2016年01月31日

2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学(2/10)

(2)ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の1月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回に渡って、ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学の要約を紹介していくことにします。

 今回は、総論的な部分とストア派の自然学の要約です。ここでは、ローマ世界においてストア派、エピクロス派、懐疑主義の3つの哲学が登場したこと、ストア派の自然学の根本思想に理性(ロゴス)というものがあることなどが説かれています。

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〔第2節〕第2期――独断主義(Dogmatismus)と懐疑主義(Skeptizismus)

 第二期はアレクサンドリア哲学に先行する時期であるが、ここで考察しなければならないのは独断主義と懐疑主義である。独断主義はストア派の哲学とエピクロス派の哲学に分かれ、これらと共通点を持ちつつ、それでいてそれらに対立する第三の哲学が懐疑主義である(アカデメイア派は懐疑主義と一括りにして扱う)。
 第一期の最後で、理念の意識、ないしそれ自身が目的である普遍的なものの意識――普遍的でありながら限定もされており、それ故に特殊なものを包摂し、特殊なものに適用することのできる原理の意識――を見た。普遍的なものを特殊なものに適用する関係は、この第二期でも支配的である。というのは、普遍的なものから特殊なものの総体を展開するという思想がまだ存在しないからである。しかし、体系への要求、体系化の要求はあって、特殊的なものの真理がひとつの原理にもとづいて認識されることは求められている。この要求が独断主義を生みだすのであって、主要な問題は規準を問うことである。真理とは思考と実在の一致、もしくは主観としての概念と客観との同一性だとされるから、これらが一致しているかどうかを判定する原理が問われることになる。したがって規準と原理は同一である。しかしこの問いは形式的かつ独断的に解決されたにすぎないので、すぐさま懐疑主義による弁証法〔反駁〕があらわれる。全てが判定される規準ないし原理についての哲学的思索を押し進めていくと、形式的な原理が主観にあることになり、自己意識は主観的なものである、という本質的な意味が是認されることになる。外面的に多様な事象を形式的に受け入れたために、思想が最も明確な形で現れる最高点は自己意識である。この時期の哲学全体にとって、自己意識がそれ自身と純粋に結びつくことが原理であって、理念はただこの原理においてのみ、自らの満足を見出す。規準の思考、つまり一つの原理の思考は、その直接的な現実としては内なる主観そのものである。思考の営みと思考するものとは直接的に結びついている。したがって、このような哲学の原理は客観的ではなく独断的であり、自己満足を得ようとする自己意識の衝動に基づく。
 このようにして哲学はローマ世界へと移ってゆく。もちろんこれら哲学の担い手はまだギリシャ人であったし、その偉大な教師たちはいつもギリシャ人であった(それら哲学が生まれたのもギリシャであった)が、それにもかかわらず、とりわけこれらの体系は、ローマ人の支配下で、ローマ世界の哲学となったのである。理性的で実践的な自己意識にそぐわないローマ世界に背を向けて、自己意識は外なる世界から自分のうちに追いやられて、合理性をただ自分の内に、しかもただ自分のためだけに求めるほかなくなった。明朗快活なギリシャ世界では、主観は国家や世界と深くつながって積極的に参与していたが、不幸な現実のなかで、人間は自分の内に引きこもり、世界ではもはや見出し得ない合一を自分の内に求めねばならなかった。
 ここに登場したのが、ストア派、エピクロス派、懐疑主義の3つの哲学である。独断主義は、特定の原理や規準だけを立てるものである。そこで次の3つの原理がなければならない。(1)思考ないし普遍性の原理。思考は真理の規準であり真理を規定するものであるとされる。(2)思考に対立するもうひとつの原理は、規定されたものそのもので、個別性の原理であり、感覚一般、知覚、直観である。これはストア派とエピクロス派の原理であるが、ともに一面的である。(3)これらの他に、第三のものとして、両者の一面性の否定である懐疑主義がある。これはあらゆる特定された原理の否定である。何ものにも動じることなく、何ものにも縛られることのない精神の安定が、これら全ての哲学に共通の目標である。ローマ世界では不幸にも精神的な個性の美しいもの、高貴なものは残らず冷たい粗暴な手によって拭い去られた。この抽象の世界では、個人は、現実が与えてくれることのない満足を、抽象的な仕方で自己の内面に求めるしかなかった。その意味で、これら3つの哲学はローマ世界の精神にふさわしいものである。

A ストア派の哲学

 ストア派とエピクロス派は、キニク派とキュレネ派の哲学の原理を受け継ぎ、それを学問的な思考の形式にまで高めたものである。しかし、ストア派もエピクロス派も、その内容は固定的で限定されており、思弁的な思考の活動は抹殺されている。ただ一面的で制限された原理の適用が見られるだけである。
 ストア派哲学の歴史。ストア派の創始者はキティオンのゼノン(エレア派のゼノンとは別人)である。紀元前336年、キプロス島のキティオンに生まれ、商人である父がアテナイから持ち帰ったソクラテス派の書物によって学問への欲求と愛が目覚めた。ゼノン自身アテナイに旅してプラトン派のクセノクラテスを訪ね、またメガラ派のスティルポンをも訪ねて彼の下で10年間弁証法の研究をした。ゼノンは主として弁証法と実践哲学の研鑽を重ねたが、他のソクラテス派の人たちのように自然哲学もおろかにせず、とりわけヘラクレイトスの自然に関する著作を研究した。その後、自ら教師として「ストア・ポイレー」〔彩色された柱廊〕と呼ばれる場所で講義するようになったので、彼の学派はストア派の名を得た。彼が目指したのは、アリストテレス同様、主として哲学をひとつの全体に纏め上げることであった。ストア派の哲学は、(1)論理学、(2)自然学ないし自然哲学、(3)倫理学ないし実践的色彩の濃い精神哲学の3つに分かれるが、それほど独創的な内容はない。

1 自然学

 ストア派の自然学は、以前の様々な自然学からとられた説がヘラクレイトスの自然学に沿って纏められたものである。ストア派の自然学の根本思想は、理性(ロゴス)こそ全ての自然的形態の根底にある実体であり、同時に働きである、というものである。この理性的な活動を彼らは神とよぶ。彼らは、火を実在的な理性として、普遍的質料、無規定な存在一般が火から出て、空気を経て湿ったものに変化する、という。そしてそれの濃厚なものが結集して土が仕上がり、比較的希薄なところは空気となり、そしてこれがさらに薄くなると火ができる。これらの元素が混和すると植物や動物、その他の種属が生じる。さらに思惟する魂もまた火の性質をもつものである。そして人間のすべての魂や動物の生命原理、さらには植物さえも、普遍的な世界霊魂、すなわち普遍的な理性(ロゴス)、つまりは普遍的な火の部分であって、その中心点をなす火が全てを支配するものであり、押し進めるものである、という。
 ストア派の人たちは、理性的なものを自然一般の能動的な原理と認識することによって、個々の自然現象を神の顕現と捉えた。そのことよって、彼らの汎神論は、世間一般の神々についての卑俗な考え方やそれとつながる迷信や、全ての奇蹟信仰などと結び付く。すなわち、自然の内には神のお告げがある、だから人間は礼拝や勤行によってそれを受け止めねばならない、という考え方である。したがって、ローマの迷信の全部が、ストア派の人たちを最も強力な庇護者としたのである。
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2016年01月30日

2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学 要約@
(3)ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学 要約A
(4)ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学 要約B
(5)ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学 要約C
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:独断論とスケプシス主義が登場した必然性とは
(8)論点2:独断論における真理の規準とはどういうものか
(9)論点3:ソクラテスからプラトンへの発展とは何か
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、3年前のヘーゲル『歴史哲学』、一昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて、昨年からいよいよヘーゲル『哲学史』に挑戦してきています。今年末までかけてこの著作を通読することで、ヘーゲルの説く哲学史を理解することはもちろんのこと、それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた第一歩を確実に歩んでいくことを課題としているわけです。

 1月例会では、ヘーゲル『哲学史』のストア派の哲学、エピクロスの哲学を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

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京都弁証法認識論研究会 2016年1月例会

ヘーゲル『哲学史』 ギリシア哲学第2期 独断論とスケプシス主義(懐疑主義)

総論
 ヘーゲルは、ギリシア哲学の第1期において普遍的なものの意識が登場したこと、第2期においては普遍的なものの特殊的なものへの適用が問題になること、それは普遍的な原理を真理の規準として特殊的なものに押し付けることによって独断論が生みだされたこと、その反発としてスケプシス主義(懐疑主義)が生まれたことを説いている。ヘーゲルはまた、これらの哲学がローマ世界の精神にふさわしいものであったことを力説している。

【報告者コメント】
 第2期の課題とは何であり、その解決がどのように試みられたのか、ヘーゲルの考える「学問とは何か」から押さえておく必要があるであろう。また、このことと絡めて、ローマ世界の精神とはいかなるものであったのか、『歴史哲学』で説かれていたような内容も踏まえて、確認しておく必要もあろう。


ストア派の哲学
 ヘーゲルは、ストア派が小ソクラテス派のキュニコス派の原理を哲学的に深めたものであるとの評価を与えている。
 ストア派の自然学については、理性(ロゴス)=神こそ全ての自然的形態の根底にある実体であり、同時に働きであるという根本思想の下、あらゆる自然現象を神の顕現とみなす汎神論となったこと、ローマ世界におけるあらゆる迷信を正当化する役割を担うことになったことが説かれている。
 論理学すなわち真理の規準論については、彼らが学問と蒙昧との中間たる「把握〔概念化〕された表象(begriffene Vorstellung)」を真理の規準だとみなしたこと、これは、真理は対象と意識との一致であるという有名な定義の彼らなりの表現であることが説かれている。
 道徳論については、理性的自然にしたがって生きることが徳であるとしたことが説かれるが、この徳論は、自然に従うものは何かと問えば理性であると答え、理性とは何かと問えば自然にふさわしいと答えるような、形式的で空疎なものであることが批判されている。

【報告者コメント】
 自然学にしろ論理学にしろ道徳論にしろ、自然(全宇宙)を理性的なものとみなした上で、その理性的なものと個々人の認識が一致しうる、という発想を持ったところに、ストア派の大きな特徴があるといえるであろう。これは、ギリシャ時代にあったようなポリス共同体が解体してしまったなかで、国家レベルの共同体との生き生きとした関係を持てなくなってしまったことにより、一足飛びに全宇宙という抽象的なレベルにまで跳ね上がってしまったものだといいうるであろう。


エピクロス派の哲学
 ヘーゲルは、エピクロス派が小ソクラテス派のキュレネ派の原理を哲学的に深めたものであるとの評価を与えている。
 エピクロス派の真理の規準論(論理学)については、彼らが感覚を重視した上で、感覚の繰り返しによって固定した表象になったものこそが、真理の規準となるのだとしたことが説かれている(こうしたエピクロス派の認識論についてヘーゲルは、浅薄なものという評価を与えている)。
 形而上学および自然学については、エピクロスが全てを原子の偶然的な運動から説明して、一切の合目的なもの、必然的なものを認めず、目的論的な世界観に厳しく反対したことが説かれている。
 道徳論については、快楽を原理とすることで、精神の幸福、汚れのない浄福を原理としたこと、賢者の状態、心の平静(アタラクシア)、すなわち恐怖や欲望から自由な精神の自分自身との同一的な心の平静の持続を目的として掲げ、そのためにも(迷信から解放されるために)自然学が必要だとしたことが説かれている。

【報告者コメント】
 エピクロス派の哲学については、個人を宇宙全体のなかに解消させてしまったストア派とは全く正反対に、徹底的に個人的なものである感覚にこだわったものであるといえる。これもまた、個々人が生き生きとかかわるような国家レベルの共同体がなくなってしまったことへのひとつの反応であるといえるであろう。
 エピクロス派の認識論は、ロックやヒュームなどイギリス経験論の認識論の先駆ともいえる内容を含んでおり、唯物論的な認識論の見地からすれば、それなりに評価すべきものだといえるのではないか。

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 以上の報告に対して、まず、ストア派とエピクロス派との対立が非常に端的にまとめられていて、エッセンスを的確に捉えられているのではないかというコメントがありました。また、ストア派の哲学に関する報告者コメントの中で、「自然(全宇宙)を理性的なものとみなした」とあることについて、全宇宙ということと理性的ということとのつながりはどういうことかという疑問が呈されました。通常、理性的という言葉は、人間の認識に対して用いられるものだからです。これに対しては、理性は(全宇宙という対象の世界の側ではなくて)認識の側を指しているというのは、ヘーゲルからそのように考えられたものであって、当時は宇宙の秩序が合理的であることを全宇宙は理性的であるとか理性は世界にあるとかいった言葉で表していたのではないか、ストア派とエピクロス派との対立に絡めていえば、世界を理性的(合目的的)だと考えたのがストア派で、そうではなくて偶然的だと考えたのがエピクロス派になるということではないか、などのコメントがありました。質問者もこれらの説明に納得しました。
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2016年01月29日

看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想(5/5)

(5)事実からと論理からの二重性の学びを

 本稿は,神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(2)』(現代社)を,臨床心理士である筆者が読んでその感想を認める論考であった。その際,看護師による認知行動療法が保険点数化される見込みであるというニュースが示すように,看護師と臨床心理士の業務内容は一部重なるとともに隣接していることから,看護師と臨床心理士に共通する学び方に特に注意を払いながら,本書を読んで学んだことを考察していった。ここで,これまでの内容をふり返ってみたい。

 初めに,自分の体験を通して学ぶということについて考えた。神庭先生は,ナイチンゲールの言葉を,単に言葉としてのみ,知識としてのみ知っているだけでは,感情がこもらないので役立てられない,そうではなく,自分の事例を通して感覚的かつ感情的に分かっていくことが非常に大切であると説かれていた。これをわれわれ臨床心理士の学びとして適用すると,たとえばよいコミュニケーションの方法としてうなずきやあいづちを学ぶ場合,自分がかつて話していて,話しやすかった体験を踏まえて,相手はどのような反応だったから話しやすかったのかということと教科書の内容を二重に重ねながら学んでいくことが大切だと説いた。また認知行動療法の教科書やマニュアルを学ぶ際,「不安」や「悲しみ」とあれば,それを言葉としてではなく,自分の体験に基づいてきちんと感覚的かつ感情的に理解していくことが大切であり,そうしないと,患者さん・クライエントさんに共感できずに失敗してしまう可能性があると説いた。また神庭先生は,自分を対象に自分で看護してみることが訓練の重要な第一歩であると説かれていた。これはわれわれも同じで,たとえば認知行動療法を学ぶ際にも,自分に感情や行動の問題が生じた際に,自分で自分に認知行動療法を行っていくことがよい学びになり,こういう学びをしていると病人に不可能なことを強いるような失敗を犯す可能性が減るであろうと説いた。このように,自分の体験を通して分厚い五感情像を培っていくことが大切だと確認した。

 次に,先達や先輩からはどのように学んでいけばいいのかを考察した。神庭先生は,時代や場所が大きく異なった状況で活躍した先達から学ぶ際には,具体的な事実に着目するのではなく,その事実を通して説きたかった中身を掴む必要があると指摘されていた。すなわち,具体的な事実は違っていても,その意味するところ(論理)は同じであるから,論理を読み取って自らの実践に活かしていくべきである,ということであり,現象的な違いに引きずられることなく,その中身(構造)を理解していく必要がある,ということでもあると思うと述べておいた。また神庭先生は,ナイチンゲールの説く具体的な行為を問題にするのではなく,その行為の意味・性質・構造・論理をこそ問題にしなければならないとも説かれていた。このようなことは,われわれ臨床心理士も留意する必要があるとして,例えば海外の心理療法を学ぶ場合や先達や先輩の事例論文から学ぶ場合も,条件が違うから役に立たないなどと考えるのではなく,論理の光を当てて,中身をしっかりと読み取って活かしていくべきだと説いた。また,先達や先輩の面接を実際にみて学ぶ場合にも,ある具体的な行為のみを問題にするのではなく,その行為の意味・性質・構造・論理を見てとる必要があり,そのためにはカウンセリングや認識論の一般論を踏まえている必要がある,と説いた。要するに,論理の光を当てるからこそ,現象的な違いの背後に潜む構造が掴めるのだし,一般論を把持しているからこそ,具体的な事実の意味(論理)が分かるのであるとまとめておいた。

 最後に,認識論の一大論理である「観念的二重化」の問題を取り上げた。本書の第十章では,友人からの「おせっかいな励まし」や「忠告」は,病人にとって利益になるどころか,かえって病む人の苦悩をよりいっそう引き起こしたり,生命力の消耗を大きくしたりすると説かれていた。これは,真に病む人の立場に立つことができていないからこそ,すなわち,「自分の自分化」レベルでしか観念的二重化を行うことができていないからこそ,相手にとっては不適切なものとなるということであった。一般にカウンセリングにおいて,忠告やアドバイスをしないように教育されているのは,既に何十回もなされている可能性のある実現不可能な忠告を,それもプロから行うことは,クライエントを落胆させ,消耗させるだけであるからだと説いた。素人のいいそうなことも,自分の自分化レベルの観念的二重化の実力が反映されたものであるから,相手とのずれを引き起こすことになるだけであり,プロはいわない方が無難であることにも触れた。さらに神庭先生は,相手の認識を本当に相手の立場からのものとしてみてとることができるようになるだけではなく,そこからさらに,相手に立場に立ちつつどう介入していけばいいのかを専門職の立場から考えられることが大切であると説かれていた。相手の認識を本当に相手の立場からのものとしてみてとる,すなわち自分の他人化は,われわれ臨床心理士の世界でも,「受容」「傾聴」,あるいは「ペーシング」「ジョイニング」などとして重視されていることを指摘した。しかし専門職者としてはそれだけではなく,その成果を引っさげて,相手に合わせた専門的介入を行い,専門家としてしっかりと結果を出さなければならないことを説いた。

 以上,これまで説いてきた3つの内容を振り返ってきた。端的にまとめると,看護であれ,心理臨床であれ,自分の体験を通して学ぶことが大切であるし,先輩・先達からは論理的に学ぶことが求められるし,観念的二重化の論理を学び,自分の他人化を通して得た成果を踏まえて専門的な介入を行うべきである,ということであった。このような3つの学び方の共通性について検討してきたということである。

 では,これら3つはどのような関係にあるといえるだろうか。まず,第一の自分の体験を通して学ぶということは,第三の観念的二重化からの学びの前提となるであろう。どういうことかといえば,自身がしっかりと体験し,その体験をしっかり目的意識的に観察しすることによって,分厚い五感情像を創りあげておくことが,相手の立場に立つ,つまり自分の他人化をなすためには,必要不可欠なのである,ということである。三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で説くように,現実の自分が有能ならば,観念的なもう一人の自分も優れたものになるわけである。端的にいうならば,現実の自分の体験の幅が広く,その体験の意味を深く理解していればいるほど,観念的二重化の能力も高く,自分の他人化ができる可能性も高くなるということである。

 次に,先達・先輩から論理的に学べるためには,その先達・先輩に観念的に二重化できている必要がある。これは,先達・先輩の説く事実にとらわれるのではなく,その事実を通して説きたかった中身(論理)を捉えるにしても,先達・先輩の実践行為の現象面に引きずられるのではなく,その行為の構造を掴むにしても,これらは要するに,その先達・先輩の認識をきちんと受け取るべし,ということを意味するからである。どういう目的像を描いて,どのような認識の表現としてそのような行為を行ったのか,ということをきちんと理解しなければならない。そしてそのように先輩・先達の認識をきちんと受け取るとは,とりもなおさず,彼らに観念的に二重化することであり,自分が先輩化・先達化することである。したがって,自分の他人化の実力がそれなりになければ,先輩・先達から論理的に学ぶことはできない,ということになる。

 最後に,先輩・先達から論理的に学ぶということは,少なくともある程度,その領域に関わる論理的な学びを行っている必要がある。たとえば看護とは何かを知らなければ,食事の配膳という現象に潜む意味(構造)など分からないし,ペーシングという論理を知らなければ,ぞんざいな言葉づかいの背後にある意図(論理)も分からないことになる。したがって,これは,単純化すれば論理→事実という流れの学びということになる。これに対して,自分の体験を通して学ぶというのは,体験からある意味なり論理なりを学ぶということであるから,事実→論理という流れの学びということができよう。すなわち,今回説いた第一の内容と第二の内容は,ある意味,対立の関係にあるのであり,両者を統一してこそ,認識ののぼりおりが可能となる,すなわちまともな学びとなるのである。

 以上要するに,第一の自分の体験からの学びによって,第三の観念的二重化の実力がついていき,さらに観念的二重化の実力がつくことによって,第二の先達・先輩からの論理的な学びも深まっていく,そして第一の学びと第二の学びは認識ののぼりおりの関係に対応しており,これによって専門領域の理解が深まっていく,アバウトにいえば,3者はこのような関係にあるといえるのではないだろうか。

 ここで,論理からの学びと事実からの学びに関して,本書にある次のような指摘が想起される。神庭先生は,「弁証法というのは全世界の一般的な運動の科学,あるいは運動の一般的な科学のこと」(p.81)という弁証法の概念規定に関して,「一般的な運動」と「運動の一般性」の区別を説かれた後,次のようにまとめておられる。

「ですから,弁証法の学びとは,大きくアバウトに運動としてとらえることと,小さな個々の事物・事象の変化・発展・消滅などのあり方を,大きく一般性としてとらえる訓練が必要だということとの二重性(二重構造)で弁証法の学びは始まっていくことになる,そうでなければ弁証法的にはならないという意味をもった概念規定なのです。」(p.82)


 ここでは,弁証法の学びは二重性(二重構造)で始まっていくのであり,一方では「大きくアバウトに運動としてとらえること」であり,他方では「小さな個々の事物・事象の変化・発展・消滅などのあり方を,大きく一般性としてとらえる」ことだと説かれている。

 これもいってみれば,論理から事実を学んでいく方向と,事実から論理を学んでいく方向の(あるいは全体から部分へと学んでいく方向と,部分から全体へと学んでいく方向の)二重性ということではないだろうか。

 看護にしても心理臨床にしても,同様に二重性の学びが必要なのであって,どちらか片方では「弁証法的にはならない」,すなわちきちんとした上達は見込めなくなる,ということであると考えた次第である。今後とも,看護学の遺産をしっかり心理臨床に活かしていけるように,本『初学者のための『看護覚え書』』シリーズに学んでいきたいと思う。

(了)
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2016年01月28日

看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想(4/5)

(4)「観念的二重化」の論理から学ぶ

 前回は,先達・先輩の優れた実践からどのように学んでいけばいいのかを考察した。先達の説く具体的な事実にとらわれることなく,その事実を通して何を説きたかったのかの中身を掴もうとすることが大切であり,ある実践の中の具体的な行為を問題にするのではなく,その行為の意味・性質・構造・論理をこそ問題にしなければならない,ということであった。臨床心理士が,心理療法を著作や論文で学ぶとき,あるいは,先達や先輩の面接を直に見たり,DVDで学んだりするときも,同様に論理的にみてとっていく必要があることを説いた。

 さて今回は,認識論の一大論理である「観念的二重化」の問題を取り上げたい。看護であれ心理臨床であれ,人間を相手とする専門職の場合には絶対に理解しておかなければならない論理であるし,「心を病む人の認識の問題は「観念的二重化」の論理からのみ解くことができる」(p.191)という示唆的な指摘もあるからである。

 観念的二重化については,『初学者のための『看護覚え書』(2)』の「第十章 看護のために必要な「観念的二重化」の実力」でまとまった形で説かれている。ここではまず,友人からの「おせっかいな励まし」や「忠告」は,病人にとって利益になるどころか,かえって病む人の苦悩をよりいっそう引き起こしたり,生命力の消耗を大きくしたりすると説かれている。それは,励まされると,辛い心情を伝えなければならなくなり,問いかける先が自分の病のみになるからであり,また,分かってもらえない思いが大きくうずまき,それが孤独感というさらなる苦悩をもたらすからであると説かれている。また,忠告に関しては,それは既に何十回も聞かされていることであり,実行の可能性や安全性について全く考慮されていないものだからであるとされている。

 このように,おせっかいな励ましや忠告がなぜ病む人に悪影響をおよぼすのかについて,ナイチンゲールの言葉を引用したあと,神庭先生は次のように説かれている。

「これは病む人の「ほんとうの苦悩」を理解することができず,わが身を病人の生活に置き換えて考えることができないために,善意からなる忠告者には,病む人が逆にそのことによって消耗させられている状況になってしまっていることには気づくことができない,ということです。つまり一言でいえば,病む人の立場に立つことができていない,にもかかわらず見舞客の方はしっかりと病む人の立場に立っているつもりになっているのだ,ということです。」(p.183)


 ここでは,真に病む人の立場に立つことができていないからこそ,相手を消耗させるようなおせっかいな励ましや忠告をしてしまうのである,ということが説かれている。連載第2回で触れた「病人に不可能なことを強いる」ということも,ここにあるように病む人の立場に立てていないからこそ,ということがいえるだろう。

 この後の展開としては,海保静子『育児の認識学』を引用しながら,相手の立場に立てるということが観念的二重化の実力であること,観念的二重化には,単に相手の立場に立っているつもりの「自分の自分化」の段階と,真に相手の立場に立てている「自分の他人化」の段階とがあることが説かれていく。

 われわれ臨床心理士にとっても,この内容は非常に参考になる。一般に,カウンセリングでは忠告やアドバイス等はしないように教えられる。われわれが思いつくようなアドバイスは,とっくに誰かによってなされている可能性が高く,そのアドバイス通りにできないからこそ,またはそのアドバイスに従ってやっても問題が解決しないからこそ,プロのカウンセラーに相談に来ているわけである。それなのにプロが同じようなことをいえば(同じようなことしかいえなければ),クライエントは落胆して,ますます消耗してしまうだろう。

 ある実力ある心理士は,「私は面接中,できるだけ素人のいいそうなことはいわない」とおっしゃっていた。これも同じ理屈で理解できる。素人は,善意からではあるが,安易に励ましたり助言したりするものである。素人がカウンセリングもどきをした場合も同様である。しかし,そのようなもので,抱えている心の問題や困りごとが解決するのであれば,苦労しないのである。ナイチンゲールや神庭先生が説くように,このような励ましや助言は,真に相手の立場に立ったうえでなされた専門的なものなどでは決してなく,素人が「自分の自分化」しかできていない段階で,勝手に相手のことが分かったつもりになってなされるものであるから,励まされたり助言を与えられたりした側にしてみれば,大きくずれていると感じざるをえないものなのである。プロがそのようなことをしてしまったら,クライエントさんがわざわざプロのところに相談に来られた甲斐がないというものである。

 さらに神庭先生は,専門職者であれば「自分の他人化」ができるように訓練していかなければならないと説いた後,次のように指摘されています。

「ですから,「観念的二重化」について学ぶということは,相手の認識を本当に相手の立場からのものとしてみてとることができるようになるため(これがよくいわれる受容する,傾聴するという段階です),ということはもちろんですが,専門職である看護師としてはそこからさらに,病む人とどう関わり,どう支えていくか,どう変えていくことが必要であるかということを相手の立場に立ちつつ看護師の立場から考えられることが大切であり,それが看護として認識を整える技術を養うための,学びの第一歩であるといえるのです。」(p.190)


 ここでは,看護師は相手の認識を本当に相手の立場からのものとしてみてとることができるだけではなく,その成果を引っさげて,専門職としてどう介入することが看護として相手の認識を整えることになるのか考えられなければならない,と説かれている。

 まず前半の「相手の認識を本当に相手の立場からのものとしてみてとることができるように」という点,つまり「自分の他人化」について考えたい。本書では,このような内容はいたるところで説かれている。第八章の第七節では「音をたてて動きまわる看護師は,患者にとって恐怖である」というナイチンゲールの指摘,さらに,不注意にも患者の害になるような物音を作りださないために,患者とどう接すればいいかというナイチンゲールの指示を受けて,患者の身になって,患者の認識をみてとっていく必要があると説かれている(p.154)。また,訪問看護を行ったAさんの事例については,相手の様子から相手の期待を理解して,まずはその思いに応えることが大切な関わりとなると説かれている(p.207)。これらの箇所では,観念的二重化とか自分の他人化とかいう言葉こそ使われてはいないが,端的には,自分の他人化をしっかりとできる実力が求められる,ということが説かれているのである。

 心理臨床でも全く同じといえる。先の引用文の中にあったように,心理臨床(カウンセリング)でも「受容」「傾聴」(さらには「共感」)が重要であるといわれている。また,ブリーフセラピーのある流派では,「ペーシング」や「ジョイニング」が重要であるとされている。ペーシングやジョイニングというのは,クライエントさんに言語表現や非言語表現を合わせるということである。これは,表現を合わせることによって,その表現の背後にある認識を読み取るためでもあるし,相手にとってカウンセラーが違和感のない存在,自分に似た存在と受け取ってもらうための技法である。「受容」「傾聴」にしても,「ペーシング」「ジョイニング」にしても,要するに「相手の認識を本当に相手の立場からのものとしてみてとることができる」ことを目指しているといえるのであり,つまりは「自分の他人化」が目的であるといえるだろう。

 では次に,引用文の後半部分を検討したい。「専門職である看護師としてはそこからさらに,病む人とどう関わり,どう支えていくか,どう変えていくことが必要であるかということを相手の立場に立ちつつ看護師の立場から考えられることが大切」とあるが,これをより一般化していえば,専門職として,相手にどう介入する必要があるかということを相手の立場に立ちつつ自らの専門の立場から考えることが大切,ということになろう。

 われわれ臨床心理士の場合で考えてみよう。先に触れた「受容」「傾聴」や「ペーシング」「ジョイニング」などを通して,まずは相手に合わせて,相手の期待に応じ,相手のことを理解できたら,すなわち,自分の他人化ができたら,その次の段階として,その成果を引っさげて,専門的な介入を行う必要があるということである。前々回にも触れた強迫性障害に対する認知行動療法の例でいうと,しっかりと相手の不安に共感したうえで,曝露という方法によって症状が改善することが分かっているということ,そしてそのためには具体的にどのようにしていけばいいのかということを,相手に合わせて適切に説明していく必要がある。これが専門的な介入というものであろう。

 そうではなく,共感したまではいいが,汚いものに触れたと思って手洗いをやめられない人に対して,「汚いものに触っていないから大丈夫ですよ」といったり,ドアの鍵をかけ忘れたのではないかと思って不安になって確認をくり返している人に対して,「大丈夫です,しっかり鍵はかかっています」といったりすることは,安易な素人的励ましであって,実は症状の持続要因となるものである。プロは相手に共感しつつも,その苦悩を取り除くための適切な方法を,相手に合わせて適切に指示するものなのである。

 以上,今回は,観念的二重化の論理を取り上げて,しっかりと自分の他人化をすることなく,自分の自分化レベルで行われる励ましや忠告は相手のためにならないこと,自分の自分化を行ったうえできちんと専門的な介入を相手に合わせて行うべきことを説いた。
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2016年01月27日

看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想(3/5)

(3)先達・先輩からは論理的に学ぶ

 前回は,看護師と臨床心理士に共通した学び方の一つとして,自分の体験を通して学ぶという点について思索した。専門分野の教科書などを学ぶ際にも,自分の体験と二重に重ねて,感覚的かつ感情的に分かっていくことが大切であるし,看護にしても心理臨床にしても,まずは自分を対象として自分で実施してみることが,上達のための訓練として重要であることを説いた。

 今回は,看護にせよ心理臨床にせよ,対人援助の実践に関して上達していく際の,先達・先輩(の優れた実践)からの学び方について考えてみたいと思う。

 ナイチンゲールは,自身の把持した看護の一般論を踏まえて,どのように食事を選択すればいいか,換気と保温を両立させるためにはどのようにすればいいか,住居の健康を整えるにはどうすればいいか,ベッドと寝具類はどのように整えればいいのか,などの具体的な問題を論じている。

 しかし,『看護覚え書』が執筆された19世紀中頃のイギリスの状況と,21世紀を迎えている現代日本の状況とでは,大きく異なっている。たとえば,食べるもの大きく異なっているはずであるし,病院や住宅の衛生具合も大きく異なっている。だから,そのような現象面の違いに引きずられてしまうと,『看護覚え書』は,現代日本の看護には役に立たない,という結論を下してしまいかねない。

 ところが,神庭先生は,この点について,「病む人に適した食事の内容」を説く中で次のような重要な指摘をされている。

「具体的な食品についての指摘は,当時のイギリスの状況と現在の日本の状況とでは,大きく異なっているとも考えられますが,具体的な食品についての指摘を通して,ナイチンゲールが本当に説きたかったと思われる中身を深く読み込んでみると,現代の看護にもあてはまる大事なことが読み取れることに気づかされます。」(p.35)


 ここでは,ナイチンゲールの説く具体的な食品についての指摘は,そのまま現代の日本に当てはまらないとしても,それを通して説きたかった中身は,現代の日本にも通用するのである,ということが説かれている。少し論理化していえば,具体的な事実は違っていても,その意味するところ(論理)は同じであるから,論理を読み取って自らの実践に活かしていくべきである,ということであろう。別言すれば,現象的な違いに引きずられることなく,その中身(構造)を理解していく必要がある,ということでもあると思う。

 このような指摘は,本書のいたるところでなされている。ナイチンゲールが強調した「新鮮な空気」の重要性を説くところでは,エアコンが備えてある現代日本では,それほど強調しなくていいのではないかという見解に対して,院内感染などエアコンで整えられた空気だからこその問題性もあると反論している(p.114)。また,ベッドと寝具を看護として整えることの重要性を説く箇所では,これまた現代ではベッドなどは様々に改良されているので,看護上の問題にはならないのではないかという見解に対して,「そんなことはない。特に,地域看護の場面では大きな問題になる」という旨が説かれていく(p.203)。

 これらの最初の見解はいずれも,事実のみを見ている,あるいは現象に引きずられているといえるだろう。それに対して神庭先生は,ナイチンゲールの説く内容を論理的に捉えている,あるいはその構造(中身)を掴みとっている,といえるだろう。

 同様のことは,別の箇所でも説かれている。「換気」について説かれているところでは,以下のような指摘がある。

「つまり,ナイチンゲールは,窓を開け閉めするという行為としての「換気」を問題にしているのではなく,「換気する」ということの意味,すなわちその性質,その構造をこそ問いかけているのであり,その論理をこそ問題にしているということが理解されなければなりません。」(p.92)


 すなわち,具体的な行為を問題にするのではなく,その行為の意味・性質・構造・論理をこそ問題にしなければならない,ということである。

 いままで見てきたのは,看護学の大先達たるナイチンゲールの言葉を読み取っていく際の注意点であるが,これは何もナイチンゲールの言葉の読み取りの際だけではなく,一般に,何らかの技術を先達や先輩から学ぶ際に,注意しなければならないことであるといえる。

 例えばわれわれ臨床心理士が,海外の心理療法を学ぶ場合などは,先のナイチンゲールの言葉を読み取る際と同じことに留意する必要がある。筆者の専門とする認知行動療法は,もともとアメリカで,それも1970年頃に開発されたものである。したがって,様々な条件が現代日本とは異なっている。しかし,だからといって,当時の教科書は全く役に立たない,などということはない。それどころか,認知行動療法の創始者の説く内容は,論理的に読み取るならば,非常に多くのことを教えてくれる貴重な文化遺産であるといえる。ナイチンゲールを読み取る場合と同じく,具体的な事実にこだわるのではなく,その事実を通して何がいいたかったのかという中身を掴むべく,問いかけていく必要がある。

 先達や先輩の書いた事例検討論文などを参考にして自らの臨床を行っていく際も同様である。自分の臨床と条件があまりにも違うから参考にならない,などということはない。優れた臨床実践の中には,自分の臨床と様々な条件の違いはあっても,多くの学ぶべき点があるものである。もちろん,先達の臨床をそのまま現象的にまねするべし,などといっているのではない。優れた臨床実践に,論理の光を当ててみれば,浮上してくるものがあり,それは自らの実践に活かしていけるということをいっているのである。

 またわれわれは,先達や先輩の実際の面接に陪席したり,面接のDVDを見たり,彼らのロールプレイを見たり,することによって学ぶこともある。その場合でも,しっかりと論理的に技を学び取っていく必要がある。あるカウンセリングの大先達は,私が陪席していた初回面接で,かなりぞんざいな言葉遣いをしておられた。通常,われわれ臨床心理士は,面接(カウンセリング)においては,(当たり前であるが)丁寧な言葉づかいをするものである。しかし,その大先達は,全く丁寧ではなく,かなりいい加減な話し方だったのである。ここを現象的に捉えて,実は定説とは違って,カウンセリングにおいてはぞんざいな言葉遣いをした方がいいのだ,などという結論をくだしてはならない。これではまさに,具体的な行為のみを問題にして,その行為の意味・性質・構造・論理を見ようとしていない典型例である。

 実は,これは相手に合わせていたのである。クライエントが,かなり年上のカウンセラーであったにもかかわらず,フランクな物言いをしていたので,それに合わせて,この大先達も同じような言葉遣いをしていたわけである。

 これはカウンセリングの技法で,ミラーリングとかジョイニングとか呼ばれるものである。言葉遣い,語彙,話すスピード,姿勢,しぐさ,服装などなど,相手の表現にできるだけ自然に合わせることによって,スムーズにラポール(信頼関係)を築くための技法である。人間は自分に似ていないもの,違和感のあるものに対しては警戒心を抱くのに対して,自分に似ているもの,違和感のないものに対しては親近感を抱くものである。このような一般論を踏まえて,先の陪席を眺めてみれば,自然とその行為の意味が明らかになるのである。

 ナイチンゲールから学ぶ際も,ナイチンゲールは看護の一般論を踏まえて説いているだけに,読み取る側も看護の一般論からその特殊な内容を読み取っていく必要がある。要するに,一般論を踏まえて読み取っていく,論理の光を当てて読み取っていく必要がある,ということである。そうしないと,現象に引きずられたり,事実のみを問題にしたりしてしまいかねないのである。それだと,偉大なる大先達から学ぶことがなくなってしまう。

 臨床心理士の場合も,ミラーリングとかジョイニングなどという一般論を踏まえて,あるいは認識論の一般的な論理を踏まえて,具体的な事実に学んでいく必要があろう。要するに,優れた実践から学んでいく際には,現象に引きずられることなく,事実を論理的に見て取っていく必要があるということである。論理の光を当てるからこそ,現象的な違いの背後に潜む構造が掴めるのだし,一般論を把持しているからこそ,具体的な事実の意味(論理)が分かるのである。これは看護であろうと,心理臨床であろうと,共通する学び方であるといえよう。
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2016年01月26日

看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想(2/5)


(2)自分の体験を通して学ぶ

 本稿は,神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(2)』を臨床心理士である筆者が読み解き,そこから臨床心理士として学ぶべき点について考察していく論考である。特に,看護師と臨床心理士に共通した学び方という観点から,本書に学んでいくこととしている。

 今回は,自分の体験を通して学ぶということについて考えていきたい。

 神庭先生は,「第2章 ナイチンゲールの説く 「食物の選択」 に学ぶ」の「第1節 ナイチンゲールの言葉は知識ではなく自分の体験を重ねて理解することが必要である」のなかで,次のように説いておられる。

「ですが,このことを単に言葉としてのみ,知識としてのみ知っているだけでは,おそらく適切な看護はできないものです。なぜかといえば,知識として持っているだけのことには,自分の人間としての(看護者としての)感情がこもらないしこもりようもないからです。例えば,失恋した相手を慰める場合,自分に失恋の体験があれば,その時どきの立ち直るまでの感情としての思い出をもとに,相手に対しての言葉かけの中身の一つ一つが,しっかりと役に立つ形で慰められることになるはずですが,その経験もない友人が何をいっても反発されるだけである,ということで分かってもらえるはずです。」(p.33)


 ここでは,単に言葉としてのみ,知識としてのみ知っているだけでは,感情がこもらないので役立てられないということが,失恋した相手を慰めるという例で,分かりやすく説かれている。

 この後,食事に関しても,自分がきちんと食事をとった場合とそうでない場合の体調の変化を感覚として経験していれば,病人相手の場合にも,きちんと食事を取らないことが体調をますます悪化させるのだと感覚として分かるはずだとした上で,次のように説かれている。

「それだけに,食事の質もさることながら,体調にとっての質,つまり,きちんとした食事の時間にきちんとした食事を摂らせることの大切さを,自分の事例を通して感覚的かつ感情的に分かっておくことがいかに大切であるかを説いているのだ,とも分かっていかなければなりません。」(p.34)


 すなわち,自分の事例を通して感覚的かつ感情的にナイチンゲールの言葉を分かっていくことが非常に大切である,ということである。この後の文言を借りてさらに言い換えておくならば,「自分の過去に学んだ感情をもとにして」ナイチンゲールの説く内容を「自分の体験と二重に重ねながら学んでいく」(p.34)ことが必要である,ということである。

 これは,臨床心理士の学びにもそのまま適用できる論理であろう。たとえば,クライエントとのコミュニケーションのやり方を教科書で学ぶとしよう。クライエントに気持ちよく話していただくためには,セラピスト側はうなずきやあいづちを入れながら,相手の気持のこもっている言葉や重要そうな言葉などを1,2語とりあげ,それをつぶやくようにくり返す,と書いてあったとする。これを単に言葉として,知識として知っていてもさほど役には立たない。これだけではうなずきやあいづちの具体的なあり方やタイミングなどが分からないからである。

 だから,これを学ぶ際には,自分が誰かとコミュニケーションをしていて,こちらが気持ちよく話せた時とそうでなかった時の差を,相手の反応という観点から振り返ってみるとよいかもしれない。こちらが話しているのに,うなずきもあいづちもなく,すぐに自分の話を始めてしまう人と会話した経験,その時の感情を思い出す。悩み事を相談して,熱心に聞いてくれた友人の反応と,その時の感情を思い出す。そうした自分の体験と,教科書に書かれているコミュニケーション法を二重に重ねながら学んでいけば,クライエントとのコミュニケーション法もうまく上達していくと考えられる。すなわち,感情を込めてうなずき,あいづちを打てるようになるし,適切な言葉をピックアップしてくり返すことによって,相手に気持ちよく話してもらえるようになるはずである。

 他の例でも考えたい。例えば,認知行動療法を教科書やマニュアルで学ぶ際,認知行動療法が主としてターゲットとする悲しみや不安などの感情を,単に言葉として受け取って学んでいっては,大きな失敗をしかねない。認知行動療法の教科書には,過剰な不安に苦しむ不安障害の方には,「曝露」といって,あえて不安を換気するような刺激に直面する方法が非常に効果的であると書いてある。たとえば,汚いものを触ってしまったら,自分が汚染されて,間違って口に入ってしまったら病気になってしまうと不安を感じて,手洗いを長時間くり返してしまうという強迫性障害(不安障害の一種といえる)の方には,あえて汚いと思うものを触ってもらって,手洗いをしないようにするのが治療的であるとされる。しかし,この方法に忠実に,マニュアル通りにやろうとしても,クライエントのドロップアウト(治療からの脱落)を招くのが落ちである。不安を感じて,それを解消するために手洗いがやめられないのに,不安をあえて感じ続けて,手洗いをするなと指示するのであるから,そんなことはしたくないとなるのは当たり前である。

 こんなことにならないようにするためには,教科書で「不安」を学ぶときは,最低限,自身がかつて感じた「不安」と二重に重ねながら学んでいく必要があろう。そうして,不安という不快な感情を味わい,それに伴うソワソワ感を味わい,不安を解消するために自分がとった行動とその結果を思い出すならば,不安障害の方の思いにも少しは共感できるというものである。そうすれば,正しい方法だからといって機械的にマニュアル通りの治療を進めていく,などということにはならず,しっかり相手の思いを受容して,どうすれば少しでも負担を少なく治療を進めていくことができるのかを考え,工夫していけるはずである。

 さて自分の体験を通して学ぶということに関わって,神庭先生のもう一つの指摘も確認しておきたい。神庭先生は,看護として食事を整えるためには,人間にとっての食事とは何かという一般論,生命体とは何かという一般論,人間の発達段階の一般論などを踏まえる必要があると説いたあと,次のように説かれている。

「看護者として向かい合った,その人にとっての食事とは,ということの意味を,その人が回復過程に置かれるように,生活過程を整えることの中身としてより豊かに描けるようになってほしいと思います。

 そのためには,まず看護を学ぶみなさん自身が,看護者として自分自身の生活を見つめ直して,自分自身の健康を守るために食事を整えるとはどういうことかと問い直し,日々食生活に関わる実践を積み重ねていくこと,それが看護者としての訓練の重要な第一歩になるといえるのではないでしょうか。」(p.78)

 ここでは,看護の中身を像として豊かに描けるようになるためには,自分を対象として看護してみる実践を積み重ねることが訓練の重要な第一歩になると説かれている。

 この学び方は,われわれ臨床心理士も同じであろう。筆者の専門とする認知行動療法でいえば,まずは,自分で自分に認知行動療法を試し続けていくことが,認知行動療法の上達のための訓練法となる。たとえば,考え方を柔軟に・多様に・することによってネガティブな感情の適正化を図る認知再構成法という技法を,自分が過度に落ち込んだ時に自分に使ってみる。ものを言いにくい上司に意見する際に,アサーション(自己主張)のポイントを思い出して,実行してみる。自分や子どもの行動をコントロールするのに応用行動分析の考え方を試してみる。人見知りの傾向があるのであれば,それを克服するために,自分から不安を換気する状況に曝露してみる。このように,認知行動療法の技法を自分で自分に使ってみれば,それぞれの技法の使い方がカン・コツレベルではあっても徐々に分かってくるであろうし,クラエント体験もできるので,クライエントの立場に立つこともできるようになっていくであろう。そうすれば,本書の冒頭で指摘されているような「病人に不可能なことを強い」(p.13)るような愚を犯すリスクも減ると考えられる。

 以上,自らの五感器官を通して反映した感情像を専門分野の学習につなげていくべきであるし,自らの五感器官を通して反映した感情像として専門分野の知識を吸収していかなければならない,薄っぺらな知識レベルの認識=像ではなく,分厚い五感情像として専門分野に関わる認識を育てていかなければ,本当に役に立つ武器にはならない,ということを確認した次第である。
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2016年01月25日

看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想(1/5)

目次

(1)看護師と臨床心理士に共通した学び方とは
(2)自分の体験を通して学ぶ
(3)先達・先輩からは論理的に学ぶ
(4)「観念的二重化」の論理から学ぶ
(5)事実からと論理からの二重の学びを

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(1)看護師と臨床心理士に共通した学び方とは

 昨年末,われわれ臨床心理士にとって,特に,認知行動療法を専門とする者にとって,大きなニュースが飛び込んできた。それは,2016年度の診療報酬改定に関わる以下のニュースであった。

「うつなどの認知療法,面接の一部を看護師に- 厚労省,16年度改定に向けて提案

 厚生労働省は,うつ病などの気分障害の患者に対する「認知療法・認知行動療法」について,医師の指示の下,面接の一部分を知識や経験のある看護師が行った場合にも2016年度の診療報酬改定で新たに評価する方針だ。うつ病に効果があるとされる同療法の普及につなげるのが狙いで,11日の中央社会保険医療協議会(中医協)の総会で提案したところ,委員から反対意見はなかった。【坂本朝子】

(中略)

 厚労省の提案を受け,猪口雄二委員(全日本病院協会副会長)は,「今度,国家資格になることになった臨床心理士,もしくは既に国家資格の精神保健福祉士にも対象を広げた方がよいのでは」という意見を述べた。しかし,同省保険局の宮嵜雅則医療課長は,「医師の指示に基づく診療の補助の一環として,今回は看護師が参加することはどうかという提案をした」と述べ,対象の拡大については慎重に考えたいとした。」(CBニュース 2015年12月14日)


 すなわち,現在は医師のみが診療報酬として請求できる「認知療法・認知行動療法」について,一定の条件のもとに看護師が行った場合にも請求できるように診療報酬が改訂される見込みであるが,看護師以外の臨床心理士や精神保健福祉士は対象外となる,というニュースである(ちなみに,記事の中の「今度,国家資格になることになった臨床心理士」という表現は誤りであり,正確には,臨床心理士とは別の「公認心理師」という心理職の国家資格が創設されるのである)。

 これがわれわれ臨床心理士にとって,なぜ大きなニュースなのか。それは,臨床心理士が認知行動療法を実施した場合でも,保険診療となるように国に求めてきた経緯があるからである。さらに,われわれには,認知行動療法は心理士が行うものであり,医師や,ましてや看護師が行うものではないという自負の念が,多少なりともあったからである。これは単なる思い込みではない。筆者自身は,年間40回ほどの認知行動療法の研修会や勉強会に参加したこともあるし,自身が研修会の講師を行うことも多い。その中で参加者を見てみると,圧倒的に臨床心理士の数が多く,医師や看護師の参加はごくわずかである。この事実からだけでも,認知行動療法を一番熱心に学んでいる職種が何であるかは明らかである。さらにまた,失礼ながら医師や看護師の認知行動療法のスキルは,もちろん例外もあるが,概してレベルが低い。ロールプレイなどを見ていても,基本的なコミュニケーションすらとれていないと思われる方もいる。だからこそ,認知行動療法はわれわれ臨床心理士が行うものだ! との自負の念があったのである。

 加えて,病院で働く臨床心理士にとっては,臨床心理士による認知行動療法の保険点数化は,メリットが大きかったといえる。たとえば現在だと,臨床心理士が行う認知行動療法は,病院やクリニックのサービスの一環として無料で行われているか,5,000円から10,000円ほどの金額を患者さんからいただいて行っているかの,どちらかのパターンが多いと考えられる。前者だと,やればやるほど病院やクリニックは赤字になるし,後者の場合は,ある程度のお金が払えないと認知行動療法を受けることができない。いずれにせよ,うつ病などで苦しんでおられる患者さん全てに,認知行動療法を提供することが難しいのが現状なのである。それがもし,臨床心理士による認知行動療法が保険点数化されれば,だいたい1回1,500円ほどの負担で受けられるようになるのである。そうすれば,認知行動療法を受けにくる患者さんも急増するであろうから,国家予算のことを措いておけば,臨床心理士側・患者側の双方ともにメリットがあるのである。臨床心理士側からすれば,自分たちを雇えば儲けにつながるのであるから,雇用の拡大や労働条件の改善が見込めるし,患者さんの側からすれば,ある程度低額で認知行動療法を受けられる機会が増えるからである。

 ところが,現実には臨床心理士による認知行動療法は保険点数として認められず,看護師が行う場合のみ,認められる見込みだというニュースだったのである。われわれにしてみれば,大きな落胆となったニュースであった。

 ただ,このニュースからは,他の点で興味深い事実を浮き彫りにしている。それは,看護師と臨床心理士の業務が一部重なりあっており,それ故に,看護学と臨床心理学は近接領域であるといえる,ということである。もちろん,最近は精神科の病院だけではなく,総合病院でも多職種の一員として,看護師と臨床心理士がチームとなって支援しているケースは非常に多いので,両者が近接領域であることはすでに明らかなことだったのかもしれない。しかし,今回のニュースを受けて,看護師であろうと,臨床心理士であろうと,うつ病の認知行動療法ということでは同じことをやるのであるから,業務内容が一部重なっているということがはっきりした点は,特記しておいてもよいと思う。

 さて,以上を受けて本稿では,神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(2)』(現代社)から,われわれ臨床心理士が学ぶべき点を取り上げ,検討していきたいと思う。筆者の認識では,看護学はすでに科学的な学問体系が構築されており,それに基づいた実践や教育が行われている一方で,臨床心理学にはそのような学問体系はなく,実践や教育も経験主義的に,一貫性のないバラバラなものとなっている。したがって,学問的に先を行く看護学に,われわれ臨床心理士は大いに学ぶところがあろう。その看護学の原点ともいうべきナイチンゲール『看護覚え書』を取り上げて,弁証法や認識論の論理の光を当てて,丁寧に解説している本書は,特に学ぶ価値の高いものだと感じている。

 そこで本稿では,臨床心理士である筆者が『初学者のための『看護覚え書』(2)』を読み解き,臨床心理士として学んだ点を認めていくこととする。今回は特に,人間を相手にする専門職者という意味で共通性がある看護師と臨床心理士が,自らの臨床能力を向上させていくためには,どのように学んでいったらいいのかという点を中心に考察したい。仕事の共通性から,学び方にも共通性があると考えられるからである。

 では今回は,本書の目次を提示して終わりたいと思う。次回以降,双方の学び方の共通点について順次取り上げ,思索していきたい。


初学者のための『看護覚え書』 (2)


■第1章 ナイチンゲールに学ぶ 「病む人にとっての食事を整える」 とは

  第1節 食物の形状と食べさせ方の工夫が看護として必要である
  第2節 病む人の生命力の消耗を最小にする工夫への配慮の必要性
  第3節 食事を整えることは看護者の重要な役割である
  第4節 看護における食事の大事性をつかんだナイチンゲールの実践とは

■第2章 ナイチンゲールの説く 「食物の選択」 に学ぶ

  第1節 ナイチンゲールの言葉は知識ではなく自分の体験を重ねて理解することが必要である
  第2節 病む人に適した食事の内容とは
  第3節 病む人の回復にとって必要な栄養とは
  第4節 適切な食事内容は病む人を観察することによってのみ知ることができる

■第3章 「人間にとって食事とは何か」 を問う

  第1節 病の回復過程にある人の食事を整えることは看護の重要な柱である
  第2節 人間にとっての食事とは何か
       ―病へいたる過程に目を向けることが必要である
  第3節 人間にとっての食を考えるには生命体としての一般性から問うことが大切である
  第4節 人間にとっての食とは何かを 「いのちの歴史」 に尋ねる
  第5節 認識を持つ人間ゆえの食生活の歪み

■第4章 看護のための食に関する学びの過程

  第1節 家政学的基盤から看護を追究する視点
  第2節 人間にとって食物を摂るということの意味とは
  第3節 「いのちの歴史」 のイメージ像を図として描いた意味
  第4節 「地球そのもの」 を摂り入れるとは ―「いのち」 の過程の重層構造
  第5節 人間の成長・発達段階に見合った食事のあり方
  第6節 看護として 「食事」 を整えることの意味を問う視点

■第5章 ナイチンゲールの説く 「換気と保温」 に学ぶ

  第1節 『看護覚え書』 の真意を理解するには弁証法的に読み取る実力が必要である
  第2節 弁証法は 「自然・社会・精神の一般的な運動に関する科学」 であるとは
  第3節 ナイチンゲールの説く看護にとっての 「換気と保温」 の重要性
  第4節 ナイチンゲールが 「換気と保温」 の大事性を強調する理由
       ―当時の病院の現実から
  第5節 ナイチンゲールの説く 「換気する」 ということの意味
  第6節 「換気と保温」 の両立を図ることこそ必要であるとの指摘

■第6章 「人間にとって新鮮な空気とは何か」 を問う

  第1節 ナイチンゲールの時代の 「換気と保温」 に関わる問題
  第2節 患者が呼吸する空気の質に目を向けることが看護として大事な視点である
  第3節 病気とは何か,看護とは何かの一般論をふまえての 「換気と保温」 の大事性
  第4節 人間にとって呼吸するとはどういうことか
  第5節 夜間の人間の体の生理構造をふまえての呼吸の意味
  第6節 人間にとっての新鮮な空気とは何かを 「いのちの歴史」 に尋ねる
  第7節 「自然の法則」 から病む人にとっての 「空気」 をとらえていたナイチンゲール

■第7章 看護として 「住居の健康」 を整えるとはどういうことかを問う

  第1節 ナイチンゲールの説く 「住居の健康」 を守る5つの基本的な要点
  第2節 不健康な住居のあり方が病気をもたらす現実
  第3節 病気の予防や回復のために 「住居の健康」 の管理が重要である
  第4節 人間にとっての 「住居」 とは何か
  第5節 人間にとっての住居の意味を 「いのちの歴史」 に尋ねる
  第6節 「住居の健康」 を社会との関係性からとらえる
  第7節 「住居の健康」 を守ることが求められる看護の現実

■第8章 認識論の学びの基礎から 「物音」 の意味を問う

  第1節 病む人に害を与える物音とはどういうものか
  第2節 不必要な話し声や物音が病む人の生命力を消耗させる
  第3節 会話が病む人の認識を不安定にする事例
  第4節 聴覚からの刺激が病む人の認識に与える影響
  第5節 認識への問いかけができる看護者になるためには
  第6節 「認識は像であり,しかも五感情像である」 とは
  第7節 ナイチンゲールが指摘する病む人に害を与える物音

■第9章 「変化」 させることの大事性を認識論の基本から説く

  第1節 病む人の心に働きかける看護の実力をつけるためには
  第2節 ナイチンゲールの説く 「変化」 の重要性
  第3節 「認識=像=感情像である」 とは
  第4節 「外界の反映」 と 「内界の反映」
       ―その重層的な合成像としての 「感情像」
  第5節 病む人の認識とはどういうものか
  第6節 病む人の思いを理解するために
  第7節 ナイチンゲールの説く病む人の認識に 「変化」 をもたらすこととは
  第8節 病床の花が病む人の心の 「変化」 を創りだす

■第10章 看護のために必要な 「観念的二重化」 の実力

  第1節 看護として病む人の認識を整えることの大事性
  第2節 ナイチンゲールの説く 「おせっかいな励まし」 がもたらす影響
  第3節 ナイチンゲールの説く病む人に害を及ぼす 「忠告」
  第4節 「おせっかいな励ましや忠告」 がなぜ病む人に悪影響を及ぼすか
  第5節 「相手の立場に立つ」 とは
       ―観念的二重化の実力を養成することの重要性
  第6節 観念的二重化とは何か ―「自分の自分化から自分の他人化へ」
  第7節 病む人の認識を整える実力をつけるにはその過程を特別に訓練することである

■第11章 「ベッドと寝具類」 を整えることの看護としての意味を問う

  第1節 病む人の認識を整えていくことが求められる看護
  第2節 ナイチンゲールの説く 「ベッドと寝具類」 を看護として整えることの重要性
  第3節 病気とは何かから 「ベッドと寝具類」 を整える意味を説いていたナイチンゲール
  第4節 病む人の寝具類を整えることの重要性を現代の看護の事例に見る
  第5節 家庭での療養生活を整える看護とはを事例から説く
  第6節 なぜ寝具類を看護として整えることが大事であるか
  第7節 寝具類を看護として整えることを人間の睡眠過程の意味から説く
  第8節 人間にとっての睡眠の過程を看護として整えること
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2016年01月24日

図式化にはどのような効用があるのか(5/5)

(5)図式化することで対象を表象として把握することができる

 本稿は、学問を(構築)する上で図式化が重要であるのは何故なのか、学問(構築過程)における図式化にはどのような効用があるのかという問題を説くことを目的として、これまで執筆してきました。一般的には、「分かりやすさ」が求められる図式ですが、学問的に捉えるとどうなるのかという問題意識のもと、図式化の効用の2つの側面について、庄司和晃氏の「三段階連関理論」にも触れながら説いてきました。

 ここで、これまでの展開の重要な部分を中心に、本稿を振り返っておきましょう。

 まず、図式化の効用の1つ目として、「外面的な特殊性の捨象」ということを取り上げました。「外面にとらわれるのを防ぐ」「構造をつかむ」という図式化の効用が発揮される例として、算数の応用問題について考えてみました。文章で色々と複雑な事柄が記載されていても、図式化することで問題の大枠を捉え、必要な部分だけをピックアップして取り上げることで、問題を説くことができることを見ていきました。また、同じ図式を用いて別の問題を説くことができることを示し、図式が構造を捉えていることを検証しました。加えて、「言語とはどういうものか」という図式を示して、筆者の専門である言語に関して、諸々に現象する言語のあり方からその構造が把握できることを示しました。

 次に、図式化の効用の2つ目として、「抽象的な産物の具体化」ということについて検討してきました。「抽象の産物」を扱う際に、「重要な現実のありかた」を見逃さないようにするために図式化するということでした。具体例としては、ここでも算数の応用問題を提示し、問題文の文章や数字だけで抽象的に問題を説こうとしても失敗すること、図式化することで問題の具体的なイメージを描くことで、簡単に問題が解決できることを見ました。「抽象の産物」を扱う場合の図式化の例として、ピクトグラムの紹介もしました。また、学問とはそもそも現実の問題を解くために生み出されたものであるから、現実の対象を大きく離れて、過度に一般化した抽象的な議論を防ぐ上で、学問においても「抽象的な産物の具体化」という図式化の効用は大きな力を発揮することを述べました。

 最後に、以上の図式化の効用の2つの側面、すなわち「外面的な特殊性の捨象」ということと「抽象的な産物の具体化」ということとを「三段階連関理論」で捉えてみました。「三段階連関理論」というのは、教育実践家・教育理論家である庄司和晃氏が考案した認識の発展に関する理論であり、感性的認識と理性的認識との間に過渡的な不明瞭な段階を設定することで、認識の発展段階を感覚的・素朴的段階、表象的・過渡的段階、概念的・本格的段階の3つの段階として捉えるものでした。この理論に従えば、「外面的な特殊性の捨象」という図式化の効用は感覚的・素朴的段階から表象的・過渡的段階へのぼることを意味し、「抽象的な産物の具体化」という図式化の効用は概念的・本格的段階から表象的・過渡的段階へおりることを意味するということでした。学問において図式化が重要であるのは、図式化によってこうした認識の「のぼりおり」が可能となり、豊かな認識を形成できるからでした。

 以上、これまでの論旨を振り返ってみました。ここで改めて、学問をする上での図式化の効用をまとめてみたいと思います。

 学問をする上で大切なことは、千差万別に見える現象の背後に潜む構造を手繰っていくことであって、外面的な特殊性に捕らわれていては、対象とするものの一般性は見えてこないのでした。そこで、図式化することによって、見かけにだまされず構造を掴むことが重要となってくるのでした。また、学問はあくまでも現実の問題を解くためのものであって、抽象的すぎる論理というものはそのままでは使えないということになるのであり、ここである程度具体的なイメージが描けるように図式化するということが非常に有効となってくるのでした。端的にまとめれば、個々の具体的な事実の認識と一般的な抽象的な論理とを媒介する役割として、図式化ということを捉える必要があるということです。つまり、図式化は表象(*)の表現であって、個々の具体的な事実の認識からすれば抽象化を助けることになるとともに、抽象的な論理からすれば具体化を手助けするということであり、認識の運動を促進する効用があるということです。別の言葉でいえば、図式化することで表象が鮮明になるともいえるし、また、図式化する過程で表象が生れてくるともいえると思います。

 学問は、対象とする事物・事象の共通性を捉えて体系化した論理ですが、これは現実の問題を解決するためにこそ構築していくものです。こうした学問の性質から考えれば、図式化することによる認識の表象化が、どれほど学問の構築に役立つのか分かってくると思います。連載第1回でも軽く触れましたが、我々京都弁証法認識論研究会の各メンバーは、それぞれの専門とする学の体系の創出を目指して、日々研鑽に励んでいます。この過程において、それぞれの学の体系を図式化して表現する試みを行ってきているところです。近い将来、必ずそれぞれの学の体系を図式化して豪快に披露することをお約束して、本稿を閉じたいと思います。

(*)三浦つとむさんは、表象について、「まだ感性的な特殊性をある程度伴ったままでの一般的な認識」(『認識と言語の理論 第1部』p.50)であり、「実践的にいろいろな役割を果たしている」(同上)と述べています。本稿では、この「いろいろな役割」に関して、特に学問構築上の意義を検討してきたといえるでしょう。

(了)
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2016年01月23日

図式化にはどのような効用があるのか(4/5)

(4)図式化を「三段階連関理論」で捉える

 前回は、図式化の効用の2つ目として、「抽象的な産物の具体化」ということを説明しました。算数の応用問題でも、言葉や数字だけから考えを進めていくと大きく失敗してしまうため、図式化することで現実のあり方をしっかりとイメージする必要があること、このことは学問においても重要なことで、抽象的な議論だけですましていては必ず失敗するのであり、現実の問題を解くという学問の性質をよく考えれば、過度の一般化をすることなく条件をしっかりと把握する必要があることを説きました。

 さて今回は、これまでの議論で明らかにしてきた図式化の効用の2つの側面、すなわち「外面的な特殊性の捨象」ということと「抽象的な産物の具体化」ということとを「三段階連関理論」で捉えてみたいと思います。

 皆さんは「三段階連関理論」をご存知でしょうか。これは教育実践家・教育理論家である庄司和晃氏が考案したもので、「諺のありかたから、認識の発展を三つの段階としてとらえる」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』pp.127-128)理論です。「ふつうは感性的認識と理性的認識の二段階にわけるのですが、過渡的な不明瞭なものを一つの段階として理論化した」(同上、p.128)ことが大きな特徴です。人間の認識の発展は、感覚的・素朴的な段階(感性的認識)から、概念的・本格的な段階(理性的段階)へと発展していくのですが、この両者の中間に表象的・過渡的な段階を組み入れて認識の発展を明かにした理論だということです。ちなみに、初めの引用に「諺のありかたから」とあるのは、「諺は常識と科学とのいわば中間に位置づけられる存在で、経験をふまえて具体的な事実のかたちで語るところは常識に近いが、それと同時に経験ではつかみにくい普遍的な法則性を裏の意味で教えているところは科学に近い」(同上、p.127)からです。庄司氏は、諺の研究を進めることで、表象的・過渡的段階の重要性に気がつき、この「三段階連関理論」を生み出したのです。

 もう少し具体的に、「三段階連関理論」について考えてみましょう。子どもが大切にしていたおもちゃを壊してしまったとします。この時のこの子供の認識は、大切にしていたおもちゃという個別の物が壊れてしまったという感覚的・素朴的な段階です。この子どもは成長するに従って、最終的には全ての物は変化するという概念的・本格的な段階に達するのですが、その間には、紙粘土は初めのうちは色々な形に変形できるとか、ガラスのコップは落とすと割れてしまうとか、鉛筆は段々と短くなっていくとかいった表象的・過渡的な段階を経ていくわけです。この段階の認識は、個別の物が壊れるという認識に比べると、「紙粘土」とか「ガラスのコップ」とか「鉛筆」とかいった形で対象をある程度括って認識していますが、最終段階の認識に比べれば、まだまだ対象の特殊性を取り上げた認識だといえます。認識の発展には、このように感覚的・素朴的段階、表象的・過渡的段階、概念的・本格的段階という3つの段階があるのだとするのが「三段階連関理論」です。

 では、前回までに説いてきた図式化の効用をこの「三段階連関理論」で捉えるとどうなるでしょうか。順に見ていきましょう。

 まず、「外面的な特殊性の捨象」という図式化の効用について見ていきます。これは端的には、感覚的・素朴的段階から表象的・過渡的段階へとのぼっていくことだと捉えることができます。連載第2回で提示した、Aさんの現在の所持金を問う算数の応用問題に関しての図では、具体的な紙幣なり硬貨なりのあり方を捨象して、棒グラフのような図形の長さで所持金の額を表しました。これは様々な見かけのあり方を取り払い、その構造を掴むために所持金の額を棒グラフのような図形の長さとして括って図式化したもので、「三段階連関理論」でいうところの、感覚的・素朴的な段階から表象的・過渡的な段階へと移行したのだ、といえます。

 では、「抽象的な産物の具体化」という図式化の効用についてはどうでしょうか。これは端的にいえば、概念的・本格的段階から表象的・過渡的段階へとおりてくことだと捉えることができます。連載第3回で提示したピクトグラムの例でいえば、「シャワー」「トイレ」「レストラン」「サッカー」などと概念的に把握されたものを、ある程度感覚的に把握できる図形で示したのでした。これは抽象的な産物をある程度具体的にイメージできるように対象の特殊性を図式化したもので、「三段階連関理論」でいうところの、概念的・本格的な段階から表象的・過渡的な段階へと移っていったということです。

 このように捉えると、図式化には認識の「のぼりおり」を手助けするという両義的な効用があるということが分かります。非常に具体的で個別的な対象に関して、その特殊性を捨象し構造を掴むという認識の「のぼり」に役立つという側面もあれば、抽象的な一般的な概念などについて、ある程度の具体性を帯びたかたちにするという認識の「おり」のために使われることもあるというのが、図式化ということの特徴だということです。これが学問において非常に重要なのです。あまりに具体的な個々の事実に関わって問題を論じていくと、その個別性に捕らわれて、対象とする事物全体を貫く一般性が見て取れなくなってしまいますし、だからといって抽象的過ぎる議論を展開しても、それが現実の問題とどのようにつながっているのかイメージできなかったり、あまりに一般的な論理を振りかざして何も説いていないのと同じ結果となったりしてしまうのです。そこで、図式を用いることで、認識の「のぼりおり」を行うことによって、豊かな像を描くことができるようにしていく必要があるということになるのです。

 「三段階連関理論」に重ねる形で図式化の効用を示せば、以下のようになるでしょう。
三段階連関理論.bmp

 以上見てきたように、図式化は認識の「のぼりおり」を通じて豊かな認識を形成することに役立ち、学問を構築していく上で非常に重要なのです。
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2016年01月22日

図式化にはどのような効用があるのか(3/5)

(3)図式化は抽象の産物を具体化するのに役立つ

 本稿は、学問を構築していく上で、図式化ということがなぜ重要であるのか、図式化にはどのような意義があるのか、という問題を検討していくことが目的の小論です。前回は、図式化の効用の1つ目である「外面的な特殊性の捨象」ということに関して、算数の応用問題や筆者の専門分野である言語に関わっての例を提示し、図式化によって外面にとらわれず対象の構造を把握することができることを示しました。

 さて今回は、図式化の効用のもう1つの側面である「抽象的な産物の具体化」ということについて見ていきたいと思います。

 まずは前回同様、三浦つとむさんの文章を確認しておきましょう。

「抽象の産物をあつかうときはいつでも現実のありかたとつきあわせて考えるようにしないと、数字やことばにあらわれていない重要な現実のありかたを見のがして失敗する」(三浦つとむ『1たす1は2にならない』pp.100-101)

 この文章は、図に描いてみることが何故必要なのかを説いたものです。ここでも算数の応用問題が例に出されていますが、問題の文章や数字などの「抽象の産物」だけを頼りに問題を解こうとしても、「重要な現実のありかた」を捉えられないということを説明しているのです。

 著作にある例を単純化してみていきましょう。「10メートルの真っ直ぐな道に2メートルおきに木を植えると何本必要か」という問題について、単純に「10÷2=5」と答えると間違いになってしまいます。これは以下のように図式化すれば分かりますね。
真っ直ぐな道.bmp

 「2メートルおきに」とはいっても、始点を除いて2メートルおきに木を植えていっただけで「10÷2=5」で5本必要になり、それに始点の分を加える必要があるため、答えは「10÷2+1=6」で6本になります。

 では、「池のまわりの10メートルの道に2メートルおきに木を植えると何本必要か」という問題であればどうでしょう。これも具体的なイメージを持たずに、数字だけで考えてしまって、先ほどと同様、「10÷2+1=6」で6本だとすると間違ってしまいます。以下の図をご覧ください。
池のまわり.bmp

 池のまわりの道の場合は、両端がつながっていますから、「10÷2=5」で5本が答えになります。

 このように、「抽象の産物」を扱うような問題でも、図式化することで「重要な現実のありかた」を捉えることが可能となり、失敗せずにすむようになるのです。

 「抽象の産物」を扱う場合の図式化の例としてはほかにも、ピクトグラムというものがあります。ピクトグラムとは、「一般に「絵文字」「絵単語」などと呼ばれ、何らかの情報や注意を示すために表示される視覚記号(サイン)の一つ」(ウィキペディアより)とされています。1964年の東京オリンピックの際、外国人観光客に競技内容や施設案内をすることを目的に考案されたのが始まりだとされています。具体的には以下のようなものです。
ピクトグラム.bmp

 これらは、シャワー、トイレ、レストラン、サッカー競技の会場の位置を示すものとして、大きな力を発揮しました。「シャワー」「トイレ」「レストラン」「サッカー」などの言葉は、日本人だけに通用する「抽象の産物」ですが、図式化して「重要な現実のありかた」に結び付ける形で表せば、世界中の誰にでも通用するものになるのです。

 それでは、こうした「抽象的な産物の具体化」という図式化の効用は、学問を構築する上でどのように関係してくるのでしょうか。対象の共通性を把握する学問においては、どうしても議論が抽象的になってしまう傾向があります。ややもすると、現実の対象を大きく離れて、過度に一般化してしまう(*)こともあります。しかし、そもそも学問というものは、現実の問題を解くためにこそするものです。ですから、抽象的になりすぎた議論を、現実の対象に即してある程度具体的に考えてみる必要があるのです。そうしなければ、いくら抽象的に物事を考えてみたところで、現実の対象の性質から大きく隔たってしまって、実践では必ず失敗するからです。このことは、言葉を変えれば、現実の問題を解決できないようでは学問とはいえないということです。ここに図式化の意味が出てきます。つまり、常に現実の対象のあり方に則した考え方を展開できるようにするために、図式化が必要だということです。全ては条件次第であって、1つ1つの場面に応じた状況を常によく確認する必要がある、図式化はこのために非常に役に立つ、ということです。

 以上、図式化の効用の2つ目である、「抽象的な産物の具体化」ということがどのようなことかに関して説明してきました。次回は、図式化の効用の2つの側面、「外面的な特殊性の捨象」と「抽象的な産物の具体化」とを統一して捉えてみたいと思います。

(*)例えば、最近新聞の広告欄に雑談に関する書籍の紹介がされていて、そこに「「そうですね」「なるほど」は評価を下げるあいづち」というキャッチコピーが掲載されていました。おそらくこの著作の筆者は、「そうですね」とか「なるほど」というあいづちが実際に評価を下げる場面を何度も目撃していて、自身も同様の感想を持ったため、そうした内容を著作に記載したのだと思われます。しかし、条件を無視して、こうした過度の一般化を行えば、実践では必ず失敗します。押しが強い上司の提案に対して、感嘆の意味を込めて「なるほど!」といったところで、評価を下げるとは思えません。

 算数の四則演算にしても、物事を抽象化して扱っているために、過度の一般化をして失敗してしまいかねません。単純な例でいえば、5÷2=2.5という抽象的な考え方では、現実の問題、例えば5人を2つのグループに分けるというような場合には、全く使えないことになります。「5」という「抽象の産物」を「現実のありかた」を度外視して扱えば、必ず「失敗する」のです。だからこそ図式化が必要であって、この場合であれば、簡単な人の図を描いただけで、「2.5」が誤りであること(現実には1人の人間を半分ずつに分けることなどできないこと)が直ちに分かるのです。
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2016年01月21日

図式化にはどのような効用があるのか(2/5)

(2)図式化は外面的な特殊性を捨象するのに役立つ

 前回は、日常生活における図式の効用として、「分かりやすさ」ということがあることを指摘しました。しかし学問をする上では、この「分かりやすさ」という図式化の効用の把握だけでは不十分であって、図式化の効用を学問的に問うていく必要があることを述べました。

 さて今回は、学問創出過程における図式化の効用について、「外面的な特殊性の捨象」という観点から考察していきたいと思います。

 先回少しふれた三浦つとむさんは、図式化の効用について以下のように述べています。

「図面はその外面にとらわれるのを防ぐために、構造をつかむのに、非常に役に立つのです。」(三浦つとむ『弁証法・いかに学ぶべきか』p.123)

 ここでの文脈は、算数の応用問題について、ややこしい文章で説明された問題の構造を把握するために図面に描いてみる必要があるというものです。引用文中に「図面」とあるのは本稿でいう「図式」とほぼ共通のものと考えることができるでしょう。そして、「外面にとらわれるのを防ぐ」「構造をつかむ」という、学問構築上非常に興味深い言葉がでてきていることも注目に値します。

 では具体的に、どのような問題にぶつかったときに、「外面にとらわれるのを防ぐ」「構造をつかむ」という図式化の効用が発揮されるのでしょうか。

 例えば、算数の応用問題として、以下のような問題があったとします。

問、Aさん、Bさん、Cさんの3人がいます。AさんとBさんの現在の所持金の合計は6,200円、BさんとCさんの現在の所持金の合計は5,000円です。BさんはAさんよりも1,200円多くお金をもっています。CさんはかつてAさんから3,000円お金を借りていたことがあります。Cさんはそれを3カ月かけて1,000円ずつ返しました。また、BさんはかつてCさんにお金を貸していたこともあります。AさんとCさんのお小遣いは毎月1,000円ですが、Bさんのお小遣いは毎月500円です。
(1) Aさんは現在、いくらお金をもっているでしょうか。
(2) CさんがAさんからお金を借りたとき、Aさんは自分の所持金20,000円のうち3000円を月末に貸しました。Cさんの返済は、その翌々月から始まり、返済日は毎月10日でした。Aさん、Bさん、Cさんのお小遣い日は毎月20日として、CさんのAさんに対する返済が完了した時点で、Aさんはいくらお金を持っていたでしょうか。
(3) Aさんの所持金がBさんの所持金を上回るのはいつでしょうか。但し、現在は1月1日で、今後、AさんもBさんもお小遣い以外の収入はなく、支出もないとします。
(4) ……

 この問題は、見た目は非常に複雑で、簡単には答えがでそうにないと小学生なら思うかもしれません。しかし、この複雑な「外面にとらわれるのを防ぐ」ために、「構造をつかむ」ために図式化してみるとどうなるでしょうか。ここでは(1)の問題について考えてみます。

 問題の文章には現在の所持金に関する記載のほかに、過去のお金のやりとりや毎月のお小遣いの額も示されていますので、これらの関係を図式化すると以下のようになります。
応用問題(全体図).bmp

 今、答えが求められているのは、現在のAさんの所持金です。ですから、上図の「現在の状況」の枠内だけを取り上げることにしましょう。そして、Aさんの所持金の額を以下のように棒グラフのように示してみましょう。
応用問題(Aさんの所持金).bmp

 Aさんの現在の所持金に関係がある記述は、「AさんとBさんの現在の所持金の合計は6,200円」という部分と、「BさんはAさんよりも1,200円多くお金をもっています」という部分の2つですから、これも図に表わしてみましょう。
応用問題(AさんBさん1).bmp

 この図から、2人の所持金の合計である6,200円から、Bさんの所持金とAさんの所持金の差である1,200円を差し引いた金額が、Aさんの所持金の2倍であることが分かります。ヨリ分かりやすく図示すれば以下の通りです。
応用問題(AさんBさん2).bmp

 このように、一見見た目が複雑な算数の問題も、図式化することで「外面にとらわれるのを防ぐ」ことが可能となり、問題の「構造をつかむ」ことができるのです。Aさんの現在の所持金は、(6,200−1,200)÷2=2,500円となります。

 この最後に示した図は、別の似たような問題の解決にも役立ちます。例えば、「ある日の昼の長さは夜の長さに比べて、1時間30分長かった。この日の夜の長さは何時間何分か」という問題であれば、この図を使って以下のように図式化することで、簡単に説くことができます。
応用問題(夜の長さ).bmp

 1日の長さは24時間ですので、夜の長さは、(24時間−1時間30分)÷2=11時間15分となります。

 このように、図式化することによって、複雑な外面を取り払い、問題の構造を掴むことができるからこそ、別の問題でも同様の構造を有しているものであれば、同じような図式を使うことで問題を解くことができるのです。

 学問においても、「外面にとらわれるのを防ぐ」「構造をつかむ」という図式化の効用は非常に有効性を発揮するものです。そもそも学問とは、その対象とする事物・事象の共通性を捉え、それを体系的にまとめ上げたものとして成立するものですから、諸々の現象を呈する対象的事実の現象形態に惑わされていては学問にはなりません。対象的事実の構造を把握する必要があるのです。そういう意味で、学問を構築する上では、図式化は大きな効用を有するのです。

 ではそれはどういうことか、具体的に筆者の専門分野である言語に関わってみていきましょう。以下の図式をご覧ください。
言語とはどういうものか.bmp

 これは筆者が考案した「言語とはどういうものか」を図式化したものです。言語というものは、様々な表れ方をしていて、一概に「言語」といっても捉えどころがないように思われるかもしれません。我々の使っている日本語もあれば英語もあり、世界中にはさまざまな言語があります。また、品詞といわれるものもたくさんあって、名詞や動詞、形容詞、助動詞など、色々な種類があります。こうした言語は、音声として話されることもありますし、文字として書かれることもあります。このように、諸々に現象する言語について、「外面にとらわれるのを防ぐ」ことに注意して「構造をつかむ」とどうなるのか、それを図式化したものが上の図です。

 簡単に解説しますと、真ん中の下にある「表現=対象」として表されているものが「言語」であって、これは自分の感情や思いを相手に伝えるためにこそ生み出されるものです。「言語」の直接の基盤はその表現者の認識にありますが、「言語」の大きな特徴として、表現を行う際に「言語規範」という認識を介することになります。ではこうした認識はどのように形成されるのかといえば、視覚を中心とする五感器官によって対象たる現実世界を脳に反映させることによって認識は形成されるのです。こうした対象→認識→表現という過程を経て創られる音声や文字などが言語だということです。

 以上、図式化の効用の1つ目である、「外面的な特殊性の捨象」ということがどのようなことか、お分かりいただけたでしょうか。次回は図式化のもう1つの効用について述べたいと思います。
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2016年01月20日

図式化にはどのような効用があるのか(1/5)

〈目次〉

(1)なぜ学問において図式化が必要なのか
(2)図式化は外面的な特殊性を捨象するのに役立つ
(3)図式化は抽象の産物を具体化するのに役立つ
(4)図式化を「三段階連関理論」で捉える
(5)図式化することで対象を表象として把握することができる


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(1)なぜ学問において図式化が必要なのか

 私たちの身の回りには、広い意味での様々な図式が溢れています。ペットボトルや缶コーヒーの缶には、入れ物の材料を示す記号が描かれていますし、パソコンや万年筆にはメーカーの社章がデザインしてあります。本を開けば、文章を補足するための図が様々に挿入されていますし、国会中継を見ていても、質問や答弁の内容を補足するために、ボードに図が描かれているものを提示するという工夫も行われています。外に出れば、交通標識や地図・案内板に描かれた図を至るところで目にしますし、仕事で製品の設計図を作成したり、事務の流れを図に示して説明したりすることも行われているでしょう。このように、私たちの生活には図式が欠かせないものになっているのです。

 では、このような図式はいったいどういう意図で作成されているのでしょうか。それは簡単にいえば、こうした図式は「分かりやすさ」を追求して考案されている、といえるでしょう。この入れ物は何で出来ているか、どこのメーカーの製品か、事務の流れはどのようか、端的に表していたり、言葉だけでは十分伝えられなかったり図の方が表しやすかったりするものを表現したりしているのが図式であって、パッと見て分かることが求められているといえます。例えば、交通標識にしても、自動車を運転しながら目に入る一瞬で、その意味合いが分かるものである必要があるわけで、これがもし、統一された図式の形式をとらずに、細かい文字で運転者への指示が記載されてあるとすれば、それはもはや交通標識の役割を果たせないものだといってもいいでしょう。そんな細かい文字を運転者が瞬時に把握して、その指示に従うことなど不可能だからです。図式には、見ただけで即座に分かるという「分かりやすさ」が必要であるということです。

 しかし、図式化の効用を単に「分かりやすさ」だけに求めてしまってもいいのでしょうか。日常生活における図式の効用とは何か、と問われれば、確かに「分かりやすさ」だとだけ答えても大きな問題はないでしょう。それは上に見てきた通りです。しかし、学問の創出を志す者としては、この答えだけでは十分だとはいえません。学問を構築していく上で、図式を単に「分かりやすさ」だけのために考案するのであれば、図式はできあがった学問を説明するための道具であると考えていることになり、学問の構築過程における図式化の意味がすっぽりと抜け落ちているといわなければならないからです。学問の結果における図式化の効用だけではなくて、学問の創出過程における図式化の効用をしっかりと、学問的に押さえておくべきではないかということが、本稿の問題意識です。

 我々京都弁証法認識論研究会では、諸々の機会において、自らが構築しようとする学の構造を図式化するという課題について検討してきました(これらに成果については、近い将来、それぞれの専門分野について豪快に披露していく予定です)。また、三浦つとむさんや南郷学派の先生方が考案された図式について、それがどのようなことを表しているのか、自分の学問に使うことができないか、といった問題について、様々に議論してきました。例えば、弁証法の教科書である、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』に掲載されている図に関して、あるいは日本弁証法論理学研究会編『学城』誌上に掲載されている図に関して、機会あるごとにその根本的な意味を問う討論を行ってきているところです。しかし、図式化は何故必要なのか、それにはどういう意味があるのか、といった図式化そのものを対象として学問的に問うことは、目的意識的には行ってきていませんでした。

 そこで本稿では、学問をする上で図式化が重要であるのは何故なのか、学問における図式化にはどのような効用があるのか、という根本的な問いに検討を加えていきたいと思います。その際、図式について論理的に説いている三浦つとむさんの著作を取り上げ、その図式化の効用に関する部分を参考にしながら図式化の効用を説いていきたいと思います。この作業を通じて、図式化の学問(構築過程)における意味を明かにし、自らの学問を創っていく端緒としたいと思います。

 次回以降、図式化の効用を2つの側面から検討していきたいと思います。まず、図式化によって、対象の表面に現れている特殊性を捨象することができることを述べたいと思います。次に、図式化することによって、抽象的な物事を具体的に考察していくことができることを説きたいと思います。そして、この図式化の効用の両側面を、教育実践家・教育理論家である庄司和晃氏が考案した「三段階連関理論」で捉えるということを行っていく予定です。その上で、学問を創出する過程において、図式化がどれほどの威力をもつのかについて、明かにしていきたいと思います。
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2016年01月19日

安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う(13/13)

(13)国家としての主体性の確立へ、政治教育の重要性

 前回は、本稿でこれまで書いてきた流れを振り返り、日本が主体性ある国家として生きていくためには、日米安保条約を廃棄し対米従属の軍隊(米軍の補完部隊)である自衛隊を解散した上で、必要ならば憲法9条を改正し、独立日本を防衛するための必要最小限度の実力組織を新たに創設するべきだ、という結論を改めて確認した。その上で、こうした方向へ前進するためには、如何に困難であっても、日本がどのような国家であるべきなのか、真に主体性ある国家となるためにはどうすればよいのか、本質的なところから問題提起を行い、敗戦後70年の日本の歩みを問い直して、国民世論を根本的に作り変えていくという事業に挑むほかないことを説いたのであった。この困難な課題に正面から挑もうとしないところに、日本共産党をはじめとする左翼勢力の堕落がある。ここを曖昧にしては、安倍政権の反立憲主義的、反民主主義的な暴走を根本のところから食い止めることはできないのである。

 安保法制をめぐる議論の混迷は、推進派の側にしろ反対派の側にしろ、戦後日本の欺瞞――対米従属の下で、無理な憲法解釈を重ねて、米軍の補完部隊としての自衛隊を増強させてきたこと――を直視することから逃げてしまったことから生じたものなのである。安保法制をめぐる対立というのは、この欺瞞を将来にかけてさらに深化させていこうとする安保法制推進派、これまでの欺瞞は不問にしたまま(あるいはむしろ肯定的に捉えた上で)これ以上の深化には抵抗しようとする安保法制反対派、という構図でしかなかった。厳しくいえば、推進派、反対派の双方が、本質的なレベルの議論を回避したまま、表層的なレベルで感情的な言葉の応酬を繰り返した、というものでしかなかったのである。

 日本が真に主体性ある国家になるためには、何よりもまず日米安保体制をこのままにしておいてよいのか、正面から問題提起をしていかなければならない。そうした観点からして決定的に重要な意義を有するといえるのが、辺野古への米軍基地建設をめぐる沖縄の闘いである。新基地建設に反対する闘争が従来の保守・革新の枠を超えて展開されるなかで、一昨年の12月、翁長雄志氏が沖縄県知事となった。翁長知事は辺野古の埋め立て承認を取り消したが、国はその撤回を求めて、法廷闘争に持ち込んだ。翁長知事は、その代執行訴訟の第1回口頭弁論(2015年12月2日)における意見陳述で、「沖縄県にのみ負担を強いる日米安保体制は正常といえるのか。国民すべてに問いかけたい」と提起した。これは、敗戦後70年に及ぶ日本の欺瞞を鋭く衝く言葉にほかならない。日米安保体制の下、過酷な基地負担を沖縄に押し付けたことによって、日本本土は平和で民主的な文化国家という看板の下に、経済的繁栄を享受することができていたに過ぎないのである。何よりもまず、この欺瞞を直視しなければならない。沖縄の基地問題は、本土の人間にとって、決して他人事として捉えられてはならないものである。沖縄からの提起を、まさに自分自身の問題として受け止め、主体性ある国家の確立へと向かうきっかけにしていかなければならない。「国防は国の専権事項」(菅義偉官房長官)だから……というような、国家論の原則からすれば確かに正しいかもしれない言説に寄りかかって、沖縄の声を切り捨てるなどもってのほかであるし、日米安保体制は大事だけれども沖縄ばかりに負担を押し付けるのは確かによくないな……というレベルの受け止めにとどまるのも決定的に不充分である。端的に、日米安保体制そのものの是非が問われているものだと受け止めなければならない。沖縄から鋭い問題提起がなされている現局面は、日本が主体性ある国家として生まれ変わっていくための大きなチャンスでもあるのである。

 もうひとつ注目しておきたいのは、今夏の参院選から18歳選挙権が実施される見通しとなったことである。今回の安保法制をめぐる動きでは、SEALDsの学生たちのみならず、高校生が反対運動に立ち上がったことが注目を集めた。SEALDsについては、本稿では批判的に言及することになったが、政治的無関心層とされがちであった若者たちのなかから、自らの主張を鮮明に掲げての行動が見られるようになってきたこと自体は、前向きな変化である。こうした若者の動向は決定的に重要である。日本が敗戦後70年間にわたって積み重ねられてきた欺瞞を清算して真に主体性ある国家として立ち直っていくことは、そう簡単にできることではない。これから何十年もの時間を費やしていかなければならない難事業である。それだけに、現在の若い世代が果たす役割は決定的なのである。そしてまた何よりも、過去のしがらみに囚われず、柔軟な発想ができる若い世代だからこそ、根本的な変革を成し得るのだという側面を無視するわけにはいかない。そういう観点からして、高校生が有権者となることの意義は決定的に大きい。学校の授業で、世界歴史を学び、日本歴史を学び、政治経済を学ぶ高校生だからこそ、そもそも民主主義とは何か、何故に民主主義が大切なのか、民主主義を勝ち取るために人類はどのような苦闘の歴史を歩んできたのか、そもそも憲法とは何か、何故に憲法が大切なのか、憲法を勝ち取るために人類はどのような苦闘の歴史を歩んできたのか、そしてまた戦争の惨禍をなくすことを目指して人類がどのような苦闘の歴史を歩んできたのか等々、生き生きとした感情像として描いた上で、有権者になることができるのである。

 安保法制など、国論を二分するような大きな課題が山積している現在、18歳選挙権の実施をめぐって、求められる「教育の政治的中立性」とは何か、という問題が大きく浮上してきている。特定の政治主張を教育現場に持ち込んではならないということであるが、このことは浅薄なレベルで理解されてはならない。教師が自身の信奉する特定の政治的主張を、そのまま問答無用に正しいものとして押し付けることが絶対にあってはならないのは当然である。しかし、それは、国論が二分され激しい対立を招いている問題について、できる限り直接触れないようにしておくとか、どちらの主張からも等しく距離を取るようにして説明を試みる、とかいったことではないはずである。ここで絶対に踏まえておかなければならないのは、平和、人権、民主主義などの獲得を目指して人類が苦闘の歴史を歩んできたことの重みである。この歴史の重みをしっかりと学ばせて、その歴史的な文化遺産を継承し、発展させていく主体を形成するためにこそ、教育という営みがあるのである。例えば、極端に復古主義的な政治勢力が伸長してきて、女性から参政権を奪え、参政権は高額納税者だけに限定しろ、などの主張を掲げ始めたとき、「教育の政治的中立性」というのは、「参政権は全国民に認められるべき」という主張と「参政権は一部の男性に限られるべき」という主張のいずれにも与しないようにする、ということになるのであろうか。そんなことはないはずである。教育基本法は、第1次安倍政権の時代(2006年)に改定されたが、その前文でも以下のように述べられているのである。

「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」


 旧教育基本法の前文と比較すると、公共の精神の尊重や伝統の継承など、いわゆる「安倍カラー」を感じさせる文言が混入されてはいるものの、基本的な骨格は維持されているといえよう。民主的で文化的な国家の発展、世界の平和と人類の福祉の向上を担いうる人間の育成こそが教育の大目標なのであり、そのためには日本国憲法の精神にのっとって教育の基本を確立しなければならない、というのである。教育基本法にこのように規定されていることからしても、護憲論、改憲論という相互に対立する2つの論があるから、国民主権、人権の尊重、平和主義といった日本国憲法の理念を守るべき大切なものだと教えるのは政治的偏向である、などという議論がおよそ成り立ち得るものではないことは明らかである。このことをしっかりと押さえておかなければならない。

 もちろん、民主的で文化的な国家の発展とはそもそもどういうことか、世界の平和と人類の福祉の向上はどのようにすれば実現されるのか、といった問題をまともに解いていくためには、確固とした社会科学的な指針がなければならない。日本が真に主体性ある国家となるための道を指し示すためにも、そうした主体性ある国家をまともに担いうる主権者を育成していくためにも、国家学を中核とする社会科学体系の構築が急務である。このことこそが我々京都弁証法認識論研究会の歴史的任務であることを確認して、本稿を終えることにしたい。

(了)
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2016年01月18日

安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う(12/13)

(12)学的国家論を踏まえ世界歴史の流れを視野に入れた議論が必須

 本稿は、昨年9月に成立させられた安保法制をめぐって、その推進派、反対派双方の主張を批判的に検討することを通じて、日本の安全保障についてどのように考えていけばよいのか、ある程度の方向性を示すことを目指したものであった。ここで、これまで論じてきた流れを振り返っておくことにしよう。

 まず検討したのは、安保法制推進派の言説が如何にデタラメなものであったか、ということである。安保法制の直接の根拠としては、一昨年7月1日の閣議決定によって、集団的自衛権の行使は禁止されているという政府の憲法解釈が変更されたことがある。この閣議決定では、いわゆる武力行使の旧三要件――@我が国に対する急迫不正の侵害があること、Aこれを排除するために他の適当な手段がないこと、B必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと――の骨格を最大限維持しながら、集団的自衛権の行使容認という正反対の結論を導きだすために、@に相当する個所に「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」という文言を付け加えたのであった。本稿では、これが具体的な像を伴わない単なる言葉遊びレベルの解釈改憲であったことを厳しく批判した。また、集団的自衛権の行使が必要となる事例として安倍首相が真っ先に挙げた、邦人を乗せた米艦の防護という事例について検討し、国会質疑を通じて、こうした事例の提示は根拠のない不安をあおるものにほかならず、真の狙いは邦人を守ることではなく米艦を守るところにこそあったことが明らかになったことをみた。さらに、安保法制と「アーミテージ・ナイ・レポート」との類似性を指摘し、米国(ジャパン・ハンドラー)の要望に何とか応えることを最優先に、像のない言葉を弄び、非現実的で情緒的な事例をデッチ上げて国民をミスリードしようとするようでは、国家の主体性の確立に繋がるどころか、ますます対米従属を深めるだけだ、と結論付けたのであった。

 次いで、対する安保法制反対派の言説もまた浅薄なものでしかなかったことを批判した。ここではまず、安保法制反対派が「日本を取り巻く安全保障環境の根本的な変容」という政府与党側の立論のいい加減さを衝こうとするあまり、日本周辺あるいは世界情勢の全般に対する真剣な検討がおろそかになっていたことを指摘するとともに、その根底に「戦後日本の平和は憲法9条によって守られていたのに、それを変えれば日本が戦争に巻き込まれてしまう」といった一国平和主義的な気分が根深く存在したことを論じた。また、旧来の革新系の人々(左翼的な人々)が、保守的な人々との共同闘争の必要性を口実に、自衛隊違憲論や日米安保条約廃棄論といった自身の本来の主張を棚上げして、国家の安全保障に関わる本質的な議論から逃げてしまったことを指摘した。日米安保条約の廃棄、自衛隊の解消という目標と、日米軍事同盟が強化されて自衛隊の海外派兵が恒常化されようとしているという現実との大きな落差をどのようにして埋めていくか、真剣に考え抜くということをやらずに、ズルズルと現実と妥協していくという不誠実な態度がそこにはあった。そうした反対運動の思想的・理論的な弱さがあったからこそ、「かっこよく民意を示す」(SEALDs)など民意の内実よりも表現方法にこだわる傾向が生み出され、現象的には運動が大きく高揚したようにみえても、実態としては国民世論を大きく持続的に動かし続けるということにはならなかったのだ、と結論付けたのであった。

 本稿では、以上のような、推進派、反対派双方の言説についての問題点の確認の上に立って、日本の安全保障についてどのように考えていけばよいか、ある程度の方向性を示すことを試みたのであった。そこでまず確認したのは、国家の独立維持にとって軍事力は不可欠であり、軍隊の保持を明確に禁じた日本国憲法第9条が極めて異常な国家のあり方を規定するものであることである。ここでは、かつての日本共産党が掲げていた武装中立論――日米安保条約を廃棄し、憲法違反・対米従属の軍隊を解散した上で、独立日本を防衛するために憲法を改正して新たな軍隊を保持する――こそ、国家論の観点からして正当なものであり、日本のあるべき防衛について筋を通して考えていく上で参考になるものであることを指摘した。一方で、日本国憲法を単に異常なものとして切って捨てるわけにはいかないことを、20世紀における戦争違法化の流れを簡単に振り返りながら確認した。日本国憲法第9条は、戦争違法化の流れの最高の到達点として人類史的な意義を有したものであり、日本のあるべき防衛について考えていく上では、人類史の大きな流れを視野に入れてあるべき未来を展望するとともに、日本国憲法の徹底した平和主義の理念については最大限に尊重されるべきであることを、カントの歴史観にも触れながら、指摘したのであった。これらの議論を踏まえて、以下の諸点を確認した。

 @現在、安倍政権が進めている改憲・再軍備の動きは、日米軍事同盟の強化を前提にしたものであり、米国からの自立に繋がるどころか対米従属をますます深めていく道であること。

 A米国からの自立は大日本帝国の「栄光」を懐古するような復古的イデオロギーの主導の下になされてはならないこと。それは世界から孤立した軍事的独裁国家への道であること。

 B憲法9条と自衛隊との矛盾の解決は、自衛隊の現状に憲法9条を合致させるのではなく、基本的には自衛隊を解消することによって図られなければならないこと。憲法の規範性を回復するために、憲法を改正して自衛隊の存在を明記すべきという「護憲的改憲論」は、日米安保体制の現状、対米従属的な軍隊としての自衛隊の現状をそのまま肯定するものにしかならないこと。

 以上の諸点を確認した上で、日本が主体性ある国家として生きていくためには、日米安保条約を廃棄し対米従属の軍隊(米軍の補完部隊)である自衛隊を解散した上で、必要ならば憲法9条を改正し、独立日本を防衛するための必要最小限度の実力組織を新たに創設するべきだ、という結論を提示したのであった。

 もちろん、この結論は、国家論の原則から筋を通して考えていけばそのようにならざるを得ない、といった性質のものであり、現在の国民世論の情況からみて、そうした方向への前進にどの程度の実現可能性があるかはまた別の問題である。本稿の連載第7回に紹介した通り、2009年に内閣府が実施した調査によれば、「日米安全保障条約をやめて、自衛隊も縮小または廃止すべき」とした回答者は全体のわずか4.2%に過ぎなかったのである。マスコミを通じた強力なイデオロギー支配の下、日米安保条約や自衛隊の存在が当然視されている情況を覆すのは、極めて困難な課題であるといわねばならない。さらにいえば、仮に国民世論を日米安保条約廃棄の線で纏めることに成功し、安保条約廃棄を掲げる勢力が政権の獲得に成功したとしても、米日の支配層がそれで安々と引き下がるとは考えられないのである。我々は、民主党・鳩山政権のあの程度のごくささやかな対米自立性ですら、無残に潰されてしまったことを想起しなければならない。安保条約第10条(*)に従って終了を通告しさえすればそれで片がつく、などと安易に考えることは決して許されないのである。米国側から陽に陰に諸々の妨害工作を受けながら、日本国民が果たして日米安保条約廃棄の強固な意志を堅持しきれるのかどうか。これは想像を絶する厳しい闘いとなるといわざるを得ない。さらにその先、仮に日米安保体制を打破することに成功したとして、これまで米国の属国という地位に甘んじてきた日本が、自主独立の国家として周辺諸国と対等に渡り合っていくことが果たしてできるのか、という大問題もある。

 しかし、だからといって国民世論の現状に適当なところで妥協して、対米従属状態を事実上固定化することにしかならない護憲的改憲論を唱えたり、あるいは違憲で対米従属の軍隊の永続に事実上道を拓くことにしかならない自衛隊の段階的解消論を唱えたりするようでは、「パクス・アメリカーナ」終焉後の世界において、日本が真に主体性ある国家として振舞っていくことなど到底不可能なことになってしまうのである。国民世論の現状からみてどんなに困難であっても、日本がどのような国家であるべきなのか、真に主体性ある国家となるためにはどうすればよいのか、本質的なところから問題提起を行っていくほかないのである。敗戦後70年の日本の歩みを問い直して、国民世論を根本から作り変えていくという難事業に挑まなければならない。そのためには、学的国家論を踏まえ、世界歴史の流れを視野に入れた議論が必須となる。

(*)「この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。」
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2016年01月17日

安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う(11/13)

(11)国際情勢の厳しさを直視つつ理想に向かって前進を

 前回は、20世紀における戦争違法化の流れを簡単に振り返りつつ、日本国憲法第9条はそのひとつの到達点として人類史的な意義を有したものであることを確認し、日本のあるべき防衛について考えていく上では、人類史の大きな流れを視野に入れてあるべき未来を展望するとともに、日本国憲法の徹底した平和主義の理念については最大限に尊重されるべきである、と指摘した。

 今回は、本稿のこれまでの議論を念頭に置いた上で、日本のあるべき防衛について具体的に考えていくために、いくつかのポイントを確認しておくことにしよう。

 まず指摘されなければならないのは、安倍政権が現在進めているような集団的自衛権の行使の具体化の動き、ないしは憲法9条改定の動きは、日米軍事同盟の強化を大前提としたものであって、何ら日本の国家としての主体性の確立に繋がるものではない、ということである。そもそも憲法改定は、自民党の結党(1955年)以来の悲願とされながら、その実現に向けた動きが本格化してきたのは、冷戦の終焉後、1990年代以降のことでしかなかった(改憲のための国民投票法が制定されたのはようやく2007年のことである)。この背景には、冷戦後の米国が、それまで「世界の警察官」として一手に担ってきた軍事的負担を同盟諸国にも分担させていこうとする流れを強めてきたことがある。さらに、21世紀に入って、いわゆる「パクス・アメリカーナ」の綻びが明らかになるとともに、財政危機による軍事費削減圧力が強まってきたことも大きい。オバマ政権が2012年1月に打ち出した「新国防戦略」は、冷戦後の米軍の戦力展開の基本となっていた「二正面戦略」(ほぼ同時に2つの大規模な紛争が起きても、どちらにも勝てるだけの戦力を世界規模で配備しておく)を放棄する一方、中国の軍事的脅威が増すアジア太平洋地域については戦力展開を強化していく、というものであった。こうしたアジア太平洋重視の「新国防戦略」によって、米国の国益に沿う形で日本の軍事力を利用できるようにしたいという要求は極めて切実なものとなっていった。第2次安倍政権以降、改憲への動きが急速に強まってきている背景に、こうした米国の世界戦略があることは否定できないのであり、現在進行している改憲と再軍備への動きは、日本が今まで以上に米国の世界戦略に深く組み込まれていくことを意味するものに他ならず、日本の自立性を強めるどころか、対米従属をより深化させる結果に繋がるものなのである。日本が国家としての主体性を確立するためには、米国から自立すること、より具体的にいえば、日米安保条約を廃棄し在日米軍を撤退させて、自国の独立は自力で維持するという構えを確立することが絶対的な条件となる(*)。

 しかし、米国からの自立といっても、それは、かつての大日本帝国を復活させるようなものであってはならない。戦争違法化に向かって前進してきた人類史の流れを逆行させてはならないのである。第二次世界大戦を「ファシズム対反ファシズム」の戦いとして描き出し、大日本帝国を一方的に悪玉に仕立て上げることは不当であるにしても、大日本帝国が周辺のアジア諸国に対して、侵略と植民地支配によって多大な損害と苦痛を与えたこと自体は、決して否定してはならぬことである。我々は、日本国憲法第9条が、周辺諸国に対する詫び証文としての性格をも有していることについて、重く受け止めておかなければならない。対米自立が復古的イデオロギーの主導の下になされるのは、極めて危険である。アジア諸国を支配し、米国に戦いを挑んだ大日本帝国の歴史を偉大な栄光として称えつつ、あたかも子どもがオモチャの銃や戦車を欲しがるようなレベルで再軍備に向かうならば、国際社会における日本の立場は決定的に厳しいものとならざるを得ない。それは、北朝鮮のような、孤立した軍事独裁国家への道である。対米自立は、過去を懐かしむ形ではなく、未来を展望する形でなされなければならない。自国の独立は自力で維持すべきといっても、それは必ずしも重武装を意味しないのであって、何よりもまず巧緻な外交努力がその中核をなすことは当然である。

 もうひとつ、対米自立の問題と相対的に独立した課題として検討しておかねばならないのは、憲法9条と自衛隊をどうするべきか、という問題である。そもそも自衛隊は、政府の無理な憲法解釈の上に存在させられてきた軍隊である。立憲主義(国家権力は憲法の制限下になければならない)の観点からすれば、憲法9条を堅持して自衛隊を解消するか、憲法9条を改正して自衛隊の存在を明記するか、いずれかが選択されるべきだということになる。そうでなければ、最高法規たる憲法から筋を通して統治するということにはならない。そういう意味では、安保法制反対派の一部から、安倍政権の進めるような軍事大国化の流れに歯止めをかけるという意図も含みつつ、憲法を改正して自衛隊の存在を明記すると同時に集団的自衛権の行使の禁止をも明記するといった、いわば護憲的改憲論とでもいう議論が提示されていることには、一定の根拠があるといえよう。

 しかし、こうした議論には大きな陥穽があることを指摘しなければならない。こうした議論は、日米軍事同盟や自衛隊について、これ以上の改悪を防ぐためにとりあえず現状で固定するようにしましょう、というものでしかないのである。こうした議論の立て方では、敗戦後70年の日本の歩みがどうであったか、不問に付されてしまう。建前としては憲法9条を維持しつつ、実質的には米軍を駐留させその補完部隊たる自衛隊を増強させながら、両者の齟齬を無理な憲法解釈を重ねることによって誤魔化してきた、という歩みについて、批判的に検討する視点を欠いてしまうのである。むしろ、憲法9条の制約下、専守防衛の理念を掲げて抑制的かつ現実的な防衛政策を模索してきた歴史として、積極的に肯定されてしまうことになる。もちろん、こうした防衛政策の歴史のなかに、これからの日本のあるべき防衛を考えていく上で、継承すべき多くの遺産が含まれている、ということはできるだろう。しかし、それらが対米従属という大枠のなかでしかありえなかったこと、対外的な諸問題について米国の意志に逆らう意志決定をなすことが絶対に許されないという条件下のものでしかなかったことは、しっかりと直視しなければならない。日米軍事同盟や自衛隊を現状のレベルで固定するということは、米国からの更なる要求を拒否し、これ以上の対米従属化を阻止するという意味で、一定の積極的な意義を有するとはいえなくもないが、対米従属状態の根本的な解決にはならず、むしろ固定化するものにほかならないのである。

 だとすれば、憲法9条と自衛隊との矛盾の解決は、自衛隊の現状に憲法9条を合致させるのではなく、基本的には自衛隊を解消することによって図られなければならないということになるであろう。もちろん、対米従属状態の打破のためには、日米安保条約の廃棄が不可欠の前提となることはいうまでもない。しかし、ここで大きな問題として浮上してくるのは、現在の国際情勢の下、果たして非武装で日本の独立が維持できるのかどうか、ということである。現在の世界は、戦争は原則的に違法なものとされるところにまで到達してはいるものの、諸国家はいまだに軍隊を保持したまま相互に対峙しているのであり、とりわけ21世紀に入ってからは「パクス・アメリカーナ」の綻びとともに、世界情勢は混沌とした情況を見せつつある。そうした現実を直視すれば、残念ながら、日本だけが今すぐ完全な丸腰になるというわけにはいかないであろう。ここで我々は、自衛隊は解消しなければならないが、かといって非武装のままでいることもできない、という隘路に陥ってしまうのである。

 ここから抜け出そうとして、自衛隊は違憲だから解消すべきだとする一方、国民的合意がなければ解消することはできないとして、国民世論の側に責任を押し付けるようにして、事実上その存続を容認してしまったのが、現在の日本共産党の段階的解消論である。しかし、これは極めて不誠実な態度というほかない。そもそも自衛隊は、その創設の当初から、在日米軍を補完する役割を担わされ続けてきたのであり、米軍との繋がりにおいてしか行動できない組織となってしまっている。これをそのまま、独立日本の防衛のために活用することはできないのである。したがって、対米従属の軍隊である自衛隊は、日米安保条約の廃棄とセットで、解消することを目指すのが筋というものであろう。その上で、非武装のままでは日本の独立維持が危ういというのならば、憲法9条を改正して、新たな実力組織を保持するようにするべきなのである(**)。ただし、その場合でも、専守防衛を建前としてきた自衛隊を大きく超えるようなものであってはならず、日本国憲法の徹底した平和主義の理念を最大限に尊重し、戦争の絶滅という人類の理想に向かって努力する姿勢を明確にすることは当然である。現代の世界において、第二次世界大戦の終結直後にあったような、戦争絶滅という理想実現への熱意のようなものが薄れていることは否定できないが、例えばテロに対して軍事的に対応するだけでは事態を悪化させてしまうのであり、貧困や格差による社会の荒廃に対処してこそ根本的な解決に繋がるという認識が、主要国家の首脳レベルでも否定することのできないものとなって来ているのも事実なのである(***)。平和主義を掲げる日本は、この線でこそ積極的な役割を果たしていかなければならない。

 以上を要するに、日本が主体性ある国家として生きていくためには、日米安保条約を廃棄し対米従属の軍隊(米軍の補完部隊)である自衛隊を解散した上で、必要ならば憲法9条を改正し(ただし、平和主義の理念は最大限に尊重することは明確にしながら)、独立日本を防衛するための必要最小限度の実力組織を新たに創設していく必要があるということになるのである。

(*)国家の主体性という問題を一応度外視するにしても、国力に翳りを見せつつある米国にいつまでも付き従っていくことが果たして得策なのか、という問題もある。しかし、覇権国であった米国から自立するということは、単に衰退しつつある米国から距離をとるといったことですむものではなく、「パクス・アメリカーナ」に変わる新たな世界秩序の構想を提示していく責任を背負うことでもあるのである。

(**)自衛隊の解散→新たな実力組織の創設という流れは、形式的な変更に過ぎず自衛隊をそのまま存続させるのと変わらないのではないか、との疑問もあるかもしれない。確かに、新たな実力組織はその装備や人員の少なからぬ部分を旧自衛隊から引き継ぐことになるであろう。そうした意味では、創設されるべき新たな実力組織は自衛隊との連続性を持ったものといえる。しかし、そもそも組織は意志の支配・服従関係によって構成されるものであり、この意志関係のあり方が根本的に変革され、全く新しいものに創り直されるのであれば、それは論理的には旧組織の解体・新組織の創設といわねばならないのである(ロシア革命後、トロツキーによって率いられた赤軍にも、帝政ロシアの軍人が少なからず加わっていたことを想起すべきである)。在日米軍の補完部隊と独立日本を防衛する実力組織とでは、そのイデオロギー性が全く異ならなければならないのであって、このことを明確にするためにも、自衛隊の改革ではなく解散という目標を明確に掲げるべきだといえる。

(***)「米国政府が主催した過激派組織「イスラム国」など過激派対策に関する閣僚級国際会議は、従来の軍事力中心のテロ対策を見直し、同組織の巧みなインターネット宣伝への対抗を重点課題に挙げた。加えて、テロリストの素地となる貧困や格差、教育といった根本的な問題に結束して取り組むことで一致した。国際社会のテロ対策は新たな段階に入ったといえる」(「京都新聞」2015年2月24日「社説」)
http://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20150224_3.html
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2016年01月16日

安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う(10/13)

(10)戦争放棄という理想に向けて前進してきた人類史の歩み

 前回は、国家の独立維持にとって軍事力は不可欠であり、軍隊の保持を明確に禁じた日本国憲法が極めて異常な国家のあり方を規定したものであること、かつての日本共産党の武装中立論――日米安保条約を廃棄し、憲法違反・対米従属の軍隊を解散した上で、独立日本を防衛するために憲法を改正して新たな軍隊を保持する――こそ、国家論の観点からして正当なものであり、日本のあるべき防衛について筋を通して考えていく上で大いに参考になるものであることを指摘した。

 さて、憲法9条の背景に、大日本帝国の復活阻止という米国の世界戦略上の思惑が存在したのは前回指摘した通りであるが、憲法9条をこの側面だけで捉えてしまうのは一面的である。第二次世界大戦の終了直後というのは、平和な世界の建設という理想が高らかに掲げられた時代でもあったのであり、そうした時代の雰囲気と切り離して、憲法9条を捉えることはできないのである。日本国憲法前文を味読してみれば、戦争の惨禍を二度と繰り返したくないという強い決意、世界平和への真摯な願いという時代の雰囲気を感じ取ることができるであろう。このことを決して軽く捉えてはならない。

 さらに決定的に重要なのは、こうした平和な世界の切実な希求というのは、何も日本国憲法だけに特殊なものではない、ということである。20世紀において人類は、戦争の違法化という課題において、紆余曲折を含みながらも、大きな前進を遂げてきたのであり、日本国憲法もまたそうした流れのなかにあるものなのである。

 戦争はもともと「他の手段をもってする政治の継続である」(クラウセヴィッツ『戦争論』)として当然視されるものであった。しかし、20世紀に入ると、大量破壊兵器の登場や総力戦の展開によって、戦争の残虐性や社会全体に与える被害の甚大さが大きな問題として捉えられるようになり、戦争のやり方に規制を加えるとともに、戦争そのものを違法化しようとする動きが生じてきた。第一次世界大戦終了後の1920年には国際連盟が設立され、1928年には「戦争放棄に関する条約」(いわゆるパリ不戦条約)が締結された。この条約では、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定したのであった。しかし、侵略戦争ならぬ自衛戦争は禁止されていないとの解釈が拡大されていったことで、この条約は事実上空文化してしまったのであり、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかったのである。

 この反省の上に立って1945年に創設されたのが国際連合であった。国際連合憲章は、その第2条第4項で「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と定め、戦争を含む武力の威嚇・行使を違法化したのである(*)。第二次世界大戦後に制定された各国の憲法にも、こうした戦争違法化の流れを反映した条項が入った。日本と同じ敗戦国であるイタリアの憲法(1947年)は「他人民の自由に対する攻撃の手段としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」と規定し、同じく敗戦国のドイツの基本法(1949年)は「諸国民の平和的共同生活を妨げ、特に侵略戦争の遂行を準備するのに役立ち、かつ、そのような意図をもってなされる行為は、違憲である」と規定した。日本国憲法もまた、こうした戦争違法化の流れを反映したものであるが、交戦権の明確な否認、軍隊の不保持という徹底的に厳格な規定は、他国の憲法に類を見ないものであるといえる。

 以上を要するに、軍隊の保持を明確に禁ずる日本国憲法は、確かに異常な国家のあり方を規定したものだともいえるが、それは現代世界における他の諸国家のあり方と全く隔絶したものというわけでもない、ということになる。戦争違法化の流れ、換言すれば、戦争放棄という理想に向けて(紆余曲折を含みながらも)前進してきた人類史の歩みを重視するならば、戦力の不保持という憲法9条の規定について「日本は正しいことを、ほかの国よりも先に行ったのです」(文部省『あたらしい憲法のはなし』1947年)と捉えるのは、必ずしも間違ったものとはいえない、ということができるであろう。

 戦争の違法化に向けた人類史の歩みということに関わって、イマヌエル・カントの歴史観について簡単に触れておくことにしたい。カントは「世界公民的見地における一般史の構想」(1784年)において、個々人の敵対的関係からスタートし、国際連合の創設というゴールに至るという歴史観を打ち出したのである。

 もう少し詳しく、カントの論の流れを確認しておこう。カントはまず、人間は相集まって社会を形成しようとする傾向(社交的性質)と同時に、仲間から離れて自分一人になろう(孤立しよう)とする強い傾向(非社交的性質)をも備えていると把握する(後者の傾向は、他者の抵抗を排して一切を自分の意のままに処理しようというところから生じるとされる)。つまりカントは、人間とは集団のなかでしか生きていけないにもかかわらず集団においては生きていけないという矛盾を含んだ存在であると把握するわけである。カントによれば、人類はこの矛盾を解決するために、自分と他人とが互いに傷つけ合うことなく自由に共存しうるような法的組織として「公共公民体」を形成していくことになる(これは、法的規範によって統括された国家のことであるといってよい)。カントは、人類が備えている理性や意志の自由といった素質は、この公共公民体の枠内ではじめて全面的に開花し得るようなるという。しかし、この段階では、自分と他人とが互いに傷つけ合うことなく自由に共存しうるという状態は、個々の国家の枠組み内で実現されているに過ぎない。国家どうしが互いに敵対的に抗争し合うという問題は解決されていないのである。そこで人類は、国家的な公民的組織を形成するにとどまらず、一個の世界公民的組織(世界国家あるいは国際連合)を創設する方向に進まなければならなくなる、というのである。要するに、まず、個人間の敵対関係が国家意志(法的規範)への個人意志の従属という形態によって解決され、次いで、国家間の敵対関係が国家間の関係を律する規範(国際法)の確立によって解決されていく、という大きな流れをみてとることができる、というわけである。

 戦争違法化の流れ、とりわけそのなかでの国際連合の創設という歴史的な事実は、こうしたカントの展望が夢物語ではないことを示しているのではないだろうか。もちろん、国連憲章の第2条第1項が「この機構は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている」とし、同第7項が「この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではない」としているように、現在の国際連合は決して全世界を統括する「世界政府」や「世界連邦」の如き存在ではなく、独立した主権国家どうしの寄り合い所帯に過ぎない。第二次世界大戦後の世界においても国家間の紛争は絶えなかったし、冷戦終結後には、唯一の超大国となった米国が、国連を無視してでも「世界の警察官」としての役割を果たすという単独行動主義を露骨に示したこともあった。さらに現在は、経済の衰退などで米国の地位が相対的に低下していく一方で、中国やロシアなどの新興大国が対外膨張路線をとるようになってきている。大国による情勢のコントロールが効かなくなったことによって、地域紛争やテロも頻発している。世界情勢はまさに混沌とした様相を呈してきているのである。

 とはいえ、人類史の全体を視野に入れるような広い視野で眺めればどうだろうか。現在、まともに統治された国家の内にあっては、個々人が自衛のために武装しなくても治安が保たれているように、やがては、国際社会においても、個々の国家が自衛のために武装しなくても平和が保たれるという情況が到来しうるのではないか、と考えることは決して不可能ではないのではないだろうか。日本国憲法第9条というのは、戦争放棄という崇高な理想に向かっての人類の探究のひとつの到達点としての側面も有しているのであって、決して嘲笑的に扱われるべきものではない。日本のあるべき防衛について考えていく上では、人類史の大きな流れを視野に入れてあるべき未来を展望するとともに、日本国憲法の徹底した平和主義の理念については最大限に尊重されるべきである、といえる。およそ70年に渡って憲法9条を掲げ続けてきた我々日本国民には、戦争の絶滅という人類の究極的理想に向かって主導的な役割を果たす責任があるといえるだろう。

(*)もっとも、第51条においては「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」とされたこと、とりわけ米国の強い要求で「集団的自衛」の文言が入ったことが大きな抜け穴となったことは否定できない。現実には、国連が米国の軍事的な世界戦略の隠れ蓑となってきた側面も決して否定はできないのである。それでもなお、崇高な理想が掲げられたこと自体を軽くみるべきではないであろう。
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2016年01月15日

安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う(9/13)

(9)国家の独立維持に軍事力は不可欠

 本稿は、昨年9月に成立させられた安保法制をめぐって、その推進派、反対派双方の主張を批判的に検討することを通じて、日本の安全保障についてどのように考えていけばよいのか、ある程度の方向性を示すことを目指したものである。前回までの3回に渡っては、安保法制反対派の言説の浅薄さについて検討してきた。簡単に振り返っておこう。まず、安保法制反対派が「日本を取り巻く安全保障環境の根本的な変容」という政府与党側の立論のいい加減さを衝こうとするあまり、日本周辺あるいは世界情勢の全般に対する真剣な検討がおろそかになっていたことを指摘するとともに、その根底に「戦後日本の平和は憲法9条によって守られていたのに、それを変えれば日本が戦争に巻き込まれてしまう」といった感覚が根深く存在したことを論じた。次いで、旧来の革新系の人々(左翼的な人々)が、保守的な人々との共同闘争の必要性を口実に、自衛隊違憲論や日米安保条約廃棄論といった自身の本来の主張を棚上げして、国家の安全保障に関わる本質的な議論から逃げてしまったことを指摘した。さらに、そうした反対運動の思想的・理論的な弱さの故に、「かっこよく民意を示す」など民意の内実よりも表現方法にこだわる傾向が生み出され、現象的には運動が大きく高揚したようにみえても、実態としては国民世論を大きく持続的に動かし続けるということにはならなかったのだ、と結論付けたのであった。

 安倍政権による安保法制の成立強行が暴挙であることは論を俟たない。しかし、そうした安倍政権のあり方に対抗して、民主主義の理念の定着や成熟を本当に目指していくためには、これら本質的な諸問題について、国民的なレベルで突っ込んだ議論が展開されなければならないのである。今回から3回に渡っては、そもそも国家とはどういうものか、という原点を踏まえつつ、これらの問題についてどのように考えていけばよいのか、大雑把な方向性を提示することを試みてみたい。

 まず確認されなければならないのは、一般的にいって、国家の独立維持にとってやはり軍事力は不可欠のものだ、ということである。そもそも国家とは、社会が自立的に存続できるための枠組みであり、他国との関係において、自らの存在を維持していけるだけの実力を保持していることが絶対に欠かせない。他国家との対峙の極限状態は戦争である。その意味では、軍隊こそが、国家において最も重要な要素であるとすらいえるものであり、このような軍隊の保持を明確に禁じた日本国憲法が、極めて異常な国家のあり方を規定したものであることは否定できないのである。

 では、なぜそのような異常な規定が創られたかといえば、端的には大日本帝国の復活を許さないためであった。「大東亜共栄圏」構想を掲げた大日本帝国によるアジア諸国への侵略と植民地支配は、欧米列強が世界を分割して植民地支配する従来の秩序への挑戦に他ならなかった。第二次世界大戦後、米国主導で世界秩序が再編されていく過程では、このような米国支配の体制(いわゆるパクス・アメリカーナ)を脅かす邪魔モノとして大日本帝国が復活してくることは、何としても認められなかった。そのため、大日本帝国の軍隊を徹底的に解体した上で、その再組織について強い制限をかける必要があったのである。その必要性を決定的にしたのが、天皇制の存続であった。占領軍は、統治を容易にする観点から、日本の支配層が強く要望していた「国体護持」(天皇制の存続)を認める方針を採った。天皇を神格化するイデオロギーこそが、日本軍国主義の精神的主柱であったにもかかわらず、占領軍は天皇制の存続を認めようとしたのである。それだけに、日本軍国主義の復活に対しては、なおさら念には念を入れてその芽を摘んでおく必要があった。この観点から、天皇制の存続を認めることと引き換えに、交戦権の放棄と戦力の不保持を規定した日本国憲法第9条が押し付けられたのである。

 しかし、冷戦構造が深まるなかで、米国は日本を反共の防波堤とする方針を採るようになり、日米安保条約を結んで米軍の駐留を半永久化するとともに、日本自身にも再軍備を迫ったのである。こうして、日本国憲法の制約下にありながら警察予備隊が創設され、在日米軍の機能を補完する機能を担わされながら、保安隊、自衛隊として強化されていったのであった。結果としてみれば、厳しい冷戦構造のなかで日本という国家が存立し続けることができたのは、在日米軍およびその補完部隊としての自衛隊という実力組織の存在があったからこそ、という側面を否定することは困難であろう。端的には、建前としての憲法9条と実質としての日米安保体制は密接不可分であって、日米安保体制という実質によってこそ、憲法9条という建前が支えられ続けてきたという皮肉な現実があるわけである。しかし、このことは、国家の存立という最重要課題を、宗主国たる米国に完全に丸投げしてきたことを意味するのである。これが敗戦後の日本が国家としての主体性を喪失することに繋がったのは間違いない。

 いわゆる55年体制下では、日本社会党を中心に、自衛隊は憲法違反の軍隊なので解消すべきだという非武装中立論が一定の影響力を持っていた。しかし、現在では自衛隊の即時解散を求める声はほとんど存在しなくなったといってよいだろう。日本共産党ですら、もはや自衛隊の即時解散を唱えていないのである。日本共産党は、憲法違反の軍隊である自衛隊は解消すべきであるとする一方、そのためには「国民の圧倒的多数が「万が一の心配もない。もう自衛隊は必要ない」という合意が成熟する」(2000年の第22回党大会でにおける志位和夫委員長の報告)ことが必要になるという条件を付し、自衛隊が存続している段階で急迫不正の侵害などがあった場合には自衛隊も活用して対応するという段階的解消論を唱えているのである。しかし、「万が一の心配がなくなれば自衛隊を解消する」というのは「万が一の心配がある限り自衛隊を保有する」ということの裏返しであるから、これは事実上、自衛隊の半永久的存続に道を拓くものにほかならない。自衛隊の解消を掲げる政党であっても、多少なりとも現実的な政策を打ち出そうとすれば、事実上はその存在を容認せざるを得なくなってしまうというところに、無防備国家など現実にはあり得ないのだということが如実に示されているもといえよう。

 しかし、自衛隊は憲法違反の軍隊であると主張しながら事実上はその存続を容認し、いざとなれば活用する、というのは全く筋の通らない話ではないだろうか。この点、かつての日本共産党の安全保障政策は、それなりに筋の通ったものであったといえる。そもそも日本共産党は、日本国憲法の制定時、第9条に関わって自衛権の放棄を主張する吉田茂首相を批判し、「民族の独立を危うくする」(野坂参三衆議院議員)として、帝国憲法改正案(日本国憲法案)に反対票を投じたのであった。間もなく政府が憲法解釈を変更して創設した自衛隊について、日本共産党は、在日米軍の補完部隊でしかなく民族の独立を守る組織ではあり得ない、という態度をとった。1970年代の民主連合政府の提案においても、日米安保条約を廃棄し、対米従属の軍隊である自衛隊を解消することを主張すると同時に、必要とあらば憲法を改正した上で独立日本を防衛するための新たな実力組織を創設することに含みを持たせていた。ところが、日本共産党は、1994年の第20回党大会において、憲法9条の掲げた理想は共産主義の理想と合致したものであると表明した上で、2000年の第22回党大会で自衛隊の段階的解消論に転じたのである。

 かつての日本共産党は、憲法9条について批判的な立場をとりつつも、憲法違反・対米従属の軍隊を独立日本の防衛に使うことはできないから、必要ならば憲法を改正して新たな軍隊を保持するのだ、としていた。これに対して現在の日本共産党は、憲法9条の擁護を掲げる一方、憲法違反・対米従属の軍隊の存続を事実上容認した上で、いざとなれば活用する、とまでいうのである。どちらが筋の通った見解であるかは明らかである。かつての武装中立論こそ国家論の観点からして正当なものであり、日本のあるべき防衛について筋を通して考えていく上で、大いに参考になるものであるといえよう。
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2016年01月14日

安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う(8/13)

(8)デモの高揚が民主主義の成熟を示すという幻想

 前回は、旧来の革新系の人々(左翼的な人々)が、保守的な人々との共同闘争の必要性を口実に、自衛隊違憲論や日米安保条約廃棄論といった自身の本来の主張については事実上棚上げして、国家の安全保障にかかわる本質的な議論から逃げてしまったことを指摘した。

 そのような問題を含みつつも、安保法制に反対する運動は、思想的立場の異なる多くの人々を巻き込みながら、大きく高揚していったようにみえる。本稿の連載第1回でも触れたように、衆議院憲法審査会に参考人として招致された3人の憲法研究者全員が、安保法制は違憲であると断じた2015年6月4日以来、「SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy-s〔自由と民主主義のための学生緊急行動〕)」、「安全保障関連法案に反対する学者の会」、「安保関連法に反対するママの会」などの運動が大きな注目を集めるようになり、8月30日には「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」が呼びかけた国会包囲デモに「12万人」(主催者発表)の人々が集まるに至って、反対運動の高揚を印象付けることになったのであった。こうしたデモの高揚は、しばしば60年安保闘争と比較され、労働組合などによる組織動員が主体であった60年安保に対して、一人ひとりの自覚的な市民が自発的に声を上げたものとして、肯定的なイメージで描かれることが多かったのも、本稿の連載第1回で触れた通りである。

 しかし、こうした反対運動の高揚は、安保法制の成立を阻止することができなかったばかりか、安倍政権の存立を揺るがすことすらできなかった。この事実を直視しなければならない。60年安保闘争は、安保条約の改定を阻止することはできなかったものの、岸政権の打倒という結果を残すことができた。このことと対比してみれば、今回の安保法制反対運動の高揚というのが、どの程度のレベルのものであったのか、疑問が生じてくる。安保法制成立後のマスコミの世論調査において、安倍内閣の支持率が順調に回復し、安保法制の成立を評価する人びとの割合が漸増しているという事実によって、その疑問はますます深いものにならざるをえない。

 安保法制反対運動の「高揚」を象徴する存在として押し上げられていったのは、SEALDsであった。「かっこよく民意を示す」(SEALDs創設メンバーの奥田愛基氏)という学生たちの行動は、ラップ調のコールや、凝ったデザインのプラカードやビラならぬフライヤー等を通じて、旧来の左翼系のデモ・集会の野暮ったさ(?)とは大きく異なる、洗練された(?)雰囲気を醸し出し、一人ひとりの市民が自発的に立ち上がった、というイメージを創り出すことに大きく貢献した。このようなイメージを踏まえて、例えば、以下のような評価がなされることになる。

「戦争法案の廃案を求めて、国民一人ひとりが、主権者として自覚的・自発的に声をあげ、立ち上がるという、戦後かつてない新しい国民運動が広がっていること、そのなかでとりわけ若者たちが素晴らしい役割を発揮していることは、日本の未来にとっての大きな希望です。……この間の戦争法案に反対する新しい国民運動の歴史的高揚は、戦後70年を経て、日本国憲法の理念、民主主義の理念が、日本国民の中に深く定着し、豊かに成熟しつつあることを示しています。」(志位和夫「「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の実現をよびかけます」)


 ここで問題になるのは、そうしたイメージは、実態と少なからず乖離した、まさに創られたイメージだったのではないか、ということである。民主主義の理念が国民に深く定着して豊かに成熟しつつあるのならば、安保法制の成立を強行した安倍政権の支持率が順調に回復していくなどということが、なぜ生じてしまったのであろうか。反対運動は本当は如何なるレベルのものであったのか、ここで厳しく問われなければならないのである。

 この問題について検討する上で鍵となるのは、SEALDsの運動を象徴するといってもよい「民主主義って何だ!」「これだ!」のコールである。ここには、多くの人々が集まって抗議の声を上げることそれ自体が民主主義(の成熟)を示すものだ、という認識が見え隠れする。しかし、これはあまりに現象的なあり方に囚われた、浅薄なものの考え方ではないだろうか。民主主義とは何かを規定する場合、最低でも、国民の意志が国家意志にしっかりと反映させられるという契機は絶対に欠かすことはできない。国民の意志が表明され、それが国家意志に反映された上で、その国家意志に従って政治が行われていく、という全過程を視野に入れなければならないのである。にもかかわらず、「民主主義って何だ!」「これだ!」というのでは、意志が表明されている場面(認識が音声や文字など物質的な形をとって表現されている場面)のみに着目していることになってしまうのである。さらにいえば、「かっこよく民意を示す」という言葉に象徴されるように、如何なる意志を表明するかという内容面よりも、如何なる形で意志を表明するかという形式面こそが重視されていた嫌いがある。それを如実に表すのが、ラップ調のコール、凝ったデザインのプラカードやフライヤー等である。厳しくいえば、民意を国家意志に何がなんでも反映させてやる(この件に限っていえば、安保法制の成立を阻止する)という断固たる決意を政府・国会に強力に突き付けるというよりも、安保法制反対という意志を如何に「かっこよく」表現するかということの方に精力が傾けられていったといわざるを得ないのである。しかし、デモそれ自体は民主主義でも何でもなく、民主主義のための手段、一契機に過ぎない。その一手段、一契機に過ぎないものが度外れに拡大されて、自己目的化されてしまったのである。

 こうして、どのような意志を表現するかという課題よりも、どのように表現するかという課題の方が優先されていった結果、反対運動の側からは国家の安全保障はそもそもどうあるべきかという本質的な問題にまで踏み込んだ考察は示されず、「戦争はイヤだ」「平和が大事」という素朴な感情のままに、「アベはやめろ!」レベルの浅薄なスローガンが叫ばれ続けるということになってしまったのである。

 もちろんこれは、SEALDsの学生たちのだけの責任ということではない。安保法制反対運動の中枢を担ったはずの旧来の革新系の人々(左翼的な人々)が、前々回、前回に論じたような弱点を抱えていたことに大きく規定されてのことであろう。さらにいえば、「安全保障関連法案に反対する学者の会」に結集した「学者」たちこそが、現在の国際情勢の全般をどのように捉えるべきか、そのなかで日本はどのような位置にあるのか、そもそも国家の安全保障はどうあるべきか、といった本質的な諸問題について積極的に議論を提起し、反対運動を理論的にリードすべきであっただろう。これら本質的な諸問題について、全国民的なレベルで真剣な討論が展開されなければ、民主主義の理念の定着とか成熟とかいうことはあり得ない。しかし、残念ながら「学者の会」には、そのような活躍が見られなかったのである。これは、現代日本におけるアカデミズムの劣化を象徴的に示すものだといえよう。

 そうした反対運動の理論的な面、思想的な面での弱さこそが、「民意をかっこよく示す」というSEALDsの学生たちを反対運動の象徴として押し上げ、一人ひとりの市民が自発的に立ち上がったというイメージづくりのレベルに反対運動が収斂させられてしまうという結果を招いたのである。要するに、安保法制反対運動は、表層的な気分の高揚というレベルでしかなかったのであり、だからこそ安保法制の成立後には、急速に潮が引いたように沈静化してしまい、安倍政権の支持率が順調に回復するということになってしまったのであった。
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2016年01月13日

安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う(7/13)

(7)保守との共同による本質的な議論の回避

 前回は、安保法制反対派の側の議論について、「日本を取り巻く安全保障環境の根本的な変容」という政府与党側の立論のいい加減さを衝こうとするあまり、日本周辺あるいは世界情勢の全般に対する真剣な検討がおろそかになっていた嫌いがあることを指摘するとともに、その根底として、「戦後日本の平和は憲法9条によって守られていたのに、それを変えれば日本が戦争に巻き込まれてしまう」といった感覚が根深く存在したことは否定できないことを論じた。

 さて、安保法制反対派の議論について、第二に指摘されなければならないのは、旧来の革新系の人々(左翼的な人々)が、保守的な人々との共同を優先するために、自衛隊違憲論や日米安保条約廃棄論といった自身の本来の主張については事実上棚上げして、国家の安全保障にかかわる本質的な議論から逃げてしまったことである。

 今回の安保法制をめぐる反対運動は、何も左翼的な人々(社会民主党や日本共産党、その他の新左翼諸党派、およびそれらの影響力の強い労働組合などの諸団体)のみによって展開されたものではない。反対運動をリードした存在として、自民党のかつての大物政治家(野中広務氏、河野洋平氏、古賀誠氏、加藤紘一氏など)や元防衛官僚など、かつて政権の中枢を担ってきた人々を無視するわけにはいかない。とりわけ、元防衛官僚の柳澤協二氏(2004年から2009年まで、第2次小泉・第3次小泉・福田・第1次安倍・麻生内閣の下で内閣官房副長官補〔安全保障・危機管理担当〕を務めた)の精力的な活動は象徴的であった。柳澤氏は、安保法制に関連して政府が提示した15事例が如何に現実離れしたものであるかを厳しく指摘し、言葉遊びレベルの解釈変更で自衛隊員の生命を危険に晒す政治家の無責任さを鋭く衝いた。柳澤氏の主張は、憲法9条との整合性に腐心しながら防衛政策を創り上げてきた防衛官僚としての矜持に裏打ちされたものであり、今回の安保法制が如何にデタラメなものであるか暴露する上で、非常に大きな役割を果たしたといえる。柳澤氏らの活動によって、今回の安保法制が従来の防衛政策の延長線上にあるものではなく、これまでの解釈の積み重ねを乱暴に投げ捨ててしまうものであることが鮮明になったのである。

 柳澤氏の主張は、これまでの防衛政策を担ってきた人物の発言としては、きちんと筋の通ったものであった。防衛の専門家としての具体的な論の展開には相当な説得力があった。柳澤氏自身について、ここで非難すべきことはない。問題なのは、これまで政府の安全保障政策に厳しく対決してきた旧来の革新系の人々が、結果として、柳澤氏の主張に迎合してしまったことである。柳澤氏の論は、自衛隊や日米安全保障条約の存在は当然のこととして、1997年の新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)、1999年の周辺事態法など、それこそ麻生政権の頃までの法制度を前提として、展開されているものである。これら政府の安全保障政策に対して厳しく対峙してきたはずの旧来の革新系の人々が、柳澤氏など保守的な人々との共同闘争を優先するあまり、過去の自己の主張との整合性について突き詰めた検討をしないまま、個別的自衛権はよいが集団的自衛権の行使は認められない、といった最大公約数的なレベルで、安保法制への反対を叫ぶことに終始してしまったのである。

 しかし、そもそも、個別的自衛権の行使は認められるが集団的自衛権の行使は認められない、などという政府のこれまでの憲法解釈は、軍隊の不保持を規定した憲法9条の制約下で自衛隊の存在を何とかして認めようとして捻り出された詭弁の類に過ぎない。自衛隊の違憲性を主張してきたはずの旧来の革新系の人々(左翼的な人々)の周辺に、日本の存立を脅かす攻撃には個別的自衛権で対処できる(自衛隊だけで対処すればよい)のだから集団的自衛権を持ち出す必要はない、などという主張が散見されたのは、まさに奇観というほかなかった。これまで政府の安全保障政策に厳しく対峙してきた左翼的な人々こそ、そもそも国家の自衛権とは何か、自衛権を実効性あるものとするための実力組織とはどのようなものか、自衛権を個別的なものと集団的なものとに画然と分離することは可能なのか、といった本質的な議論を提起し、そこからしっかりと筋を通していかなければならないのにもかかわらず、そういう原点的なところにまで遡っての積極的な議論の提起はなかった。

 もちろん、反対運動の具体的な場面で、柳澤氏らの主張に対して、自衛隊や日米安保条約の存在を前提にしているのはけしからん、ガイドラインや周辺事態法などもってのほかだ……などと果敢に論争を吹っかけるべきであった、というのではない。当面する重要な課題に取り組む際、見解の相違は脇において、一致点で共同闘争をつくっていくのは当然のことである。しかし、共同闘争における一致点を大切にしていくということと、自己の思想的・理論的立場を貫いていくということとは、きちんと両立させるべく努力していかなければならない課題である。自衛隊は違憲なので解消すべきである、日米安保条約もまた廃棄されるべきである、といった自己の本来の主張を、安保法制反対運動のなかでどのように貫いていくのか。左翼的な人々には、このような問いが鋭く突き付けられたのであって、この問いに真摯に向き合ってそれなりの解答を持つように努力すべきであったのである。

 しかし、国民世論の情況としては、安保法制に反対する声はそれなりに多くあっても、日米安保条約を廃棄すべき、自衛隊は解消すべき、という意見は極めて少ない(2009年に内閣府が実施した調査によれば、「日米安全保障条約をやめて、自衛隊も縮小または廃止すべき」とした回答者は全体の4.2%だった)。安保法制反対を主張すればそれなりの支持獲得が見込めるものの、日米安保の廃棄、自衛隊の解消といった主張は過激なものと受け止められて避けられてしまうのではないか、と考えざるを得ない情況がある。左翼的な人々は、そうした情況に流されて、自衛隊をどうするか、日米安保条約をどうするかは当面の争点ではない、自衛隊を認め、日米安保条約を認める人でも戦争法案に反対しているのだから……と、幅広い共同闘争の構築の必要性を口実に、自己の本来の立場と真摯に向き合うことから逃げてしまったのではないだろうか。

 確かに、左翼的な人々が掲げる理想、すなわち、日米安保条約を廃棄して自衛隊も解消するという理想と、日米軍事同盟が強化されて自衛隊の海外派兵が恒常化されようとしているという現実とは、極めて大きな落差がある。現実と理想との間にどのように折り合いをつけていけばよいのか。その落差が極めて大きいだけに、これは極めて辛く苦しい作業にならざるを得ない。理想の実現に向かって現実をどのように変革していくのか、単に抽象的なスローガンを繰り返すのではなく、具体的な変革の道筋をリアリティあるものとして構想していくのには、相当に強靭な思考力が必要であろう。

 現実の厳しさを直視することで、自己の掲げていた理想は空想的なものでしかなかったと総括するのも、それはそれでひとつの道である。しかし、左翼的な人々は、安保法制反対運動のなかで、自衛隊や日米安保条約の是非が直接の争点になっていないことをいいことに、そうした厳しい自己検証をサボってしまったのではないだろうか。これでは、理想を捨てたわけではないけれど……と弁明しながら、ズルズルと現実と妥協していき、自己の思想的立場をなし崩し的に解体していくことにしかならない。かつては自衛隊に反対し、日米安保条約に反対し、ガイドラインに反対し、周辺事態法に激しく反対してきたのにもかかわらず、そうした自己の立場はそっくり棚上げしたままに、柳澤氏らの主張に喝采するだけというのであれば、これは極めて不誠実な態度であるといわざるを得ないのである。それなりの総括をして、理想を放棄する方が、余程に誠実な態度であるといえよう。
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2016年01月12日

安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う(6/13)

(6)空想的な一国平和主義

 本稿は、昨年9月に成立させられた安保法制をめぐって、その推進派、反対派双方の主張を批判的に検討することを通じて、日本の安全保障についてどのように考えていけばよいのか、ある程度の方向性を示すことを目指したものである。前回までの3回に渡っては、安保法制推進派の言説のデタラメさ加減について検討してきた。簡単に振り返っておこう。まず、いわゆる武力行使の旧三要件と新三要件とを比較し、2014年7月1日の閣議決定が、具体的な像を伴わない単なる言葉遊びレベルの解釈改憲であったことを明らかにした。次いで、集団的自衛権の行使が必要となる事例として安倍首相が真っ先に挙げた、邦人を乗せた米艦の防護という事例について、根拠のない不安をあおるものにほかならないことをみた。さらに、安保法制と「アーミテージ・ナイ・レポート」との類似性を指摘した上で、米国(ジャパン・ハンドラー)の要望に何とか応えることを最優先に、像のない言葉を弄び、非現実的で情緒的な事例をデッチ上げて国民をミスリードしようとするようでは、国家の主体性の確立に繋がるどころか、ますます対米従属を深めるだけだ、と結論付けたのであった。

 それでは、安保法制反対派の議論には何の問題点もなかったのだろうか。引き続いて、このことが真剣に検討されなければならない。

 まず指摘すべきなのは、「日本を取り巻く安全保障環境の根本的な変容」という政府与党側の立論のいい加減さを衝こうとするあまり、日本周辺あるいは世界情勢の全般に対する真剣な検討がおろそかになっていたのではないか、ということである。厳しくいえば、「憲法9条のもと、専守防衛という方針でこれまで平和にやってこれたのだから、それをわざわざ変える必要はない」という低度の怠惰な思考が見え隠れしていた、ということである。

 そもそも、2014年7月1日の閣議決定では、「安全保障環境の根本的変容」の例として、「パワーバランスの変化」「技術革新の急速な進展」「大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発及び拡散」「国際テロなどの脅威」が挙げられてはいる。しかし、これらは非常に漠然としていて、憲法解釈の根本的な転換の根拠としては、説得力に欠けるものであるのは否めない。実際、日本共産党の宮本徹衆議院議員は、2015年6月19の衆議院安保法制特別委員会において、政府はいつから何をもって「根本的変容」を判断したのか、具体的に示すよう厳しく迫り、明確に答弁することができないという政府側の醜態をさらけ出させるのに成功した。「安全保障環境の根本的な変容」こそが憲法解釈の大転換の根拠とされているのだから、これらの点を明確に示すべきだというのは当然のことであるし、政府側がいい加減な答弁しかできなかったことは厳しく批判されるべきであろう。

 しかし、政府側の答弁のいい加減さがこれみよがしに強調されればされるほど、では日本を取り巻く安全保障環境は取り立てて変容していないといってよいのか、という疑問が生じて来る。現在の世界情勢の全般をどのように捉えるべきなのか、それに対してわが国はどのように対処していくべきなのか。残念ながら、反対運動の側からは、こうした角度からの突っ込んだ具体的な見解はほとんど聞こえてこなかったのである。聞こえてきたのは、対話と協調、あるいは粘り強い外交的努力といった、極めて漠然とした文言ばかりであった。

 件の閣議決定において、「安全保障環境の根本的変容」の例として真っ先に挙げられていたのは「パワーバランスの変化」であるが、これは名指しこそ避けられているものの、台頭する中国を念頭に置いたものであることは間違いない。中国は、急速な経済発展を背景に軍事費を拡大させ、東シナ海や南シナ海で積極的に海洋進出を試みて、周辺諸国との軋轢を深めている。日本においては中国脅威論が過剰に煽られている嫌いはあるものの、中国脅威論そのものが全く無根拠であるかといえば、そうとはいえないであろう。当然のことながら、安保法制を推進しようとする側は、中国脅威論を煽りに煽って、抑止力としての集団的自衛権の効果を強調する戦術をとった。これに対する反対運動の側は、中国脅威論が過度に誇張された議論であることを衝くとともに、中国を敵視して軍事的対応を突出させることの危険性を説くことになった。

 例えば、日本共産党の大門実紀史参議院議員は、2015年8月5日の参議院安保法制特別委員会において、「中国が軍事力で彼らの野望を実現する可能性はきわめて少ない」(米太平洋軍のブレア元司令官)などとする米政府・軍関係者の発言を紹介するとともに、日中間の経済相互依存度の深さ指摘し、岸田外相から「中国を脅威とみていない」という言質を取ったのである。中国を脅威と見なすか、と正面から問われれば、政府としてまず肯定することはあり得ないのであるが、あえてこのような言質を取ったことは、安保法制推進派の議論に水を差し、政府の今後の行動に一定の制約をかけるという戦術的効果はあったといえよう。

 しかし、安保法制反対派による中国脅威論への批判は、中国の挑発的な行動を軽視し、中国への批判を控えようとする傾向と深く結びついたものであったことは否定できない(*)。そもそも、日本の左翼的な人々の間には、大日本帝国による中国侵略戦争への負い目から、また右翼的な人々の反中国的な気分への反発から、中国への批判を控えようとする(むしろ肯定的に受け止める)傾向があることは否めない。このような傾向が、米国の衰退による従来の世界秩序の揺らぎの間隙を衝いて中国が自らの国益を露骨に主張し始めているという情勢の大きな変化を、過小評価させてしまっているのではないだろうか。もちろん、米国と中国とは対立一辺倒ではない。米中関係は対立の火種を含みながらも、基本的には戦略的対話という線で動いている。中国脅威論は安保法制の必要性の根拠にはならないこと、中国敵視政策は危険であることなど、安保法制反対派の主張は、結論としては基本的に妥当なものであったといえる。しかし、その結論的な主張だけが喧伝されると、中国の挑発的な行動への批判的な視点が消えてしまい、世界情勢の大きな変化を的確に捉えることができなくなってしまうのではないだろうか。

 安保法制反対派の側が、国際情勢の変化について鈍感さを示していた根本には、戦後日本の平和は憲法9条によって守られていたのに、それを変えれば日本が戦争に巻き込まれてしまう、といった感覚が根深く存在したことを指摘しなければならない。厳しくいえば、日本国外がどれほど大きな戦乱に見舞われても、憲法第9条が防波堤になってその影響が日本に及ぶことを阻止してくれるのだ、といった能天気かつ利己的な気分が存在していたことは否定できないのである。

 しかし、平和憲法があったおかげで日本は戦後70年に渡って平和と繁栄を享受しえたのだ、という把握は果たして妥当であろうか。この点に関わっては、ベストセラーとなった『永続敗戦論』(白井聡著、太田出版)における以下のような指摘が極めて重要である。

「戦後日本においてデモクラシーの外皮を身に纏う政体がとにもかくにも成立可能であった(特に、五五年体制においては親共産主義勢力が国家における不動の第二勢力を占めた)のは、日本が冷戦の真の最前線ではなかったために、少々の『デモクラシーごっこ』を享受させるに足るだけの地政学的余裕が生じたからにほかならない。この構図に当てはまらない、言い換えれば、戦略的重要性から冷戦の真の最前線として位置づけられたのが沖縄であり、ゆえにかの地では暴力的支配が返還以前はもちろん返還後も日常的に横行してきた。日本の本土から見ると沖縄のあり方は特殊で例外的なものに映るが、東アジアの親米諸国一般という観点からすれば、日本の本土こそ特殊であり、沖縄のケースこそ一般性を体現するものにほかならない。」(白井聡『永続敗戦論』太田出版、pp.39-40)


 東アジアにおける冷戦(対中国、対北朝鮮)の最前線であった台湾や韓国あるいは沖縄では、軍事独裁政権あるいは暴力的支配が継続したのに対して、日本(本土)は「地政学的余裕」の故に平和憲法を保持して少々の「デモクラシーごっこ」を享受しえたに過ぎない、という指摘である。この指摘を踏まえれば、日本国憲法があったから平和で民主的な社会を築くことができたということではなくて、平和で民主的な社会という外皮を纏えるだけの「地政学的余裕」があったからこそ日本国憲法を改変する必要にせまられなかったのだ、ということになるだろう。平和憲法があるから大丈夫、などということはないのである。だとすれば、強引な解釈改憲の動きが出てくるのはこれまで平和憲法の保持を可能としていた前提条件が崩れつつあるからではないか、という問いかけで、現今の世界情勢に深く切り込んでいく姿勢が必要となる。残念ながら、安保法制に反対する側には、そうした姿勢が欠けていたといわざるを得ない。総じて、空想的な一国平和主義のレベルにとどまっていたと批判されても仕方がないであろう。

(*)公平さのために付け加えておけば、大門議員は「我が党は、この中国の南シナ海での一方的な行動に対して批判的な立場を表明してまいりました」「批判すべきときははっきり批判して、きちっと道理に基づいて交渉して態度を改めてもらうということは大変重要だと思っております」と述べてはいる。
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 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2