暗)と対決させられることによってこそ、「否定の否定」的に成長を遂げていくことができると思われるのです。

 『明暗』の構造と結末の問題については、改めて別稿で詳しく論じることにします。

(*)本文中では触れられなかったが、津田をあっさりと振って吉川夫人の手から逃れた清子は、津田の「他人本位」的なあり方を徹底して暴くという決定的な役割を与えられた存在だと思われる。
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2016年07月26日

夏目漱石の中・長編小説を読む(14/16)

(14)『道草』――「公平な観察者」的な視点の獲得

 前回は、いわゆる後期三部作の最後を飾る『こころ』を取り上げました。これは、先生が「私」に宛てた「遺書」という形で、かつて恋愛観関係のもつれから親友を裏切って自殺に追い込んでしまったという壮絶な暗い過去を明かす、といった物語でした。先生は、自然な感情の発露を押しとどめてしまう「明治の精神」――形式ばかりを気にしてしまうために、他者との間で本当に打ち解けた関係を築いていくことを阻んでしまうような社会的認識のあり方――に殉じたのであり、我々の世代を反面教師にして、自然な感情の発露を大切にして良好な(本当に心の底からうち解けた)人間関係を築いていってもらいたい、という期待を、若い「私」に託したのでした。

 さて、今回は、完成された作品としては最後のものとなる『道草』を取り上げることにしましょう。これは、1915年(大正4年)6月3日から9月14日にかけて、「朝日新聞」に連載されたものです。

 この『道草』は、漱石の自伝的作品ともいえるものであり、『吾輩は猫である』執筆の頃の生活の様子がもとになっているとされています。大学教員として忙しい日々を送る主人公・健三のもとに、かつて縁を切ったはずの養父・島田が思いがけなく現われ、金銭を要求します。健三は何とか工面して一応の区切りをつけるものの、これでようやく片が付いた、と喜ぶ妻に対して「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない」と苦々しく吐き出すのです。

 この作品は、漱石の諸々の作品を形作る要素は、ほかならぬ漱石自身の現実の生活のなかにあったことを強く示唆していて、非常に興味深いものがあります(*)。

 例えば、健三と御住の夫婦関係は、『行人』の一郎と御直の夫婦関係を彷彿とさせるものがあるといえるでしょう。健三はわがままに育てられた結果として、世間と調和できなくなっているのであり、細君など自分の思い通りになって当然だと考えています。一方、御住は御住で、どうとでもしろ! と開き直ったような強さを持っています。これはまさに『行人』の一郎・御直の夫婦関係についての謎解きとして読めるものともなっています。

 ただし、『道草』の夫婦関係の場合、『行人』の夫婦関係のように暗さ一辺倒で、悪い方向へとどんどん深刻化していくように描かれているわけではなく、微かな明るさというか救いのようなものが感じられるのが興味深いところです。問題は、このような雰囲気の違いは、如何なる要因によるものなのか、ということです。ひとつの要因として、『道草』における夫婦関係には、緩和剤としての細君の病気(歇斯的里)の効果がある、ということが指摘できるでしょう。しかし、『行人』と『道草』との雰囲気の相違の決定的な要因は、物語世界を捉える視点の相違というところに求められなければなりません。どういうことかといえば、『行人』が、あくまでも二郎という具体的な個人の視点から語られていたのに対して、『道草』は、健三も御住も平等に見渡すような、アダム・スミスのいわゆる「公平な観察者」的な視点から語られている、ということです。『道草』は、健三と御住のそれぞれのいい分をある程度までは認めつつも、しかも批判すべきところは批判する、というような形で語られているのです。

 もちろん、『行人』には、一郎の同僚であるHさんの視線も交錯しているわけですが、それも所詮は地上の現実的な人間の視線にすぎません。これに対して、『道草』は、地上の現実の人間を超えた、いわば神的な視点から語られているわけです。『行人』は、息詰まるような窮屈さを感じさせる作品でしたが、『道草』は、このように客観的な視点から語られることによって、余裕のようなものを感じさせる作品に仕上がっているといえるでしょう。

 この「公平な観察者」的な視点ということこそが、『道草』の最大の特徴であるといえます。本稿で以前『草枕』を取り上げた際、「非人情」の境地の追求とは、つまるところ「公平な観察者」的な視点を獲得しようとするものにほかならなかったのではないか、と示唆しておきました。しかし、それ以降の作品では、必ずしも、こうした「公平な観察者」的な立場の追求は行われてきませんでした。漱石は、『二百十日』および『野分』で、自己の思想的な原点を直接的に確認し、文学者として生きる決意を強烈に押し出して以降、基本的には地上の現実的な人間の視点によって、物語世界を構築してきたのでした。しかし、いわゆる後期三部作では、複数の視線を意図的に交錯させるということが試みられるようになっていきます。こうした試みの延長線上に、地上の具体的個人を超越した、半ば神的な存在としての「公平な観察者」が、この『道草』において登場してくることになったのだといえます。

 ここで何よりも注目すべきなのは、健三(他ならぬ漱石自身をモデルに造形された人物)の言動や思想が、こうした「公平な観察者」的な視点からしばしば批判的に言及されていることです。例えば、第3章には以下のような記述があります。

娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。
 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。


 このように、「公平な観察者」的な視点からの健三批判、とりもなおさず漱石の自己批判が展開されていることこそ、『道草』の最も重要な特徴であるといえます。ここで重くみなければならないことは、先生が自らの死と引き換えに自らの暗い過去を明かした『こころ』の後に、こうした漱石自身の過去に鋭い分析のメスを入れるような作品が書かれたということです。これは、漱石が『こころ』の先生に徹底して自身の暗い過去を暴かせたことによってはじめて、ほかならぬ自分自身の過去を徹底的に掘り下げていく決意を固めることができた(そのような問題意識を抱くに至った)ということを意味するものであると思われます(**)。

 このことは、さらに突っ込んで検討しておく必要があります。結論的にいえば、『道草』の趣意は、自分自身を周囲の人間よりも立派だと信じて疑わない健三(漱石)の思い上がりを厳しく批判(自己批判)するところこそあったのではないか、ということなのです。物語世界のなかでは、健三自身、このことに薄々気づき始めている節もあります(例えば、第67章において、姉について「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮を剥けば己だって大した変りはないんだ」という反省を強いられるところは印象的です)が、より高い「公平な観察者」的な視点からの批判が折々に挟まれることによって、健三の周囲の人々に対する優越感が揺るがされていく印象は強められています。

 職業作家としての生活のスタート地点において、『野分』の道也先生を高邁な人物として理想化して描いた漱石ですが、文学による苦闘を積み重ね、自己と現実世界との関わり方の難しさを究めて、ついに『こころ』の先生を自殺させてしまうところにまで至ってしまします。ここにきて、漱石は、徹底した自己批判(健三批判という形を媒介してのものではありますが)を試みなければ、それ以上作家として前に進むことができなくなっていたのだ、とみることもできるでしょう。

 同時に、決定的に重要なのは、健三の思い上がりが厳しく批判されるといっても、健三が細君や姉などと同レベルの存在として片づけられてしまっているわけでもない、ということです。『道草』の最後の部分では、片がついてよかったと喜ぶ細君に対して、健三はそれは上部(うわべ)だけのことにすぎない、と指摘します。表面的に片がつけばそれでよしとする周囲の人間に対して、片がつくという現象の背後にある片づかないという構造を見究めようとする健三という対照が鮮明に浮かび上がらされているわけです。この点においては、健三は周囲の人物よりも間違いないなく優位に立っているといえます。

 『道草』では、健三(漱石)の単純な思い上がりは否定されていくものの、それでも健三(漱石)にはやるべき課題、健三(漱石)にしか果たせないであろう課題があることがハッキリと示されているのです。ここにこそ、これ以降の漱石の作家としての方向性が示されていたのだ、ということができるかもしれません。

(*)本文中で取り上げた以外でいえば、過去がどこまでも追いかけてくるというモチーフ(『道草』においては島田や御常という具体的人物の形をとって登場する)は『虞美人草』『それから』『門』などに共通しているし、社会全体から見捨てられたという疎外感(第91章「健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた」)は『吾輩は猫である』の「吾輩」として滑稽な衣をまとって表現されたのであり、続く『明暗』においては小林という姿をとっていくことになるといえるだろう。

(**)『吾輩は猫である』における猫的な視点からの苦沙弥先生批判もまた、漱石の自己批判ともみなしうるものだが、『道草』における「公平な観察者」的な視点からの健三批判が、これとは全くレベルを異にしている(真剣さに雲泥の差がある)ことは明らかであろう。
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2016年07月25日

夏目漱石の中・長編小説を読む(13/16)

(13)『こころ』――「明治の精神」に殉じて新世代に希望を託す

 前回は、いわゆる後期三部作の第二作にあたる『行人』を取り上げました。これは、基本的には、長野二郎という語り手の視点から、苦悩する兄・長野一郎の姿を描いた作品であり、そこには、同僚である大学教員・Hさんが観察した長野一郎の姿が立体的に重ねられていました。二郎からみた一郎は、妻との関係に悩む1人の家庭人であり、同僚であるHさんからみた一郎は、主観と客観の関係に悩む学者です。長男として甘やかされて育った一郎は、周囲の全てのものごとが絶対的存在たる自己の思い通りになるべきだ、というわがままさを把持し、それを哲学的思索によっていわば理論武装していたのですが、自分の思い通りになって当然であったはずの妻が思い通りにならないことから調子を狂わせてしまい、自分(主観)と世界(客観)との関係に根本的に苦悩することになったのだ、ということでした。

 さて、今回は、いわゆる後期三部作の最後を飾る『こころ』を取り上げることにしましょう。これは、1914年(大正3年)4月20日から8月11日まで、「朝日新聞」に「心 先生の遺書」として連載されたものです。

 この『こころ』は、漱石作品のなかでも特に有名なものですので、内容についての詳しい説明は必要ないでしょうが、ごく簡単にまとめるならば、「私」が鎌倉で出会った「先生」と親しくなり、交際を深めていくなかで、先生の過去を聞かせて欲しいと強く迫った結果、先生は「遺書」という形で(自ら命を絶つことと引き換えに)、かつて恋愛観関係のもつれから親友を裏切って自殺に追い込んでしまったという壮絶な暗い過去を明かす、といった物語です。

 そもそも「私」が先生と関わりのある過去を回想しながら筆を執るという設定が冒頭で明示されており、先生の遺書についても、相当に過去の出来事を回想してのものであることは明らかです。『彼岸過迄』や『行人』もまた、語り手が過去を回想するという形式でしたが、『こころ』では、語られる過去の出来事とそれらを語る現在との時間的な隔たりが、これら先行2作品とは比較にならないくらいに明瞭に打ち出されており、どことなく静謐な雰囲気が漂っているといえます。

 この作品をめぐっては、やはり何といっても、先生はなぜ自殺をしたのか、ということが決定的な問題となるでしょう。この問題をめぐっては、「先生と遺書」第12章において、「金に対して人類を疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかった」とあるところが大きなヒントとなるのではないかと思われます。先生は、両親の遺産を叔父に騙し取られてしまったという経験から、金に関して他の人間は信じられないという認識を抱くようになっていたものの、この段階ではまだ、愛については人類を疑っていなかった、すなわち、愛のために人間が卑劣な行動に及ぶことがあるなどとは思っていなかった、ということです。

 そうであるにもかかわらず、ほかならぬその先生自身が、やがて「お嬢さん」への愛をめぐって、親友Kを裏切るような卑劣な行為に及んでしまったのでした。その結果として、先生は、他の人間のみならず自分自身までもが信用できなくなってしまったのであり、また、そのような自分の苦しみを理解してくれる人が1人もいなかった(妻となった「お嬢さん」に全てを打ち明けて苦しみを共に背負ってもらうようにする勇気もなかった)ことによって、極限まで追いつめられてしまったわけです。端的には、愛において親友を裏切るという「罪悪」――「先生と私」第12章において、先生は「恋は罪悪ですよ」と語っています――を犯してしまった結果、自らの命を絶たざるを得なくなる方向へ、大きく歩みを進めてしまったのだ、ということです。

 この問題に絡んで、そもそもKはなぜ自殺してしまったのか、ということも考えておく必要があるでしょう。「先生と遺書」第53章の最後の部分で、先生はKの死因について、次のような考察を行っています。

私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極きめてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。


 このように、先生は、Kが「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決した」のではないか、と疑っているわけですが、このことを、もう少しKの具体的な言動に即して考えてみることにしましょう。「先生と遺書」第42章において、先生は、Kのお嬢さんへの恋心と、道のために精進するというKの人生観との矛盾を打算的に追及します。ここで、Kは「覚悟、――覚悟ならない事もない」と述べていることが注目されます。ハッキリいえば、Kは既にこの時点で(漠然とであれ)自殺を選択肢のひとつとして考え始めていたのではないか、とも思われるのです。つまり、自殺の直接のきっかけは、失恋、あるいは先生の裏切りから受けたショックであることは間違いないにしても、より深く突っ込んでみれば、道のために生きるといいながら恋に惑う自身の弱さに煩悶していたことが下地としてあったのだ、と考えることができるのです。

 ここで、検討しておかなければならないのは、「たった一人で淋しくて仕方がな(い)」とはそもそもどういうことなのか、という問題です。これは、端的には、世間体のようなものを気にするあまり、自然な感情を押し隠して形式ばかりを取り繕っているために、他者との間で本当に心から打ち解けた関係を築くことができない、ということではないかと思われます。先生がKに対して、自身のお嬢さんへの思いを打ち明けよう打ち明けようとしながら、なかなか打ち明けられなかったのが、その象徴的なあり方であるといえるでしょう。先生が殉じたという「明治の精神」とは、そのようなものにほかなりませんでした。世間体やそれらしい形式ばかりを尊重して自然な感情の発露を押しつぶしてしまうもの、それが「明治の精神」にほかならなかったのです(*)。

 先生は、「先生と遺書」第29章において、当時の若者たちの間に恋とか愛とかいう問題について具体的に語り合うことをはばかる雰囲気があったことについて触れながら、「比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら、定めし変に思われるでしょう」と付け加えています。ここには、旧世代たる先生から新世代たる「私」への期待、もう少し詳しくいえば、我々の世代を反面教師にして、自然な感情の発露を大切にして良好な(本当に心の底からうち解けた)人間関係を築いていってもらいたい、という期待が込められているのだと思われます(**)。

 自然な感情を押し殺してしまうような「明治の精神」に殉じた先生は、この「明治の精神」の実態を自身の痛切な実体験を赤裸々に語ることを通じて白日の下に晒すことで、自身を次世代にとっての反面教師としようとしたわけです。「先生と遺書」第2章には次のようにあります。

「私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。」
「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です」


 先生にとっては、自身の犯した罪を赤裸々に語るということは、自身の生命と引き換えでなければ成し得ないほどに辛く重い事業でした。しかし、そのことによって次世代に資することができるならば……という決意の上での自殺だったものと思われます。前の世代が解決できなかった問題が次の世代へと託されていくのであり、その過程は命懸けのものにほかならない――漱石の『こころ』は、人類史における世代交代を通じた発展の本質的なあり方を象徴的に描いた作品であるとみなすことも可能なのではないでしょうか。

 若い世代への熱い期待をもって若い世代の魂に語りかけようとするということでは、『野分』の白井道也先生が想起されます。しかし、道也先生が理想を理想として語る高邁な人物として造形されていたのに対して、『こころ』の先生は、同じ先生でも反面教師として造形されています。これは、漱石の7年間に及ぶ作家生活を通じての思索の深まり、有体にいえば、現実世界を変革することの困難さを痛感させられたことの結果にほかならないといえます。

(*)欧米列強の猛烈な圧迫の下で近代国家の形式だけは何とかして整えようと邁進した過程こそが、こうした「明治の精神」そのものにほかならなかった、と捉えることも可能であろう。例えば、明治憲法にしても、外見的には立憲君主制という近代的な形式だけは整えたものの、その中味は半封建的で絶対主義的なものでしかなかったのである。漱石は『それから』の代助に明治日本を「牛と競争する蛙」にたとえさせているし、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生に大和魂を諷刺する詩を書かせてもいる。欧米列強に張り合おうと背伸びするもののそれに見合った内実を伴っていないという明治日本の現実を、漱石が非常に厳しく批判的に見ていたことは明らかである。

(**)『こころ』の冒頭部分で「私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じことである。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない」(「先生と私」第1章)とあることは、大いに注目に値する。ここは先生が遺書のなかで親友に対して「K」などという「よそよそしい頭文字」を使ってしまったことを暗に批判したものとして読めるのである。私と先生との関係は、先生とKのような「よそよそしい」ものではないぞ! ということを宣言したものであり、そうであるとすれば、先生(旧世代)の私(新世代)への期待は裏切られなかった(先生は反面教師としての役割をしっかりと果たした)ということができるかもしれない。
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2016年07月24日

夏目漱石の中・長編小説を読む(12/16)

(12)『行人』――自己(主観)と世界(客観)の関係への根本的な苦悩

 前回は、いわゆる後期三部作の第一作『彼岸過迄』を取り上げました。これは、「個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成する」という意図の下に書かれた作品であり、大学を卒業して就職に奔走している田川敬太郎が、様々な人に出会って話を聞く、という形で物語が進行していきます。中心となる「須永の話」では、敬太郎の友人である須永が、従姉妹である千代子への複雑な思いを語るのでした。ここでは、「胸(ハート)」の要求を「頭(ヘッド)」が押さえつけてしまうという問題が深刻に掘り下げられているのですが、漱石は時系列を意図的に入れ替え、京都・大阪方面に旅行した須永から叔父の松本へ送られてきた手紙を紹介する形で物語を終えることで、作品世界全体にほの明るい雰囲気をかもし出そうとしてたのでした。

 さて、今回は、いわゆる後期三部作の第二作『行人』を取り上げることにしましょう。これは、1912年(大正元年)12月6日から1913年(大正2年)11月5日まで「朝日新聞」に連載されたものです(ただし、4月〜9月まで、作者が胃潰瘍のため中断されています)。

 この作品の語り手は長野二郎ですが、中心的なテーマを担う人物という意味での実質的な主人公は、二郎の兄である大学教員・長野一郎であるといえます。本作品も、前作『彼岸過迄』と同様に、短篇を連ねて長篇とする、という構成になっているのですが、大きくいえば、弟である二郎から見た一郎が描かれる前半部分と、同僚であるHさんから見た一郎が描かれる後半部分(「塵労」後半のHさんの手紙部分)とに分けることができます(とはいえ、分量としては前半の方が圧倒的に大きくなっています)。

 前半では、一郎、一郎の妻・直、二郎との三角関係が設定され、妻との関係、有体にいえば、妻は本当は自分の弟に惚れているのではないか、との疑惑に悩む一郎の姿が描かれています。これに対して、後半(Hさんの手紙)は、自分自身と世界一般との関係(主観と客観との関係)に悩む一郎の姿が描かれています。前半の男女関係に悩む一郎の姿(妻の貞操を試してくれ、などと、実に馬鹿げた頼みを弟にしてしまいます)と、後半の高尚な「哲学」的問題に悩む一郎の姿とでは、著しい相違があります。この相違は、つまるところ、弟である二郎の眼に映る兄としての長野一郎の像と、大学教員である同僚のHさんの眼に映る学者としての長野一郎の像との相違にほかなりません。同一人物であっても社会的関係の異なる場所から眺めると全く異なった像として反映してくるものだ、ということを漱石は強調したかったのではないかと思われます。

 このように、『行人』は、複数の視線(それぞれの視線から捉えられた小世界)が交錯するという構造をもっています。これは、いうまでもなく、前作『彼岸過迄』と共通した特徴です。しかし、この特徴は、『彼岸過迄』においては、苦境からの脱出の可能性を暗示するという役割を担わされていたように思われるのに対して、『行人』においては、もっぱら苦境の内実を比類のない深さにまで掘り下げていくという役割を担わされているように思われます。

 このことに関連しては、前半の一郎像(妻と弟との関係を疑う一郎)と後半の一郎像(自分と世界との関係に悩む一郎)との落差にばかり注目するのではなく、両者はしっかりとつながっているものと捉えるべきものであることが強調されなければなりません。

 本稿では、前期三部作の第一作『三四郎』において、自己と現実世界との関係がある1人の異性との関係によって象徴される(特定の異性が、現実世界へのいわば入口として設定される)、というテーマが提示されたことを確認し、その後の諸作品が、それぞれの形で、この問題を深めてきたものにほかならないことをみてきました。すなわち、『それから』では、三千代を諦めた代助が現実世界に正面から向き合えなくなってしまい、『門』では、友人の妻・御米を奪ってしまった宗助が現実世界から疎外されてしまい、『彼岸過迄』では、ハートで千代子を強く求めながらヘッドに抑えられて身動きがとれなくなくなってしまった須永が、現実世界(=外界)にまともに目を向けられず自己の内面に閉じこもってしまったのでした。『行人』は、こうした探究の延長線上に来るものにほかなりません。特定の異性との関係に現実世界との関係を重ねてみるという捉え方は、ここでは極限にまで掘り下げられて、主観対客観といういわば「哲学」的なレベルにまで到達することになったのです。

 以上のことを念頭に置いた上で、妻と弟の関係を疑いつつ、主観と客観の関係にも苦悩するという一郎の人物像について、もう少し突っ込んで検討してみましょう。重要なヒントとなるのは、一郎は長男として甘やかされて育った、と指摘されていることです(「兄」第6章)。

兄は学者であった。また見識家であった。その上詩人らしい純粋な気質を持って生れた好い男であった。けれども長男だけにどこかわがままなところを具えていた。自分から云うと、普通の長男よりは、だいぶ甘やかされて育ったとしか見えなかった。自分ばかりではない、母や嫂に対しても、機嫌の好い時は馬鹿に好いが、いったん旋毛が曲り出すと、幾日でも苦い顔をして、わざと口を利きかずにいた。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変ったように、たいていな事があっても滅多に紳士の態度を崩さない、円満な好侶伴であった。だから彼の朋友はことごとく彼を穏かな好い人物だと信じていた。


 このように、一郎は、長男として甘やかされて育った結果、自分を絶対的な存在として位置づけて、周囲の全てが自分の思い通りにならなければ気が済まない、という人間になってしまったのではないか、と思われるのです。Hさんの手紙のなかでは、こうした一郎の考え方が、非常に難解な「哲学」的な議論として展開されているものの、結局のところ、一郎はわがままな人間である、ということに尽きるといえるでしょう(もっとも、Hさんは、一郎の高い見識を評価して、単純にわがままな人間と見なしてしまうことに繰り返し反対を表明していますが)。

 一郎がわがままな人間であるというのは、周囲の諸々の事物・事象、あるいは自分の周囲の人々に対して、表面上は適当に調子を合わせることはしながらも、根本的には自己は変化しようとせず、他が自己に合わせて変化するのが当然だという姿勢を頑なに崩そうとしない、ということにほかなりません。そうした一郎のあり方を鋭く暴くために持ち出されたのが、Hさんによって紹介されたモハメッドの逸話(山を呼び寄せるのが不可能なら、自分が山のところに歩いていくまでだ、といったという話)であったといえます。

 決定的に重要なのは、こうした一郎のわがままな特性は、妻・直との関係において最も深刻な形で現われてきている、ということです。直が夫に適当に調子を合わせて機嫌をとる、といった性格とは程遠かったことこそが、事態を決定的に深刻にしたのです。直は、一郎との関係を苦にして家を出て1人暮らしを始めた義弟・二郎のもとを訪ねた際、夫婦関係の現状を問う二郎に対して、「どうせ妾がこんな馬鹿に生れたんだから仕方がないわ。いくらどうしたってなるようになるよりほかに道はないんだから。そう思って諦らめていればそれまでよ」といい放ちます(「塵労」第4章)。二郎は、こうした嫂・直の発言について、「この強さが兄に対してどう働くかに思い及んだ時、思わずひやりとした」と述懐するのです。

 一郎は、周囲の全ての事物・事象、人々が、絶対的存在たる自己の思い通りになってしかるべきだ、という思いを持っていました。長男として甘やかされて育てられた結果の性格が、「哲学」的な思索を通じていわば理論武装されていたといえます。自分の思い通りになってしかるべき、ということでいえば、その筆頭に挙げられるのは、自分の妻にほかならなかったはずです。昔堅気の父が「長男に最上の権力を塗りつけるようにして育て上げた」だけあって、妻は夫に従順であるべきはずなのに……という感情には強烈なものがあったと思われます。このことは、先のモハメッドの逸話に関連して、「なぜ山の方へ歩いて行かない」と問いかけるHさんに対して、一郎が「もし向うがこっちへ来るべき義務があったらどうだ」といい返していることからも推測されます。

 しかし、一郎の妻となった直は「いくらどうしたってなるようになるよりほかに道はない」と開き直れるような強さを持っていたのでした。結論的にいえば、一郎は、自分の思い通りになって当然であったはずの妻が思い通りにならないことから調子を狂わせてしまい、自分(主観)と世界(客観)との関係に根本的に苦悩することになってしまったのではないか、と思われます。妻との関係が上手くいかなかったことこそが、自分自身と世界全体との関係についての悩みを深刻化させる契機となったのだ、ということです。ここに、特定の異性との関係に現実世界との関係を重ねてみるという『三四郎』以来の捉え方が、極限にまで深められた姿があるといえるでしょう。
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2016年07月23日

夏目漱石の中・長編小説を読む(11/16)

(11)『彼岸過迄』――「胸(ハート)」を抑える「頭(ヘッド)」

 前回は、いわゆる前期三部作の最後を飾る作品『門』を取り上げました。この作品では、大学生時代、親友・安井の妻である御米を奪って結婚した宗助が、何もかも思い通りにいかないという現実に直面させられるなかで、現実世界との積極的な関わりを次第に断ち切っていき、いわば世間から隠れるようにして御米との幸福な夫婦生活を築いていったことが描かれていました。しかし、いくら隠れようとしても、現実世界とのつながりは絶対に断ち切れるものではなく、一見すると幸福そうな夫婦生活が非常に不安定な土台の上に辛うじて成立しているにすぎないものであることが暴かれてしまうのでした。

 さて、今回は、いわゆる後期三部作の最初の作品である『彼岸過迄』を取り上げることにしましょう。これは、1912年(明治45年)、1月1日から4月29日にかけて、「朝日新聞」に連載されたものです。

 漱石は、1910年(明治43年)、前作『門』を執筆中に持病の胃潰瘍を悪化させ、8月6日、転地療養先の修善寺にて、大量吐血して危篤状態に陥ります(いわゆる「修善寺の大患」)。この『彼岸過迄』は大患からの復帰第一作となるわけです。漱石は連載開始に当たって、「彼岸過迄に就て」という文章を発表しています。ここで漱石は、「久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある」としつつ、「彼岸過迄」という標題について「元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない」と身も蓋もないような説明をしているのですが、注目に値するのは「個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成する」という創作上の意図を表明していることです。

 そうした意図の下、この『彼岸過迄』は、大学を卒業して就職に奔走している田川敬太郎という人物を形式上の主人公にして、彼が様々な人物に出会って話を聞く、という形で物語が進行していきます。しかし、この作品の中心的なテーマを担うという意味での実質的な主人公が、田川敬太郎の友人・須永市蔵であることは疑いありません。分量的には全体の半分に満たない「須永の話」が、圧倒的な存在感をもって読者に迫ってくるのです。ここでは、須永が、従姉妹である田口千代子への複雑な思い、とりわけ千代子をめぐって生じる嫉妬という感情について、自己分析的に語っています。この「須永の話」が核心となり、ここで須永自身によって掘り下げられた彼の性質について、須永の叔父(母の弟)である「松本の話」で、さらに別の角度から(後日談も含めて)補足される、という流れになっているわけです。

 まず考えてみなければならないのは、短編を重ねて長編を構成する、ということの意味です。これは、創作上のちょっとした思い付きということではなく、相当に深い意味があったのではないかと思われます。端的にいえば、漱石は、このような構成をとることによって、複数の小社会(小世界)の重層的な複合体として社会全体(世界全体)が構成されているのであり、ひとつの出来事も立場次第で様々な解釈の可能性があること、まさにその点にこそ苦境からの脱出の可能性があることを示そうとしたのではないか、ということができるのです。『彼岸過迄』の中心に据えられているのは、非常に重苦しい「須永の話」であるわけですが、作品全体としてみるならば、時系列の巧妙な入れ替えが行われることで(この問題については後述します)、一長篇としての結末が、明るい希望をそれなりに暗示するようなものになっていることが、そうした漱石の意図を強く示唆します。

 一方で、中心に据えられた「須永の話」については、漱石のこれまでの作品に比べても、徹底した問題の掘り下げがなされているといえるでしょう。

 「須永の話」で語られる須永の千代子への思いは、一筋縄ではいかない極めて複雑なものです。須永は千代子に対して、諸々の社会関係――血のつながらない母子関係を背景にして須永の母が須永と千代子の結婚を切望している一方で、千代子の父・田口は須永と千代子との結婚など眼中にないような態度を示していること――に規定されて、素直に接することができなくなっています。

 しかし、須永は、本心においては千代子を求めずにはいられないのです。このことに関わっては、「須永の話」第25章の最後で、「僕は始終詩を求めて藻掻いている」と述べられているのが、「須永の話」第12章において、自分を哲人にたとえ千代子を詩人にたとえた箇所と対応して、千代子を求めずにはいられない心情を切実に吐露したものとして、決定的な箇所だといえるでしょう。また、千代子が結婚が決まったとウソをついて須永を翻弄する場面(「須永の話」第10章)で、須永が「僕は自分という正体が、それほど解り悪い怖いものなのだろうかと考えて、しばらく茫然としていた」と独白する箇所も、非常に重要だといえます。

 こうした千代子に対する自己の矛盾した思いを見つめつつ、須永は自身の性格について「僕の頭(ヘッド)は僕の胸(ハート)を抑えるために出来ていた」(「須永の話」第28章冒頭)と総括しています。端的には、「胸(ハート)」は千代子を求めてやまないのだが、「頭(ヘッド)」がそれを抑えようとする、ということです(*)。

 このように、「須永の話」における問題の焦点は、「頭(ヘッド)」と「胸(ハート)」との対立関係、もう少しいえば、前者が後者を抑圧してしまうことの苦しさにほかならない、ということができるのですが、このことは『三四郎』以来の発展という観点から捉え返してみる必要があります。「胸(ハート)」の要求を「頭(ヘッド)」が押さえつけてしまうという矛盾は、三四郎の美禰子への思いにも萌芽的に含まれていたといえます。そのために、三四郎は、美禰子に向って何が何でも突き進んでいく、という強い行動に出ることは出来なかったのでした。これに対して、『それから』の代助は、「胸(ハート)」の要求にしたがって「頭(ヘッド)」を抑えつけるという選択を行います。その結果、「頭(ヘッド)」対「胸(ハート)」の自己内矛盾は、社会対自己という矛盾に転化されることになったのです。この社会対自己という矛盾の行く末を探究するという役割を担わされたのが、『門』の宗助にほかなりませんでした。こうした前期三部作での探究を踏まえて、『彼岸過迄』の須永は「否定の否定」的に掘り下げられた形で、再び「頭(ヘッド)」対「胸(ハート)」の自己内矛盾を抱え込まされることになったのではないかと思われます。

 須永の性格をめぐっては、「松本の話」第1章において「市蔵という男は世の中と接触する度に内へとぐろを捲き込む性質である」と述べられている箇所、あるいは同じく「松本の話」第2章における美人の写真の逸話――雑誌の表紙を飾る美しい女性の写真を、どこの誰かを知ろうともせずに、ずっと眺めていた(現実の女性を写したものとしてではなく、ただただ美しい写真として眺めていた)という逸話――も非常に重要だと思われます。端的には、須永は、諸々の社会的な関係に囚われすぎて(頭であれこれ考えすぎて)、現実世界との生き生きとした関わりを持てなくなってしまっているということです。ここからは、自己と現実世界との関わり方がある1人の異性との関わり方によって象徴される、あるいは、自己にとってある1人の異性が現実世界との接点としての位置づけを与えられる、という『三四郎』において提示されたテーマが、この『彼岸過迄』にも変わらず流れていることを確認することができるでしょう。

 しかし、『彼岸過迄』の実質的な終わりの部分(「松本の話」の最後)に登場する須永の手紙は、京都・大阪方面への旅行を通じて少しずつ外界に目が向かうようになっていく須永の様子をうかがわせるものになっています。旅先からの須永の手紙は、ただひたすら外的世界の出来事を描写しているだけのものであり、「世の中と接触する度に内へとぐろを捲き込む」という文言から連想されるものとは全く正反対のものになっているのです。こうした須永の手紙が最後の部分で紹介されることが、この物語世界の全体に一種の安心感のようなものを与えているともいえます。

 しかし、物語世界のなかの時間軸でいえば、須永が敬太郎に自身の千代子への複雑な思いを語るのは、京都・大阪方面への旅行で須永が少し明るくなったように思われるよりも後の出来事であることに注意が必要です。旅先からの須永の手紙が作品の最後の部分に来ることで、作品全体の印象が薄明るいものになってはいるものの、須永が敬太郎に語る様子からすれば、京都・大阪方面への旅行を経た後でも、須永の性格に決定的な変化があったようには思われない、ということです。

 漱石は、時系列をあえて意図的に組み替えて、須永の手紙が最後に来る形にすることで、ほの明るい雰囲気を醸し出そうとしたのではないか、と推測されます。そもそも、この作品全体が、社会に出る前後の敬太郎の一連の経験として語られている(敬太郎が第三者的な立場で見聞したものとして全体が括られている)ことで、深刻さを打ち消す一種の軽さが与えられていることも、こうした漱石の意図を強く示唆します。漱石は、この『彼岸過迄』において、自己と現実世界との関わり方という問題を深刻に掘り下げつつも、様々な視点からの捉え方がありうることを示すことによって、苦境からの脱出の可能性を探ろうとしていたのではないかと思われます。

(*)この「頭(ヘッド)」と「胸(ハート)」の対立は、フロイト理論の枠組みでいえば、超自我とエスとの対立として捉えることができるであろう。超自我は社会的な規範を自身の認識内部に取り込んだものであり、個人的な欲求(エス)を抑えつける機能を果たすものである。
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2016年07月22日

夏目漱石の中・長編小説を読む(10/16)

(10)『門』――断ち切りがたい「現実世界」とのつながり

 前回は、『それから』を取り上げました。これは、学生時代に、自らの本心を押し殺して愛する女性(三千代)を友人に譲ってしまった結果、現実世界と真剣に関わっていくことができなくなり、怠惰で贅沢な生活へと引き込もっていた代助が、三千代とともに生きていく決意を固め、贅沢な生活を犠牲にして、現実世界との激烈な闘争関係に入っていく覚悟を決める、という物語でした。

 さて、今回は『門』を取り上げます。これは、1910年(明治43年)、3月1日から6月12日にかけて「朝日新聞」に連載されたものです。

 『門』は、『三四郎』『それから』に続く、いわゆる前期三部作の最後に位置づけられる作品であり、大学生時代、親友・安井の妻である御米を奪って結婚した宗助が、思いがけなく遭遇させられた安井の影に怯えながら、救い(心の平安)を求めて煩悶する、といった物語となっています。

 この作品について、まず注目されるのは、宗助の諸々の行動について、○○しようと思ったが結局やめてしまった、というような書き方がなされていることです。宗助が「妙な物淋しさ」を紛らわすために東京の街を散歩する場面(第2章)から、いくつかの例を挙げてみることにしましょう。

「懐に多少余裕でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆り去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。」
「西洋小間物を売る店先では、礼帽の傍にかけてあった襟飾に眼がついた。自分の毎日かけているのよりも大変柄が好かったので、価を聞いてみようかと思って、半分店の中へ這入りかけたが、明日から襟飾りなどをかけ替えたところが下らない事だと思い直すと、急に蟇口の口を開けるのが厭になって行き過ぎた。」
「京都の襟新と云う家の出店の前で、窓硝子へ帽子の鍔を突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍をした女の半襟を、いつまでも眺めていた。その中にちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。買って行ってやろうかという気がちょっと起るや否や、そりゃ五六年前の事だと云う考が後から出て来て、せっかく心持の好い思いつきをすぐ揉もみ消してしまった。」


 このように、宗助は、色々な行動への意志を抱きつつも、結局それを行動にまで移さないうちに撤回してしまうことの多い人物として描かれているわけです。

 それでは、宗介は何故にこのような煮え切らない人物になってしまったのでしょうか。この問題こそが、本作品を読み解いていく上での決定的なポイントとなります。

 そもそも、学生時代の宗介は、非常に活発な若者でした。宗助と御米の過去が明かされる第14章においては、以下のように記述されています。

宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼らに共通な派出な嗜好を、学生時代には遠慮なく充たした男である。彼はその時服装にも、動作にも、思想にも、ことごとく当世らしい才人の面影を漲らして、昂い首を世間に擡げつつ、行こうと思う辺りを濶歩した。


 第4章において、宗助の叔母は「本当に、怖いもんですね。元はあんな寝入った子じゃなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるくらい活溌でしたからね。それが二三年見ないうちに、まるで別の人みたように老けちまって」と評していますが、これは、学生時代の宗介と現在の宗介の相違を印象深く示しています。現実世界に対して積極的に関わっていこうという志向性を持っていた宗助が、何事に対しても煮え切らない感じの人物に変貌してしまったのは何故なのか――このことが大きな問題となります。

 この問題を解くカギとなるのは、第4章や第14章で明かされる宗助および御米の過去にほかなりません。宗助の変貌の問題は、友人・安井の妻である御米を奪ってしまった宗介にどのような結果がもたらされたのか、という問題にほかならないわけです。

 友人の妻を奪った結果どうなるのか、ということでいえば、この『門』は前作『それから』の「それから」を描いたものとみることも可能です(もっとも、『門』の設定では、友人の妻を奪ったのが学生時代の出来事であるとされている点で、『それから』とは大きく異なることには注意が必要です)。『それから』の代助は、三千代との関係を断念することで現実世界との積極的な関わりを断っていきましたが、三千代を取り戻すことを決意すると同時に、社会全体との激烈な闘争関係に入ることを覚悟せざるをえませんでした。『門』の宗助もまた、友人の妻たる御米を奪ったことで、否応なしに現実世界との激烈な衝突を経験せざるを得なくなったことでしょう。当初の宗助は、元来の積極的な性格からして、「なにくそ!」という反抗心のようなもので必死に足掻いたのではないか、と思われる節もあります(第4章においては「彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった」という表現が見られます)。しかし、宗助は、何もかもが思い通りにいかないという経験を積み重ねていくに連れて、段々と将来への希望を失っていったのではないか、と推測されるのです。第4章では、なかなか思い通りにならない現実に対して、御米が「でも仕方がないわ」といえば宗助が「まあ我慢するさ」と答える、といったやり取りが積み重ねられていった様子が描かれていきます。

 宗助と御米は、現実社会との関わりを可能な限り断ち切り、過去もできる限り見ないようにして、いわば自分たちの殻に閉じこもるようにして、それなりに幸福ともいえる夫婦生活を実現していく過程を歩んでいったのです。その到達点は、第14章の冒頭で次のように書かれています。

宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味く暮した事はなかった。言逆に顔を赤らめ合った試はなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。彼らは山の中にいる心を抱て、都会に住んでいた。


 しかし、現実世界との関係を完全に断ち切ることも、過去を消し去ってしまうことも、当然のことながら不可能でした。宗助は、ひょんなことから家主の坂井と親しく交際するようになっていたのですが、あるとき、その坂井の家に、満州に渡った坂井の弟が、同じく満州に渡っていた安井(宗助の友人、御米の元夫)を連れて訪ねてくる、ということを聞かされ、激しく動揺してしまいます。煩悶する宗助は、救いを求めて鎌倉へ向って参禅しますが、結局、何も悟ることのできぬまま、帰宅するのです。

 物語は、暖かな秋の日の描写に始まり、冬の厳しい寒さを経て、穏やかな春の描写で終わります。こうした季節の推移(寒さが段々と厳しくなっていく過程)に重ね合わせるようにして、小六問題(叔父・叔母に養育されていた宗助の弟・小六を引き取らざるを得なくなった問題)の深刻化、安井の思いがけぬ登場による衝撃が描かれていき、安井が東京を去り、小六の措置もついて一安心という一応の結末に至るわけです。しかし、現実世界とのつながりを根本的に断ち切ることなど不可能なのです。『門』の結末部分で、宗助と御米は次のような会話を交わします。

 御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、
 「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
 「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。


 この会話は、一見すると幸福そうな夫婦生活の下に底知れぬ恐ろしい現実が隠されている、という物語世界の構造を浮き彫りにしていて、非常に印象的です。御米の視線が上を向き、宗助の視線が下を向いているという対比の鮮明さも見逃すわけには行きません。穏やかな春の日の描写の様子でありながら、底知れぬ寒さ、恐怖をも感じさせる、実に見事な文章であるといえます。
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2016年07月21日

夏目漱石の中・長編小説を読む(9/16)

(9)『それから』――「現実世界」からの逃避を経て再対決へ

 前回は、『三四郎』を取り上げました。これは、三四郎と美禰子との関係に、青年と「現実世界」との関係という普遍的なテーマを重ねて描いた作品であり、三四郎は、美禰子への失恋という経験を通じて、批評家的に達観した生き方を否定し、一筋縄ではいかない現実世界に対して自分なりに真剣に向き合っていこうという意志を示すに至ったのでした。

 さて、今回は『それから』を取り上げます。これは、1909年(明治42年)、6月27日から10月4日にかけて「朝日新聞」に連載されたものです。

 『それから』は、大学卒業後も定職に就かず、父親からの金銭的援助によって贅沢な暮らしを送っていた長井代助が、大学生時代からの友人である平岡常次郎の妻となっていた三千代(代助と平岡の共通の友人・菅沼〔故人〕の妹)とともに生きていく決意を固めるまでを描いた物語です。

 この作品の前半部分においては、代助が現実世界(近代日本社会)を傍観者的、批評家的に眺めて、あれこれ批判的な言辞を振り回しているだけで、積極的に関わっていこうという姿勢に欠けていることがことさらに強調されています。これは、『三四郎』における広田先生などを髣髴とさせるものがあります。

 しかし、こうした代助の姿勢は、三千代によって「少し胡麻化していらっしゃる様よ」と断じられてしまいます(第6章)。この三千代の発言は決定的に重要なものであり、この作品全体の構造を説くカギがここにあるといっても過言ではありません。このことを検討するために、この三千代の発言の直接のきっかけになった代助の言動を確認しておくことにしましょう。代助は、なぜ働かない、と追及する平岡に対して、以下のような議論を展開していたのです。

何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なっている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、何と云ったって、何を為たって、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来している時分から怠けものだ。あの時は強いて景気をつけていたから、君には有為多望の様に見えたんだろう。そりゃ今だって、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於いて健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。そうなれば遣る事はいくらでもあるからね。そうして僕の怠惰性に打ち勝つだけの刺激もまたいくらでも出来て来るだろうと思う。然しかしこれじゃ駄目だ。今の様なら僕は寧むしろ自分だけになっている。そうして、君の所謂有のままの世界を、有のままで受取って、その中僕に尤も適したものに接触を保って満足する。進んで外の人を、此方の考え通りにするなんて、到底出来た話じゃありゃしないもの――


 このように、代助は、自分が働かないのは日本社会にまともな仕事ができるような条件がないからだ、自分が悪いのではなくて世の中が悪いのだ、といい放つのです。確かに、代助の日本社会への批判そのもの、例えば「牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ」などという批評には、非常に鋭いものがあるといえます。こうした代助による批評が、漱石自身の思想の反映にほかならないことは、「現代日本の開化」などを読めば明白です。しかし、ここで漱石は、そうした鋭い文明批評を、代助が抱える深刻な矛盾――自らは金の心配をしなくてよい境遇にありながら、金のために必死に奔走する人々の姿を嘲笑する――を浮き彫りにするような形で提示しているのです。それは、代助の姿に哀れな滑稽さを感じさせずにはおかないほどのものであり、見方によっては、代助に対する読者の反感を煽るほどのものがあるともいえます。

 三千代はこうした代助の言動に「胡麻化し」を感じ取りました。三千代は、代助が働かない(働けなくなった)のは他に本当の理由があるのではないか、それを隠すためにもっともらしい理屈を捏ね繰り回しているだけではないか、ということを直観したわけです。

 それでは、その本当の理由とは一体何なのでしょうか。それは、代助自身、この時点では自覚できていなかったものですし、代助の「胡麻化し」を鋭く感じ取った三千代もまた、明瞭にはつかむことができなかったであろうものです。それは、結論的にいえば、代助が大学生時代に、自らの本心(三千代への愛)を押し殺して、三千代を平岡に譲って2人の結婚をまとめ上げてしまったことにほかなりません。自己と現実世界との関わり方がある1人の異性との関わり方によって象徴される、あるいは、自己にとってある1人の異性が現実世界との接点としての位置づけを与えられる、という『三四郎』において提示されたテーマは、この『それから』にも貫かれているのです。要するに、代助は、自分の本心を押し殺して三千代との関係を断念したことによって、現実世界と真剣に関わっていくことが段々と馬鹿らしくなってしまったのであり、怠惰で贅沢な生活へと引き込もっていく、という経過を辿っていくしかなかったわけです。

 しかし、こうした怠惰で贅沢な生活は欺瞞でしかありませんでした。現実世界、すなわち、三千代との関係を切実に必要としながら、それをあえて抑え込んでしまっているわけですから、どこかで破綻せざるをえなかったのです。

 三千代への変わらぬ愛を自覚せざるを得なくなった代助は、三千代へ自分の思いを告げる決心をします。代助は「今日始めて自然の昔に帰るんだ」という安尉と幸(ブリス)を感じると同時に、「この一刻の幸から生ずる永久の苦痛」に思い至って慄然とします。代助にとってみれば、三千代との本来あるべき(自然な)関係を回復することは、直接に、現実世界との激烈な闘争関係に入っていくことを意味したのです。しかし、代助は覚悟を決めます(第15章)。

彼は自ら切り開いたこの運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整えた。父の後には兄がいた、嫂がいた。これ等と戦った後には平岡がいた。これ等を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌してくれない器械の様な社会があった。代助にはこの社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦う覚悟をした。


 代助の消極的生活――父の財産に依存し、労働を馬鹿にして、遊び暮らす――が、徹底的に欺瞞的で滑稽なものとして、見方によっては読者の反感をことさらに煽るように描かれていたのは、積極的生活に向けた代助のこうした一大決心――これまでの自己のあり方の完全な否定――の壮絶さを際立たせるためのものであったといえるかもしれません。もちろん、怠惰で贅沢な暮らしに慣れてしまった代助の一大決心がどの程度地に足の着いたものであるのか、社会の全てを敵に回すということの厳しさを本当に分かっているのかどうか、疑問が生じないわけではありません。それでもなお「今日から愈(いよいよ)積極的生活に入るのだ」(第14章)という代助の決意だけは、しっかりと肯定的に押さえておくべきものであるといえるでしょう。
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2016年07月20日

夏目漱石の中・長編小説を読む(8/16)

(8)『三四郎』――「現実世界」に積極的に斬り込んでいくことへの逡巡

 前回は、『坑夫』を取り上げました。これは、力みすぎて硬くなってしまった『虞美人草』の徹底して逆をいくことで、柔軟性のきわみのようなものの見方・考え方を獲得した作品だといえるものであり、漱石は、上流階層の坊っちゃんをあえて社会の最底辺にまで突き落とし、その自負心を完膚なきまでに解体させることによって、美醜や貴賤によって人間を差別するような偏見を徹底して否定する立場を主張したのでした。

 さて、今回はいわゆる前期三部作(『三四郎』『それから』『門』)の第一作となる『三四郎』を取り上げます。これは、1908年(明治41年)、9月1日から12月29日にかけて、「朝日新聞」に連載されたものです。

 『三四郎』は、九州の片田舎から東京帝国大学に入学するために上京してきた小川三四郎が、都会における様々な人々との交流を通じて成長していく、という物語です。とりわけ重要な軸となっているのは、都会的な美しい女性・美禰子と三四郎との関係です。三四郎は美禰子に恋心を抱き、美禰子も思わせぶりな態度を示さないではないのですが、結局、2人の関係が大きく発展することはなく、美禰子は、兄の友人と結婚してしまうのです。

 この『三四郎』は、『坑夫』から一転して、小説らしい小説として書かれているといえます。かといって『虞美人草』のような力みも感じさせず、自然な流れで物語が展開していき、『坑夫』を媒介した効果が大きかったことを感じさせられます。

 それでは、このような小説らしい小説という形式において、漱石が展開しようとしたテーマとは、一体どのようなものだったのでしょうか。

 それは、端的には、三四郎(青年)と「現実世界」との関係の問題にほかならない、といえます。もう少しいえば、現実世界に積極的に斬り込んでいくか、あるいは現実世界から一定の距離をとって傍観者・批評家として対するか、ということこそが、この『三四郎』の最大のテーマであるといえるのです。もちろん、直接的には、物語は三四郎と美禰子との関係が軸になって展開していきます。しかし、それは単なる男女の関係の問題という表層的なレベルにとどまるものではなく、自己が現実世界と如何なるかかわりを持っていくか、というより普遍的なテーマが重ねられたものだとみるべきなのです(*)。

 そもそも、三四郎が初めて美禰子に顔を合わせるのは、上京間もなく、同郷の先輩である野々宮宗八を理科大学に訪ねた直後のことです。そのとき三四郎は、池を眺めながら「現実世界はどうにも自分に必要らしい。けれども現実世界は危なくて近寄れない気がする」と考えていたのでした。この問題を極めて切実な形で具体化させる存在として、美禰子が登場させられているわけです。三四郎にとっての美禰子とは、いわば現実世界との鋭い接点という位置づけを与えられている存在にほかなりません。端的には、現実世界に積極的に斬り込んでいきたいが、その危険性も充分に分かっているのでなかなか踏ん切りがつかない、という三四郎の逡巡を、美禰子との関係に象徴させながら描いた作品が、この『三四郎』なのだといえます。

 もっとも、この「現実世界」というのが何を指すのかは、いささか漠然とした感がないではありません。東京での生活の日々が重なるにつれて、三四郎は「三つの世界」ということを考えるようになります。すなわち、過去の時代(故郷)たる「第一の世界」、象牙の塔たる「第二の世界」、華やかな社交の世界(美しい女性との親しい関係)である「第三の世界」です。先の「現実世界」というのが、ここでは「第三の世界」と重ねられている節もあるのですが、あまり狭く捉えずに、広田先生の社会批評的な言説も考慮して、急速な近代化を進める日本社会との関係をも視野に入れた上で現実世界との関わりを捉えておく必要があるでしょう。

 さて、現実世界との関係で大きな矛盾を抱えて逡巡する三四郎と対照的なのが、広田先生や野々宮さんのような、象牙の塔たる「第二の世界」の住人たちです。端的にいえば、彼らは現実世界をあくまで傍観者として眺めて、あれこれ批評しているにすぎないのです。広田先生は、「これからは日本もだんだん発展するでしょう」という三四郎に対して「滅びるね」といい放ち、「あぶない。気をつけないとあぶない」などといって三四郎を驚かせます。野々宮さんもまた、三四郎に留守を頼んだ晩に近所で轢死があったことを聞いて、「それは珍しい。めったに会えないことだ。ぼくも家におればよかった」などと「のん気」なことをいって三四郎を驚かせるのです。三四郎は、広田先生について、「あぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味があるかもしれない」と考えますが、自分自身はそのような「批評家」的な生き様に飽き足らないものを感じずにはいられないのです。

 注目に値するのは、こうした「第二の世界」の住人たちの批評家的な姿勢もまた、美禰子との関係によって、象徴的に描かれている、ということです。兄と2人暮らしの美禰子は、兄の結婚が近いことによって、自らも速やかに結婚して里見家を出ることを強いられるような境遇にありました。にもかかわらず、おそらく結婚相手の最有力候補とみなされていたであろう野々宮さん(三四郎は、野々宮さんと美禰子との関係にひたすら気をもみ続けます)は、美禰子との結婚を具体的な問題として真剣に考えている様子はありません。せっかく一家を構えていたのに、わざわざ引き払って下宿生活に戻るなど、あくまでも「のん気」なのです。こうした野々宮さんの態度は、野々宮さんとの結婚を望んでいたかもしれない美禰子からすれば、「責任をのがれたがる」ものに映ったに違いありません。もっとも、これは、あくまでも美禰子の側からする評価であり、野々宮さん本人にすれば、美禰子の苦しい立場に対して無頓着、鈍感であったにすぎないわけです。

 かといって、学生の身分に過ぎない三四郎と美禰子の結婚など、当時の社会通念からすれば、まず問題にもなりえなかったであろうと考えられます。三四郎には一家を構えられるほどの経済力はありませんし、あろうことか、美禰子から30円借りてしまうのです(この借金の一件は、三四郎が美禰子の夫になるだけの社会的資格を決定的に欠いていることを露骨に示すものだといえます)。さらに決定的なのは、三四郎の側に「現実世界」に積極的に斬り込んで行くことへの逡巡があったことです。三四郎に何が何でも突き進んでいこうという強烈な意志があればまだしもですが、とうとう、三四郎がそこまでの決意をしめすには至らなかったのでした

 最終的に、美禰子は、兄の友人(なかなか財力がありそうな人物として描写されています)と結婚せざるを得なくなります。美禰子は、自分の意志で自由に振舞おうとする現代的な女性でありながら、結局のところ、封建的な束縛から自由ではありえなかったのです。三四郎と出会ったころの美禰子は、こうした苦境からの脱出の可能性を周囲の男性たち(その筆頭は野々宮さん)との関係に何とか見出すことができれば……という思いを微かにもちつつも、誰も期待に応えてくれるような人物はいないということに失望し、諦めの境地に至りつつあったのです。『三四郎』は、そうした美禰子の複雑な感情を、三四郎の目から見た美禰子の言動を媒介として、実に見事に描ききった作品であるといえます。

 美禰子の強いられた結婚という結末には、結婚という男女の愛にもとづくべき行為も、結局は経済力の問題に左右されざるをえない、という社会の苦い現実が示されています。このことを漱石は、あれほど自由で自らの意志をハッキリと持った美禰子ですら……という形で、鋭く抉り出したといえます。華やかな社交の世界として観念された「第三の世界」(現実世界)は、結局のところ人間的な感情や愛が金力・権力によって踏みにじられてしまう世界にすぎなかったのだ、ということが暗示されているともいえるでしょう。

 物語の結末部分、画家である原口が美禰子を描いた「森の女」という絵の前で、三四郎は「森の女という題が悪い」といいます。「じゃ、なんとすればよいんだ」という友人・与次郎の問いかけに対して、三四郎は「迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)」と口の中で繰り返します。「森の女」というのは、広田先生が夢の中で出会ったという森の中の少女を連想させる言葉です。一方、「ストレイ・シープ」というのは、菊人形を見学に行った際、美禰子と三四郎が一行からはぐれて「迷子」になったときに、美禰子から三四郎に投げかけられた言葉にほかなりません。「森の女」ではなく「ストレイ・シープ」がよい、という三四郎は、批評家的に達観した生き方を否定し、一筋縄ではいかない現実世界に対して(美禰子の迷いをも自分のものとして受け止めながら)自分なりに真剣に向き合っていこうという意志を示したのだ、ともいえるでしょう。三四郎は、『虞美人草』の甲野さん的な限界を突破しようとする存在として位置づけられているわけです。

(*)先取りしていえば、『三四郎』以降の漱石作品は全て、自己と現実世界との関わり方について、1人の異性との関わり方を通して描く、というテーマを共通して持っているといえる。
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2016年07月19日

夏目漱石の中・長編小説を読む(7/16)

(7)『坑夫』――硬直したものの見方・考え方を突き崩す

 前回は、漱石の職業作家としての第一作である『虞美人草』を取り上げました。これは、小刀細工の好きな人間は死に突き当たるしかない、死に突き当たらなければ浮ついた不真面目さはなくならないものだ、という思想を展開した作品にほかなりませんでした。そして、その根底には、明治維新以降の皮相上滑りの開化によって埋没させられてしまった古き良き日本の道義を復活させるためには、悲劇を媒介とするほかなさそうだ、という漱石の苦しい思いがあったのではないか、ということでした。

 さて、今回は『坑夫』を取り上げます。これは、1908年(明治41年)の元旦から4月6日まで、「朝日新聞」に連載されたものです。

 『坑夫』は、『虞美人草』の小野さんを思わせる恋愛事件(三角関係のもつれ)の結果、家出を余儀なくされた青年(名前は明らかではありません)が、ポン引きの長蔵さんに誘われるまま坑夫として働くことを承諾し、鉱山(足尾銅山がモデルとされます)へと向かう、といった筋書きになっています。

 この作品の特徴を端的にいうならば、『虞美人草』の対極にある作品、すなわち、『虞美人草』の限界を踏まえ、あえて全く逆の方向を模索した作品である、ということができるでしょう。職業作家としての第一作であった『虞美人草』は、登場人物の造形にしろ物語の筋立てにしろ、力が入りすぎた感は否めませんでした。登場人物の性格は確固として明瞭であり、様式美を感じさせるほどに勧善懲悪の筋が鮮明でした。これに対して『坑夫』は、明瞭な筋らしい筋がなく(時間の経過にしたがって出来事を淡々と書き連ねているだけ、といった印象です)、人間の心は変わりやすいものでまとまった性格などないのだということが、随所で強調されています。主人公の独白のなかで、小説ではなく事実だ、と繰り返し強調されているのは、如何にも物語らしく拵え上げた諸々の小説なるものへの批判であるのはもちろん、何よりもまず、漱石自身の前作『虞美人草』の硬直性(わざとらしさ)への反省が込められたものとして受け止めるべきだと思われます。そのような意味において、この『坑夫』は、小説としての出来栄えを云々する以前に、漱石文学の発展過程における必然的な経過点として捉えるべき作品であるといえるかもしれません。かなり硬直的であった『虞美人草』に対して、徹底的に型を崩した、流動性そのものといってよいような『坑夫』を書くことによってはじめて、次作『三四郎』以降への発展の道が切り拓かれたのです。

 しかし、この徹底的な流動性というものは、単なる『虞美人草』へのアンチテーゼという消極的な意味を持つものにとどまりません。硬直したものの見方・考え方を突き崩してこそ社会の真実を見究めることができる、という積極的な主張が込められていることを見逃してはならないのです。

 そもそも、上流階層の「坊っちゃん」が社会の底辺たる坑夫になろうとするという設定そのものが、漱石の社会への見方、ハッキリいえば、社会的格差への批判的な眼差しを表わしているといえます。『坑夫』の主人公は、『虞美人草』の小野さんを思わせる恋愛事件(三角関係)の結果、明るい社会にいられなくなり、暗い方へ暗い方へと向かっていきます。主人公には当初、上流階層の自分は赤毛布や小僧(主人公と同じく、ポン引きの長蔵さんに坑夫にならないかと誘われる若者たち)などとは全く別ものだ、という意識(優越感、自負)が強烈にありました。坑夫に対しても相当に軽蔑的な視線が感じられます。しかし、赤毛布や小僧とともに鉱山を目指す道中で、さらに、実際に坑夫の世界に投げ込まれ、坑夫たちとの様々な交流を行うなかで、そうした意識は次第に解体されていくのです。

 長蔵さんが赤毛布を誘う場面は、主人公の自負心、優越感が崩壊していく重要な場面のひとつといえます。

彼れはこの酒、めし、御肴の裏から飛び出した若い男を捕まえて、第二世の自分であるごとく、全く同じ調子と、同じ態度と、同じ言語と、もっと立ち入って云えば、同じ熱心の程度をもって、同じく坑夫になれと勧誘している。それを自分はなぜだか少々怪しからんように考えた。その意味を今から説明して見ると、ざっとこんな訳なんだろう。――
 坑夫は長蔵さんの云うごとくすこぶる結構な家業だとは、常識を質に入れた当時の自分にももっともと思いようがなかった。まず牛から馬、馬から坑夫という位の順だから、坑夫になるのは不名誉だと心得ていた。自慢にゃならないと覚っていた。だから坑夫の候補者が自分ばかりと思いのほか突然居酒屋の入口から赤毛布になって、あらわれようとも別段神経を悩ますほどの大事件じゃないくらいは分りきってる。しかしこの赤毛布の取扱方が全然自分と同様であると、同様であると云う点に不平があるよりも、自分は全然赤毛布と一般な人間であると云う気になっちまう。取扱方の同様なのを延き伸ばして行くと、つまり取り扱われるものが同様だからと云う妙な結論に到着してくる。自分はふらふらとそこへ到着していたと見える。長蔵さんが働かないかと談判しているのは赤毛布で、赤毛布はすなわち自分である。何だか他人が赤毛布を着て立ってるようには思われない。自分の魂が、自分を置き去りにして、赤毛布の中に飛び込んで、そうして長蔵さんから坑夫になれと談じつけられている。そこで、どうも情けなくなっちまった。自分が直接に長蔵さんと応対している間は、人格も何も忘れているんだが、自分が赤毛布になって、君儲かるんだぜと説得されている体裁を、自分が傍へ立って見た日には方なしである。自分ははたしてこんなものかと、少しく興を醒まして赤毛布を、つらつら観察していた。


 「自分」が長蔵さんに誘われたとき、ある意味で自分は認められたのだし、認められるだけの価値ある人間だという自負がないではありませんでした。長蔵さんに誘われている自分の様子を客観的に見ることができなかったわけです。ところが、今、赤毛布が自分と全く同じように誘われている場面を見て、その時の自分を否応なしに客観的な視点から眺めさせられることになり、自分の思っていたことは勘違いにすぎなかったのだということを強烈に分からされることになったのです。

 さらに決定的な箇所としては、健康診断の結果を親方に報告しに行く場面での主人公の以下のような独白が指摘することができるでしょう。

坑夫は世の中で、もっとも穢ないものと感じていたが、かように万物を色の変化と見ると、穢ないも穢なくないもある段じゃない。……ふと往きに眼についた蒲公英に出逢であった。さっきはもったいないほど美しい色だと思ったが、今見ると何ともない。なぜこれが美しかったんだろうと、しばらく立ち留まって、見ていたが、やっぱり美しくない。それからまたあるき出した。だらだら坂を登ると、自然と顔が仰向になる。すると例の通り長屋から、坑夫が頬杖を突いて、自分を見下している。さっきまではあれほど厭に見えた顔がまるで土細工の人形の首のように思われる。醜くも、怖くも、憎らしくもない。ただの顔である。日本一の美人の顔がただの顔であるごとく、坑夫の顔もただの顔である。そう云う自分も骨と肉で出来たただの人間である。意味も何もない。


 自分も坑夫も日本一の美人もただの人間だ、ということで、世間一般で通用しているような価値観を全く無化してしまうような、ある意味、悟りきったような境地に達した、ということでしょう(*)。

 以上でみてきたように、力みすぎて硬くなってしまった『虞美人草』の徹底して逆をいくことで、あらゆる常識にとらわれない、柔軟性のきわみのようなものの見方・考え方を獲得した点にこそ、『坑夫』の大きな意義があるといえます。この根底にも、華族や金持ちによる権力や金力の横暴が貧しい人々を苦しめている社会の現実に対する漱石の激しい憤りの感情が流れていることを見逃すわけには行きません。漱石は、この『坑夫』において、上流階層の坊っちゃんを社会の底辺に突き落とすことによって、人間を等級付けるような価値観を拒否し、美醜や貴賤による差別や偏見を徹底して否定する立場を主張したのです。

(*)そのような観点からすれば、鉱山に向かう道中、主人公が長蔵さんから受け取った芋に対して「芋中の穢多」だとの感想を抱く箇所(岩波文庫版、p.79)を伏字にしてしまうのは、坑夫は穢いものと蔑視していた主人公の考え方が崩壊していくことの効果を弱めてしまうものだといえるだろう(健診結果を報告に行く場面での主人公の独白中に「穢」という字が多用されていることに注目すべきである)。岩波文庫版の解説(紅野謙介)では、漱石が「穢多」という差別語をあえて取り込んだ上でそれを見事に解体している、と論じられているが、妥当なものといえよう。漱石の本来の意図を汲むためには、この箇所は伏字にすべきではないであろう。
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2016年07月18日

夏目漱石の中・長編小説を読む(6/16)

(6)『虞美人草』――悲劇によって社会を真正の文明に導く

 前回は、『二百十日』および『野分』を取り上げました。『二百十日』は、金持ちや華族を打ち倒す「文明の革命」への漱石の熱い思いを直截に表現した作品であり、『野分』は、文学者として生きようとする漱石の決意、すなわち、崇高な理想を掲げて世間の偏見と闘うという道へ踏み出そうという漱石の決意を表明した作品でした。

 漱石は、このような重大な決意をもって、一切の教職を辞して朝日新聞に入社し、職業作家としての道を歩み始めます。その職業作家としての第一作が、1907年(明治40年)6月23日から10月29日まで、朝日新聞に連載された『虞美人草』です。

 この『虞美人草』は、貧しい境遇から何とか抜け出して上を目指そうとする青年を中心として、2人の若い女性を配した三角関係の問題が軸になって展開していきます。より具体的にいえば、大学卒業時に恩賜の銀時計を授与されたほどの秀才・小野さんは、恩師である井上孤堂先生の娘・小夜子との間に(暗黙のうちに)結婚の約束があったにもかかわらず、傲慢で虚栄心の強い美女・藤尾にひかれているのです。この三角関係に、藤尾の兄である甲野さん、その友人・宗近君などが絡んできます。ちなみに、作中で甲野さんは「哲学者」と呼ばれており、金力や権力の支配する社会関係を超然と眺める視点を持っています。一方、宗近君は、古きよき日本の道義を体現する直情的な好人物として描かれているといえます。

 この作品は、職業作家として初めての長編小説ということで、大変に力のこもった作品です。単純な長さだけでいえば、『吾輩は猫である』の方が長いのですが、あれはいわば短編の積み重ねですから、相当に趣が異なります。『虞美人草』は、最初から長編小説として計画されたもので、物語の至るところに伏線が張り巡らされていている(例えば、藤尾の持つ金時計の取り扱い方は印象的です)ことからしても、物語の筋、展開を入念に構想しきってからの執筆であることがうかがえます。文体も独特で、漱石は一字一句まで腐心して書いたといわれるほど、非常に凝ったものとなっています。象徴的な箇所として、藤尾がはじめて登場する場面(第2章)をみてみましょう。

紅を弥生に包む昼酣なるに、春を抽んずる紫の濃き一点を、天地の眠れるなかに、鮮やかに滴らしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶に眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢の上には、玉虫貝を冴々と菫に刻んで、細き金脚にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短かきを偸んで、疾風の威を作すは、春にいて春を制する深き眼である。この瞳を遡って、魔力の境を窮むるとき、桃源に骨を白うして、再び塵寰に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊たる夢の大いなるうちに、燦たる一点の妖星が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉近く逼るのである。女は紫色の着物を着ている。


 このように、豪華絢爛とでもいうべき文体なのですが、いささか装飾過剰である感は否めません。悪くいえば、肩に力が入りすぎている、ということになるでしょう。これは単に文体の問題だけでなく、小説全体としてみても、小説らしい小説を書こうという力みが強烈に感じられ、人物の造形も物語の展開も(張り巡らされた伏線も含めて)、まだまだ生硬な感じがするのは否めません。

 それでは、このような小説らしい小説という形式のなかに、漱石が盛り込もうとした思想とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

 それは、第1章の末尾における甲野さんの発言に端的に現われているといえます。小刀細工の好きな人間は死に突き当たるしかない、死に突き当たらなければ浮ついた不真面目さはなくならないものだ、という趣旨の発言です。これは、直接には、藤尾の運命(小野さんとの結婚の道を断たれて憤死する)を予言するものにほかならないのですが、重要なのは、ここに、当時の日本社会のあり方に対する漱石の批判的な眼差しが重ねられているらしいことです。このことは、甲野さんが、日露戦争での勝利に浮かれる日本について「たまたま風邪が癒れば長命だと思っている」(第5章)などと評していることから推測されます。

 これらは、超然とした哲学者・甲野さんの発言として語られていることが意味深長です。甲野さんは、問題解決に向けて現実に積極的に働きかけていくことはできない(どうやって働きかけていけばよいか分からない)けれども、問題点だけはよく見えてしまうのであり、最終的には、問題が激化して破局に至るほかないであろうことまでが見えてしまうのです。甲野さんは、直情的な宗近君の行動を評しつつ、酔っ払っている(精神が正気でない)のに異常がないからと得意がるのはおかしい、酔っ払いなら酔っ払いらしく尋常にするべきだ、というのですが、宗近君から、君は「酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」とやり返され、「まあ立ん坊だね」と淋しげに笑うのです。このさびしげな笑いに秘められた甲野さんの苦しみは、そのまま漱石自身の苦しみであったともいえます。とはいえ、死という真面目な事実に突き当たることによってはじめて人間の浮ついた気持ちがやむのだ、という甲野さんの発言からは、破局の果てにこそ復活の可能性があるはずだ、という思いを読みとることができます。実際に、物語の結末はそのようなものになっています。

 そうした結末に向けた物語の展開上の最大のポイントは、小野さんが宗近君の説得によって変わりえたことです。小野さんは、自身の暗い過去から目を背け、藤尾との結婚に明るい未来を見出そうとしていました。一方で、かつて世話になった孤堂先生、小夜子の思いを踏みにじってしまうのは忍びないという思いを振り切れることもできていませんでした。小野さんは、始終不安で泰然としてはいられなかったのです。小野さんは、何とかして折り合いをつけようとします(第12章)。

恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂母を徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、濃やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好な優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。


 しかし、机の前で発明された論理は無力なものでしかありませんでした。宗近君は、この矛盾を鋭く突きます。小野さんは、宗近君の説得により、自身の過去に誠実に向き合い、藤尾との関係を断念して、小夜子との結婚の約束を果すことを決意するのです。こうした変化が可能になったのは、端的には、小野さんが根本のところで昔ながらの真面目さを把持し続けていたからにほかなりません。小野さんは、「上皮」では華やかさを装っていても(華やかさに惑わされていても)、根はやっぱり真面目だったのでした。

 このことに関連して、岩波文庫版の解説(桶谷秀昭)が、宗近君による説得を境にして「動揺する小野の自意識を掘り下げてきたそれまでの経過」が脇に置かれてしまうと指摘して、「ここのところは小説に無理が来ている」と難じているのは、適切な評価ではないと思われます。根が真面目だった小野さんは、宗近君の説得を契機にして本来の真面目な自分に立ち返った(腹を据えた)のであり、その結果、建前と本音との差がなくなって諸々の弁解をする必要がなくなったからこそ、「動揺する小野の自意識を掘り下げてきたそれまでの経過」が脇に置かれることになったのです。動揺する自意識の掘り下げなどは、「上皮」を装った小野さんが本来の真面目な自分に対して試みる弁解にすぎません(*)。古きよき日本(小野さんが立ち返っていくところ)の道義を象徴する人物といえる宗近君に対しては、そもそも自意識の掘り下げなど一切なされていないことに注目すべきでしょう。

 漱石は、小野さん変貌の決定的瞬間を、「上皮の文明は破れた。中から本音が出る」と、非常に印象的な形で描写しています。こうした小野さんの変貌(本来の姿への立ち返り)には、日本がまともな発展の道に復帰することへの漱石の大きな期待が込められたものだといえるでしょう。そもそも、それまでの小野さんの変わり方(「上皮」の華やかさの追求)は、明治維新以降の日本の変わり方を象徴するものとして位置づけられていることは間違いありません。小野さんについて以下のように述べられています(第9章)。

小野さんの変わりかたは過去を順当に延ばして、健気に生い立った阿蒙の変わりかたではない。色の褪めた過去を逆に捩じ伏せて、目醒ましき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急に拵え上げたような変わりかたである


 これは、1911年(明治44年)の講演「現代日本の開化」で展開された批判、すなわち、「一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるということに帰着する」という批判とピッタリと重なるものであるといえます。漱石が、小野さんの眼鏡やひげなど、「上皮」を意図的に描いているのも示唆的です。西洋からの圧迫で急速に取り繕ったような「上皮」の下には、古き良き日本の道義が変わらず生きているはずだ、という漱石の思いが、小野さんの変貌には反映させられているともいえそうです。

 物語の最後の部分で、甲野さんは、外交官としてロンドンに赴任した宗近君に、自らの日記の一節を抄録して送ります。その日記には、「悲劇はついに来た」「道義の運行は悲劇に際会して始めて渋滞せざるが故に偉大なのである。道義の実践はこれを人に望む事切なるにもかかわらず、われのもっとも難しとするところである。悲劇は個人をしてこの実践をあえてせしむるがために偉大である。……社会を真正の文明に導くが故に、悲劇は偉大である」「問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織か繻珍か、これも喜劇である。英語か独乙語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である」と書かれていました。日本の甲野さんの悲劇論を受け取ったロンドンの宗近君は、「ここでは喜劇ばかり流行る」と返事します。漱石の念頭には、早晩に悲劇を経験するであろう日本と、喜劇に終始するほかない西洋という対比の構図があったことがうかがわれます。漱石は、まさにこの点にこそ、日本の西洋に対する逆転の可能性を見出そうとしていたのかもしれません。

(*)逆に、藤尾のように根の真面目さが微塵もなければ、矛盾はなく動揺もありえないといえよう。
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2016年07月17日

夏目漱石の中・長編小説を読む(5/16)

(5)『二百十日』――革命を想う熱い心/『野分』――「文学者」として生きる決意

 前回は、しばしば高踏的な作品とされる『草枕』を取り上げました。「非人情」の芸術を追求する画工を主人公とするこの作品は、「人情」(諸々のしがらみに囚われてどうしようもなくなる)→「非人情」(諸々のしがらみから解放され、客観的な立場で自由を獲得する)→「人情」(諸々のしがらみに正面から向き合っていく)という「否定の否定」の構図が大枠として敷かれているのであり、「非人情」の世界で獲得した力を引っさげて「人情」の世界での闘争へと挑んでいく、というのが漱石の趣意であったのではないか、ということでした。

 今回は、『二百十日』と『野分』を取り上げましょう。『二百十日』は、1906年(明治39年)10月、『中央公論』に掲載されたもので、『野分』は、1907年(明治40年)1月、『ホトトギス』に掲載されたものです。

 『二百十日』は、漱石の中・長編小説のなかでも、最も知名度の低い作品だといってよいかもしれません。ちくま文庫の『夏目漱石全集 3』の解説(吉田精一)では、「失敗作」と断じられているほどです(漱石自身が「杜撰の作にて御恥ずかしき限り」と述べたことを根拠としています)。この『二百十日』は、圭さんと碌さんという2人の人物の会話を主体にした短い作品であり、雰囲気としては、まるで落語のような、滑稽味の溢れるものになっています。内容としては、圭さん、碌さんが連れ立って阿蘇山に登ろうとするものの、道が定かでなかったために、加えて台風の接近に伴う荒天のために、遭難しかかって一旦断念せざるをえなくなる、それでもなお諦めずに、再度、阿蘇山の山頂を目指して進んでいく、といったものです。

 何よりも注目されるのは、碌さんを半ば無理やり阿蘇山へと引っ張っていく圭さんが、「社会の悪徳を公然道楽にして」「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴ら」を「叩きつける」「文明の革命」を強く主張していることでしょう。端的には、この『二百十日』は、漱石の全作品のなかで、金力・権力による支配の打破という漱石の理想が最も明瞭に現れた作品だといえるのです(とはいえ、あまりに露骨過ぎて“身も蓋もない”感じなので、「失敗作」と評されるのも仕方がないかもしれません)。

 この作品において、阿蘇山は革命の象徴という位置づけを与えられています。革命の理想(阿蘇の山頂)は明瞭に見えていても、革命の成功への道筋(阿蘇山の山頂へ至る道筋)が明らかではないために、多くの紆余曲折に苦しまざるを得ない、それでもなお諦めずに革命を想い続ける(阿蘇山の山頂を目指して再挑戦する)、というわけです。阿蘇の山頂を目指す2人の姿には、漱石自身の革命を想う熱い心が重ねられていたのでした。

 さて、革命を想う熱い心を直截に表現した『二百十日』に続いて、漱石は『野分』という作品を書き上げます。この作品は、「白井道也は文学者である」という実に思い切った一文によって始まります。白井道也は、金力や権力の横暴な支配を正面から批判したために田舎の中学校教師の職を追われ、東京で雑誌編集に携わって糊口をしのぎながら、青年たちの魂に直接に訴えかけるような一大著作(『人格論』)をなそうとしています。そこに、大学を卒業して作家を志す2人の青年、すなわち、裕福で余裕のある境遇のもと、空想的で神秘的な美文的小説を書こうとする中野君、および、貧しく余裕のない境遇に苦しみつつ、人間本性を鋭く抉るような痛切な文学をやろうとする高柳君が絡んできます。

 漱石は、この小説を書き終えた後、大学の職を退いて、朝日新聞の専属作家になることを決意します。端的にいえば、この『野分』は、文学者として生きていこうとする漱石自身の決意表明にほかならない、といえるのです。『野分』の主人公たる白井道也は、文学者としてこうありたい、という漱石の理想像を具現化した人物にほかなりません。それだけに、白井道也が理想化されて描かれる一方、道也の生き様に理解を示さぬ細君が一方的に非難されるなど、硬直した一面性を感じさせる部分が無きにしも非ずです。『吾輩は猫である』における珍野苦沙弥先生とその細君の描き方(先生も細君も等しく笑い飛ばされる)と対比させてみれば、その硬直性は明らかです。

 しかし、この『野分』をめぐっては、そういった欠点をあげつらうよりも、大学教員という安定した地位を捨てて職業作家としての闘いの道へ踏み出そうとする漱石の熱い思いを、まずはしっかりと受けとめるべきでしょう。これはまさに、本稿の連載初回で紹介した講演「文芸の哲学的基礎」の末尾における決意を、そのまま小説化した作品だともいえるのです(この講演は、『野分』を発表した直後に行われたものです)。

 こうした観点から注目に値するのは、第8章です。この章は全体として、道也先生と高柳君の対話となっているのですが、同じく「一人坊っち」の境遇にありながらも、両者では世界の反映の仕方が相当に異なっていることが提示されているのです。少し2人の対話を見てみましょう。

「君は自分だけが一人坊っちだと思うかも知れないが、僕も一人坊っちですよ。一人坊っちは崇高なものです」
 高柳君にはこの言葉の意味がわからなかった。
「わかったですか」と道也先生がきく。
「崇高――なぜ……」
「それが、わからなければ、とうてい一人坊っちでは生きていられません。――君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上ってくる平面です。芸者や車引に理会されるような人格なら低いにきまってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶するのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、やっぱり同等の創作しか出来ない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物も出来る。立派な人格を発揮する作物が出来なければ、彼らからは見くびられるのはもっともでしょう」


 このように、世間の人々の視線を気にせずにはいられない高柳君と、そういったことを気にせずにいられるほどに悟りきった道也先生との対比は鮮明であり、道也先生の主体的な生き様、すなわち、崇高な理想を掲げて世間と闘うという生き様が、力強く印象付けられます。アダム・スミスの議論(『道徳感情論』第3部・第2章)を踏まえていうならば、称賛される人物たることを願う(具体的な諸個人に実際に称賛されることを願う)レベルから脱却できない高柳君(スミスのいわゆる「心の弱い人」)と、称賛に値する人物たることを願う(具体的な諸個人ではなく、半ば神的な存在である「公平な観察者」に是認されることを願う)レベルに到達することが出来た道也先生(スミスのいわゆる「聡明な人」)との対比だということができるでしょう。

 ここで決定的に重要なのは、この第8章における道也先生と高柳君との対話は、漱石自身が自己を2人に分割して対話させたものにほかならない、ということです。漱石自身の心のなかにある2つの要素、すなわち、文学者としてかくありたい! という強い意志、大志の部分を道也先生に託し、そうはいっても「一人坊っち」は辛い……という弱音の部分を高柳君に託して、客観的に対決させてみているのだ、ということです。漱石が職業作家という未知の世界へと踏み出していくためには、こうした「独りっきりの二人問答」(南郷継正「武道哲学講義〔[〕」、『学城』第11号、p.190)によって強固な決意を固めていく過程が必須だったのではないか、と考えることができます。

 なお、この『野分』には、漱石の他作品との関連で、非常に興味深い箇所がいくつかあります。

 例えば、第1章には「落ちついて住めぬ世を住めるようにしてやるのが天下の士の仕事である」という表現がでてきます。これは、前回取り上げた『草枕』冒頭の芸術論において、「住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い」とあったことを彷彿とさせる表現です。『野分』と『草枕』はほぼ同時期に書かれた作品ですが、こうした表現の類似性は、通常は高踏的な作品とされがちな『草枕』の根底に、『野分』に通ずる激しい戦闘的精神があったことを暗示するものだといえるでしょう。

 また、第10章、道也宅を訪れた道也の兄が道也を「無鉄砲」と評する場面がありますが、「無鉄砲」であるがゆえに田舎の中学教師として失敗した、というのは、『坊っちゃん』の主人公を彷彿とさせるものがあります。坊っちゃんと道也では相当に雰囲気が違いますが、世の中の権威やしがらみをものともせずに正面からぶつかっていくという意味において、根本的には共通する要素を持っていることは間違いありません。坊っちゃんにもう少し積極的な要素、すなわち、単なる破壊ではなく建設への理想を提示する役割を担わせるならば白井道也になる、ということもできるでしょう。
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2016年07月16日

夏目漱石の中・長編小説を読む(4/16)

(4)『草枕』――「非人情」と「人情」との宥和をめざして

 前回は、漱石の全作品中、最も広く親しまれているといってもよい『坊っちゃん』を取り上げました。この作品は、曲がったことが大嫌いな「江戸っ子」坊っちゃんが、「会津っぽ」の山嵐と組んで、四国の田舎において金力・権力をふるってのさばる「ハイカラ野郎」の赤シャツを打擲するという痛快な物語でした。その根底には、金力・権力が物をいう社会のあり方、形式ばかりに拘泥して中味を等閑にする風潮に対する漱石の鋭い批判があったといえます。しかし、当時の日本社会に対するこうした批判は、「江戸っ子」が癇癪を爆発させるという形で表現されるしかありませんでした。まさにこの点に、新時代をまともに批判する論理を求めあぐねて、結局、旧時代の倫理観に依拠するしかなかった漱石の苦悩を読みとることができるのです。

 さて、今回は、『坊っちゃん』とほぼ同時期に書かれた『草枕』を取り上げます。これは1906年(明治40年)5月、文芸雑誌『新小説』に発表されたものです。この作品は何といっても以下の冒頭の文章が非常に有名です。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。


 このように考える青年画工が、「しばらくでも塵界を離れた心持になれる」詩的天地に遊ぼうとして山中の温泉宿を訪れ、そこで那美さんという美しい女性と出会う、という幻想的な物語が、この『草枕』です。社会の醜悪な現実に対し、激しい感情を爆発させながら突っ込んでいった『坊っちゃん』に対して、『草枕』においては、そうした社会の現実から距離を置こうとする方向性が鮮明であるといえます。

 この作品では「非人情」という言葉がキーワードとなっています。漱石は、青年画工に、「非人情」と「不人情」とは違う、と語らせているのですが、この2つがどう違うのかが、この作品を読み解いていく上で重要なポイントとなります。結論的にいえば、「不人情」というのが人情のないこと(冷淡であること)に対して批判的な気持ちを込めていわれる言葉であるのに対して、「非人情」というのは人情の有無をあれこれと気に病むようなレベルを超越した第三者的な(達観した、悟りきったような)立場を表わす言葉である、ということができるでしょう。

 『草枕』においては、この「非人情」が、芸術と重ねて語られています。認識論的な観点から興味深いのは、人情の世界を超越して第三者的に眺める立場に立とうとする芸術が、激した感情を大きく落ち着かせる効果を持つ、と論じられていることです。例えば、第3章には、以下のような記述があります。

まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否やうれしくなる。涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる。


 自分が腹が立ったところを表現するためには、自分を他者として眺めうる第三者的立場に立つことを強いられるので、自分の激した感情は自ずから静まっていくことになるのだ、というわけです。アダム・スミス流にいえば、「公平な観察者」の視点を意識することが、気持ちを落ち着ける上で大きな効果を持つ、ということができます(*)。

 このように、「非人情」という言葉は、社会の諸々のしがらみから解放されて心の平安を得たい、という思いが込められたものだといえるのですが、これを単なる現実逃避的なものだと捉えてしまっては、漱石の意図を読み違えることになってしまいます。

 結論的にいえば、「人情」(諸々のしがらみに囚われてどうしようもなくなる)→「非人情」(諸々のしがらみから解放され、客観的な立場で自由を獲得する)→「人情」(諸々のしがらみに正面から向き合っていく)という「否定の否定」の構図が大枠として敷かれているのであり、「非人情」の世界で獲得した力を引っさげて「人情」の世界での闘争へと挑んでいく、というのが漱石の趣意であったのではないか、と思われるのです。この『草枕』を、一読したところでは、物語らしい話の筋があまり感じられない、という印象を与えられるかもしれません。しかし、「非人情」というキーワードに着目するならば、非常に緻密に構成されていることが浮かび上がってくるのです。

 そもそも、「非人情」の世界は、「人情」の世界と絶対的に断絶されたものとして描かれているわけではありません。「非人情」の世界として描き出される(主人公たる青年画工が強いて「非人情」の世界だと思い込もうとする)山中の温泉場にすら日露戦争の影が差していることが、そのことを強く暗示しています。

 さらにいえば、この作品において「非人情」と直接的に重ねて論じられる芸術(「人情」の世界を超越して第三者的に眺める立場に立とうとするもの)についても、単に現実(「人情」の世界)から逃避してしまうための手段として捉えられているわけではありません。先ほど紹介した有名な冒頭部分に続いて、青年画工は次のように思索しているのです。

 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。


 このように、「非人情」と直接的に重ねて語られる芸術についても、その役割があくまでも住みにくい人の世を住みよくするところにあるのだと主張されているわけです。このことは、決して見逃すわけにはいきません。

 もうひとつ重要なのは、青年画工が山中の温泉場で出会う那美さんの描かれ方です。端的にいえば、那美さんこそ「非人情」を体現する人物として描かれている、ということができるのですが、その那美さんは、この物語の最後の部分で「非人情」の世界(山中の温泉場)から抜け出し、中国大陸へ渡る夫を見送って「憐れ」の表情を浮かべるのです。注目すべきなのは、主人公の求める芸術がこの時に成就した、とされていることです。すなわち、「非人情」の体現者たる那美さんが「人情」的要素(憐れ)をも把持することによって、ようやく主人公の求める芸術が成就するわけです。この結末は、「非人情」と「人情」の宥和というテーマを象徴的に示すものであり、やや図式的といえるほどに、構成美を感じさせるものです。

 以上でみてきたとおり、『坊っちゃん』において、激しい感情のまま現実社会へと直接に突っ込んでいって敗北を喫するほかなかった漱石は、『草枕』において、現実社会のしがらみから解放された客観的な立場で、諸々の出来事を自由に眺めるという過程を媒介しようとしたのだと思われます。これは、アダム・スミスのいわゆる「公平な観察者」的な視点につながっていくものだといえます。当時の日本社会のあり方に対して激しい怒りを燃やしていた漱石は、猫的な観察者から江戸っ子的な観察者へという過程を経て、ここでようやくにして、本当に求められるのは「公平な観察者」のような存在なのではないか、という予感を抱くに至ったものと思われます。

(*)『道徳感情論』第1部・第1篇・第4章において、以下のように説かれている。

人間の心は、友人からの注視によって多少なりとも平静さや落ち着きを取り戻せないほどに混乱することは滅多にない。友人の視線にさらされるや否や、我々の心は、ある程度まで静まって穏やかになる。自分の状況を相手はどう見るだろうか、という考えがすぐに浮かんで、友人と同じ目で見はじめるからだ。このように、共感の効果は瞬時にあらわれる。我々は、顔見知りという程度の人には、友人ほどには共感を期待しない。友人に打ち明けるような詳しい事情は、それほど親しくない知人にまでは打ち明けられないからである。そこで我々は、親しくない人の前では平静さを装い、こちらの事情について相手が当然に知りたがるような一般的なことに話を合わせるように努める。見ず知らずの人の集まりには、なおさら共感を期待できないので、そうした人たちの前ではいっそう平静さを装って、相手が持てあまさない程度にまで自分の情念を抑えるよう、常に努力する。しかも、この平静さは、単なる見せかけではない。というのも、人間かともかくも自分を制御できるとすれば、友人よりもただの知人に注視されている方が心を落ち着かせられるものだし、見ず知らずの人びとの方がさらにその効果は大きいからである。

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2016年07月15日

夏目漱石の中・長編小説を読む(3/16)

(3)『坊っちゃん』――旧時代に依拠して新時代に異議を申し立てる

 前回は、漱石の最初の小説である『吾輩は猫である』を取り上げました。これは、苦しい教師生活のなかで神経衰弱に陥っていた漱石が、気晴らしのために書きはじめたものであり、人間社会のあらゆるしがらみから自由な(したがって無責任な)猫の視点から、自分自身をも含めて人間社会をまるごと笑い飛ばす、という趣の作品でした。猫的な視点で人間社会を捉えてみるという構想は、人間社会の総体に対する自由闊達な批判の可能性を開くものでした。一方で、その批判は、猫的偏見に制約されたものにしかならず、現実社会の変革とは無縁なレベルで空回りするものにしかなりえなかったのです。

 猫的立場では人間社会の諸々の問題を鋭く捉えることができても、それらの問題に対して主体的に働きかけていくことができない――こうした矛盾の解消という課題を担って創作されたものこそ、次作『坊っちゃん』であったといえます。

 『坊っちゃん』は、1906年(明治39年)4月、『吾輩は猫である』と同じく、俳句雑誌『ホトトギス』に掲載されたものです。これは、ごく簡単に纏めるならば、「坊っちゃん」と呼ばれる主人公が四国の中学校へ新任の数学教師として赴任し、生徒たちや教頭などと衝突して様々な騒動を巻き起こす、といったものです。

 本作品でまず注目に値するのは、第1章において、「おやじは些ともおれを可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた」など、親から冷たくあしらわれていたことが強調される一方、「親譲り」ということがしきりに強調されていることです。ここには、親とのつながりを強く求めつつ満たされなかった(それだけにつながりを強調せずにはいられなかった)坊っちゃんの痛切な思いが表現されているといえます。さらに、「母は兄ばかり贔屓にしていた」とあることからして、主人公は「母」の本当の息子ではなかったのだという推測も成り立ち得るでしょう。この点に関わっては、清(坊っちゃんの家の下女)こそ坊っちゃんの本当の母親だ、という説を唱える論者もいますが、その真偽はともかく、清に漱石の理想の母親像が投影されていることは間違いないでしょう。いずれにせよ、坊っちゃんの家庭環境の描写に、漱石自身の複雑な生い立ち、両親(とりわけ母親)への思いが色濃く反映されていることは確かです。

 さて、この作品全体を貫く対立軸となっているのは、坊っちゃんが背負っている(育てられてきた)東京(=江戸)の小社会と、彼の赴任先である四国の田舎の小社会との衝突であるといえるでしょう。もちろん、そうした地域的な小社会という問題に加えて、学校という小社会の問題も重ねられていることを見逃すわけにはいきません。(*)。端的には、「江戸っ子」である坊っちゃんと四国の田舎の人々、あるいは新人教師としての坊っちゃんとベテラン教師たちとでは、育てられてきた小社会が大きく異なることに規定されて、お互いの認識のあり方が決定的に異なっているだけに、坊っちゃんは、四国の田舎の人々のものの感じ方や考え方、あるいは学校という組織体特有のしきたりのようなものに、全くついていくことができていないのです(**)。

 これら小社会から疎外されているということでいえば、坊っちゃんは猫的な立場を継承する者だということもできます。しかし、いうまでもなく、坊っちゃんは、猫ではなく人間ですから、小社会の諸々の問題に対して、主体的に働きかけていくことが可能になってもくるのです。

 坊っちゃんは以下のように考えます(第10章)。

おれは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。ところが実際は大違いである。下宿の婆さんの言葉を借りて云えば、正に大違いの勘五郎である。生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、狡い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。人があやまったり詫びたりするのを、真面目に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿と云うんだろう。あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差し支えない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。


 このように、形式的に片がつけばそれでよし、とする捉え方に激しく反抗する坊っちゃんは、同僚の数学教師である「山嵐」との交流のなかで、諸々の騒動の背後に黒幕として教頭の「赤シャツ」が存在するらしいことに気づかされます。坊っちゃんは、増給をちらつかせて篭絡しようとしてくる赤シャツを断固として撥ね付けます。そして、山嵐と組んで赤シャツに「天誅」を加えることを決意するのです。

 ここで決定的に重要なのは、この『坊っちゃん』においては、四国の田舎あるいは学校という小社会に明治以降の新しい日本のあり方が、東京(=江戸)という小社会に古き良き時代(?)の日本のあり方が象徴されているらしいことです。坊っちゃんは、ことあるごとに江戸っ子としての自負を語り、「人間は竹のように真直でなくっちゃ頼もしくない」として、田舎者の「卑劣な根性」をことさらに攻撃します。『坊っちゃん』とは、端的にいえば、無鉄砲な「江戸っ子」である坊っちゃんが「会津っぽ」の山嵐と組んで、四国の田舎において金力・権力をふるってのさばる「ハイカラ野郎」の赤シャツを打擲する物語にほかなりません。漱石は、坊っちゃんの活躍を通じて、金力・権力が物をいう社会のあり方、形式ばかりに拘泥して中味を等閑にする風潮に痛烈な異議申し立てを行おうとしたわけです。

 しかし、ここで我々が注目しなければならないのは、こうした漱石の異議申し立てが、無鉄砲な主人公が癇癪を爆発させるという形でなされるしかなかった、ということです。山嵐がいくら赤シャツを殴りつけ、坊っちゃんがいくら野だいこ(赤シャツにおべっかを使う画学教師)に生卵を投げつけたとしても、それは確かに痛快極まりないものではありますが、いささかも現実社会を変革する力にはなっていないのです。赤シャツや野だいこは、山嵐と坊っちゃんに打擲されたことで、心を入れ替えて正直な人間になれたのでしょうか。到底そのようには思われないでしょう。山嵐と坊っちゃんが中学校を去った後は、相も変わらず赤シャツや野だいこがのさばり続けたものと考えざるをえないのです。要するに、明治の日本(赤シャツや野だいこ)に戦いを挑んだ江戸と会津の連合軍(坊っちゃんと山嵐)は、確かに相手に一泡吹かせることには成功したものの、最終的には敗北するしかなかった、ということなのです。

 『坊っちゃん』の結末が、このように痛快なものでありながら、どことなく物足りなさを感じさせずにはいないものになってしまったのは、明治日本の批判という課題を担わされた主人公が、江戸っ子としての強烈な自負をもった人物として造形されたからにほかならないといえます。当時の日本社会が抱える諸々の問題点を批判するにしても、それはいわば“古き良き時代”を懐かしむような視点からなされるしかなくなってしまったのです。ここには、新時代をまともに批判する論理を求めあぐねて、結局、旧時代の倫理観に依拠するしかなかった漱石の苦悩を読みとることができます。

 人間社会に主体的に働きかける力を全く持ちえなかった猫に比べれば、坊っちゃんには決定的な優位性があるといえます。しかし、坊っちゃんは、旧時代に依拠して新時代に異議を申し立てるという大きな制約を背負わされていました。現実社会の変革をどのように行っていくのかという課題は、この『坊っちゃん』においても、未解決のまま残されているのです。

(*)この「小社会」とはどういうものか、南郷継正は以下のように説いている。

「人間は社会的な存在です。つまり、社会的な関係の中で生活(生存)しています。ということは、人間誰しもが、その社会(環境)からの反映でもって、育ってくることになるからです。つまり、その社会(環境)が五感覚器官を通して脳に反映され、かつ像を形成し(形成され)ます。ですから、私たちの認識は誰のものでも必ず社会(環境)を反映していますし、反映した(反映された)像しか(当初は)原型として存在しません……社会とはこのばあい、みなさんが生活している(生活できている)範囲の身近な社会、つまり小社会のことです。」(南郷継正『看護学科・心理学科学生への“夢”講義(4)』現代社、p.111-112)


(**)このことに着目した小説として、小林信彦『うらなり』(文春文庫)がある。これは『坊っちゃん』の登場人物の1人「うらなり」(古賀)を語り手とした小説であり、あの事件(とそれ以降の彼自身の人生)を「うらなり」の視点からみればどうなるのかを描いたものである。同一の出来事(対象)が、各人が背負っている小社会が異なるのに応じて、全く異なって反映してくることが浮き彫りにされており、興味深いものがある。
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2016年07月14日

夏目漱石の中・長編小説を読む(2/16)

(2)『吾輩は猫である』――「猫」的視点からの人間社会への批判

 本稿は、漱石が後世に託した自己の理想を現代に生きる我々はどのように受け止めるべきなのか、という観点から、漱石の中・長編小説を順番に読んでいくものです。

 今回は、漱石の最初の小説である『吾輩は猫である』を取り上げることにしましょう。これは、俳句雑誌『ホトトギス』に、1905年(明治39年)1月から1906年(明治40年)8月まで、全11回にわたって掲載されたものです。

 漱石は、文学とは何かをつかみあぐねて煩悶をきわめた英国留学から帰国した後、衣食のための苦しい教師生活を余儀なくされるなかで、神経衰弱に陥ってしまいました。そうしたなか、友人であった高浜虚子に勧められて、気分転換のために書き上げたのが、この『吾輩は猫である』でした。これは、もともと第1回のみの読み切り作品のはずでしたが、読者に大変な好評を博したために、全11回にわたって連載されることになったのでした。

 この『吾輩は猫である』は、端的にいえば、中学校の英語教師である珍野苦沙弥先生の家に迷い込んで飼われることになった猫(「吾輩」と自称します)の視点で、苦沙弥先生とその華族、友人や門下生たちなどの姿を風刺的に描いた作品です。いうまでもなく、苦沙弥先生は漱石自身がモデルになっています。

 『吾輩は猫である』は、非常に滑稽な作品であり、笑うことなしには読めないものです。総じていえば、どうでもいいようなことを大仰な文体で、それも猫の発言として書いてあることが、何ともいえぬ面白さを醸し出している、ということができます。例えば、近所の実業家・金田の邸宅に「忍び込む」ことについて、猫は以下のように弁解しています。

元来吾輩の考によると大空は万物を覆うため大地は万物を載せるために出来ている――いかに執拗な議論を好む人間でもこの事実を否定する訳には行くまい。さてこの大空大地を製造するために彼等人類はどのくらいの労力を費やしているかと云うと尺寸の手伝もしておらぬではないか。自分が製造しておらぬものを自分の所有と極める法はなかろう。自分の所有と極めても差し支えないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。この茫々たる大地を、小賢しくも垣を囲らし棒杭を立てて某々所有地などと劃し限るのはあたかもかの蒼天に縄張りして、この部分は我の天、あの部分は彼の天と届け出るような者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。如是観によりて、如是法を信じている吾輩はそれだからどこへでも這入って行く。(第4章)


 「吾輩」を自称する猫は、このように一丁前の議論を展開するのです。猫のくせに何を偉そうに! という感じで、読者の笑いを誘わずにはいません。

 18世紀スコットランドの哲学者アダム・スミスは、『修辞学・文学講義』において、滑稽さが生成してくる構造として、「卑小な対象が壮大とみなされて提示された場合」に加えて、「壮大なもの、またはそのようなものとして装ったり期待されたりしたものが、卑小卑賤さを内包していることを暴露されて嘲笑される場合」を挙げています。このスミスの議論を踏まえていうならば、猫という「卑小」な存在が「壮大」な哲学的議論を展開したり、猫の視点からの描写によって「壮大」を装おうとする人間たちの「卑賤卑小さ」が暴露されたり、という両方の側面から、『吾輩は猫である』の滑稽さが醸し出されている、といえるでしょう。

 ここで指摘しておかなければならないのは、「吾輩」などと気取った自称をするこの猫は、漱石の分身にほかならないのだ、ということです(*)。猫の饒舌な語りは漱石の深い教養に裏打ちされたものであり(例えば、先の引用文で、労力を費やすことと所有権とのつながりに触れているのは、ジョン・ロックの議論を念頭に置いたものであると思われます)、諸々の冗談が冴えに冴え渡っている感があります。そうしたなかでも、とりわけ注目に値するのは、猫による人間観察という滑稽さの陰に隠される形で、漱石自身の痛烈な社会批判が展開されていることです。漱石は、猫の視点――人間社会を外側から眺める視点――を借りることによって、社会のあり方を、何ものにも囚われず、縦横無尽に、批判しつくす自由を獲得したのだといえるでしょう。端的には、猫的な視点によって人間社会を総体として批判するということこそ、『吾輩は猫である』の趣意である、といえるのです。

 このことに関わっては、大きく2つのことを指摘しておく必要があります。

 第一は、猫的な視点によって批判される人間社会の中心には、当然のことながら、苦沙弥先生、すなわち漱石自身が位置づけられている、ということです。漱石は、猫の視点から、自分自身を客観的に見つめて批判しているともいえるわけです。少し論理的にいえば、『吾輩は猫である』は、作者である漱石が、観念的な自己としての猫の立場から現実的な自己を批判する、という構造をもっているのです。例えば、第2章において、苦沙弥先生宅を訪問した迷亭(友人)、寒月(門下生)がそれぞれに面白おかしい話をした後で、苦沙弥先生もまた何か話をせずにはいられなくなった、という情景を報告した上で、猫は以下のように語ります。

吾輩の主人の我儘で偏狭な事は前から承知していたが、平常は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐しいと云う感じもあったが、今の話を聞いてから急に軽蔑したくなった。かれはなぜ両人の話を沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すれば何の所得があるだろう。エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜のごとく風に吹かれて超然と澄し切っているようなものの、その実はやはり娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒している俗骨共どもと一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。


 この猫による苦沙弥先生批判、すなわち漱石の自己批判は、滑稽でありながらもなかなか辛辣なものがあるといえます。強烈な自負心をもった漱石は、猫的な視点を借り、滑稽さの陰に隠れる形においてはじめて、自己を批判的に見つめることができた、という側面があるものと思われます。

 第二は、『吾輩は猫である』の滑稽な世界には、金力・権力の横暴や小刀細工を忌み嫌う漱石の人間観・社会観が色濃く反映させられている、ということです。『吾輩は猫である』には、苦沙弥先生宅の近所に住む実業家の金田とその細君が登場します。物語の後半は、金田夫婦が、自分たちの相応の敬意を払おうとしない苦沙弥先生に対して、あの手この手で嫌がらせを行い、これに対して苦沙弥先生が癇癪を爆発させる、という展開になっていきます。こうしたなかで、実業家の金田らは、猫的な視点によって、徹底して嘲笑的に扱われていくことになるのです。卑小な存在であるはずの猫の視点から、ことさらに自らを大きく見せようとする金持ちたちの卑小さが暴露される、という構造によって、金力・権力の横暴に対する鋭い批判が展開されている、ということもできるでしょう。

 以上のように、猫的な視点による人間社会総体の批判には、漱石自身の自己批判、および、金力・権力の横暴に対する批判という2つの重要な要素が含まれているわけです。これは漱石の思想の表現という観点からして、注目に値する積極的な要素であるといえるでしょう。しかし、同時に、こうした積極的な要素は、あくまでも猫的な視点から、滑稽さの陰に隠されるような形でしか展開されえなかった、という限界もみておく必要があるのです。

 漱石の自己批判は、なかなか辛辣なものではありましたが、結局のところ、滑稽さという枠を出るものではありません。厳しくいえば、真面目さがいささか欠如していると取られても仕方がないのです。金力・権力の横暴に対する批判にしても、人間社会の諸々の事柄を猫的な視点によって批判するというなかにあっては、他の諸々の事柄と同じように(髪形を整えたり、衣服を着たりする人間的な行為と同様のレベルで)猫的な偏見によって批判されているにすぎない、という印象がどうしても付きまとってしまうのです。

 猫の視点とは、いうまでもなく、人間社会の外部からの視点であり、したがって、人間社会における一切のしがらみから自由なものです。しかし、それは裏を返せば、人間社会のあらゆる出来事に対して全く無責任である、ということにもなるのです。人間社会にとっては部外者でしかない猫は、人間社会に主体的に働きかけていくことはできません。そもそも、「吾輩」がいくら立派な(?)議論を展開したとしても、苦沙弥先生以下の人間たちは、彼の言葉を全く理解できないのです。

 『吾輩は猫である』という小説は、神経衰弱に陥っていたという漱石が、教師という苦しい本職の傍ら、気晴らしに書き散らされたようなものであり、無責任な(人間社会のしがらみから自由な)猫の視点から自分自身をも含めて人間社会をまるごと笑い飛ばす、という趣のものであったといえるでしょう。猫的な視点で人間社会を捉えてみるという構想は、確かに、人間社会の総体に対する自由闊達な批判の可能性を開くものではありました。しかし、その批判は、猫的偏見に制約されたものにしかならず、現実の変革とは無縁なレベルで空回りするものにしかなりえなかったのです。

(*)捨て猫としての「吾輩」の境遇には、漱石自身の幼少期の不安定な記憶――生後間もなく古道具屋に里子に出され、その後、塩原家に養子に出された挙句、養父母の離婚で実家に戻されるという波瀾のなかで、実の父母を祖父母だと思い込んでしまうなど、家庭的な温かさに乏しかった――が反映しているとも思われる。さらにいえば、人間社会から絶対的に疎外された猫という位置については、漱石が英国留学で痛切に感じた孤独感、あるいは、自己の高い理想を受け入れようとしない当時の日本社会に対して強烈に感じた疎外感(前回取り上げた「文芸の哲学的基礎」末尾を参照のこと)が反映しているともいえよう。
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2016年07月13日

夏目漱石の中・長編小説を読む(1/16)

目次
(1)没後100年の年に漱石を読む意義とは
(2)『吾輩は猫である』――「猫」的視点からの人間社会への批判
(3)『坊っちゃん』――旧時代に依拠して新時代へ異議を申し立てる
(4)『草枕』――「非人情」と「人情」との宥和をめざして
(5)『二百十日』――革命を想う熱い心
   『野分』――「文学者」として生きる決意
(6)『虞美人草』――悲劇によって社会を真正の文明に導く
(7)『坑夫』――硬直したものの見方・考え方を突き崩す
(8)『三四郎』――「現実世界」に積極的に斬り込んでいくことへの逡巡
(9)『それから』――「現実世界」からの逃避を経て再対決へ
(10)『門』――断ち切りがたい「現実世界」とのつながり
(11)『彼岸過迄』――「胸(ハート)」を抑える「頭(ヘッド)」
(12)『行人』――自己(主観)と世界(客観)の関係への根本的な苦悩
(13)『こころ』――「明治の精神」に殉じて新世代に希望を託す
(14)『道草』――「公平な観察者」的な視点の獲得
(15)『明暗』――改めて「現実世界」に正面から闘争を挑んでいく
(16)漱石の苦闘の過程を主体的に受け止め「現実世界」の変革へ

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(1)没後100年の年に漱石を読む意義とは

 今年は、夏目漱石が亡くなってちょうど100年という記念の年にあたります。近代日本を代表する国民的大作家とされる夏目漱石は、1916年(大正5年)12月9日、49歳でその生涯を閉じたのでした。

 漱石の作品の特徴については、「近代人の不安と孤独を描く」「エゴイズムの追究」(浜島書店『改訂版 常用国語便覧』)といった言葉で語られることが多いようです。簡単にいえば、漱石の作品には、人間の利己的な心の動きの醜さを鋭く抉るような洞察の深さがあり、そのことが現代に生きる我々の心をも大きく揺さぶるのだ、というわけです。しかし、漱石によるこうした「エゴイズムの追究」は、人間の内面を徹底的に深く掘り下げていけば人間の真相に迫ることができるのだ、といった姿勢のものではありませんでした。このことは、本ブログに先ごろ掲載した論稿「夏目漱石の思想を問う」において論じたとおりです。

 この論稿では、漱石の評論文や講演録を取り上げて、漱石が単に人間の内面だけを掘り下げようとしていたわけではなく、個々人を取り巻く日本社会の有様、さらには日本という国家を取り巻く世界全体の情勢の有様に常に強い関心を持ちつづけていたこと、そうした社会の動きが個人の心のあり方に如何なる影響を及ぼしていくことになるのか、という視点を明瞭に把持していたことを論じました。漱石は時代の課題に正面から応えようとする思想家としての側面をもっていた、ということでした。

 結論的にいえば、その漱石の思想とは、個としての主体性の確立を何よりも重視し、それを阻む諸々のもの(西洋文化の表面的な模倣、権力・金力の横暴、国家主義・軍国主義など)に厳しい批判の眼を向けるものであった、ということができるのでした。先の論稿では、漱石はそうした自己の思想を表現するための一手段として小説という形態を採用したのではないか、とも指摘したのでした。

 このことを裏書するのが、1906年(明治39年)10月26日、門下生である鈴木三重吉に宛てて書かれた手紙です。この手紙で漱石は、「僕は小供のうちから青年になる迄世の中は結構なものと思っていた」と述べます。旨いものを食べ、綺麗な着物を着て、詩的に生活して、美しい細君をもって、美しい家庭を築けるものだと思っており、これらの反対のことはできるだけ避けようとしていた、というのです。しかし漱石は、世の中は自己の想像とは全く正反対の現象でうずまっているのであり、この世の中にいる以上は「キタナイ者でも、不愉快なものでも、イやなものでも一切避けぬ否進んで其内へ飛び込まなければ何にも出来ぬ」のだといいます。文学をもって生命とする以上、超然と単なる美を追求するだけでは決して満足が出来ない、「間違ったら神経衰弱でも気違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまい」「死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」というのです。

 こうした激しい感情は、漱石が門下生の中村蓊に宛てた手紙(1907年〔明治40年〕8月6日付)のなかでは、以下のように吐露されています。

 細民はナマ芋を薄く切って、それに敷割などを食っている由。芋の薄切は猿と択ぶ所なし。残忍なる世の中なり。而して彼らは朝から晩まで真面目に働いている。
 岩崎の徒を見よ!!!
 終日人の事業の妨害をして(否企てて)そうして三食に米を食っている奴らもある。漱石子の事業はこれらの敗徳漢を筆誅するにあり。


 「岩崎の徒」というのは、いうまでもなく、岩崎弥太郎を創始者とする三菱財閥を指すものにほかなりません。漱石は、真面目に働く圧倒的多数の庶民が一握りの巨大企業の利益のために抑圧されているという社会の現実に対して、激しい怒りを燃やしていたのです。そして、「岩崎の徒」のような敗徳漢を筆誅することこそ、自身の事業にほかならない、とハッキリと宣言していたのでした。このように、漱石が生命をかけた文学とは、権力や金力の横暴など、個人の自由な発展を阻む諸々の事柄と闘うための手段にほかならなかったわけです(*)。

 しかし、「岩崎の徒」などの「敗徳漢」は、そう簡単に倒せるような敵ではありませんでした。漱石は、高浜虚子に宛てた手紙(1906年〔明治39年〕11月11日付)のなかで、以下のように述べています。

僕は十年計画で敵を斃(たお)す積りだったが近来これほど短気な事はないと思って百年計画にあらためました。百年計画なら大丈夫誰が出て来ても負けません。


 「百年計画」ですから、漱石自身が生きている間には完遂できない計画です。個人の尊厳を踏みにじる敵を倒すという自分自身の事業を、自分の後に続く世代に継承していってもらわなければならない、という課題がここに生じているわけです。

 こうした観点から注目に値するのは、1907年(明治40年)4月、東京美術学校で行った講演「文芸の哲学的基礎」です。この講演の最後の部分で漱石は、次のように述べています。

新しい理想か、深い理想か、広い理想があって、これを世の中に実現しようと思っても、世の中が馬鹿でこれを実現させない時に……自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわるるほかに路がないのであります。そうして百人に一人でも、千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥より閃めき出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸家の精神気魄は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完うしたるものであります。


 要するに、文芸(文学)というものは、高い理想を抱きながらそれを現在の世の中に実現することが出来ない者が、作物を通じて後世に働きかけようとするものにほかならない、というわけです。作家の理想が作品を媒介にして読者の心を動かすならば、「社会の大意識」に影響して「永久の生命を人類内面の歴史中に得」るだろう、というのです。

 このように漱石は、全ての個人の自由な発展という自己の理想が、「人類内面の歴史」のなかでの永久に生き続けるように、また、その理想が後世において現実のものとなることを願って、諸々の小説を書き続けていったわけです。漱石の死から100年の後に生きる我々は、こうした漱石の熱い思いにしっかりと応える気概をもって、漱石の小説を読んでみるべきなのではないでしょうか。

 漱石の最初の小説である『吾輩は猫である』は、1904年(明治37年)の暮れに書き始められたものです(そのとき漱石は37歳でした)。その後、1907年(明治40年)2月に一切の教職を辞して職業作家として歩み始め、1916年(大正5年)の末に大著『明暗』を未完のまま残して49歳で没するまで、漱石の作家生活はわずか10年程度のものにすぎませんでした。この期間に漱石が書いた中・長編小説を列挙すると、以下のようになります(括弧内は発表された年)。

・『吾輩は猫である』(1905年−1906年)
・『坊っちゃん』(1906年)
・『草枕』(1906年)
・『二百十日』(1906年)
・『野分』(1907年)
・『虞美人草』(1907年)
・『坑夫』(1908年)
・『三四郎』(1908年)
・『それから』(1909年)
・『門』(1910年)
・『彼岸過迄』(1912年)
・『行人』(1912年)
・『こころ』(1914年)
・『道草』(1915年)
・『明暗』(1916年)

 漱石は、これらの作品を通じて、個人の自由な発展を阻む諸々の敵と苦しい闘争を積み重ねていったのです。その苦闘は、自分の生きているうちに自分の理想を実現することは不可能であることを覚悟しつつ、後世に残る文学作品を創造することで、後世の人々の魂に働きかけようとするものにほかなりませんでした。

 我々は、漱石没後100年という記念の年だからこそ、漱石の「百年計画」という言葉を重く受け止めなければなりません。個人の尊厳を脅かす諸々の敵と100年という長期的な視野で闘って打ち倒す――漱石の小説作品は、この「百年計画」を実行するための手段にほかならなかったのです。本稿では、このことをしっかりと踏まえた上で、これら漱石の中・長編小説について、漱石が後世に託した自己の理想を現代に生きる我々はどのように受け止めるべきなのか、という観点から、検討していくことにします。

(*)こうした漱石の戦闘的精神に着目して、漱石の苦闘の生涯と作品を見事に筋を通して論じたのが、伊豆利彦『夏目漱石』(新日本新書、1990年)である。
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2016年07月12日

心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想(5/5)

(5)上達につながる経験を積んでいく

 本稿は,神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(4)』(現代社)を取り上げ,これを心理士の上達に必須の条件という観点から読み解き,学んだ内容を認める論考であった。ここでこれまでの流れを振り返っておきたい。

 初めに,視点の移動について考察した。本書の初めの方で,神庭先生は,目的意識性を目的意識的に捉え返すことの重要性を説かれていた。それは,「○○になりたい」という目的意識性を,「○○になるために」という学びのあり方として目的意識的に捉え直すことが,主体的に学びとることにつながるのだし,自己教育力の差になって表れてくる,ということであった。また,このことを認識論の観念的二重化の論理で説くならば,理想の自分に二重化して,理想の自分の視点から現在の自分を見つめるという目的意識的な問いかけであるということであった。すなわち,目的意識性を目的意識的に捉え返すということは,理想の将来の自分に視点を移動して,そこから現在の自分を眺めるということを意味するのであり,目的意識性がその後の自分を規定するのであり,上達のためには,上達できるような目的意識をもつことが必要といえるから,これは,上達に必須の条件といえると説いておいた。たとえば,単にクライエントに寄り添いたいだけの心理士と,効果的・効率的な心理療法を行えるようになりたいと願っている心理士と,科学的認識論を駆使し,それを発展させたいと志している心理士とでは,その目的意識性に規定されて上達の質や量が変わってくるとしておいた。また,クライエントさんにも回復のために,目的意識を目的意識的に捉え返してもらう必要があることにも触れた。最後に,自分のあるべき将来像への二重化や他者への二重化だけでなく,いわゆる「神」の立場への二重化も必要であるという神庭先生の指摘を受けて,自分とクライエントが対話している状況を,「神」的な立場で俯瞰する視点へ移動することも,対話の流れを客観的に掴むことができるので,心理士の上達にとっては必須の条件であることを説いた。

 次に,対話の大事性について取り上げた。神庭先生は,地域看護教育においては,単に正解を教えるだけの関わりでは相手の考えを変えることは難しいとしたうえで,安心できる環境を整え,考えを整理できるように対話を重ねながら,対話を通して気づきを促し,自分で答えを導ける力を育てていることが求められると説かれていた。これは心理士にとってもあてはまる内容であるから,本書で説かれている対話のポイントを心理士の立場から読み取っていき,心理士の上達にとっての必須の条件を考えていった。まず,気づきを促すためには,問いかけの矛先を変える必要があるのであり,そのためには適切に質問をしていくことが有効であると説いた。自分で答えを導ける力を育てるという点については,まずはできているところを認めることが大切であり,相手の中に既に存在している適応的な行動,気持ちを整える行動を強化していくことが重要な支援となると指摘した。他にも,特有の質問をくり返し,相手の中に内在化することによって,自問自答できるようにしていくことも,自分の力で答えを導ける力を育てることになるとしておいた。また,相手の視点に移動して,相手の立場に立つということも,対話の大切なポイントであるとして,相手の認識(=像)とは無関係的に対応するのではなく,相手の立場からの視点で,本当に気づいてほしいことに気づけるように導いていくことが必要だということを確認した。相手に二重化できれば,相手が分かってことを指摘して信頼関係を崩すこともなくなるし,相手がやってもいいと思えることを提案できるようになる,さらに,相手が納得のいくように介入することもできるのであった。最後に,神庭先生が本書を含むシリーズの執筆はナイチンゲールとの対話の過程であり,観念的な二重化による認識の相互浸透の過程性となっていたと説かれていることを紹介した。そうであるならば,本稿を含む「一会員による『初学者のための『看護覚え書』』の感想」のシリーズは,神庭先生と筆者との対話であった捉えることができるし,心理臨床における対話も,全てセラピストがクライエント化し,クライエントがセラピスト化する過程であるといえるので,対話によって認識の相互浸透を図るということが,心理士の上達にとって必須の条件ということができるとまとめておいた。

 最後に,本書の最終章で説かれている「使命感」ということに関わって,心理士の上達に必須の条件を考えた。神庭先生は,相手の表現をしっかり観察して,そこから相手に観念的に二重化してその認識を読み取り,それを踏まえて必要なケアを実施していくことが求められるのであり,このような観察のプロセスをしっかり辿ることこそが看護師としての経験になるのであり,その経験の積み重ねで実力がついていくのであると説かれていた。観察や経験の重要性については,「あらゆる病気に共通するこまごまとしたこと,および一人ひとりの病人に固有のこまごまとしたことを観察すること」が何よりも大切であるとか,日常の生活の中に,その経験の中に解決策は見いだせるはずだとか,あるいは,すべて観察と経験を通してのみ知ることができるとかいうように,本書では一貫して説かれていることなのであった。心理臨床においても,観察と,それによってもたらされる経験は重要なのであって,以前の論考で説いたように,心理士は目的をしっかり把握したうえで観察を行うべきであり,観察不足にならないように,事実と解釈を区別し,事実を事実として把握することが非常に大切なのであった。しかし,このように重要な観察や経験の前提として,「使命感」をもつことが必要だと神庭先生は説かれていたのであった。使命感を持つことによって,問いかけが看護師としての目的意識性に導かれたものになっていき,そうなってこそ,経験を積み重ねていくことができるのだと説かれていた。換言すれば,使命感こそが何よりも大切であり,これがなければ,専門的な目的意識性に導かれた問いかけができず,適切な観察もできないことになるので,結果として,まともな経験を積んでいくことができなくなる,ということであると説いておいた。そのうえで,筆者自身が経験した,心理士として果さずにはいられないという使命感が欠如していたために失敗した事例を紹介し,心理士として使命感をもって対話することが,心理士としてのあるべき観察につながり,ひいては,心理士としての経験の積み重ねにつながる,心理の仕事も看護同様,自分自身の理念を満足させるためにこそするべき仕事であり,高い理念に基づいた使命感なしには熱意をもって取り組めないのだと説いた。

 以上,これまでの流れを振り返ったが,さらに心理士の上達に必須の条件という点から,より抽象度を上げてまとめ直しておきたい。

 これまで説いてきたことを端的にまとめるならば,心理士の上達のためには,将来像や「神」の立場に視点を移動させること,適切な対話によって認識の相互浸透を図ること,そして,あるべき観察や経験につながるような使命感をもつことの3つが必須になる,ということができるだろう。将来像に視点を移し,そこから現在を眺めることで,現在の自分を正し,あるべき姿にあるように努力する。クライエントとは対話をしながらも,その対話を俯瞰するような「神」の立場に視点を移して,客観的に対話を眺めつつ,より適切な対話になるように,リアルタイムで修正していく。適切に対話をしていくためには,クライエントの表現の変化などをしっかりと観察する必要があるが,そのためには高い理念に基づいた使命感を把持していなければならない。このような条件がそろってこそ,心理士としての経験を積み重ねていくことができるのであり,その結果,実力がついていく,上達していく,ということになるのだろう。

 公認心理師養成のためのカリキュラムや公認心理師の資格試験ということでいうと,以上のような条件をしっかりと満たせるものにしていくべきであろう。具体的に公認心理師養成のためのカリキュラムについて考えてみよう。まずは,これまでの偉大な心理士の伝記のようなものを学ばせることによって,あるべき心理士像をしっかりと描き,自分の将来像として明確に描けるようにしていく必要があるだろう。大学の教員がベテランの心理士として,自己の生活のあり方を通して,学生に将来像を描かせるということも大切になってくると考えられる。「神」の立場に視点を移動させるためには,自分たちが行う模擬面接を録画しておき,それを見直して対話のプロセスを検討することが重要になると思う。あるいは,他者の面接に陪席して,実際に客観的に対話を眺める場を設定するということも有効であろう。そして,もう一回同じ面接をするなら,どのような介入になるか,自分ならどのような介入をするかということをディスカッションしていくことも大切である。クライエント(役)をしっかり映すように録画しておけば,クライエント(役)の表現の変化から,どのような認識の変化を読み取ったのか,しっかり根拠をもとに議論できる。クライエント役をした人間から,直接に,どのような認識だったのかを聞くことができれば,観念的二重化の訓練にとって,貴重な機会となるだろう。このようなことをくり返していけば,心理士としての使命感もしっかりと育っていくと考えられる。もちろん,特別に使命感を養成するための講義を設定することも必要かもしれない。あるいは,各講義の最初に,教員から熱くあるべき心理士について語ることが,使命感の養成につながるということにもなるだろう。

 公認心理師の資格試験に際しては,心理士の使命や自分のあるべき将来像について論述させるような試験が必要なのではないだろうか。こういうものを設定しておけば,公認心理師を目指すものは,必然的に心理師の使命や自分のあるべき将来像のことを考えざるをえなくなる。こういったことが,現在の自己を点検する視点になる。また,心理士としての目的意識性に導かれた問いかけとなって,観察の質を高め,しっかりとした経験を積み重ねていくことを可能にしていくだろう。

 では,以上を踏まえて,現在の筆者は具体的にどのようなことに取り組むべきか。最後にこの問題を考えたい。

 やはり決定的に重要なことは,自らの将来像をしっかりと描き,そこから現在の自分のあり方を点検することであろう。筆者は何といっても心理臨床の経験をもとに,科学的認識論の再措定を,そしてその発展を志しているものである。筆者がこのような志を描く原点となったのは,大学生時代に読んだ南郷継正先生の『武道講義』シリーズにある。これを定期的に読み返して,自らの将来像をしっかりと描き直していくことが最重要課題であると考える。

 次に,心理士としての使命感というものの養成も大切である。ミルトン・エリクソンや日本の代表的な心理士の著作をしっかりと読んで,心理士としての使命感を今以上のものに高めていく努力も求められるだろう。

 日々の臨床に関していうと,自らの対話をしっかりとチェックするために,面接の録画は無理としても,録音をクライエントの許可を得て行い,よりよい介入にするためにはどのようにすればよかったのかということを反省していくことも求められる。その質問はクライエントに気づきを促すことに役立ったのか,クライエント自身が答えを導けるような力をつけることに貢献できているのか,そもそもしっかりとクライエントの立場に立てているのか,というようなことを,しっかりチェックして,よりよい対話を目指していきたいと思う。

 『綜合看護』に連載されていた論文の書籍化は,『初学者のための『看護覚え書』(4)』で終了となった。しかし,その続編が『学城』誌上で連載されている。それらも単行本化されたならば,しっかりと心理士としての立場から読み込み,自己の実力の養成につなげていきたいと思う。


(了)

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<講義一覧>

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 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
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 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
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 ・新自由主義における「自由」を問う
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 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
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 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
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 ・初任者に説く学級経営の基本
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 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
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 ・言語過程説から言語学史を問う
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 ・一会員による『育児の生理学』の感想
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 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
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 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
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 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
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 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
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 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
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 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
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 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
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 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
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 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
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 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
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 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
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 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
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 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
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 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
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 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
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 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
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 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史