2016年03月31日

一会員による『学城』第3号の感想(9/13)

(9)江戸末期に日本が導入した西洋の医学教育とはどのようなものであったか

 今回取り上げるのは、小田康友先生による日本近代医学教育史に関する論文である。ここでは、医学教育とは何かがその原点から説かれ、現代の医学教育の欠陥が指摘される。

 いつものように、まずは本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を示しておく。

小田康友
日本近代医学教育百五十年の歴史を問う(2)
─医学教育論序説─

 歴史を概観した前回をふまえ、今回は医師養成が徒弟修業から西洋式学校教育へと移行した、近代化の原点に焦点を当てる。歴史の原点を問うことにより、改革の指針となる「医学教育とは何か」が一般性として浮上する。

 〈目 次〉
はじめに―歴史の原点を問う意義
一、医学教育界における歴史軽視の構造
二、江戸末期の医学教育の大転換
 (1) 漢方主体の日本古来の医療と西洋医術受容の背景
 (2) 徒弟修業による経験的医師養成―その長所と限界
  A 徒弟的医師養成の現実
  B 徒弟的医師養成の限界
 (3) 長崎・海軍伝習所の教育改革
  A 系統的医学教育の誕生
  B 徒弟教育から近代医学教育への発展の必然性
三、近代化の原点に問う医学教育の構造
 (1) 医学教育とは何か
 (2) 原点から見た現代の医学教育

 本論文ではまず、前回の内容として、現代の医学教育改革には研究至上主義に至った必然性を歴史に問う視点に欠けることを歴史の流れを概観することで検証したことが確認された後、今回は江戸末期に西洋式学校教育が導入された過程に焦点を当てて、医学教育の論理(「医学教育とは何か」)を導き出していくとされる。そして本論で目指すのは、単に歴史にかかわる個別的事実の蒐集やロマンにとどまるものではなく、科学的方法論を駆使した医学教育の歴史の究明であることが述べられた後、江戸末期に至る医療と教育史が概観される。古来日本では、中国から伝わった伝統医術を熟成させ独自の医療を実践してきたこと、医師養成が徒弟的に行われていたこと、16世紀半ばから西洋医術が受容されてきたこと、銃弾や爆薬による外傷、伝染病への対応から西洋医術が全面的に導入されたこと、それは教育制度の大転換をも必要としたことが述べられるのである。ここで徒弟制度に関して、その長所と限界が問われる。すなわち、師匠のもとに弟子入りし、仕事を覚える中で師匠の業を受け継ぐという徒弟制度においては、師と生活そのものを共にし、師の人格や小社会での規範を含めて、必要なすべてを渾然一体として教育されたこと、往診においては、患者の生活過程を丸ごと把握するものとして教育されたことなどの長所があった反面、こうした経験的修業過程において創出される医術は、局所的(経験を超えた未知の対象には応用できない)・個人的(「カン・コツ」レベルの能力である)であるという限界があったというのである。そこで、長崎の海軍伝習所で行われた教育改革が示される。ここでは、実践からではなく教室での講義から教育が始まり、系統だった文化遺産の習得が行われたのであり、加えて基礎実習、臨床実習も行われたというのである。そして、徒弟教育から近代的医学教育への発展の必然性として、文化遺産の膨大化と社会的要請が挙げられ、最後に医学教育とは科学的医学体系に導かれた医術教育(いかなる患者の病気でも診断し治療できる技を身につけている医師の養成)であることが技能と技術の違い、医学と医療の違いに触れられながら説かれ、こうした観点から現代の医学教育は、この原点を完全に見失っていると結論されるのである。

 この論文に関してまず取り上げたいことは、江戸末期の教育改革として取り上げられている内容に関わってである。従来は、徒弟制度のもとで、師に弟子入りをして、生活を共にしながら師の技を盗み取るという教育方法(?)がとられていた。しかしこれでは、膨大化する文化遺産を継承させ、もって実力のある医師を養成することができない情況が生れてきたのであった。未知の対象にもそれなりの筋を通して診断と治療とができる医師を養成するためには、経験的で局所的・個人的な徒弟制度ではもはや通用しない現実があったのである。そこで採用されたのが、ヨーロッパの医学教育方法であった。これは、医学とされる膨大な文化遺産を、全体的に、順序だてて、系統的に教育するものであった。専門教育に先立って、医学究明の基礎科学が教育され、専門教育においても、まずは人間が生きている仕組み(解剖・生理)を教えた上で、その歪みである病気の仕組み(病理)を教え、その後で初めて病気の診断法、治療法などが教育されたというのである。これは学問への道を歩む上で、非常に重要なことを示唆していると思われる。

 どういうことかというと、まずは究明すべき対象の全体像を押えた上で、さらにその中身に関しても、基礎となる部分を系統的に学んでいく必要がある、ということである。そのためには、科学的医学体系のような学問の全体像、構造論が解明されている必要があるのであるが、少なくとも、まずは一般教養をしっかりと学ぶべきだという教訓は得られると思う。さらに、私の専門分野である言語学にしても、一般教養を学んだ上で究明すべきは、言語とは何かということであって、これが歴史的に如何に問われてきたのかも含めた言語の全体像の把握である、ということはいえそうである。つまり、例えば、日本語のある特定の文章における「それ」という指示詞は何を指し得るかとか、「それ」という言語が一部地方では「ほれ」といわれるようになったのは音声学的に云々とか、そんないわゆる大学で研究されているようなことは全く二の次三の次なのである。実力ある医師を育てる教育方法と同様、学問を志すのであれば、まずは全体をアバウトにでも把握し、その上で、究明すべき対象の大きな構造へと踏み込んでいく必要がある、ということである(このことは、前々回に説いた「学問」と「研究」とにおける頭の働かせ方の違いに通じるものである、つまり、対象を大きく括っていく、共通性を探っていくという頭の働かせ方か、対象の細かい違いに着目して、対象を細部に分類していくという頭の働かせ方か、という違いに通じるものである)。

 さて、この論文に関してもう1つ触れておきたいことは、「過去の歴史に学ぶ」(p.149)とはどういうことか、ということについてである。そもそもこの論文は、「医学教育とは何か」を明かにするために、その〈原点〉たる江戸末期の西洋式学校教育導入の過程が問われ、さらにそれ以前の徒弟制度の長所と短所も考察されているのである。こうした検討の末に、次のように説かれているのである。

「事実的には絶対に再現することはできない過去の歴史に学ぶということは、論理的に捉え返し現代的に措定することであって、現象的にはまったく異なる教育ともなりうることを忘れてはならない。」(同上)

 つまり、過去の歴史を学ぶとは、過去の事実そのままを繰り返すことでは決してなくて、過去においてなされたことの意味をしっかりと把握して、それを論理的に辿り返す必要がある、ということである(これは、「生命の歴史」にも通じる発展の論理であり、個体発生として系統発生を繰り返すとは、過去の系統発生においてなされた事実そのままを繰り返すことでは決してなく、その内実を論理的に繰り返すことである、ということと同じである)。こうしたことをなすためには、「論理能力」をしっかりと磨き上げ、現象に惑わされずにその論理をしっかりと手繰れる実力が必要になってこよう。こうした学び方こそが、我々には求められているのである。
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2016年03月30日

一会員による『学城』第3号の感想(8/13)

(8)人類の系統発生における論理能力の獲得と発展過程とは如何なるものか

 今回取り上げるのは、諸星史文先生と悠季真理先生による医学の歴史に関する論文である。この論文では、通常“医学の父”とされるヒポクラテスの実力の内実が説かれていく。

 本論文の著者名・タイトル・リード文・目次は以下の通りである。

諸星史文
悠季真理
学問形成のために問う医学の歴史(3)
―医学史とは何か―

 本稿では、本来の医学史の具体を説いていく。まずは、通常の医学史で常識とされている「ヒポクラテスは医学の父である」という説に対して、本来の医学史からすれば医学の父とは呼べないことを、医学とは何かをふまえ、『ヒポクラテス全集』の原典に基づいて事実的に示していく。

 〈目 次〉
一、前回までの内容
二、ヒポクラテスは本当に「医学の父」なのか
三、『ヒポクラテス全集』の概観
四、『ヒポクラテス全集』から見てとれる、認識の発展の三段階
五、医学史において『ヒポクラテス全集』はどう位置づけられるか

 本論文ではまず、医学体系の確立とそれによる医療体系の確立化のために医学史を問うことが本稿の目的であることが確認された後、通常“医学の父”といわれるヒポクラテスが本来の医学史からみてどのように位置づけられるのかを検討していくとされる。まず、結論として、ヒポクラテスは“医学の父”ではないと述べられ、それはヒポクラテスがなしたことはあくまで医療実践であり、医療に関わる対象についての事実レベルの把握であったからだと説かれる。そして、ヒポクラテスが実際にどのようなことを行なったかに関して、『ヒポクラテス全集』を概観しつつ考察されていく。初めに、『ヒポクラテス全集』が膨大な範囲にわたっており、事細かに具体的な知識が書かれていることが確認され、この医療に関わっての事実レベルの記述が、大きく3つのレベルに分けることができるとされる。1つは、個々の病人に関わっての事実そのものの記述(今でいうカルテのようなもの)であり、第2は、もう少し一般的に病状などを捉えられるようになるレベル(昏睡はどんな場合でも悪い、など)であり、第3の段階は、医療に関しての諸々の事柄についてより一般性レベルで把握できるようになってくるもの(病気の回復は食事や入浴、労働ないし休息、睡眠等々によるものである、など)であるとされる。しかしこれらにしても、医術について一般論レベルで説けているわけではないと説かれ、一般論レベルで対象を説くということの実例として、アリストテレスの「自然」や「弁証術」に関する記述が紹介される。そして最後に、ヒポクラテスはようやく医術らしきものを創れた段階にすぎず、アリストテレスが構築しえたような現象論段階には達していない以上、ヒポクラテスは医学という学問を生み出したわけでもその構想を示したわけでもなかったと結論される。

 本論文で注目したいことは、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力の生成発展」過程に関して、ここでは人類の系統発生として説かれているという点についてである。諸星先生と悠季先生は、ヒポクラテスがその著作において、医術とは何かという一般論を提示できたわけでもないし、医学の構造を論理的に示せたわけでもないことについて、以下のように述べておられる。

「このことは、一般的に学問の歴史の流れからも、およそ推測できることである。すなわち、古代ギリシャにおいては、ソクラテスからプラトンを経てアリストテレスに至って、ようやく学問らしきものができてきたのである。ということは逆にいえば、アリストテレス以前には、まだ学問の構想を示すことができるほどにも人類の認識は発展していなかったということなのである。ヒポクラテスはソクラテスとほぼ同時代の人物であり、あくまでもアリストテレスに至る途上に位置していることから、ヒポクラテスが医学という学問の構想を示せなかったことは時代的にみても当然であったのである。」(pp.118-119)

 ここでは、学問というものは事実を事実として並び立てることではなくて、対象とする事実に共通する性質を把握した論理の体系であって、この学問へと至る人類の認識の発展は、古代ギリシャにおいて、ソクラテスからプラトン、アリストテレスに至る過程においてようやくにして達成されてきたものであり、ソクラテスと同世代のヒポクラテスにおいては、まだまだ対象とする事実の直接の反映を論理として一般的に括るような認識の実力には、足を踏み入れたばかりであって、学問の構想などという高度な認識的実力を要するものを提示するまでには至っていなかったのだ、ということが説かれているのである。簡単にいえば、「論理能力の生成発展」過程というものは、そう簡単に辿れるものではないのである。

 では、それでも「論理能力」を身につけ、それを向上させていこうとする場合には、一体どのような過程を経る必要があるのか。このことに関しても本論文では、『ヒポクラテス全集』の記述の3つのレベルからアリストテレスの一般論レベルの把握へという流れ(4段階)として説かれているのである。まず、『ヒポクラテス全集』の記述における第1段階として、個々の病人についての具体的病状が事実として記載されているという段階が述べられ、次に第2段階として、肺炎の場合はこういう特徴があるとか、昏睡はだいたいの場合悪い結果になるとかいった形で、個別性を括って特殊性として把握したような段階があることが説かれ、そして第3段階として、病気の回復が何によるものなのかとか、医術をどんなものとして考えているかとかいった形で、より一般的な把握を行う段階があるとされている。そしてさらにアリストテレスの段階(第4段階)に至ると、究明すべき対象をまずは一般的に述べ、その対象に関わって諸々に現象しているものに筋を通す形で論じようとする段階にまでなることが説かれているのである。

 この人類の系統発生における「論理能力の生成発展」過程を、人間の個体発生における「論理能力の生成発展」過程として、つまり自分自身が「論理能力」を如何にして身につけていくのかという観点で捉え返すと、どのようなことに注意すべきだということになるだろうか。まず確認しておく必要があることは、事実を事実としてきっちりと把握する必要がある、ということである。学問や論理能力の出発点は、あくまでも事実であって、ここを学問の原点としてしっかりと押さえておく必要があるわけである(第1段階)。次に、その把握した事実をある範囲で括ってみて、それらの事実に共通する性質を論理として掬い出す必要がある、ということである。これは例えば筆者の専門分野である言語に関していえば、〈動詞〉とは事物の属性について表現したもので、〈名詞〉とは事物の実体について表現したものだ、と規定するようなものである(第2段階)。そして次の段階になると、第2段階で括った把握をさらに一般的に、より高い視点から括る必要があるのであり、これは言語学でいえば、言語とは認識と関わりのあるものであるというような把握になるだろう(第3段階)。さらに最後の段階では、対象とする事実全てを貫く性質を一般論レベルで把握する必要があるのであって、これは言語学でいえば、「言語とは、精神的交通を概念レベルで精密に行うことによって、社会的労働を維持発展させられるよう、社会的認識たる言語規範を媒介して行われる表現(音声や文字など)である」などの一般的な規定を与え、ここから対象である言語の諸々の事象全てに筋を通して論じていくということになるだろう(第4段階)。

 以上のように、本論文からは、「論理能力の生成発展」過程においては、まずは事実を事実としてしっかりと捉え、そこから論理を抽出し、論理を立体的に位置づけ、さらには一般論を把握していくという流れが必要である、ということをしっかりと学ばなければならないのだと思う。個体発生は系統発生を繰り返す必要があるのであるから、しっかりと歴史の論理に学ぶ必要があるのである。
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2016年03月29日

一会員による『学城』第3号の感想(7/13)

(7)研究と学問の違いとは何か

 今回は、本田克也先生、P江千史先生によるウィルヒョウ『細胞病理学』を扱った論文を取りあげる。ここでは、現代の大学における研究至上主義の問題点が説かれていく。

 以下に、本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を提示する。

本田克也
P江千史
ウィルヒョウ『細胞病理学』なるものを問う(上)
─研究至上主義は学問への道を断つ─

 大学における学問不在の研究至上主義の現状は、遡れば近代病理学の祖とされるウィルヒョウ『細胞病理学』なるものにその源流をみることができる。今回はそれがなぜかを論じるために、その書の内容を概観する。

 〈目 次〉
 (1) 大学における研究至上主義の現状
 (2) ウィルヒョウとその時代
 (3) ウィルヒョウへの評価
 (4) ウィルヒョウ『細胞病理学』なるものを概観する

 本論文では、現在の大学では研究至上主義が横行しており、医学と医療の区別すらつけられないでいる現状があることが説かれた後、現在の研究至上主義のレールを敷いたウィルヒョウを取り上げ、学問不在の研究至上主義が趨勢を占めるに至った過程とその成否を説いていくとされる。ウィルヒョウは19世紀ドイツの病理学者であり、ドイツ医学がかつてないほどに低迷していた時代に、ドイツ医療の大躍進を支えたミューラーの弟子として、「細胞学説」(「総ての細胞は細胞から」という説)などの大きな発見をしたというのである。そして、多くの業績をあげたことに対する大きな評価がある一方で、ウィルヒョウが学問としての医学において果した役割を明かにするために、『細胞病理学』なるものの内容が検討されていく。まず、この題名が原著の題名とは大きく異なり、忠実に訳すなら「細胞病理」でしかない(つまり学問ではない)こと、また本書は講義録に基づくものであることが確認され、続いて「細胞はつねに細胞からしか生まれない」という発見に基づいて、疾患には必ず細胞の変化を伴うとウィルヒョウが考えたことが述べられる。そして、ウィルヒョウが総ての病理的組織は生理的組織から連続的に生ずるものだとしたこと、体液病理説(血液の変化に病気の原因を求める説)と神経病理説(身体を一個の統一体たらしめるものは神経系統であるとする説)を批判したこと、生命活動を個々の細胞へと細分化し細胞レベルで「病理学的現象」の事実に入っていったことが説明される。そして最後に、ウィルヒョウが生命体をどのように捉えたのかについて、「総ての動物は生命ある単位体の一個の総和である」という主張が紹介され、これが人間とは何かを解明する最大の障壁だと説かれるのである。

 本論文でまず取り上げたいのは、「研究」と「学問」が対比的に捉えられていることについてである。本論文では、今の世界中の大学において、「学問不在の研究至上主義が趨勢を占め」(p.100)ていることが説かれ、この情況では本当に実力ある医師を養成することができないと述べられている。それは、「医療研究はあくまで「個別の病・治療に密着した直接的事実の究明」のためになされるもの」(p.99)であるのに対して、「医学とは、病の形成過程と回復過程の構造を一般的にとらえ、病とは何か、それに働きかける治療とは何かを体系化した認識であり、科学である」(同上)からである。つまり、「研究」というものは、事実を細分化していって新たな事実を追求していくものであるから、個々の具体的な事実が異なれば全く役に立たないのに対して、「学問」というのは、対象とする事実から論理を導き出し、それを理論化し、体系化していくものであるから、医療実践において「大きな指針として、見事に役にたつ」(同上)からである。

 この「研究」と「学問」とでは、頭の働かせ方も大きく異なってくる。どういうことかというと、「研究」の過程においては、個々の事実の違いに着目して、対象をヨリ細かく細かく分析していくというような、個別性・具体性を追求していく頭の働かせ方が必要になってくるのに対して、「学問」の構築過程においては正反対に、個々の事実に共通する性質に着目して、対象を論理的に大きく括っていくような、一般性・抽象性を追求していく頭の働かせ方が重要となってくるのである。そして医師の実力としてどちらが必要かといえば、これも後者ということになってくるのである。逆にいえば、だからこそ現状の研究至上主義がこの論文では大きく批判されているのである。

 この問題は、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力の生成発展」ということにも大きく関わってくるものである。つまり、学問を構築するために「論理能力」を向上させるには、細かな事実に関わって、あれこれと違いを詮索するのではなくて、具体的な事実に共通する性質を追求し、それを認識に掬い上げた論理を求めなければならないのである。しかも、論理を把握するというこの学問的作業は、単に1回きりのものでは決してなく、対象とする事実の全ての領域に関して、立体的に論理を追求していくべきものであるから、常に頭の働かせ方をこうした論理を把握できるような構造にしておく必要があるのである。端的にいえば、違いに着目するのではなくて、共通性を掴もうとするような方向性に頭の働かせ方を向けなければならないのである。

 大きな視点から見れば、現在の大学全体が個別の事実の違いに着目するような方向に向かっていて、これでは真の学問は創出しようがないという情況をしっかりと踏まえ、本当の意味での学問、現実の問題解決の指針となるような学問を構築するためには、本論文で説かれているような、事実の共通性に着目し、それらを大きく括って論理化し、さらにその論理をまた一段高い視点から括って理論化し、本質論に統括された学問体系へと構築していくことこそが必要になってくる、ということである。そしてこの道を歩んでいくことが直接に、「論理能力の生成発展」の道であるということである。

 もう1つ、この論文で触れておきたいことは、ウィルヒョウの主張である「総ての動物は生命ある単位体の一個の総和である」(p.113)という主張についてである。このウィルヒョウの「細胞原理」こそが、「医学の対象論となる人間とは何かを解明するうえで、最大の障壁ともいえるものであった」(同上)とされているのであるが、これはどういうことかということである。これは端的には、形而上学的人間観というべきものである。個々の細胞が集まって一人の人間を形作るという発想であって、個々の人間が集まって契約によって社会をつくるのだという社会契約説にも通じる考え方である。しかし、本来人間は全体で1つであり、脳に統括された全身のあり方こそがまず問題にされるべきであり、この全体との関係において個々の部分が把握されなければならないのである。脳と骨と筋肉と個々の内臓が集まって人間になったのではなく、もともとは1つの細胞で全てであった単細胞生物が、地球との相互浸透の長い長い過程を経て、体の部分をそれぞれの必要に応じて分化させてきたのである。ウィルヒョウのような把握では、がんになった部分の細胞を手術で切り落とせばがんは完治したとなるのであるが、現実がこのことに反駁しているのである。この点に関しては次号で詳しく展開されるようなので、その論理をしっかりと辿って自らの実力としたいと思う。
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2016年03月28日

一会員による『学城』第3号の感想(6/13)

(6)学問体系を構築するためには論理的な学びが必要である

 今回は、P江千史先生による「医学原論」講義を取りあげる。医師の実力をつけるためには、あらゆる病気に共通する1つの筋道を掴む必要があることが説かれる。

 以下に、本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を提示する。

P江千史
「医学原論」講義(第三回)
─時代が求める医学の復権─

 今回は科学的学問体系の構築過程を人類の歴史に尋ねて一般的・構造的に明らかにしたのち、科学的医学体系の本質論・構造論を提示する。そしてその体系にてらし、医学書の内容は現象論にもとどかないことを論じる。

 〈第三講 目次〉
 (1) 第二講の要旨
 (2) 科学的医学体系は時代の要請である
 (3) 学問体系は本質論に統括される論理の大系である
 (4) 論理能力の養成に逆行する医学教育の現実
 (5) 科学的医学体系の本質論と構造論
 (6) なぜ「生理論」ではなく「常態論」なのか
 (7) 現象論にもとどかない医学書の内実
 (8) 医学書には事実の羅列しかない

 本論文ではまず、前回の要旨として、「科学的に体系化された医学」を説くために、「科学的医学体系」と「医療実践」と「医学教育」の関係が整理されたことが述べられた後、「学問体系とは何か」が説かれる。それは現実の世界の事実そのものから論理を導きだし、理論化し、体系化することによって構築される観念(本質論に統括される論理の大系)であって、現実の実在の世界と何重もの構造をもったつながり(時代の要請という側面があることなど)があるということである。さらに、本質論に統括された学問体系を構築するためには、論理能力を養成する必要があるが、医学教育においては、事実の違いに着目し、その違いを暗記するという教育がなされていることが述べられる。しかし本来であれば、まず病気としての共通性である本質を理解させ、そのあとでそれぞれの病気の特殊性を教えるべきだとされる。その上で、「科学的医学体系」とは何かが説かれていく。医学とは「人間の正常な生理構造が病む過程と、病んだ生理構造の回復過程を統一して究明する学問」であって、「常態論」を礎石として、その上に「病態論」と「治療論」が成立する構造論を持っているということである。しかし、医学教育に使用される教科書は、構造論どころか現象論にもとどかないレベルで、病気の事実が羅列されているだけだと述べられる。そして最後に、次回の講義で学問体系としての現象論が説かれることが述べられる。

 この論文に関して取り上げたいのは、事実と論理の区別と連関に関してである。初めに、そもそも事実とは何かといえば、「実際にあること、あったこと」であり、論理とは何かを示せば以下の通りである。

「論理とは何かといえば、対象とする事物・事象のもつ性質を一般性として把握したものである。もっと正確には、事物・事象の現象レベル、構造レベルの性質を一般性として把握したものである。」(p.88)

 つまり、端的にいえば、事実とは現実の実在の世界に起ったことであるのに対して、論理とは認識の世界での概念である、という違いがあるのであり、しかし一方で、論理は事実の中から導き出されるものである、というつながりがあるのである。以上を踏まえて、P江先生は、現代の医学教育のあり方を批判されるのである。

「医学を科学的学問体系として構築するためには、このように現象的にはまったく異なる病気に貫かれている、共通な性質を導きだすという論理的な作業をくり返し、最終的には、ありとあらゆる病気を貫く共通の性質である、病気とは何かの本質を導きだすという過程が必要なのである。

 ところが現代の医学教育には、そのような病気の共通性に着目させる視点はまったくなく、それぞれの病気の、現象的に違う事実だけに着目し、その違う事実を深く深くほりさげて教えているのである。このような事実の違いは、探そうと思えば、無限といってよいほどに存在するのであり、現在はその違いの事実の探究は、遺伝子レベルへと進み、医学生は、どの病気はどの遺伝子の異常なのかの知識を、丸暗記させられているのである。」(p.90)

 ここでは、医学という科学的学問体系を構築するためには、知識的な教育(学び)ではなく論理的な教育(学び)が必要であることが説かれている。では、なぜ知識的な教育(学び)ではなく論理的な教育(学び)が必要であるのか。それは以下の通りである。

「現在の医学といわれているものの内実は、理論の大系、すなわち体系ではなく、知識の大系でしかないために、「モデル・コア・カリキュラム」で精選された病気を学べば、それらの病気についての知識は得ることはできても、病気と病気の共通性を学んでいないために、その知識を、それ以外の病気に応用して、役だてる実力はつかないのである。」(p.91)

 つまり、病気の現象的に違う事実ばかりを追っていては医療にならないのであって、どんな病気に対しても一定の診断と治療を行えるという医師の最低限の役割を果たすためには、病気を論理的に把握するという教育(学び)が必要になってくる、ということである。論理的な教育(学び)が必要であるのは、端的には、医師の役割たる診断と治療を正しく行うためである、ということである。

 こうした学び方は、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力の生成発展」のためには欠かせないものである。事実を細かく分類していって、非常に微細な事実にこだわった知識的な学びではなくて、対象とする事実に共通する性質を大きく括っていって、一般性を把握しようとする論理的な学びが「論理能力の生成発展」のためには必要であるということである。具体的にいえば、例えば世界歴史を学ぶにしても、フランス革命は何年何月何日に勃発して、初めはどのような勢力が政権を握り、次にはどの勢力に中枢が移っていって、さらにその勢力内の誰と誰が対立し、誰と誰がどういう目的で協力し、それが誰にどのように影響したかなどと、事実を細分化して詳細に捉えようとするような頭の働きでは「論理能力」は養成できないのであって、そうではなくて、フランス革命が人類の歴史において発生したのはなぜか、それは歴史の大きな流れの中でどのような役割を果たしたのか、そもそも革命とはどういうことか、歴史とは何かといった対象のあり方を抽象化して捉えようとするような頭の働きこそが「論理能力」を鍛えるためには(さらには学問を創出していくためには)必要である、ということである。私の専門分野である言語学でいえば、ある文章はいくつかの文から成り立っていて、その文はいくつかの文節から成り立っていて、分節は複数の単語から成り立っていて、単語は形態素から、形態素は音素からそれぞれできていて、などと細かく分類していくことが言語学なのではなくて、そもそも言語とは何か、言語規範とは何か、表現とは何かといった大きな観点から言語を問うていくことが言語学なのである。

 この論文で指摘されている現代医学教育の欠陥やそれに対する批判を、自らの学びにとってどのように理解し、どのように生かしていくのか、ここを問うことこそ、他分野への学びでは重要であって、こうした姿勢こそが論理的に学ぶということだろうと思う。
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2016年03月27日

一会員による『学城』第3号の感想(5/13)

(5)文化の発展には「場所の移動」が必須である

 今回も引き続き悠季真理先生の論文を取り上げる。ここでは、古代ギリシャのポリス社会が如何にして誕生していったのか、その過程性の構造が論じられていく。

 以下、本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を掲げておく。

悠季真理
古代ギリシャ哲学、その学び方への招待(3)
―ポリス社会が誕生するまでのギリシャ小史―

 古代ギリシャの社会は、文化の中心となる場所を移動しながら、先人たちの文化を継承し、さらにそれを独自に発展させていくという過程を何重にも積み重ねて形成されていった。今回と次回はその歴史的過程を説く。

 〈目 次〉
 はじめに
一、オリエントからギリシャへ、そしてさらにギリシャ内での場所の移動による文化の発展
二、キュクラデス諸島を中心とした文明
三、クレタ島を中心とした文化の発展
四、クレタからミュケナイへ
(以下は次号)
五、北方からの新たな部族の移動
六、植民活動の拡大と、その中でのフェニキア人との出会い
七、フェニキア人の成り立ち
八、ギリシャはフェニキアから何を学んだか
九、植民活動の過程でギリシャが身につけていったものとは―ポリスの原基形態の誕生
おわりに

 本論文では、まず、ギリシャ哲学を理解するために、ギリシャ哲学が産み出される母体となったポリス社会とはどのようなものであるか、どのように創られてきたのかを、ギリシャがオリエントから何をどう学んだのかを中心に説くことが本稿の目的であることが述べられる。そして、古代のギリシャ人が、当初は自分たちよりはるかに進んでいたオリエントの文化に対して、驚き憧れる中で必死にその文化を吸収していったことが説かれた後、ギリシャ文化が中心地としての場所を移動しながら徐々に発展していった過程が説かれていく。第一の段階は、小アジアからギリシャへ農耕や牧畜などが伝わっていった時代で、青銅器文化もギリシャへと伝播する時代になると、多くの貴重な鉱物資源があったキュクラデス諸島を中心に文化が栄えたと述べられている。ここでは、鉱物資源を提供する代わりに得た資源で、さまざまな武器や農具を作る術を身につけていったことが説かれている。そして第二の段階は、クレタ島を中心としてオリエントとの貿易を発展させ、クレタ人が東地中海に支配権を拡大していく時代であるとされる。ここでは、エジプトに学びつつもエジプトを超えるような造船技術が高められていったと述べられている。さらに第三の段階は、ギリシャ本土のミュケナイに文化の中心が移っていく時代であって、ここでは、自分達の拠点を守るために、武器の精錬法や武具の改良が必死になってオリエントから吸収されていったこと、農業の発展についてもオリエントに学び自分たちの風土に合うように創り変えられていったことが説かれていく。

 この論文に関してはまず、「人間は歴史性を持つ」(p.70)と述べられていることに注目したい。オリエント文明が次第にギリシャへと伝わっていった理由について、文化的な先進地域が後進地域へ植民や侵略という形で社会的交通関係を徐々に創り上げていくからだけではないとして、次のように説いておられる。

「人間は認識的な実在であり、常に目的を持ち、それを実現する過程を経て、その人らしい人生を創りあげていく存在である。そしてその過程においては、常に現実の自分に満足することなく、さらなるレベルアップを望み、かつそのレベルアップに挑み、そしてそれを実現することによって、より見事なレベルの自分へと発展していく存在である、ということである。これを別の言葉で一般的に言えば、人間は歴史性を持つということである。」(同上)

 つまり、単に地理的条件によって隣接していて、一定の社会的精神的交通関係が創り上げられたからといって、必ずしも文化が伝承されるものではなくて、そこには人間の本質が深く関わり合っているということである。そして、その人間の本質とは何かといえば、「認識的な実在」であるということであって、これは他の動物と違って人間は目的をアタマの中に描いて、それに向かって行動するということである。しかもこの目的にしても、いつまでも同じレベルにとどまるようなものではなくて、常に上の目的を描いて、次から次へとその目的を実現するとともに新たなる目的像を描いていく、これが人間というものである、ということである。

 この過程においては、前回説いた「丸ごと」相手の文化を受け入れるという姿勢、つまり「最初はその実力はきわめて幼いながらも、幼いからこそ先進文化に強烈に憧れ、それを必死で吸収していく」(p.71)ことが重要だと説かれている。さらに、こうした文化遺産の継承は、人類の歴史において繰り返しなされてきているのであって、これを端的には、「場所の移動による文化の発展」(p.70)と概念化しておられるのである。しかもこの「場所の移動」は、より生活環境が厳しい場所への移動として、具体的には、「水はけの悪い沼沢地であった内陸貧地」(p.82)などへと移っていくという形をとって、進んでいくのである。しかし、こうした厳しい環境においてこそ、ヨリ見事な文化が形成されていくのであって、これが人間が認識的な実在であるということであり、目的を持つということであり、さらなるレベルアップを望み、挑み、かつ実現していくということの中身であると思う。

 こうした人類の歴史的な発展の流れは、端的にいえば、環境を変えることによってその反映たる像を変えていく(発展させていく)ということであって、同じような環境において、同じような反映をし続けるならば、必ず発展から衰退への道を歩むことになるという、認識一般の弁証法性、論理構造を内に含んでいるものとして捉えなければならない。であるならば、この人類の歴史的な発展過程の論理を、個人としての頭脳活動の発展過程の論理として、しっかりと掴みとらなければならないということになる。自らの頭脳活動、「論理能力」を向上させようとするならば、「場所の移動」は必然性であって、これが日本弁証法論理学研究会において後に説かれることになる、"change of the place, change of the brain"の論理であろう。人類の個体発生一般についていえば、例えば、小学校から中学校、高校へと進学していく際に「場所の移動」を伴うことがこの論理の無意識的な反映だといえるし、これを自らの学問を構築していく過程として意識的に捉え返すとすれば、物理的に「場所の移動」を行って、様々な反映をさせながらの学び、例えば合宿を行うときにはいつもと違う環境で行うことを意識したり、山登りをしながら思索したり、海や川で強烈な全身運動を行ったりすることが重要だということになる。さらに、自らの認識の問いかけを意図的に変革すべく、ヨリ高い目標を掲げて実践していったり、今まで想定していなかったような問いを立てて考察したりすることも、問いかけを変えることと直接に反映を変えていくという意味で、論理的な「場所の移動」と考えることもできよう。こうした問いかけと反映とを直接的に変革して、自らの認識の枠組みを突破していくことこそ、「論理能力の生成発展」に不可欠の要素であり、"change of the place, change of the brain"の論理の実践であるといえるだろう。

 さて、もう1つ簡単にでも確認しておきたいことは、哲学が誕生した理由についてである。それは端的には、「ポリス社会の現実の問題を究明する流れの中から生み出された」(p.69)ということである。先にも述べたように、オリエント世界に比べて地理的条件に恵まれていなかったギリシャ世界において、オリエント世界を凌駕するような文化を花開かせるには、「ポリス社会の安寧に関わって、先人たちの築き上げた文化遺産を学びながら、自らの問題とする諸々の対象に取り組み、かつ究明してい」(同上)く必要があったのであって、決して閑人の単なる知的好奇心から求められたものではないのである。ここから我々が学ばなければならないことは、現実の問題に深く関わっての必死の研鑽を通じてしか、諸々の対象を究明する学問を構築していくことはできないのであって、学問は何よりもまず、現実の問題を解くためにこそ! ということを決して忘れてはならないのだ、ということである。学問の原点として、しっかりと押さえておきたいと思う。
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2016年03月26日

一会員による『学城』第3号の感想(4/13)

(4)先進的な文化を丸ごと受け入れることが頭脳活動の発展には必要である

 今回取り上げるのは、悠季真理先生による古代ギリシャの学問に関する論文である。通常の哲学史では哲学の始まりとされるタレスが取り上げられ、当時の時代背景も踏まえて古代ギリシャがオリエントから如何に学んだかの内実が説かれていく。

 本論文の著者名・タイトル・リード文・目次は以下のとおりである。

悠季真理
古代ギリシャの学問とは何か(3)

 今回から二回にわたり、通常「哲学の祖」とされるタレスを取り上げ、この時代のギリシャはオリエントの文化をどのように学んでいたのか、そしてタレスらの実力は学問的にみて本当はいかなるレベルであったのかを論じる。

 〈目 次〉
はじめに
一、これまでの「哲学史」におけるタレスの評価
二、タレスの実力を知るために
三、タレスの生きた時代、オリエントとの関係
四、オリエントとは
五、従来の哲学史におけるオリエントとギリシャの関係についての理解とは
六、タレスと関わりのある地、イオニアとエジプト
七、オリエント文化の学びはギリシャ時代全体を通じて
(以下は次号)
八、オリエントとギリシャの実力の違いとは
九、タレスの出自とギリシャ人によるフェニキア文化の学び
十、タレスの実力とは
 (1) ミレトスの賢人=知者としてのタレス
 (2) リュディア王の軍事顧問としてのタレス
 (3) 日食の予言とそれが可能になったカルデアでの学び
 (4) リュディア王クロイソスの同盟要請の拒否
 (5) エジプトでのタレス ピラミッドの高さを測る
 (6) タレスが考えたとされる幾何の定理とは
 (7) 知者タレスの実践は、単に「知的好奇心を発揮したもの」ではない
十一、アリストテレスは“知者”たちをどう捉えていたか
十二、「自然万有の根本物質は水である」について
 (1) ヘーゲルの理解の是非
 (2) 「すべてのもののはじめは水である」とは

 本論文では、前号で確認された当時のギリシャ世界の形成史を踏まえて、通常の「哲学史」では彼からギリシャ哲学が始まるとされるタレスが取り上げられる。タレスを始めとするミレトス学派は、万物の起源を神に求めるのではなく、自然それ自体にあると考えたからであるという。しかし、万有の根本物質などというきわめて高度のものが当時のギリシャ人に考え出すことができたのか、疑問が呈されるのである。そしてこの疑問を解決するために、タレスの生きた時代の社会の実態が歴史性を踏まえて説かれていく。当時のイオニア地方は、世界文化の先進地域であるオリエントの文化の影響を極めて大きく受ける形で、長期にわたるオリエント地域との地理的、文化的一体性をもって、文化的に育まれていったと述べられ、加えて、オリエントとは現在でいうアジア全体ではなく、古代ギリシャ世界に隣接しているメソポタミアなどを漠然とさす言葉だと注意がされる。さらに、通常いわれているような古代ギリシャの学問とオリエントの文化とを切り離す論述が批判される。ここでタレスと関わりのある地として、まずタレスの生きたイオニア地方が当時としては文化的には突出した世界であったこと(とはいえ、あくまでもギリシャ世界はオリエント世界の周辺地域であること)、次にタレスはエジプトを訪れて先進的な文化を学んだことが述べられる。そして最後に、オリエント文化の学びはギリシャ時代全体を通じてなされたことが、アリストテレスの著作や出自を含めて説かれていくのである。

 本論文に関して取り上げなければならないことは、古代ギリシャとオリエントとの関係についてである。通常、古代ギリシャを学ぶ場合は、その地図としてどのようなものを思い浮かべるであろうか。おそらくはギリシャを中心として、そこに小アジアやエジプトが東側や南側に付随しているものではないだろうか。ところが、実際の当時のあり方からすれば、オリエント世界を中心に描いて、その周辺地域としてギリシャを西の端の方に描くという地図が想定されると悠季先生は説いておられる。つまり、文化のレベルとしてはオリエントが圧倒的に優位に立っており、当時のギリシャは文化的には相当遅れた辺境地域でしなかったということである。

 しかしここで問題になってくるのが、その当時のギリシャ文化の幼さであると悠季先生は述べられるのである。

「当時文化的には幼かったがゆえに、その幼いレベルでしかなかったギリシャは、突出した先進地域であるオリエントの文化を丸ごと受け取ることが可能となっていき、そしてそれを学んだ後に、オリエントの文化を内に含みつつも、それはと質的に異なったギリシャ独自の文化を見事なものとして成長させていくことが可能となっていったのである。」(p.46)

 どういうことかというと、後に古代ギリシャで学問が発祥したといわれるまでのレベルに達したその要因は、単に世界文化の中心地であったオリエント世界の周辺地域にギリシャが位置していたという地理的条件のみならず、圧倒的な文化レベルの差により、ギリシャがオリエントの文化を「丸ごと」受け入れざるを得ないほどの文化的条件にあったのだ、ということである。隣接する地域に圧倒的な文化レベルを誇るオリエントが存在したことは、常にそのオリエントの支配を受けつつも、何としてでもそうした文化レベルの高みへと辿り着きたいという強烈な憧れをギリシャに抱かせたのであり、この強烈な憧れに規定される形でオリエントの文化を「丸ごと」受け入れることが可能であったのは、ギリシャの文化が非常に幼かったがためである、ということである。

 これがもし、それほど大差のない相手が文化的に中心的な役割を担っていたとしたら、またもし、自らの文化レベルにそれなりの自負があるほどにギリシャの文化が成熟していたとしたら、素直に(?)相手のいうことを受け入れられたであろうか。ましてや「丸ごと」(=その時点での自分の立場を一切捨て去って)相手の文化を受け入れることなどできたであろうか。答えは「否!」である(当然、こうした場合においても、相手の優れた部分を自分のものとして吸収しようとすることはあったに違いないが、それは「丸ごと」という態度とは本質的に異なるものである)。そしてこの「丸ごと」ということが、頭脳活動の発展にとっては非常に重要になってくるのである。

 そもそも人間の認識というものは、外界の対象の反映たる像を大本として成立するものである。そして、その反映した像が積み重なっていって、またそこから外界の対象を反映しようとする(問いかけ的反映)のである。こうした反映の繰り返しの上の繰り返し、それに重なる形での問いかけの繰り返しの上の繰り返しによって、ある対象を反映させるにしても、その人なりの反映となっていくのである。つまり、個性的反映、個性という枠組みを持った像となるのである。これが通常の大人の場合である。ところが、これが幼い子供であったのなら、個性とよべるレベルにはまだ到達していない認識であって、いわば柔軟に対象を反映させることができるのである。古代ギリシャは、当時の世界文化の中心地であるオリエントと比べればはるかに幼い文化レベルであったため、いわば大人に教えを受ける子供のように、全てを正しいものとしてオリエントの文化を学ぶことができたのであり、このことが後の学問創出につながっていったのである。

 個人の「論理能力」を向上させ学問を構築していく場合においても、以上の論理が応用できる。どういうことかというと、個性という枠組みを持った像しか形成できないまでに成熟してしまえば、外界の対象の反映がいわば固定化されてしまい、いずれこの枠組みが認識の発展の限界として作用してしまうことになるのである。ここで、圧倒的なレベルの差がある論理を学ぶ場合、オリエントの文化に対して古代ギリシャが行ったのと論理的に同様の過程を辿る必要がある。つまり、「丸ごと」受け入れる、すなわち今の自分の枠組みを否定してその学ぶべき論理に頭脳を適応させる形で自分の頭脳活動を変革していくことによって、自らを閉じ込めていた枠組みを突破する必要があるのである。「相手の優れた部分を自分のものとして吸収しようとする」レベルでは、いわば今の自分の認識を土台にして、それにプラスアルファしようとしているのであるから、自らの認識の枠組みに規定されて、大きな進展は見込めないのであるが、外界の反映を決定的に変革すべく、今の自分を棄てる覚悟で、新たな認識の枠組みを創造することこそが、特に受験勉強によって知識的な頭脳活動しか展開できない「秀才」にとっては、「論理能力の生成発展」にとっての決定的な役割を果たすことになるのである。古代ギリシャがオリエントの文化に学んだ際には、強烈な憧れに規定される形でオリエントの文化を「丸ごと」受け入れることをいわば無意識的に行ったのであるが、個人が「論理能力」を向上させようとする際には、この「丸ごと」受け入れるという過程を意図的に行っていく必要があるということである。

 歴史的=論理的な学びとはこのようなことであって、「論理能力の生成発展」をこそ目指すものであって、単なる知識の集積ではないのである。
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2016年03月25日

一会員による『学城』第3号の感想(3/13)

(3)国家論はどのように発展してきたのか

 今回は加納哲邦先生の国家論論文を取り上げる。この論文では、国家論の歴史の主要な流れが概観され、最後に国家の概念規定が示される。

 本論文の著者名・タイトル・リード文・目次は以下である。なお、『学城』誌上では、目次はなく、本文に項番のみ振られているため、その項番に私なりにタイトルを付して目次とした。

加納哲邦
学的国家論への序章(3)
―マルクス主義の「国家論の歴史」を問う―

 国家論の歴史の主要な流れに沿って、ヘーゲル、マルクス・エンゲルス、レーニン、三浦つとむ氏、滝村隆一氏の国家の把握を簡潔に取り上げ、国家の正しい概念規定がなされていないことを説き、終わりに筆者の概念規定を示す。

 〈目 次〉
 (1) 前回のまとめ
 (2) ヘーゲルは法としての国家の実体を説いた
 (3) マルクス・エンゲルスは国家は死滅すると説いた
 (4) レーニンは国家を暴力機関と捉えた
 (5) 三浦つとむは国家意志こそ国家そのものであるとした
 (6) 滝村隆一は国家を〈広義の国家〉と〈狭義の国家〉とに区分けして把握した

 本論文では、ヘーゲル『歴史哲学』における国家の記述の意味を問うた前回の内容が確認された後、再度ヘーゲルから滝村氏への国家論の流れが概観されていく。ヘーゲルについては、『法の哲学』における国家の規定が引用され、それをヘーゲルの学問体系から解き、唯物論的な言葉で説きなおされている。ただし、この概念規定はあくまでも法としての国家の実体を説いたものであって、国家論として説いたものではないことが確認される。次にマルクス・エンゲルスであるが、彼らは一切の社会的変化と政治的変革の究極の原因を経済のうちに求め、ヘーゲルが「具体的自由の現実性」として説いた国家を、「被抑圧階級を抑制し搾取するための手段」と位置づけ、生産手段を社会全体のものにする労働者階級の革命によって死滅するものだとしたとされる。この学説を受け継いだレーニンについては、自らの経験や立場に規定されて、国家を暴力機関と捉えたこと、これは国家の一機能にすぎないもの一般化してしまっていることが説かれる。この国家暴力機関説に対して、「国家意志説」が次に取り上げられる。三浦つとむはエンゲルスの記述をふまえて、国家は国家意志を介してでないと行動できない、国家意志こそが国家そのものであると主張したと説かれる。そして、この「国家意志説」に対して、滝村氏が国家Macht説を構築したとして、その中身が説かれていく。滝村氏は国家を国家(〈広義の国家〉)と国家権力(〈狭義の国家〉)にしっかりと区分けし、その統一こそが国家であるとしたことが述べられる。しかし、学問的見地からは、国家の概念規定は唯1つでなければならないとして、最後に著者の国家の概念規定である「国家は社会の実存形態である。」が示される。

 本論文においても、まず取り上げなければならないことは、『学城』第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力の生成発展」ということに関わっての問題である。前回、近藤論文を取り上げて、「論理能力」を養っていくためには具体的にどのような研鑽を行っていくべきかとして、「ヘーゲルやマルクス、さらにはクノーやレーニン、三浦つとむや滝村隆一の国家学説に関して、歴史的=論理的な発展過程を自らの一身において繰り返す」必要があることを説いた。本論文において加納先生は、まさにこの研鑽を実地に積んでこられたことを証明しておられるのである。

 ここでもう少し突っ込んで、国家学説の流れを歴史的=論理的に一身に繰り返すことの意味を整理しておこう。どのような学問の発展過程であれ、人類はそれまでの学説を充分に検討し、論理的な弱点を克服して、新たな学説を打ち立てる流れを辿ってきている。その原点に立ち返れば、そもそも古代ギリシャにおいて、外的世界の対象の反映たる像から徐々に論理的な像へと頭脳活動が発展していったのである。つまり、直接反映した像から自らが創造した像へ、それも外的世界の対象のあり方から相対的に独立した論理的な像の形成へと、認識の実力を向上させていったのである。

 こうした人類の系統発生における認識の発展、学説の進歩は、論理能力を創出し発展させてきた過程と直接の関係にある。つまり、外的世界の対象とする事物・事象の共通性を一般性としてどれ程に把握し得るかという実力こそ、学問の発展の大本であり論理能力そのものなのである。人類は、論理能力を創出し発展させていく過程を通じて、諸々の学問における学説を徐々に徐々に発展させてきたのである。

 こうした認識の発展過程については、学問の創出を志す個々の人間の個体発生においても必要不可欠である。逆にいえば、個体発生は系統発生を論理的に繰り返すことによってこそ、学問の創出が可能な頭脳活動を手に入れることができるのである。だからこそ、どのような学問を志すにしても、その発展過程について、大きな流れとして(時には後退する場面もあるがそれらは捨象して)、歴史的=論理的に一身に繰り返す研鑽過程が必要となってくるのである。

 ではなぜ、他の学問分野ではなくて、国家学説の流れを繰り返す必要があるのか。この問題についても前回説いた通り、端的には、「国家の体系性と学問の体系性との間には大きな共通性がある」からである。つまり、国家という対象の論理性を把握することは、学問を論理的、体系的に創出していく上で大きな役割を果たすということである。このことを本論文では、実際に行っておられるのである。

 では、ヘーゲルから滝村氏、さらには加納先生に至る国家学説の大きな流れについて、具体的にどのような論理的な発展があったのだろうか。現時点で筆者が把握できたことを述べると以下の通りである。

 まずヘーゲルにおいては、国家を「絶対精神」の自己運動という側面から把握したことが挙げられる。これはヘーゲルにおいては国家の把握に限らず、世界の全てを「絶対精神」の自己運動から展開していることからして、当然の把握である。そしてヘーゲルは、国家の完成を「具体的自由の実現性」、つまり真の自由が現実のものとなるのは国家において他にないと捉えたのである。

 これに対してマルクス・エンゲルスは、国家を「被抑圧階級を抑制し搾取するための手段」として把握した。彼らは唯物論の立場に立って、経済的構造が国家のあり方を規定すると考え、当時資本主義の矛盾が激化して、労働条件の悪化、労働者の貧困化が極度に進展した情況において、資本家階級の労働者階級への抑圧を国家の本質的なあり方が現象したものと捉えたのであった。ここから、国家権力こそが国家であると規定し、国家は階級分裂によって生じ、プロレタリア革命によって将来的には死滅するものだと主張したのであった。さらにレーニンにおいては、国家を「暴力機関」として捉えるまでになったのである。

 このレーニンの国家=暴力機関という実体的な国家の把握に対して、三浦つとむは「国家意志説」を提唱した。これは、暴力的な抑圧の主体である国家という把握から、国家の行動の契機である国家意志に着目して、支配階級が如何にして支配階級の特殊的利害を社会全体の一般的利害であるかのように偽装して国家意志を成立させるのかという点を暴いたものであった。

 そして滝村隆一であるが、彼はマルクス・エンゲルス以来、これこそが国家であると捉えられてきた国家権力という側面を、〈狭義の国家〉として把握し、これに対して〈広義の国家〉、すなわち国家意志を頂点とする政治的支配=被支配関係の総体をも統一して把握すべきだと主張したのである。端的には、国家を二重性において捉え、〈狭義の国家〉と〈広義の国家〉の統一的把握が国家であるとしたのである。

 最後に加納先生の「国家は社会の実存形態である。」についてであるが、これは滝村の国家に対する二義的な説明を克服し、さらに国家と社会との関係を明確に示したものとして、国家の本質を把握した概念規定である。

 非常に簡単に述べたが、これ以上の詳細については追って考察していくこととしたい。
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2016年03月24日

一会員による『学城』第3号の感想(2/13)

(2)国家の体系性を論理的に把握するとは

 今回から、『学城』第3号に掲載されている各論文について、順次その感想を述べていきたい。

 初めに取り上げるのは、近藤成美先生のマルクス「国家論」に関わっての論文である。ここでは、前号に引き続き社会学者クノーの著作である『マルクス歴史・社会・国家学説』が取り上げられ、マルクスの国家観に対するクノーの批判内容が説かれていく。

 まずは以下に、本論文の著者名・タイトル・リード文・目次を掲載する。

近藤成美
マルクス国家論の原点を問う(3)
―ヘーゲルから継承した市民社会と国家の二重性について―

 本稿では、前回に続いて『マルクス歴史・社会・国家学説』を繙き、ヘーゲルおよびマルクスの捉えた社会と国家について概観する。そして、クノーが見事に指摘したマルクス「国家論」の孕む大いなる欠陥について説く。

 〈目 次〉
はじめに
  C 小括―ヘーゲルの捉えた市民社会と国家
   (a) クノーの説く「ヘーゲルの捉えた市民社会と国家」
   (b) ヘーゲルの「国家」とは何か
 (3) クノーによるマルクス「国家論」の批判
  A 第十一章 国家の発生および発展
   (a) クノーの説く「マルクスの捉えた市民社会と国家」
   (b) 国家の誕生をめぐって
  B 第十二章 マルクス国家観の批判

 本論文ではまず、前回の振り返りとして、クノーが『マルクス歴史・社会・国家学説』において意図したことが、マルクスの国家や社会についての考えの系統立った展開であることが確認され、補足的な説明が加えられる。そして今回は、マルクスの国家と社会をめぐる論説に対するクノーによる批判が検討されていく。マルクスは国家廃絶論を唱えるのであるが、その後にどんな社会が来るのかについて何も提示されていないというクノーの指摘が紹介され、さらにマルクスが階級分化による国家形成を主張したことに対しても、外からの征服による国家の成立という事実が多いのだとクノーが反論したことが述べられる。すなわち、マルクスの国家論が「内的国家」(〈国家権力としての国家〉、〈狭義の国家〉)のみで国家形成を説いていて、「外的国家」(〈社会構成体としての国家〉、〈広義の国家〉)をまったく顧慮していないというのである。だからこそ、マルクスは革命で国家権力を奪取したあとの国家についての構想がなにもないのであって、本来であれば、「外的国家」もしっかりと把握する必要があるとクノーは説くのである。最後に、このクノーの批判は1920年というロシアで革命が成功し社会主義国家が形成されつつある時代になされたのであって、その時代にマルクスの説いた国家や社会について、ここまで詳細な読み込みと系統的な批判を行ったことは見事であると説かれる。

 この論文に関してまず取り上げたいことは、「国家とは何か」ということに関してである。「一会員による『学城』第1号の感想(2/13)」でも述べたが、この「国家とは何か」という問題は、学問の体系性に大きく関わっているのである。南郷継正先生は次のように説いておられる。

「哲学とは学問としての国家体系である。より正確には、学問としての哲学の体系とは実体世界の国家体系を論じる国家学に対しての、いわば観念的世界における学術国家としての体系学であり、端的には学 国家学である。」(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第八巻』p.287)

 これはどういうことかというと、現実の世界において、国家意志が頂点に立ち整然と秩序だった統括を行うことで国家が成立していることと、認識の世界において、本質論が頂点に立って整然と秩序だった統括を行うことが学問であることとを、共通の論理構造をもつものとして捉えることができるのだ、ということである。別の言葉でいえば、学問体系を観念の世界に創出しようとするならば、現実の世界における国家の体系性を筋を通して学び把握する必要があるということである。だからこそ、学問構築を志す『学城』誌において、第1号からこの第3号まで、冒頭2つの論文がいずれも国家学を扱うものになっているのである。

 では、国家の形成過程とはどのようなものなのか。この問題について本論文では、国家が社会の実存形態であること、サルの集団が本能的集団であるのに対して、人間の集団は規範的集団であるから、その規範に基づいた労働によって地球を大きく変えていき、またそのことによって人間自身をも変えていったこと、このため人間の共同体が次第に大きく広がっていき、他共同体との遭遇を契機として、外的内的な共同体の組織が国家意志の統括のもと国家として形成されていったことなどが、「いのちの歴史」の論理構造を踏まえながら展開されているのである。

 こうした国家の形成に関する説は、第3号全体を貫くテーマとして設定した「論理能力」を磨き上げることなしには、決して説けないレベルの理論であると思う。では、こうした「論理能力」を得るためには、どのような研鑽が必要になってくるのであろうか。それは、本論文でも展開されているような、ヘーゲルやマルクス、さらにはクノーやレーニン、三浦つとむや滝村隆一の国家学説に関して、歴史的=論理的な発展過程を自らの一身において繰り返すことである。ヘーゲルは国家をどのように捉えたのか、マルクスはどうか、クノーは、と1つずつの学説を丁寧に把握しようと努めるだけでなく、また、現実の国家のあり方を詳細に分析するだけでもなく、例えば、マルクスはヘーゲルの国家学説のどの部分を継承しどの部分を発展させ、どういう面で後退したのか、それは当時の社会情勢にどのように規定されてのことなのかといった各学説のつながりを、社会のあり方も含めた大きな流れとして把握する努力が必要になってくるのである。こうした努力の末に把持できた「国家の体系性」を導きの糸として、学問の体系性を把握し、自らの学問を創出していく努力を積み重ねることで、漸くにして「論理能力」を培っていけるのである。「論理能力」をほかから切り離してそれ自体を磨き上げるということなど不可能であって、特定の対象から論理を導き出す鍛錬が必要なのであって、その対象としては、学問の体系性につながる「国家の体系性」を究明していこうとする頭脳活動が、どの専門分野にとっても必要となってくるのである。

 さて、本論文に関してもう1つ触れておきたいことは、クノーが「自らの学者としての誇りを賭けて」(p.20)マルクスの「国家論」を批判したことについてである。『マルクス歴史・社会・国家学説』の出版は1920年であって、当時ロシアでは社会主義革命が成功し、「ロシア革命万歳の時代」(p.21)であったにもかかわらず、その理論的支柱となったマルクスの「国家論」を批判しえたことは、自らが把握した論理が正しいという大きな自信に支えられた相当の覚悟がなせる業である。『学城』第2号のテーマであった「大志・情熱」との関連でいえば、「大志・情熱」があればこそ「論理能力」の研鑽に邁進できるという側面もあるのであるが、「論理能力」を厳しく鍛えることによって、自らの「大志・情熱」を大きく燃え上がらせ、もってどんなに神聖化された論理であろうとも果敢に挑んでいくことができるという側面もあるという、相互浸透の関係をよく掴んでおく必要がある。クノーには、本論文で説かれている「論理能力」のみならず、「大志・情熱」をも学ぶ必要があろう。
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2016年03月23日

一会員による『学城』第3号の感想(1/13)

《目 次》(予定)

(1)「論理能力の生成発展」が『学城』第3号の全体を貫くキーワードである
(2)国家の体系性を論理的に把握するとは
(3)国家論はどのように発展してきたのか
(4)先進的な文化を丸ごと受け入れることが頭脳活動の発展には必要である
(5)文化の発展には「場所の移動」が必須である
(6)学問体系を構築するためには論理的な学びが必要である
(7)研究と学問の違いとは何か
(8)人類の系統発生における論理能力の獲得と発展過程とは如何なるものか
(9)江戸末期に日本が導入した西洋の医学教育とはどのようなものであったか
(10)論理能力は学問創出の土台である
(11)学問の構築には意志の強さ、素直さ、身体的強靭さが必要である
(12)対象の運動性に着目できる論理能力=弁証法の実力を養成する必要がある
(13)学問の創出には、「論理能力の生成発展」を論理的に理解する必要がある


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(1)「論理能力の生成発展」が『学城』第3号の全体を貫くキーワードである

 2015年10月24日から本ブログに連載した「一会員による『学城』第2号の感想」において、第1号の感想を認めた理由について、最新号の『学城』の感想を論じていくつもりであったが、ある偶然のアクシデントのため、第1号の感想をその代用としたことを述べた後、次のように説いた。

「ところが、この原点ともいえる第1号の感想を認めるうちに、これは最新号の『学城』を本当の意味で理解して自分の実力とするためには、さらには自分の学問を自力で創出していく土台となる学問力を創り上げるためには、どうしてもこの『学城』が辿ってきた道のりをもう一度(といわずに何度も何度も)辿り返す必要があるのではないか、そのためにも、これまで感想をブログ掲載論稿の形でまとめられていない第2号から第7号までの『学城』についても、じっくりと学び直す必要があるのではないか、と思われてきたことであった。」

 つまり、今後は毎年2号ずつ発刊されるであろう『学城』を読んで自らの実力を向上させる契機とするためには、『学城』がこれまで辿ってきた軌跡をしっかりと踏まえる必要があるのであって、そのためには、これまで執筆できていなかったかつての『学城』についてもしっかりと学び直す必要があり、その一環として感想小論を執筆していくのだ、ということである。

 そこで『学城』第2号に関しては、「大志・情熱」というキーワードをもとに個々の論文の感想を認めたのであった。そして「一会員による『学城』第2号の感想」の最終回には、南郷継正先生が高校生に贈った人生論として『武道と弁証法の理論』に再録しておられる文章を引用した後、次のように説いておいた。

「つまり、この連載で注目した「大志・情熱」ということはもちろん必要で重要なことではあるのだが、これだけではいわば片手落ちであって、もう1つ、「論理能力」というものもしっかりと把持すべく研鑽する必要がある、ということである。これがなければ、悪くいえば、「地獄への道は善意の敷石で敷き詰められている」ということにもなりかねない、ということである。思いだけで突っ走ってもダメであって、そこに筋が通っているかどうかをもしっかりと確認しながら進む必要があるということである。」

 南郷先生は、現今の若人に欠けているものとして、〈大いなる志〉と〈論理能力〉を挙げておられたのであった。だから、第2号全体を貫くテーマである「大志・情熱」ということももちろん大切なのであるが、それだけではなくて、「論理能力」を磨いていくということも怠ってはならないのだと結論しておいたのである。

 さて、以上を踏まえる形で今回からは、『学城』第3号の感想を認めていくこととする。そこで今回も、第3号全体を貫くテーマを見出し、このテーマから各論文について学んだ中身を展開していくこととしたい。それでは第3号全体を貫くテーマとは何か。ここまでの流れでもうお分かりかと思うが、それは「論理能力」もしくは「論理能力の生成発展」ということであろう。第1号においては「原点」というキーワードのもと、学問を構築していく上では常に「原点」に立ち返ることが必要であることが説かれ、その上で、第2号、第3号において、今の若者に大きく欠けている〈大いなる志〉と〈論理能力〉を養成するためにはどのような学びをすべきかが説かれているというわけである。

 これだけでは、第3号全体を貫くテーマが「論理能力」もしくは「論理能力の生成発展」だということに納得されない向きもあるかもしれない。そこでここでは、「巻頭言」において南郷先生が説かれている内容について少し見ておくこととしよう。南郷先生は、『学城』やかつての『試行』のような学問誌が10号にまで積み重なっていくには、「大きく超えなければならない巨大な壁が存在する」(p.1)として、「論文を書くためには、少なくとも対象的事実の共通性をまずは導きだし、そこを一般性として把握できるだけの実力を必要とする」(p.2)こと、「一本、また一本と論文の質的向上を果たす必要がある」(同上)ことを説いておられる。「対象的事実の共通性をまずは導きだし、そこを一般性として把握できるだけの実力」とは、つまり「論理能力」のことであり、その「質的向上」こそが学問には必須である、ということである。

 以上を踏まえれば、第3号全体を貫くテーマが、まずは論文を書けるために必要な論理能力を創出すること、及びその論理能力を向上させていくことにある、つまり「論理能力」「論理能力の生成発展」である、ということがお分かりいただけるのではないか。「編集後記」においては悠季真理先生も、「学的研鑽の内実を筆にする困難さ」「学問的レベルでの弁証法の構造をもっての理論性の頭脳活動を創出しながらの論文執筆」(p.229)という表現でもって、「論理能力の生成発展」過程を持つことが学問にとって(どれほど困難であっても)どれほど重要であるかを説いておられる。

 ただし、ここで断っておかなければならないことは、この小論の目的が、第3号全体を貫くテーマが「論理能力の生成発展」にあることを証明することにあるのではなくて、あくまでも「論理能力の生成発展」という観点を設定して、そこからこの第3号を学んでいこうということにある、ということである。第2号で学んだ「大志・情熱」ということを土台として、その上に如何に「論理能力の生成発展」過程を重ねていけるのか、こういう視点で第3号を学んでいくこととしたい。

 では最後に、『学城』第3号の全体の目次を以下にお示ししておく。

学城 ( ZA-KHEM,sp ) 第3号


◎南郷継正  巻 頭 言
      ―学問を志す初学者たちに

◎近藤成美  マルクス「国家論」の原点を問う(3)
      ―ヘーゲルから継承した市民社会と国家の二重性について

◎加納哲邦  学的国家論への序章(3)
      ―マルクス主義の「国家論の歴史」を問う

◎悠季真理  古代ギリシャの学問とは何か(3)

◎悠季真理  古代ギリシャ哲学、その学び方への招待(3)
      ―ポリス社会が誕生するまでのギリシャ小史

◎瀬江千史  「医学原論」 講義 (第3回)
      ―時代が求める医学の復権

◎本田克也  ウィルヒョウ 『細胞病理学』 なるものを問う(上)
 瀬江千史 ―研究至上主義は学問への道を断つ

◎諸星史文  学問形成のために問う医学の歴史(3)
 悠季真理 ―医学史とは何か

◎小田康友  日本近代医学教育百五十年の歴史を問う(2)
      ―医学教育論序説

◎北嶋 淳  人間一般から説く障害児教育とは何か(2)

◎井上真紀  青頭巾 ― 『雨月物語』 より(上)
      ―悟りへの道を考える(2)

◎田熊叢雪  現代武道を問う 〔T〕 ―居合とは何か(3)

◎南郷継正  東京大学学生に語る 「学問への道」(1)
      ―平成十六年、夏期東京大学合宿講義

◎南郷継正  欧州版 『武道の理論』
 悠季真理 ―科学的武道論への招待

◎悠季真理  編集後記

 次回以降、順次各論文の感想を認めていくが、その際、この第3号全体を貫く「論理能力の生成発展」というテーマを常に念頭において、論を展開していくこととする。なお、連載回数の都合により、本稿では田熊叢雪「現代武道を問う〔T〕 ―居合とは何か(3)」及び南郷継正、悠季真理「欧州版『武道の理論』 ―科学的武道論への招待」を取り上げることができないことを予めご了承いただきたい。
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2016年03月22日

仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―(5/5)

5.真のアクティブ・ラーニングの実現に向けて

 現在、日本企業の国際競争力の向上ということを大きな目的として、主体的に考える人間を育てる必要性が叫ばれており、そのための方法としてアクティブ・ラーニングが注目されています。しかし、日本社会を維持・発展させていくには、日本企業の国際競争力の向上のための人材育成という狭い視点で考えるのではなく、人類がこれからどのような社会を創っていくのかを踏まえて現代日本が抱えている諸々の問題を主体的に解決に導いていける国民を育てることこそが求められています。そのような国民を育てる真のアクティブ・ラーニングを実現するためにはどうすればいいのかを探るべく、本稿では仮説実験授業を取り上げ、その意義と問題点について見てきました。

 ここでこれまでの流れを振り返ってみましょう。

 まず、(アクティブ・ラーニングとしても紹介されている)仮説実験授業を取り上げ、それがどのような子どもを育てているのかについて見てきました。仮説実験授業では、自然科学におけるもっとも一般的で基礎的な諸概念を学びとらせるために、原則として、テキストに構成された「問題」をあたえ、それについて「予想」をたてさせ、ついでその予想をたてた考え(仮説)をだしあって、「討論」をおこなわせ、最終的には「実験」によって決着をつけさせていくのでした。このプロセスをくりかえすことによって、諸概念の習得ならびに科学の方法の獲得をはかっているのであり、実際に討論の過程や授業を受けた子どもの感想からは、自分のアタマを働かせて問題に取り組むことをとおして、問題に取り組む力を高めていくとともに、問題に取り組む姿勢が育っていることを見てとることができるのでした。まさに主体的に考える力や姿勢を身につけた子どもが育っているのでした。

 仮説実験授業でこのような子どもを育てることができたのはどうしてなのかを上達論の観点から検討しました。南郷先生の上達論では、技化の過程が大きく3つに区分されており、その中でも「覚えた技を使用に耐えうるように仕上げる段階」をしっかりと辿らせることが重要だということでした。そうすると時間がかかるため、習得させる技は限られている方がよいとういことでした。その観点で見たとき、仮説実験授業では自然科学上のもっとも一般的で基礎的な諸概念というごく少数の技を身につけさせようとしていること、さらに、繰り返しその諸概念を学ばせるプロセスを保障していること、この2つが大きく評価できるということでした。このように上達論に沿った授業となっているために、鈍才の子どもも含めて全員がその概念・論理を使えるようになってくるのであり、そのことをとおして、自分の力の向上を自覚し、新たな問題に取り組む姿勢が養われてくるのだということでした。

 最後に仮説実験授業の問題点について見てきました。板倉氏は自らの専門である自然科学史の究明を踏まえて、そこから導き出した論理(予想を立てて対象の構造に挑むという論理)を教育方法として組み込もうとしたのでした。この発想そのものは「個体発生は系統発生を繰り返す」という論理を適用したものであり評価できるものの、その系統発生が自然科学における人類の認識の発展過程に限定されているという問題点があるのでした。さらに、「個体発生は系統発生を繰り返す」とはいうものの、人類の認識の発展過程と個人の認識の発展過程は相対的な独立の関係にあるにもかかわらず、仮説実験授業では直接的に両者が結びついていたのでした。したがって、社会科学、精神科学を踏まえて人類の一般的な認識の発展過程を明らかにするとともに、そこを土台として個人としての認識の発展過程の特殊性を捉えていくことが今後の課題になるということでした。

 以上を踏まえて、真のアクティブ・ラーニングを実現するためのポイントを整理するならば、基礎的・基本的な論理を徹底的に技化することが必要であるということになります。では、(自然科学のみならず社会科学や精神科学も含めて)そもそも基礎的・基本的な論理は何なのか、その技化の過程(個人としての認識の発展過程)はどのようなものなのかを明確にすることが課題であり、そのためには自然科学史・社会科学史・精神科学史を踏まえて人類の認識の発展過程を明らかにしなければならないということになります。

 現在、筆者が考えている構想を教育課程というレベルで簡単にデッサンするならば、次のようになります。(4)で触れたように、対象に対して予想を立てるためには、様々な体験・経験を積んでおく必要があります。この体験・経験をまずは小学校低学年で保障しておくことが必要になります。低学年はまだまだ抽象的な思考ができませんから、このときに論理を学んでそれを使いこなしていくという学習はなじまないでしょう。

 そこから小学校中学年になると、徐々に抽象的に考える力が芽生えてきますから、基礎的・基本的な論理を学び、それを使って種々の問題に取り組んでいかせればよいと思います。

 さらに、思春期を迎える頃になれば、創られた問題ではなくて、現実の問題に取り組ませることも必要になってきます。例えば、学級で起こる様々な問題を自分たちの力で解決に導いて行かせるということです。学級とは子どもにとっての社会ですから、そこで起こった問題を解決させることは、自分たちが大人になったときの社会に存在している様々な問題を解決していくための力を養うことにつながるでしょう。

 こうした構想をより整え、具体化することにより、真のアクティブ・ラーニングが可能になるものと思われます。そのために、自然科学史・社会科学史・精神科学史、およびそれらを統括する哲学史をしっかりと学んで人類の一般的な認識の発展過程を明らかにするとともに、自らの教育実践の事実に基づいて個人としての認識の発展過程を明らかにする作業に取り組んでいくことを決意して、本稿を終えたいと思います。
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2016年03月21日

仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―(4/5)

4.仮説実験授業の問題点

 前回は、なぜ仮説実験授業は、子どもたちの主体的に考える力や姿勢をそだてていくのかという点について、南郷先生の上達論を踏まえて検討しました。上達論の観点からすれば、技化においては「覚えた技を使用に耐えうるように仕上げる段階」をしっかりと辿らせることが重要であり、またその段階を保障するために習得させる技を限定した方がよいということでした。この観点から見たとき、もっとも一般的で基礎的な諸概念というごく少数の技を身につけさせようとしていること、さらに、繰り返しその諸概念を学ばせるプロセスを保障していること、この2つが大きく評価できるということでした。

 しかし、一方で仮説実験授業には問題点も存在しており、南郷先生も「現代教育に欠けたるもの」(五十嵐良雄、渡辺一衛編『教育とは何か』1979年、三一書房)という小論の中で指摘しておられます。今回は、南郷先生の指摘に沿う形で、仮説実験授業の抱える問題点について見ていきたいと思います。

 南郷先生は、そもそも教育(とくに学校教育の目的の重要事)は歴史的に形成されてきた文化遺産の継承であり、新たに文化の発展をもたらす基礎づくりにあるとした上で、そのために必須の<大志>と<論理能力>の育成が現代教育には欠けていると指摘しておられます。とりわけ、論理能力の「訓練の場はごく少数を数えるだけであり、それも不完全な形で存在するのみ」と書いておられます。ここで論理能力とは、「自己の専門とする対象の構造を徹底的に究明してその性質を把握し、それらを一般化し、体系化する能力」のことであり、常識的にいうならば「未知の問題を解く能力」です。これを不完全な形で訓練しようとしているのが仮説実験授業だと言うのです。

 では、仮説実験授業のどこが不完全だということなのでしょうか。ここで南郷先生は、そもそも仮説実験授業がどういう論理で組み立てられたのかを確認しておられます。

「彼、板倉は科学史の流れを究明することにより、人間の認識の一般的発展形態の一つに、予想をたてて対象の構造に挑む論理が存在することを発見したのである。そしてここから、予想の失敗が対象をより明確にする構造をもっていることを捉え、これを教育に適用して授業体系=個人の認識の発展の科学化をはからんとしたのである。」(同上書、p.119)

 つまり、板倉氏は自然科学の歴史を究明する中で、人類の認識は予想を立てて対象の構造に挑むという論理があることを発見し、それを踏まえて授業においても予想を立てて対象の構造に挑ませることが必要だとして、仮説実験授業の中に予想の段階を組み込んだということです。これは「個体発生は系統発生を繰り返す」という論理を適用したものと言えるでしょう。この発想そのものは南郷先生も評価しておられます。

 しかし、問題点が2つあると指摘しておられます。1つ目については以下です。

「第一点は、なるほど科学化は自然を対象としたものを中心として発展したのは事実である。しかし、自然だけが科学化されるわけはなく、社会も精神(認識)もそうである。(中略)科学史の対象が自然に限定されてよいわけはなく、限定すれば当然に特殊な論理、つまり、社会史あるいは精神史とは相対的に独立した論理の過程の発展史とならざるをえないものである。」(p.123)

 板倉氏は「個体発生は系統発生を繰り返す」という論理を適応するため、系統発生、つまり人類の認識の発展過程を明らかにしようとしたものの、それはあくまでも自然科学的な認識の発展過程にすぎず(しかも自然科学史から導き出してきた論理も現象論のレベルに過ぎないと指摘しておられます)、そのままでは特殊性を帯びたものにしかならないということです。例えば、実験のしようのない歴史学などではどのようにして科学的認識を成立させればよいのかという問題が浮上してきます。したがって、社会科学史、精神科学史の発展形態の究明も踏まえて、一般的な人類の認識の発展過程を明らかにする必要があるということです。

 もう1つは以下です。

「第二点は、人類の一般的な認識の発展形態は仮に究明しえたにしても、それは一つの大きな特殊性を含むものであることを捉える必要があるということである。別言すれば、それは対象に対する一般的な問いかけの発展形態でしかない。しかも、大人の、成熟した認識のそれである。(中略)教育は単純に人間の認識の歴史的な発展史の構造のリプリントではない。」(同上書、pp.124-125)

 つまり、社会科学史や精神科学史の発展形態を究明し、人類の認識の一般的な発展過程を明らかにしたとしても、それはそのまま個人としての認識の発展過程として適用することはできないということです。個人としての認識の発展過程は個人としての認識の発展過程として特殊性をもっているのであり、ここを明らかにしなければならないということです。

 例えば、予想をもって対象に迫ることで認識が発展するということは、自然科学であろうと、社会科学であろうと、精神科学であろうと、共通するものだと言えます。では、そのあり方をそのまま子どもに求めてよいのか、極端な話、3歳児程度の子どもに予想を立てさせるのがよいのか、ということです。

 そもそも予想を立てることができるのは、その問題に対しての似たような体験・経験があるからです。そうした体験・経験に基づいて「こうしたらこうなるのではないか」という予想を立てるわけです。予想のもととなる体験・経験がなければ、予想を立てることができません。したがって、まずは様々な体験・経験を積ませることが必要だということになるでしょう。

 以上をまとめると次のようになるでしょう。板倉氏は自らの専門である自然科学史から導き出した論理(予想を立てるという論理)を教育に適用しようとして仮説実験授業を組み立てたのであり、この発想自体は「個体発生は系統発生を繰り返す」という論理を適用しようとするもので評価できるものの、あくまでも自然科学に限られた人類の認識の発展過程しか明らかにできておらず、しかも人類の認識の発展過程と個人としての認識の発展過程の違いを無視して直接的に教育方法として組み込んでいる点が問題だということです。したがって、自然科学史のみならず社会科学史・精神科学史の究明を踏まえて一般的な人類の認識の発展過程を明らかにし、それを土台としながら個人としての認識の発展過程の特殊性も押さえていくことが今後の課題だということです。
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2016年03月20日

仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―(3/5)

3.仮説実験授業の意義

 前回はアクティブ・ラーニングとして取り上げられている仮説実験授業に注目し、仮説実験授業ではどのような子どもが育つのかを見てきました。そこでは、自分のアタマを働かせて問題に取り組むことをとおして、問題に取り組む力を高めていくとともに、問題に取り組む姿勢が育っていることを見てきました。

 では、なぜ仮説実験授業ではこのような子どもが育つのでしょうか。この点について、南郷継正先生の上達論を踏まえて検討していきたいと思います。

 南郷先生は、自ら武道の修行に取り組むと共に弟子を育てる中で、一般的にいかなる過程で技が上達していくのかを明らかにされました。その中身は、技には創る過程と使う過程があるというものです。ここをもう少し詳しくみると、3つの段階に分かれると説いておられます。

上達の構造図.png

「まともな上達法を図示してみると(図1)の如くになる。
Qは技を覚える段階である。
Pは覚えた技を使用に耐えうるように仕上げる段階である。
Xは使用に耐えうる技を使う段階である。
この図の中でのXの段階は、使用に耐えうる技を使う段階であると説明したが、正確に言うならば、これは立体的な構造を持っているのであって、仮に今、まともな上達を踏まえた場合のこととしての説明であり、一般的に説明するならば、このXは独立して勝負の段階として存在するものである。」(南郷継正『武道の理論(増補版)』三一書房、1972年、p.124)


 つまり、「技を覚える段階」「覚えた技を使用に耐えうるように仕上げる段階」「使用に耐えうる技を使う段階」という3つがあるということです。ここで特に重視されているのは「覚えた技を使用に耐えうるように仕上げる段階」です。突きや蹴りといった技の形を覚えれば、その技の形が崩れないように意識しながら、やがて自然とその形がとれるようになるまで繰り返し繰り返し練習をしなければならないということです。武道界では、この段階が抜け落ちていて、Q→Xという過程を辿っていると批判しておられるのです。

 さらに、このようにPの段階を辿らないのは、数学の学習などで「公式→応用問題」という習慣がついているせいだと指摘しておられます。公式をもっとよく理解させさえすれば、つまり公式をとことん教えこむ段階(Pの段階)を辿らせれば難解ではないものの、すぐに応用問題へ突っ走ってしまうから、鈍才の子どもが理解できないのだと説いておられます。

 このように技化の過程には多くの時間が必要とされるのであり、もし習得すべき技の数が多ければ、到底、時間が足りないということになります。その意味で、南郷先生は600種類以上の秘技があると豪語している少林寺拳法を批判しておられます。身につけるべき技は少ない方がよく、あとはその技を変化させていくべきだということ、つまり使い方の問題だということです。

 このような上達論の観点からして、仮説実験授業を眺めてみましょう。そもそも仮説実験授業は「自然科学におけるもっとも一般的で基礎的な諸概念を学びとらせる」ことを目的としていました。ものの重さや力の原理といったもっとも基本的な概念・論理を習得させるものです。こうした概念・論理は決して多くはありません。つまり、ごく限られた少数の技を身につけさせようとしているのであり、これは上達論の観点からみて優れている点だと指摘することができるでしょう。

 また、仮説実験授業は、問題―予想―討論―実験というプロセスを繰り返すことにより、こうした概念・論理や科学の方法を身につけさせていこうとするものでした。実際に授業書には20から30もの問題が配置されており、例えば授業書「ばねと力」では、最初に力の原理が言葉で示された上で、あとはそれに関わっての問題が並んでいるという構成になっています。これは先の3つの段階で言えば、「覚えた技を使用に耐えうるように仕上げる段階」というものがしっかりと確保されていると言えるでしょう。ここがあるからこそ、鈍才であっても、科学上の概念・論理が徐々に使えるようになってくるのです。

 こうして徐々に科学上の概念・論理などでもって予想ができるようになると、討論でも少しずつ自分の意見を主張できるようになり、討論が活発化します。そして実験によって自らの正しさが認められれば、自らの力に大きな自信をもつこととなります。自分が正しいと確信していたにもかかわらず間違いだという結果になれば、次からより慎重に、より深くアタマを働かせることになります。こうして問題と取り組む能力や姿勢というものが育ってくるのです。

 このように、基本技としての科学上の概念・論理を繰り返し学ぶ過程を辿らせることで、鈍才の子どもも含めて全員がその概念・論理を使えるようになってくるのであり、そのことをとおして、自分の力の向上を自覚し、新たな問題に取り組む姿勢が養われてくるのだということです。
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2016年03月19日

仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―(2/5)

2.仮説実験授業とはどのようなものか

 本稿は、仮説実験授業を取り上げ、その意義と問題点を明らかにしようとするものです。そのことをとおして、日本の国際競争力の向上という目的に限らず、広く現代日本が抱える問題を解決するために、主体的に考えていける国民を育てるためにはどうすればいいのかを検討することを目的としています。

 今回はそもそも仮説実験授業とはどのようなものなのか、それによって子どもがどのように育つのかについて具体的に見ていきたいと思います。

 そもそも仮説実験授業とは、「@自然科学におけるもっとも一般的で基礎的な諸概念を学びとらせるために、A原則として、テキストに構成された「問題」をあたえ、それについて「予想」をたてさせ、ついでその予想をたてた考え(仮説)をだしあって、「討論」をおこなわせ、最終的には「実験」によって決着をつけさせていく」というものです。このプロセスをくりかえすことによって、諸概念の習得ならびに科学の方法の獲得をはかろうという授業です(庄司和晃『仮説実験授業』国土社、1965年、p.8)。予想を立てて、他の子どもと討論をするという点で、子どもが能動的に学習に取り組んでいる(つまりアクティブ・ラーニングになっている)と言えるでしょう。

 具体的に見てみましょう。次に示すのは、「ばねと力」「浮力」の学習を経て「まさつ力」の学習に取り組んだ6年生の子どもの討論の場面です。なお、発言者名の後に、「(ウ)→(ア)」とあるのは、(ウ)の予想を立てた子どもが、(ア)の予想の子どもに対して発言していることを示しています。

仮説実験授業(摩擦力).png

ハガ君(ウ)→(ア)
 ほんの少し動けばいいのだから……どうして300g力いるのだろう。角材を横に動かしたとき(平らな机の上で)、地球の引力より少なくて動いた。そのときの静止まさつは、つりさげたものよりも大きいんじゃないの。空気のていこうはうんと少ないんだから、アの人たちは、どうして300g力いるの。

マツダ君(ア)→(ウ)
 それはさっきいったように、両方の力が300g力でつりあっているのだから、それを動かすには300g力いる。それより、ぼくには横に動かすから力がへるというのがわからない。(中略)

イヤマ君(ウ)→(イ)(ア)
 これはさ、けっきょくおもりが動き出すとき、おもりと空気のあいだにどれだけまさつ力があるかってことじゃないのかな。だってさ、机の上での実験が終っているんだし……。(中略)これを逆にいうと、つりあっていて動かないということは、つまりほんの少しの力でも動くということだと思うんだ。机の上を考えると、二つの力が対立している。そうすると、そのものは動かない。それを横に動かすときには、まさつ力を考えればいい。ところが空気中では、空気の抵抗を考えてみればいいんだが、このばあい、空気にはほとんど抵抗がない。だから、空気の抵抗は考えなくともいい。そうすると、ほんの少しの力で動くというりくつになるじゃない。それはだね、はかりのものをのっけたときでも空気の抵抗はある、でもはかりにでた重さは空気中の重さであるから空気抵抗は考えなくていい。すべて空気中ではかるわけだから。(中略)

マツダ君(ア)→(ウ)
 そこのとこがぼくにはよくわからないんだな。…あのね、じゃー聞くけど、ちょっとの力で動くというのは、ほーんのすこーしの力でいいの。ほんとにいいの。
(そう!そう!の声、そちこちより聞こえる)
そうかな、だってさ、家をこわす大きい鉄の玉があるでしょう。ぼくが押しても動かないんだよ。どうして?(中略)

タカギさん(ウ)→(ア)
 あのね、まえにもどるけど、あたし、力の原理で考えて、ほんの少しの力で動くという予想なんだけど、マツダ君達は、どうしても300g力でないと動かないというの。それだったら、すこし幼稚っぽいけどブランコに5人も6人ものったとするよ、それを動かすとき、のった人数でないと動かない?

マツダ君(ア)
 そうか、わりあいらくに動かせるね、そうすると……。
(庄司和晃『仮説実験授業と認識の理論〔増補版〕』季節者、2000年、pp.183-187)


 このように問題に対して予想をし、討論を経て最終的な予想を決めた後、実験によってどれが正しいのかを確認します。この実験のとき、自分の予想が外れると泣き出す子どももいるということです。これが仮説実験授業です(なお、ここでの正解は(ウ)となります)。

 この討論の過程を見てみると、子どもが自分のアタマを働かせながら、問題に迫っていることがわかるでしょう。力の原理という抽象的な法則や身近な具体的な体験や喩え話などを踏まえて、自らの意見を展開し、討論を繰り広げています。ダイナミックな認識の運動が行われているのです。

 1つの授業書にはおよそ20から30ほどの問題が収録されています。例えば、授業書「ばねと力」では、力の原理を身につけさせるために、26の問題が入っています。ただし、すべてがすべて予想―討論―実験という形で進むわけではなく、討論が省略されたり、軽く扱ったりすることもあります。

 このような仮説実験授業を受け続けた子どもはどのように育つのでしょうか。子どもの感想文から見てみましょう。以下は、仮説実験授業と自分との関係を示した感想文です。

「わからないことはとことんまでしらべる人になると思う。」
「考える力がつく。」
「だんだんわかっていく、ぼくは力がつく。」
「予想学習はいろいろな時にとりいれてつかおう。」
「なんでもしらないことをしろうとするときに、いつでもよそうを立てて、いろいろな人といいあい、じっけんしてきめるようになるだろう。」
「なにごともかんがえる人になると思う。」
「なんでもじっけんをするような人になってしまうかも知れない。」
「まちがったことも勉強になった。」
「自分ははんだん力のいい人間になる。」
「自分のほんとうの力がついて少数意見でも自分が思ったことがいえるだろう。」
(庄司和晃『仮説実験授業』国土社、1965年、pp.213-214より抽出)


 これらの感想文から、問題に対して自分のアタマを働かせて取り組むことをとおして、自分自身の認識が発展していることを自覚しているとともに、問題に取り組む姿勢が育ってきていることがわかります。
 このように仮説実験授業は、子どもたちに主体的に考える力や主体的に考える姿勢といったものを身につけさせていくのです。
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2016年03月18日

仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―(1/5)

○目次
1.アクティブ・ラーニングが注目を集めている
2.仮説実験授業とはどのようなものか
3.仮説実験授業の意義
4.仮説実験授業の問題点
5.真のアクティブ・ラーニングの実現に向けて
――――――――――――――――――――――――――

1.アクティブ・ラーニングが注目を集めている

 2014年11月、中央教育審議会の総会において「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」という諮問が下村元文部科学大臣から行われました。学習指導要領についての今後の在り方などについて諮問をしたというわけです。学習指導要領は概ね10年に1度改訂されています。前回の改訂は2008、2009年であり、まもなく次の改訂が行われます。その改訂に向けた諮問です。

 これを受けて、2015年1月から14回にわたって教育課程部会教育課程企画特別部会が行われました。そして、そこで行われた議論をまとめた論点整理が8月に発表されました。

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2015/12/11/1361110.pdf

 ここで最も大きく問われているのは、将来の変化を予測することが困難な時代において、どのような能力を育てるべきかということです。2030年には、少子高齢化が更に進行し、65歳以上の割合は総人口の3割に達する一方、生産年齢人口は総人口の約58%にまで減少すると見込まれています。また、同年には、世界 のGDPに占める日本の割合は、現在の5.8%から3.4%にまで低下するとの予測もあります。さらに、「子どもたちの65%は将来、今は存在していない職業に就く」「今後10年〜20年程度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高い」という指摘もなされています。

 こうした予測できない未来に対応するためには、「社会の変化に受け身で対処するのではなく、 主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出していくことが重要である」という認識のもと、「教育を通じて、解き方があらかじめ定まった問題を効率的に解ける力を育む」だけではなく「社会的・職業的に自立した人間として、伝統や文化に立脚し、高い志と意欲を持って、蓄積された知識を礎としながら、膨大な情報から何が重要かを主体的に判断し、自ら問いを立ててその解決を目指し、他者と協働しながら新たな価値を生み出していくことが求められる」としています。

 つまり、今後も日本が国際社会において経済的な地位を保っていくためには、もう少し正確に言えば、日本企業が国際競争力を保っていくためには、これまでとは違った新たな人間が求められるようになる、ということです。これまではいわばマニュアル通りに行動していればよかったものの、これからは千差万別の状況の中で、自らのアタマをしっかりと働かせて問題に取り組んでいく必要があるということ、そのときに他者とのコミュニケーションが重要だということを指摘しているのです。

 そのために学校においては、自らアタマを働かせて他者と協力しながら社会と関わっていくという体験(学習)を積ませることが必要だとされています。そのことにより、「自分の存在が認められることや、自分の活動によって何かを変えたり、社会をよりよくしたりできることなどの実感を持つこと」ができるのであり、そのことが「貧困などの目の前にある生活上の困難を乗り越え、貧困が貧困を生むというような負の連鎖を断ち切り未来に向けて進む希望と力を与えることにつながるものである」と指摘しています。

 このような体験(学習)を保障するための方法として、大きく注目を集めているのが「アクティブ・ラーニング」という教授(授業)・学習方法です。アクティブ・ラーニングは文科省の用語集では、以下のように説明されています。

【アクティブ・ラーニング】(p3、4、9) 教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2012/10/04/1325048_3.pdf


 つまり、講義を聞くだけの受動的な学習だけではなく、グループ・ディスカッションやディベート、グループ・ワークなど協働的・能動的な学習を行うものということになります。もう少し簡単に言えば、自らの考えを書いたり、話したり、発表したりする活動を行うということ、インプットだけでなくアウトプットさせるということになるでしょう。

 アクティブ・ラーニングという言葉は主として高等教育で2000年代に入ってから使用されるようになったものであり、公には2012年の中教審の答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて 〜生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ〜」の中で初めて明示化されました。これを受けて、初等中等教育の分野でも注目を集めるようになっていったのです。

 以上をまとめれば、今後も日本企業の国際競争力を維持・発展させていくためには、主体的に考える人間が必要だとして、そうした体験を保障するアクティブ・ラーニングが導入されようとしているのだということになります。実際、「学修環境充実のための学術情報基盤について(審議まとめ案)」では、次のように述べられています。

「近年、グローバル社会において、我が国が競争力を失う中で、様々な場において、教育改革の必要性に関する議論が行われているが、今後、我が国が国際競争力を高めていくためには、物事に主体的に対応できる人材の育成が重要であり、学士課程教育の質的転換など、大学における教育システムの改善は喫緊の課題となっている。(中略)このような状況を踏まえ、平成24年8月の中央教育審議会の答申においては、「従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要。」とされている。


 しかし、具体的にどのようにアクティブ・ラーニングを行っていけば主体的に考える人間を育てることができるのかは把握されていません。現段階では、自分で考えられるようにすることが大切だから、授業の中でも自分で考えさせる機会をもつようにしようといったレベルでしかありません。

 また、これらはあくまでも日本企業の国際競争力の維持・発展という目的のためであることも押さえておかなければなりません。端的に言えば、新たな商品の生産こそが重要だということです。しかし、現在の日本においては、経済格差の問題や国家の財源の問題、安全保障の問題など様々な問題が山積しており、こうした問題に対して、日本の行く末を見据えた上で自分なりの見解を出せる国民を育てることこそが日本社会の維持・発展につながるのだと言えるでしょう。

 では、このような国民を育てるためにはどうすればよいのか。この問題に対するヒントを得るため、本稿では仮説実験授業を取り上げたいと思います。仮説実験授業とは1963年に板倉聖宣・上廻昭・庄司和晃らによって提唱された理科の授業方法です。この授業を受けた子どもは、自然科学上の原理・原則を身につけるとともに、それらを使って考える力を高めていくとされています。なぜ仮説実験授業ではそのような子どもを育てることができるのか、また仮説実験授業の問題点とは何かを明らかにし、真のアクティブ・ラーニングを実現するための課題を明確にしたいと思います(注)。

(注)なお、仮説実感授業はアクティブ・ラーニングの1つの方法としても取り上げられています。
https://www.youtube.com/watch?v=1Wnm2ulqGyI
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2016年03月17日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(5/5)

(5)臨床心理学の論理化が筆者の使命

 本稿は,『医学教育 概論』シリーズの最終巻である『医学教育 概論(6)』を取り上げて,心理士の立場から,それも特に心理士教育に活かせる点は何かという観点から,学んだことを認めることを目的として,これまで説いてきた。ここで,これまでの流れを振り返っておきたい。

 初めに,「論理」という視点で本書の内容を考察した。『医学教育 概論』シリーズでは,医学教育改革が成功しない根本的な要因として,膨大な文化遺産を論理化・理論化・体系化する作業が抜け落ちている点がくり返し指摘されてきた。この点は臨床心理士の教育にあっても同様であり,臨床心理士を目指す大学院生には必携といわれている1,500ページほどの『心理臨床大辞典』の目次を取り上げて,論理の段階が異なるものが同一のレベルに並べられていることを指摘した。このように,医学も臨床心理学も,膨大な知見が蓄積されているものの,全くといっていいほど論理化の作業がなされていないために,事実的な知見が論理的に混乱した形で教科書や時点に記載されており,そのために学生は知識を丸暗記するしかないという状況に陥っているのであった。こういった現状から抜け出すためには,本書で指摘されているように,文化遺産の論理化が必要なのであった。腎臓の「濾過,再吸収・排泄」という事実から,これらの事実を貫く「選別」という論理が導き出されたように,心理臨床の対象となる困りごとも,詳細に分類していくのではなく,逆に共通性に着目して,論理化を図っていく必要があるのであり,そのような論理化が可能な論理的な頭脳づくりが,心理士教育に求められると説いた。論理化の例として,パニック障害や社交不安障害,強迫性障害の共通性を把握した「不安障害」という論理,リストカットや過食,激しい攻撃行動などの共通性を把握した「衝動制御の問題」などを挙げた。このような論理化を臨床心理学全体でなしとげていくと同時に,個々の心理士も事実から論理を導き出すことのできる論理的な頭づくりをしていくための教育が必要なのであり,そうしてこそ,千差万別のニーズにしっかりと応えていくことができるのだとしておいた。

 次に,弁証法の観点から本書の内容を読み取った。本書では,「CKD(慢性腎臓病)」という病名の導入は,非常に複雑で分かりにくかった腎臓病の分類に対する一つの論理的な進歩であったと評価されていた。ところが,この病名の導入は臨床には役立っても,医学教育にはそのままでは役に立たないと説かれていた。それは,この病名が事実によって規定されたものであるため,この定義を見ても腎臓病とはどのようなものであるのかの像が描けないからであるとされていた。そこで,腎臓病とは何かの論理的な把握をなすことが必要であるが,そのためには,教科書だけでは腎臓病に至る過程の事実が示されていないために不充分であると説かれていた。これらのことは臨床心理学にもそのまま当てはまると説いた。すなわち,臨床心理学が対象とする心の病も,患者の呈する症状という事実のみによって規定されたものであり,まったく論理化されていないのであった。だから,この診断基準だけで精神疾患の像を描くことは学生には難しいと説いた。また,病気に至る過程が全く問題にされていない点も指摘し,これでは精神疾患の予防は論理的には不可能になると説いた。このような現状を打破するためには,世界の運動の一般性を問題にする弁証法の実力が不可欠であり,病歴をしっかり聞き取って,どのような外界との相互浸透で精神疾患に至ったのかの把握が必要であるとしておいた。また,本書で説かれていた完成形態を初めに学ぶべきであるとの指摘を踏まえて,心理士が扱う心の問題の完成形態は精神疾患であり,そこを踏まえておけば,まだ診断がつかないくらいのレベルの問題であっても,しっかり見てとって,適切な介入ができることにも触れた。また,医師よりも心理士の方が,精神疾患という完成形態に至る過程を見る機会が多いので,精神疾患に至る過程の論理化は心理士こそなしうる可能性が高いと説いておいた。

 最後に,認識論の観点から,本書の内容を心理士教育の問題として捉え返した。『医学教育 概論』シリーズを著し,医学教育改革について従来にはないような構造に分け入り,その核心を暴露することができたのは,瀬江先生らには科学的医学体系があるからであった。とするならば,人間の認識を整えることを専門とする心理士を教育する場合,認識を科学的に明らかにした認識論が必要になるということになるのであった。この科学的認識論の学びが欠如しており,またその必要性も認識されていないことが,心理士教育の大きな欠陥なのであるから,そこを社会に訴えていくことが筆者の当面の使命であると述べた。その際,精神疾患や心の問題についての膨大な文化遺産を,しっかりと,科学的認識論の論理で整序していき,そうすることによっていかに学びが深まるか,その結果,いかに心理臨床の質が向上していくか,ということを示していくことが求められるのだとしておいた。医学の教科書の目次をみても,腎臓病の全体像を描くことはできないし,そもそも「腎臓病とは何か」「腎臓が病むとどうなるのか」「なぜ腎臓が病むのか」について問いかけたことすらないと指摘されていることを確認した。これと同様に,(臨床)心理学の教科書の目次を見ても,心の全体像は分からないし,いくつかのパラダイムが並存していることが分かるだけであり,精神疾患がただ平面的にたくさん羅列されているだけであることを示した。これを統一理論たる科学的認識論で整序すれば,認識とは何かの一般論からきちんと筋を通して認識の歪みが説けるとして,対象たる外界が通常ではなかったために,その結果として像が歪んだものになるケース,特定の問いかけが量質転化し技化してしまったケース,観念的二重化の能力が未熟であるケース,観念的二重化が歪んで技化してしまったケースなどを仮に挙げてみた。心理士の教育にあたっては,このように科学的認識論によってすっきりと整序された文化遺産を修得させていく必要があるのであり,そうすれば学びの質が深まり,介入の質も向上すると説いておいた。

 以上をごく簡単にまとめるならば,実力ある心理士を養成するためには,専門領域の論理化・学問化が必要なのであり,その際に,心理的な問題の生成・発展のプロセスを問題にしなければ,現代の医学と同じような重症化したケースのみを扱うという結果になってしまうので,そうならないために,しっかりとプロセスを扱うことができる弁証法の実力養成も必要となる,さらに,心理士は人間の心=認識を扱う職種だけに,当然に科学的認識論によって,これまでの(臨床)心理学や精神医学の知見を整序していく必要がある,ということになろう。要するに,認識とは何かの一般論から筋を通す形で,専門領域を論理化していく必要があるのであり,その際には弁証法の実力が必須である,ということである。したがって心理士の教育に当たっては,論理学・弁証法・認識論の実力をしっかり身につけさせることが肝要であり,このような教育が実現されなければ,公認心理師のカリキュラム作りや資格試験の整備は,医学教育改革の迷走と同じ結果になってしまうであろう。

 以上を踏まえて,もし筆者が公認心理師のカリキュラムを作るとしたら,どのようなものになるのか,アバウトではあっても考えて提示してみたい。

 まず,学部の1年生2年生の間は,専門の学びに突入する前の一般教養の学びを重視する。心理士は人間の認識を扱う職種であるから,人間の認識を理解することがその専門性となるべきではあるが,その前提をまずは学ばせるのである。この前提には二重構造があると思う。一つは,人間の認識に至る歴史性の学びである。人間の認識は,初めからあったものでもなければ,何の必然性もなく突然生じたものでもない。物質の生成・変化・発展の流れの中で,必然性をもって誕生してきたものである。この物質の発展の必然性を,すなわち「生命の歴史」を,しっかり学ばせることである。「過程も含めて全体である」(ヘーゲル)のだから,認識が誕生するに至った過程をしっかり理解しておかないと,認識そのものの理解が不十分なものとなってしまうと考えられる。もう一つの前提は,自然と社会の学びである。認識とは外界の反映によって成立するものであり,その外界は自然的外界と社会的外界の二つであるから,認識を理解するためにはそれら自然的・社会的外界のことをしっかりと理解しておく必要があるのである。これらと並行して,時代の心,社会の心,人の心を描いた文学作品をたくさん読ませるようにする。

 学部の3年生4年生では,認識論の基礎をしっかり身につけられるようにする。具体的には,認識学原論として,そもそも認識とは何か,どのように生成発展していくのか,ということをきちんと学ばせる。認識の正常な(健康な)生成発展の過程を,観念的二重化や問いかけ的反映という基本的な論理でもって筋を通して把握できるようにしていくのである。それに合わせて,科学的認識論で整序した(臨床)心理学や精神医学の文化遺産をしっかりと学ばせるようにする。その際,しっかりと事実から論理を導き出せるような頭脳創りも行っていく。卒業研究は,統計学の基礎をしっかりと理解し,使いこなせるようになることを目的とし,内容のオリジナリティにはそれほどこだわる必要がないだろう。『統計学という名の魔法の杖 ― 看護のための弁証法的統計学入門』(現代社)によって,統計学の発展の歴史を学ぶとともに,t検定を徹底的に技化できればそれで十分だといえる。

 大学院の修士課程の2年間は,心理臨床の技を創出する教育課程と位置づければいいであろう。心理検査の具体的な実施・解釈技法や心理面接の諸技法を,認識とは何かからしっかりと筋を通して学び,先生方の陪席を通して,あるいはロールプレイや事例検討を通して,徹底的に訓練する期間とすればいいであろう。気分障害や不安障害など,心理的介入が特に効果的と思われる精神疾患については,精神疾患の認識論的な理解に基づいた介入方法を,これまた認識論的にしっかりと筋を通して理解していくことも求められる。また,医療,教育,産業,司法,福祉領域など,心理士が活動する領域を一般的に押さえたあと,自分の志望する領域の特殊性について,ある程度の専門知識の学びと専門的な技能の訓練を行う必要もあるだろう。修士論文は,しっかりとした研究方法に則った,それなりにオリジナリティのある論文が求められよう。

 このような内容のカリキュラムを骨子として,各大学の独自の理念を加味した教育を行っていくことが理想であろう。独自の理念とは,たとえば,医療領域における心理的介入のスペシャリストを養成するとか,中学校や小学校に入って発達障害児者の学習支援をする心理士の養成に力を入れているとか,企業と連携して,職場のメンタル不調者を減少させるストレスマネジメント研修ができるような心理士を養成しているとか,などが考えられる。こういった各大学の売りをしっかりアピールして,そういった領域に進みたい学生を迎え入れることは,学生の動機づけにもつながるだろう。

 最後に,以上のことを実現するための筆者の課題を再確認しておこう。やはり何といっても科学的認識論の構築すること,そして,構築した科学的認識論を基にして臨床心理学の論理化を図ること,これである。認識とは何かの一般論から,心理に関わるあらゆる問題を解けるだけの実力を筆者自身が把持しないことには,上記のカリキュラムも夢のまた夢となってしまう。認識論構築のためには,常に認識とは何かの一般論から,自分が担当している具体的な事例を考えたり,諸々の心理検査や心理的介入,それに精神疾患とされているものを考察したりしていくことが必要となる。すなわち,認識に関わる事実と論理ののぼりおりである。幸い,筆者は医療領域を中心に,教育・産業・司法などいくつかの領域にまたがって仕事をしており,数多くの精神疾患のある方と関わり,数多くの心理検査やカウンセリングを実施してきている。すなわち,論理化のための大前提たる事実は豊富に持っているのである。あとは,『医学教育 概論』シリーズで説かれてきたことを自分の専門領域で実践することによって,あるいは,各巻の感想文で認めてきたことを着実に実行することによって,学問的な論理能力を向上させていくのみである。

 今後とも,科学的認識論の再措定のために必要な研鑽を行い,そのための論文を本ブログに掲載していくことを約束して,本稿と閉じたい。

(了)
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2016年03月16日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(4/5)

(4)臨床心理学は認識論で整序する必要がある

 前回は,『医学教育 概論(6)』の内容を,主として弁証法の観点から取りあげ,心理士教育に活かしていける点について考察した。医学界においては,論理的な発展と評価しうるCKDという病名の導入であっても,事実によって規定されたものであるが故に,教育には役立てられないものであり,教科書には腎臓病に至る過程がすっぽりと抜け落ちているために,「病気とは何か」の一般論がなければ,「腎臓病とは何か」の論理を導き出すことができないと説かれていた。心理士が扱う精神疾患に関しても同様であり,診断のためのマニュアルは症状という事実によって規定されているだけで論理化されていないので,教育上は役立てることができないだけではなく,病気に至る過程がすっぽりと抜け落ちていることを説いた。したがって,弁証法の実力養成の教育課程が求められるのであり,精神疾患という完成形態に至る過程を見ることが多い心理士こそ,精神疾患の過程の論理化をなしうる可能性が高いと説いた。

 さて今回は,本書の内容を認識論の観点から読み取っていきたい。

 本書ではくり返し,医学教育改革が成功しないのは,「医療の膨大な文化遺産を学問的(理論的)な手続きを経て医学体系として構築する必要があ」(p.194)るのに,それを怠っていたり,その意義を無視しているからであると説かれている。そして,本書の著者である瀬江千史先生らは,医学の科学的体系化・学問化を成し遂げたからこそ,医学教育の改革について,従来にはないような構造に分け入り,その核心をつくことができたのである。

 そうであるならば,人間の心=認識を整えることを専門とする心理士を教育するにあたっては,当然に,人間の認識を科学的に明らかにし,論理化・理論化・体系化したところの学問的認識学体系が必要になる,ということになろう。また,その必要性を社会に対して訴えていくことも,当然に求められる。

 ここに関して,次の記述が参考になると思われる。

「……今回は,この腎臓病とは何かの論理があると,医学生のみなさんの腎臓病の学びに,どう役に立つのかを説いていきます。すなわち,医学生であるみなさんの腎臓病についての学びが,これまでとどう違ったものになり,その結果医療実践がどう変わってくのかを説くことになります。」(p.129)


 要するに,文化遺産が論理化され整序されていれば,学び方がどう変わり,その結果実践がどう変わっていくのかを説いていく,ということである。そして実際,「腎臓とは何かの論理」があると,いかに学びやすくなり,いかに論理的な頭づくりつながるか,そしてそれが医療実践の質をどのように高めるかについて説かれていく。

 ここを心理士の教育に置き換えるならば,以下のようになろう。

「認識とは何か,認識の歪みとは何かの論理があると,心理学科学生のみなさんの認識の歪み(≒精神疾患)の学びに,どう役に立つのか,すなわち,心理学科学生であるみなさんの認識の歪みについての学びが,これまでとどう違ったものになり,その結果心理臨床実践がどう変わっていくのかを説いていくことになります。」


 これを実践することこそが,学問的認識学体系の必要性を社会に理解してもらうために必要なことであり,当面の筆者の使命であるといえるだろう。より具体的には,精神疾患や心の問題についての膨大な文化遺産を,しっかりと,科学的認識論の論理で整序していき,そうすることによっていかに学びが深まるか,その結果,いかに心理臨床の質が向上していくか,ということを示していく・説いていくということこそが,筆者の当面の課題であるといえるだろう。

 医学の現状と(臨床)心理学の現状は,非常に近いものがあると思う。本書では腎臓病をとりあげて,「『内科学』」の腎臓病の目次からは,初心者としての医学生のみなさんが,腎臓病についての全体像を描くことは,まず不可能」(p.133)であると指摘されており,「腎臓病の種類については確かにたくさん列挙することができるものの,「腎臓病とは何か」「腎臓が病むとどうなるのか」「なぜ腎臓が病むのか」については,そのような問いかけはしたこともない,という人が多い」(pp.145-146)と説かれている。

 (臨床)心理学でも同じで,教科書の目次を見ても,心理(認識)とは何か,その歪みとは何かといったことは,全く分からない。たとえば,東京大学出版会が出している『心理学〔第5版〕』という教科書の目次は,以下のようになっている。

「I こころのありか
1章 心理学の視点
2章 行動の基本様式
3章 発達――環境と遺伝

II こころのはたらき
4章 学習・記憶
5章 感覚・知覚
6章 思考・言語
7章 動機づけ・情動
8章 個人差
9章 社会行動

III こころの探求
10章 心理学の歴史」


 それなりに整序されているように見えるかもしれないが,「I こころのありか」「II こころのはたらき」とあるように,そもそも心とは何かということは目次を見ただけで説かれていないことが明らかである。「学習・記憶」とか「思考・言語」など,心に関わる内容は羅列されているが,これを眺めても心の全体像が分かるわけではない。

 臨床心理学の教科書も確認してみよう。『臨床心理学 (New Liberal Arts Selection)』(有斐閣)の目次は以下である。

「第1部 臨床心理学の基礎
 第1章 臨床心理学とは何か
 第2章 エビデンスにもとづく臨床心理学
 第3章 パーソナリティ理論
 第4章 臨床の基礎学としての心理学

第2部 臨床心理学の理論と実際
 第5章 臨床心理面接
 第6章 臨床心理学的アセスメント
 第7章 精神分析パラダイム/精神分析療法
 第8章 人間性心理学パラダイム/クライエント中心療法
 第9章 学習理論パラダイム/行動療法
 第10章 認知理論パラダイム/認知療法
 第11章 さまざまなパラダイム
 第12章 臨床心理学の現場
 第13章 臨床心理学研究法
 第14章 心理士の専門性と倫理

第3部 心理的障害の理解と支援
 第15章 心理的障害の見取り図
 第16章 うつの理解と支援
 第17章 躁の理解と支援
 第18章 社交不安症の理解と支援
 第19章 パニック症の理解と支援
 第20章 強迫症の理解と支援
 第21章 心的外傷後ストレス障害の理解と支援
 第22章 統合失調症の理解と支援
 第23章 パーソナリティ障害の理解と支援
 第24章 身体の不調に関連する心理的障害の理解と支援
 第25章 発達に関する障害の理解と支援
 第26章 認知症の理解と支援
 第27章 依存・嗜癖の理解と支援」


 ここで注目していただきたいのが,第2部である。「○○パラダイム」というのがいくつか目に留まるはずである。これは,心とその問題を,例えば精神分析ではこう考えますが,学習理論では別のように考えます,というようなことを意味する。すなわち,統一した理論がなく,いくつかの全く相反する理論(と称されるもの)が並存しているのが臨床心理学の現状なのである。第3部を見ても,心理的障害というのは結局どういうものなのか,それに対して一般的にはどのような支援が必要なのかということは全く分からない。ただ単に,個別の精神疾患がいくつも並べられているだけである。

 教科書がこのような現状であるからして,心理学の分野においても,「心の病とは何か」「心が病むとどうなるのか」「なぜ心が病むのか」といった問いかけは,全くなされていないといっていいだろう。そうなってしまっている最大の原因は,そもそも心(認識)とは何かを明らかにする統一理論たる科学的認識論の学びが欠如していることであるといえよう。

 そもそも認識とは,外界の反映であり,像である。この「反映」も,単なる受動的な反映ではなく,それまでの蓄積された像でもって能動的に問いかけて反映するので,「問いかけ的反映」といわれている。また,人間の認識には,観念的二重化といって,現実の自分が見ている世界以外に,もう一人の自分が別の世界を見るという能力もある。。要するに,科学的認識論において重要な論理は,像,外界の(問いかけ的)反映,観念的二重化の三つである。

 ということは,認識の歪みとして想定できるものは,対象たる外界が通常ではなかったために,その結果として像が歪んだものになるケース,特定の問いかけが量質転化し技化してしまったケース,観念的二重化の能力が未熟であるケース,観念的二重化が歪んで技化してしまったケースなどであろう。こういった認識とは何かの論理から導かれた論理的な分類にしたがって,これまでの精神疾患や心の問題を整序していくことが求められる。そうすれば,心理的な介入法も,外界を正常に整える介入,問いかけを柔軟にしていく介入,観念的二重化の能力を養うための訓練,観念的二重化の歪みを最小にするための介入などといったように,すっきりと整序することができるのではないだろうか。

 心理士の教育にあたっては,科学的認識論によってすっきりと整序された文化遺産を修得させていく必要があろう。そうでないと,現状のように,ある疾患にはこのやり方,別の疾患には別のこのやり方,というように,介入法に一貫性がなくバラバラになってしまう。また,そもそもの精神疾患に関しても,統一性のない諸々の知識を暗記するだけになってしまい,とてもそれらを使いこなして臨床をする,ということにはならない。そもそも,心理的な介入を行うのに,現状のように精神医学を横滑りさせた知識が必要なのかどうかというと,これも検討の余地があろう。さらによろしくないのは,先に教科書の目次で確認したように,さまざまなパラダイムが並存しており,それを選択して,どの専門家になるのかは,個人の志向(嗜好)によって決まる,という点である。こうなれば,クライエントにとってみれば,専門家Aと専門家Bのいうことが全く違う,ということにもなりかねない。しっかりとした統一理論である科学的認識論によって,臨床心理学の知見を整序していく必要性が,ここにも存在するのである。

 以上,今回は,認識論に焦点を当てて,『医学教育 概論(6)』から学んだことを心理士教育にどのように活かしていけるのかについて考えてみた。
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2016年03月15日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(3/5)

(3)過程の把握が大切である

 前回は,『医学教育 概論(6)』を論理という視点から読み取り,心理士教育に活かすという点で学んだ点を考察した。医学にしても臨床心理学にしても,その教科書や事典の目次を眺めれば明らかなように,論理的な実力が非常に低いのが現状であるから,事実から論理を導き出すことによって,膨大な文化遺産を整序していくことが必要であり,教育の過程でも,学生に事実から論理を導き出す訓練をさせることによって,論理的な頭づくりに努めなければならないと説いた。

 今回は,弁証法の観点から本書に学び,心理士の実力養成や心理士教育に活かせる内容について考えていきたい。

 本書では,病気の分類が細分化されていき,全体から部分を切り離して論じられる傾向が強い現在の医学界において,論理的な発展として評価できる取り組みとして「CKD(慢性腎臓病)」という病名が導入されたことをあげている。「CKDとは,腎臓が慢性的に病的な状態にあることと,それがどの程度重症なのかを,尿蛋白などの腎臓のダメージを示す所見,もしくは腎臓の機能を最もよく反映すると考えられているGFR(糸球体濾過量)という,極めて単純な指標を用いて把握しようとして導入された病名」(p.21)ということである。

 従来,腎臓病の病名は非常に複雑で,臨床医が腎臓病を診断する実践的な手引きとはなっておらず,末期腎不全から透析へと至る患者の著しい増加を止めることができない状態であった。そこに,CKDというこのシンプルな病名が導入されたことにより,一般医にも容易に腎臓病の重症度を診断できるようになり,診断に応じた適切な治療を行うことが可能になって,透析に至る患者の数を減らすことにつながっていったというのである。

 このように,複雑で非常にたくさんの病名に細分化されていた腎臓病を,たった一つのシンプルで実践的な病名へと統合したことを,本書では論理的な発展として評価しているものと思われる。

 しかし,医学教育にとっての意味という点になると,CKDの導入は役に立つものとはなっていないと説かれている。本書では,「CKDの定義は,腎臓の障害を示す所見や糸球体濾過量の低下という,事実そのものによって規定されたものであり,それ以外ではありません」と前置きされた後,次のように説かれている。

「ここで医学教育という観点から,医学生に問いたいのは,「みなさんはこのCKDの定義を学んで,腎臓病というものを理解できましたか。腎臓病とはこんな病気ということを,自分のアタマの中に思い描くことができましたか」ということです。

 当然に,答は「否!」のはずです。医学生が,先に挙げたCKDの重症度分類(これは2012年版のガイドラインで改訂されました)を眺めて,尿蛋白や,GFR(糸球体濾過量)の値だけから,腎臓病がどういうものかを思い浮かべようとしても,それは不可能というものです。つまり結論から言うならば,CKDの導入は医療現場では役に立っても,医学教育には,そのままでは決して役に立たないものなのです。」(p.91)


 すなわち,腎臓病の重症度を測るちょうどいい事実を提示しているだけのCKDという病名を導入しても,腎臓病とはどのような病気であるかの像を描くことは全くできず,したがって医学教育には役に立たない,ということである。後の部分では,CKDは単なる診断基準であり,「医療現場で医師が腎臓病の重症度を計るための“ものさし”として,それなりに有用ではありますが,医学生が難解と言われている腎臓病を学んでいくための,“導きの糸”にはなり得ません」(p.105)とも説かれている。

 だから,単なる事実の提示である診断基準ではなく,「腎臓病とは何か」という論理的な把握が,医学教育のためには必要であると説かれていく。そして,「腎臓病とは何か」という一般論を導くためには,「腎臓とは何か」という論理だけでは不十分であり,「病気とは何か」の一般論も必要である,それは,教科書には腎臓病の事実のエッセンスは記載されているものの,腎臓が病んでしまった結果としての事実ばかりであり,腎臓病に至る過程の事実が決定的に欠落しているからである,と説かれている。

 ここは,現代医学においては,病に至るプロセスは無視,ないし等閑視されており,教科書にも腎臓病に至る過程の事実が示されていないために,腎臓の論理と教科書に示された腎臓病の事実からだけでは,「腎臓病とは何か」という論理を導き出すことができないので,腎臓病にも貫かれている「病気とは何か」の一般論,すなわち「病気とは,人間の生理構造が,外界との相互浸透の過程によって,徐々に,あるいは急激に量質転化して歪んだ状態になったもの」という論理を併用することによって,ようやく腎臓の正常な働きが歪んでしまった状態である「腎臓病とは何か」という論理を導き出すことができるのである,ということであろう。

 ここまでで確認してきたことは,臨床心理学がその対象としている心の病にも,当然に当てはまる。まず,精神疾患の診断基準は,CKDと同じく,単なる事実によって規定されたものである。精神疾患の診断のためには,DSMやICDといった診断マニュアルが用いられるのがふつうである。このマニュアルは操作的診断基準といって,いくつかの症状が列挙されており,そのうちの特定数の症状を満たせば,ある病気であると診断されることになる。この症状というのは,患者さんが示している病気の事実であり,誰が見ても同じという「客観的な」ものであるとされている。すなわち,どの医師が診断しても,このマニュアルに則っていれば,同じ診断名がつくはずだということである。事実レベルで規定されたものであり,まったく論理化されていないことは明らかである。

 また,病気に至る過程がすっぽりと抜け落ちている点も,同様である。病気の結果として,このような症状を呈しますよということが示されているだけだからである。なぜそのような症状が出るに至るのかの過程は,ほとんどの疾患でまったく問題にされない(というか,問題にできない)。したがって,発症のメカニズムが明らかでないために,論理的にはそれらの精神疾患を予防するということは不可能である,ということになってしまう。

 さらにいうと,CKDほどではないにしても,この診断基準を学生が読んで,その精神疾患の像を描くことが難しいのは確かである。いくつもの症状がほぼ並列に列挙されているだけであるから,その症状といくつ満たせば診断がつくのかという点を暗記するだけに終わってしまい,この診断基準自体でその精神疾患を学ぶということはできない。どちらかといえば,臨床経験がすでにある医師や心理士が,漏れがないかを確認するために事後的に使うチェックリスト,としてであれば,ある程度活用できるであろう。しかし,精神疾患の具体の像が何もないのに,この診断基準だけで学ぼうとするのは,至難の業であるといえる。

 このような現状を打破するためには,そういった精神疾患に至るプロセスをこそ,問題にする必要があろう。これには弁証法の実力が必要となるのは,当然である。弁証法とは,世界全体の一般的な運動を対象とした学問であり,すべての対象には弁証法性が貫かれているからである。これまでの精神医学や臨床心理学が精神疾患のプロセスを解明できなかったのは,弁証法の実力が大きく欠落していたのが一因だと考えられる。すなわち,運動・変化・発展の一般性をしっかり把握できていなかったために,弁証法性に富んだ認識の病たる精神疾患の発症のプロセスが掴めなかったのである。

 もちろん,次回に説くように,認識とは何かを解明した認識論の理解がなかった点も大きいと思われるが,認識は,自然的・社会的外界との相互浸透によって創られていくのであるから,弁証法の実力不足が,精神疾患へと至る過程の解明を不可能にしていた側面も大きいと考えられるのである。

 心理士としては,相談に来られたクライエントの困りごとに関して,それが精神疾患に関するものであろうとそうでなかろうと,困りごとに至る過程(問題歴)をしっかりと聞き取って,どのようにしてその困りごとが生成・発展してきたのかをきちんと把握するようにする必要がある。もちろん,心理士教育においても,そのようにプロセスに目を向ける必要性をしっかり説いて,プロセスに目を向けるために具体的な訓練も実施すべきであろう。そうしてこそ,その困りごとの全体像が把握できて,それと直接に,解決方法も自然と浮上してくることにもなるはずである。

 ここに関連して,本書では興味深い指摘がなされている。腎臓病を学ぶときは,最初に腎不全を学ぶべきであるとした後,次のように説かれている。

「なぜならば,腎不全は他の腎臓病とは,レベルが異なるものだからです。つまり腎不全とは腎臓病の完成形態であり,その他に分類されて並んでいる様々な腎臓病は,腎臓病が完成形態にまで至る過程の事実の違いに着目して分類された病名だからです。

 別の角度から述べるならば,腎臓病は論理的にはたった一つしかないのであり,その完成形態が腎不全と言われる状態であり,そこへと至る過渡的な段階が,様々な腎疾患名として分類されているに過ぎないのです。」(p.149)


 ここでは,腎臓病とは論理的にはたった一つであり,その完成形態が腎不全であるから,腎不全から学ぶべきである,ということが説かれている。すなわち,完成形態を知っていれば,そこに至る過程も完成形態からそれなりに見て取りやすくなる,ということであろう。

 これを踏まえるならば,われわれ心理士は,様々な困りごとの一つの完成形態として精神疾患を学ぶ必要があるように思う。どういうことかというと,たとえば社交不安障害は,対人場面で異常に緊張し,不安を感じてしまうために,生活上の支障をきたしいている状態であるが,社交不安障害とまで診断されなくても,対人場面に対して苦手意識を持っているクライエントさんはいる。完成形態としての社交不安障害を知っていれば,そこに至る過程である同じような困りごとを訴えてこられても見て取りやすくなるし,それに応じて介入法も選びやすくなる。同様のことは強迫性障害であってもうつ病であっても当てはまる。

 この種の精神疾患は,よほど重症化しないかぎり医師に診てもらおうということにはならないケースが多いが,心理士のもとには困っているということで相談に来られるケースもある。もちろん,重症化した方も,心理士のもとに相談に来られるので,心理士は完成形態を見る機会も十分に持っている。これに対して,医師は,重症化したケースのみを見て,そこに至る過程を見ることがほとんどない。このように,完成形態に至る過程の事実を見る機会は,心理士の方が医師よりも多いといえるであろう。だから,この種の精神疾患の過程の論理化は,医師よりも心理士の方がなしうる可能性が高いといえるのではないだろうか。

 いずれにせよ,心理士教育においては,弁証法の実力養成が必須であり,困りごとの過程をしっかり見て取れる実力を養い,困りごとの全体像をしっかりと把握して,きちんと解決策を見いだせるような実力をつけていくことが肝心であろうと思われる。
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2016年03月14日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(2/5)

(2)困りごとの共通性を把握していく

 本稿は,臨床心理士である筆者が,主として心理士教育の観点から『医学教育 概論(6)』を学んだことを認めていくものである。

 今回は,論理学の観点から,すなわち「論理」という視点で,本書の内容を考察していきたい。

 『医学教育 概論』シリーズでは,さまざまな医学教育の欠陥が指摘されてきたが,その根本的な原因は,「学生に学ばせるべき文化遺産の整序と統合のための,最も重要なプロセスである,文化遺産を論理化し,理論化し,体系化するという作業が,すっぽりと抜け落ちているからである」(p.17)ということが,くり返し説かれてきた。医学においては,年々,膨大な知見が蓄積されていき,それが論理化されることなく,ただただ事実の集積として膨れ上がっているために,そのような年々膨大化していく知識を,そのままでは教えきれないということから,教育改革が始まったのであった。しかし,文化遺産を論理化しないままで,教育方法や評価方法をいじくったとしても,根本的な解決にはならずに,また,医学教育の最終ゴールである医師国家試験が重箱の隅をつつくような知識を問うものである以上,結局医学生は膨大な知識を暗記することのみに終始してしまっているのが現状なのである。

 臨床心理士の教育にあっても同様で,もちろん,医学教育ほどではないにしても,膨大な,それも,覚えたところで臨床上何の役にも立たないような知識を覚えさせられる。これに関しては,興味深いエピソードがあるので紹介したい。

 筆者は大学の学部時代には哲学を専攻しており,その頃は臨床心理士など全く目指していなかった。しかし,同じ年に同じ大学に入った友人の中に,臨床心理士を目指している者がいた。入学後しばらくしてから,大学に併設されている書店で,その友人と出くわした。彼女は何やら,大きな図鑑のような本を携えていた。そして,「これ,全部覚えないと,臨床心理士の試験に合格できないの」などといって,レジに向かっていったことを記憶している。ずっと後になってから分かったことだが,その図鑑様の書物は,『心理臨床大事典』(培風館)といって,1,500頁ほどある3万円を超える事典だったのである。さすがに,この事典の内容を全部覚えないと臨床心理士の試験に合格できないということはない。しかし,大半は覚える必要があり,また,この事典にしか載っていないような細かな知識がないと解けない問題が出題されるのも事実である。

 しかもこの事典は,目次を眺めただけでも医学の教科書と同じような非論理性を感じるものである。一番大きな項目だけを抜き出すと,以下のようになっている。

第1部 臨床心理学総論
第2部 臨床心理学基礎論
第3部 心理療法
第4部 心理アセスメント
第5部 精神医学
第6部 精神分析
第7部 臨床心理的地域援助
第8部 人間,文化,諸外国の事情


 まず問題にしなければならないのは,「第6部 精神分析」の位置づけである。精神分析が一つの独立した「部」として,「心理療法」や「心理アセスメント」と並列されているのは,筋が通らない。なぜなら,「精神分析」というのは,心理療法の一種であって,その心理療法の前提としてある種の人間理解,すなわち心理アセスメントをも含んでいるものだからである。実際,「第3部 心理療法」の中には「精神分析療法」という項目が存在しているし,「第4部 心理アセスメント」の中には精神分析の人間観を前提とした心理テストが数多く紹介されている。これでは内容が重複していることもさることながら,論理の段階が別のものを並列に並べていることになってしまう。

 同じようなことはいくらでも指摘できる。「第4部 心理アセスメント」の中の「5 心理テスト」では,「ビネー法」「ウェクスラー法」「コース法(立方体組み合わせテスト)」という個別の知能検査と並列に「知能検査」という項目があるし,同様に,個別の性格検査に並んで「性格検査」という項目もある。もちろん,「事典」なので,論理の次元の違う項目が並ぶのは仕方がないという反論もあろう。しかし,本事典はこれまでに触れた目次のあり方からも明らかなように,大項目主義を採っている「読む事典」である。いかようにも立体的な構造にすることは可能なのである。それをあえてしていないというのは,論理的な一貫性が貫かれていないということができる。

 ここに関して,『医学教育 概論(6)』では,内科学の教科書の腎臓病の箇所をとりあげて,「症候分類」名と「病理組織学的分類」名が混在し,下位概念が独立して並列されていることを指摘したうえで,次のように説かれている。

「つまりこの章の項目は,観点の異なる二つの分類によって錯綜してしまっている病名を,並列させているばかりか,その中に含まれる一つの疾患名をも,わざわざ取りだして同列に並べているのです。これは喩えて言えば,日本の地理を説明するのに「1.北海道地方,2.温帯多雨夏高温気候地域,3.東北地方,4.太平洋沿岸地域,5.熱帯雨林気候地域,6.東京都,7.名古屋市……」という,レベルの違うものをゴチャマゼにした目次立てをするようなものだ,と分かるでしょうか。」(pp.136-137)


 すなわち,この医学の教科書は,観点の違う分類やレベルの違うものをゴチャマゼにしてしまっているということである。まさしく,先に見た『心理臨床大事典』の混乱ぶりと瓜二つという印象である。

 要するに,医学も臨床心理学も,膨大な知見が蓄積されているものの,全くといっていいほど論理化の作業がなされていないために,事実的な知見が論理的に混乱した形で教科書や事典に記載されており,そのために学生は知識を丸暗記するしかないという状況になっているのである。

 では,どうすればいいのか。その答えはしっかりと『医学教育 概論(6)』に説かれている。端的には,論理化である。すなわち,事実から論理を導き出していくことである。たとえば,腎臓の「濾過,再吸収・排泄」という事実から,これらの事実を貫く論理は「選別」であるとして,腎臓は選別器官であると規定されている。定説のように排泄器官で筋を通そうとすると,「濾過,再吸収」の過程にその筋が通せなくなるし,そもそも腎臓の働きの1%に過ぎない排泄だけに注目して,残りの99%にあたる濾過と再吸収の過程を無視するのはおかしいと説かれている。

 このような論理化を全ての器官,すべての病気に対して行うことによって,医学として蓄積されてきた膨大な知見がしっかりと整序され,学生にとっても非常に学びやすく使いやすいものとなる,ということである。

 臨床心理学でも全く同じことがいえるであろう。すなわち,臨床心理学として蓄積されてきた膨大な知見を,しっかり論理化を果たすことによって整序していくと同時に,教育課程で学生にしっかりと論理化のプロセスを辿り返させることによって,論理的な頭脳づくりを目指していかなければならない。

 心理臨床の対象となるのは,必ずしも心の病だけではなく,それをも含めた何らかの心の問題,困りごとであるということができよう。ならば,その困りごとを詳細に分類していくのではなく,逆に共通性に着目して,論理化を図っていくこと,あるいは論理化が図れるような頭脳を創出していくことこそが,心理士教育に求められると思う。

 たとえば,不安障害という枠組みは,それなりに具体的な個々の困りごとの共通性をとらえた論理であるといえると思う。不安障害の中には,下位分類として,パニック障害や社交不安障害,強迫性障害などが含まれるが,これらに共通していることは,過剰な不安のために,その不安を下げるための行動やそもそも不安を喚起しないための行動が常態化してしまって,日常生活に支障をきたす,ということである。こう押さえておくと,その具体的な表現型として,例えばパニック発作を恐れて電車などに乗れないのがパニック障害であり,対人場面を避けてしまうのが社交不安障害である,などというように,不安障害の一般論の具体化として,きちんと個々の障害を位置づけられると思う。

 他にも,例えば,リストカットや過食,攻撃行動の激しいことなどは,衝動制御の問題としてとらえることも可能であろう。すなわち,これらは衝動性をコントロールできない問題であり,その具体的なあり方がリストカットであったり過食であったりする,というわけである。また,自分の意見を主張できないとか,部下のいうことに耳を貸さないとかいった問題は,コミュニケーションの問題である,というように論理化もできるかもしれない。

 このように,いくつかの困りごとに共通する性質を導き出し論理化しておけば,個々の困りごとを理解しやすくなるし,介入法もそれに対応して,それなりに整序されて分かりやすくなる,ということもいえるだろう。このような論理化の際は,精神医学の知見もそれなりに踏まえることが必要とはなるだろうが,それに縛られることなく,臨床心理学としてのオリジナルな論理化を果たしていく必要があろう。

 いずれにせよ,このような論理化を臨床心理学全体で果たしていくとともに,心理士の教育にあっては,事実から論理を導き出すことのできるような論理的な頭づくりが必要なのであり,そうしてこそ,千差万別に見えるクライエントの困りごとに対して,それらを抽象化して,別の事例で用いた介入法などをうまく使いながら,クライエントのニーズに応えていくことができるような心理士になることができるといえるであろう。
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2016年03月13日

心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想(1/5)

目次

(1)心理士教育に活かせることとは
(2)困りごとの共通性を把握していく
(3)過程の把握が大切である
(4)臨床心理学は認識論で整序する必要がある
(5)臨床心理学の論理化が筆者の使命


(1)心理士教育に活かせることとは

 本ブログではこれまで,『医学教育 概論』シリーズの感想文を5回にわたって掲載してきた。5回分のタイトルと目次は以下である。


心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想

目次

(1)心理士として『医学教育 概論(1)』から何を学べるか
(2)すべてをゴールに収斂させる
(3)夢と同時に不安を描くことが大切である
(4)病気とは正常な生理構造が生活過程で歪んだ状態である
(5)不安解消のために認識論の研鑽を



必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想

目次

(1)カウンセリングに活かせる点とは
(2)心理士が主体的にカウンセリングに必要な事実を取りだす
(3)五感器官を総動員して相手の変化を捉える
(4)上達のためには身近な困りごとを解決していく必要がある
(5)責任と明確な問いかけをもって相手と関わっていく



弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想

目次

(1)どうすれば実力ある臨床心理士になれるか
(2)臨床心理士にも一般教養は必須
(3)クライエント理解も全体から部分へ
(4)心理臨床の歴史を辿る必要性
(5)対象と武器を弁証法的に学ぶ



臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想

目次

(1)臨床心理学の具体で考えると?
(2)よい教科書の条件を考える
(3)精神医学でも病因を問題にすべき
(4)少ない事実から生活過程像を描く
(5)表象像を媒介にして論理的なアタマづくりを!



事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想

目次

(1)専門分野の教育=学習という観点から読み解くと
(2)事実を提示した後にその論理を説く
(3)教科書は論理的なアタマ創りに資するもの
(4)研修医 北条亮先生から学ぶこと
(5)事実をありのままに反映しそこから論理を引き出す



 眺めていただければ分かるように,一貫して筆者の臨床心理士としての立場から,本シリーズに学び,臨床心理の実践と医療実践,臨床心理士の教育と医師の教育を重ね合わせながら,学んだことを認めてきた。

 『医学教育 概論』シリーズは,本『医学教育 概論(6)』で完結とのことなので,このシリーズの感想文も,本稿で終了となる。そこで本稿では,『医学教育 概論(6)』を読んで,その本題ともいえる教育に焦点を当てて,心理士の教育に活かしていくべき点を中心に考察していきたいと思う。

 もちろん,これまでの感想文でも,教育の観点からも説いてきた。さらに,本シリーズが論理的に一貫しているだけに,どの巻の感想文も,同じような内容を説いているということもある。しかし,本稿は,執筆することによって本シリーズの著者の先生方と対話することを意図したものであり,重要な論理はくり返しくり返し取り上げ,筆者の専門たる臨床心理に適用していくことこそが,論理の再措定であると考える。そこで,従来説いたのと似た内容であっても,大切なところはくり返しテーマとして取り上げていきたい。

 心理職の業界では,昨年可決・成立した公認心理師法をめぐる動きがあわただしい。大学や大学院の科目・カリキュラムはどのようなものにするのか,公認心理師になる際の試験を実施する機関をどこにするのかなどについて,諸々の関係団体が,あるいは表だって,あるいは水面下で動いている状況である。しかし,大学や大学院のカリキュラムにせよ,公認心理師の試験にせよ,『医学教育 概論(6)』で説かれている内容を踏まえたうえで決めていかないと,公認心理師教育も,医学教育が辿ったのと同じ地獄への道を善意の意図で辿ってしまいかねない。

 その意味でも,心理士の教育をどのようにしていけばいいのか,この機会にしっかりと考えておきたいと思う。

 では以下に,『医学教育 概論(6)』の目次を掲載しておく。次回以降は,本書から学んだ内容を,論理学・弁証法・認識論の3つの観点で整理して考察していきたい。


医学教育 概論 (6)


第36課 文化遺産の論理化とは何か ――「CKD(慢性腎臓病)」 を例に説く

 (1) 医学生は社会的に鍛えられる過程が必要である
 (2) 課外活動は医学生の社会的訓練の場としても設定し得る
 (3) 論理能力養成のための教育過程が大学からも失われた
 (4) 「CKD(慢性腎臓病)」 を例に文化遺産の論理化とは何かを説く
 (5) CKDの定義は腎臓病診療現場の切実な必要性から導入された
 (6) 医学生・医師を混乱させていた複雑な腎臓病の分類
 (7) 病気の進行が現象しづらく診断・治療が後手に回りがちな腎臓病
 (8) CKDは腎臓専門医と一般医の連携を深め,診療上の成果をもたらした

第37課 「CKD(慢性腎臓病)」 の定義導入の医学教育論上の意義を説く

 (1) 東京大学 「秋入学制度」 提言の背景
 (2) 秋入学制度は大学教育の根本的な転換を意図している
 (3) 秋入学制度による社会的混乱と成果の乏しさを指摘する反対意見
 (4) 東京大学が受験秀才の欠陥を指摘した歴史的転換点
 (5) 目的意識を学生の自主性に任せる秋入学制度の致命的欠陥
 (6) CKDに関わる事実には医学教育改革の停滞を打破する鍵がある
 (7) 病名創出の歴史的発展過程には二段階ある
 (8) CKDの導入は本物の 「コア・カリキュラム」 策定への萌芽形態を示した

第38課 大学教育における一般教養の重要性を説く

 (1) 学校教育におけるリーダー育成教育の消滅 ――等身大の思想の蔓延
 (2) 日本の発展を担う人材育成のための大学の初期教育の重要性
 (3) 学生に使命を自覚させ大志を萌芽させることが大学教育の出発点である
 (4) 壊滅状態にある大学の一般教養教育の再構築が急務である
 (5) 一般教養の必要性を提言しながら学びの指針を示せない日本学術会議
 (6) 近代的一般教養の原点は18世紀ドイツの大学哲学部の教育にある
 (7) 大学の一般教養教育は世界の論理的な全体像をイキイキと描かせることにある
 (8) 『学生に与う』 (河合栄治郎) に見る教育者としての思想性の高み
 (9) 『学生に与う』 は大学における一般教養教育を見事に示す

第39課 事実から論理を導きだすプロセスを 「腎臓とは何か」 を例に説く

 (1) 医学教育改革の根源的問題は文化遺産の膨大化にある
 (2) 「CKD(慢性腎臓病)」 の導入の意義と限界
 (3) 「腎臓病とは何か」 を問うためには,腎臓の事実を知らなければならない
 (4) 腎臓の事実である 「濾過,再吸収・排泄」 を貫く論理は 「選別」 である
 (5) 論理とはすべての事実に一本の筋を貫き通したものである
 (6) 科学的医学体系はすべての対象的事実の論理化によって構築される

第40課 「腎臓病とは何か」 を理論的に導きだす過程

 (1) 腎臓の論理とは 「腎臓とは何か」 を一言で表現したものである
 (2) 個々の知識の学びに先立つ全体像の重要性を説く実験
 (3) 対象の全体像のイメージを描くことにより知識の学びに筋道ができる
 (4) 病気の一般論と腎臓の論理から 「腎臓病とは何か」 の一般論を導く
 (5) 腎臓病とは体内の必要物質と不要物質の選別に歪みをきたした状態である
 (6) 人間を貫く三重構造をふまえて選別器官分化への必然性を説く
 (7) 人間の認識に基づく生活が腎臓の生理構造を歪める過程的構造

第41課 論理的に整序されない腎臓病の教科書の実態を検証する

 (1) 腎臓病の論理を導いてきた過程を概括する
 (2) 人間を貫く三重構造によって腎臓病に至る過程的構造の理解を深める
 (3) 代表的教科書 『内科学』 における腎臓病の目次を見る
 (4) 『内科学』 の目次から腎臓病の全体像を描くことは不可能である
 (5) 論理的に整序されていない腎臓病の病名
 (6) 病気の一般論を導きの糸とした腎臓病の学びとは

第42課 腎臓病の論理に導かれた学びとはいかなるものかを説く

 (1) 腎臓病の論理が医師の実践,医学生の学習の導きの糸となる
 (2) 腎臓病は論理的には一つである ――完成形態は 「腎不全」 である
 (3) 選別器官である腎臓の正常な生理構造
 (4) 腎臓病の完成形態を通して腎臓が病むとはいかなることかを理解する
 (5) 腎臓の生理構造の歪みが機能レベルから実体レベルへと至る過程的構造
 (6) 腎臓の生理構造にそって学べば個々の腎臓病も整序して理解できる
 (7) 医療現場のニーズと乖離した学びを強いる医学教育の裏事情

第43課 医学教育を歪めている現在の医師国家試験の実態を説く

 (1) 腎臓病は論理を導きの糸としてすっきりと整序できる
 (2) 論理に導かれた学びを妨げる医師国家試験の問題
 (3) 現在の医師国家試験の内容が医学教育を歪めている
 (4) 人材育成教育を破壊した戦後の学制改革と医師国家試験の導入
 (5) 資格試験としての質向上の努力が医師国家試験をモンスター化させた
 (6) 医師国家試験が医学教育改革を形骸化させている現実
 (7) 医師国家試験をゴールとして教育された医師の欠陥
 (8) 科学的医学体系に基づく医学教育の理論が切望されている



※なお,第38課に関わる内容は,4月の頭に新大学生向けの論考の中で触れたいと思うので,本稿ではあえて扱っていない。
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2016年03月12日

2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派(9/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、ヘーゲル『哲学史』の新アカデメイア派およびスケプシス派の哲学が論じられている部分を扱った我が研究会の2016年2月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 2月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回3月例会は、新プラトン派の哲学が論じられている部分を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の範囲は、ヘーゲル『哲学史』のうち新アカデメイア派の哲学とスケプシス派の哲学であった。どちらの哲学も、真理の規準として独断論(ストア派、エピクロス派)の哲学が提唱した対象と思考の一致ということに関して、それは真でも偽でもありうるから、真理の規準たりえないとしたところに大きな特徴があるということであった。

 例会での討論を通じて、大きく2つのことが学べたと思う。1つ目は、特にスケプシス派の哲学について、ヘーゲルの説く絶対精神の自己運動、円環運動というイメージと重ねるならば、どのようなことがいえるのかという問題に関してである。私自身は、独断論がある特定の真理規準に拘泥するあまり、絶対精神の自己運動が停滞していた、円環運動の始点から離れられずにいたところを、客観的な真理などはないのだ、全ては主観次第なのだと主張したスケプシス派によって、やっと円環運動が開始された、しかしその円環運動は完成して円環が閉じ切ってしまうまではいかずに、いわば半円を描いたところまでであった、というイメージを描いていた。ところが別の会員は、円環運動の始点が精神であって、そこから外的世界の対象に切り込んでいくことが円環運動だとした上で、スケプシス派は一度動き出した円環運動をいわば逆行して、始点たる精神の世界に引き返してしまったのだ、というイメージを描いていたのである。そして、その精神の世界において、「自己意識の自由」を手に入れたのだということであった。独断論の静的な固定的な考え方から、スケプシス派の運動性を帯びた弁証法的な把握へという流れに関しては、私の把握の方がうまく説明できているようにも思えたが、円環運動の始点を精神だとして、そこから外的世界の諸々の対象を筋を通して説明していくことが絶対精神の自己運動であるという観点からは、別の会員が示したイメージが妥当だという思いもある。いずれにしても、絶対精神の自己運動とはどういうものかのイメージを常に豊かにしていく頭脳活動なくしては、ヘーゲル哲学は理解できない以上、こうしたイメージに関する議論は大切にしていきたいと思った。

 もう1つ、今回の例会で学んだことは、古代ギリシャ哲学の各時期における大きな成果や課題はどういったものであったのか、ということについてである。第1期において、普遍的な理念がプラトンのイデアという形で提示されたが、このイデアなるものは、現実的な感覚の世界の対象と切り離された形で措定されたものであった。よって、この普遍的なものを特殊的な外的世界の対象に適用していくこと、つまり体系化して世界を説いていくことが第2期の課題とされたのであった。この世界を体系化して説いていくという課題に対して、思考を重視する考え方(ストア派)、感覚を重視する捉え方(エピクロス派)、そのどちらも規準とはなりえないとする主張(スケプシス派など)などが諸々に展開されたのである。しかし、これら第2期に登場した哲学は、いずれも一面的に世界を把握しようとしたものに過ぎず、吉本隆明のいう「学問の世界」での「自己意識の自由」を獲得するという成果にまでしか到達できなかったのである。「実体の世界」での自由を獲得するために、独断論とスケプシス派の哲学のそれぞれを総合して、かつ、キリスト教という契機も含めて世界を説いていくという課題が、第3期たる新プラトン派の課題となったのではないか、という大きな流れが掴めてきたことが今回の大きな成果であった。

 次回は新プラトン派の哲学を扱うわけだが、こうした古代ギリシャ哲学の大きな流れを念頭におきながら、かつヘーゲルの説く絶対精神の自己運動のイメージを描きながら、しっかりと取組んでいきたいと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今月は、チューターとして例会に臨んだが、議論を進めていくなかで改めて、ヘーゲルの描く哲学史の全体像をしっかりと踏まえることの大切さを強く感じさせられた。これまでも、ヘーゲルの描く哲学史とは絶対精神の自己運動であり、自己が自己の何たるかを明瞭に意識していく過程である、というようなことは、漠然と捉えられていた。今月の例会での議論を通じて、以上のようなことに加えて、哲学とは結局のところ真理を目標としたものであり、それはヘーゲル哲学史にあっては最終的に学問体系として現出することになる(学問としての体系のみが真理が現実に存在しうる唯一の形態である)、ということが明瞭になってきたと思う。このゴールを念頭に置くことによってこそ、古代ギリシャ哲学の第二期における真理規準をめぐる議論の意義を的確に捉えることが可能になるといえよう。

 また、このこととも深く関連するが、第二期の意義について、第一期との関連でしっかりと押さえることができたのも、重要な成果であったといえると思う。第二期というのは、端的には、第一期における到達点たる普遍的なものの意識、すなわちプラトンのいわゆるイデアのようなものから出発して、それを現実世界の諸々の具体的なものと如何にして一致させていくか、という課題に取り組んだ時期であった。この課題に対して、表象レベルのイメージにおいて解決されるのだと強引に片づけてしまおうとしたのが独断主義であり、そのような解決には無理があることに気づいて、普遍的なものの意識の方に引き返してしまったのが新アカデメイア派やスケプシス派なのだ、という大きな流れについてのイメージを描けるようになった。

 また、「自己意識の自由」というキーワードに関連して、精神が精神としての自己について明瞭に意識する形態というのは個としての人間の認識以外にありえないこと、その意味で、国家医師から分離した各個人の意志が外的世界と自己との関係に深刻に悩むようになったのは大きな前進の契機であったこと、外的存在を否定して全ては意識に現われたもの(現象)にすぎないとするのは、世界全体を自己(精神)のなかに溶かし込んでしまうものともいえ、全ては精神である、というヘーゲル的な到達点に向かっての決定的な前進でもあったことなどを明らかにすることができたのも、大きな成果であった。

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 今回の例会では、古代ギリシャ哲学の第二期がどのような流れになっているのか、またその第二期は哲学史全体の中でどのように位置づけられているのかということがかなり明確につかめるようになったと思う。真理論という観点から、大きな筋を把握できたと感じている。

 少し振り返っておく。そもそも古代ギリシャ哲学の第一期では、普遍的なものがそれなりに把握されたのであり、これをもとにして具体的な個々のものを把握していき、体系化することが第二期の課題になっていたということであった。これを踏まえて、独断主義では「対象(個別的なもの)と認識(普遍的なもの)の一致」が真理だと主張されるようになり、それを実現したものが表象だと考えられていたのだが、新アカデメイア派においてその見方に批判が加えられたということであった。そして、スケプシス派への流れの中で、そもそも対象と認識との一致などということが可能なのかという疑問が出されるようになったということであった。そもそも対象と認識はつながっていると同時につながっていないという相対的な独立の関係にあるものだが、その中のつながっていないという側面を強調したのが新アカデメイア派やスケプシス派だということであった。この両面を踏まえた上で、1つにまとめていくことが第三期の課題になるのだということであった。

 今回はチューターが真理論という観点から、そして「学問としての体系のみが真理が現実に存在しうる唯一の形態である」というヘーゲルの言葉を踏まえて、古代ギリシャ哲学第二期を捉えていたことが印象的であった。ヘーゲルを完成形態としてここの段階を位置づけていくという姿勢が『哲学史』を読んでいく上では決定的に重要だなと感じた。それぞれの時期がどういう段階にあるのかは、序論などに書かれているので、これも再度読み返す必要があるなと思った。
 
 また、議論の進め方という点で、今回のチューターの問題提起の仕方を見ていて、同じ論点に対して異なった見解が出された場合、両者をどう統一して理解するかという観点が非常に重要だということも感じた。個々のメンバーは『哲学史』のどこかの記述をもとにして自分の見解を出しているのだから、それぞれの見解が絶対的に間違っているということはほとんどない。したがって、個々のメンバーから出された見解を統一的に捉えることは、『哲学史』の理解を深めていく上でも非常に役に立つのだと思う。今後、論点への見解を各自が出したときに、そういう問題意識をもつようにしたい。

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 今回の例会での討論を通して,スケプシス主義の哲学史的意義がクリアーになったと思う。特に,真理とは何かということに関して,ヘーゲル的には,学問としての体系を想定しており,そのゴールに至る過程として,哲学史の流れを見ていくべきだということが,非常によく分かった。具体的には,独断論においては,対象と認識の一致こそが真理であるとして,その真理のあり方を単純に表象に求めたわけであるが,それでは不十分なのだとして,その前提たる対象と認識との相対的独立性に着目して,そのつながっていない部分を過度に強調したのがスケプシス派である,ということになろう。これはこれで一面的な捉え方なのであるが,先の独断論も逆の意味での一面性があり,このような相対立する見方をどのようなことに対しても出すことができるのだということを示したのが,スケプシス派の転釈法であったのだろう。

 また今回反省させられたのは,ギリシア哲学の第二期の意義を考える際に,今回のテキストの範囲の文章のみに依拠して考えてしまった点である。チューターを務めたメンバーは,古代ギリシア哲学の序論に相当する部分の記述に着目して,この第二期の意義を説こうとしていた。同じヘーゲルが説いているのであるから,現象的には違うことが説かれているように見えても,内的なつながりがあり,結局は同じことを説いているはずである。そこに筋を通すべく,当日議論できた点はよかったと思う。しかし,本来であれば,例会当日までにこれまでの論の展開の中で関係のありそうなところはピックアップしておいて,全体に筋が通るような形でヘーゲルを理解していく必要があると思う。

 次回でギリシア哲学の範囲が終るので,これまでの序論的なところや最後のまとめのところなどは最低でも読み返して,大きな流れをしかっかりと描けるように努力していきたいと思う。

(了)
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