2016年04月19日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回までは3回にわたって,論点に関してどのような討論がなされ,どのような(一応の)結論が導き出されたのかについて報告してきました。

 さて,本例会報告の最終回である今回は,参加者のメンバーそれぞれの感想を掲載したいと思います。

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 今回の範囲は,ヘーゲル『哲学史』新プラトン学派であった。新しい巻に移り,訳者も変ったこともあって,非常に読みづらく,なかなかに内容を捉えることが困難であった。

 特に,論点1として議論になった,絶対的実在〔本質〕(absolute Wesen),神,絶対的精神,世界精神,自己意識,主観的意識,叡智界などの用語について,一体どうのような意味でヘーゲルは用いているのかに関しては,内容そのものからというより,その語の意味をヘーゲルの説く「絶対精神」から捉え返してみようとしたのであるが,他の会員と若干異なる見解となってしまっていて,十分に他会員に伝わるような言語表現にもなっておらず,大きく反省させられてしまったことであった。ヘーゲル『歴史哲学』の理解も不十分で,特に世界精神とは何かの理解に関して,他会員との大きな格差があることも判明した。しかし,これはこれで今後の課題が明確になったという意味では大きな成果でもあったと前向きに捉えて,要はここからどのような学びをしてくのかが重要であると思った次第である。

 もう1つ触れておかなければならないことは,論点3で扱った,ギリシャ哲学の第三期を唯物論の立場からどのように捉え返すのか,我々自身の学問への道に対して如何なる教訓を導きだすべきかという問題に関わってである。ここである会員から,新プラトン派は,客観的世界を無理やりに自己意識に溶かし込んでしまったのであるが,これを我々の立場からすれば,世界中のどのような問題も,自分自身に関わることとして,一つに還元して捉える必要がある,という発言があったことである。新プラトン派は,世界の本質たる「一者」は実は自分自身の意識にほかならないとしたのであるが,ここを唯物論的に捉え返すと,あらゆる問題を自分自身のものだという実感が持てるまでに掴み取っていく必要がある,こうした主体的な姿勢をこそ学ぶべきである,ということであろう。哲学を学ぶということが,単に語句を解釈して云々することではなくて,自分の生き方として如何にその内容を自身の頭脳に反映させるかということであることが,言葉ではなくて像として分かったような気がしたものであった。

 次回は中世哲学に関してスコラ哲学を中心に検討していくことになるが,レジュメ担当者としてしっかりとした報告をできるように,像で考えていけるまで読み込んでおきたいと思う。

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 今回の例会はチューターとして臨んだ。しかし,あまりにも難解な記述であったために,十分に読み込んで臨むことができなかった。

 それでも,論点3について出されたそれぞれの見解をまとめていくに際して,ギリシャ哲学全体を「絶対精神君」という一人の人間の成長物語として描き出すことがそれなりにできた点は,自分でも評価してよいと考えている。というのは,このように1人の人間の成長物語として描こうとすると,どうしてもうまくつなげていかないといけなくなるからである。今まで,約一年にわたって読み進めてきたギリシャ哲学の全体像を,一本の筋で描き出すための工夫としては,それなりに役に立つ面白い着想であったと思っている。

 同じく論点3で,新プラトン派の哲学を,個体発生における教訓として捉え返していったところも,非常に重要であったと思う。「一者」というのは,すべてがそこから流出して,すべてがそこへと帰還するものであり,学者を志す人間としては,これは「自分」そのものである,ということになるだろう。すなわち,すべてを自分が主体的に捉えるのであるし,すべてを自分の問題として自分に引きつけて考えていかなければならない,そうしてこそ,自分の頭脳の中に芽生えた一般論が,真の一般論として働きはじめる,ということになるだろう。ここの努力をもっともっとしていかなければならないと痛感した次第である。

 論点1に関わっては,ヘーゲルの独特の用語も,このような機会があるたびに,分かったものとせず,くり返しくり返し議論して確認していく必要があると思った。その際も,単にテキストの当該部分のみに依拠するのではなく,南郷先生らが解説されているヘーゲル哲学の全体像を踏まえた上で,考えるようにしていかなければならない。単なる字句解釈であれば,当然に大学の哲学専攻の先生方の方が上に決まっている。しかも,そういうやり方ではヘーゲルはいつまでたっても理解できないことは,当の先生方が証明されているといってもよい。われわれはそうではなく,きちんとした学問的な文化遺産である弁証法を核として学修されてこられた南郷先生らのグループにしっかりと学び,そこからヘーゲルを理解していくべきである。最近は「生命の歴史」から哲学史を読み解こうとする問題意識もやや薄れているような気がするので,このあたりは再度意識して,ヘーゲルの哲学に挑戦していきたい。

 

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 3月例会では,新プラトン派について論じられている部分を扱ったわけであるが,ヘーゲルは,古代ギリシャ哲学の到達点として,またキリスト教の原理の出現とも重なるものとして,新プラトン派(特にその完成者たるプロクロス)を非常に重視し評価していると思われた。新プラトン派について総論的に論じた部分は,ヘーゲル『哲学史』の構想を理解する上でも決定的に重要だと思われたので,ヘーゲルの基礎的な概念の諸々をどう理解するか,という論点を提起した。この論点への自身の見解を書いていく過程,また例会当日の議論の過程で,ヘーゲルの基礎的な概念への理解がある程度までは深まったのではないか,と感じている。とりわけ,ヘーゲル哲学の本質(魂)というべき絶対精神についての捉え方を,より鮮明なものにできたのは大きな成果であったと思う。私は,見解の提示の段階で,「絶対精神(absoluter Geist)というのは,この世界全体の究極の本質が自己自身の何たるかを(概念的に把握する形で)自覚したもののことである。より具体的には,哲学の完成によって,人間が自己の本質と世界の本質とは同じものであると概念的に把握しきった状態のことである」と書いた。こうした見解に対しては,当然のことながら,発展の最終的な段階のみを「絶対精神」と呼ぶのか,始原や発展の途中にあるものは「絶対精神」と呼ばないのか,という疑問が出されることになった。私自身としても,そのような引っ掛かりを感じていないではなかったのであるが,自身の考えを何とか説明しようと試行錯誤しているうちに,問題の構造がかなり整理されたと思う。結論をたとえ話で示すならば,以下のようになる。「アゲハチョウとは何か?」という問いに答えるとしたら,美しい羽をもって空中を優雅に舞う成虫の姿をイメージして答えるべきであろう。しかし,そのような答え方をしたからといって,卵とか幼虫とかはアゲハチョウではない! と主張しているわけではないのはもちろんである。逆に,卵も幼虫も,美しい羽をもった成虫に繋がるものとして捉えなければ,それらを真に理解したとはいえないであろう。卵も幼虫も美しい成虫になるべきものとして存在しているのであって,そういう自己運動=発展の一段階として位置づけなければならないのである。

 また,例会での議論では,新プラトン派の哲学から我々が学ぶべき教訓として,この世界の如何なる問題も,自分自身の問題として一つに還元して捉える必要があるのだ,ということが鮮明になったのも,大きな収穫であったと思う。一般論から個別の事実を捉えていく,ということも,単なる文字としてではなく,主体的なものとして,自身の生き方に直接に関わるものとして,捉えなければならない。例えば,教育者(教育学者)であれば,「教育とは何か」という一般論から世界のあらゆる事物・事象に問いかけ(二重化し),そのことを通じて,自己の「教育とは何か」の一般論のイメージを,具体的な内容を豊かに含んだものにしていく。そうしたことが直接に教育者(教育学者)としての見事な生きざまに繋がるのである。

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 今回の範囲は相当難解で,読み進めていくのもかなり苦しい部分があったけれども,例会での議論をとおして,理解を深めていくことができたと感じている。特に印象に残った内容は2つである。

 1つはプロクロスの三位一体についてである。一に対して無限(多)という対立物が立てられ,限界によって両者が統一されるということについて,要するに,ある契機に対立する契機が立てられた上で両者が統一されるという法則的な発展過程が繰り返されることで,世界全体の重層的な構造ができあがっているのだ,ヘーゲルはプロクロスの中にそのような主張を読みとっているのだということであったが,ここは非常に納得することができた。確かにヘーゲルの『歴史哲学』もそのような構成で全世界の歴史を描いていたように思う。やはりヘーゲルが全世界をどのように捉えていたのかという観点から,それぞれの哲学者のどこを評価しているのかという点を見ていかなければならないと思った。

 もう1つは,「個体発生は系統発生を繰り返す」の観点から,我々自身の学問への道に対して,如何なる教訓を導きだすべきかという問題に関わってである。全てを自分自身の問題として,自分自身の生き方に切実に関わってくるものとして,この世界全体が自分自身にほかならないのだ,という実感が持てるようになるまで,現実世界のあらゆる問題を(原発問題も,沖縄問題も,アメリカ大統領選挙の問題も)主体的に一つに還元して,捉えていかなければならないのだ,ということであったが,ここは本当に納得できたし重要なところだと思った。ヘーゲルの哲学史は学問構築論として読めるのであり,自らがしっかりと学問構築の過程を辿ってさえいれば,その体験に基づいてヘーゲルの文章は理解できるのだということも感じた。逆に,自分が研鑽を怠けていたのでは,いくらヘーゲルを読んだところで理解できないのであり,そういう意味でも,しっかりと学問の道を歩んでいかなければならないと思った。


(了)
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2016年04月18日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(9/10)

(9)論点3:ギリシャ哲学の第三期とはどういうものか?

 前回は,新プラトン派に関わった論点の討論過程を報告しました。今回は,ギリシャ哲学の第三期について議論した内容を紹介します。論点は以下でした。

【論点再掲】
3.ギリシャ哲学の第三期とはどういうものか?
 ギリシャ哲学の第三期とはどういうものであったのか,ヘーゲルによる総括の文章(岩波全集版,p.92〜)に沿って,ギリシャ哲学史全体を視野に入れつつ,確認しておきたい。また,この第三期を唯物論の立場から捉え返すとどのようになるか。「個体発生は系統発生を繰り返す」の観点から,我々自身の学問への道に対して,如何なる教訓を導きだすべきか。


 この論点については,まず前提として,次のことを押さえておかなければならないという指摘がありました。すなわち,そもそも哲学の歴史とは,人類がこの世界全体に体系的に筋を通して把握していこうとしてきた営みの歴史にほかならないが,観念論者ヘーゲルにあっては,世界の本質たる精神が(自己が精神であることに気づいた上で,さらに)この世界の全ての事物・事象は自己自身にほかならないという自覚を明瞭に把持するに至るまでの歴史が哲学史である,ということでした。このような一般論から押さえていくことは大切だということを確認しました。

 その上で,チューターが,事前にメンバーから出してもらった論点への見解を基にして,ギリシャ哲学史全体を「絶対精神君」の成長過程として,以下のように漫画チックに描いてみせました。

「古代エジプト時代に生まれた精神としての絶対精神君は,世界について研究を始め,タレス歳になる頃にイオニア地方に移り,この世界の本質(原理)は水であると考えるようになった。また,空気であると考えたこともあった。この時代は,絶対精神君の抽象化能力が低く,自然的な形こそが原理であると考えざるをえなかったのである。ピュタゴラス歳になる頃には,感性的なものと概念的なものの中間である数を原理であると考えるようになり,パルメニデス歳のころには,不動の「一」や「有」といった抽象的思想が原理であると考えるに至った。しかしこのころは,まだ「一」や「有」といったものは思考の対象であると考えられており,それ自身が思想であるという自覚はなかった。

 アナクサゴラス歳になるころに,絶対精神君はアテネに移住する。ここで,世界の本質(原理)とは,物質的・感性的な世界(吉本隆明のいわゆる「実体の世界」)とは区別される何者かであるということに気づくようになり,それをヌースと名づけた。ただしこのころは,まだヌースは抽象的で無内容なものでしかなかった。ソクラテス歳になると,このヌースというのは自分の精神のことではないかという自覚が芽生える。つまりこのころ,自分は精神であり,その精神こそ世界の原理であるという自覚が芽生え始めたのである。そして,このヌースから感性的な世界の具体的で豊かな内容を自己のものにしていこうとするようになった。翌プラトン歳,さらにその翌年のアリストテレス歳のころには,この取り組みは大きく発展していったが,それは単に所与の現実をそのまま受動的に写し取っていくようなレベルのものでしかなく,受け入れた現実を自分自身(個としての人間自身)と同一のものだとして深く自覚するようなレベルのものではなかった。

 こうして第一期をアテネで過ごした絶対精神君にとって,自分の精神が捉えたものはほかならぬ自分自身のものであるという自覚をもつことこそが,明瞭な課題として浮上してきたのである。ゼノン歳からピュロン歳のころ,ポリス社会が崩壊に向かい,世の中が不安定になってくることによって,絶対精神君は絶対的な真理の規準を確定することによって心の平静を得ようとしていた。そんな中,一時期は「対象=意識」という真理の規準論を掲げ,表象レベルのイメージにおいてこそ両者は一致する,これによって心の平静が保てるのだという思い込んでいた時期もあったが,すぐに,そうした真理規準では不充分だと感じるようになった。外的な客観的世界と内的な主観的世界との間には埋めることができない溝があるのであり,一致することなどありえないという結論に至ったのである。そうして,絶対精神君は意識から独立した客観的世界の存在そのものを否定してしまったのであった。しかしこれは,主観に現われるものがすべてだということでもあり,自己意識のなかに世界全体を溶かし込むようなものだともいえるものであったといえる。

 古代ローマの時代になると(プロティノス歳からプロクロス歳の頃),先の時期に自己意識の中に溶かし込んだ世界を,具体的に規定された世界として構成していくことが,絶対精神君の課題となった。先の全世界の取り込みは,あらゆる区別,具体的な内容を否定する形で行われたので,ここに自己の内部の世界(抽象的で無内容な主観的世界)に諸々の差異を捉えて,叡智的世界を築くことが課題となったのである。この叡智的世界の構築は,客観を否定して主観に閉じこもるというあり方を否定し,客観もまた主観と同じく精神的な存在である割り切ることで,客観の具体的で豊かな内容を自分のものにしていく過程であったといえる。全ては一者(=神)からの流出なのであって,自己は直観的にその真理(自己=一者)を把握することができる,と絶対精神君は考えるようになったのであった。」


 このようなまとめに対して,内容的に引っかかるところはないが,せっかくだからもう少し漫画チックにしてほしかったという意見が出されました。

 次に,ギリシャ哲学の第三期を唯物論の立場から捉え返すとどのようなことがいえるかについて議論しました。2人のメンバーは,「一者」の措定が,学問構築過程における一般論の措定にあたるのではないかと主張しました。このうちの一人はさらに,流出という把握は,対象とする全ての事実に共通する性質である一般論から問いかけて,対象を筋を通した形で把握するという学問構築過程における実践として理解する必要があるのではないかと述べました。別のメンバーも,確かに,哲学という学問に対して一般論が措定されたという評価を下すことはできるかもしれないと述べました。

 第三期の唯物論的な把握に関して,全く別の見解を出したメンバーもいます。すなわち,ギリシャ哲学の第三期は,大きくいえば,ローマ世界末期の混乱のなかで,各個人が自己の精神の内部に充足を求めていった流れのなかにあるのであり,人類の認識の発展史という観点からすれば,ローマ時代の末期までに,物事を抽象する実力(特殊なものを普遍的なものに還元する能力),抽象的なものから筋を通して具体的なものを理解していく実力が相当に培われていたのだという見解でした。これはこれで,唯物論的な歴史把握の流れの中に哲学を位置づけたものとして,妥当だろうということになりました。

 最後に,「個体発生は系統発生を繰り返す」の観点から,我々自身の学問への道に対して,如何なる教訓を導きだすべきかという問題について議論しました。先にギリシャ哲学の第三期を学問構築過程における一般論の措定にあたると主張した2人のメンバーは,当然に,個体発生においても,一般論を措定して,そこから事実へ問いかけていくことが大切であるとの見解を示しました。これも当然重要なことだということで,皆が同意しました。別のメンバーは,この現実世界に生じているあらゆる問題を,全て自分の生き方に関わってくるものとして(多少強引であっても)一つに還元して捉えていくことが大切だ,という教訓として捉えるべきだと主張しました。これに対してチューターは,この教訓は,パルメニデスからでも引き出すことが可能なのではないかと問いました。これに対してこのメンバーは,パルメニデスの場合はポリスに限定されており,非常に範囲が狭いうえに,パルメニデス段階では,自分と「一」が同じものだとは思っていない点が決定的に異なる,これに対して新プラトン派の「一者」は普遍性をもっており,「恍惚」状態において自分が「一者」と同一になるのであるから,その点で大きく異なるのである,と答えました。もう少しいうと,単なる知識としてではなく(これでは第一期レベルである!),全てを自分自身の問題として,自分自身の生き方に切実に関わってくるものとして,この世界全体が自分自身にほかならないのだ,という実感が持てるようになるまで(例えば最近話題の「保育園落ちたの私だ」はその個別的,端緒的な表れとして分かりやすい例といえよう),現実世界のあらゆる問題を(原発問題も,沖縄問題も,アメリカ大統領選挙の問題も)主体的に一つに還元して,捉えていかなければならないのだ,ということでした。一般論から問いかけるということも,まさにこういうことであり,看護一般論から問いかけるということはすなわち,看護師としてどう生きるのかということであるし,教育一般論から問いかけるということはすなわち,教師としてどう生きるかということなのである,このようにしていかないと一般論が身につかない,そういう教訓としてこの時期を捉えるべきである,ということでした。この見解には一同,深く納得しました。

 以上の討論をもって今回の例会を終了しました。
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2016年04月17日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(8/10)

(8)論点2:新プラトン派の哲学とはどういうものか?

 前回は,ヘーゲルの基本的な概念についての討論過程を紹介しました。今回は,今回の範囲の中心である新プラトン派の哲学についての論点に関する討論を報告します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】
2.新プラトン派の哲学とはどういうものか?
 プロティノスおよびプロクロスの哲学とはどういうものであったのか。「一者」「流出説」というキーワード,プラトン哲学との違い,新プラトン派の完成形態たるプロクロスにおける三位一体,シュヴェーグラーの説明との違いなどに着目して,確認しておきたい。


 まずは大雑把に内容を確認しました。新プラトン派は世界を一者からの流出とそこへの還帰として説いている点は間違いないことを確認しました。さらに,プロティノスの一者は,直観によって把握できる存在であり,ヘーゲルの絶対精神の自己運動にきわめて近しい内容であるが,まだ感覚的なイメージにとどまっているという限界があるという指摘もなされました。プロクロスについては,一者は流出しても減少しないこと,また,一,無限,限界という三位一体の形式で説いていることも確認されました。

 ただし,三位一体の突っ込んだ中身,具体的な内容については,相当に込み入っており,ヘーゲルの文言だけでは分かりようがないので,あまり深入りしないこととしました。

 以上に加えて,あるメンバーは,もう少し論理的に,詳しく新プラトン派の哲学について説きました。それは以下です。

「ヘーゲルは,プロティノスのやり方は特殊概念を全くの一般概念へと常に還元するものであるとしているが,その一般概念が「一者」である。そして,プロティノスは,一者とそこから流出したものとが別個のものではないことを力説して,一者から流出したものは方向を転じて再び一者(流出の源)へと向かって還帰するのだ,という。こうして一者は自己を直観するのであり,知性とはこの円環運動のことなのである。また,叡智界は,知性が自己自身を対象として,自己を展開し自己を規定されたものとしていくことによって成立するものであり,これと,負の存在である物質が原理となっている感覚的世界とは関係はあるが別物である。すなわち,叡智的世界は区別をうちに含みつつも一者(永遠不滅の絶対善)として完全に統一されているのであるが,その叡智的世界の迂遠な模像としての感覚的世界は,物質こそが原理となっているので,非常に不安定であり,悪にも満ちているのである。

 プロクロスの三位一体は一に対して無限(多)という対立物が立てられ,限界によって両者が統一されるという形式である。。また,プロクロスはプロティノスよりも発展した内容である体系的な秩序を有する。すなわち,ある契機に対立する契機が立てられたうえで両者が統一される,という法則的な発展過程が繰り返されることで,世界全体の重層的な構造が出来上がっているのだ,というような捉え方がプロクロスにはあったのである。」

 このような見解に対して,他のメンバーは,非常に筋が通っており,分かりやすいものだと評価しました。

 最後に,新プラトン派について,以上のようなヘーゲルの捉え方と,一昨年学んだシュヴェーグラーの捉え方とは,同じなのか違うのかという問題に関して,議論しました。まず,シュヴェーグラーの捉え方を確認しました。シュヴェーグラーは,新プラトン派を古代哲学の二元論的傾向を克服して一元論的哲学をつくろうとした古代哲学の完成であると同時に自己解消でもあると捉えていたのでした。この問題について,あるメンバーは,古代ギリシャ哲学の完成であるというプラス面のみ,ヘーゲルは説いているが,客観的な世界の本質を筋を通して追求してきた古代ギリシャ哲学の探求の方法を全く放棄してしまったという意味では自己解消といえるというマイナス面については,ヘーゲルはそのように把握していないように思われると述べました。もう少しいうと,ギリシャ哲学の自己解消という捉え方をヘーゲルはしていないのではないか,探究方法がここで放棄されたという把握はヘーゲルにはないのではないか,ということでした。

 これに対して別のメンバーは,シュヴェーグラーの説明とヘーゲルの説明は基本的に重なると説きました。すなわち,ヘーゲルが新プラトン派の意義として説いているのは,一者からの流出によって全てを一元論的に説こうとしたことであり,その限界として説いているのは,一者(神)からの流出のイメージが感覚的なものにとどまり概念的な把握がなされていない(個としての人間の意識と絶対的実在との直接的同一性が単に直観的にしか捉えられていない)ことである,こうした新プラトン派についてのヘーゲルの指摘を,シュヴェーグラーは古代ギリシャ哲学の終着点において示された矛盾(完成=自己解消)として把握しなおしたのであろう,ということでした。先のメンバーの見解については,シュヴェーグラーは,新プラトン派において合理的な説明がすべて放棄されたといっているわけではなく,この世界の究極の本質については合理的に説明することを放棄したというくらいの意味ではないかと反論しました。すなわち,世界の本質は合理的には説明できず,直観的にしか把握できないが,そこが確定しさえすれば,あとは合理的に説明できると,シュヴェーグラーは主張していたのだ,ということでした。この説明に皆が納得しました。

 以上で論点2に関する討論の紹介を終わります。
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2016年04月16日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(7/10)

(7)論点1:ヘーゲルの基本的な概念をどう理解するか?

 前回は,今回のテキストの範囲の大切な点を改めてふり返り,そのあと,3つの論点を紹介しました。

 今回からは,それぞれの論点に対して,どのような討論がなされ,どのような(一応の)結論に達したのかを報告します。今回は,ヘーゲルの基本的な概念についての論点です。

【論点再掲】
1.ヘーゲルの基本的な概念をどう理解するか?
 新プラトン派についての総論的部分で,ヘーゲルは,絶対的実在〔本質〕(absolute Wesen),神,絶対的精神といった言葉を使っているが,これらはどう違うのか(どう使いわけられているのか)。これらと世界精神,自己意識なるものはどのように関わっているのか。主観的意識と自己意識はどう違うのか(どう使いわけられているのか)。叡智界とはどういうものなのか。


 この論点に関しては,まず,「絶対的実在〔本質〕(absolute Wesen)」「神」「絶対的精神」という術語について議論しました。絶対的実在〔本質〕(absolute Wesen)については,一人のメンバーを除いて同じような理解でした。すなわち,古代ギリシャ哲学が探究してきた世界の原理のことであり,この世界全体の究極の本質に相当するものという理解です。「世界とは何か」という問いに対して想定されている答えのことを,ヘーゲルは「絶対的実在」と呼んでいるということでした。しかし,一人のメンバーは,絶対精神が現実の世界に存在する形式は,個人としての自己意識にほかならないとした上で,絶対精神としての自己意識を,外面的な世界に客観的に実在するものとして把握した場合,ヘーゲルはこれを絶対的実在と呼んでいる,と説明しました。世界の本質たる絶対精神が自己意識とイコールになっていない時,それを「絶対的実在」と呼んでいる,ということです。これに対してチューターは,もしそうだとすると,内面的な世界に存在するものは,絶対的実在とはいえないということになるが,そういった理解でいいのだろうか,と疑問を投げかけました。別のメンバーからも,世界の本質を絶対精神だと言いきってしまうと,細かな概念が区別できなくなるのではないかという指摘がありました。これらの指摘に対して,このメンバーは一応納得しました。

 神については,「即自且つ対自的存在,完全な普遍者が同時に対象的なものとされる,これが正に神に外ならない」というヘーゲルの言葉を確認した後,一人のメンバーが,絶対精神である自己意識が,自分自身である絶対精神を対象として(自分のほかにある者として)把握した場合,これを神と呼ぶのだと説明しました。これは概ね妥当な見解だということになりました。ただ,見逃してはならない点として,別のメンバーは次のように指摘しました。すなわち,神というのは,人間が自己と世界との同一性を直観的に把握した状態において,その絶対的実在に対して与えられる表現であるということです。つまり,神というのは概念的な把握ではなくて,直観的な把握であるという点が大切である,ということでした。これについては,皆が納得しました。

 絶対的精神については,あるメンバーは,すべての哲学史を貫いて様々に現われ発展するものの,常に自己同一性を保っているような精神的な絶対者のことであると説き,別のメンバーは,この世界全体の究極の本質が自己自身の何たるかを(概念的に把握する形で)自覚したもののことであり,より具体的には,哲学の完成によって,人間が自己の本質と世界の本質とは同じものであると概念的に把握しきった状態のことであると説きました。この後者の見解に対してチューターは,先の見解の最終段階のみを絶対精神と説明しているように読めるが,そういう理解でいいだろうか,と問いました。これに対して後者の見解を出したメンバーは,最終段階・完成形態のみを絶対精神というのだ,と理解してもらっては,少し誤解があるとして,次のように説明しました。すなわち,そういうものとして完成することが予定されているので,その全体を「絶対精神」と呼んでもさしつかえはない,それは,見事な花を咲かせるであろうというイメージをもっているからこそ,種子や双葉の状態であっても「朝顔」と呼ぶのと同じである,あるいは逆に,赤ん坊段階で成長が止まってしまうことがあらかじめ決められている存在であれば,それを「人間」とは呼ばないのと同じである,ということでした。こういった説明に,他のメンバーも納得しました。

 次に,これらの概念と,「世界精神」「自己意識」との関係について検討しました。世界精神については,ほぼ同様な理解でした。まとめると,世界精神(Weltgeist)とは絶対精神が自己実現に向っていく過程で,世界歴史(人類の歴史)において,諸々の国民精神〔民族精神〕という形態をとって登場したものという理解になりました。ただ,自然の段階も含めて「世界精神」と呼ぶのではないか,という異論も出ました。しかし,ヘーゲルにおいては,「世界歴史」という言葉もあるように,「世界」というのはあくまでも人間社会のことをイメージしているはずだという再反論がなされました。この見解に皆が同意しました。

 自己意識については,あるメンバーが,精神が自己を対象として眺めて自己が精神であることに気づくようになることで,自己意識(Selbstbewusstseins)が登場するのであって,この段階では,個としての人間の自己意識は,自己と絶対的実在との同一性にまでは気づいていない,というような説明をしました。これにはヘーゲル哲学の全体像を踏まえての説明になっているとして,皆が納得しました。この自己意識と,主観的意識の違い(使い分け)については,主観的意識という場合は,自己意識が客観に対する主観として,自己を客観とは別のものとして(客観を自己とは別のものとして)意識したあり方のことであるということで落ち着きました。

 最後に,叡智界について確認しました。ヘーゲルのいう影の王国のことで,最終的に学問体系が成立することになる観念的な世界のことを指しているとか,精神が主観のみならず客観をも含むものとして自己を意識した上で,自己の内部に客観的世界の具体的で豊かな内容を構成していったものとかいう見解が出されました。大切な点は,叡智界というのは自己の内部にある,精神の内部にあるということである点を確認しました。

 以上で,論点1に関する討論を終えました。
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2016年04月15日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回まで4回にわたって,ヘーゲル『哲学史』の新プラトン派の部分の要約を紹介してきました。ここで改めて,大切なポイントを簡単にまとめておきたいと思います。

 はじめに,新プラトン学派の概要が説かれていました。ヘーゲルはギリシャ哲学の第二期について,その終わりでは,自己意識が自分の内面に返り,無限の主観性によって,全ての外的な存在,特定の内容や固定観念や真理が否定されたと説き,思考する自己意識が自己を絶対者だと自覚する段階に至ったとしていました。そして,次の段階である第三期の課題は,内部に様々な差異を捉えて,真理を叡智界として形成することだと述べていました。その上で,キリスト教の意義と限界について述べていました。すなわち,キリスト教によって自己意識が絶対の実在だという考え,絶対的な実在とはイエス・キリストという一人の人間であるという考えが生まれたが,まだそれを直観している段階にすぎないということでした。キリスト教においては,絶対的な実在(=神)がイメージはされるが概念的に捉えられることはないので,哲学の仕事は,キリスト教の理念を概念化すること以外にはないと説かれていました。これらの課題に答えたのが新プラトン学派だと位置づけられていたのでした。新プラトン派の哲学は,アリストテレスの哲学と一体になったプラトン哲学であるとされていました。彼らの根本理念は第一に思考があり,第二に思考されるものがあり,第三に両者の同一性があるということであり,自己意識が自分に返っていくという運動を説いたのだと説かれていました。独断主義やスケプシス主義の目的であった自由や至福や不動心は,絶対的真理への関心を媒介として達成されるものとされていました。。つまり,客観から逃避することによってではなく,客観への関心を不可欠の条件として,客観を通して,主観の自由と至福が達成されるのだとされていたのでした。

 続いて,ヘーゲルが「アレクサンドリアの哲学」と呼んでいる哲学の内容が説かれていきました。自己意識と存在との統一はアレクサンドリア派によって哲学的且つ概念的な形を整えられたとされていました。つまり,絶対的実在はこの意識のうちにあるという原理が確認されたということだったのです。このアレクサンドリア派の中でもプロティノスとプロクロスにヘーゲルは多くの解説を加えていたので,この二人に絞って振り返っておきましょう。

 プロティノスについては,全体としてのやり方は特殊概念を全くの一般概念へと常に還元するものだとされていました。そしてアリストテレスと違って,対象の具体的内容を捉えることには関心がなく,具体的内容を統一し,現象の奥にある実体を引き出すことを狙いとしたのであり,永遠に一なるものへの知的直観へのいざないが彼の哲学の主調音と説かれていました。そして,この一なるものが流出によって様々な内容を生み出す過程が,プロティノスの哲学の要点のひとつだとヘーゲルは説いていたのでした。一なるものが自ら内容を生み出す決心をするのは何故かという問題について,一なるものの意志によって生み出されたのではなく,一なるもののままで何かが溢れ出て,それはまっすぐに一なる善に還っていこうとするのだというプロティノスの説明をヘーゲルは紹介していました。このように円運動を説いた点は的を射たものと評価していますが,神からの産出が感覚的なイメージにとどまっていて概念的に把握されていないという指摘もしていたのでした。

 これに対して,プロクロスについては,新プラトン派の哲学が全体として体系的な秩序を整え,形式的に完成させた人物として肯定的に評価されていました。その哲学の中身を見てみると,プロクロスは様々な弁証法を駆使して,多はそれ自体で存在せず,一切は一に還帰し,意志こそが多くの生みの親だということを証明しているということであり,その際に三位一体の定式が使われていることが注目に値するとされていました。全体は3つのまとまりが互いに統一されていく過程にほかならないと考えていたプロクロスは,プロティノスよりずっと明確な進んだ考えに立っているのであって,新プラトン派のなかでも最も優れた最も完成された哲学だとヘーゲルによって評価されていたのでした。プロクロスの三位一体はまず3つの要素が一,無限(多),限界と定義され,これら3つもそれぞれに抽象的な三位一体をなすとされていました。

 新プラトン派の最後の部分で,ヘーゲルは,新プラトン派哲学によって哲学史の第一期であるギリシャ哲学は幕を閉じるとし,ここまでの流れを振り返っていました。当初は抽象的原理が自然の形をとって現れましたが,やがてそれは「一」とか「有」とかの形で現れました。これらが純粋な思考の対象ではなく,思想として自覚されたのがソクラテスの段階であると説かれていました。さらに,具体的で豊かな内容を与えていこうとする試みがプラトンらによってなされ,アリストテレスに至って思考の思考という最高の理念を獲得しましたが,世界という内容はこの理念の外にあったとされていました。多種多様な具体的内容を統一へと引き戻す試みとして独断主義が現れましたが,実際に統一は実現されなかったということでした。新プラトン派に至って,絶対的なものが具体的なものとして認識され,そこから絶えざる流出が行われるとされたのでした。しかし,新プラトン派についても,無限の主観性という絶対の断絶からぬけ出せないこと,絶対の自由,自我,主観の無限の価値を獲得していないことが不十分な点だと指摘されていたのでした。

 以上のような新プラトン派についてのヘーゲルの講義に関して,さまざまな論点が出されました。それを3つにまとめたものを紹介します。

1.ヘーゲルの基本的な概念をどう理解するか?
 新プラトン派についての総論的部分で,ヘーゲルは,絶対的実在〔本質〕(absolute Wesen),神,絶対的精神といった言葉を使っているが,これらはどう違うのか(どう使いわけられているのか)。これらと世界精神,自己意識なるものはどのように関わっているのか。主観的意識と自己意識はどう違うのか(どう使いわけられているのか)。叡智界とはどういうものなのか。


2.新プラトン派の哲学とはどういうものか?
 プロティノスおよびプロクロスの哲学とはどういうものであったのか。「一者」「流出説」というキーワード,プラトン哲学との違い,新プラトン派の完成形態たるプロクロスにおける三位一体,シュヴェーグラーの説明との違いなどに着目して,確認しておきたい。


3.ギリシャ哲学の第三期とはどういうものか?
 ギリシャ哲学の第三期とはどういうものであったのか,ヘーゲルによる総括の文章(岩波全集版,p.92〜)に沿って,ギリシャ哲学史全体を視野に入れつつ,確認しておきたい。また,この第三期を唯物論の立場から捉え返すとどのようになるか。「個体発生は系統発生を繰り返す」の観点から,我々自身の学問への道に対して,如何なる教訓を導きだすべきか。



 次回以降は,順に,これらの論点についてどのような討論がなされ,どのような(一応の)結論に至ったのかを紹介していくことにします。

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2016年04月14日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』新プラトン派要約C

 前回は,ヘーゲル『哲学史』新プラトン派のうち,プロティノスに関してヘーゲルが説いている部分の要約を掲載しました。そこでは,プロティノスが一なる実体に全てを還元していたこと,一なるものが流出によって様々な内容を生みだすこと,第一の実在が自分に返っていきながら自分を見るところに知性が発生することなどが説かれていました。

 さて今回は,ヘーゲル『哲学史』新プラトン派の最後の部分の要約です。ここでは,新プラトン派のなかで最も優れた最も完成された哲学を説いたとされるプロクロスについてヘーゲルが説いている部分が中心となります。最後には,哲学史の第一期たるギリシャ哲学が概括されています。

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3,ポリフュリオスとヤンブリコス

 プロティノスの弟子のうち,有名なのはポリフュリオスとヤンブリコスである。ポリフュリオスはシリア人で304年没,ヤンブリコスもシリア出身で333年没。ポリフュリオスの業績で特筆すべきはアリストテレス『オルガノン』の解説書で,今日までアリストテレス論理学の教科書として利用されてきた。ヤンブリコスはピュタゴラスの伝記作者として知られるが,その記述はポリフュリオスより曖昧で混乱している。ヤンブリコスは同時代人から大きな尊敬を受けた教師だが,その哲学的著作はあまり独創性のない寄せ集めであり,ピュタゴラスの伝記もすぐれた理解力を示すものとはいえない。

4,プロクロス

 プロクロスは412年にコンスタンティノープルに生まれ,485年にアテナイデ亡くなった。彼は秘儀に関することを何から何まで研究し,どこに行こうと,異教の祭礼の式次第を専任の祭司よりよく知っていた。アレクサンドリア派にあっては,秘儀(ミステリオン)という言葉は,一般に瞑想的な哲学を意味していたのである。彼の主著は『プラトンの神学』と『神学綱要』の2冊である。彼の生活はいわば,神に仕え,学問と新プラトン派の哲学に打ち込むものであった。彼のもとで新プラトン派の哲学は全体として体系的な秩序を整え,形式的に完成されたのである。彼の特長をなすのは,プラトンの問答法の深い研究である。『プラトンの神学』で最も鋭く,詳しく追究されるのは一の弁証法で,多を一として,また,一を多として示し,一のとる様々な形式を明らかにするのが彼の眼目である。彼はプラトンの問答法にならって,全ての観念,徳に他の観念が内部で解体し,一へと返っていくことを示す。一だけが本質であり真理であって,他の全ての観念はやがて消えゆく要素にすぎず,その存在は直接にそれを考える思考によって保証されるにすぎない,という結論が現われる。
 プロクロスは一から始めてそこから前へ進むが,直ちに知性に行くのではなく,もっと具体的な形をとって一切が進行する。一なるものは,それ自体を表現することも認識することもできないが,それが外に出てきたり自分に返ったりすることから,その実態が捉えられる,とされる。一が外に出ていくのは自分から抜け出すことではなく,一はそれで減少することなく生みだしたものをうちに含んで,同一のままとどまるのである。プロクロスは様々な弁証法を駆使して,多はそれ自体で存在せず,一切は一に還帰し,一こそが多の生みの親であることを証明する。
 注目すべきは,理念を細かく定義するのに三位一体の定式が使われることである。プロクロスはまず抽象的に3つの神を示し,それらを改めてひとつの全体として捉えて,現実的な三位一体を獲得するのである。この視点は全く正しいものといわなければならない。理念がみずから統一を保ちつつ区別を生みだすとき,理念の契機にほかならぬこの区別は,その本質からして全体としてのまとまりをもち,統一は区別されることによってかえってその本来の姿を現わし,区別のそれぞれはまとまりのある形式をなし,こうして全体は3つのまとまりが互いに統一されて行く過程にほかならない。そう考えるプロクロスは,プロティノスよりずっと明確な進んだ考えに立っているのであって,この点では新プラトン派のなかで最も優れた最も完成された哲学ということができる。
 プロクロスの三位一体を細かくみていくと,まず3つの要素が一,無限(多),限界と定義される。彼は最初の一を神と名づけ,次に思考される多くの一を神々と名づけ,その後に来るものも神々と名づける。限界が多と一とを統一する。これら3つの契機もそれぞれに抽象的な三位一体をなすとされ,全ては三位一体のうちに含まれる。第一の三位一体が一切でありながら,知的で直接に一であり,限界のうちにとどまるのに対して,第二の三位一体は一切でありながら,生命をもち,無限を原理とするものであり,第三の三位一体は,混合物として生じてくる。第一の三位一体の本質は限界であり,第二の三位一体の本質は無限,第三の本質は具体性である。3つの統一体を並べてみると,神々の知的秩序が明らかになる。それぞれが3つの契機を含み,そのうちのどれかひとつに中心をおく統一をなす。この3つの秩序が最高の三神であり,そこから後に様々な神が現われてくることになる。

5,プロクロスの後継者たち

 プロクロスは新プラトン派の頂点であり,その哲学は中世全体にわたって影響を及ぼす。529年,ユスティアヌス帝によるアカデメイアの閉鎖により,異教の哲学は表向き消滅したとはいえ,新プラトン派の理念や特にプロクロスの哲学は長く境界に根を下ろし保存された。前期の純粋で神秘的なスコラ学者たちは,プロクロスと同じ立場に立っている。ずっと後の時代まで,神について神秘的で深遠な論がなされるときには,カトリック教会のなかにも新プラトン派の観念がみられる。

  *  *  *

 我々は新プラトン派哲学の最上の思想を示したが,そこにはいわば思想の世界が強固にできあがっている。感覚世界と並んで思想の世界があるのではなく,感覚世界は消滅し,世界全体が精神へと高まり,この全体が神および神の生命と名づけられるのである。
 今や哲学史は大きな曲がり角に来ている。哲学史の第一期たるギリシャ哲学はここに幕を閉じる。そもそも哲学は,思想を感覚から切り離し,感覚と想像力の彼方に思想の全体系を築こうとするものである。ここでは進行は一直線で,ざっと見渡すと以下の通りである。最初に抽象的原理が自然の形をとって現われ,次に,抽象的思想は直接に「一」とか「有」とかの形で現れる。それは純粋な思考の対象で,思想として自覚されていない。ソクラテスが第二段階の始まりで,これは自己の思想の段階である。思考そのもの,知性(ヌース)が絶対的だとされる。内部に光が当てられ,具体的かつ主観的思考となるが,その具体性はまだ潜在的なものにすぎない。第三に,その具体性がハッキリ自覚される段階があって,それがギリシャ哲学の終点である。
 自己とは具体的なものの単純な形式にすぎず,内容を与えられて初めてそれは具体的になるのであって,ソクラテスの哲学やプラトンのイデア論はその試みである。しかし,その具体性は与えられた現実から得られるだけのもので,自覚されてはいない。アリストテレスは思考の思考という最高の理念を獲得したが,世界という内容はこの理念の外にある。多種多様な具体的内容を統一へと引き戻してこそ,自己が具体的なものを最終的に,単純に,統一するものとなる。逆に,自己という抽象的原理が内容を獲得しなければならない,といってもよい。そこに現われるのが独断主義の体系であり,ストア主義においては,かの思考の思考が全世界の原理とされたが,スケプシス主義はそれを否定し,自己意識として,自分だけの純粋に孤独な思考のなかで,世界という前提や前提の始まりに反省の目を向ける。
 第三に,絶対的なものが具体的なものとして認識される。独断主義の体系にあるのは統一の要請だけで実際に統一が実現されたわけではない。新プラトン派において,絶対的なものが具体的なものとして認識され,理念が具体的内容を伴う3つの三位一体として認識され,そこから絶えざる流出が行われる。アレクサンドリア派は具体的な全体を相手とし,精神の本性を捉えたのである。とはいえ,無限の主観性という絶対の断絶からぬけ出せないこと,絶対の自由,自我,,主観の無限の価値を獲得していないこと,この2つがアレクサンドリア派の不十分な点である。
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2016年04月13日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』新プラトン派要約B

 前回は,ヘーゲル『哲学史』新プラトン派の中の,フィロン,およびカバラとグノーシス主義について説かれた部分と,アレクサンドリア派の哲学の触りの部分までの要約を掲載しました。そこでは,認識できない「一」なる神から世界が流出したとする説(フィロン,グノーシス派など)や絶対的実在は個の意識の内にあるという深遠な原理(アレクサンドリア派)について説かれていました。

 さて今回は,彼の著作こそ新プラトン派の最大の資料であるとされているプロティノスについてヘーゲルが説いている部分の要約を紹介します。ここでは,特殊概念を全くの一般概念へと常に還元するという彼の方法論などが説かれています。

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2,プロティノス

 アンモニオスの弟子たちは,哲学を著作にあらわさないように,という師の禁令をつきつけられていたため,プロティノスが著作を始めたのはずっと後年のことで,現存する彼の作品は,彼の死後に弟子のポルフュリオスがまとめたものである。ポルフュリオスの書いたプロティノスの伝記には,実生活の正確な記述と不思議な出来事がまじりあっている。プロティノスはエジプト人で,紀元205年に生まれ,270年,ローマで66歳の生涯を終えた。
 プロティノスの著作は,聴講者の質問に答えるという形をとっている。それは『エンネアデス』と呼ばれ,全体が6部からなり,それぞれが9つの論文を含むから全体で54の論文に分かれている。目配りのよくきいた作品だが,全体としてのまとまりには欠けるところがあって,通読するのは骨が折れる。

 プロティノスの哲学がどういうものか述べるのは困難であるが,全体としてのやり方は,特殊概念を全くの一般概念へと常に還元するものである。プロティノスの精神は個々の材料の上をさまよいながら,それをめぐって理屈を並べて問答を行い,結局は一切をひとつの理念へと還元する。特殊な概念から出発しながら,いつも同じところに帰ってくるので,読むうちにいささかうんざりしてくる。彼にあっては,プラトンの理念と表現が特に大きな位置を占めるが,アリストテレスもそれに劣らず重要で,可能性(デュナミス),現実性(エネルゲイア)といったアリストテレスの用語が重要な位置を占め,その関係が否応なく考察の対象となる。彼はまたストア派の思考(ロゴス)をも取り入れている。
 プロティノスは,アリストテレスと違って,対象の具体的内容を捉えることには関心がなく,具体的内容を統一し,現象の奥にある実体を引き出すことを狙いとする。彼の哲学の主調音は,人の道へのいざないであり,その源泉たる,永遠に一なるものの知的直観へのいざないである。次いで,人の道の特殊なあり方が問題とされるが,それも魂を様々な感情,様々な不純で不正確な罪悪感や運命観,また,不信心,迷信,占い,魔術などから浄化するためである。個々の具体的な内容を解釈することより,事柄の本体へと返っていくことが彼の狙いなのである。
 その哲学の具体的な内容についていえば,ストア派やエピクロス派のいう規準はもはや問題にならない。ストア派やエピクロス派で目標とされた心の平静さが,ここでは純粋な直観という立場にたつための出発点とされている。そして,そういう直観を呼び覚ますことが,歓喜とか感激とか名づけられているのである。プロティノスは,真の存在は恍惚状態になることによってのみ知られる,というが,この有頂天を熱狂の状態と考えてはならない。恍惚状態とは,対象そのものが単純で静止しているために,魂も単純化され,至福の静止状態にあることを意味するのである。恍惚といっても,単なる感覚や空想の歓喜をいうのではなく,感覚的意識の内容を抜け出すことをいうのであり,そこにあるのは自分を対象となして自足する純粋な思考である。

 プロティノスが熱狂の人と名づけられた(誤解された)のは,恍惚という言葉をもち出してきたことに加えて,事柄そのもののうちにもある。思考の捉える絶対的実在が思考そのものとは別物だと確信する人々は,思考が捉えた神の概念と神の存在とは全く別物だという。ちょうど,我々がある動物について思考したとき,その動物の概念は動物そのものとは全く別物で,現実の動物こそが真理なのだ,というように。しかし,問題なのは動物の本質であって,それは概念として捉えられるものである。動物の本質は感覚的な動物のもとに本質としてそのままあるのではなく,対象たる個物の一般概念としてあるというほかない。我々の思考が捉えた概念こそ本質であり,それだけが真理であって,感覚的な動物は否定的に捉えられなければならない。同様に,絶対的実在に関する我々の概念も,それが他ならぬ絶対的実在の概念である限り,本質そのものを表わす。しかし,神は単に本質や概念であるだけでなく実在でもあるのだから,この本質は神の全てを尽くしてはいないように見える。純粋な本質としての実在は思考の形をとるが,現実的な実在は自然という形をとる。そして,自然という実在のなかでは,自我は個としての思考者であり,自然という実在の一要素をなすに過ぎず,自然をつくりなすものではない。つまり,絶対的実在(神)は思考の捉える本質としての実在から,現実に存在する実在へと移行しなければならず,そのとき,現実に実在する神は個々の自己意識の彼岸に存在することになる。個々の自己意識の彼岸が本質(純粋思考)としての神であれば,対象としての神は克服される。神が自然の存在(思考の彼岸にある現実体)である場合,この現実体が本質としての神に返っていくことで,個別意識としての存在は克服される。
 こうして,プロティノスが熱狂家であるのは,神の本質が思考そのものであり,思考の内に現前する,という思想を彼が抱いていたから,ということになる。プロティノス哲学の真髄は知性主義ないし高度な観念論である。概念の展開が不十分であるために,完全な観念論とはいえないまでも。
 
 恍惚状態において現われる客観的な内容(プロティノスの中心思想)。第一の絶対的基礎は,フィロンと同様,純粋で不変な「有」であり,それは全ての現象の根拠であり原因であって,可能性と現実性との区別なく,それ自身が絶対的な現実である。それは本質的に一であり,一としてすべての実在の本質をなす。プロティノスはこの一なる実体に全てを還元する。それは絶対的な善であり,他のいかなる原理にも依存せず,しかも全ての流出の原理となる源泉である。一なるものが流出によって様々な内容を生みだす過程が,彼の哲学の要点のひとつである。
 この統一体が生みだす第一の息子が知性であり,それは第二の神的実在であり,もうひとつの原理である。ここで生じる難問が,一なるものが自ら内容を生みだす決心をするのは何故か,ということである。これに答えるためには,全身全霊込めて神に呼びかけなければならぬ,とプロティノスはいう。彼は,知性は絶対的実在の変化によるものではなく(一が他のものを生みだしたのではなく),知性は絶対的実在の直接の反映のようなものであるから,一なるものの意志によって生み出されたものではない,とする。一なるものは一なるもののままで何かが溢れ出る。それはまっすぐに一なる善に返っていこうとする。これが知性のあり方であり,第一の実在が自分に返っていきながら自分を見るところに知性が発生する。知性とはこの円運動である。プロティノスによるこうした説明は的を射たものだが,ただ神からの産出が感覚的なイメージにとどまっていて概念的に把握されていないのが難点である。
 知性のうちにはもともと様々な形態が含まれているが,その形態は知性に自覚され,知性の対象として現われてくる。それは3つに分かれる。知性に対する普遍な統一体。自分と絶対的実在との区別(全てが互いに区別や形態をもつことが,知性による世界創造である)。思考の内で持続する実体性としての具体的内容。事物の流出は知性が内容で満たされつつ持続し,一切を直接にのみ込むような形で行われる。ここでは知性が区別を破棄し次々と対象を渡り歩きながら,自己を対象として思考する。知性が自ら変化しつつ,その変化のなかでも単純に自分のもとにとどまる限りで,知性は生命一般を思考する。ここに,真の生命ある宇宙が現われる。自己自身から流出したものが反転し,自分を思考することが,永遠の世界創造である。
 プロティノスは知性を3つに,つまり,知性と思考されるものと思考とに分ける。知性は一にして全てであり,思考は区別されたものを統一するものである。思考されたものは,弧を描いて神に向かう主体的なものでもある。こうして,思考と外部の神との区別は消滅する。

 彼は物質世界の原理と悪の起源を論じる。物質とは存在はしないが存在の像はもっているもののことである。事物はその純粋な形によって相互に区別されるが,差異に共通するのは負の存在だということであり,それが物質である。最初の絶対的統一体が「有」だとすれば,対象を統一するのは負なるものであるが,それは思考された純粋な概念,しかもどんな具体的内容をももたぬ概念である。物質は他との関係でどこかにあるのではなく,将来の存在のための可能性である。非存在こそ物質の性質を表わす言葉であり,純粋な負として物質は非存在と定義される。プロティノスは,存在が善であるとすれば,悪は非存在のひとつの形として,しかし全き非存在ではなく存在とは別のものという意味での非存在として,存在するしかない,という。

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2016年04月12日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(3/10)

(3)ヘーゲル『哲学史』新プラトン派要約A

 前回は,ヘーゲル『哲学史』新プラトン派の中の,新プラトン派の概要が説かれている部分の要約を紹介しました。そこでは,思考する自己意識が自己を絶対者だ自覚する段階にまで到達した哲学の次の課題は,内部に様々な差異を捉えて,真理を叡智界として形成することであること,哲学の仕事は,キリスト教の理念を概念化することであることなどが説かれていました。

 今回は,フィロン,およびカバラとグノーシス主義について説かれた部分と,アレクサンドリア派の哲学の触りの部分までの要約を紹介します。

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A フィロン

 フィロンはアレクサンドリアのユダヤ人学者で,紀元前後のローマ第一帝政期の人である。彼を特徴づけるのは,プラトン哲学の研究とユダヤの聖典のうちに哲学を探り,これを純理論的に説明していることである。一方で,現実のイメージが宗教的な表現形式に結びつきつつ,他方でこの表現形式を直接に言明するだけでは満足できなくなってくる。だからこそ,この表現形式をもっと深く捉える努力がなされるのである。フィロンの基本思想は以下のごとくである。
 一,神を認識すること。魂の目による神の直観が,恍惚,陶酔,神の作用などと名づけられている。神の本質は根源の光だともいわれるが,「この一なるものが神そのものだ」とフィロンがいう以上,神の何たるかは知ることができない。キリスト教では,逆に,単純であることは神の一面にすぎず,精神としての神が全体をなすのであるが。
 二,神のうちに現れる区別ないし理念が知性を形成する。この知性が世界を統治する天使として現れ,物事に秩序を与えて,思想の国をつくりだす。それは天の人,アダム・カドモン(神のなかにある人間)として現れる。
 三,思考は否定的なものへと向う。観念世界に対立して感覚的な存在の世界が現れる。神が「有」であるのに対して,感覚的世界は「非有」である。この「非有」は神が無から創造したというときのとは異なって,「有」に対立する「非有」であって,「有」と同じように正なるものである。「有」の対立物が「有」と同様に積極的なものであることを,フィロンは的確に洞察していた。しかし,その対立はイメージとしても不明確で,概念や理念も独立の形態も具えていない。

B カバラとグノーシス主義

 カバラ派の哲学とグノーシス派の哲学は,全てフィロンと似たような考え方を展開していく。始元は存在する者,認識されざるもの,名づけようのないものである。第二は秘密の開示であり,具体的なものであり,それは流出によって生じる。第三は統一への帰還であり,それは理性(ロゴス)の働きによるものとされる。

1,カバラ派の哲学

 カバラとはユダヤ人の秘密の知恵のことである。一は全ての数の源泉であるとともに,全ての事物の原理だとされる。数の一が全ての数のどれでもないように,神も全ての事物の根拠(エンソフ)でありながら,どの事物でもない。神から生じる流出は第一原因から出てくる結果であり,第一の無限を制約することであり,第一のもの限定である。第二の要素は,アダム・カドモン,すなわち,第一の人間であり,冠,第一の生成物,最高の冠,小宇宙,大宇宙がこれである。さらなる流出によって,世界をとりまく他の領域が生れる。こうした流出は光の流れとして表現される。

2,グノーシス派

 グノーシス派もカバラと同じような観念を基礎とする。最も有名なのはバシレイデスだが,彼の場合も第一にくるのは言葉にならない神――カバラのエンソフに相当するもので,その神には名前がなく,いきなりそこにあるものである。第二にくるのが,知性であり,長子であり,理性であり,知恵であり,活動するものであって,さらに性格づければ,正義であり平和である。その後にくるのはアルコンテス(支配者たち)と名づけられる規定された諸原理で,これが霊界の主として,魂の秘密を明らかにして純化するという主要任務に携わる。魂は物質を出て,知恵や平和に返っていく。原初の存在は完全なもの全てを内に含むが,それらはいまだ可能性にすぎず,長たる知性が隠されたものを初めて明らかにする。被造物は神と結びつくことによってはじめて真の正義と正義に由来する平和にあずかるのである。
 キリスト教がグノーシス主義を排斥したのは,グノーシス派が一般論にとどまる傾向と,想像上のイメージと現実の自己意識である生身のキリストを対立させる傾向をもつからである。キリスト仮現説は,キリストの肉体を仮のものとし,本当の思想は肉体の背後にあるとした。一方,キリスト教会は人間の姿をしたキリスト個人を重視し,具体的現実を原理として守ろうとしたのである。


C アレクサンドリア派の哲学

 自己意識と存在との統一はアレクサンドリア派において哲学的かつ概念的な形を整えられる。東西の中間地点たるアレクサンドリアでは,東洋民族と西洋民族の宗教と神話と歴史の全てが浸透し合い,宗教観念の根底に深い意味が込められ,アレゴリー(寓意)に基づく一般的解釈が行われるようになった。
 アレクサンドリアに現われた哲学様式は,特定の古い学派のどれかに執着するのではなく,様々な哲学体系を統一するような,特にピュタゴラスとプラトンとアリストテレスの哲学を統一的に認識するような哲学である。プラトン哲学を下敷きとしながらも,アリストテレスやストア派も取り入れられた。高い教養に支えられて哲学が再建されているが,その高い教養の核心をなすのは,絶対的実在が自己意識として捉えられねばならないこと,自己意識をもつことが絶対的実在の本質であること,つまり絶対的実在は個の意識の内にあること――こうした深遠な原理である。神は精神であるというと,その精神は世界の外に,しかも自己意識の外にあると考えられがちだが,自己自身を意識する精神とは,現実の自己意識として実在するものなのである。思考の内にあるというプラトンの一般理念は,ここではそれそのものが絶対的実在であると意味づけられる。
 新プラトン派の哲学は,以前の哲学の全てを飲み込んでしまう。以前の哲学のように独自の哲学学派をなすのではなく,全てを内部で統一することから,プラトン研究やアリストテレス研究やピュタゴラス派研究を中心に据えることになる。この研究と前代の著作の解釈が結び付いて,様々な哲学理念を結合し,その統一を示すことが狙いとなる。

1,アンモニオス・サッカス

 この派の最初期の最も有名な教師がアンモニオス・サッカスであるが,彼の著作は1冊も残っていない。この時代の哲学の最も基本的な方法は,プラトンやアリストテレスの作品の注釈や梗概をつくることだったのである。アンモニオスの多数の弟子の内,哲学者として最も有名なのがプロティノスで,プロティノスの現存の著作こそ新プラトン派最大の資料である。アレクサンドリア哲学はプロティノス哲学ともよばれる。

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2016年04月11日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(2/10)

(2)ヘーゲル『哲学史』新プラトン派要約@

 前回は,京都弁証法認識論研究会の3月例会において,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそれに対して他メンバーからなされたコメントを紹介しました。今回から4回にわたって,ヘーゲル『哲学史』の今回の範囲の要約を紹介していくことにします。

 今回は,新プラトン派の概要が説かれている部分の要約です。ここでは,ギリシャ哲学の第三期の課題や,新プラトン派とキリスト教徒の関係などが説かれています。

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新プラトン派

 第三期は,前の二期全体の結論をなす。第三期の哲学は,キリスト教というローマ世界に生じた革命と最も密接に関連する。第二期の終わりでは,自己意識が自分の内面に返り,無限の主観性によって,全ての外的な存在,特定の内容や固定観念や真理が否定された。そこでは内面的な満足は得られるものの,それは特定の内容を全て破棄することで得られた満足にすぎないから,確固たる真理となるべきあらゆる内容が完全に空洞化している。哲学は,思考する自己意識が自己を絶対者だと自覚する段階にまで到達した。次の段階は,内部に様々な差異を捉えて,真理を叡智界として形成することである。世界精神のうちに表現されるこの意識が,いまや哲学の対象となる。これは主としてプラトンの概念や表現を使用し,それを基礎とするものであるが,ピュタゴラスやアリストテレスの概念や表現も加味されている。
 この叡智界という理念が,世界の外観を一挙に変化させ,既成の観念を全て解体し,世界の再生を促す。絶対的な実在は自己意識と無縁のものではなく,自己意識と直接に関わりのないような実在は存在しない,という理念ないし原理が,いまや世界精神の一般原理となり,全ての人間に共通の信念となり知となる。
 精神はここからさらに進んで自分の内部に裂け目をつくり,主観性を抜け出して再び客観的なものへと向う。しかし,この客観性は個々の外的対象とか義務ないし個別的道徳といった客観性ではなく,知的な客観性であり,精神と真理のうちにある客観性であって,精神から生まれ,正真正銘の真理を母胎とする絶対的な客観性である。換言すれば,それは一方では神への帰還であり,他方では神が人間に現れるという啓示の関係である。神はここで本来の完全無欠な姿で精神に現れるのである。こうして,客観的なものが精神として再建され,これまで主観的にしか捉えられなかった思考が,客観的なものとして対象に据えられる。
 ローマ世界では,悪しき現在から精神へと引きこもり,現在の内にないものを精神の内に求める必要性が昂じてくる。神も法も共同体もない世界が精神を内面へと追い込み,ローマではあらゆる秘儀が横行する。しかし,キリスト教の内に精神の真実の解放が現れ,精神は自己自身および自己の本質へと至る。全ての宗教がひとつの宗教に切り詰められ,全てのものの考え方がひとつの考え方に吸収される。その考え方とは,自己意識――現実の人間――が絶対の実在だという考え方である。絶対的な実在とは何かがいまや啓示される。それはひとりの人間(イエス・キリスト)ではあるが,いまだ人間一般ないし自己意識一般ではない。
 自己意識の内面的無限性が精神一般の形式であり,精神は内面的に自己を明確にしていく思考としてのみ意義あるものである。純粋な同一性を保持する意識は,自分を知り,内部に様々な要素を区別し,区別された諸側面を明確にし,しかも完全な統一を保つ。具体的なものとはそういうものである。絶対的なものが自己意識の姿をもつものと知られ,その具体的内容があらゆる形で展開されると,そこに現実の自己意識が現れる。哲学の次元ではなく宗教の次元で,ひとりの人間(イエス)が神だと知られるのである。
 自己意識が絶対的実在であり,絶対的実在が自己意識であるというこの知が,いまや世界精神である。しかし,世界精神はこの知であるとしても,その知を直観しているだけで,自覚しているわけではない(思想として捉えているわけではない)。自己意識はひとりの人間(イエス)という生身の存在でしかなく,特定の時代に特定の場所に住んだひとりの人間が絶対的精神なのであって,自己意識の概念が絶対精神となっているわけではない。
 絶対的実在が概念的思考によって捉えられ,精神として表現される一方,生身の自己意識として存在する,という矛盾が,まさに哲学の主題をなす。しかし,精神としての実在が概念的に認識されないかぎりで,その知は哲学の知ではなく,直観を事とする宗教の知である。キリスト教においては,絶対的な実在(神)がイメージはされるが概念的に捉えられることはない。哲学の仕事は,キリスト教の理念を概念化すること以外にはないのである。
 絶対的な精神(神)とは,永遠に自分自身と同一の実在,多へと変化しつつ,この他を自分自身だと認識する実在であり,他から絶えず自己へと返ってきながら,消えゆく対象をそこに踏みとどまらせ,それに自己意識としての意味を持たせるような不動の存在である。永遠の実在(父なる神)が他としての世界を創造し,他と永遠の実在との同一性が聖霊において明らかにされる。世界は絶対的な実在の現われのうちに自分の本来の姿を認識し,こうして世界は実在へと返っていき,精神は普遍的な精神となる。神が主体としてこうしたことを行うのではなく,神そのものがこの運動であり,この運動こそ神に固有の永遠の必然性である――純粋な思考にもとづくこのような理念が,哲学的なユダヤ人,もっといえばプラトン主義のユダヤ人の発言に見出される。こうした考えは,東洋風の自由な普遍思考と西洋風の限定思考がぶつかって生れた思想である。それが哲学として形成されたのは主にアレクサンドリアの地であるが,そこにはピュタゴラスやプラトンやアリストテレスらの哲学思想も流れ込んでいる。
 自己意識が自分に返っていくという運動はストア派の特徴でもあったが,ストア派は理性(ロゴス)や知性(ヌース)を世界全体の実体とする汎神論であった。汎神論は精神(聖霊)の哲学とは区別されねばならない。汎神論においては,普遍的な実体である神が有限な対象に転化すると有限の次元におりてしまう。普遍的な神が自分を特殊化して世界を創造するとき,特殊なものとして現れる神は有限な神であって,そこから再び自己に返ることはできない。
 ここで必要とされるのは,内面化した精神たる知が,自らを客観化して対象性を獲得すること,つまり,精神がみずから放棄した世界と和解すること――対象世界が精神と区別されつつ精神に即応する世界となることである。これまでの思考の客観化は,単に具体的で有限なものへと出ていくことにすぎず,絶対的な存在に即応するような客観世界は生じていなかった。世界の喪失の後に新たな世界を生み出すこと,外面的であると同時に内面的でもあるような宥和の世界を生み出すこと――それが一般的な課題であり,ここに聖霊の世界が始まる。
 この時期にプラトン哲学が再登場するが,アリストテレスの哲学と一体となったプラトン哲学である。この新プラトン的なアレクサンドリアの哲学の根本理念は,自分自身を思考する思考,自分自身を対象とする知性である。第一に思考があり,第二に思考されるものがあり,第三に両者の同一性(思考と対象の統一)がある。こうした具体的な理念が再登場し,キリスト教の形成過程でも思考が三位一体の構造をもつものとして登場し,その理念が絶対的な実在をなす。
 意識が神(絶対的実在が同時に対象となったもの)を信じるようになることで,人間とその対象たる絶対的真理との関係が生じてくる。独断主義やスケプシス主義の目的であった自由や至福や不動心が,絶対的真理への関心を媒介として達成される。つまり,客観から逃避することによってではなく,客観への関心を不可欠の条件として,客観を通して,主観の自由と至福が達成されるのである。
 神は具体的な内容をもち,外に開かれており,様々な内容を内部に生み出すものである。神が内部に区別を設けることが,絶対的存在と人間や世界がつながる接点となる。世界の限定された特殊な内容は,一面からすれば,神の内部にある内容ないし理念であり,神の生み出したものであって,以後,有限なものとして現れるものは,神の内部にあるもの,神の内部の世界,神の世界である。
 ローマ世界は苦痛に満ちており,自然の有限な世界の様々な形態に対する不信と,共同の世界を成り立たせる国家生活への不信がつのっていた。人間は現実を神の真理から切り離し,神を精神のうちに認識する。自然物や国家のうちには神の存在する余地はなく,神の場は神自身の内部に叡智界として存在することが認識されてくるのである。人間と世界との統一が破壊されることによって,統一はさらに高次元で,神のうちなる叡智界として再建される。ここでは神の自己開示が関心の中心点となる。

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2016年04月10日

2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』新プラトン派要約@
(3)ヘーゲル『哲学史』新プラトン派要約A
(4)ヘーゲル『哲学史』新プラトン派要約B
(5)ヘーゲル『哲学史』新プラトン派要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:ヘーゲルの基本的な概念をどう理解するか?
(8)論点2:新プラトン派の哲学とはどういうものか?
(9)論点3:ギリシャ哲学の第三期とはどういうものか?
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は,昨年および今年の2年間を費やして,ヘーゲル『哲学史』の学びに取り組んでいます。3年前のヘーゲル『歴史哲学』,一昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて,この『哲学史』を通読することにより,ヘーゲルが描く哲学史の流れを理解することはもちろんのこと,それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた一歩を確実に進めていくことを課題としています。

 3月例会では,ヘーゲルのいわゆるギリシャ哲学の第3期にあたる新プラトン派について論じられている部分を扱いました。今回の例会報告では,まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと,扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し,ついで,参加者から提起された論点について,どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に,この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず,報告担当者から提示されたレジュメ,およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

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ヘーゲル『哲学史』(下巻の一) 第三期―新プラトン学派

1.新プラトン学派の概要

 ヘーゲルは第二期について思考する自己意識が自己を絶対者だと自覚する段階だとし,次の段階である第三期の課題は,内部に様々な差異を捉えて,真理を叡智界として形成することだと述べている。その上で,キリスト教の意義と限界について述べている。キリスト教によって自己意識(イエスという人間)が絶対的実在だという考えが生まれたが,まだ直観している段階にすぎないということである。したがって,キリスト教の理念を概念化することが求められたと言う。これらの課題に答えたのが新プラトン学派だと位置づけられている。彼らの根本理念は第一に思考があり,第二に思考されるものがあり,第三に両者の同一性があるということであり,自己意識が自分に返っていくという運動を説いたのだとされている。

<報告者コメント>

 ギリシャ哲学第三期の課題は真理を叡智界として形成することだとされているが,この叡智界というのはヘーゲルが言うところの「影の王国」,現実の世界に対する学問の世界ということになるのだろう。
 また,ここでは『哲学史』序論で説かれていた宗教と哲学の違いが明確に出ていると言えるだろう。『哲学史』序論では,宗教と哲学はともに普遍的な対象を内容とする点で同じであるが,哲学はそれを概念的に把握するのに対して,宗教は感覚的,直観的,表象的な意識によって捉えるという違いがあるとヘーゲルは述べていた。ここでは自己意識が絶対的実在だということを直観的に把握するのが宗教であり,これを概念的に把握するのが哲学だということが説かれているが,両者の説明はぴったりと重なると言えるだろう。(そもそもヘーゲルにとって宗教と言えばキリスト教だったであろうし,キリスト教と新プラトン学派を念頭におきながら序論での説明を行っているのであろうから,説明がずれないのは当然だと言えるが)。


2.アレクサンドリア派の哲学とはどのようなものか

 自己意識と存在との統一はアレクサンドリア派によって哲学的且つ概念的な形を整えられたとされる。つまり,絶対的実在はこの意識のうちにあるという原理が確認されたということである。このアレクサンドリア派の中でもプロティノスとプロクロスにヘーゲルは多くの解説を加えている。
 プロティノスについては,全体としてのやり方は特殊概念を全くの一般概念へと常に還元するものだとされている。そしてアリストテレスと違って,対象の具体的内容を捉えることには関心がなく,具体的内容を統一し,現象の奥にある実体を引き出すことを狙いとしたのであり,永遠に一なるものへの知的直観へのいざないが彼の哲学の主調音とされる。そして,この一なるものが流出によって様々な内容を生み出す過程が,プロティノスの哲学の要点のひとつだとヘーゲルは説いている。
 一なるものが自ら内容を生み出す決心をするのは何故かという問題について,一なるものの意志によって生み出されたのではなく,一なるもののままで何かが溢れ出て,それはまっすぐに一なる善に還っていこうとするのだというプロティノスの説明を紹介している。このように円運動を説いた点は的を射たものとヘーゲルは評価しているが,神からの産出が感覚的なイメージにとどまっていて概念的に把握されていないという指摘もしている。
 プロクロスについては,新プラトン派の哲学が全体として体系的な秩序を整え,形式的に完成させた人物として肯定的に評価されている。その哲学の中身を見てみると,プロクロスは様々な弁証法を駆使して,多はそれ自体で存在せず,一切は一に還帰し,意志こそが多くの生みの親だということを証明しているということであり,その際に三位一体の定式が使われていることが注目に値するとされている。全体は3つのまとまりが互いに統一されていく過程にほかならないと考えていたプロクロスは,プロティノスよりずっと明確な進んだ考えに立っているのであって,新プラトン派のなかでも最も優れた最も完成された哲学だと評価されている。プロクロスの三位一体はまず3つの要素が一,無限(多),限界と定義され,これら3つもそれぞれに抽象的な三位一体をなすとされている。

<報告者コメント>

 プロティノスにおいては,神からの産出が感覚的なイメージに留まっていたと指摘されているが,全体は3つのまとまりが互いに統一されていく過程だと捉えたプロクロスは,そこを概念的に把握したということが言えるように思う。このように,感覚的な段階から概念的な段階へという流れがヘーゲルの哲学史において見られるように思う(自己意識が絶対的実在であるということについても,キリスト教において感覚的に捉えられていたものが,新プラトン学派によって概念的に捉えられたということになっていた)。
 このプロティノスやプロクロスがアレクサンドリアにおいて生まれ,ギリシャ哲学の完成を担ったという点は興味深い点である。ヘーゲルはアレクサンドリアについて,東西の中間地点であり,東洋民族と西洋民族の宗教と神話と歴史の全てが浸透し合った点だということを述べている。現代に目を向ければ,まさに日本こそが東西の文化の交流地として,哲学を完成させる役割を担っているのだということができるだろう。少なくともそのように自らに思い込ませて,研鑽を積んでいくことが求められるだろう。


3.ギリシャ哲学の流れはどのようなものであったか

 ヘーゲルは新プラトン派哲学によって哲学史の第一期であるギリシャ哲学は幕を閉じるとし,ここまでの流れを振り返っている。
 当初は抽象的原理が自然の形をとって現れたが,やがてそれは「一」とか「有」とかの形で現れた。これらが純粋な思考の対象ではなく,思想として自覚されたのがソクラテスの段階である。さらに,具体的で豊かな内容を与えていこうとする試みがプラトンらによってなされ,アリストテレスに至って思考の思考という最高の理念を獲得したが,世界という内容はこの理念の外にあった。多種多様な具体的内容を統一へと引き戻す試みとして独断主義が現れたが,実際に統一は実現されなかった。新プラトン派に至って,絶対的なものが具体的なものとして認識され,そこから絶えざる流出が行われるとされた。しかし,新プラトン派についても,無限の主観性という絶対の断絶からぬけ出せないこと,絶対の自由,自我,主観の無限の価値を獲得していないことが不十分な点だと指摘されている。

<報告者コメント>

 学問の構築過程という観点からギリシャ哲学の流れを見てみると,諸々の事実から一般論を構築し,その一般論でもって対象に問いかけ,苦戦しながら(曲がりなりにも)全てを説ききろうとしたのだ,ということになるだろう。タレスの時代から考えると,およそ1000年もの時間が流れていることとなる。人類はこれだけの時間をかけて一般論から対象を考えるということができるようになってきたのだということ,学者はその過程を歩もうとしているのだということを重く受け止めないといけないだろう。
 また,これまでギリシャ哲学の流れを見てきたが,ヘーゲルは必ず各期の最後にこれまでの流れをまとめている。この『哲学史』はもともとは講義であったものを文章化したものであるから,自然とそういう形態になるのかもしれないが,このように概括を行った上で次に進むというあり方は見習うべきものだと言えるだろう。

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 以上のレジュメの発表について,序論を起点に読んでいこうという姿勢や概括して次に進むことを主体的に捉えている点はいいというコメントが出ました。一方で,1に関して,「キリスト教によって自己意識(イエスという人間)が絶対的実在だという考えが生まれた」とあるが,この表現では「自己意識=イエスという人間」ということになりおかしいという指摘がありました。また,新プラトン派はキリスト教のことを説こうとしたのではないのではないかという疑問も出ました。これについては,レジュメ報告者から,「キリスト教の理念を概念化しようとしたわけではないが,客観的に見ればそうなっているということだ」との説明がありました。2の部分については,「自己意識が絶対的実在であるということについても,キリスト教において感覚的に捉えられていたものが,新プラトン学派によって概念的に捉えられたということになっていた」とあるが,これは今後の哲学の課題であって,新プラトン学派によって解決されたというのは言い過ぎではないかという見解も出ました。これには,レジュメ報告者も同意しました。
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2016年04月09日

新大学生に与える(5/5)


(5)集団力を用いて社会的に学んでいこう

 本稿は,新大学生に向けて,大学で学問に取り組んでいくには,具体的にどのようにすればいいのかを説いてきました。特に最初の3ヵ月間が重要であるという指摘にしたがって,大学に入学したばかりの頃に何をすればいいのかということにも触れながら説いてきました。ここで,これまでの流れをふり返っておきたいと思います。

 初めに,同志を見つけることをお勧めしました。「学生の間に熱心に学問に取り組むんだ!」「学問を修めて高度な専門性を身につけるんだ!」という大志を抱き,情熱を持っている仲間を見つけることが大切だと説きました。なぜ大切かには二重構造があって,一つは,学問の研鑽を継続していくためには,自分の怠け心を排除して,情熱を燃やし続けなければなりませんが,そのためには,お互いの情熱を燃やし合い,刺激し,叱咤激励し合えるような同志がどうしても必要だからでした。筆者の経験からいっても,大学時代に同志を見つけることができたからこそ,勉強会を今でも継続して行えていますし,難解な本でもなんとか読み進めていけているといえるのでした。同志を見つけるのが大切なもう一つの理由は,学問を構築していくためには,あるいは学問的な実力を高めていくためには,絶対に討論相手が必要だからでした。学問は古代ギリシアの時代に誕生しましたが,その誕生のプロセスで,具体的にはソクラテスからプラトンの時代に,活発な討論が延々と続けられたのでした。このような討論によって,相手の認識を受け取って,自分の認識が相互浸透的に発展していくのみならず,相手に分かるように説明しようと試みる中で,論理能力も高まっていくのでした。このような人類の歴史が辿った道を,個人としても辿り返さなければ,学問的な実力は身につかないのであり,そのためにも,志を同じくする討論相手が必要なのでした。したがって,大学に入った直後から,サークルを巡ったり,インターネットを使ったりして,同志を探すために時間を費やすことをお勧めしたのでした。

 次に,一般教養の重要性,何事も全体の把握から部分の把握へと進んでいくことの大切さを説きました。そもそも一般教養とは,世界の論理的な全体像を生き生きと描くことを目指すものですし,学問の全体像をアバウトではあっても描くことにその目的があります。このように,学問の全体像を描いてから,自分の専門領域に突入していくことが学びの王道なのだと説きました。なぜ全体から部分へと学びを進めて行かなければならないのかについて,「群盲象を評す」という故事を挙げて説明しました。すなわち,部分だけから全体を判断すれば,間違った結論になってしまうし,全体から切り離した部分だけを研究しても,正しく解明できない,ということのたとえなのでした。したがって,どのような対象を研究する場合でも,まずは全体をおさえる必要があるのであり,それこそが一般教養教育であるということでした。また,歴史的な事実として,18世紀に大学で一般教養教育を取り入れたドイツは,19世紀後半には医学や自然科学の分野で華々しい発展を遂げたということを紹介して,一般教養の大切さを別の角度からも理解していただいたのでした。最後に,一般教養を学ぶための名著を紹介しました。それは河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)という書でした。この書を大学入学後ただちに読んで,さらに中学校の教科書で学問の全体像を描けるように勉強していくことをお勧めしました。

 最後に,弁証法を学ぶことの大切さを説きました。弁証法とは,世界全体(自然・社会・精神)の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学のことでした。自然・社会・精神と分けることができる世界には,それらを貫く法則性が存在しているのであり,それを認識の中に掬い上げたものが弁証法の法則なのでした。一例として,「対立物の相互浸透」という弁証法の法則をとりあげました。これはごく簡単に説明すると,対立する二つのものは,互いに相手の性質を受け取りながら,相手的になることによって発展していく,というものでした。地球と生命体が相互浸透して発展したこと,日本と中国が,あるいは日本と西洋が相互浸透して,日本の社会は発展してきたこと,夫と妻が相互浸透して発展していくこと,などから明らかなように,この法則性は自然にも,社会にも,精神にも貫かれているのでした。では,このような弁証法を,なぜ学問に取り組む大学生が学ぶ必要があるのでしょうか。それは,世界が連関しており(つながりあっており),運動・発展しているからにほかなりませんでした。世界はつながりあって,運動・発展しているという弁証法性をもっているのであるから,この世界の仕組みをしっかりと学べば,この世界で起きてくる問題もうまく解決していくことができるのだと説きました。このような弁証法が分かる柔軟な頭は,大学に入学したころでないと保てないものであるし,非弁証法的な受験勉強的な方法から脱して,しっかりと弁証法を勉強していくためには,大学入学の時期が最適だということも説きました。そして具体的な教科書として,三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)も紹介しました。

 以上のように,本稿では3つに分けて,大学でいかに学問に取り組んでいくべきかということを説いてきたのです。しかしこれら3つは,決してバラバラのものではありません。3つがそれぞれ関連し合っているのであり,これらを三位一体として取り組んでいかなければ,学問的な実力を向上させることはできないのです。

 少し説明します。

 まず,一般教養と弁証法は,密接に関連しています。一般教養の学びは弁証法の学びになっていきますし,弁証法の学びは,一般教養を学びながらでないと不可能になります。どういうことかといいますと,一般教養の学びとは,世界の論理的な全体像を描くことでした。そしてその世界というのは,つながりあっており,運動・発展しているものでした。したがって,世界の全体像を描くためには,その歴史をも射程に入れる必要が出てくるのです。すなわち,過程も含めて全体であるということになるのですから,一般教養を学んでいくと,必ずプロセスをも問題にしなければならなくなり,弁証法の学びにつながっていくのです。

 また弁証法とは,世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学ですので,これを学ぶ際には世界全体を学ぶ必要があります。すなわち,一般教養を学ぶ必要があるのです。もう少しいうと,一般教養で学ぶものを素材として,弁証法を学んでいかなければならないのです。たとえば,中学校の理科の教科書で,自然全体を学んでいきます。これは一般教養の学びといっていいでしょう。しかし,その自然はどのような過程を経て現在の自然になってきたのか,各部分がどのようにつながりあっており,どのような弁証法性を有しているのか,という観点で学ぶと,それは弁証法の学びになるのです。このように,弁証法の勉強をしようとすると,必然的に世界全体を幅広く学ばなければならなくなるわけです。

 さらに,このような一般教養の学び=弁証法の学びは,集団的にしか学べません。すなわち,同志との認識の交流なしには,学ぶことができないのです。これは連載第2回で説いたように,継続的に研鑽をしていくためには情熱を燃やし合う相手が必要だからですし,学問的な実力をつけていくためには,人類の歴史が辿ったように討論の過程を個人も辿り返さなければならないからです。もう少しいうと,自分一人の認識には限界があるので,他者との認識の交通関係を結ぶことによって,その限界を突破していくのです。

 われわれの実際でいうと,たとえば,あるメンバーが一般教養として優れた書物を読んだ場合,それを勉強会の機会に報告したり,メールで内容の要約を送ったりして,他のメンバーに伝えます。そうすると,他のメンバーは,自分だけではその存在に気付かなかったような書物を知ることができますし,概略については読んだメンバーから聞くことができます。こうして,一人の学びがほかの同志の学びにもなっていき,相互浸透的に認識が発展していくわけです。また,専門が違うメンバー同士が,自分の専門分野について一般教養的に,あるいは弁証法の観点から,他のメンバーに説明するということも非常に勉強になります。説明を聞いたメンバーは,疑問を提示したり反論を試みたりして,論理的に筋の通っていないところをあぶりだします。それに対して,再度説明を試みることによって,より筋の通った論の展開となり,双方の論理的な実力の向上に資する討論となるのです。このような形で集団的・社会的にしか,一般教養や弁証法は学べないといっても過言ではないでしょう。集団の力はこのように非常に強力であり,一人だけで勉強する場合とは比べ物にならないくらいの実力の向上が見込めるのです。

 以上,要するに,同志を見つけて共に学ぶことと,一般教養を学ぶことと,弁証法を学ぶことを三位一体として,大学入学後早々に取り組んでいってほしいということです。そうしてこそ,大学生に課せられた社会的な使命(学問の修得)が果たせるといえるのです。

 しかし,そうはいっても,なかなか同志を見つけることが難しいかもしれません。そういう方は,是非とも,この京都弁証法認識論研究会で,共に学んでいきませんか。われわれは,情熱をもって学問に取り組もうとする大学生に対して,いつでも門戸を開いています。われわれの研究会は,基本的には月に一度,最近はスカイプを使って例会(研究会)を行っています。また,年に3回ほどは,師も招いて直接顔を合わせて討論する集中例会も行っています。その他にも,本ブログ掲載用の論考を交流し合ったり,それぞれの学習の進展や新しい発見などをメールで交流したりもしています。そして,ブログのタイトルにもあるように,弁証法(と認識論)を学問の基盤として,しっかりと学び続けています。

 その成果は,これまで本ブログに掲載してきた数々の論文として結実しています。これまで,本ブログには約280本の論文を掲載してきました。ブログの下の部分に,そのタイトル一覧があり,クリックすればその論文に飛べるようにリンクが張ってあります。まずは自分の関心の持てそうなものから,ぜひとも読んでみてください。特に,「改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」」や「新大学生への訴え」は,以前に皆さんのように新しく大学に入学された学生を対象に説いたものですので,ぜひとも読んでいただきたいです。

 われわれの研究会のように,集団的・社会的に弁証法の学習ができる組織は,世界中を見渡しても数えるほどしか存在しないものと自負しています。もしもわれわれと一緒に学びたいという同志がおられれば,ぜひとも連絡をください。ブログの右側にある「メッセージを送る」をクリックすれば,われわれにメッセージを送ることができます。

 情熱にあふれ,大志を抱いている若者の参加を期待しています。

(了)
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2016年04月08日

新大学生に与える(4/5)

(4)問題解決の武器である弁証法を学ぼう

 前回は,大学生が学問に取り組む際には,はじめに一般教養を学ぶことがいかに大切であるかを説きました。そもそも一般教養とは,学問の論理的な全体像をアバウトであっても描くことを目指すものであり,このように全体を学んだ後に部分たる専門領域を学んでいかなければ,部分の理解が誤ってしまうということを,「群盲象を評す」という故事を紹介して説明しました。また,科学の歴史上も,18世紀,大学で一般教養教育がなされるようになったおかげで,ドイツは19世紀後半に飛躍的な科学的発展を成し遂げることができたのだということも説きました。このような一般教養を学ぶためには,大学の教育には期待できないので,河合栄治郎『学生に与う』をしっかりと入学後3ヵ月以内に学ぶことが大切であるとしておきました。

 さて今回は,学問にとって一般教養と同じくらい大切な,弁証法の学びについて説いていきます。

 みなさんは,「弁証法」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。高校で倫理や世界史を学ばれた方は,ヘーゲルという哲学者が「弁証法」を説いたと教わったかもしれません。しかし,高校で習った方も,弁証法とはどういう学説なのか,よく分からなかったのが正直なところでしょうし,現在,世間的に説かれている弁証法は,多くの誤解に満ちていると思われますので,今回は弁証法とはどのようなものか,それが学問に取り組む際にいかに大切であるのか,という点を説きたいと思います。

 まず弁証法とはそもそもどのようなものなのでしょうか。弁証法とは,自然・社会・精神を貫く普遍的な法則性が正しくとらえられ体系づけられた,世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則を説く科学のことです。少し説明します。

 まず,弁証法と呼ばれる科学が成立する前提として,「自然・社会・精神を貫く普遍的な法則性」が存在するのだ,ということが挙げられます。前回少し説いたように,世界は大きく分けると,自然と社会と精神とに分かれます。これらに共通に貫かれている法則性が存在するのです。それも,「一般的な連関・運動・発展」に関する法則性が存在しているのです。

 具体的に説明したいと思います。たとえば,弁証法には「対立物の相互浸透」という法則があります。これは,ごく簡単にいうと,対立する二つのものは,互いに相手の性質を受けとりながら,相手的になることによって発展していく,というものです。この法則性は,自然にも社会にも精神にも貫かれているのです。

 自然の例を挙げると,みなさんが「進化論」として知っているような生物の進化も,この法則性に則してなされてきたものです。この場合の対立物とは,地球と,そこから生まれた生命です。地球の変化・発展の影響を受けて生命が変化・発展していき,生命の変化・発展の影響を受けて地球が変化・発展していったのです。端的には,生命の地球化と地球の生命化のプロセスが進むことによって,生物の進化と呼ばれる現象が生じてきたのだ,といっていいでしょう。このあたりを詳しく知りたい方は,ぜひとも『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)という本をお読みください。

 社会でも,対立物の相互浸透という法則性は貫かれています。日本という社会は,近隣の中国や朝鮮の影響を受けて,いわば中国的・朝鮮的になって発展していったのは,中学の歴史の教科書にも説かれていることです。具体的には,6世紀には仏教が輸入され,中国の律令制度が導入されていきます。平城京や平安京が中国の長安を倣ったものだということは,みなさんもご存じでしょう。このように中国化することによって,日本社会は中央集権化が図られていったわけです。江戸時代には,儒教の影響力が増してきます。これも,中国的になることによって,日本社会が変化・発展していった一例といえるでしょう。さらに明治期になると,西洋の文化遺産が日本社会に浸透してきて,急速な近代化が進展していきます。このように,日本は,その対立物である他国との相互浸透によって発展してきた歴史があるといえるでしょう。

 精神というか,人間の心も,相互浸透的に発展していくものです。例えば夫婦も,相手からの影響を受け,相手的になることによって,変化・発展していきます。筆者はかなり大雑把な性格だったのですが,結婚してからは妻のまめな性格が浸透してきて,つまり,妻的になることによって,ずいぶんとまめになりました。また,妻の方も筆者的になっていった側面もあります。このようなことは夫婦間だけではなく,友人間,師弟間でもよく起ることですので,みなさんもなるほどと肯けることでしょう。

 要するに人類は,世界を対象にして様々に研究していった結果,世界全体を貫く「対立物の相互浸透」のような一般的な連関・運動・発展の法則を発見するに至ったのであり,そのような世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則を説く科学こそが,弁証法なのである,ということなのです。

 では,学問に取り組む大学生が,なぜ弁証法を学ぶ必要があるのでしょうか。それはまさに,世界が連関しており(つながりあっており),運動・発展しているからにほかなりません。自然・社会・精神を貫く連関・運動・発展に関わる普遍的な法則性のことを「弁証法性」といいますが,ありとあらゆるものが弁証法性をもっているのです。ですから,その弁証法性をしっかりと研究して導き出された弁証法の法則を学ばないと,世界の連関(つながり)や運動・発展を正しく捉えられないのです。

 逆にいうと,しっかり弁証法を学べば,世界の一般的な連関・運動・発展については理解できたということになります。いってみれば,世界の仕組みが分かるということです。世界の仕組みが分かれば,その中で生じてくる問題も,うまく解決していくことができます。ちょうど,パソコンの仕組みを知っていれば,パソコンの問題がうまく解決できるのと同じことです。ですから,弁証法は「問題解決のための武器」といわれることがあります。弁証法を学んで,世界の一般的な連関・運動・発展について理解していれば,うまく問題の構造を理解し,それを解決することが可能となるからです。

 このように非常に優れた問題解決の武器となる弁証法ですが,修得するためには時間がかかりますし,また学び方にもポイントがあります。一番大切なことは,学び始めるのは,大学に入学した今しかない,ということです。これまでの受験勉強というのは,いってみれば弁証法の学びとは対極にある学び方でした。受験勉強というのはつながっている世界の一部分を切り離して,運動している対象をとりあえず静止しているものとして,学んでいくものです。たとえば日本史で江戸時代を学ぶ場合,とりあえず世界全体の中から日本だけを切り離して,あまりそれ以前の時代やそれ以後の時代とのつながりも意識せずに,学んでいったはずです。そうでないと,学べないということもあります。

 このような受験勉強的な,非弁証法的な学び方を転換していく必要があるのです。それには,大学に入学して新たに学問に取り組み始めた時期こそ,最もふさわしいのです。弁証法を学び,世界をつながっているものとして,運動・発展するものとして学んでいくためには,これまでの受験勉強的な方法をやめなければなりません。それには,この大学入学直後こそがベストの時期なのです。仮に受験勉強的なやり方を継続して,そのまま大学で学んでいってしまったら,一生,弁証法が理解できない頭になってしまいます。受験勉強的な方法がしっかりと定着してしまうからですし,そもそも弁証法を理解できる柔軟性が年をとると共に失われていくからです。こうなると,もはや世界の一般的な運動をしっかり認識できない頭になってしまいます。すなわち,静止した像しか描けないような頭の構造になってしまい,学問などできなくなってしまうのです。

 では,具体的にどのように弁証法を学んでいけばいいのでしょうか。これも,非常にすばらしい弁証法の基本書が存在しています。それは,三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)です。この書を,大学入学と同時に学び始め,3ヵ月間で最低でも3回は読み通してほしいところです。この書は,社会科学への入門書としても優れていますし,何より,難解とされる弁証法をここまで易しく説き切った書物は,現時点では他に存在しません。時代的に少し古くなっていますが,そういったところにはこだわらずに,著者が説きたい弁証法のエッセンスを学んでいただきたいと思います。

 本書の具体的な学び方については,本ブログの初期の論考で説いたことがあるので,参考にしてください。

弁証法の学び方の具体を説く

 弁証法がある程度身についてくると,目に見えるもの全てをプロセスとしてとらえることが可能になってきます。全ては,生成・発展・消滅する過程の一断面に過ぎないのであり,これまでの歴史があって,今それがここに存在しているのであり,それはこのままの状態が続くということはありえず,必ず変化していくものである,と捉えられるようになっていきます。たとえば,目の前に自動車があったとすると,その自動車の歴史性を感じられるようになります。その自動車の歴史性といっても,二重構造があり,一つは,実際にその自動車が何年か前にどこかの工場で作られて,諸々の過程を経て,現在ここにある,という側面です。もう一つは,そもそも自動車という存在の歴史性です。もともとは馬車として存在していたものが,蒸気機関で動く自動車を経て,現在のようなガソリン自動車が誕生してきて,そのガソリン自動車も,次々に発展してきて,現在われわれが目にするような形になってきたのだ,というような,大きな歴史性です。いわば,個体の歴史性と系統の歴史性といってもいいでしょう。

 このように,どんなものを見ても,二重の歴史性を背負った存在として,捉えることができるようになることが,弁証法の学びの当面の目標といっていいでしょう。このように歴史的な流れに着目できるようになるために,先にも紹介した『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)は非常に優れた参考書となるはずです。弁証法の基本書である『弁証法はどういう科学か』と合わせて読んでいただけると,理解が深まっていくでしょう。

 以上今回は,弁証法の学びの重要性について説きました。
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2016年04月07日

新大学生に与える(3/5)

(3)何事も全体の把握を優先しよう

 前回は,大学に入学したらまず行うべきこととして,共に学問に取り組む同志を見つけることの大切さを説きました。学問の研鑽を継続していくためには,情熱を燃やし合うために同志が必要なのでした。また,学問を構築するためには,人類の歴史が古代ギリシア時代に辿った討論過程を個体発生としてもくり返さなければならず,そのためにも,学問的な討論相手=同志がどうしても必要となるのでした。

 さて今回は,一般教養の重要性を説いていくことになります。

 一般教養というと,みなさんにはどのようなイメージがあるでしょうか。まだ大学に入学したばかりのみなさんには,あまり具体的なイメージがないかもしれません。先輩方に聞いてみると,「専門分野に入る前,主に1年生2年生の間に取らなければならない単位のことだよ。自分の専門以外の様々な領域の入門編をつまみ食いするもので,試験はそれほど難しくないから,気にしたくてもいいよ。このサイトには,パンキョウ(一般教養の俗称)の授業の難易度がランキングされているから,参考にするといいよ。」などと教えてくれるかもしれません。

 確かに,この先輩のいうことにも一理ありますし,現状の大学における一般教養教育をしっかり反映した内容となっているともいえます。どういうことかというと,一般教養とは,確かに,自分の専門領域(経済学とか教育学とか心理学とか)を本格的に学び始める前に学ぶべきものです。この意味で,先輩のいっていることは間違いではありません。しかし,本来の一般教養というのは,「専門以外の様々な領域の入門編をつまみ食いするもの」ではありません。後で詳しく説くように,本来の一般教養教育とは,「世界の論理的な全体像をイキイキと描かせる」(『医学教育概論(6)』p.74)ことにこそ,その目的があるのです。それなのに,そのような一般教養教育をなしうる教官が大学にはほとんど存在しないために,教官自身の専門のごく一部分を,易しく説いて一般教養と称しているのが現状なのです。これでは学んでも何の役にも立ちません。

 では,本来の一般教養とはどのようなものか,詳しく見ていきましょう。本来の一般教養とは,端的にいうと,学問の全体像を描くことです。学問というのは現実の世界を対象としたものですから,本来の一般教養とは,世界はこのようにできているのだ,ということをアバウトながら描けるようになることがその目的なのです。

 たとえばみなさんに質問したいのですが,世界を大きく三つの部分,三つの領域に分けるとすると,どのように分けられると思いますか? 実は,自然,社会,精神という三つに分けることができるのです。そして,それぞれを対象にした学問として,自然科学,社会科学,精神科学というものが成立しています。ですから,一般教養の学びとは,大きくいえば,自然とはどのようなものであり,それを対象とした学問にはどのようなものがあって,どのようなことが解明されているのか,社会とはどのようなものであり,それを対象とした学問にはどのようなものがあって,どのようなことが解明されているのか,精神とはどのようなものであり,それを対象とした学問にはどのようなものがあって,どのようなことが解明されているのか,ということを,ある程度頭の中で全体像として描けるようになることを目指すものなのです。

 大学に入学してから,はじめの2年間くらいは,あまり細かな専門分野の勉強はしないほうがいいでしょう。それよりも,世界とはどのようなものか,学問の全体像とはどのようなものかということをしっかりと描けるような学習をするべきです。つまり,全体から部分へと学習を進めて行くことこそが,学問の王道なのです。

 なぜ,全体から部分へと学習を進めることが学問の王道なのでしょうか。分かりやすい喩え話として,「群盲象を評す」という故事を紹介してみましょう。これは数人の盲人が象を触って,象とはどのようなものかを評価しあったという故事です。足を触ったものは象とは柱のようなものだといい,尾に触れたものは象とはほうきのようなものだといい,お腹を触ったものは象とは太鼓のようなものだといった,というエピソードです。この故事からいえることは,部分だけから全体を判断すると誤ってしまう,ということです。さらにいうと,たとえば象の尾を研究するにしても,尾だけを切り離してほうきとして研究してしまうと,正しい解明には至りません。まずは象の全体を押さえた上で,その部分として尾を研究していく必要があるのです。

 どのような専門領域でも同じようなことがいえます。たとえば経済を研究するにしても,いきなり経済の研究を始めてしまっては,象の尾をほうきだといってしまうのと同様な間違いを犯してしまいかねません。そうではなくて,まずは世界全体をアバウトではあっても学んでから,その部分たる経済の研究へと進んでいく必要があるのです。そうしてこそ,しっかりと経済を経済として正しく解明できるわけです。これが全体から部分へと学びを進めて行くことが学問の王道であるといったゆえんなのです。

 もう一つ,一般教養の学びが学問にとっていかに大切であるかということを,歴史的事実を通して理解していただきたいと思います。『医学教育概論(6)』(現代社)には,非常に興味深いことが説かれていますので,紹介します。近代的な一般教養教育が誕生したのは,18世紀ドイツにおいてであるとした後,次のように説かれています。

「ドイツと言えば,19世紀後半に,医学および自然科学の分野で,科学革命の舞台として華々しい発展を遂げ,ノーベル賞を独占していたことは広く知られています。しかし,そのわずか数十年前には,ドイツはヨーロッパの後進国でしかなかったのです。多数の領邦に分裂したまま中央集権化が遅れ,政治・経済的にも,文化的にも,イギリスやフランスの後塵を拝するほかなかったドイツに,何ゆえにそのような華々しい発展がもたらされたのでしょうか。これは大学教育史上,最大の関心事の一つなのですが,実はそれを支えたのは,一般教養の教育であったことはあまり知られていません。」(pp.71-72)


 すなわち,ヨーロッパの後進国であったドイツが,19世紀後半に科学上の大いなる発展を遂げることができたのは,18世紀にはじまった大学での一般教養教育のおかげであった,ということです。

 その一般教養教育とは,「哲学を中心として当時の最先端の自然科学,社会科学,人文科学全体を包含したもの」であり,「全学的な教育」(p.73)であったと説かれています。その上で,次のようにまとめられています。

「19世紀ドイツが,フランスやイギリスで発展しそして行き詰った,経験や観察に重きを置く教育や,研究の限界を破り,最先端の知見及び技術をも用いて,人類にとっての未知の分野に踏み込んでいくことができたのは,まさに学芸学部(哲学部)における,学問としての哲学を中心とした,個別科学の全体を包含した教育があったからなのです。すなわち,まずは歴史性を持った文化遺産を全体として継承する教育課程があったからこそ,現在の限界と将来に向けて進むべき道を見通し,自分の専門分野の発展の方向性を把握することができ,そうして初めて,当時の諸分野の最先端の知見を,自分の専門分野に応用することができたのです。」(p.73)


 ここでは,経験や観察に重きを置くフランスやイギリスでの教育・研究の限界を突破して,未知の分野に踏み込んでいくことができたのは,ドイツの大学における哲学部で,学問的文化遺産の全体を学ばせる一般教養教育がなされたからこそである,ということが説かれています。

 このように,学問的な発展を成し遂げるためには,どうしても学問の全体像を学んだうえで,専門の領域に突入していくことが必要なのです。19世紀ドイツの科学上の発展が一般教養の大切さの証明といっていいでしょう。

 今回の最後に,では,一般教養を学んでいくためには具体的にどうすればいいのかを説いておきます。はじめに触れたように,現在の大学では一般教養とは名ばかりであり,教官の専門を易しくつまみ食い的に学ばされるのが現状です。ですから,大学での教育には残念ながら期待できません。しかし,嘆く必要はありません。非常に優れた書物が存在するからです。

 それは,河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)です。これは読むだけでやる気が湧き,一般教養の学び方も分かるという,非常に優れた名著です。以下に目次を示しておきます。

「序
第一部 価値あるもの
一 はしがき  二 社会における学生の地位  三 教育  四 学校  五 教養(一)  六 教養(二)  七 学問  八 哲学  九 科学  十 歴史  十一 芸術  十二 道徳  十三 宗教

第二部 私たちの生き方
十四 読むこと  十五 考えること,書くこと,語ること  十六 講義・試験  十七 日常生活  十八 修養  十九 親子愛  二〇 師弟愛  二一 友情  二二 恋愛  二三 学園  二四 同胞愛  二五 社会  二六 職業  二七 卒業」


 この書物を,大学入学後,できるだけ早めに読了してください。これを読むと読まないのとでは,大学生活が大きく変わってくることになります。学問の全体像が描けますし,どのように勉強していけばいいのか,どのように生活を送っていけばいいのかが,しっかりと理解できるはずです。

 その上で,一般教養のための勉強としては,中学校の教科書(特に理科と社会)を,自然科学と社会科学の全体像を描く目的で,復習することです。大学生にもなって中学校の教科書なんか読んでいられないなどと軽蔑せずに,読み返してみることをお勧めします。また,最近われわれが取り組んでいるNHK高校講座というラジオ・テレビ番組も,ネット上で視聴できますが,これも中学レベルの易しい内容ですので,お勧めです。自分の専門分野については,一人の著者ができるだけ幅広く説いている新書レベルの入門書を何冊か読んでおけばいいでしょう。専門領域も全体から学び始めるというわけです。

 このようにして学問の全体像を描くことが大学1年生2年生の大きな目標となりますので,入学後3ヵ月以内には『学生に与う』を何度かくり返して読んでほしいものです。
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2016年04月06日

新大学生に与える(2/5)

(2)まずは同志を見つけよう

 本稿は,大学に入学したばかりの新大学生を対象に,大学生活で,特に最初の3ヵ月の間に,どのようなことをしていけばいいのか,学問に取り組むためには具体的にどのような勉強をしていくべきなのか,ということを説いていく論考です。前回も説いたように,大学生はすべからく学問に取り組むべきであり,そうであってこそ,大学生としての社会的使命を果たせるというものです。しっかりとした専門性を身につけられるように,本稿に学んであるべき学生生活をしっかりとイメージしてほしいと願っています。

 さて今回は,学生生活で最も大切なことの一つを説きたいと思います。それはズバリ,同志を見つけることです。これはどういうことでしょうか。また,どうしてこれが大切なことなのでしょうか。今回は,これらの点について,筆者自身の体験も踏まえて説いていきます。

 まず同志とは,読んで字のごとく,「志を同じくする者」のことです。大学生にとっての志とは本来,学問を修めることであり,高度の専門性を身につけることであるといっていいでしょう。ですから,大学生が「同志を見つける」ということは,すなわち,自らと同じく,「学生の間に熱心に学問に取り組むんだ!」「学問を修めて高度な専門性を身につけるんだ!」という大志を抱き,情熱を持っている人間を見つけるということを意味します。そして,一緒に学問に取り組んでいくわけです。

 なぜこのような同志を見つけることが大切なのでしょうか。それは,このように同志とともに集団的に取り組んでいかないと,学問を修めることが難しいからです。これには二重構造があります。少し説明します。

 一つは,学問というのは学生時代の4年間だけではなく,卒業後も延々と研鑽し続けて,初めて修めることが可能なものです。ずっと大志を抱き続け,情熱を燃やし続け,そして研鑽し続けていかなくてはなりません。そのためには,お互いに叱咤激励し合えるような同志がどうしても必要となってくるのです。これを,筆者の体験を元に説いていましょう。

 大学4年間に限っても,勉強し続けていくことはなかなか大変でした。たとえば,学問に必須とされる難解な書物も読んでいかなければなりません。これを一人で読み進めていくことができるでしょうか。それはなかなか難しいことです。そこでわれわれは,何人かの同志が集まって読書会という形式で,週に1回,特定の時間を設定してその時間に集まり,指定された範囲のテキストについて議論することにしました。こうすれば,毎週読んでいかないと他のメンバーに迷惑になりますし,負けてたまるかという気持ちも湧いてきて,自然と熱心にテキストの範囲を読み込むことにもなります。こうして,一人では読み進めることすら難しい書物であっても,集団的に読み進めていけば,単に順調に読了できるというだけではなくて,より深い理解に達することも可能なのです。

 大学を卒業して就職してからは,さらに勉強の継続が難しくなってきます。学生時代のようにありまる時間を自由に使えるなどということはなく,仕事が終わって家庭の用事を済ませてから,あるいはちょっとした隙間時間を見つけて,あるいは朝早起きして仕事に行くまでの時間で,勉強することになります。この場合,もし同志がいなくて一人で勉強しなければならないとすれば,ついつい楽な方向へ流れてしまうものです。「今日くらいはいいか」とか言い訳をして,サボってしまうことになりかねません。ところが,現在のわれわれのように,学生時代に見つけた同志で継続的に勉強会を実施していると,そういうわけにはいきません。勉強会のテキストの範囲は何としても読まなければなりませんし,他のメンバーががんばっているのに自分だけサボるわけにもいきません。こうして直接間接に叱咤激励しあうことによって,大志を育て合い,情熱を燃やし続けることができるのです。そうしてこそ,学問を修められる可能性が出てくるというものです。

 大学を卒業して就職してから,学問を志す同志を見つけるというのは,かなり難しい話です。したがって,学問こそが本業である学生の間に,それも入学後できるだけ早い段階で,学問を志す同志を見つけることは大切になってくるのです。

 もちろん,自分自身の大志を育てていくことを,仲間任せすることはできません。自分自身も,自分の大きな志を育てるための努力が必要です。そのためには,まず,大志を抱き,情熱を燃やし続けて大きな仕事を成し遂げた,歴史上の人物の伝記や,そのような人物を主人公とした歴史小説などを読んだり,映画を見たりすることです。あるいは,以前NHKで放送していた「プロジェクトX」のような番組を見るのもいいでしょう。これは,戦後日本でさまざまな課題に挑戦して,成功を収めた無名の人物を取り上げたドキュメンタリー番組でした。大学の図書館にそのDVD等があるでしょうから,一度見てください。あるいは,もっと直接的に,学問上の偉大な人物の伝記を読むことも大切です。哲学でいうと,アリストテレス,カント,ヘーゲルの生涯とその仕事は押さえておきたいですし,それぞれの専門分野でも,絶対に押さえておかなければならない偉大な先達というものはいるはずですから,まずは彼らの生涯を描いた伝記を読むといいでしょう。そうすれば,「自分もこのような人間になりたい!」とか,「彼らと同じような大きな仕事がしたい!」というような大志が育っていくでしょう。このような憧れの人物を見つけていき,同志と交流していけば,お互いの大志を育て合うことができるでしょうし,情熱を燃やし合うことにもつながっていくでしょう。

 同志を見つけることが大切なのは,このように大志を育て合い,情熱を燃やし合えるという利点があるからだけではありません。もう一つの構造として,学問の構築には討論が必須であるということも指摘できます。これはどういうことでしょうか。

 学問は古代ギリシアの時代に誕生しましたが,その誕生のプロセスで必須だったのが,討論過程を持つことだったのです。その過程は,ソクラテスに始まり,プラトンの時代になっても,延々と続けられていきました。この過程の中で,自分の言いたいことをしっかりと言葉にして表現し,相手に分からせようとする,そして,相手の言ったこと(表現)から,相手がどのようなことを伝えたいのかを必死で読み取る,というようなことがくり返されていきます。このような討論過程をくり返していくことによって,自分の認識の限界を突破して,相手の認識をしっかり受け取って相互浸透的に認識を発展させていくことが可能となると同時に,共通する像を括っていく能力,つまり論理能力が育っていくことになります。すなわち,討論によってこそ,学問化可能な頭脳が創出されていったのでした。

 このようなことは何も,歴史的な,人類の系統発生といえるような発展過程においてのみいえることではありません。そうではなく,われわれが個人として認識を発展させていく時にも,必ず通らなければならない道なのです。自分が相手に対して,分かりやすいように何らかの論を展開する,それに対して相手が疑問・反問をぶつけてくる,その相手の疑問・反問の意味をしっかりと理解して,さらに分かるように説いていく,というような討論過程によって,論理がより精緻になっていきます。このような討論過程によって,自分とは異なる他者の認識をしっかりと受け取り,それを踏まえた上で,さらに自分の論を強固に展開していくことになるのです。こうしてこそ,誰もが納得できるような筋の通った論理的な展開ができる頭脳が創出されていくのであり,学問に必須の論理能力が高まっていくわけです。

 人類の歴史では,ソクラテスからプラトンあたりまでは実在する他者との討論によって,自己の論理能力を向上させていましたが,アリストテレスに至ると,その他者を内在化して,自問自答できる実力が創られていきます。こうなると,「一人きりの二人問答」ができるようになり,討論相手がいなくても,自分で自分に反論し,それに再反論するという形で,観念的に討論過程を持つことが可能となるのです。

 同じように個人の認識の発展においても,当初は現実の他者と討論する必要がありますが,徐々に自問自答できるようになる,「一人きりの二人問答」ができるようになっていきます。こうなってようやくに,学問を構築できる前提が整ったといえるでしょう。しかし,それまでには,実際に存在する他者との気の遠くなるような討論過程をくり返す必要があるのであり,そういった討論過程を持つためにも,同志が必要となってくるのです。

 筆者自身の経験でも,同志との討論によって,徐々に論理的な頭脳が創られていったという実感があります。たとえば,ある重要な著作を同志と一緒に読み進めていたとき,自分が分からなかった部分を他のメンバーがうまく理解して解説してくれるということは多々ありました。この場合,相手の認識を受け取ることによって,自分の認識が発展していくわけです。また,自分があるテーマについて小論文を書いて同志に見せたとき,論理的に飛躍しているとか,根拠が薄いなどという指摘をもらうことも多いです。その指摘を踏まえて,もう一度,しっかりと筋を通すべく,説き直していくことになります。こういった作業によって,より筋の通った論理展開となり,より論理的な頭になっていくといえるでしょう。

 以上のように,同志を見つけて一緒に学問に取り組んでいくということは,情熱を燃やし合って困難な研鑽を継続していくためにも,討論によって論理的な頭脳を創出していくためにも,絶対に必要なことであるといえるでしょう。幸いにわれわれは,大学のとあるサークル(研究会)で同志を見つけ,その時のメンバーが中心になって,今の京都弁証法認識論研究会が創られています。このようなサークル活動は,社会の縮図としての意味も持ち,未熟な認識を社会的に鍛えていくうえでも,非常に意味があったと感じています。みなさんも,そのようなサークル(研究会)を探したり,ない場合は自分で創ってみるというのも一つの手でしょう。

 いずれにせよ,大学入学後のしばらくの期間は,サークルを巡ったり,インターネットを活用したりして,同志を探すために時間を費やしてみるのがいいでしょう。
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2016年04月05日

新大学生に与える(1/5)

目次

(1)最初の3ヵ月が勝負である
(2)まずは同志を見つけよう
(3)何事も全体の把握を優先しよう
(4)問題解決の武器である弁証法を学ぼう
(5)集団力を用いて社会的に学んでいこう

−−−−−−−−−−

(1)最初の3ヵ月が勝負である

 新大学生のみなさん,大学入学,おめでとうございます!

 大半のみなさんが,つらく長い受験勉強を潜り抜け,今,そこからの解放感に浸りながら,一方では安堵するとともに,他方では新しい学生生活に夢を膨らませ,多少の不安も感じておられることかと思います。大学の講義とはどのようなものなんだろうか,大学での人間関係はどのようなものになるのだろうか,部活動やサークル活動にはどのようなものがあり,どれに入れば充実した学生生活が送れるのだろうか,アルバイトはどのようなものをしようか,近所にはどんなところがあるのだろうか,などなど,期待と不安が入り混じった,しかし基本的には明るい未来に向けての前向きな気持ちになっておられるかもしれません。

 筆者が大学に入学したのは,もう20年ほど前になります。しかし,大学時代の思い出は今も鮮明に記憶しています。おそろしく分厚いシラバスが配られ,数えきれないほどの講義や演習の中から,自分で自由に出席するものを選び,必要な単位をとっていくという経験は,高校まででは体験したことのないものであり,非常に新鮮で,わくわくするものでした。

 学内の施設にも驚きました。総合図書館は非常に大きく,もはやここに存在しない本はないのではないかというくらい,充実していました。さらに,各学部ごとの図書館も存在しており,非常に専門的な書物が収められていました。

 IT関係の施設も充実していました。当時は,ようやくインターネットが普及し始めたころです。学生一人一人に専用のメールアドレスが割り振られ,学内にいくつかあるパソコン室では,自由にインターネットが使える環境が整っていました。実は,そこで偶然閲覧していたサイトで,ある人物から三浦つとむや南郷継正先生の著作を紹介していただき,学生時代は三浦つとむ一色といっていいほどのめり込んでいったのでした。

 部やサークルの新入生歓迎イベントも印象に残っています。部やサークルは,必死になって新入生を獲得しようと,様々なイベントを企画したり,飲み会を開催したりしています。筆者が通った大学では,新入生の健康診断の時に,並んでいる新入生の列の両サイドを上級生が取り囲んで,部やサークルの紹介のチラシ,イベント開催のチラシなどを問答無用で新入生の腕の上に積み重ねていくのが恒例となっていました。健康診断が終った頃には,30センチほどの分厚さのチラシを手に抱えている状態となるのでした。その中の気に入った部やサークルのイベントに顔を出し,先輩や同級生と話しながらどの部(サークル)に入るのかを決めていくのが一般的でした。

 さて,このようなもろもろの新鮮な出来事や楽しいことが次々に押し寄せてくるのが,入学当初の新大学生の一般的なあり方でしょう。しかし,けっして忘れてほしくないのは,大学生の使命ということです。では,そもそも大学生の使命とは何でしょうか。それは,端的にいうと,学問に打ち込むことです。高校卒業くらいの年齢になると,立派に社会で働いていくことが可能であり,実際にそうやって働いている人もいます。それなのに,その労働を免除され,国や親などの支援を受けて大学に行くことができるのは,労働を免除しても有り余るほどの成果を,将来に期待されているからです。そして,そのような成果を生み出すことが可能なのは,大学生活の間に学問に打ち込み,優れた文化遺産を身につけて高度の専門性を発揮することができるようになるからです。

 大学側も,学生に真の実力をつけてもらうために,さまざまな教育改革に取り組んでいます。ちょうど一年ほど前の新聞には,以下のような記事が掲載されていました。

「東大――浜田改革,国際化へ道筋,4ターム制など推進,秋入学は見送り(大学解剖)

 東京大学の浜田純一総長が31日付で退任する。2009年に就任し「総合的教育改革」を打ち出して,秋入学の提案や4ターム(学期)制の導入などで国際化への道筋をつけた。ただ,海外の有力大学との競争激化や国内での求心力低下などに見舞われ,東大を取り巻く環境は徐々に厳しくなっている。6年間の「浜田改革」で東大はどこまで変わったのか。(1面参照)
 「森を動かす」。浜田総長は就任後,大学運営の基本姿勢についてこう表明した。これまで動かすことができなかった組織を変える。覚悟を込めたスローガンのもと,秋入学構想や学内のスケジュールを定める学事暦の変更,推薦入試などの施策を次々に打ち出した。
 改革の柱の1つは大学のグローバル化だ。英タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)の世界大学ランキングでは国際化のスコアが足を引っ張り,一時は30位まで順位を落とした。
「進振り」が阻む
 国際化を阻んできた要因の1つに「進振り(進学振り分け)」と呼ぶ東大独特の仕組みが挙げられる。3年生に進む際に学科を希望し,2年生までの成績によって選別するシステムだ。学生からは「留学した瞬間に留年が決まってしまう」(法学部3年の男子学生)と不満も漏れる。
 国際特命担当の江川雅子理事は「振り分けがあるため,1〜2年生は専攻が決まるまで留学などがしづらい事情があった。3年生は就職活動があり,海外に行きにくかった」と振り返る。
 この問題を是正するため,11年度に従来の学部ごとの交換留学に加え,全学対象の交換留学制度を立ち上げて学生の海外派遣を拡充。英語で学位が取得できるコースも増やした。江川理事は「学生の約半数が何らかの形で海外に出るようになった」と強調する。矢継ぎ早の国際化施策の効果でTHEの順位は足元では23位まで持ち直した。
 ただ,頓挫した構想もある。改革の目玉だった秋入学構想は慎重論が噴出し,当面見送りが決まった。学内の足並みがそろわない印象も残った。」(2015/03/31 日経産業新聞)


 ここで説かれている東京大学の教育改革の目玉であった秋入学構想については,テレビや新聞などで大々的に報道されましたから,みなさんもご存じかもしれません。簡単に説明すると,入学時期を欧米と同じ秋に設定することによって,留学生の受け入れ・派遣を増やし,大学のグローバル化を促進しようとするものでした。そして,高校を卒業してから秋の大学入学までの空白の期間(ギャップターム)を使って,海外留学やボランティア,企業でのインターンシップなど,多様な体験を積むことを東京大学当局は想定していました。

 この東京大学の秋入学制度,およびそれに伴うギャップタームに関して,先に感想文を認めた『医学教育概論(6)』(現代社)において,非常に重要な指摘がなされていましたので,紹介します。「人間は,確かに実体験から大きく学ぶことはできますが,そこで何を学ぶかは,その人の目的意識が規定する」(p.42)とした後に,次のように説かれています。

「だからこそ,受験勉強から脱却させるための教育を,大学が責任を持ってやらなければなりません。そして一番強調しなければならないことは,これをなし得るための時期がある,ということです。それは新入生が受験勉強から解放され,フレッシュな認識で,希望を胸に抱いて新たな環境での学びに意気揚々と入ってくる,最初の3ヵ月を除いては存在しないのです。

 ……

 ……そこに合格した誇りで輝いている,その時期にこそ,新入生に夢と志と使命を熱く熱く語って,説いてやらなければなりません。それなのに,その一番大事な半年間を,自主性に任せて放り出しておいたのでは,9月の入学式に臨む学生達のくたびれた有様が,大きく目に浮かぶのみです。」(p.43)


 ここでは,人間が何を学ぶかは,その人の目的意識が規定するものであるから,受験勉強とは違う大学生としての学びをしっかりしたものにするためには,入学後の3ヵ月の間にこそ,夢と志と使命を熱く語っていく必要がある,と説かれています。東京大学の秋入学制度に伴うギャップタームは,この非常に大切な期間を学生の自然成長性に任せる欠陥があるので,必然的に失敗する,ということでした。

 幸いというか,先の新聞記事にもあったように,秋入学構想は当面見送りが決まったようです。しかし,初期教育の重要性は変わりませんし,現在の大学がこの重要な初期教育をなし得るかどうかは,大いに疑問の残るところです。

 そこで本稿では,大学生になったばかりのみなさんに対して,大学で学問をするためにはどのようなことをしていけばいいのか,特に最初の3ヵ月をどのように過ごせばいいのか,ということを具体的に説いていきたいと思います。先に結論をいってしまうと,まずは,社会的に鍛え合えるような同志・ライバルを見つけることですし,一般教養を学ぶために河合栄治郎『学生に与う』を読み,弁証法を学ぶために三浦つとむ『弁証法はどういう科学か」を学び始めるべきだ,ということになります。詳細は次回以降の連載に説いていきますので,楽しみにしてください。
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2016年04月04日

一会員による『学城』第3号の感想(13/13)

(13)学問の創出には、「論理能力の生成発展」を論理的に理解する必要がある

 本稿は『学城』第3号の感想を認めることによって、特に全体を貫くテーマとして設定した「論理能力(の生成発展)」という観点から、この第3号の中身を主体的に自分の実力とすることを目的として、これまで第3号に掲載されている11本の論文を取り上げ、その要約を行い、学ぶべき点を明かにしてきたものである。

 ここで、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力(の生成発展)」ということの中身を、そもそも「論理能力」とはどういうものかという観点、「論理能力の生成発展」のためにはどのような学びが必要かという観点、及び「論理能力」は何のために必要かという観点の3つに分けて説く形で、これまでの展開を振り返っておきたい。

 まず、そもそも「論理能力」とはどういうものかについてである。連載第6回に取り上げたP江論文では、論理とは対象とする事物・事象のもつ性質を一般性として把握したものであると説かれていることを紹介し、「実際にあること、あったこと」である事実との対比において、論理が認識の世界での概念であるとしておいた。しかし、事実と論理は無関係であるのではなく、論理はあくまでも事実から導き出すものであり、このことが可能となる実力こそが「論理能力」であることを確認した。そして「論理能力の生成発展」のためには、対象とする事実に共通する性質を大きく括っていって、一般性を把握しようとする論理的な学びが必要であることを説いた。連載第7回で扱った本田・P江論文でも、「研究」と「学問」が対比的に捉えられていて、「研究」が事実を細かく追及するものであるのに対して、「学問」は対象とする事実から論理を導き出し、理論化し、体系化することであって、頭の働かせ方が大きく異なるのだとしておいた。連載第9回においては、小田論文を取り上げ、「過去の歴史に学ぶ」というのは、事実をそのまま辿っていくことではなくて、過去においてなされたことの意味を現象に惑わされることなくしっかりと把握し、その筋を辿り返すという「論理能力」が必要であることを説いた。

 次に、「論理能力の生成発展」のためにはどのような学びが必要となるのかという問題に関してである。連載第2回に扱った近藤論文に関しては、ヘーゲルやマルクス、さらにはクノーやレーニン、三浦つとむや滝村隆一の国家学説の歴史的=論理的な学びを行うことこそ「論理能力」を磨き上げる上で必須の作業であることを論じた。「国家とは何か」を問う国家学は、実体世界における国家体系を論じるものであるが、学問というものは、いわば観念的世界における学術国家としての体系性を把持したものであって、国家の体系性と学問の体系性との間には大きな共通性があるのであるから、国家学説を学ぶことで学問の論理性を把握することができるし、歴史の論理も学ぶことができるからである。連載第4回で取り上げた悠季論文では、ギリシャがオリエント文化を学んだ過程が説かれていた。端的には、圧倒的な文化レベルの差に規定されて、強烈な憧れと共にオリエントの文化を「丸ごと」受け入れたということが重要な点であって、個人のレベルで「論理能力」を向上させていく場合においても、個性という枠組みを持った像しか反映できないという限界を突破するためには、今の自分を棄てる覚悟で優れた文化遺産を「丸ごと」受け入れる態度が必要になってくると説いておいた。さらに、続く連載第5回で扱った悠季論文においては、ギリシャ哲学の発展過程においては、上述の優れた文化を「丸ごと」受け入れる過程が繰り返し繰り返し重層的になされていったことが説かれていた。これは「場所の移動による文化の発展」という論理を含むものであり、このことは個人としての頭脳活動の発展、「論理能力の生成発展」の過程においても重要なことであって、「場所の移動」によりまったく異なった外界の反映を行うことによって、「論理能力」を向上させることが可能となっていくのであって、これは日本弁証法論理学研究会が措定された"change of the place, change of the brain"の論理であることを説明した。連載第11回に取り上げた井上先生の小説においては、芸術の創作においても「論理能力」が必要であることに触れ、「書くことは考えることである」から、書き続けることによって「論理能力」を高めていく必要があることを説いた。

 最後に、「論理能力」は何のために磨くのかという点についてである。連載第3回に扱った加納論文では、人類の系統発生における学問発展の大本には論理能力が大きく関係していたことが述べられていた。そして、この論文において、このことが実地に証明されていたのであった。すなわち、国家論を構築する過程として、ヘーゲルから滝村氏に至る大きな流れを「論理能力」を駆使して説いておられたのであった。連載第8回に取り上げた諸星・悠季論文においても、学問形成のためとして、ヒポクラテスからアリストテレスに至る過程において、如何に「論理能力」が発展していったのかが説かれていた。すなわち、まずは事実を事実としてしっかりと捉え、その上でそれらの事実に共通する性質を論理として掬い出し、さらにこの論理を立体的に位置づけるという理論化を行い、最後に対象とする全ての事実を貫く性質を一般論レベルで把握するという流れであった。これが学問構築につながっていくのであって、端的には、連載第10回の北嶋論文に関して述べたように、学問創出の土台は「論理能力」であって、逆にいえば「論理能力」は学問構築のためにこそ身に付けるべきものだということである。そして最後に、前回、連載第12回で扱った南郷論文では、この「論理能力」を駆使して、学問的実力の一端が示されていたのであった。直接知ることのできない農業や武術の起源について、筋を通して説いていくことは、対象の運動性に特に着目できるような「論理能力」=弁証法の実力鍛えてこそ可能となるものであると説いておいた。

 以上、ここまで、『学城』第3号を貫くテーマとして設定した「論理能力(の生成発展)」に関して、これまでの展開を振り返りつつ、「論理能力」の対象論、方法論、目的論に分ける形で説いてきた。端的には、「論理能力」は事実から論理を導き出すことができる能力のことであり、国家論の歴史的=論理的な学びを前提として、多様な対象を脳細胞に反映させることで自分の認識の枠組みを突破しながら養っていくものであって、とにかく書いて書いて書き続ける(考えて考えて考え続ける)覚悟が必要である。こうした研鑽によって獲得した「論理能力」でもって初めて、学問への道が歩めるのである。以上、『学城』第3号においては、人類の歴史、人類の系統発生において創出され、高められてきた「論理能力」を身に付けるためには、個人の歴史、人類の個体発生においても同様の道を辿り返す必要があることが、全編において説かれていたと捉えることができるだろう。

 本連載の最後に当たって、1つだけ確認しておくことがある。それは『学城』第3号から学んだ「論理能力」に関する諸々の事柄も、単に知識として学んだのでは、全く学んだことにはならないのだ、ということである。単なる文字として「論理」や「論理能力」、「論理能力の生成発展」などを捉えてしまっていては、受験秀才レベルを超えることなど決してできないのである。我々が目指すものは、本物の学問の構築である以上、『学城』第3号から多くの「知識」を得たというだけの学びではダメであって、「論理」とは何かを論理的に学んだというのでなければならないのである。「論理能力の生成発展」のためにはどうすればいいのか、言葉としてではなく像として把握し、この像を豊かに発展させていきながら、本当の学びを実践し続けることで、真の学問を創出することを約束して、本連載を終了したいと思う。

(了)
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2016年04月03日

一会員による『学城』第3号の感想(12/13)

(12)対象の運動性に着目できる論理能力=弁証法の実力を養成する必要がある

 今回取り上げるのは、南郷継正先生による「学問への道」に関する講義である。ここでは、弁証法の学びの重要性、農業や武術の起源について説かれていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する(本論文にはリード文はない)。

南郷継正
東京大学学生に語る「学問への道」(1)
―平成16年、夏期東京大学合宿講義―

 〈目 次〉
第1章 真の東京大学の復権に向かって、何をいかに学ぶべきか
 第1節 弁証法と武道空手の学びの同一性について
 第2節 農学とは何か―歴史における農業のおこり
 第3節 武術の歴史上の登場について
 (以下次号)
 第4節 論理的な頭脳を創るための学びを説く
 第5節 日本のリーダーとなるために
第2章 東大生に贈る、見事な頭脳になるための弁証法
 第1節 学問一般としての哲学
 第2節 弁証法とはなにか
 第3節 人間の頭脳は創り創られてきたもの
 第4節 東大生として創り創られてきたことの欠陥
 第5節 頭脳を創りかえるためには
第3章 質問に答える
 第1節 組織について学ぶことの意義
 第2節 アリストテレスとヘーゲルを学ぶ理由
 第3節 人間体を武道空手体に創りかえるとは
 第4節 法は社会によって創られる
 第5節 社会にはそれを統括する指導者が必要である
第4章 弁証法・認識論・論理学とはなにか
 第1節 一流の人間になるためになすべきこと
 第2節 今の大学教育に欠けたるもの
 第3節 弁証法とはなにか、どう学べばよいのか
 第4節 認識論とはなにか
 第5節 論理学とはなにか

 本論文では、新世紀を迎えたからには、志を大きく掲げ、将来に向かっての実力を培っていかなければならないことが説かれた後、南郷先生の個人の歴史が簡単に説かれる。軍人になる夢、旧制高校で学ぶ夢が断たれ、腑抜け同然の高校生活を送るうち、このままでは駄目になると思い始め、その頃出会った弁証法と、これも偶然始めた空手にのめり込んでいったというのである。弁証法で空手を、空手で弁証法を学ぶことが武道哲学・武道科学への第一歩となったということである。加えて当時は、弁証法の学びのためには一般教養科目の全部を学ぶことが大切だとして、夜遅くまで図書館で勉強したと説かれている。さらに、学んだ内容を弟子に教えるという過程をも持って、これは40数年間も続いているということである。こうした研鑽の過程で、弁証法や空手の理論的究明が進んでいき、学問とは何か、学問を創るとはどういうことか、それにはどうすればいいのかを解明するところにまで行き着いたと述べられている。そして、その学問的な実力の一端となる話として、医学と医術の区別と連関が説かれ、文化の学びや構築には弁証法の研鑽が必須であると説かれるのである。さらに、医学の頂点を極めるためには、なによりもまず人間の体を知ることが必要だとされ、病気の治療には病気そのものではなく病人を診ることから始めなければならないと説かれる。また、同じ論理を駆使して、空手を指導する場合、人間体がどの程度に仕上がっているのかを見なければならないことも説かれる。さて、ここから本題として、農学とは何のためにある学問なのか、農業はどうして生れてきたのかが説かれていく。農学とは人間の生活を豊かにするための食事とは何かから、農作物を理論的に体系化していく学問であって、農業の起源には人類が本能を失い、運動能力と思考能力を創出したこと、両手両足への分肢と頭脳の実力進化に加えるに食生活の変化が労働を創出することにつながったことが深く関わることが説かれる。さらに、このサルからヒトへの進化や労働(人類が目的意識性を持って外界に働きかけること)に関わって、空手がどうやって始まったのかの謎も解かれていく。端的には、武器や武具を用いての軍団対軍団の戦闘から、個人技としての武術が生れ、さらに道具によって鍛えられた両手・両足が存在したことが、剣が使えない場所での無刀の術としての空手の発明へとなっていったということである。

 まず取り上げなければならないことは、南郷先生が農業や空手の起源について、実際にその目で見ることなど不可能であるにもかかわらず、しっかりと筋を通して説いておられることである。農業の起源に関しては、哺乳類から進化してヒトとなっていった過程を、運動能力と思考能力の創出過程を絡めながら説くことで解明しておられる。哺乳類は四足歩行であったものが、サルの段階で四足を手と足に分化させ、さらに樹上生活によって実体としての脳の実力を、認識=像が立体性を帯びることですばらしく進化させたこと、加えて多彩の食の種を摂りいれることによって、ヒトは労働を創出することが可能となったのであり、ここが農業の始まりだとされるのである。ここには、本能が失われていくこととともに、人類が無限に増え始めたことで、飢える状態が登場してきたことも背景としてあることが語られている。また、空手の始まりに関しても、生命体の歴史を辿りつつ、サルからヒトの段階に至って、両手・両足が右手・左手と右足・左足へと分化することで、脳の内実が巨大に育っていき、道具の使用も可能となる中で、武技の誕生へと至ったこと、さらには戦国時代の合戦のあり方から江戸時代における戦場のあり方の変化に触れられ、日本刀が生れ出てきたことが説かれつつ、個人としての闘いにおいては、個人のとしての認識=心が大きな問題として浮上してきて、ここから剣法が華やかに発展していったと説かれるのである。加えて、道具の使用により両手・両足が鍛えられたことと、剣が使えない、剣がない場所での闘いに対応するために、空手の技が1つまた1つと工夫され発明されていったのだと述べられるのである。

 ここには見事な「論理能力」が現れているといえる。個別具体的なことを知らなくても、「生命の歴史」の論理構造、人間とは何かの論理構造をしっかりと把握してれば、農業や空手を始め、「世界中のいかなる問題でも解くことが可能」(p.203)だということである。まさに「学問とは事実を学ぶものではなく、知識の集大成でもない」(p.205)のであって、「論理能力」を鍛え、それを駆使することによって、筋を通した展開が可能となるということのお手本が示されていると捉えるべきところである。

 もう1つ確認しておきたいことは、弁証法と「論理能力」の関係についてである。南郷先生は、世界一の医学者になるための学びについて、「世界一とされている医学の中身を勉強すること」(p.202)ではなくて、「あくまでも医学を勉強できる状態にする、つまり医学を理解できるための頭脳を創ること」(同上)こそが必要だと説かれている。ここで筆者は、これは「論理能力」のことだろうと思って読み進めるのであるが、後の展開を見てみると、それはどうも「弁証法の学び」(p.203)のことであると分かってきたのである。

 では、この「弁証法の学び」と「論理能力の生成発展」とは何の関係もないものであろうか。決してそんなことはないはずである。ここを少し検討してみたい。

 まず確認しておかなければならないことは、そもそも弁証法とは何か、論理とは何か、ということである。端的にいえば、弁証法とは、この世界の森羅万象に貫かれている運動という性質に関する学問であって、エンゲルスにいわせれば、「弁証法とは、自然・人間社会および思惟の一般的な運動=発展法則に関する科学」であるということになる。一方、論理とは何かといえば、それは対象とする事実に共通する性質を一般性として把握したものである、ということになる。つまり、対象の運動性に着目して、その一般性を把握したものが弁証法であって、これは論理の一部ということになるのであるが、この論理なる認識にも当然弁証法性が潜んでいる、ということになるのである。対象に共通する性質を一般的に把握すれば論理だといえるし、対象の運動性に着目して一般化して把握すれば、それは弁証法だということになるのである。

 このように考えてくると、この論文で説かれている「医学を理解できるための頭脳を創ること」とは、「論理能力」を鍛えることだといっても間違いではないものの、対象の運動性に特に着目できるような「論理能力」=弁証法の実力をこそ鍛える必要があるとここでは強調されているのである。そして、その弁証法を学んだ実力として、農業や空手の起源を歴史的過程において明らかにされているのである。

 「弁証法が、いわば頭脳の働きと化しているレベルで技化している私には世界中のいかなる問題でも解くことが可能なのである」(同上)とあるように、我々も「論理能力」=弁証法をしっかりとものにし、世界のあらゆる問題を解ける実力を培っていかなければならないことを改めて確認したことであった。
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2016年04月02日

一会員による『学城』第3号の感想(11/13)

(11)学問の構築には意志の強さ、素直さ、身体的強靭さが必要である

 今回取り上げるのは、井上真紀先生による小説である。前号で初めて小説が掲載されることになったが、今回も「悟りへの道を考える」ための内容が展開されている。

 以下、本小説の著者名・タイトルである。(今回はリード文はない。)

井上真紀
青頭巾―『雨月物語』より(上)
―悟りへの道を考える(2)

 本小説のあらすじは以下の通りである。

 諸国を回遊している老僧西庵は、一夜の宿を借りようと山道を下りた小さな村に立ち寄った。そこではどういうわけか、西庵のことを「山の鬼が下りてきた」と子どもたちが口々にわめくのである。村長の家に泊めてもらうことになった西庵は、雨の降る中、昔を思い出しながら眠りについた。だが、まだ周囲が闇に包まれている頃にふと目を覚まし、微かな人の気配を感じる。そこには少女と見紛うほどの美少年がいて、私のお師匠様を救ってくださいと言うなり、煙のように消えてしまったのである。翌朝、家の主にこの件を話すと、その稚児に心当たりがあるようで、次のように語り出したのである。―この村の上野山に一堂の寺があり、その住職はまだ若いながら学問を修め有徳であった。先年の秋、他国から1人の美しい少年を侍童として連れ帰ってから、高潔だった住職が一変した。この稚児を臥床でも寵愛し、住職としての勤めも怠りがちになったのである。弟子も1人、2人と寺を離れていったある日、ふとしたことから少年が病の床についてしまったのである。住職は悲しみ、つききりで看病したが、少年は亡くなってしまう。それでも住職は少年を火葬にも土葬にもせず、離れようとせず、少年の身体を愛撫していた。やがてその身体は腐敗しすさまじい臭気が寺中に満ちてきたある日、とうとう住職の心の中で何かの糸が切れたのか。住職は腐敗した少年の身体を、腹のあたりから喰い始めたのである。この様子を目撃した僧を始め、わずかに残っていた者は、その夜のうちにみな逃げ出したのであった。―このように話した主は、西庵に住職が本当に鬼と化したのか確かめてくれと頼み、西庵はこれを引き受けたのであった。昼過ぎに寺の門をくぐり、本堂に足を踏み入れた西庵に、背後から「何をしている」という鋭い声がかかる。三十過ぎの青年僧が堂々とした風采でこちらを睨んでいるのである。住職だという彼に一夜の宿を求める西庵は、初めは断られながらも、雨が降りそうな空模様に再度願い出て、「好きにするがよい」と言い捨てられる。去っていくその住職の足元には、影が、落ちていない。西庵はご本尊の前で座禅を組み目を閉じる。

 この小説に関してまず触れておきたいことは、主人公たる西庵の経歴についてである。西庵は十五、六の頃から、都のさる貴人の邸に侍として仕えていて、武芸をよくし、率直で爽やかな性格だったようである。ところが、二十三の時、不意に仕事も財も、娶わせてくれた妻も子もかなぐり捨てて出家し、都の近くの国々から始めて、東の国、陸奥の国をはじめ、諸国を回遊してきたというのである。出家した理由については、主人に対しても「言うわけにはいかなかった」(p.169)と意味深な語り口であるが、いずれにせよ、「身を風雨にさらして歩き回らずにはいられない、抑えつけていては暴れだしそうな何物かを心に抱えていた」(同上)からこそ、一所にとどまることができなかったようである。「長い旅の道中には、幾度も危うい目に遭ったことがある。が、持ち前の度胸と昔鍛えた腕で切り抜けてきた」(p.170)とあるように、六十に近いにもかかわらず、「年の割には筋骨たくましく、足腰も確かで、背筋がぴんと伸びている」ということであった。こうした経験があるからこそ、村の者たちが恐れる鬼が実在するかどうかを確かめてくる役目を引き受けたのである。

 このような西庵の生き方から、我々は何を学ぶべきであろうか。特に、学問を志す我々京都弁証法認識論研究会は何を掬い取るべきであろうか。それは、これと道を決めたからには決して脇道に逸れることなく、一途に歩んでいくという意志の強さ、しかしその反面、他人に対しても率直であり、自分を飾らない「素直」(p.168)さ、そしてこうした認識面を支える身体的な強靭さ、ということになるのではないだろうか。学問の道を歩んでいくためには、強烈な覚悟が必要であって、自分の弱さに負けないような意志が必須である。しかしそれは、自分の実力に下駄をはかせ、見栄を張るような傲慢さになってしまってはダメである。自分の実力をしっかりと見定め、自分の殻を打ち破って、自分を否定して、頭脳活動を発展させていく必要があるのである。しかも、こうした研鑽の過程は、一朝一夕になせるものでは決してなく、時には無理をしながらも、自分の限界を超える必要があり、しかもそれを全人生をかけて継続し続けていかなければならないのである。そのため、実体としての身体の実力、体力を養成しておくことも、学問構築にとっての必須の条件である。西庵の今に至るまでを含めた人生から、こうしたことを学び取らなければならないのではないだろうか。

 さて、この小説に関してはほかにも取り上げたい箇所がある。それは西庵に歌の手ほどきをした主人の言葉についてである。少し長いが引用しておく。

「空に月が輝き、地には花が舞う。それを、ただ美しい、と素朴に愛でるのも良いであろう。だがそれでは、その美しさを味わう者はおのれ一人に過ぎない。その美しさを三十一文字に閉じ込めて言い表してみよ。すれば、それを読む者ごとに、眼前にその美しき眺めが繰り広げられ、あるいは歌の力によっては、うつつの景色よりもなお美しきを読む者に味あわせることも可能であろう。そして佳き歌は千載ののちにまで残り、我らの命は尽きようとも、歌の命は永遠となる。歌とは誠に素晴らしきものではないか」(p.169)

 ここで語られていることは、一度きりの美しい体験を五七五七七という短い言葉に閉じ込めることによって、その経験を誰もが時代を超えて味わうことができるという、言語の素晴らしさである。しかしこれは、誰もが簡単に優れた歌を創作できるということではない。自然的対象のうちに「美」を捉え、その像を巧みに文字化する実力が必要なのである。つまり、芸術である歌の世界においても、対象の性質を一般性として(ただしこの場合は「美」という特殊な一般性であるが)把握する実力、すなわち「論理能力」が必要となってくるのであって、それを言語として言い表すという点でも「論理能力」を要するものなのである。芸術を創造する際にも、それを言葉の芸術として創作するのであれば、一見芸術とは対照的なものだと考えられがちな科学的な「論理能力」が必須となるのであって、これは言語と「論理能力」との関係を象徴的に表しているものといえると思う。言語は対象を種類として把握して表現するものであるから、どんな場合にも、対象の性質を一般性として捉えているのである。つまり、言語を話したり書いたりすることは「論理能力」を要する作業だということである。だからこそ、「書くことは考えることである」のであって、書き続けることによってこそ、「論理能力」は高まっていくのである。
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2016年04月01日

一会員による『学城』第3号の感想(10/13)

(10)論理能力は学問創出の土台である

 今回取り上げるのは、北嶋淳先生による障害児教育を問う論文である。今回は肢体不自由児の運動障害が取り上げられ、子どもたちが成長できた指導の意味が説かれていく。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を示しておく。

北嶋淳
人間一般から説く障害児教育とは何か(2)

 今回は肢体不自由児の運動障害をとりあげる。それを前回の視知覚の問題と筋を同じくしての人間一般、人間の育ち方一般から見た像の形成という観点から論じつつ、さらにそこを人間の認識の構造に踏み込んで説いていく。

 〈目 次〉
はじめに
二、障害児教育とは何かU
―運動障害を持つ子どもたちに起こっていること
 (1) 運動できない子どもたち
 (2) 人間の育ちにおける歩くことの意味
 (3) 歩けない子どもたちの育ち
 (4) 指導方法の意味
 (5) 今回のまとめ

 本論文ではまず、前回説かれた内容が概観される。それは、障害を考えるときには「人間とは何か」「人間の一般的な育ちとは何か」からとらえる必要があり、障害には回復不能の問題と「創り創られたもの」との二重構造があるから、後者に教育として働きかけることで「障害」を変えていくことができることが視知覚異常を例にして説かれたのであった。そして今回は、脳障害による肢体不自由児の運動障害がとりあげられ、認識の構造に踏み込んで障害児教育に必要なものが説かれていく。6歳の3人の肢体不自由児が、手足への働きかけによって独歩できるようになったばかりか、もの分かりも良くなったことが紹介され、その理由が人間の育ち一般から考察されていく。初めに、『育児の認識学』を引用しながら、そもそも歩くことは、実体、認識の双方の育ちが前提としてあり、脳細胞と認識の発育として重要であることが説かれる。次に、一般的な人間の育ちの過程を肢体不自由児の育ちの過程に重ねることで、肢体不自由児は本来育ち育てられることが育っていないのであるから、その育てられなかった本来の人間一般の育ちの過程を取り戻す学習を行えば、今の運動を変化させられる可能性があることが説かれる。そして、一連の指導の意味が展開されるのである。木登りやはだしで歩かせたのは手足を強烈に使わせたかったからだとして、端的には、五感器官の実力を高めることと直接に脳の実体の実力をも高めることこそが、指導の中身だとされる。さらに、認識面を整えながら認識の実力をも高めていったことが説かれ、最後にこうした手足への働きかけは、家庭でも折を見て行ってもらえるよう母親にも指導したことが説かれている。

 本論文に関してまず着目したいことは、肢体不自由児の運動障害をどのような方法で克服していったのかについてである。北嶋先生は、先回の振り返りの部分と、今回のまとめの部分で、それぞれ以下のように説いておられる。

「指導に際しては、今持っている能力で繰り返しを行わせても狭い範囲での成果しかあげられず、めざす学習はなかなかに習得できないものであること、そしてさらなる学習の広がりをめざすならば、土台に戻り、学習ができる体と頭づくりをしたうえでめざす学習をさせていくという過程を踏むことが大切である」(p.151)

「指導に際しては、今持っている能力で繰り返しを行っても成長が見られない場合には、はじめに戻り、実体と認識の創られ方を踏まえた上で、土台づくりをしてめざす学習をさせていくという指導の二重構造が必要であり、そうしていくことで子どもたちの成長をはかる事ができるということである。」(p.165)

 ここでは、例えば実行器としての運動器官そのものは損傷していない、脳障害による肢体不自由児の教育においては、運動できるようにする、歩けるようにする直接的な訓練を繰り返し行ったり、リハビリと称して無理に関節の可動域を広げるようなストレッチをさせたりすることによっては、子どもたちは運動できるようになったり歩けるようになったりしない、もしくは非常に限定的にしかできるようにならないのであって、そうではなく、人間の育ち方一般に照らして、この肢体不自由児が成長過程において学び損ねたことは何なのかを、実体面、認識面の両方から問い直し、そこを学び直していくという一見遠回りにも思える土台づくりこそ、本当はなすべき教育なのである、ということが、実際にこうした子どもの教育に長年携わり、子どもたちを成長させてきたという実感を込めて語られているのである。端的にいえば、土台をしっかりと創ることなしには、成長・発展はありえないのだということである。

 このことは、学問を創出しようとする過程においても非常に重要になってくる。どういうことかというと、どれだけ真剣に学問を志そうが、実際に学問を創出できるだけの「土台」がなければ、その夢は実現しないのだということである。それでは、この学問を創出する上での「土台」とは何かが問題になってくる。これこそ、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力」である、といえるだろう。そもそも学問とは、究明すべき対象の事実から論理を導き出し、それを理論化し、体系化したものであるから、その出発点として、対象的事実からその共通性を把握する能力、すなわち「論理能力」がなければ、学問への道は歩めないからである。つまり、学問を創出し、発展させていくためには、その「土台」として、「論理能力」が必要不可欠である、ということである。この「土台」なくしては、障害児教育においては「名医を求めて病院通いをし、良い方法を求めて講習会を回る」(p.151)しかないように、学問においてもある学説から次の学説へと無節操に右往左往して、何の成果も残せずに終わってしまうということになってしまうのである。ここはしっかりと肝に銘じておきたい。

 さて、もう1つ触れておきたいことは、人間が認識的実在であるとはどういうことかに関わってである。北嶋先生は、肢体不自由児として一人で歩けないまま入学してきた子どもたちについて、「子どもたちは運動に関する認識(立って歩く像)を描くように創られないままに育ち、人間としての一般的な運動がゆがみ、こうして歩けないままにここまできてしまったのではないだろうか」(p.160)と述べておられる。ここで注意しなければならないことは、通常、歩けない理由を考察する場合に、足が思うように動かないなどといった物理的、直接的原因を探っていくように思われるが、北嶋先生はそうではなくて、その大本に認識の問題が潜んでいることを見抜いておられることである。そして、「「歩くことなのに、どうして認識に着目するのか」と疑問に思われる方もいるかもしれない」(p.161)として、その理由を説明されていくのである。具体的には、「歩くこと自体にも認識が必要」(同上)だとして、人間が目的をもった認識ある実在であることから、先生がなされた指導の意味を説いていかれるのである。この人間の全てを認識から問うていくという、人間の本質に着目した考え方は、私の専門分野である言語学においても非常に重要な意味をもつものである。言語は言語自体からは解明できないのであって、認識との連関をこそ、研究の中心に据えるべきである、という教訓を、言語道具主義者にも教示する必要があろう。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言

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